富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「ゲッセマネの祈り」 

2015-03-29 02:02:13 | 聖書

    ↑エルサレムのイエス受難週の木曜日と金曜日 バイブルワールド(地図でめぐる聖書p.99)

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

            日本キリスト教 富谷教会 週報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

  受難節第6主日   2015年3月29日(日)  5時~5時50分                                 (棕櫚の日曜日)         

              礼   拝    

前 奏                  奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  309( あがないの主に)

交読詩編      22(わたしの神よ、わたしの神よ)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

讃美歌(21)  302(暗いゲッセマネ)

聖 書   ルカによる福音22章39~46節       

説 教    「ゲッセマネの祈り」   辺見宗邦牧師

讃美歌(21) 311( 血しおしたたる)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)     24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

                                   次週礼拝 4月5日(日)イースター夕礼拝 午後5時~5時50分 

                                     聖 書  ルカによる福音書24章1~12節

                                     説 教    「キリストの復活」

                                     讃美歌     517 72 327

            本日の聖書 ルカによる福音書22章39~46節

 39イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。 40いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。 41そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。 42「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔 43すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。 44イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕 45イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。 46イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」

               本日の説教

 2月18日から始まった受難節は、いよいよ今日から最後の一週間に入ります。受難週の第1日は棕櫚の日曜日と呼ばれています。

日曜日は、キリストが子ろばに乗って弟子たちと共にエルサレムの町に入ってこられるときに、エルサレムの市民たちが歓迎の気持ちを表すために棕櫚(なつめやし)の枝を道に敷いて、ホサナ、ホサナ(救い給え)と叫んでキリストを迎えたことによります。

 月曜日は、主イエスは「宮浄め」をなさいました。エルサレム神殿を祈りの家とするため商売人を追い出しました。

 火曜日は、祭司長たちと権威についての問答をし、主イエスは「ぶどう園と農夫のたとえ」を話されました。

 水曜日は、オリーブ山の麓のベタニヤで過ごしました。一人の女が高価なナルドの香油をイエスに頭に注ぎました。

 木曜日は、夕方から始まる過ぎ越し食事の準備をするためにエルサレムに行きました。夕方になると十二人の弟子と最後の晩餐と呼ばれている食事をしました。この食事の後に、イエスはエルサレム郊外のゲッセマネの園で祈りの時を持たれました。そこでイエスは逮捕され大祭司の屋敷に連れて行かれました。

 金曜日は、夜が明ける前、最高法院の全員による裁判で、イエスは死刑の決議を受けました。夜が明けるとローマ総督ピラトのもとに連れて行かれ、尋問の後、死刑の判決を受けました。イエスはゴルゴダへ連れて行かれ、午前9時に十字架につけられ、午後3時に息を引き取りました。夕方には、アリマタヤのヨセフが遺体を引き渡しを願い、墓に納めました。

  土曜日は、安息日でした。土曜日の日没後は安息日が終わるので、マグダラのマリアたちは、イエスの遺体に塗るための香料を買い、翌朝に備えました。

  ここまでが、受難週の出来事です。日曜日の朝早く、イエスは復活し、マグアダラのマリアに最初の現れました。

  今日の聖書の個所は、十字架に架(か)けられる前夜の<ゲッセマネの祈り>と呼ばれている個所です。平行記事は、マタイ26章36~46節、マルコ14章32~42節です。

  イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。」

  そこを出て>とは、過ぎ越しの食事をしたエルサレム市内の二階の広間です。イエスと弟子の一行は、この最後の晩餐のあと、エルサレム市街を出てキドロンの谷を経てオリーブ山の方に向かいました。<オリーブ山>は、エルサレムの東側、キドロンの谷の向こう側にある海抜814mの小高い山です。その西側斜面に一つの園があり、イエスは弟子たちと一緒にその中に入られました。<いつものように>とあるように、イエスは、昼は神殿で教え、夜はしばしばこのオリーブ山で過ごして眠ることにしていました(ルカ21・37)。その場所はイスカリオテのユダのよく知っていた場所でした。主イエスは弟子たちと共に過ごす最後の時、苦難に向かおうとされる大切な祈りをするために、この場所を選ばれました。マタイやマルコ福音書はこの場所を<ゲッセマネ>と呼んでいます。「ゲッセマネ」は「油絞り器」という意味のヘブライ語に由来する名です。オリーブの木の植えられた農場であったと推測されます。

  いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、『誘惑に陥らないように祈りなさい』と言われた。」

 ルカ福音書では、誘惑に陥らないように祈っていなさい、と十一人の弟子全員に言われています。イエスは自分の受難の後の弟子たちの試練を心配しているのです。イエスは<主の祈り>の中で、<我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ>と祈るように弟子たちに教えています。誘惑に立ち向かう時の力は、神から与えられるからです。

   そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。」

   マタイやマルコでは、<少し進んで行き>とあります。弟子たちがイエスが祈るのを目にすることが出来る距離です。誘惑に陥らないためには、祈ることが必要である事を、弟子たちに解らせるために、弟子たちから見える場所で主イエスは祈られたのです。

    アメリカの画家ホフマンの「ゲッセマネの祈り」

  当時は立って祈るのが普通だったので、<ひざまずいて>祈るということは重大な危機に直面したような時に祈る姿勢でした。マルコやマタイは、<地にひれ伏し>という用語を用いています。

  「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」

  イエスの祈りは、<父よ>という言葉で始まっています。マルコ福音書では、その呼びかけは「アッバ」というアラム語です。この愛情あふれる言葉は、通常は小さな子供たちが使用した<おとうちゃん>に当たります。イエスと父なる神との関係の深さと強さが読み取れます。キリストの十字架の贖いによって、<神の子>とされた私たちも、父なる神につながれ、子たる身分の霊を受けて、在天のイエスの名によって祈ることを許され、<アバ、父よ>と呼ぶことができるのです(ローマ8・14~15)。

  <この杯>を取りのけてくださいという、<この杯>とは、旧約聖書では神の救いや祝福の場合もあるが、ここでは神から与えられる審判であり、呪いであり、怒りです(エレミヤ書25・15~16、詩編11・6、75・8)。主は自ら負うべき苦難と十字架を悟り、そのような苦い杯は、出来れば、<取りのけてください>と祈られました。主の受けられた試練・誘惑こそ、主イエスが人間として生きられたことの表れでした。

  主は恐れの中にありました。それは死の恐れではなく、神からの断絶の時が来る恐れでした。イエスは人間の罪に対する神の裁きを受けるのです。それは昔の預言者が「わたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」(イザヤ五三・六)と語り、聖霊によって奥義を示された使徒パウロは「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪とされた」(コリント二、5・21)と語りました。罪のないイエスが人間の罪を負って、罪人としての神の裁きを受けなければならないのです。

  しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」

  どこまでも神の<御心>に従おうとする祈りです。主イエスは、御自身の願いの成ることを求めず、神のみこころと一致する事を求めたことの中に、神の救いのみわざが実現する事を知ります。この祈りにおいて、イエスは自ら負わなければならない十字架の贖罪としての死の意義を悟られたのです。主イエスは、このような深い恐れの中で、神のみこころに従う決意をし、神にすべてを委ねたのです。

 すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。(43,44節)

  この43、44節は早い時期の写本にはありませんでした。後に写本を書き写す際に、ルカの証言をマタイ、マルコの証言と合うように、書き加えられたもののようです。

 神に仕える天使が現れて主イエスを力づけたことは、神がこの苦しみを知っておられ、イエスに力を与えておられるということです。この天使の力添えは、苦難を取り去るということではなく、苦難に打ち勝ことが出来るようにするためです。主イエスの十字架を前にした葛藤は、ただ超然として十字架への歩みを続けられたのではないことを示しています。その苦しみは、<汗が血の滴るように地面に落ちた>という表現になっています。キリストは、「肉において生きておられた時、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いをささげ」(ヘブライ5・7)られたのです。

  福音書記者ルカが、これらの節を用いず、イエスが苦悩し、神のみこころと格闘する姿を描かないのは、絶えず祈りの生活をしている人には、試練の時をむかえても、苦しみ悶える必要はないということです。イエスが杯を受けたくないと思ったのは確かです。しかし、イエスは洗礼を受けた日から、祈りを通じて神の意思の下に生きてきたのです。その祈りの生涯が試練に打ち勝つ力の源となっていたのです。

  イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。」

  弟子たちは離れた場所で、主の苦しみの本当の意味が解らないながらも、悲しみのあまり眠っていました。祈ることの大切さを示されていながら、祈り続けることができなかったのです。

  イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。

 誘惑や困難は弟子たちにとって避けることの出来ないものです。主が弟子たちと祈りを共にされたのは、主イエス御自身の十字架への備えのためでありましたが、また同時に、弟子たちが誘惑を克服する道を、また困難に立ち向かう力を、祈りによって得るようにという教訓を与えるためでもありました。

   ゲッセマネの物語は、私たちの意志が私たちの父なる神の意志と一体となるように絶えず熱心に祈ることによって、試みに打ち勝つことができるのだということをイエスから学ぶことができます。主イエスは、ゲッセマネの祈りで、しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈られました。ここに私たちは祈りの究極の意味を教えられます。主イエスが弟子たちに教えられた<主の祈り>に、「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りがあります。私たちも、主の御心に従う祈りをすることが求められています。私たちの祈りは、神様に自分の思いや願いを投げかけているだけということが多いのではないでしょうか。自分の願いを神様に向かって語ることは信仰の大事な要素です。しかし、そういうことだけの祈りは、信仰者の祈りではありません。神様の御心、ご意志はどこにあるのかを求め、それに従っていこうとすることが信仰です。

   更にゲッセマネの物語が告げる重要なことは、このゲッセマネの祈りで、主イエスの父なる神への完全な従順が示されたということです。「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり」(ヘブライ5・8~9)ました。イエスは、神の意志を無視して自分の命を救おうという誘惑に打ち勝ち、「死に至るまで従順」(フィリピ2・8)になることができたのです。イエスの最も重要な犠牲は、その贖いの血ではなく、神への従順でした。ヘブライ人の手紙には、<血>と<犠牲>は、イエスが真に神に捧げられた従順を示す比喩にすぎないことを語っています。キリストは罪を贖うためのいけにえを望まれない神のために、神の御心を行うために世に来られたのです。「この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです(ヘブライ10・10)。」「一人の人の不従順(アダム)によって多くの人(全人類)が罪人とされたように、一人の従順(キリスト)によって多くの人が正しい者とされるのです(ローマ5・19)」とあるように、「キリスト者にとってゲッセマネの園は、エデンの園を逆転したもの」なのです(現代聖書注解、マタイによる福音書p.518)。ここに罪と死の支配から解放されて、すべての人が義とされて永遠の命を得ることになったのです。

 

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「ぶどう園と農夫のたとえ」 

2015-03-22 16:15:10 | 聖書

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

          日本キリスト教 富谷教会 週報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

 受難節第5主日        2015年3月22日(日)      5時~5時50分 

礼   拝    

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  152(みめぐみふかき主に)

交読詩編     118(恵み深い主に感謝せよ)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

聖 書   ルカによる福音書20章9~19節       

説 教    「ぶどう園と農夫のたとえ」   辺見宗邦牧師

讃美歌(21) 411(うたがい迷いの )

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)     24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

                                           次週礼拝 3月22日(日)夕礼拝 午後5時~5時50分 

                                              聖 書  ルカによる福音書22章39~53節

                                              説 教    「ゲッセマネの祈り」

                        讃美歌     521、302

本日の聖書 ルカによる福音書20章9~19節

9イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。 10収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。 11そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。 12更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。 13そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』 14農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』 15そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。 16戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。 17イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』 18その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」 19そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。

           本日の説教

 ルカによる福音書19章37節から、エルサレムでの主イエスの最後の一週間が始まります。オリーブ山のふもとにあるベタニヤから主イエスはろばの子に乗って柔和な威厳をもって、聖なる都エルサレムへ行きました。多くの人が葉の付いた枝を道に敷いて、「ホサナ。主の名によって来られた方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」叫んでイエスを迎えました。この日は棕櫚(しゅろ)の日曜日と呼ばれるようになります。こうしてイエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺(あた)りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人の弟子を連れてベタニヤへ出て行かれました。

 翌日、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々に、「『わたしの家は、祈りの家でなければならない。」(イザヤ書56・7)と書いてある。』ところがあなたたちはそれを強盗の巣にした」と言って、神殿をきよめ、彼らを追い出しました。祭司長、律法学者たちは、これを聞いてイエスをどのようにして殺そうと謀かりました。群衆が皆、イエスの話に感動して聞き入っていたので、彼らは手を出すことは出来ませんでした。夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれました。

翌日イエスの一行はエルサレムに来て、神殿の境内でイエスは民衆に教えていました。すると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、「何の権威でこのような言動をしているのか。だれがその権威を与えたのか。」とイエスに問いただしました。イエスは、彼らが受け入れなかった洗礼のヨハネについて彼らに、「ヨハネの洗礼は<天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」と問い返しました。彼らは相談しました。「<天からのものだ>と言えば、ではなぜヨハネを信じなかったのか」と言われるし、<人からのものだ>と言えば、ヨハネを預言者だと信じ込んでいる民衆に石打ちで殺されてしまう。」そこで彼らは、<どこからか、分からない。>と答えました。するとイエスは、「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」と言われました。イエスは自分はメシア(救世主)で、その権威は神からであるとはっきり言いませんでした。言っても彼らは理解しなかったからです。

