富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「大祭司イエスの執り成し」 ヘブライ人への手紙4章14~16

2018-09-29 02:51:16 | キリスト教

          ↑ 至聖所には十戒の石の板を納めた箱が置かれ、その上には一対のケルビムがが顔を贖いの座に向けて、向かい合って置かれました。(出エジプト記25:17ー22)

  981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

      日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

 年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

       聖霊降臨節第20主日  2018年9月30日(日)   午後5時~5時50分 

                            礼 拝 順 序

                                                司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 155(山べにむかいて)

交読詩編  103(わたしの魂よ、主をたたえよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)ヘブライ人への手紙4章14~16(p.405)

説  教   「大祭司イエスの執り成し」      辺見宗邦牧師 

祈 祷                 

讃美歌(21) 495(しずけき祈りの)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

               次週礼拝 10月7日(日) 午後5時~5時50分

               聖 書  使徒言行録5章27~42節

               説教題    「忍耐」

               讃美歌(21) 532 510 24 交読詩編37

   本日の聖書 ヘブライ人への手紙4章14~16節

4:14さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。15この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。16だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。

    本日の説教

 今日の聖書には、「大祭司」という言葉が出てきます。そもそも「祭司」(「コーヘン」כֹּחֵן)は、「主の前に立って、仕える(申命記10:8)者ーつまり、神と人との間に立つ仲介者を意味します。その祭司たちの長が、大祭司です。

  モーセが律法を与えられる前は、父親(族長)が一家の祭司となっていました。しかし律法を与えられた後は、レビ族、すなわちアロンとその子どもたちが専門的な祭司職を担うようになって行きました。

 神はシナイ山で、イスラエルの民を指導するモーセに十戒という律法を授け(出エジプト記20:1~17)、その後、モーセに、神が住むための幕屋と聖所を建設することを指示しました(同25:8)。また、神に仕える祭司としてモーセの兄アロンとその子ら四人(ナダブ、アビフ、エルアザル、イタマル)を指名しました(同28:1)。この後、祭司階級は、大祭司、祭司(幕屋の仕事)、レビ人たちの三階級となり、ほぼすべてをレビ族が占め、「大祭司」はアロンの子エルアザルの家系の者で、その最年長者が世襲で「大祭司」を継承することになりました(同29:44)。旧約聖書中、「大祭司(ハコーヘン・ハガドール)」の文字が最初に出てくるのは、レビ記21:10や、民数記35:25からです。

 旧約聖書でなぜ大祭司が存在していたのかというと、人は罪あるままでは、聖なる神様の前に出ることはできません。そこで、神は大祭司を選び、聖別しました。大祭司が年に一度動物をほふり、その血を携えて幕屋と呼ばれる所に入って行き、だれも近づくことができない、契約の箱が置いてある至聖所に入り、その契約の箱に動物の血をふりかけてイスラエルの民の罪の贖いをしました。それによってイスラエルの民の罪は赦され、神の前に出て礼拝することができたのです。このように大祭司は、神様と民との間に立って、民の礼拝を成り立たせるための執り成しをしたのです。しかし、大祭司自身も完全ではなく、罪の贖いのためにささげる動物のいけにえも完全なものではありませんから、完全な罪の贖いを成し遂げることはできなかったのです。

 今日の聖書では、神の御子イエスがこの大祭司であると言われています。神の子イエス様が人となって来てくださいました。イエス様は、神なる方ですから、完全に罪のない方です。そのイエス様が、御自身を完全ないけにえとしてささげてくださいました。それによって、神様と私たちの間を阻んでいた罪の問題が完全に解決され、神様と私たちの関係が完全に回復され、私たちは、聖なる者として、恐れることなく神様の御前に出ることができるようになったのです。イエス様こそ、まことの大祭司なのです。イエス様だけが大祭司としての役割を全うすることができる方なのです。神様と人との間をとりなし結びつける仲介者の役割を完全に成し遂げることができるのは、イエス様だけなのです。

「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。」(4:14)

  <もろもろの天を通過された>という表現は、旧約の大祭司が聖所の幕を通って至聖所に入られたことと対比して、イエスの場合は、地上の聖所の幕ではなく、もろもろの天を通過された偉大な大祭司であることを言い表しています。当時、「天」は、何層にもなっていると考えられていました。つまり、神と人との間には、何層にもなっている天があると考えられていたのです。しかし、神の子イエス様が、神様のもとから、もろもろの天を通って私たちのもとに下って来てくださり、私たちのために十字架にかかってくださいました。そして、よみがえって、もろもろの天を通って神様のもとに上って行かれ、神の右の座について大祭司の務めを果たしておられるのだというのです。このイエスは、「人々のために執成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことが」おできになる方です(同7:25)。ヨブ記に出てくるヨブも、「わたしのために執り成す方、わたしの友、神を仰いでわたしの目は涙を流す」(ヨブ記16:20)と仲保者イエスを待ち望んでいました。

  すべての人間の罪を贖い、救うための大祭司である神の子イエスが、わたしたちに与えられているのだから、この「イエスは神の子である」という<信仰をしっかり保とう>ではありませんか、と今日のみことばは勧めています。

「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(4:15)

 この大祭司イエスは<わたしたちの弱さに同情できない方>ではありません。<わたしたちの弱さ>とは、肉体的な弱さや、病気、道徳的な弱さ、宗教的な弱さのすべてを含んでいます。<同情>するとは、「共に苦しむ」という意味の語が用いられており、他者の苦しみの中に自らも入り込み、その苦しみを自分の苦しみとして負う、という意味です。イエス様は、上から「かわいそうに」と見ている方ではなくて、私たち一人一人の弱さ、悲しみ、苦しみを、一緒になって味わわれ、一緒に背負ってくださり、私たちの祈りを御自分の祈りとして一緒に神様に祈ってくださる、そういうお方なのです。天におられたキリストが、肉体をとってイエス様としてお生まれになってこの地上を歩まれたということは、私たちと共に苦しむため、私たちの苦しみを御自分の苦しみとして引き受けるためだったということなです。イエス様は、神の御子であるのに、私たちと同じ人となって私たちのもとに下ってきてくださり、私たちと同じように試みに会われました。罪を犯さないということ以外は、すべて私たちと同じようになってくださったのです。それどころか、私たち以上の苦しみを経験されました。裏切られ、誤解され、むごたらしい十字架につけられ、想像できないほどの痛みを味わわれたのです。だからこそ、イエス様は、私たちの痛みも悲しみも弱さも理解し、私たちの立場にたってとりなしをしてくださるのです。

