富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

 「苦難の中の喜び」 

2015-07-26 16:19:27 | 説教

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本キリスト教 富谷教会 週報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

聖霊降臨節第10主日     2015年7月26日(日)  5時~5時50分 

         礼   拝   

前 奏            奏楽   辺見トモ子姉

讃美歌(21)  528(あなたの道を )

交読詩編    84(万軍の主よ)   

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

聖 書    ペトロの手紙一、3章13~22節 (共同訳[新]p.432)     

説 教        「苦難の中の喜び」   辺見宗邦牧師

讃美歌(21)  531(主イエスこそわが望み) 

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)     24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

                                      次週礼拝 8月2日(日)午後5時~5時50分

                                      聖 書  ローマの信徒への手紙12章9~21節

                                      説 教   「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」  

                                      讃美歌(21) 149 540 24

本日の聖書 ペトロの手紙一、3章13~22節

 13もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。 14しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。 15心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。 16それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。 17神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。 18キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。 19そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。 20この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。 21この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。 22キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。

本日の説教

  ペトロの手紙一は、手紙の形式を備えた信仰者を激励する書です。紀元110年頃、ロ-マ帝国のトラヤヌス帝の時に小アジア(現在のトルコ共和国)のビティニアで大迫害が起こり、それが北部小アジア地方にも広がりました。ペトロの手紙は、ペトロの名で迫害の恐怖にあったその地方の信徒たちに宛てて書かれた牧会的な文書です。洗礼の恵みを思い起させ終末の希望を確信させることによって彼らを励まし、キリストの苦難に積極的に参与するキリスト者の生き方を勧めています。手紙全体を覆っているのは迫りくる迫害の苦難です。そして苦難に耐え抜くことによりキリストの苦難にあずかり、そしてキリストの栄光にあずかる励ましと慰めとが主題となっています。

  著者はペトロの感化のもとにあった一人のすぐれた指導者であり、書かれた場所はローマと推定されています。

   1章1節に記されている「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地」とは、一~二世紀のローマ帝国の小アジアの四つの属州の名称であり、大体アナトリア全域(現在のトルコの大部分)にまたがっています。「離散して仮住まいをしている選ばれた人たち」とは、ユダヤ人ではなく、むしろキリスト者一般を指していると思われます。このアナトリア地域には多種多様な人間が住んでおり、多くの民族、文化、宗教が混在していました。この手紙の受け取り人たちは、キリスト者となる前にユダヤ人の会堂で「神を畏れるものたち」(使徒言行録10・2)と呼ばれて、旧約聖書の教えを受け、ユダヤ教の生き方に賛同していた異邦人であったと考えれています。彼らはキリスト教に改宗して間もない小さな共同体で、その多くは社会的地位も低く、奴隷や異邦人の夫を持つ婦人や若者たちがかなり多くいたようです(2・18~3・7、5・5)。

   迫害の攻撃にさらされている、この新しい改宗者たちに、義のために苦しむこと、<肉の欲>を避け、キリスト者としての「聖い生活」をし、<異教徒の間で立派な生活>をし、聖化を達成するようにと励ましています(2・11~12)。

   本書において特に際立っているのは、<苦難の中の喜び>という主題が展開され、それを現実の生活の中で実践すべきことが強調されている点です。冒頭から苦難を受ける決意が語られています。

    「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが(1・5,6)」、と苦難に耐え、試練に打ち勝つことによって、栄光と喜びに至ることが語られています。

   3章13~22節では、苦難の中にある読者を励ますために、<正しいことのために苦しむ>ことの意義が語られます。

    「もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。」(3・13~15)

   熱心に善が実行されるとき、本来危害を加える者はあり得ないはずですが、しかし現実にはこのあり得ないはずの事が起こります。多くの場合、この時代の迫害は、伝統を固執するユダヤ教徒の敵意のこもった暴力的行為、利益にからむ異教徒の策動が主たる原因でした。

   信仰のゆえに受けなければならない迫害に直面しているキリスト者に対して、「義にために苦しみ受ける」ことと、「心の中でキリストを主とあがめること」を勧めています。この二つはイエスご自身の教えにまでその跡をたどることができます。

   義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5・10~12)