このようなユダヤの支配者たちの前で、イエスは民衆に、なかばたとえであり、なかば寓話(ぐうわ)である、「ぶどう園と農夫」の物語を話し始めました。たとえではイエスは自分は神からこの世に送られたメシアであることを伝えます。しかもそのメシアの受難と死を予告します。

ある人がぶどう園を作り、それを整え、農夫の小作人たちに貸して長い旅に出ました。収穫期に、農民たちは、小作料として収穫の一部を主人に支払わなければならない契約をかわしました。それで、収穫の季節になった時、ぶどう園の主人は、小作料を納めさせるために、ひとりの僕(しもべ)を送りました。しかし、農民たちは不在地主が送ったこの僕を殴打(おうだ)して、何も持たせないで追い返しました。主人は第二の僕を送ったけれど、農夫たちは殴打し、侮辱して何もまたせないで追い返しました。第三の僕に対しても傷を負わせてほうり出しました。

そこでぶどう園の主人は、大胆な考えを思いつきました。「どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならばたぶん敬ってくれるだろう。」と主人はひとりごとを言いました。しかし農民たちは、ぶどう園の主人が想像するよりも悪い人たちでした。彼らは互いに論じ合いました。「これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。」そこで彼らは息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまいました。

イエスは、「さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに貸し与えるちがいない。」と、この物語を結んで言われました。

このたとえ話しを聞いた民衆は、「そんなことがあってはなりません。」と言いました。人々が「そんなことがあってはならない」と感じたのは、農夫たちが主人の僕を袋だたきにし、愛する息子を殺してしまったことです。自分たちにぶどう園を貸してくれ、生計を立てることができるようにしてくれた主人に対して、こんな恩を仇で返すようなことをするなんてとんでもないことだ、と人々は思ったのです。そんなことをすれば、当然農夫たちは主人に殺されてしまう結果になると民衆は思ったのです。

このたとえの始めの描写や用語は、イザヤ書5・1~7の<ぶどう畑の歌>を引用したものです。

わたしは歌おう、わたしの愛する者のために、そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃(ひよく)な丘に、ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ。わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。わたしがぶどう畑のためになすべきことで、何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに、なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。さあ、お前たちに告げよう。わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ、石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ、わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず、耕されることもなく、茨(いばら)やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑。主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに、見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに、見よ、叫喚(きょうかん)(ツェアカ)。[叫喚(きょうかん)=大声でわめき叫ぶ]

預言者は歌います。そこではぶどう畑を持っていた所有者は万軍の主である神です。ぶどう畑は<イスラエル>です。主なる神は良いぶどうではなく酸っぱいぶどうを実のらせたぶどう畑を<焼かれるにまかせ、……踏み荒らされるにまかせます。

<ぶどう畑の歌>で、預言者は、良い実を結ばない、神の期待にこたえないイスラエルを神の厳(きび)しい審(さば)きに値する神のぶどう園にたとえています。

ルカ福音書のたとえでも、ぶどう園の主人は神を指しています。ぶどう園を借りた農夫はイスラエルの宗教的指導者たちを指し、収穫の時に主人が遣わした僕は預言者たちを指しています。ユダヤ人は神に叛逆し、神から遣わされた預言者たちを侮辱したり、迫害したりします。

主人が最後の手段として送った息子は、明らかにメシアであるイエスを指しています。息子を殺せばぶどう園は自分たちのものになると農民たちが考えたのは、神から独立して、<神のように>なろうとする人間の欲求であり、罪の本質を反映しています。彼らは息子を捕まえてぶどう園の外に放り出して殺してしまいました。ここに神の愛する子イエスの死が暗示されています。これはイエスの受難予告です。

主人は<戻って来て、この農夫たちを殺し>は、農夫たちは最後の日に神の怒りによって裁かれることが言われています。神はイスラエルの民を滅ぼし、その地を<ほかの人たちに与えるにちがいない>。これは、ローマ軍によるエルサレムの滅亡と占領(紀元70年)を指しています。

「ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」

主イエスは、イスラエルに約束されていた神の国はとりあげられ、御国にふさわしい異邦人に与えられるに違いない、と言われました。このことは、やがてイスラエルの地位が教会に与えられることを示しています。

 主イエスは、このたとえを語ったあと、彼らを見つめながらこう言われました。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」

 イエスは詩編118・22~23を引用されました。大工が捨てた石が隅の親石になった、という比喩を用いて、敵にとっては見捨てられた人・民と見えたものが、神にとっては価値あるものであったことを宣言し、神は救いのために行動され、この奇跡的な勝利は全く神によるものであった、と賛美している個所です。<隅の親石>とは、家の土台や、アーチ型の天井を支える要石(かなめいし)のことです。

 後に隅の親石として決定的に重要な役割を果すことになる石を、家を建てる者たちが、「これはいらない、役に立たない」と言って捨ててしまうということが起ると、、聖書が既に語っていることを、主イエスは示したのです。

跡取り息子を殺せば相続財産であるぶどう園が自分たちのものになる、と言う見当違いをしている者たちがいる、ことを示したのです。ユダヤ人の指導者たちによって殺されるイエスこそ<隅の親石>となる方であり、ユダヤの民によって捨てられ、殺されるが、必ずよみがえって、世を治める主となることを予告されたのです。イエスの死と復活は神の救済計画の実現であることを語ったのです。イエスは自分こそ世を救うメシアであることをここで明らかにされました。

 「その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」(イザヤ書8・14~15)というみ言葉は、隅の親石となる主イエスを拒み、敵対するなら、その人は滅びに至る、ということを意味しています。隅の親石はそのように救いと滅びとを分ける決定的な意味を持っているのです。

そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちを指して語っていることに気付きました。このたとえは、ユダヤ人の罪を鋭く突いており、ユダヤ人であれば、だれにでもすぐわかるたとえです。彼らはこのたとえを聞いて憤慨し、殺意にまで駆り立てられますが、民衆を恐れて、手を出すことが出来ませんでした。

主イエスの語ったこの「ぶどう園と農夫のたとえ」は、決してユダヤ人とその指導者たちへの非難や攻撃ではありません。それはイエスの生命(いのち)を賭けた警告であり、訴えでした。この警告を聞き入れないとき、そこには審判がり、神の判決があるのです。しかし、彼らはこのイエスの言葉を聞かないで、かえって捕えて殺そうとはかるのです。そこにイエスの十字架の死が起こるのです。