 「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」(4:16)

 <恵みの座>とは、旧約聖書では、神殿の至聖所に置かれた契約の箱の蓋を意味しました。そこは償い(贖い)の座と呼ばれました(ヘブライ9:5)。箱の中には掟(十戒)の石の板が納められ、箱の上には一対の黄金のケルビムが顔を償いの座に向けて、向い合って置かれました。ケルビムはケルブの複数形で、人面または獣面」で翼をもった旧約聖書の天使的存在で、神の玉座や聖なる場所を守護すると信じられていました。神は箱の蓋の贖いの座の上から臨み、アロンや大祭司に語りました(出エジプト記25:17ー22)。

  しかしここで言われている「恵みの座」は、神であられる主イエスが座ったおられる場所を指します。ちょうど一人一人のキリスト者が祭司が聖所に近づくように、天の聖所に近づくように勧められているのです。だから、イエスさまを信じ、その憐れみにすがり、恵みを受け、イエス様におりにかなった助けをいただくために、大胆にイエス様に近づこうと、呼びかけているのです。

 14節に「偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから」とあります。「イエスが与えられているのですから」と訳されている言葉は、直訳すると「イエスを持っている、有している」となります。イエス様が聖霊として私たちの内に住んでくださっているので、私たちは、どこにいても、イエス様と共にいて、イエス様と親しく語らい、赦しの恵みを味わい、助けを受けることができるのです。

  パウロは、ガラテヤ2章20節で「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」と記しています。私たち一人一人の内にキリストが生きておられるのです。

 「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(コリント一、6:19-20)わたしたちのうちに大祭司イエスがおられる恵みを覚え、神の栄光を現す者となりましょう。 

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「キリストに仕える喜びと苦難」 コロサイの信徒への手紙1章21~29

2018-09-23 11:48:48 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

    日本福音教団 富 谷 教 会   週 報

 年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

    聖霊降臨節第19主日 2018年9月23日(日)    午後5時~5時50分 

                                礼 拝 順 序

                                                司会 佐藤 洋子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 219(夕日落ちて)

交読詩編   43(神よ、あなたの裁きを望みます)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)コロサイの信徒への手紙1章21~29(p.368)

説  教  「キリストに仕える喜びと苦難」辺見宗邦牧師 

祈 祷                 

讃美歌(21) 483(わが主イェスよ、ひたすら)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

                                       次週礼拝 9月30日(日) 午後5時~5時50分

                                       聖 書  ヘブライ人への手紙6章4~12

                                       説教題  「執り成し」

                                       讃美歌(21) 155 336 24 交読詩編103篇

 

              本日の聖書 コロサイの信徒への手紙1章21~29

   1:21あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。 22しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。 23ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。 24今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。 25神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。 26世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。 27この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。 28このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。 29このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。

                   本日の説教

   コロサイの町は、ローマ帝国のアジア州に属するフリギア地方にあり、エフェソ(現在名はエフェス)より東200キロほど内陸部にあり、東方に向かう主要道路に面していたことと、毛織物の産地であったことで栄えていましたが、パウロの時代は、小さな町になっていました。

    コロサイは、現在のトルコ共和国の壮大な石灰棚で世界遺産となっているパムッカレ(綿の城の意)の近くにあるメアンダ―ル川の支流のリュコス川の南岸にあった町で、そこより17㌔下流には、黙示録に出てくる七つの教会のうちに数えられているラオディキヤの町があり、15キロほどのところにはヒエラポリスの町もありました。

    イエスの福音がコロサイを含むアジア州に広まったのはパウロの第三伝道旅行(紀元53~56年)の途中、パウロがエフェソに約2年滞在中のことです。(使徒言行録19章1、10節参照)。コロサイ出身の異邦人エパフラスがパウロの伝える福音をエフェソで聴いて信仰に入り、パウロの協力者となったエパフラスが、コロサイに福音を伝えました(コロサイ4・12以下)。コロサイの信徒たちはユダヤ人ではなく異邦人が多数を占めていました。このように、コロサイやラオディキア、ヒエラポリスなどへは、エフェソからパウロの仲間たちが出掛けて宣教したようです(コロサイ4・13)。また、おそらくエフェソ出身のティキコやオネシモをパウロはコロサイに遣わし、教会の事情を報告させています(4・7、9、使徒言行録20・4)。パウロはコロサイには行ったことがないように思われるのは、次のような文面から予想されます。「わたしが、あなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人々のために、どれほど労苦して闘っているか、分かってほしい。」(2・1)

  コロサイの伝道は、エパフラスによってなされたことは、次の文面から読み取れます。「あなたがたの一人、キリスト・イエスの僕エパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼はあなたがたのが完全な者となり、神の御心をすべて確信しているようにと、いつもあなたがたのために熱心に祈っています。わたしは証言しますが、彼はあなたがたのため、非常に労苦しています。」(コロサイ4・12~13)

 コロサイ書は、フィリピ、フィレモン、エフェソ書とともに、パウロの獄中書簡と呼ばれています(コロサイ4・3、10、18)。従来、投獄されていた場所として、ローマ、カイサリアが想定されてきましたが、エフェソで約二年いた間(53~54年の前後)に投獄されたとする説が有力です(コリント一、16・8)。しかし、手紙の文体や語彙や表現形式などと、思想がパウロの真正な手紙ではないとし、パウロの死後に弟子によって、おそらくエパフラスか、あるいはテモテ(1・1)によって、80年代に書かれたと推察されています。

  エパフラスは、コロサイのキリスト者たちのキリスト・イエスに対する信仰と、すべての信徒に対する愛を、エフェソで捕らわれの身となっているパウロを訪ねて知らせたのでしょう。パウロはそれを聞いて神に感謝しています(1・3~8)。しかし同時に、この教会は異邦人が多かったので(1・27、2・13)、欲望を欲しいままにする異教の習慣に逆戻りする危険性がありました(3・5~11)。そこで、パウロは道徳的にすぐれたキリスト者の生活を具体的に教える必要がありました(3・12~4・1)。

  更に、コロサイの教会に、キリストの信仰を危うくするような異端的教えが入ってきたので、パウロは黙しきれず筆をとったのがコロサイ書です。パウロは、「あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」(1・23)、また、「人間の言い伝えに過ぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい」(2・8)と警告しています。

