富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「病気で苦しむ人を癒すキリスト」 (世界保健機関WHOの旗の蛇の巻き付いた杖について) ヨハネによる福音書5章1~18節

2016-01-27 02:47:04 | キリスト教

 ベトザタ(ベテスダ)の池で病人を癒すキリスト

   981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

            日本キリスト教 富 谷 教 会

                 週    報

     年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注い でくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

   降誕節第5主日  2016年1月31日(日)  午後5時~5時50分

   礼 拝 順 序

前 奏            奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 475(あめなるよろこび) 

交読詩篇   32(いかに幸いなことでしょう)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書  ヨハネによる福音書5章1~18節(新p.171)

説  教   「病気で苦しむ人を癒すキリスト」    辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 433(あるがままわれを)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏 

 

                               次週礼拝 2月7日(日)午後5時~5時50分

                                    聖書 ヨハネによる福音書6章1~15節  

                                    説教  「奇跡を行うキリスト」 

                                    賛美歌(21)58 198 24 交読詩篇 95 

        本日の聖書 ヨハネによる福音書5章1~18節

  1その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。2エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。3この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。4*彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。6イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。7病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」8イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」9すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。

 その日は安息日であった。10そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」11しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。12彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。13しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。14その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」15この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。16そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。17イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」18このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。

               本日の説教

  5章1節には「その後、ユダヤ人の祭りがあって」とあります。「この祭り」は、仮庵の祭りであったと予測されます。紀元31年(?)の秋頃と思われます(バイブルワールドp.89)イエスはエルサレムへ行ききました。

    イエスは、巡礼者が神殿の丘に入る前に沐浴(もくよく)するベトザタの池に行きました。エルサレムの羊の門の近くにあった池です。神殿へ来る巡礼者たちはそこにいる病人たちに施しをしました。

     ベトザタの池の<ベトザタ>とは、「オリーブの木の家」という意味のことばです。この池のあった地域の名称が「オリーブの木」を意味する<ベゼッタ(ベゼタ)>なので、「ベト(家)+ザタ(オリーブ)=ベトザタ(オリーブの木の家)」の名称で呼ばれたものと思われます。

  口語訳聖書で使われたいた<ベテスダ>は、「憐れみの家」を意味することばです。「べト(家)+へセダ(憐れみ)=べテスダ(憐れみの家)」の名称は、イエスの奇跡的行為の行われる場所にふさわしい名称として後からつけられた名と思われます。

      ベトザタは<羊の門>の近くにありました。羊の門は、ユダヤの総督ネヘミヤがバビロン帰還後に再建(前445~433年)した12の門のうちの一つです(ネヘミヤ記3・1)。この門の名は、神殿に捧げる羊を運び入れる門で、この羊を洗浄するための池が、ベトザタの池の最初でした。その当時は池の名も「羊の池」と呼ばれていたようです。

    

 ネヘミヤが補修再建したエルサレム第二神殿と12の城門

      この池は、その後の紀元前164年~前63年まで、ユダヤが政治的に独立したハスモン王朝時代、神殿とエルサレム市内に大量の水を供給する必要から、大規模な雨水を集める貯水槽になりました。貯水槽の周りに回廊を造ったのは、ローマ帝国の元老院によりユダヤの王に任命されたヘロデ大王です。回廊というのは、屋根付きの廊下のことです。ヘロデ大王は紀元前20年頃から前9年にかけて、エルサレム神殿の拡張工事をしました。この工事は、紀元64年ヘロデ・アグリッパ王の時に完成しました。

    考古学上の発掘が1878~1932に行われた結果、建設されたのは紀元前2世紀頃で、池は長方形で高低差のある二つの池に分かれており、二つの池を囲む四つの回廊と池の段差のある部分を区切を横切るように、高い方にもう一つの回廊がありました。男性用と女性用の二つの池を合せて、南北が約100m、東西は約50-60m(北の池は東西52m・南北40m、南の池は少し大きく,東西64m・南北47m・深さ15m)あることが分かりました。  

 

    (再現した50分の1モデルが、上の写真です。)

    発掘された回廊には水浴中の婦人像や小麦の穂を捧げている人物像の壁画や、さらに蛇の彫刻がなどの断片が出土しました。これらはまさしくギリシア神話の医学の神、アスクレピオスの祭儀のシンボルでした。一世紀の時代に、ここにアスクレピオスの神殿が建っていて、病人が治療に来ていたことが分かったのです(関谷定夫著「聖都エルサレム5000年の歴史」)。アスクレピオスは、優れた医術の技で死者すら蘇らせ、神の座についたとされることから、医神として現在の医学の象徴的存在となっているのです。

            


 (アスクレピオスの像と杖。杖には蛇が巻き付いています。常に蛇をともなって病気治癒に従事したという伝承によるものです。

(アスクレピオスの像と杖。杖には蛇が巻き付いています。常に蛇をともなって病気治癒に従事したという伝承によるものです。蛇は長い体や毒をもつこと、脱皮をすることが「死と再生」を連想させるため、古代では「生と死の象徴」とされていたからです。)

     ベトザタの池の五つの回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていました。

    【(次の説明は、†脚注によります。)彼らは、水の動くのを待っていました。主の使いが時々の池に降りて来て、水を動かすのですが、水か動かされたあとで最初に入った者は、どのような病気かかっている者でもいやされたからです。】この池は、水面が波立ったときに、最初に入ったものは、奇跡的に癒されると言われていました。医神アスクレピオスの癒しを求めいたのかも知れません。