 このたとえは、今日の時代に対する神の言葉でもあります。

神はぶどう園を作って、人間に貸与し、長い旅に出られました。神が離れておられるというところに人間の生の現実があります。ぶどう園とは世界です。私たちの人生は、ぶどう園を神から貸与されたようなものです。この世界の主人は私たちではなく、神が主人です。神が天地の創造者であり、すべての支配者です。人間は被造物として生きることを許されています。人間は神の前に生きる存在です。しかし、主人の不在は、まさに農夫たちが主体的に行動できるときです。しかし「罪を犯すほどの自由」を行使したために、神から離れ、自己中心的な罪に染まりました。これが神との交わりを絶たれた死です。神は、この世界のすべての人々を救うために、御子イエス・キリストを遣わされました。ところが、神の民として先に選ばれたユダヤ人たちは主イエスを捕え、十字架にかけて殺してしまいました。神は、主イエスを死からよみがえらせ、全世界のすべての人の救い主とされたのです。キリストは神にそむく私たち人間に対する神の最後の救いの手段なのです。神は、「わたしは、お前たちにわたしの心のうちにあるすべてのことを、このわたしの子において示した。わたしの憐れみと愛の深淵な目的を啓示した。お前たちは彼の方を向き、注意して従おうとしないのか」(A.H.ハンター<イエスの譬えの意味>p.175)と訴えています。

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「山上で神の栄光に輝くイエス」

2015-03-15 16:39:09 | 聖書

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本キリスト教 富谷教会 週報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

   受難節第4主日 2015年3月15日(日)   5時~5時50分 

礼   拝    

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  132(涸れた谷間に野の鹿が)

交読詩編       2(何ゆえ、国々は騒ぎ立ち)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

聖 書   ルカによる福音書9章28~36節       

説 教  「山上で神の栄光に輝くイエス」  辺見宗邦牧師

讃美歌(21) 285( 高き山の上)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)     24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

 

               次週礼拝 3月22日(日)夕礼拝 午後5時~5時50分 

                聖 書  ルカによる福音書20章9~19節

                説 教    「十字架の勝利」

                讃美歌    152、411

本日の聖書 ルカによる福音書9章28~36節

  28この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。29祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。30見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。31二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。32ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。33その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのある。34ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。35すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。36その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。

    本日の説教

 イエスはペトロの信仰の告白の後、弟子たちに、自分がメシアとして受けなければならない苦難と死、そして復活について語り、十字架を背負ってイエスに従うとき、永遠の命が与えられる話をなさいました。福音書記者マルコやマタイは、その場所がフィリポ・カイサリアであったと記しています。

それから八日ほどたったとき、主イエスは弟子の中でも中心的な位置にあるペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人を連れて、祈るために山に登られました。その<高い山>(マルコ9・2)は古来、ガリラヤのタボル山(ガリラヤ湖の南西約16㎞、標高588m)とされてきたが、当時その頂上には要塞がったので、変容の場所としてはふさわしくありません。その山はフィリポ・かイサリアの北東約19㎞に位置するヘルモン山(標高2815㍍)であったという説もあるが、確かではありません。マルコの文脈では、<一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った>(マルコ9・30)とあるので、フィリポ・カイサリア周辺の山です。

 イエスは祈るために…山に登られた。

 イエスは<人里離れた所に退いて>(ルカ5・16)祈られたり、<祈るために山に>(ルカ6・12)行かれたり、ひとりで祈ったり(ルカ9・18)されています。イエスにとって、父なる神との祈りの交わりは、その使命遂行のための力と確信とを与えられるために欠くことのできない大切のものでした。特に十字架の死の前夜、オリーブ山のゲッセマネの園(その)での祈りは、神のみ心を確認して歩むために、必要な祈りでした。イエスは祈りによって、神のみ心を知り、そのみ心に従ったのです。今日の聖書の個所でも、苦難の道を歩み出すに当たって、神との霊的交わりを求められたのです。

祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝きました。栄光に輝く主イエスのお姿がここに示され、三人の弟子たちはそれを見たのです。イエスは今や弟子たちの前に神的存在として現れたのです。イエスの顔の肌は、モーセを思わせるように光を放っていました。(出エジプト記35・30)イエスの服は<この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白く>(マルコ9・3)なりました。この白い着物という言葉で、神のような姿を描写しています。イエスは天に属する者であり、本質は神である徴です。

 見ると、二人の人がイエスと語り合っていました。旧約時代のはるか過去の人物であるはずのモーセとエリヤがその場に現れてイエスと話し合っていました。エリヤは死なずに天に上って行ったとされている預言者です(列王記下2・11)。モーセは、ユダヤ人のあいだでは、だれも彼の墓を知らないという申命記34・6の記述から、死なずに天に上ったという伝承が生じたと言われます。イエスと語り合うのにふさわしい天の世界の二人の人物です。この二人は旧約聖書の律法と預言書を代表する人物です。これはイエスが彼らの果たした役割を受け継ぎつつその成就者であることを示しています。エリヤは終末時に再来すると期待されていた人物なので、終末がいよいよ近いことを間近いことを示しています。

二人は栄光に包まれて現れて、イエスが<エルサレムで遂げようとしておられる最期>について話していました。モーセは、シナイ山で神に会って、神の栄光を自分の顔に受けました(出エジプト記34・29~35)。弟子たちが見た栄光に輝くイエスは、かつてモーセが顔に受けた神の栄光でした。イエスはここでモーセに優る神の人であり、神の子です。

夜のことだったのか、ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えました。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言いました。

先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。

 ペトロの提案は、天的存在としてのイエス、エリヤ、モーセを地上にとどめておくことができると考えたのです。ペトロは思わず口走ったのです。自分でも何を言っているのか、分からなかったのです。ペトロの思いは、三つの小屋を建てて入ってもらい、栄光に輝く主イエスの御姿とモーセとエリヤも、いつまでもそこに居てもらいたいと思ったのです。

 ペトロがこう言っていると、雲が現れて栄光に輝く三人は雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れました。雲は神の臨在を表わす象徴です。すると、雲の中から神の声が聞こえました。

これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け。」その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられました。<これはわたしの子>は詩編2・7に由来し、イエスが神の子であり、メシアであることを示しています。<選ばれた者>はイザヤ書42・1の受難の主の僕を示しています。主イエスこそ、栄光に輝く神様の独り子、神様が選び、遣わして下さった救い主であられるのです。イエスの受難予告が、天の声によって確認されました。<これに聞け>は、イエスの言うことを聞けと弟子たちに言われた言葉です。<これに聞け>は、申命記18・15「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたし(モーセ)のような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わなければならない。」が言及されていると思われます。イエスは、イスラエルの同胞の中から立てられた預言者ではありません。イエスは神の子であり、「モーセ以上の預言者」なのです。モーセは神の民を奴隷にされていたエジプトの地かあ導き出した指導者でした。神の子は、罪の奴隷になっている人々をこの世から神の国へと導かれる方です。

弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話しませんでした。イエスの変貌は、イエスがこの世の人ではなく、神の子であることを弟子たちに明らかにされた出来事でした。しかし、弟子たちはその意味を、この時は理解できなかったと思われます。イエスの生涯が死をもって終わるのではなく、復活する神の子であることが明らかになるのは、イエスの復活後、聖霊を与えられて初めて分かることでした。

三人の弟子たちは生きたままでイエスと一緒に天上界に引き上げられたような体験をしました。神自身が輝く雲の中からイエスのことを<わたしの愛する子>と宣言したのを聞いたのです。これはたしかに異象というべきものです。この変貌(へんぼう)の出来事は、イエスが人間の姿から神の姿へ変化したのです。

これは一つの奇跡であって説明することはできません。

この変貌の意義は、第一に、苦しみを受けるためにエルサレムに上ろうとするイエスの決意を強めるものでした。神はイエスに十字架の道を示し、復活することを保証したのです。

第二に、弟子たちは、世の終わりに現れる神の国の力、主イエスの栄光を、今のこの世を生きる中で、垣間見ることを許されたのです。

この記事が私たちに教えていることは何でしょうか。イエスは神であるにもかかわらず、人間の罪を救うために、私たちと同じ人間の姿を取り、苦難の道を歩み、十字架にかかって死んだくださった、ということです。

地上に来られたイエスは、どこまでも、私たちに対する愛のゆえに、イエスのへりくだった姿でした。地上の生涯においては隠されていたけれども、本当は栄光に輝く神の独り子であられるということです。人としてのイエスの中にも、神としての威光が輝いているのであり、イエスの変貌は十字架の死に至るまで従順であったキリストを、神が高くあげた栄光の姿を一時的に表した現象でした。イエスは死より復活して、天に上り、神の右に座し、父なる神と共に世を支配したもう神なのです。この主イエスの十字架と復活と昇天によって成し遂げられた救いこそが、私たちの罪を贖い、神の子とし、聖霊を与え、永遠の命に生きる恵みを与える救いとなったのです。

 

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「メシアの受難の予告とイエスに従うこと」

2015-03-07 14:49:14 | 聖書

            ↑ フィリポ・カイサリア 岩の洞穴はパン神の聖所跡

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

             日本キリスト教 富谷教会 週報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」 (フィリピ4:6)

   受難節第3主日   2015年3月8日(日)    5時~5時50分 

礼   拝    

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  298(ああ主は誰(た)がため)

交読詩編      86(主よ、わたしに耳を傾け、答えてください)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

聖 書   ルカによる福音書9章18~27節       

説 教  「メシアの受難予告とイエスに従うこと」  辺見宗邦牧師

讃美歌(21) 288(恵みにかがやき)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)     24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

                                        次週礼拝 3月15日(日)夕礼拝 午後5時~5時50分 

                                         聖 書  ルカによる福音書9章28~36節

                                         説 教    「山上で栄光に輝くイエス」

                                         讃美歌    132、285

本日の聖書 ルカによる福音書9章18~27節

 18イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。19弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」20イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」21イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、22次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」23それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。24自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。25人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。26わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。27確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」

      本日の説教

   イエスはガリラヤ湖の北岸ベトサイダに近い人里離れた所で<五千人に食べ物を与える>奇蹟を行われました。このあと、マルコによる福音書では、イエスは弟子たちだけを連れて、ゲネサレトに行き、そこから北方の異教の地、ティルスとシドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖に戻り、四千人に食べ物を与え、ベトサイダで盲人をいやし、その後フィリポ・カイサリア地方に行き、その途中の出来事として、ペトロが信仰を言い表した出来事を記しています。マタイによる福音書もマルコの記事にならって同じように記しています。

  しかし、ルカによる福音書では、<五千人に食べ物を与えた>出来事のあと、マルコが記した記事はすべて省略して、イエスがひとりで祈っておられるとき、共にいた弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねたと記しています。福音書記者ルカは独自の構想で簡略化して記したものと思われます。

  ペトロがイエスについて信仰を告白した場所を、福音書記者マルコは、フィリポ・カイサリアと記しています(マルコ8・27)。フィリポ・カイサリアはパレスチナの北端(ガリラヤ湖から北東40キロ)に位置する町で、、ヨルダン川の水源に近く、ヘルモン山の南西の山麓にあります。多産の神パンの聖所があり、バニアスと呼ばれていたが、ヘロデ大王はその近くに皇帝アウグストゥスを神格化して礼拝する神殿を建てました。ヘロデ大王の子、ヘロデ・フィリポは皇帝に敬意を表してその町をカイサリアと名づけ、自分の名前もつけて、地中海沿岸のカイサリアから区別しました。現在はバーニヤースという名の、ダマスカスに近い、シリアの南西部のゴラン高原の都市です。古代から異教の自然神バールが祭られ、ギリシャの神々も祭られるようになっていた地です。

  イエスは、この地方を訪れた時から、ガリラヤ宣教を終えて、弟子たちと共に、受難の地・エルサレムへの道へ向かいます。イエスの一行は十字架へ向かう新しい段階に入ることになります。  イエスは弟子たちに、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」と世間の評判を尋ねました。弟子たちは、復活した<洗礼者ヨハネだ>と言っています、預言者<エリヤ>の再来だと言う人も、エレミヤのような<昔の預言者>が生き返ったのだという人もいます、と答えました。この弟子たちの答えは、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスが聞いた民衆のうわさ(ルカ9・7~8)と同じです。ガリラヤの民衆はイエスを、神が終末の救済のために送られた預言者の一人と見たのです。

  イエスは弟子たちに、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われました。ペトロが弟子たちを代表して答えます。「神からのメシアです。」キリストの復活前は、ペトロはイエスを<預言者の一人>としてではなく、預言者以上の神の人としての「メシア」という表現で信仰を表しました。<メシア>とは、ヘブライ語のマーシアハמשיחのカナ表記で、油を注がれた(者)」を意味する語です。終わりの日にイスラエルに遣わされる救済者の称号となっていました。で「油を注がれた(者)」を意味する語であり、終わりの日にイスラエルに遣わされる救済者の称号となっていました。ペトロたちは、イエスこそイスラエルが待ち望んでいた<メシア>だと言い表したのです。これまでイエスの権威に満ちた教えを受け、力ある業や奇蹟を目撃してきた弟子が、イエスをメシアと信じたのです。ペトロの信仰表明は、イエスが選んだ弟子たちにだけ与えられた啓示でした。後に、イエスは祈りの中で、「父のほかに、子がどういう者でああるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません(ルカ10・22)と祈っています。