 この異端はユダヤ教の律法遵守と関係があったらしく、割礼や食べ物についての禁止規定、祭り、安息日を強調する点ではユダヤ的です(2・11、16)。また「天使礼拝」や「幻を見る」といった神秘主義的傾向があり(2・18)、哲学的な議論をし(2・8)、「手をつけるな。味わうな。触れるな。」(2・21)といった霊力としての律法的規定を神聖視して、その束縛の下に立っていたのです。「汚れ」や「不完全さ」を克服しようとして、からだを敵視した不自然な生活や修行・禁欲を行い、それをもって天に至る準備とすることは、しばしば、底知れない傲慢と利己主義をはぐくむ霊性や宗教となる危険を手紙は警告しています(2・18、23)。

 パウロはこうした霊力を信じる信仰の間違いであることを示すために、キリストは御使いも含めたあらゆる被造物の上に立つ方であって、創造に関与し、被造物を支えておられ(1・15~17)、キリストこそ宇宙の安定と調和の基礎であることを説き、彼こそ天への唯一の、神から遣わされた仲介者であることを信じて、高らかに歌い励ましています(1・15以下の賛歌)。

 また御子・キリストは、その体である教会の頭であり(1・18)、初めの者、死者の中から最初に生まれた方であり、神は十字架の血によって、万物をただ御子によって和解させられたのであり、神はあなたがたと御子の死によってて和解し、聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました(1・22)、とパウロは説いたのです。そして、このキリストを信じて救われている信徒が、今更他の諸霊力を崇拝し、また律法の規定に従うべき理由がないことを教えています(1・13~3・4)。

  今日の聖書の箇所から、みことばをいただきましょう。

 「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。」(1・21-22)

 パウロはここまでキリストのみわざについて語りましたが、ここではコロサイの信徒たちを、「あなたがたは」と名指しして、福音に生かされる以前の生き方を思い起させています。以前は神から離れた生活を送っていた過去の事実と、現在の福音に生かされている生き方とを、対比しています。その過去の状況から解放されて、<聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者>としてくださったのは、キリストの苦難と死によってもたらされたものであることを思い起させます。私たちも同じ状況にあります。

 「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。」(1・23)

  <揺らぐことなく信仰に踏みとどまる>ようにとの勧告は、明らかに建築のイメージからきています。信仰は神の真実のうちにふみとどまることです。ここに福音の望みがあります。あなたがたが聞いたこの福音の希望から離れてはならないと励まします。この福音はすべての人のためのものであり、世界中に宣べ伝えられており、この目的に仕えるためにパウロは神から与えられたすべてをの力を用いて労するのです。

 「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」(1・24)

  パウロは<今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし>と言い、コロサイの信徒たちのための苦難が、福音に仕える使徒としての活動にとって必然であり、喜びであると言います。<キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています>の文章は、さまざまな解釈がなされています。それはキリストの苦難にまだ欠けたところがあって、パウロが補わなければならないということなのか、キリストのために苦しむということなのか、あるいは、神秘的にキリストに一致したパウロの経験したキリストの苦しみのことなのでしょうか。十字架における御子のあがないと和解のわざはそれだけで完全であって、もはやなんの補足も必要としない一回限りですが、それを分け与え伝える聖餐は繰り返し行われるように、使徒は自らもこの一回限りの贖いの業にあずかりつつ、これを宣教し、今もなおこの務めを果たしており、もろもろの苦しみを受けながら、キリストの贖いの苦難を証ししているのです。キリストの救いの業と共に、使徒の働きは、人々をキリストの前に全き者として立たせることを目指す(1・22)宣教です。

 「神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。」(1・25)

  パウロは、<御言葉ををあなたがな伝える>という務めを神から与えられたことによって、キリストの体である教会に仕える者になったと、使徒としての抱負と使命を述べます。

 「世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。」(1・26-27)

  パウロは神の言葉である<秘められた計画>(奥義)に従って、その計画を異邦人たちに明らかにし、実現するために仕える務めを神に託されました。<秘められた計画>とは、神の御心のうちに隠されている将来の出来事ではなく、今、異邦人に与えられている<栄光に満ちた>神の働きです。それは<あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望>です、とあるように、<わたしたちの内におられるキリスト>、<わたしたちの内に>住んでくださる<キリスト>こそがわたしたちにとって、栄光に満ちたものであり、栄光の希望なのです。

  「このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。」(1・28-29)

  <このキリスト>をパウロたちは宣べ伝えており、<すべての人がキリストの結ばれて完全な者となるように>、使徒はすべてのひとりひとりの人を訓戒し、教えています。使徒自身は、<わたしの内に力強く働>いておられる方、キリストの力によって、それも<苦闘しながら>その務めを果たしています。それだからこそ、からだの苦難も、使徒にとっては喜びのしるしであり、与えられた使命を確かなものにしているのです。。

 私たちが救われたのは、私たちが立派で善い行いを積んだからではありません。私たちは「かつては悪い行いをして神から離れ」(21節)ていた者でした。しかし、神様は、このような私たちのために御子を死に渡し、贖うことで赦し、神様と和解させてくださったのです。それは私たちを「聖なる、傷のない、責められるところのない者」(22節)として神のみ前に立たせるためです。それは御子イエス様がわたしたちの内に住んでくださることによって実現します。この救いの恵に預かった私たちは、ゆるぐことがなく、しっかりと信仰に踏みとどまり、人々の救いを願って宣教することが求められています。獄中でこのように記したパウロは、口先だけで愛するのでなく、身をもってキリストのからだなるコロサイ教会のために、喜んで様々な苦難を引き受け、主に仕えました。

 パウロは自分の経験している苦しみを「キリストの苦しみのなお足りないところ」を自分の体をもって補っていると言います。パウロが命がけで伝えていたのは今まで長い間隠されていたが、いまや明らかにされた奥義でした。それは、まさにキリストを指し示すものであり、このキリストが私たちのうちにいてくださる、住んでくださるということです。私たちも、わたしたちのうちにいてくださるキリストの力強い働らきをいただいて、それぞれに与えられている使命を成し遂げましょう。

 

 

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「世を救うキリストの愛」 1コリント13章4~8、13節

2018-09-17 23:02:11 | キリスト教

     老人養護施設でのミニ礼拝と聖餐」

讃美歌(21) 194(神さまは、そのひとり子を)