   彼らを「恐れたり、心を乱したりしてはいけません」。それゆえ、キリスト者は「抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備え」をしているべきです。

   それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。」(3・16)

    しかも弁明は穏やかであるべきで、ごうまんな自己主張であってはなりません。<穏やかに>という言葉は、どのような苦難の中にあっても、他人に愚痴をこぼしたり責任をなすりつけたりすることなく、謙遜にひたすら耐えて神に服従することであり、この語はイエス自身の人柄を表し、キリスト者の基本的な生き方の姿勢を示しています。<正しい良心>とは、聖霊を受け神と共に物事を判断するキリスト者の心の在り方が意味されています。この世からそしられたキリスト者にふさわしい武器は「キリストに結ばれた善い生活」です。

   神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです」(3・17、18)

   キリストの受難の意義の要約が記されています。ここではキリストの受難の<ただ一度>が強調され、そのいけにえが<あなたがたを神のもとへ導くため>であるとされています。<導く>は、ここでは祭司であるキリストが自分自身をいけにえとして<罪のために>ささげたことにより、人間が神に近づくことができるようになったという意味です。<霊では生きる者とされた>は、「神によって死からよみがえらされ、神の霊を与えられ、生きる者とされた」ということです。それはまさにキリストがわたしたちを「神のもとへ導くため」でした。

    「そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。」(3・19、20)

   <捕らわれていた霊たち>とは、神に服従しなかった者たちのことです。当時創世記6章の堕落の天使は、地下の獄に投獄されたとの一般的な信仰がありました。彼らの堕落は、ノアの洪水以前の罪悪に密接に関係していたので、ノアの時代に神が忍耐して待っておられてのに従わなかった人々に、彼らも含めて考えられています。また、ノアの箱舟のときに神様に従わなかった人々たちに、キリストの福音に従わなかった後の時代の人たちも含まれているのです。

   イエスは死んで陰府(よみ)にまでくだりました。しかし、復活させられ、神の霊によって生きる者とされました。イエスは死の支配下にある捕らわれていた霊たちのところへ行き伝道され、彼らを死の支配から解放し、御自分の支配下におきました。4章6節にこうあります。「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。」とあります。霊において生きるようになるためにイエス・キリストは死者たちに伝道をされたのです。イエスの贖罪はすでに死んだ者に対しても救いとなったのです。

   ノアは、聖書では、義人の代表者の一人とみなされています。<箱舟>は、後に十字架の型、教会の型と考えられるようになったが、ここでは洗礼との関連で取り上げられています。<八人>とは、ノアとその妻、そして三人の子セム、ハム、ヤフェトとその妻たち(創世記7・7)ですが、彼らは神の言葉に服従し破滅から救われたという点で、キリスト者の象徴でもありました。<水の中を通って>は、ノアたちが水を渡って箱舟に入り、洪水の中を通って安全な場所へ導かれたように、キリスト者は洗礼の水の中を通り、その水によって救われるという意味の両方をこの語句にもたせています。

   この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。」(3・21)

   ノアの洪水の水は、審判と救いをもたらすゆえに、バプテスマの象徴です。救いは、キリストの復活にもとずく死の中よりの救いです。洪水は、不服従者にとっては破滅ですが、服従したノアたちには彼らの箱舟を浮かせ安全地へ運んだという意味で救いでした。<肉の汚れを取り除くことではなくて>には割礼が暗示されています。キリスト教の洗礼は不浄を除去する儀式的行為ではなく、神に正しい生活態度をとることを約束し誓うことにあります。イエス・キリストが正しい方でありながらも正しくない罪人である人間のために死んで下さり、復活なさいました。そのイエス・キリストの救いの出来事を信じ、洗礼を受けるのです。私たちが洗礼を受けるのは、それまでの罪に死に、新しい命に生きるためです。それは主イエスにおいて起きた復活に、わたしたちもあずからせていただき、主イエスと共に、神に生きる新しい歩みを始めるのです。

   キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。 」(4・22)

    復活のキリストが現在、神の主権をもって、人間だけでなく<天使><権威><勢力>と呼ばれる超自然的存在を含むすべての支配者であることを告げます。

    「復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです…わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」(ローマ8・34、37)