   <メシア>と訳されたギリシャ語原文は、小文字で始まる<クリストス>という語が用いられています(ネストレ22版ギリシャ語新約聖書による)。これは「油を注がれた者」を意味するヘブライ語メシアのギリシャ語訳で、普通名詞として扱われています。固有名詞の救い主「キリスト」の場合は大文字で表記します。イエス・キリストは、大文字で始まる<クリストゥ・イエスゥ>と表記します。

   口語訳聖書では、ペトロの信仰告白を「神のキリストです」と訳していますが、これはイエスの復活後に成立した教会の復活信仰の投影です。共同訳聖書では、「神のメシアです」と訳しています。これは、まだキリストの復活を知らない弟子たちの信仰告白なので、そのように訳したものと思われます。

   ペトロの告白には受難のイエスへの理解が欠けていました。受難のイエスに従う気構えのない弟子たちにはイエスがメシアであることを語る資格はありません。イエスはペトロの告白を聞いたあと、このことはだれにも話さないように命じました。彼らが黙っていなければならない内容は、イエスが苦難を受けなければならないメシアであることです。人々には、「メシア」と、メシアの苦難・拒絶・死という考えを結びつけることができませんでした。弟子たちにもできなかったからです。

   イエスは次のように言われました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」

    ここで初めてイエスはエルサレムで受けねばならない苦難の使命について述べ、自分の間近い死を弟子たちに予告しました。復活についてはこれまで全く話されていませんでした。苦難の予告は受難が起こったときに、弟子たちがつまずくことがないように、あらかじめ語られたのです。

   イエスは、<メシア>と告白した弟子たちの言葉を、受難して復活する自分のことを<人の子>ということばで表しました。それは<メシア>という言葉が含む誤った政治的意味を全く持たない言葉でした。<人の子>は旧約聖書では、<人間>を表すのに用いられていますが(詩編8・5他)、そのほかにダニエル書7・13~14では、「見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り、…権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない」と、神の権威を受けた<人の子>を描いています。イエスは自らを、神の権威を持って終末的に現れることが期待されていた<人の子>であると同時に、<主の僕の苦難と死>(イザヤ書52・13~53・12、詩編22篇118・22)の預言を成就する、<人の子>と自称したのです。

 イエスは、これから向かうエルサレムでは、弟子たちの予想とは全く異なって、最高法院を構成する、長老、祭司長、律法学者たちから排斥され、最高法院の判決で殺される運命にあることを打ち明けます。「必ず…ことになっている」と言います。イエスの苦難と死と復活は、究極的に神の意志を実現するために必然的な事であると語ります。それは、神があらかじめ決定していたことであり、旧約において記されていたことの成就なのです。<三日目に復活する>というとき、三日は厳密な時間を指すのではなく、神が自ら介入して彼を必ず救うという、神の救いの確実性を表すユダヤ的な用語です。

 「それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。24自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。」

 イエスは皆に言われた、とあります。皆とは、十二弟子たちだけでなく、他の弟子たちも含むのでしょうか。しかし、そこにはイエスと十二人の弟子しかいないのです。<皆に言われた>とは、そこにはいない人達(読者も含めて)に対しても語っているようです。受難予告を聞いた今、弟子たちは新たにイエスに従う決断の前に立たされます。イエスは、<わたしについて来たい者は>と語りかけて、十字架への道を歩むイエスのあとに従ってくることを求めました。イエスに従おうとする者は弟子であっても、教会の信者であっても同じ道を歩かなければなりません。弟子の代表者であったペトロにも、イエスのご在世中には受難の意味が分からなかったが、聖霊をいただいて初めてイエスの同じ苦難の道を歩くことができるようになりました。 

 <自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って>とは、日々とあることから、具体的な十字架の死や殉教を目指すのではありません。イエスに従うとは、自分の判断によって自分の行く道を選ばずに、神のみ心に従うことです。<わたしはキリストと共に十字架につけられた>(ガラテヤ2・20)とあるように、<日々>に、自己中心的な古い自己を捨て、キリストと共に復活にあずかって、<神にかたどって造られた新しい人を着て>(エフェソ4・24)、生きることです。これは人間の努力や熱心によって出来るものではありません。ただ人間以上の力を持たれる聖霊が一人一人に臨むとき初めて可能となるのです。日毎に<試みに逢わせないでください>と主の祈りを祈りつつ、古い自分に死に、キリストにある新しい命に生きることです。イエスの教えた<福音にふさわしい生活を送る>(フィリピ1・27)ために、苦しむことも、恵みとして受けて、イエスに従うことです。 わたしたちは、一日、一日も、自分の思いではなく、主イエスの心をわが心となして歩んでいるかが問われているのです。。

 「自分の十字架」とは、キリストを信じた故に負わねばならない信仰者としての苦しみです。

ある人にとっては家族の中での無理解でしょう。ある人にとっては会社での不利益でしょう。ある人にとっては偶像礼拝拒否の戦いでしょう。人により異なりますが、それが主イエスによって担わされる十字架です。

  <自分の命を救いたいと思う者>という表現は、元来は殉教の死の問題を扱ったものですが、ここでは一般化され、この世での生き方が問題とされています。イエスに従い、イエスと共に生きる生き方でなく、自分本位の生き方を続ける者は、永遠の命を失い、魂を失ってしまうという意味です。

  <わたしのために命を失う者>とは、キリストのために自分の自然的な生命を失うことです。その者には神が永遠の命をという賜物を与えてくださり、彼は自己の魂を見出すことを意味しています。

   自分のあらゆる精力をこの世の目標に集中させて生き、その富と財宝を得るのは人を豊かにするようですが、それはこの世の仮の一時のことであり、それによって神から遠ざかれば無益であると説いています。永遠の命は全世界の富・権力・名誉によっても得られものではありません。ただイエスに従うことによって与えられるものです。

 「わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。」

   <わたしの言葉を恥じる>とは、元来は殉教においてイエスを否認することですが、ここでは一般化され、この世で、イエスとその言葉、福音への態度次第で、終末時のその人の運命が決定するという警告です。<人の子も、その者を恥じる>とは、裁き主としての人の子が、その人を否認して自分の者としての受け入れを拒否するということです。<自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて>とは、三重の栄光に輝く人の子の再臨と神の国の到来を告げています。