    この人たちは、ただ水が動くのをじっと待つ日を送っいたのです。回廊の周りにいる者は、われ先に池に入ろうと池を見つめていたのです。病人の世界にも、われ先に、人を押しのけてでも、という醜い姿がありました。

   

    この回廊に、38年も病で苦しんでいる人が横になっていました。その人を見たイエスは、こう語りかけます。「良くなりたいか」、原文では「あなたは健康になることを願うか」です。しかし、この人は「よくなりたいです」と答えず、「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです (7節)」と答えています。

    自分の病気が治らないのは、ほかの人が誰も自分のために何もしてくれないからだ、と言ったのです。この言葉は、半ばあきらめて、本気でよくなりたいという意志がほとんどなかったことを表しています。この38年間病気の人は、自分のこれまでの思いをイエスにぶつけました。

     イエスの質問は、この「治りたい」という意志を取り戻すための言葉でした。本気でよくなりたいという意志を取り戻したこの病人に、イエスは「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言われました。

    「すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだし」ました。イエスは、本気でよくなりたいという意志を取り戻した病人に、イエスの言葉を信じて立つことを命じたのです。信仰は、イエスの言葉を信じて立ち上がり、歩み出すことです。

    その後、イエスは神殿の境内でこの人に出会って、「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」と言われました。

    聖書は、人の病気の直接の原因はすべてその人の罪のためであるとは、決して教えていません(9・2~3)。しかしこの病人の場合、この病気の原因は、この人の罪によるものでした。<もう、罪を犯してはいけない>と言われた主イエスのお言葉がそのことを示しています。 

   主イエスは、彼に病気の原因である罪を示すことによって、彼の罪が赦されたことを教え、身体の癒しだけでなく、罪の支配から解放される救いをも与えられたのです。

  異教神殿化されたベトザタの池で、イエスが病人を癒したのは、ローマ帝国の支配する世界で、絶大な勢力を誇っていたアスクレピオス信仰へのイエスの挑戦であり、イエスこそ真の治癒神であることの宣言でした。

    その後、この池の上に聖堂が建てられました。現在は聖アンナ教会が建っています。それは、キリストのアスクレピオスに対する勝利の証しでもあります。

    今日もアスクレピオスの杖は、医療・医術の象徴として世界的に用いられています。世界保健機関(WHO)の旗にも,日本の救急車にも杖と蛇のマークが、薬剤関係の会社名等にもアスクレピオスの名が用いられています。

    (WHO)

    ギリシア神話の医神、アスクレピオスの神力にあやかろうとしているのでしょうか。主イエスは、「ありとあらゆる病気や患いをいやされた」神の子です。病の癒しだけでなく、罪と死から救ってくださる、真の治癒者であることを人々に伝えなければなりません。

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「わたしのことばにとどまるならば、わたしの弟子である」ヨハネによる福音書8章21~36節

2016-01-24 03:43:31 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

     日本キリスト教 富 谷 教 会

          週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

     降誕節第5主日        2016年1月24日(日) 午後5時~5時50分

礼 拝 順 

前 奏            奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 287(ナザレの村里) 

交読詩篇    1(いかに幸いなことか)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書  ヨハネによる福音書8章21~36節(新p.181)

説  教   「わたしのことばにとどまるならば、わたしの弟子である」    辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 521(とらえたまえ、われらを)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏 

 

                                                               次週礼拝 1月31日(日)午後5時~5時50分

                                                               聖書 ヨハネによる福音書5章1~18節  

                                                               説教  「いやすキリスト」 

                                                              賛美歌(21)290 433 24 交読詩篇 32 

               本日の聖書 ヨハネによる福音書8章21~36節

  21そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」22ユダヤ人たちが、「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか」と話していると、23イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。24だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」25彼らが、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。26あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。」27彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。28そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。29わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」30これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。

   31イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。32あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」33すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」34イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。35奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。36だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。

      本日の説教

  今日の聖書の箇所は、イエスがエルサレム神殿の境内で群衆に教えられている場面です。イエスをメシアと信じる者もいましたが、イエスを殺そうとする者もいました(7・1、7・25、7・30)。

   これは、イエスが仮庵祭の時に、ガリラヤからエルサレム行かれたときの出来事です(7・10)。紀元29年の秋頃と推定されます。イエスの誕生を紀元前4年頃と推定すると、この時イエスはおよそ33歳前後と思われます。この翌年の春、過越祭の時に、イエスは十字架の死を迎えることになります

    8章21節に、<そこで、イエスはまた言われた>とありますが、これは、7章34節で、<わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない>という言葉が、ここでまた繰り返されるからです。イエスがこの言葉を、最初に語ったのは、イエスをメシアと信じることのできない祭司長たちとファリサイ派の人々がイエスを捕らえるために下役たちを遣わしたときでした。下役とはエルサレム神殿の警備員たちです。

   わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」(7・21)