   キリストは「見よ。 わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたと共にいる(マタイ28:20)」と約束されました。キリストがどのような時も共にいて下さることを信じて、キリストにある勝利を確信して、この世の悪と戦いながら歩んでまいりましょう。

  今年は、高山右近が徳川幕府による迫害でマニラに追放され、亡くなってから、450年になります。ようやく、日本のカトリック教会の方々の念願であった、右近を殉教者の福者とする申請がバチカンに了承され、遅くとも来年一月までには認定される見通しとなりました(毎日新聞6月21日東京朝刊発表)。右近が亡くなる数日前、自分の死期の近づいていることを知って、モレホン神父に語った言葉を紹介いたします。

 「パ―ドレ(「神父さま」の意)。私はまもなく召されると思いますが、神がそれを希望し給うのですから私は喜び慰められています今ほど幸せな時が、これまであったでしょうか。私は妻や娘・孫たちについては、何も心配していません。彼らと私は、キリストのために追放されてここに来ましたが、彼らが私について、この土地まで来てくれた愛情に、深く感謝しています。神のためにこのような境遇になったのですから、神は、彼らにとって真実の父となり給うでしょう。」

  まさに右近は、最後まで「苦難の中でも喜び」を与えられて生きた人でした。

 

 

 

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「高山右近の生涯と信仰」 「右近が福者に」バチカン審査委了承

2015-07-23 22:14:47 | 説教

        ↑ 大坂カテドラル聖マリア大聖堂にある堂本印章画伯作

          「栄光の聖母マリアを仰ぎ見るガラシア夫人と右近」

    聖書マタイ6・19~21「天に富を積みなさい」

          高山右近の生涯と信仰    辺見 宗邦

   高山右近はキリシタン大名であり、茶人でもあり、最後まで信仰を貫き通した武士です。

   山右近は、今から463年前、1552年(天文21年)、摂津の国高山(現在の大阪府豊能(とよの)郡豊能町高山)の領主であった高山飛騨守(ひだのかみ)の長子として生まれました。幼名を「彦五郎」と言い、高山では5歳の時まで過ごしました。右近は63歳で天に召されるまで、戦国時代、安土桃山時代、そして、江戸時代のはじめの頃まで、天を想いながら、最後まで「キリストの兵卒」として、生涯を送りました。

   右近が6歳の頃、父は京都に近い畿内(山城、河内(かわち)・泉・摂津、大和)で大きな勢力を握った三好長慶(ながよし)[高槻の芥川城主、その後、飯盛山城主(大阪府大東市)]の重臣である松永久秀(奈良市多聞山(たもんやま)城主)に仕え、大和の国の沢城(奈良県宇陀市榛原町(はいばらちょう))の城主となりました。右近は16歳頃まで沢城で過ごしました。

      

  父の飛騨守は、奈良で目の不自由な琵琶法師であった日本人修道士ロレンソ了斎の話に感銘を受け、ヴィレラ神父より洗礼(洗礼名ダリオ)を受けました。その翌年、右近が12歳の時、父はロレンソを沢城に招き、キリシタンの教えを説かせ、家族、家臣全員が洗礼を受けました。右近の洗礼名は「義人」を意味する「ジュスト(ユスト)」でした。母の洗礼名は「マリア」でした。右近は男3人女3人の6人兄弟の長男でした。

   1568年、右近16歳の時、織田信長が足利義昭を十五代将軍に据えるために上洛すると、室町幕府の幕臣だった和田惟正(これまさ)が摂津の高槻城主に任じられました。高山家はその下で仕えることになり、高槻城にほど近い芥川(あくたがわ)城(高槻市内の標高182mの山城)の城を任される役目に任ぜられます。18歳のとき、右近は黒田氏の娘ジュスタと結婚。その後、三男、一女が授かります。

   惟正(これまさ)はキリスト教の協力者でしたが、その三年後、荒木村重(むらしげ)[有岡城主(兵庫県伊丹市)]に敗れて討ち死します。摂津は村重のものとして信長に認められます。年若くして父の後を継いだ和田惟長(これなが)は家臣にそそのかされ、高山父子暗殺を企てます。そのことを知った右近たちは村重と相談のうえ惟長を討ち、右近の父・飛騨守は高槻城主(大阪府高槻市)になります。しかしすぐ隠居して家督を右近にゆずります。