主の祈り   93-5、

新共同訳聖書 1コリント13章4~8、13節

説  教    「世を救うキリストの愛」 辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌   484(主われを愛す)

聖餐式(21)  78(わが主よ、ここに集い)

感謝祈祷

祝祷

       本日の聖書 

 13:4愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。5礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。6不義を喜ばず、真実を喜ぶ。7すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。8愛は決して滅びない。……13それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

    説 教

 13章1節から3節にかけて、使徒パウロは、「もし愛がなければ」、どんなすばらしいことを実現しても、その人の生涯は無益だ、と断言します。コリントの教会の人々が誇っていた霊の賜物も、愛がなければすべて無に等しいと、断言するのです。愛が伴うことによって、すべての霊の賜物は正しく用いられるのです。

  ここには、真実の愛とはどのようなものか、またどのようなものでないかが教えています。最初にあげた二つの愛の性質は、「忍耐強い」と「情け深い」です。この二つの愛は、パウロがキリストを通して知った愛を表しています。「神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことを知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのか」(ローマ2:4)とパウロが言うように、父なる神の愛であり、御子キリストの愛です。

 <忍耐強い、情け深い>とは、人の言動に依って受けた害に対して、怒ることなく、あやまちを責めず、優しいおもいやりと好意的な態度で接し、相手が自分の悪いことに気づくことを根気よく待つという寛大さを意味しています。

ちょとしたささいなことが、愛が欠けているために、過大視されてゆるしにくいものになってしまうことがあります。

このような場合は、神がキリストを通して私たちに示された深い愛を思うべきです。神の忍耐と慈愛は、神のさばきに価いする者に対して怒りをもってのぞむのを控え、満ちあふれる慈愛を注ぐのです。このキリストの忍耐と愛に満たされて、キリストの愛の心をもって、人々に接するのです。「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても(不満をいだくことがあっても)、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。…愛を身につけなさい」(コロサイ3:13)とパウロは勧めています。神の赦しと愛を体験している者として、私たちはこの神の慈愛に応えて人々に情け深い者となりましょう。

 <ねたみ>は、他人に対してどこまでも自己中心的な関心をよせます。<ねたみ>は、人の心の奥底に潜む最も醜い罪です。<ねたみ>は自分よりすぐれたり、恵まれたりしている者に対して、うらやみ、くやしがり、憎らしく感じます。人をうらやむねたみは、分裂と争いに引き起こしてしまいます。コリントの教会内で起きた党派争いの原因も「ねたみ」でした。<ねたみ>は他人を傷つけ、自分の霊性と人格を低下させます。

どのようにしたなら、ねたみに対して打ち勝つことができるのでしょう。神の愛、キリストの愛が、ねたみに打ち勝つのです。キリストの愛は自己放棄的な愛です。キリストは、御自身を捨てられてすべてを私たちのために与え尽くされました。私たちが、もしこの与え尽くす愛に満ちあふれているなら、ねたみは私たちの心に入る余地はありあせん。なぜなら、ねたみは自分よりすぐれたり、恵まれたりしている人からものを奪おうとする心が働くことに対して、愛は与えようとしては働くからです。愛は人をねたまないのです。「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」(ローマ12:10)というパウロのすすめを実践するなら、<ねたみ>の心は消えて行きます。「ねたみ」に打ち勝つのはキリストの愛であり、聖霊の働きによるのです。

 <自慢しない>は、実際以上に自己を良く見せようとしないことをいいます。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」(フィリピ2:3)なさいと、パウロは勧めています。

 <高ぶらない>は、自分よりも社会的位置の低い者に対して、差別し見下す態度をいいます。高慢は罪の根源であり罪の本質です。高慢(高ぶり)は、自我から生まれる心のおごりです。高慢が、ねたみと共に、コリントの教会の分裂の原因でした。

高慢に打ち勝つ道は、神の御前に罪を赦された者として、自分を低くすることです。そのとき、聖なる愛が心に満ち、高慢の心は、取り払われるのです。パウロは「罪人の頭である」という自覚を持っていました。

 <礼を失せず>は、実際は恥ずべき行い、ふさわしくない振る舞いをしないことです。相手を重んじ、礼儀に反しない行動をすることです。

<自分の利益を求め>ないは、「自分の益ではなく多くの人の益を求め>(10:33)るということです。利己主義でないことです。パウロは「だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」(10:24)と勧めています。

 <いらだち>は、感情的に激して怒りやすくなることです。自分の意に反するものの存在とか、中傷、悪口などによって感情が高ぶり、腹を立てて、興奮して気が荒くなることです。<いらだたない>は、急にかっとなって心の平安を失うようにならないことです。いらだちは短気の特徴です。人間の罪に対して主イエスは怒られましたが、個人的に悪口を言われたり、ののしられたりしたことに対しては怒られませんでした。

 <恨みを抱く>とは、自分に加えられた損害を数え挙げて他人を恨むことです。<恨みを抱かない>とは、人の悪を心の中にとどめず、執念深く考えず、赦し忘れることです。

 <不義を喜ばない>とは、神の正義を喜び、不義と邪悪を排してすべてのことに耐えぬく生き方です。主イエスの不正を喜ばない態度は、私たちの不義をあがなうために、身代わりとなって十字架の処刑を受けて死んで下さったことによって、最もよく表れています。

 <愛は真実を喜ぶ>とありますが、<真実>は原語ではアレセイア(真理)と言う意味の語です。「真理に歩んでいる人がいるのを知って、大変うれしく思いました」(ヨハネの手紙三、4)とあります。キリストの教えに従って、愛に歩むことが、真理に歩むことです。<愛は真実を喜ぶ>とは、愛を擬人化していますが、愛は私たちが愛に歩むこと、すなわち、真理に歩むことを喜ぶのです。

 愛は、「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」とあります。徹底的に自分を捨て、他人のために生きる姿がえがかれています。ここにはキリストの示す愛がえがかれています。

 「愛は決して滅びない」とは、真実の愛は永遠である、ということです。

終末到来までの間、いつまでも存続し続けるのは信仰と希望と愛です。愛が三つの中で最も大いなるのは、啓示の賜物と違い、また信仰と希望とも違い、永久に持続するからです。信仰と希望は、神から与えられた人間の特質です。しかし愛は、「神は愛です」(ヨハネ一、4:16)とあるように、神の本質であり、永遠性を有するのです。私たち、キリスト者の愛は「神から出るのです」(同4:7)。神が永遠に生きておられるので、愛も永遠に存続するのです。人生で最も偉大なものは愛なのです。パウロは愛がすべてのものの基礎にあること、<最高の道>であることを私たちに教えています。