   <去って行く>とは、この世から去って、天の父の許へ行くということです。<あなたたちは自分の罪に死ぬことになる>とは、イエスをメシアとして信じないならば、人間の本性に根ざす罪から解放されないあなたがたは、神の裁きとしての死ののろいを受けることになる。あなたたちはわたしが行く父の御許へ行くことはできない。イエスは迫りくる自分の最後について語ったのですが、人々はこの言葉を理解できず、戸惑います。

  このイエスの言葉を聞いたユダヤ人たちは、イエスが自殺でもするつもりなのだろうかと誤解します。

   イエスは彼らに、「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」と言われました。

   あなたがたは<下のものに属し>とは、地上の肉につける者である、という意味です。わたしは<上のものに属し>とは、イエスが神から遣われた者、神に属した者であり、神と等しい者であり、この世に属した者ではない、という意味です。<わたしはある>とは、神自身がモーセに自分の姿を表すときに語った、出エジプト記3・14の<わたしはあるという者だ>と、同じことばを、イエスはここで使うことによって、イエス御自身が神と等しい者であることを明確にし、イエスをそういう神と等しい者として信じないならば、<あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる>と語ったのです。イエスを拒否し、ひいては神を拒否する者は、世に属する者であり、罪のうちに死ぬことになると、イエスは重ねて教えられたのです。

  このようなイエスの宣言に対してユダヤ人たちは<あなたは、いったい、どなたですか>と問いました。彼らは、子なるイエスと父なる神との関係について語っていることを、どうしても理解することができなかったのです。

   イエスは、「それは初めから話しているではないか。あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんあるが、しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している」と言われました。

  彼らは、「イエスが御父について話しておられることを」悟ることができませんでした。「父なる神」という信仰は、ユダヤ人すべてが共有していた信仰ですが、イエスが<わたしの父>というように父なる神を私的なものとして語り、自身を神と等しい者としたので、唯一神信仰にたつユダヤ人にとっては、それは到底受け入れ難いことだったのです。

   そこで、イエスは、「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである」と言われました。

   <人の子を上げたとき>とは、イエスを十字架にかけた後、イエスが天に上げられてから、という意味です。その時になって初めて、イエスは神から遣わされたキリストであって、神と共にあり、神と一つであり、神の御心をなす以外には、何もしないことが分かるだろう、言われました。<わたしをひとりにしておかれない>とは、<わたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである>(8・16)ということです。

   これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じ」ました。しかしここでは真実の信仰が成立したとは考えられません。

    8章31節に、「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた」とあります。しかし、このユダヤ人たちに対し、イエスは45節で<あなたたちはわたしを信じない>、46節では<なぜわたしを信じないのか>と彼らの不信を責めています。信じたユダヤ人と信じようとしないユダヤ人と同一人物なのです。イエスを信じた彼等の信仰は、まことの信仰ではなく、ただ一時的に感激して同意しただけの信仰だったのです。

   そこで、イエスは、次のように言われました。

 「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

  キリストの言葉に<とどまる>とは、キリストの言葉がその人のうちに根をおろしていることであり(37節)、キリストの言葉を守ることであり(51節)、生けるキリストとの交わりに結ばれていることです。 <真理を知る>の真理とは、学問によって得られる真理ではありません。「わたしは道であり、真理であり、命である」(14・6)と言われるイエス・キリスト御自身です。イエスを知り、イエスによってもたらされた神の福音を知り、またイエスにおいて神を知る、ことが救いにつながり、あなたたちを自由にするとイエスは教えたのです

  すると、彼らは、「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか」と問いました。

   ユダヤ人が、自分たちはアブラハムの子孫であるという、神の選民としての特権意識は、血縁的、民族的な特権として神から与えられたものではありません。なぜなら、なぜならそれは、アブラハムの信仰を受け継ぐ者に与えられたからです。人は、神から遣わされたイエスを信じることなしに、真にアブラハムの子孫になることはできないのです。

  「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」とイエスは、お答えになりました。

   私たちがその本性において欲する自由は、神をぬきにした、神にさからう自由です。神なきところにほんとうの自由があり、真の人間生活があると思うのです。神に反抗する否定的な意志があります。わたしたちが楽園で神から奪い取ったあの間違った自由に生きようとする罪がわたしたちのうちにあります。

  ここで言われている<自由>は、罪からの自由であることが分かります。すべての人は罪に定められ、肉につける者として、罪の下に売られています(ローマ書7・14)。善をなそうという意志はあっても、それを実行できない、望まない悪を行うという肉の弱さがあります。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にはありません。」(ヨハネの手紙一、1・8)罪を犯す者は、だれでも罪の支配化にあり、罪の奴隷なのです。

  罪からの自由>とは、この世において神の像に似せて造られた者として、罪と死、あるいは律法の奴隷となっていた状況から解放されることです。神に罪を赦され、あらゆる不義から清められ、罪と死の支配から解放され、天に属する神の子とされることです。

  ユダヤ人たちがイエスを神あるいは神と等しい者として明確に認め、罪の赦しにあずからなければ、罪の奴隷であると言われます。神の恵みによってアブラハムの子孫とされていても、罪の奴隷であれば、神の民の家から売り渡され、その家から去らねばならない運命にあります。

   <子はいつまでもいる>の子とは、イエス御自身です。主人の子は売り渡されることはないから、その神の家にいつまでもいる、という意味です。子は主人の子であるから主人と同じ権威を行使して奴隷を売ることも、自由にすることもできる自由を委ねられているのです。イエスがわたしたちに自由を与えるのです。イエスの十字架の贖罪と復活による命を与えられることによって、罪の赦しと罪からの自由を得るのです。それゆえ、罪からの自由とは人間に授けられる恵みの賜物であって、人間が自分で獲得できるものではありません。