  「確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」

 神の国の到来の間近いことを約束する終末的な発言です。イエスの栄光に輝く再来は、彼の同時代の何人かがまだ生存中に起こるだろう。それほど「神の国」の到来は切迫している、ということです。再臨が近いという期待は原始教会の信仰の大きな特色でした。終末は、福音がすべての異邦人に告げ広められるまでは、来ないということでもあります

   イエスの栄光に輝く再来は、彼の同時代の何人かがまだ生存中に起こるだろう。それほど「神の国」の到来は切迫している、ということです。再臨が近いという期待は原始教会の信仰の大きな特色でした。終末は、福音がすべての異邦人に告げ広められるまでは生起することがないということでもあります。

   私たちにとって、今イエスとその言葉に対してどのような態度を取るか、すなわちこの地上の生涯においてどれだけ忠実にイエスに従うかが、決定的な意義を持つことになります。

   私は、1990年(平成2年)1月3日、当時56歳だったとき、胆石による胆のう炎の3回目の再発で、仙台徳洲会病院に入院しました。胆のうが 化膿していて、すぐには手術ができない状態になっていました。 胆のう炎の苦しみは、激痛というよりも鈍痛です。4,5日間は水も食事も一切ストップで、点滴だけで過ごし、検査が続きました。死ぬかもしれないと、死を意識しました。そのとき私は死への備えが出来ていないことを思い知らされました。このまま死んでは、身の破滅だと思いました。「天に宝を積みなさい」という主イエスの教えがありますが、天に何の宝も積んでいない、自分本位の生き方をしてきた自分であったことを神に懺悔しました。イエスに従った生き方をしていなかった自分は、死を前にして、神との交わりも、永遠の命も失っていることを痛感しました。このときのことは、2013年8月19日のブログに、証し「神の力は弱さの中で発揮される」 として発表しています。

 81歳のときに、奥様と共に富谷教会の礼拝に来るようになった加藤さんという求道者の方は、92歳で亡くなる前日、養護老人施設の部屋のベッドで、牧師に、次のような文を書を走り書きしてくれました。

「イエスキリスト様 天国は魂の行く処 平成25年7月13日

 先生……有難うございました。」

  そのときの喜びに満ちたお顔が思い出されます。世話して下さった方々に、「自分は幸運な人生だった」と語り、みんなに心から感謝し、喜びながら天国に行かれました。神様のなさる恵みの御業に驚くほかありません。

 

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「神の指による悪霊追放と神の国の到来」

2015-03-01 15:54:01 | 聖書

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本キリスト教 富谷教会 週報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」 (フィリピ4:6)

 

   受難節第2主日   2015年3月1日(日)   5時~5時50分 

    礼   拝

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  528(あなたの道を)

交読詩編     118(恵み深い主に感謝せよ)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

聖 書   ルカによる福音書11章14~26節       

説 教  「神の指による悪霊追放と神の国の到来」 辺見宗邦牧師

讃美歌(21) 377(神はわが砦)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)     24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

                                        次週礼拝 3月8日(日)夕礼拝 午後5時~5時50分 

                                        聖 書  ルカによる福音書9章18~27節

                                         説 教    「受難の予告」

本日の聖書 ルカによる福音書11章14~26節

 14イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。 15しかし、中には、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者や、 16イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。 17しかし、イエスは彼らの心を見抜いて言われた。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。 18あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。 19わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。 20しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。 21強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。 22しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。 23わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」 24「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。 25そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。 26そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」

             本日の説教

   主イエスは、ガリラヤ湖周辺の町々村々を巡回して、神の国は近づいたと宣べ 伝え、そのしるしとして、病人をいやし、悪霊を追放し、死人を生き返らせ、奇蹟を行われました。主イエスが行った奇蹟は、イエスが自然、病、罪、悪霊、死に対して支配する権威を持つ神の子、メシヤ(救い主)であることを示すものでした。

    イエスの時代は、重い病気や身体障害は、悪霊の仕業だと考えられていました。イエスのところに、悪霊に取りつかれて口の利けない人が連れられて来ました。イエスは口を利(き)けなくする悪霊を追い出すと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と言って驚嘆しました(マタイ9・32,33)。

  群衆はイエスの行った悪霊祓いに驚きましたが、しかし、中には、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言って、イエスの力の源(出所)を怪しみ批判する者や、イエスが神から遣わされたメシアかどうか試そうとして、証拠として天からのしるしを要求する者がいました。「天からのしるし」を求める者の批判に対しては、ルカ11章29節以下で取り上げられます。

   イエスは彼らの心を見抜き、<ベルゼベル>の力を使っている、というイエスに対する非難を取り上げて応(こた)えます。<ベルゼベル>とは、「君主バール」の意で、バールは古代シリアの偶像神の名です。この当時は<悪霊の頭>を指す名として<ベルゼベル>という言葉が用いられていました。

    「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。

   内部抗争に明け暮れる国や家が荒廃し、倒れていったことは、歴史や世間の事実が示していて明らかだ。わたし(イエス)がサタンの頭の力で、サタンの手下である<悪霊>を追い出していると言うのであれば、それは内輪争いをすることであり(内輪もめであり)、サタンの支配は崩壊してしまう。サタンは自分自身に逆らって働くことはないのだ、とイエスは反論されました。

   「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。

   わたしが悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うのなら、あなたたちの仲間、ユダヤ教団内部で行われてている<悪霊祓い>は何の力で悪霊を追い出しているのか。彼らも悪霊で追い出していることになるのではないか。もしそうなら、彼らは怒ってあなたたちの罪を裁くことになろう。彼らの悪霊追放を、神の側に立って働いているとみなすなら、イエスの悪霊追放も同じように神の側に立って働いているを認めるべきではないか、と反論しました。当時のユダヤ教では、祈祷師とか霊能者が悪霊を追い出すということをしばしば行っていました。使徒言行録19章11節以下にもユダヤ人の魔術師や祈祷師がいたことが記されています。

  「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」 

  わたしが、出エジプト記8章15節にあるように、<神の指(神の霊)>によって悪霊を追い出しているのだから、神の国、神の支配は、あなたたちのところに来ているのだ、とイエスは重大な宣言をされました。「神の支配」は、やがて来る終末的な出来事ですが、しかし、聖霊の働きによって、すでに始まっているのだ、と言われたのです。「神の国」が<あなたたちのところに>、今イエスが直接話を向けておられる批判者たちのところに来ている。聖霊の存在を否定するようなあなたがたには不利な、神の裁きがすでに下っている、という警告でもあります。