 キリストによって示された愛こそが私たちに必要であり、この愛を、家族も、この世も求めていることを知らなければなりません。この愛に欠けるために、多くの不幸な出来事が起こっているのです。マザー・テレサが私にくださった手紙には「すべては御祈りすることから始まります。愛を神様に求めることがなければ、わたしたちは愛の心を持つことが出来ません。」と書いてあります。私たちは、世を救うキリストの愛を人々に伝えなければなりません。

 讃美歌21の512番「主よ、捧げます」の4節にあるように、主に、私の愛も、知恵も力も、宝も、すべて献げましょう。私のうちに、あなた(イエス様)に住んでいただき、みむねのままに、用いていただきましょう。私のうちに、イエス様に住んでいただくなら、これにまさる恵みは何もありません。心のうちにイエス様に迎えて住んでいただくなら、神を愛し、隣人を愛する満ちあふれる愛に満たされるのです。

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「大祭司イエスによる永遠の救いの完成」

2018-09-14 22:04:35 | キリスト教

    日本キリスト教 富 谷 教 会   週 報

 年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

      聖霊降臨節第18主日  2018年9月16日(日)     午後5時~5時50分 

                        礼 拝 順 序

                                                司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 288(恵みにかがやき)

交読詩編   96(新しい歌を主に向かって歌え)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)ヘブライ人への手紙9章23~28節(p.411)

説  教  「大祭司イエスによる永遠の救いの完成」 辺見宗邦牧師

祈 祷

聖餐式    72(まごころもて)  

讃美歌(21) 513(主は命を)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

               次週礼拝 9月23日(日) 午後5時~5時50分

               聖 書  コロサイの信徒への手紙1章21~29

               説教題  「苦難の共同体」

               讃美歌(21) 219 483 24 交読詩編43篇

  本日の聖書 ヘブライ人への手紙9章23~28節

9:23このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません。 24なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。 25また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。 26もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。 27また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、 28キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。

     本日の説教

 ヘブライ人への手紙という名称から、ヘブライ人に宛てられた手紙となっていますが、ヘブライ人とは、ユダヤ人を指す古い呼び名です。しかし必ずしもパレスチナのユダヤ人キリスト者たちではなく、13・24の<イタリア出身の人たち>という句からイタリアないしローマの地域のユダヤ人キリスト者を予想させます。迫害に際しての忍耐をすすめている点どから、おそらく離散したユダヤ人キリスト者たちがいるローマの集会に宛てて書かれたものと見る見方が有力です。ローマではユダヤ人信徒と異邦人信徒が混在していました。<ヘブライ人への手紙>という名称は、後になってから、その内容から察してつけられた名です。いきなり本文で始まるので、手紙よりも論説や説教のようなものです。  

 この書は、長い間パウロの書簡とされてきましたが、近代の研究では、バルナバ(キプロス島出身のユダヤ人)やアポロ(アレキサンドリア出身のユダヤ人)、プリスキラ(ローマを退去してコリント、そしてエフェスに移住したアクラの妻で、ポントス[現在のトルコの黒海に近い町]生まれのユダヤ人)といった人物を著者とする説が有力ですが、明らかではありません。

 著者は旧約聖書に深い理解をもち、教養の高い、ギリシア語を用いる外国に住むユダヤ人であると思われます。著者はテモテを知っており(13・23)、パウロの信仰を継承しています。執筆年代は、ネロの迫害(64年)の経験が言及されていますし(10・32~34)、しかも新たな迫害[ドミティアヌ帝(在位81~96年)の迫害]が近づき、再臨の希望が失われ、聖霊の働きもあまり見られないところから、一世紀末が考えられ、80~90年頃と推定されます。執筆の場所としては、エフェソあたりが最も可能性が高いとされています。

 執筆の事情については、次のようなことが考えられます。宛先の教会の人たちが、信仰に入った初めの頃は<苦しい大きな戦いによく耐えた>(10・32)のですが、その後の信仰生活の中で、彼らの中には、集会から離れ(10・25)、異なった教えに迷わされ(13・9)、みだらな生活に陥る(13・4)者たちも出たので、このような危機的な状況を知った、かつてこの集会の指導者であった著者が、新たな迫害に備えて、この勧告の手紙を書き送ったと推定されます。

 ヘブライ人への手紙は、最後の添え書きを別にすると、三つの主要な勧告(説教)から成り立っています。第一部は「神の言葉に聞き従おう」(1・1~4・13)、第二部は「信仰告白をしっかり守り礼拝に励もう」(4・14~10・31)、第三部は「イエスを仰ぎ見つつ忍耐をもって走り抜こう」(10・32~13.21)と信仰者の忍耐を説く勧めになっています。

 今日の聖書の箇所(9章23~28節)は、キリストの十字架の死は、わたしたちの罪をあがなう唯一のいけにえであることを教えます。この箇所に至るまでの各章のキリストについての主な記事をとりあげてみましょう。

 1章では、神の御子は「人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きにならました」(1:3)と地上における大祭司の役目を果たした御子をたたえています。

 2章には、「『天使たちよりも、わずかな間、低い者とされた』イエスが、死の苦しみのゆえに、『栄光と誉れの冠を授けられたのを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです』」(2:9)とあります。神の御子であられたイエスが人となられて地上に間になされた十字架の死について語っています。

 3章では、イエスはモーセよりもまさることが語られ、わたしたちが告白している「使者であり、大祭司であるイエス」(3:1)に目を向けるべきことが告げられています。また、旧約の荒野の民が神の言葉に従わず安息を得ることが出来なかった例をあげて訓戒します。

 4章では、この安息にあずかるように努力しましょう(4:11)、と勧め、「もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えたれているのですから」、信仰をしっかり保ちましょうと勧めています(4:14)。

 5章では、旧約における一般の大祭司たる者の資格が述べられます。イエスにおいてもその資格が満たされたことが述べられます。イエスが神によって御子および大祭司として任命されたこと、自ら人間的苦難を経験され、父なる神への従順を学ばれたこと、こうして完全なものとなって、イエスはメルキゼデクの位に等しい大祭司に任命され、永遠の救いの源となられた(5:7-10)ことが語られています。