  わたしたちがイエスの言葉にとどまるならば、わたしたちは本当にイエスの弟子であり、そして罪から自由にされる、主イエスは教えています。

   主イエスの言葉、聖書のことば、にとどまった83歳の姉妹についてお話しいたします。彼女は1月2日の未明に、85歳の夫を主の身許に送りました。寝たっきりになり、10年前から全盲になった夫を自宅で介護し、3年前からは病院に入院した夫のため、毎日食事の介護のため病院に通い続けた姉妹は、次のような御言葉によって心を支えられたと証ししています。

  「神は真実な方です。あなた方を耐えられないような試練に遭わせるようなことはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道を備えてくださいます。」

 「わが子よ、主の試練を軽んじてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子おして受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」

  彼女は、暗闇の中にも常に光が上から射してきて希望を与えられていたから、心の中にはいつも余裕がありました、と述べています。

 「恐れることはない、私が共に居る」、この御言葉に彼女の心は平安に満たされたと語ります。彼女には「愛の神にわたしたちは支えられて生かされている。」という神への感謝がありました。「死ぬときも天国に導いて下さるイエスさまがおられる」という信頼がありました。彼女は不平不満を言わないことを心に決めていました。「神与え、神取り給う」という神のなさることへの全き信頼が彼女にありました。

  前夜式の挨拶で、彼女は、「病院ではわたしたち二人はのんびり過ごしました、主人は神様からいただいた生命(いのち)を感謝して生ききりました」と、淡々と話されました。

  主イエスの言葉を信じ、その言葉にしがみつき、支えられて生きている彼女は、主イエスの本当の弟子ではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「最初の弟子たちの信仰告白」 ヨハネによる福音書1章35~51節

2016-01-13 22:00:16 | 説教

    981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

               日本キリスト教 富 谷 教 会

                  週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

     降誕節第4主日     2016年1月17日     午後5時~5時50分

                        礼 拝 順 序

前 奏            奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21)  57(ガリラヤの風かおる丘で) 

交読詩篇  138(わたしは心を尽くして感謝し)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書  ヨハネによる福音書1章35~51節(新p.164)

説  教   「最初の弟子たちの信仰告白」    辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 448(お招きに応えました)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏 

                  次週礼拝 1月24日(日)午後5時~5時50分

                    聖書 ヨハネによる福音書8章21~36節  

                    説教  「教えるキリスト」 

                    賛美歌(21)287 521 24 交読詩篇 1 

本日の聖書 ヨハネによる福音書1章35~51節

  35その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。36そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。37二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。38イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、39イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。40ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。41彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。42そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。

  43その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。44フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。45フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」46するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。47イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」48ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。49ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」50イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」51更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

      本日の説教

   今日の聖書の箇所では、ヨハネの弟子がイエスに従い、イエスの弟子になるところから始まります。他の三つの福音書、マタイ、マルコ、ルカによる福音書では、イエスがヨハネから洗礼を受けられた後、荒れ野でイエスが悪魔の誘惑を受け、その後ガリラヤで伝道を始め、ガリラヤ湖のほとりで四人の漁師を最初の弟子にするストーリー(物語の筋)になっています。ヨハネによる福音書は独自の資料にもとづいて福音書(イエスの教え、その生涯と死、復活と昇天を記し、イエスが救い主であることを知らせる書)を書いているので、イエスの洗礼や荒れ野での誘惑の記事がありません。ヨハネによる福音書の著者は定かではありませんが、イエスの十二弟子の一人、愛弟子のヨハネの権威の下に発表された書であることは明らかです。

  それでは、今日の聖書の箇所、ヨハネによる福音書1章3節以下の弟子の召命の記事を読むことにします。

    先週の礼拝では、ヨハネによる福音書の1章29節から34節までの部分についてお話しいたしました。そこでは、洗礼者ヨハネが自分の方へ来られるのを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」とイエスを人々に証し、「この方こそ神の子である」と証ししました。

   その翌日、ヨハネは二人の弟子と一緒にいました。<その翌日>という言葉が29節にもありました。そしてここ35節と、次に43節でも繰り返して出てきます。これは、三日間続いて起こったことを表しています。

   ヨハネは、歩いているイエスを見つめて、「見よ、神の子羊だ」と言いました。ヨハネは前の日にも、イエスを見て人々に同じことを言っています。師ヨハネからその証言を聞いた二人の弟子は、師のヨハネから離れ、イエスに従いました。ヨハネもそれを良しとしました。

   イエスは振り返り、彼らが従ってくるのを見て、「何を求めているのか」と言われました。彼らが、「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」と尋ねました。<ラビ>は「先生」という意味で、律法の教師たちに用いられる敬称ですが、弟子たちは特別な尊敬を込めて使っています。

   弟子たちが質問した<泊まる>のヘブライ語の原語は「留まる」という意味であり、神がイエスに留まり(14・10〉、イエスは神の愛の留まる(15・10)というように用いられているので、「今夜どこに宿泊するのですか」という 表面的な問いと同時に、「あなたは神とどういう関係にあるのですか」という重要な問いを含んでいると解されています。イエスは、」<来なさい。そうすれば分かる>と言われました。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見ました。そしてその日は、イエスのもとに泊まりました。午後四時ごろのことです。マタイ4・13は、イエスは「湖畔の町カファルナウムに住まわれた」と記しています。