  1573年(元亀4年)、右近は21歳のとき、名を友祥(ともなが)と改め、禄高二万石の高槻城主となります。

   右近は高槻に天主堂を建設し、家臣をはじめ、領民を多数入信させ、キリスト教の普及に貢献しました。1581年(天正9年)には、領民2万5千人のうち1万8千人、72%の領民がキリシタンであった、と宣教師たちが報告書に書いています。この時期、領内には20以上の教会がありました。

   1578年(天正6年)右近の直接の主君である有岡城主の荒木村重が山口の毛利輝元と結んで、織田信長に謀反(むほん)を起し、黒田官兵衛が有岡城に捕らわれる事件が起きました。これに対して危機感を抱いた信長が高槻城攻めを開始しました。右近26歳の時です。右近の妹と4歳の長男ジョアンは人質として村重のもとにあり、そのうえ自分が信長の味方をすれば、村重に忠実であろうとする父は切腹するであろうし、人質の妹や長男の生命も奪われてしまう。信長は、右近父子に、五畿内の布教長オルガンチノ神父を送り、信長の味方に付くように、敵対するならキリシタンの滅亡をまねくことになると、二者択一を迫りました。城内の意見は、村重に就くか、信長に付くかで、真っ二つに割れてしまいます。右近は悩み苦しみ、祈りに祈った末、城主をやめることにし、ひそかに城から離れ、頭髪を剃り落とし、神に従う僕になることを決意しました。信長の前に紙衣一枚になり、死を覚悟して、投降しました。こうすれば、荒木は人質をゆるすであろうし、神父や信徒も破滅の悲運からまぬがれると考えたのです。この右近の英雄的降伏は、全五畿内を驚かせました。

  この結果、右近の父は有岡城に走り、城主を失った高槻城の家来たちは開城して信長に従いました。村重は孤立無援となり、やがて有岡城は落ち、人質だった息子たちも無事に助かりました。信長は以後、右近を再び高槻城主とし、キリスト教に対しても優遇するようになりました。

   高山右近の人物について、宣教師ルイス・フロイスは、「明晰(せき)な知性を持ち、稀に見る天賦(てんぷ)の才能ある青年で、都(京都)地方全キリシタンの柱石である。」と言っています。

  1582年(天正10年)、本能寺の変の後、山崎の合戦で右近は先陣をつとめ、明智光秀と戦い、勝利します。戦後、戦いで功績をあげた右近は、二万石から四万石に加増されました。

  1585年(天正13年)、右近(33歳)は、信長のあとを継いだ秀吉によって、12年間過ごした高槻の地から、播州(はりま)の国・明石(あかし)(兵庫県明石市)明石船上(ふなげ)城に移されます。家禄六万石の明石の城主として過ごす間、右近は明石教会を建設しました。

   1587年、右近が明石の城主なって二年後のことです。九州を平定した秀吉は博多(福岡市博多区)で突然、「吉利支丹伴天連(きりしたんばてれん)追放令」を発布しました。九州の現状をみて、日本が外国の植民地にされてしまうことを恐れたのです。宣教師たちの布教は、その手先だと思ったのです。右近は九州平定のとき、秀吉軍に加わって従軍し、箱崎(福岡市東区)の陣中にいました。博多に陣をとっていた秀吉は使者を遣わし、右近にキリスト教の信仰をやめるように命じ、棄教しない時は所領を没収すると迫ったのです。この時が右近にとって、人生生涯の最大の試練の時ではなかったと思います。

   右近は、「たとい人、全世界をもうくとも、おのがアニマ(魂(たましい))を失わば、何の益かあらん。」とある、聖書の言葉通りに、デウス(神)のみことばに従って歩む決意を伝え、棄教することを拒絶しました。

   秀吉は、第二の使者として右近の茶の湯の師である千利休が遣わしました。利休のとりなしであれば、右近がきいてくれるという思惑があったものと思われます。秀吉の条件は「熊本に転封となる佐々(さっさ)成政(居城は富山城)に仕えることを許す、もし右近が棄教を拒否するならば他の宣教師と共に中国へ放逐する」という条件の説得でした。しかし右近はこの案も、師である利休の説得もことわり、「キリシタン信仰(宗門)が、師(茶道の師利休)、君(秀吉)の命(棄教令)よりも重いかどうかは今は分からないが、いったん志したことを簡単には変えず、志操堅固であることが武士の心意気ではござるまいか」と言ったのです。利休も、彼の心を察したのか、あえて意見を加えず、そのままを秀吉に報告しました。彼をこの決断に至らせたのは、右近のキリストへの熱愛と、キリストに対する武士道的忠誠(キリストの兵卒として)でした。右近は、棄教することを断り、信仰の道を選びました。右近は城主の地位も六万石の領地も捨て、明石を脱出しました。 