 6章では、キリストによって与えられている救いの希望がどれほど確かなものであるかを船の<錨のようなもの>であると説明します。それは「イエスがわたしたちのために先駆者として」至聖所に入って行き、「永遠のメルキゼデクと同じような大祭司となられた」ことによって与えられた(6:19-20)と説明します。

 7章では、メルキゼデクについての説明がなされます。「メルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福し」(7:1)たことが語られています。これは創世記14章18-20節の記事によります。詩篇110:4では、神の子がメルキゼデクになぞらえられています。本書では、メルキゼデクは「神の子に似た者であって、永遠の祭司です」(7:3)と言われています。

  律法では、アブラハムの子孫のレビ族の中から大祭司を任命しますが、祭司たちには、死があるので、多くの人たちが後継者として任命されます。しかし、イエスは神の誓いによって保証された、永遠に完全な者とされている大祭司なので(7:28)、「御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできに」(7:25)なる、と述べられます。

 8章では、大祭司である御子は、天の父なる神の右の玉座に着き、「人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられる」(8:1)と語られます。祭司たちは、「天にあるものの写しであり影であるものに仕えており、そのことはモーセが幕屋を建てようとした」ときも同じで、神に示された型どおりに作ったのです、と言っています(8:5)。「しかし、今、わたしたちの大祭司」は、「更にまさった契約の仲保者になられたのです」(8:6)と述べます。

      

     

 〔門〕東に一箇所あるのみ。礼拝する者はだれでもこの門を通らなけれならなかった。神の唯一の門(ヨハネ10章9節)。

②〔大 庭〕                                  a. 祭 壇  門を入った前庭の中央にはいけにえの動物を焼くための祭壇があった。ここでは、毎日絶やすことなく、朝と夕に若い雄牛のいけにえがささげられた。また礼拝する人々はこの祭壇に置くいけにえを持って来なければならなかった。

b. 洗 盤  幕屋で仕える祭司たちが奉仕する前に身をきよめるために、この水を浴び、手を洗った。

③〔聖 所〕                                                a. 聖所の入り口の幕  祭司たちは毎日聖所の入り口の幕を通って、聖所での務めをした。一般の人が中に入ることはできなかった。⇒へブル10章19節。

b. パンの机  イスラエルの12部族を表わす12のパンが、神の恵みに対する感謝として、また神こそ民のすべての必要を備えてくれるという信仰のあかしとして、絶えず神にささげられた。ヨハネ6章35,48節。

c. 燭 台  純金でできた豪華な燭台。窓のなかった聖所の明かりのすべてをこの燭台にたよっていた。しかもその燃料となるオリーブ油は上質なものが用いられた。⇒ヨハネ1章9節、8章12節。油は聖霊を象徴する。

d. 香 壇  聖所の中は、毎朝、毎晩、かおりの高い香がたかれた。⇒とりなしの祈り  ヨハネ17章9節、へブル4章14~16節、Ⅰヨハネ2章1節。

e. 垂れ幕 聖所と至聖所とを仕切っている隔ての垂れ幕。そこには神の臨在の象徴であるケルビムが織り出されていた(創世記3章24節)。垂れ幕を通ることなしに至聖所に入ることはできなかった。⇒神と人との隔てが裂かれた。マタイ27章51節、へブル6章19~20節、同10章20節。

④〔至聖所〕                                           a. 契約の箱  神がまず造るように命じたのはこの箱であった。この箱の中には十戒が刻まれた石の板、マナの入った金のつぼ、芽を出したアロンの杖である。この契約の箱こそ、イスラエルの中心をなすものであった。

b.贖いのふた  契約の箱のふたの両端には二つの金のケルビムが置かれ、その翼は広げられてふたを覆っていた。年に一度だけ、大祭司のみが至聖所に入り、ふたに血を塗ってイスラエルの民の罪の贖いをなした。ふたの上に主の臨在があり、神はそこから語りかけられた。 へブル9章12節、同10章19節参照。

 9章では、著者は最初の契約のもとでの地上の聖所と、新しい契約のもとでの天の聖所を比較して、後者のすぐれていることを主張します。キリストは、「人間の手で造られたものではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです(9:12)。キリストの貴い血がわたしたちの良心を清めて「生ける神を礼拝するようにさせ」ることを告白します(9:14b)。十字架におけるキリストの犠牲が、動物の犠牲の不完全さに比較して完全なものであることが示されています。ここに、神と人との新しい契約関係が、キリストを仲介者として初めてその効力を発揮したと、著者は記します。キリストの十字架の死が、人類の罪を代わって引き受け、自身に負いたもうことを教えます。新しい契約の確立がキリストの血を必要とする理由を述べます。罪の赦しは血を流すことなしにはありえないことを、説いています(9:22)。死をもって罪をつぐなういう事よりも、むしろ聖潔な血をもって神に自己を献げることが「命の贖い儀式」(レビ記17:11)でした。主イエスはすべての人に代わって、「御自身をきずのないものとして神に献げられました」(9:14a)。

  ここからが、本日の聖書の箇所です。

 このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません。なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。」(9:23-24)

  <天にあるものの写し>である地上の聖所とそれに属するものは、動物の血によって<清められねばならない>ことを、著者は認めます。しかし動物の血では、心の中の汚れをとり除くことはできません。天の聖所は動物の血よりも<まさったいけにえによ>らねばなりません。かつて大祭司はただ写しに過ぎない地上の聖所で、神の現臨の象徴である香の煙の前に立ったのだが、キリストは天の聖所に入られたのです。今やキリストはわれわれの罪の犠牲として現実に<神の御前に現れてくださった>のです。

                                  

 「また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。 もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。」(9:25-26)

  旧約の大祭司が年ごとに、したがって度々、自分のものでない血を携えて聖所に入るように、新約のキリストはそうなさったのではありません。もしそうであれば、キリストは世の初めから、度々苦難を受けねばならなかったでしょう、著者は仮定して言います。ところが実際は、この新約の時代、キリストはただ一度限り、御自身をいけにえとして献げて、わたしたちの罪を取り除くために、歴史の中に誕生された、と著者は説きます。

 「また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。」(9:27-28)