    イエスに従った二人のうち一人はシモン・ペトロの兄弟アンデレでした。もう一人は名前が記されていません。この匿名の人物は福音書を書いたとされるイエスの愛弟子のヨハネではないかと推測されていますが確かではありません。

   アンデレは、まず自分の兄弟シモンに会って、<わたしたちはメシアに出会った>言い、シモンをイエスのところに連れて行きました。<メシア>とは「油を注がれた者」という意味を表す語ですが、油は聖霊を指しています。神に聖別された世を救う者のことです。

   イエスは彼を見つめて、<あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファと呼ぶことにする>と言われました。<ケファ>は「岩」という意味です。マタイ福音書では、シモンが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰告白をしたとき、イエスから「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上に教会を建てる」(マタイ16・18)と言われ、ペトロという名を与えられています。「岩」という意味のヘブライ語が「ケファ」で、それをギリシア語に訳した言葉が「ペトロ」です。

   その翌日、<イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときにフィリポに出会って、『わたしに従いなさい』と>と言われました。ヨハネによる福音書では、<ガリラヤ>という地名は、エルサレム、ユダヤという地名と対立関係にあります。イエスはユダヤ人で、元来、エルサレム、エルサレムのあるユダヤに属し、そこが彼の故郷です。しかしそこはイエスにとってむしろ敵地です。ガリラヤはイエスにとって安全な地帯、イエス御自身の陣営と考えられるような書き方がなされています。

   フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの町の出身でした。フィリポはナタナエルに出会って、<わたしたちはモセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それは、ナザレの人で、ヨセフの子イエスだ>>と証言しました。これは旧約で証言されているメシアに出会ったという意味の表現です。すると、ナタナエルは<ナザレから何か良いものが出るだろうか>と、辺境の地ナザレを蔑視しました。フィリポは<来て見なさい>と、イエスによって用いられた言葉をそのまま口にして言いました。

     信仰を与えられるためには、イエスの所に行き、実際に自分で見る以外にないのです。イエスの所の留まることによってイエスが何者か分かるのです。ナタナエルの名は、この部分と、復活の主に出会った記事(21・2)以外に記されていません。ナタナエルの出身地はガリラヤのカナと記されています。マタイによる福音書の12弟子名簿には、ナタナエルの名はなく、「フィリポとバルトロマイ」が組になって記されているので、ナタナエルとバルトロマイは同一人物だろうと見做す説があります。

   イエスと弟子たちの出会いの際、イエスの洞察の方が深く、弟子たちがイエスの真相を見させられる前に、イエスはその人の真相を見抜いています。イエスは、ナタナエルが自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われました。<見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。>

   ナタナエルを<まことのイスラエル人だ>とイエスが言われたのは、このあと、ナタナエルがイエスを<あなたはイスラエルの王です>と告白することに先んじて、それに呼応するような呼び方をしたのです。

    ナタナエルが、<どうしてわたしを知っておられるのですか>と言うと、イエスは答えて、<わたしはあなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た>と言われました。

    パレスチナ地方ではいちじくの木はかなり大木に成長します。その日陰でラビたちが弟子たちを教えました。<いちじくの木の下にいるのを見た>とは、ナタナエルが律法を熱心に学んでいる者であることをイエスは見抜いていたのです。

   ナタナエルはイエスに、<あなたは神の子、イスラエルの王です>と告白するに至りました。

   <神の子>は伝統的なメシア称号の一つです。ナザレのイエスが神と等しい者だと証言したのです。<イスラエルの王>という表現は、「ユダヤ人の王」と対比的に使われています。「ユダヤ人の王」はイエスの敵対者たちが好んで用いた言い方ですが、<イスラエルの王>はイスラエルを支配する王、ここでは神だと告白したのです。

   イエスを「あなたは神の子」ですと呼ぶ信仰告白は、1章1節から18節で明言されたように、<初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった>という意味で、子なる神イエス(言)は被造物ではなく、天地の創造以前から存在していた方であり、神であった方であるということが言われているのです。しかし他方において父なる神と子なる神イエスの関係は、神と対等であるような、もう一人の神であるという理解の仕方を避けるために、ヨハネ福音書では、この後、神の計画、神の意志に御子イエスが従い、完全に一致することにおいてのみ神とイエスが一つであり、神と等しい者であることが示されることになります。

   イエスはナタナエルに答えて、いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる>と言われました。更に言われました。<天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。>

  すべてを見透しておられるイエスの洞察力に驚嘆し、イエスを信じたナタナエルに、イエスは答えられました。<もっと偉大なことをあなたは見ることになる>というイエスの言葉は、「神と等しいイエスを見ることになる」ということです。そして言われました。<天が開け>るのは神によって開かれるのです。<神の天使たちが人の子の上に>の「人の子」とは受難によって救いを成就するキリスト」を表しています。

    <天使たちが昇り降り降りする>光景は、ヤコブの夢の故事に基づいたイメージ(心に思い浮かべる情景)が用いられています。天使たちがイエスの上に昇り下りするのを、あなただけではなく、あなたがたは見ることになる、とイエスは言われたのです。