   イエスがここで「神の指」という表現を使っています。これは出エジプト記8章の記事に出て来る言葉です。モーセがエジプトで苦しむ自分の民を救い出すため、エジプトの王ファラオのもとへ行って、奴隷とされているイスラエルの民を解放するように要求しました。しかしファラオはその要求を拒みました。そこで自分たちの要求が神からのものであり、自分たちの神がまことの神として生きて働いていることを証ししようとしました。そこで最初のファラオの前にモ―セは杖を投げて蛇にする奇蹟を行いました。エジプトの魔術師たちも同じように、秘術を用いて蛇にする奇蹟を行いました。そのあと、モーセが行った奇跡を、エジプトの魔術師たちも同じようにできることが、三度も続きました。しかし、四度目の「ぶよ」の奇跡に至ったとき、魔術師たちは、これは「神の指」がそこに働いていることを認めざるを得ませんでした。「これは神の指です」と言って、自分たちには到底真似ができないことを魔術師たちはファラオに進言しました。けれどもファラオの心は依然としてかたくなで、彼らの言うことを聞き入れませんでした。この後、十一度目に、真夜中に主なる神が家々を過ぎ越す奇跡が行われ、エジプト人の家々の初子は死んでしまうという奇跡が行われ、ファラオはついにイスラエルの民の解放を認めざるを得なくなりました。

 「神の指」(マタイでは{聖霊})という言葉は、このエジプトの出来事が背景になっています。魔術師たちが使った言葉です。

 「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。

   イエスは、ご自身とともに「神の支配」が到来していることを、さらに一つのたとえを用いて語ります。これは次のようなイザヤ書49章24~25に依存しています。                                                               「勇士からとりこをとり返せるであろうか。暴君から捕らわれ人を救い出せるであろうか。主はこう言われる。捕らわれ人が勇士から取り返され、とりこが暴君から救い出される。わたしが、あなたと争う者と争い、わたしが、あなたの子らを救う」。                                                               「強い人」とはサタンのことです。サタンは所有物である悪霊にとるつかれた人々を、奴隷(捕虜)としてそのままにしておこうとしても、サタンよりももっと強う者(イエス)の前には、サタンは無力である。イエスはサタンの捕虜をすべて奪い取ってしまう。サタンに対するイエスの勝利こそ、彼が、神の側なのか、サタンの側なのか、どちら側なのかを、十分に示す証拠である。

   「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」

   この戦いにおいて、どちらつかずいることはありえない。今神の指で悪霊を追い出しておられるイエスの側につくか、その働きを悪霊の頭によるものとして、イエスに敵対する側につくのか、どちらの側につくのかと決断を迫ります。今神から遣わされて世に来られたイエスの呼びかけに呼応して、イエスの陣営に集合しない者は、終末に、イエスがその群れを集められる時に、この集めようとされる働きに敵対するものであり、羊である民を散らしている者とされる、と警告しています。

  「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。

  単に「汚れた霊が人から出て行く」だけのユダヤ教の悪霊祓いをしても、聖霊<良いもの>による生活をしなければ、悪霊の巣となる。メシアであるイエスの言葉を聞き、その活動を見たにもかかわらず。悔い改めてイエスを主人とすることがないと、かえって前よりも悪くなる。このたとえは、イエスを拒絶したことに対して、批判者たちに最後の一撃を加えるものです。神の指によって神の国が来たからには、悪霊の住み家と聖霊の住み家の中間状態はない。人は中立状態の空き家にしてはいけない。空き家にしておくと、人は最初の状態よりもはるかに悪くなるだろう、というのです。

   「群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる

イエスの悪霊追い出しの奇跡を見ながらも、さらなる「天からのしるし」を求める者たちがいました。その者たちに対して、「今の時代の者たちはよこしまだ」とイエスは言われなした。ここでは、生ける神に対する信仰が根本的に欠如していることを言われました。しるし(証拠)を求める要求にひそむ邪悪さ(よこしま)とは、イエスの宣教の中に神が現存して活動しておられることを信じようとしないことだからです。

   イエスは「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません」と語っています。

「ヨナのしるし」とは何でしょうか。ヨナは神からアッシリヤの首都ニネベに行って神の告げることばを語るように言われます。しかしヨナはそれを拒み、主の御顔を避けて反対の方角へ逃げようとして船に乗り込みます。ところが、嵐が起こり、その原因がヨナにあることが明らかになったため、人々はヨナを海に投げ込みます。すると海は静かになります。主はヨナを大きな魚を備えて飲み込ませました。三日三晩、ヨナは魚の腹の中にいたのですが、ヨナが悔い改めるとその魚からでることができました。そして主は、再びヨナをニネベへと遣わしました。不思議なことに、ヨナが語ったことばによって、その大きな町ニネベの王をはじめとして、多くの人々は悔い改めて主に立ち返り、さばきを免れました。つまり、「ヨナのしるし」とは、「人の子が三日三晩地の中にいること」と同時に、ユダヤ人は悔い改めなかったのに、異邦人は悔い改めたということです。

   「ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように、人の子がこの時代のために、しるしとなるからです。」とは、ヨナの時代にニネベの人々が悔い改めて、神のさばきを免れたように、今は、人の子によって、人々が悔い改めて、神のさばきを免れるしるしとなる(未来形)ことを語っています。

   「南の国の女王は、裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。また、ニネベの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。

  南の国の女王(シェバの女王のこと:列王記上10・5、シェバの地はエチオピアのマケだ説とイエメンのビルキス説がある)は、地の果てからソロモンのところまで来て、知恵を受けました。あのかたくななニネベの人々でさえ、ヨナの説教を聞いて悔い改めました。ここに神から遣わされた、ソロモンにまさるもの、ヨナにまさるものがいるのに、それを受け入れ、信じようとしないならば、終末のときシェバの女王も、ニネベの人々もその者たちを罪に定める判決に加わるであろう。こう言って、イエスは「天からのしるしを求めている者たち」を戒(いまし)めたのです。

   「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。

  <神の国はすでにあなたがたのところに来たのだ(口語訳聖書)>とは、神の支配、神の救いがすでに来ている、ということです。そこまで来ている、と言うのではありません。どこかに来ている、といのでもありません。<あなたがたのところに>来ているというのです。私たちは、主の祈りで、「御国を来らせたまえ」と祈ります。終末のときに実現する「御国」を求めるだけではなく、今、わたしたちのところで実現している「神の国」、「神の支配」を求めて祈る事が必要です。罪と死に打ち勝ち、復活され、天上におられ、父なる神とともに世を支配されておられる、神の御子イエス・キリストの「神の指」による救いの御働きを日々に受けているのです。主イエスが神の指をもって私たちの心のうちに、働いてくださっていることを信じ、感謝しましょう。

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