 一度限りの人生ということが、人間の死と死後の審判という面から述べます。キリストは死に勝利し、最後の審判を受けることもないのだが、キリストにとっても死は新しい存在に至る入口を意味します。キリストがかつて地上に来られたのは、<多くの人の罪を負うため>でした。それは<ただ一度>十字架の出来事で完成したのです。キリストの犠牲は一度限りでくり返しません。ただ自分を待ち望んでいる人々に<救いをもたらすために>再び来られます。キリストの十字架を信ずる者にとって、最後の審判は救いの完成の時なのです。キリストの再臨の待望がキリスト者の信仰を励まします。

 キリストは大祭司として天の至聖所に入り、自らを犠牲として献げられたことにより、わたしたちの罪は清められ、永遠の救いが完成しました。キリストはその死によって人々が天の聖所に至る道を開かれました。現在キリストは天にあって、人々のためにとりなしておられるのです。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」(4:15-16)

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「神の恵みに応える献金」 2コリントの信徒への手紙9章6~15節

2018-09-08 18:46:51 | キリスト教

       ↑ 貧しいやもめの献金(ごくわずかの金)ルカ21章1-4節

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

       日本キリスト教 富 谷 教 会   週 報

 年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

     聖霊降臨節第17主日  2018年9月9日(日)    午後5時~5時50分 

     礼 拝 順 序

                司会 佐藤 洋子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  16(われらの主こそは)

交読詩編  112(ハレルヤ。いかに幸いなことか)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)2コリントの信徒への手紙9章6~15節(p.335)

説  教   「神の恵みに応える献金」 辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 512(主よ、献げます)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

                                  次週礼拝 9月16日(日) 午後5時~5時50分

                                  聖 書  ヘブライ人への手紙9章23~28節

                                説教題  「キリストに贖われた共同体」

                                讃美歌(21) 288 513 24 交読詩編96篇

   本日の聖書 2コリントの信徒への手紙9章6~15節

9:6つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。7各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。8神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。 9「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。10種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。11あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。12なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。13この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。14更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。15言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。

                 本日の説教

 コリント(現在名はコリントス)というギリシアの都市は、アテネ(現在はギリシアの首都)から西南約78キロにあるペロポネソス半島にある都市で、アドリア海とエーゲ海の二つの海に面し、それぞれに港を持つ、通航の要衝であり、商業都市として重要でした。

 コリントは古代ギリシャの都市でしたが、紀元前146年にローマ人によって破壊され、百年近く廃墟になってていました。ローマ共和制時代(B.C.509~44年)の最後の独裁官ユリウス・カエサルによって、紀元前46年にローマの都市として再建されました。ローマ帝国時代(B.C.27~)に、コリントはローマの植民地として再建され、ローマ領土アカイア州(北部を除いた現在のギリシ全土)の首都でした。この地は多種多様な人々が行き交う自由の空気の支配する文化的中心地でもありました。コリントはギリシャ最大の港町で、そこにはかなりのユダヤ人が住んでいました。しばしばコリントは放縦な町と言われますが、それは古代のギリシャの都市の時代のことのようです。

 パウロがこの地を訪れたのは第二回宣教旅行の時で、紀元49年から51年にかけて一年六か月にわたり滞在し、宣教と教会形成にあたりました。コリントでユダヤ人夫婦、アキラとプリスカとの出会ったことは、彼らが皮テントを作る職人で、パウロと同業者であり、熱心なキリスト教徒になったことで、パウロの伝道活動の大きな支えとなりました。教会はまれにみる成長を遂げました。

 コリントの手紙一は、第三伝道旅行中、エフェソに約二年滞在中、パウロが種々の具体的問題の質問に答えた手紙で、おそらく西暦53年から55年に書かれました。

 第一の手紙を送ってから約一年半位い後、テトスの報告を聞いて書き送ったのがコリントの手紙二です。手紙二はマケドニアか、トロアスかで、56年か57年ごろ書かれたものと推定されています。この手紙は、コリントの手紙一とは違って、パウロが経験した苦しみと喜びを中心として、教会に対し自分の使徒職を説明し、擁護し、弁明するために書いた手紙です。パウロは、他のどの手紙よりも、あからさまに詳しく自己を語っているので、パウロがどのような人物だったかをよく知ることができます。

 この手紙二の1章1節には、手紙の差出人、すなわちこの手紙を書き送るのは、「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロ」と記されています。「使徒」とは、「使者、特別な使命を帯びて派遣された者」という意味です。

   1章12節から6章までは、自分に与えられた使徒職の崇高さと偉大さとを論じ、自分が受けた神秘体験を語りました。この手紙は一度に書かれたものではなく、少なくとも複数の手紙を、パウロの死後、コリントでだれかが保存するために、一緒に組み合わせた手紙と思われています。「10章~13章」の部分が、2章4節で言及されている、いわゆる「涙の手紙」の一部ではないかと考えられます。この手紙は、56年か57年頃、マケドニアで書かれたものと推定されています。

     7章では、パウロはコリントの教会の悔い改めを喜びました。7章の終わりには、「わたしは、すべての点であなたがたを信頼できることを喜んでいます。」と記しています。

   8章と9章は、彼らとの信頼関係を確認したパウロは、エルサレム母教会の困窮している信徒に対する「経済援助」に関する文章です。その援助は貧しさを和らげ、また教会の一致のために役立たせようとするものでした。

   パウロは、コリントの信徒たちへの勧めにさきだち、マケドニアの諸教会(フィリピ、テサロニケ、ペレア)の実情を知らせます。それは、「マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵み」(8章1節)です。この「恵み」とは、諸教会が行った「惜しまず施す豊かさ」を指しています。この施しの実践は、くるしい義務の遂行ではなく、霊的賜物と同じように、神がなしてくださった「神の恵み」の業なのです。

 8章では、主イエス・キリストの模範を引いて(9節)、貧しい兄弟たちを自発的に援助すべき動機を示したパウロは、9章では、この慈善の業を、コリントの教会でもやり遂げるようにと勧めます。以前、コリントの教会の人々が約束した贈り物の用意を「渋りながらではなく、惜しまず差し出」してもらうためです(9:5)。

 「つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」(9:6-7)

 6節からは募金に対する最後の訴えで、献金する際の正しい精神について述べます。旧約聖書に出てくる思想を引用して、寛大に、気前よく施すことがいかに神の御心にかない、寄付をする本人の真の利益にもつながるものであるかを説得します。まず、献金を種まきにたとえて、まく種の多い少ないによって収穫の量もきまってくると言います。これと同じ内容は、箴言の11:24-25などにみられます。