   ヤコブの見た夢は、創世記28章10~13節に記されています。

   父をだまし、兄の長子の権利をうばった、ずる賢い弟ヤコブを兄エサウはいつか殺そうと心を決めます。それを知った母はヤコブに逃亡を勧めます。母の兄、ヤコブにとっては叔父ラバンの住むハラン(現トルコの南西部のハッラーン)へ行くため、故郷のベエル・シエバを出立しました。ハランはヤコブにとって見知らぬ異国の地です。シリア北方の国境を越えた、800キロもある遠い地へ、単身で出掛けたのです。ヤコブにとっては、将来故郷に戻れる希望はありません。また、叔父に温かく迎えられる保証もありません。ヤコブは、罪深い自分を意識し、孤独でした。

   「とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにしました。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわりました。すると、彼は夢を見ました。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていました。すると、神がヤコブの傍らに立って言われました。『わたしは、あなたたちの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である』と。」(創世記28・10~13)

   里離れた誰もいない夜空の下で、石を枕にして寝るヤコブの姿は哀れです。このヤコブの姿は、人間関係における破れと挫折に苦しむ人間の姿です。この階段は地上から天に上っていく階段ではなく、神の住む天から地に下ろされた階段です。この階段は、天と地とをつなぐものです。神様の世界と人間の世界とをつなぐ架け橋がここにあることを、ヤコブはこの夢で体験しました。ヤコブはこの夢で、自分がいるこの場所が神様の御臨在される所であることを知らされたのです。そして神が、罪深い自分を赦し、守ってくださることを知ったのです。

   ヤコブが見たあの天と地を結ぶ階段(梯子)は主イエスを指し示しています。主イエスはこの地上にこられて救いのみ業を完成してくださいました。イエスは神から遣わされた方であり、神と等しい神の子なのです。

   神の子が地に宿られたことにより、地上のすべての場所が神のおられる場所となりました。神は地上のどこにでも偏在され、支配されておられるのです。私たちが神から最も遠く離れたところにいると思えるようなとき、希望を見いだせないで絶望しているときにも、私たちが弱く貧しく、自信を失っているときも、病の床にあって死の恐怖におびえているときも、主イエスは共にいてくださり、力を与え、望みを与え、祝福してくださるのです。すべての者の望む夢は、キリストがこの世の来られることによって、実現し、現実のものとなったのです。

 

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「世の罪を取り除く神の子羊」 ヨハネによる福音書1章29~34節

2016-01-10 00:48:02 | 説教

            イエスの洗礼の場所とされている伝統的な場所は、エリコの東約15キロのカシール・アル・ヤフド(Qasr al Yahud)です。                     ↓

                      

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

      日本キリスト教 富 谷 教 会

                 週    報

 年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

 聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

  降誕節第3主日     2016年1月10日(日) 午後5時~5時50分

           礼 拝 順 序

                                           司会 永井 慎一兄

 前 奏            奏楽 辺見トモ子姉 

 讃美歌(21) 368(新しい年を迎えて) 

 交読詩篇   86(主よ、わたしに耳を傾け)

 主の祈り   93-5、A

 使徒信条   93-4、A

 聖 書  ヨハネによる福音書1章29~34節(新p.164)

 説  教   「世の罪を取り除く神の子羊」    辺見宗邦牧師

 祈 祷

 讃美歌(21) 358(子羊をばほめたたえよ)

 献 金

 感謝祈祷              

 頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

 祝 祷              

 後 奏 

 

                                 次週礼拝 1月17日(日)午後5時~5時50分

                                       聖書 ヨハネによる福音書1章3

                                  説教  「イエスの最初の弟子たち」 

                                       賛美歌(21) 57 448 24 交読詩篇 138 

 本日の聖書 ヨハネによる福音書1章29~34節

     29その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。30『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。31わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」32そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。33わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。34わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

           本日の説教

    29節の<その翌日>とは、1章19~28節の出来事の翌日ということです。エルサレムのユダヤ教当局者たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させました。民衆がヨハネの洗礼をメシアの到来と結びついた活動と受け取ったことや、ヨハネをメシアと同一視する者がいたからです。

    ヨハネは、わたしはメシアでも、エリアでも、モーセのような預言者でもないと否定しました。ヨハネはイザヤ書40・3を用いて、自分を「主の道をまっすぐにする荒れ野の声」だと語り、ひたすらイエスを指し示す声になりきりました。

      

       大原美術館(倉敷)の前にあるロダンの彫刻 「洗礼者ヨハネ」像

   (右手の指は、「私の後から一人の人が来られる。この方のことである。」と言って、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ。」と説教しています。右手の指は、後ろから近づいてくるキリストを指し示していると思われます。)

     遣わされた人たちはファリサイ派に属していました。彼らは、メシア的存在でもないのに、なぜ洗礼を授けるのかと追及しました。ヨハネは答えました。

 「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らな方がおられる。」

   <あなた方の知らない方>という言い方で、人間の経験や知識では、これまで考えられたことのない、旧約聖書にも現れたことのない、神と等しい方がおられるという意味です。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない、とヨハネは答えました。

    <これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事>でした。マルタ、マリアの家のあったベタニアの村ではなく、ヨルダン川の上流地域のベタニアと考えらえます。