 施しにあたっては、第一に、いやいや惜しみながらではなく、第二に、強制されてではなく自発的に、第三に、他人との比較ではなく自分の心にきめたとおりに、行わねばなりません。喜んで施す者を神は愛します。「喜んで与える人を神は愛してくださる」という文は、ギリシア語訳の箴言22:8に出て来ることばです。

 「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。」(9:8)

 寛大に、気前よく、喜んで寄付する人には、神が豊かに報いてくださるとパウロは言います。神の恵みは満ちあふれ、何の不足もなく、善き業にあふれさせてくださる。神には<おできになる>ということで、神がいつでもかならずそうなさるとは言っていません。功利的で、報酬めあてのみの慈善行為であってはならないからです。

 「『惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く』と書いてあるとおりです。」(9:9)

 9節の引用文は、詩篇112:9からのものです。「貧しい人々にはふるまい与え、その善い業は永遠に堪える」とあります。<彼>とは、「主を畏れる人、主に戒めを深く愛する人」(詩篇112:1)です。「いかに幸いなことか」とこのような人が祝福されています。

 「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。」(9:10)

 10節以下には、とくに施しの結果が記されています。それはまず、施す者に、豊かな報いを与えます。<種を蒔く人に>まく種を与え、自足して食する<パンを糧としてお与えになる>神は(イザヤ書55:10の引用)、施しをする者を、すべてにいよいよ豊かにしてくださる。<あなたがたの慈しみが結ぶ実>、という句は、ギリシヤ語訳のホセア書10:12から採られています。このことからも分かるとおり、パウロは旧約聖書をふんだんに引用して、気前のよい寄付について説明しようと務めているのです。

 「あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。」(9:11)

 あなたがたはすべてのことに富む者とされて、惜しみなく施すようになり、パウロたちの働きによって多くの人々が神に感謝をささげるようになります。

「ぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足していものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。」(9:12)

12節では、施し(献金)が、「奉仕」を意味する「レイトゥルギア」で表されています。この奉仕の働きは、聖徒の乏しさを満たす助けとなるばかりではなく、多くの人々がますます盛んに神に感謝をささげるようになります。

「この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。」(9:13)

 13節では、献金が「奉仕」という意味の「ディアコニア」という語で表されています。この奉仕が行われた実際に行われた結果、多くの人が神をあがめつつ神に感謝するでしょう。ここには奉仕の業のもたらす効果があげられています。すなわち、福音の従順な公言(これは「福音を公言することによって福音への従順を示す」という意味にも解釈されます)、神への賛美になるのです。献金の業が、福音に対する従順と福音の宣言にもつながり、神への賛美となるのです。

 「更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。」(9:14)

 献金を受ける彼らは、あなたがたの奉仕が、あなたがたに与えられた神のすばらしい恵みによるものであることを知り、あなたがたを慕い、あなたがたのために執り成しの祈りをするのです。施しは、与える者と受ける者との間に、神にある交わりを強めます。

「言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。」(9:15)

 このようなことはすべて神の恵みの賜物です。15節の<言葉では言い尽くせない贈り物>とは、「キリス自身」のことです。8章1節で、気前よく施すマケドニア州諸教会の慈善の業を、<神の恵み>として理解したパウロは、ここでも、コリント教会の献金の業を同じく<神のこの上なくすばらしい恵み>とみなして、感謝しているのです。善き業は、人間の功績ではなく、神の賜物なのです。

 なぜコリントの信徒がこの献金をしなければならなかったのでしょうか。ここでパウロが挙げた理由をまとめてみます。

1.   マケドニヤの信徒の例があったこと(8:1-5)

2.   神が喜んで献げる人に対して報いてくださること(9:6-7)。

3.   彼らのパウロに対する愛(8:7)。

4.   もし失敗するならば恥となること(9:4)。

5.   彼らの寛大な心によって神に感謝が献げられて、神が栄光をお受けになること(9:11-12)。

6.   異邦人キリスト者がユダヤ人キリスト者から霊的な益を受けたこと(ローマ15:27)。

 パウロは「献金」のことを、一度も、「献金」を意味する「ドーラ〔献金〕」(ルカ21:1)という語を用いることをしていません。この語は金銭を表す語です。パウロはこの語に変えて、6通りの語によって、金銭のこととしてではなく、献金を表現し、説明するのです。とかく金銭のことになるとは人は用心し、ケチになることをパウロは危惧したのでしょう。

1.「カリス」(8:6,7,19-訳文では〔慈善の業〕)。これ はもともと「恵み」の意味です。ここでは「献金」を意味する。

2.「ディアコニア」(8:4、9:1)。「奉仕」の意味です。

3.「ハドロテ―ス」(8:20―訳文では〔募金〕)。「豊かさ」を意味する。ここでは「献金」を意味する。

4.「エウロギア」(9:5-訳文では〔贈り物〕)。語源から言えば「祝福」のことです。「気前のよい寄付」を意味しています。

5.「レイトゥルギア」(9:12―訳文では〔奉仕の働き〕)。「公の奉仕」または「礼拝」を意味します。ここでは「献金」のことです。

6.「コイノーニア」(9:13―訳文では〔施し〕)。「交わり」を意味します。

 「献金」の行為が、以上のようにきわめて宗教的な意味あいの濃い用語で表現されています。パウロにとって、「困窮者を経済的に援助する」ことは、「恵み」であり、「奉仕」であり、「豊かさ」を示し、「祝福」を意味し、「礼拝行為」につながり、「交わり」をもたらすものだったわけです。

 「献金」や「慈善の業」が、原語の「カリス」(恵み)の訳語になっていますが、これは献金や慈善の業の根源と根拠とを探るとき、「神の恵み」につき当たるからです。

 パウロは8章9節で、「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵み(カリス)を知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」と言っています。主が貧しくなられた事実が恵み(カリス)であって、この恵みはあなたがたを豊かにするためでした。このキリストの恵み「カリス」にあずかり、「豊かにされた者」として、自分たちもキリストに倣い、貧しい人々のために、みずからを貧しくして仕えようとするの行為が献金や慈善の業となるのです。それは聖霊の働きによるものです。このように「献金」は、神の恵みに対する感謝から、神への愛、隣人への愛の行為として行われ、究極的には神の栄光のためなのです。

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