   その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」とイエスを人々に紹介しました。

   出エジプトの時に、イスラエルの人たちは子羊の血を家の鴨井と入り口の二本の柱に塗って、神がエジプト人を撃つために巡ったとき、イスラエルの人々の家を過ぎ越し、救われました。(出エジプト記12・21~30)

   イエスの十字架の贖罪によって世と世に属する人々が救われることが<子羊>という語で宣言されています。

  「『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」

   1章15節でヨハネが言った言葉が繰り返して語られています。ヨハネはイエスより6か月早く生まれていますが、

  わたしよりも先におられた方だと言っているのは、イエスは世が創造される前から神と共にあった方だと、キリストの先在性を言い、<言>が人となって現れたのは、ナザレのイエスであることを暗示しています。

   「わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」

   <わたしはこの方を知らなかった>とは、ヨハネはこの時までイエスを知らなかったという表面的な意味と同時に、十字架と復活の後で聖霊が授けられるまでは、真にイエスを知る機会に恵まれなかったという意味がこめられています。

   ヨハネは、この方が顕現する前に先駆者として水で洗礼を授けにきた、と自分の使命を明らかにします。<この方がイスラエルに現れるために>、ヨハネは神からつかわされ、洗礼を授けるという使命と与えられ、バプテスマの活動でこの方を知り、この方を知らせる使命を与えられたのです。

   ヨハネは次のように証言します。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

   イエスがヨハネから洗礼を受けたとき、イエスに霊が降った記事は、マルコによる福音書1章4~11節にあります。

   「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。」

  ヨハネによる福音書には、イエスの洗礼については書かれていません。ただ、霊が降ってイエスの上にとどまったのを見たという事実だけが強調されています。これはイエスこそ世の初めからおられた<言>であり、聖霊によってバプテスマを授ける方であることを示す目印です。ヨハネはこの目印を見たので、イエスは神の子であることを証ししたのです。

   イエスに〝霊″が宿ることは、父なる神と子なるイエスとの交わり・一体であることが暗示されています。

   イエスが<聖霊によって洗礼を授ける>とは、イエスの十字架による贖罪と復活とを経て起こることになります。聖霊によるバプテスマとは、水によるバプテスマとどこが違うのでしょうか。

   ヨハネによる水のバプテスマは、「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」(マルコ1:4)です。けれども、それはあくまでも「悔い改め」の洗いであって、「神の霊による新生」の洗いではありません。ヨハネのバプテスマとイエスの名によるバプテスマの決定的違いはここにあります。イエス・キリストの名によるバプテスマにあずかった時、わたしたちはキリストと共に罪に対して死んで、復活のキリストに結ばれ、聖霊を与えられて、新しい命に生きる者とされます。聖霊とは、イエス・キリストに結ばれているキリスト者に内に住んでくださるキリストの霊です。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。聖霊のバプテスマとは、わたしたちを神の子とする霊を与えるパプテスマです。キリスト者にとって聖霊は、助け主となり、導き主となり、すべてのことを教えてくれる、最も大切な賜物です。

   洗礼のヨハネは、イエスを「神の子羊」と呼びました。「神の子羊」ということば、イザヤ53章7節では、黙って苦しみを忍耐する主の僕が、子羊になぞらえられています。使徒言行録8章32節では、その子羊こそイエスとだと語られています。

   「(わたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。)苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる子羊のように、彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。」(イザヤ書53・7,8)

   ヨハネの見たイエスは、このイザヤ書の預言の成就としての「神の子羊」でした。しかし今や、子羊の血はイスラエルのためだけでなく、全世界のために流された血です。イエスは、「きずも、しみもない子羊」であり、私たちたはとは全く全違う、罪のない方でありながら、苦難と十字架を黙って忍耐し、犠牲の死によるあがないの力によって、世の罪を取り除くことの出来る神の子羊です。

   世は神によって創造されただけでなく、今も神のみ手によって支えられながら、神は世に隠され、世は神を知らす認めず崇めもしません。むしろ神から離れ、自分を神として、神と断絶しています。そのような世の罪、全人類の罪をイエスは背負って運び、十字架のあがないの力によって「罪を取り去り」、罪と悪の支配する歴史と世界に終止符を打ち、終末を来たらせる神の子羊です。

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教会の告別式での弔辞(故人を偲ぶことば)

2016-01-05 21:32:17 | 説教

      佐々木郁朗様を偲ぶことば(弔辞)    日本キリスト教団陸前古川教会にて

   元日の朝に届いた郁朗様の奥様、慶子(よしこ)様からの年賀状には、手書きで次のように書かれていました。

「お元気でいらっしゃいますか?郁朗は、ねむる時間が長くなり、食物ののみこむ力は少し弱くなっていますが、ゼリー状のものを口からいただいております。」そして奥様が詠んだ俳句が書かれていました。

「生かさるるページを如何に新暦(しんこよみ)」

新しい年のカレンダー見て、新年を迎えることが出来るのも神さまに生かされているからだと感謝し、与えられる日々をどのように過ごせばよいのか?神から与えられている命を、ご主人と共に十分に生ききりたいという願いが込められている句だと思います。

この短い句の中に、神様が生かしてくださる一日一日を感謝しながら、一日一生の思いで、日々ご主人に仕え、ご主人と共に生きておられる奥様の心情が吐露されています。二〇〇六年に全盲となり、寝たきりになったご主人を、自宅で六年間も介護し、民主病院にご主人が入院してからは、三年間も介護のためにご自宅から毎日病院に徒歩で通い続け、弱音を吐かず、いつも明るくご主人に接しておられた奥様の献身的な愛に、心をうたれます。慶子さんは、「私も主人にいっぱい尽くしてもらったから、その恩返しなのよ」と、淡々と言います

郁朗さんは、慶子さんの手厚い介護に、どんなに深く感謝したことでしょう。

また、関純一牧師の、度々の病床訪問をどんなにありがたく思ったことでしょう。

 正月三日の日の夕方、阿部孝子姉から、郁朗様が二日の日の未明に亡くなったという知らせがあり、一瞬耳を疑いました。まだ大丈夫だと思っていた矢先なのに。しかし、神様のなさることなのだと気持ちを切り替えると、自分で不思議に思うほど自然にこの訃報を受け入れることができました。

郁朗様や慶子様とのわたしのおつきあいは、陸前古川教会で始まりました。わたしが古川高校二年生の時です。郁朗様は私より三歳年上の先輩です。郁朗様は私が教会に来るようになったことを喜んでくれて、「宗ちゃん」といつもやさしく声をかけてくれました。古川教会には当時「聖友会」という青年たちの集まりがありましたが、聖友会のみなさんも私を温かく迎えてくださったことを思い出します。郁朗兄は、みんなに「大兄」と呼ばれて敬愛されていました。今でも郁朗様は「大兄」と呼ばれています。

 古川教会から巣立て、首都方面に散った「聖友会」のメンバーは、東京都小平市に住む高橋玲子さんのお宅を拠点とし、「憩い会」という交わりの会をつくりました。

「憩い会」は、数年毎に二、三泊の小旅行を実施しました。観光もかねていましたが、信仰を深める修養会のような、とても楽しい旅行でした。この旅行実施のリーダーを務めたのが郁朗さん・慶子さんご夫妻で、みんな大変お世話になりました。わたしも何度も参加し、寝起きを共にしながら、主にある兄弟姉妹としての交わりを深めることができました。リーダー格の郁朗さんの熱のこもった祈りを今でも思い出します。この旅行は郁朗さんが車椅子の生活をするようになっても続けられ、歩行が困難で参加できなくなるまで続きました。

郁朗さんも慶子さんも本当にすばらしいクリスチャンです。神を愛し、教会を愛し、私たちをも愛してくださいました。こんなにすばらしい信仰の先輩、兄や姉のような方との交流を与えてくださった神に感謝せずにはおられません。

郁朗様は、すべてを全能の神に委ね、神のもとに召されました。今は、不自由だったつらい闘病生活から解放され、新しい霊の体を与えられる復活を信じ、やすらかな眠りにつかれました。朽ちる体は、このご葬儀後、献体としてささげられると聞いています。郁朗さんは二十年も前に献体を決めたおられました。俳人であった郁朗さんの詠んだ句を、慶子さんは、七年前に「句集・虹」として編集発行しましたが、その中に、郁朗さんの平成九年の句として、「献体を約し四度目の花見るかな」とあります。

 郁朗様との別れは、永遠の別れではありません。神様の前で再会できる望みが与えられています。そのときは互いにイエス様に似た者とされ、神を賛美する天使のような者とされることでしょう。

 昨晩の前夜式の後、奥様のお話しがあり、最後に奥様は、「病院ではわたしたち二人はのんびり過ごしました、郁朗は神様からいただいた生命(いのち)を生ききりました」と話されました。

 私は家に帰ってから、大変な状況の中で、悩むことなくのんびり過ごせたのはなぜなのだろうかと考えました。

 使徒パウロが激しい痛さのため苦しみ、弱くなり、祈っていた時に、イエス様が現れ、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で発揮されるのだ」と言われたことを思い出しました。パウロは弱さの中でキリストの力が宿り、強くされることを経験しました。

 郁朗さんは病気のため弱くなりました。寝たきり動けなくなり、目も全盲になりました。食べるのもゼリー状のものを口に入れてもらわなければ食べることが出来ません。体力は衰え、言葉も発することができません。こんなにも弱くなったご主人の弱さを、奥様は共に担いました。慶子さんには、「愛の神にわたしたちは支えられて生かされている。」という神への感謝がありました。「恐れることはない。私が共に居る。」「死ぬときも天国に導いて下さるイエスさまがおられる」という信頼がありました。お二人には、不平不満はありませんでした。

  この弱くなっているお二人を支えられたのは、イエス様も共にいてくださって、その重荷を担っておられたからだと思います。お二人は、弱さの中でイエスが与えてくださる十分な恵みを受けておられていたと思います。お二人は、「神与え、神取り給う。神はほむべきかな」という神のなさることへの全き信頼と感謝に満たされていたのです。

 大兄が皆さんに言いたかった最後の言葉は、「みなさん、ありがとう。神様のもとへお先いたします。お元気で。また、天国で会いましょう。神様、イエス様を賛美します。ハレルヤ。アーメン」という言葉だったと思います。

 今後も奥様やご遺族の皆さまと主イエスが共にいて、皆さまを支え、守って下さるように祈り、追悼のことばとさせていただきます。

  2016年1月5日                   辺見宗邦

         

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