  「伴天連追放令」から一年余り、山右近とその家族は、小西行長の庇護のもとに小豆島に匿(かくま)われました。小西行長が熊本へ転封になると、右近家族も熊本の宇土へと流浪の旅を続けました。 

   加賀百万石の前田利家は右近の能力を高く評価し、その才能を惜しみ、右近を召し抱えるために、右近に金沢へ来るように招きました。

   右近は、利家からの誘いに対して、「禄は軽くとも苦しからず。耶蘇寺(やそでら)の一か寺、建立(こんりゅう)下さらば参(まい)るべし。」と答えて、1588年(天正16年)の秋、右近と家族は金沢に身を寄せました。右近が三十六歳の時でした。

   旧暦9月22日(新暦11月14日)に、千利休(せんのりきゅう)は蒲生氏郷(がもううじさと)宛てに書状を送り、右近が金沢に行ったことを伝えます。

   「高山右近殿が、昨日正午に都を出立いたしました。浅 野長政殿の書状で知りました。目出たく、金沢に下られて、望みがかない本当に良かったと思います。氏郷殿も同じ思いであろうとお察しいたします。芝山監物(けんもつ)殿も、望みがかなったと喜んでいます。」(現代語訳文筆者)

   利休は右近が金沢の前田利家のもとに身を寄せたことを心から喜び安堵したのです。

   築城の名手であった右近の才能は金沢城の修築や、金沢城の東西の内惣構堀(うちそうかまえほり)などを造るのに、いかんなく発揮されていきました。前田利家のあとを継いだ利長の隠居後の城としての高岡城の築城のために、右近は縄張り(設計)の役目を果たしました。

   右近は、金沢の地で茶道にも精進しました。南坊(みなみのぼう)と号し、「利休七哲」の一人であり、「利休極上一の弟子也」と言われ、また、篤い信仰心をもって、蒲生氏郷、牧村利貞、小西行長、黒田孝高(官兵衛)、などの大名をキリシタンに入信させ、加賀の国、金沢藩の茶の湯の宗匠として多くの武士、商人たちと交友を深め、茶道とキリスト教の布教に励み、お茶の世界に大きな影響を与えました。

  1605年(慶長10年)右近は、宣教師が一度も踏み込むことが出来なかった北陸の金沢に宣教師を招き、三つの教会を建設しました。右近は、加賀の地で26年間過ごしました。

   1614年(慶長19年)、今度は家康が、徳川秀忠の名で、全国に「キリシタン禁教令」を発布しました。宣教師や、高山右近は国外追放の身になりました。厳寒の2月金沢を後にした右近と家族の一行は、坂元、大阪へ、大阪から舟で長崎へ送られました。長崎に着いたのは4月中旬でした。右近は日本を離れるに際し、長崎から船出する一か月前、豊前(ぶぜん)(福岡県東部)の藩主で小倉城主だった、利休七哲の一人である茶友・細川三斎忠(ただ)興(おき)(妻はガラシア)に書状を送り、その心境を吐露しています。

   「楠木正行(まさつら)は戦場に向かい四条畷(なわて)で戦死し、天下に名を挙げました。そして私は今南海の呂(る)宋(そん)に赴(おもむ)き、命を天に任せて、名を流すばかりです。(この生き方は)いかがなものでしょうか。六十年来の苦もなんのその(たちまちの内に散り、消えていきます)、いまこそ、ここにお別れがやって参りました。」と述べています。

   

    右近書状 細川忠興(羽柴越中守)宛   (永青文庫蔵)

      近日舟が出ます。よってこの筆の一軸進上致します。

   「誠誰にかと存候志に、帰らじと思えば兼ねて梓弓なき数にいる名をぞ留る。

   (楠木正行辞世)彼は向こうの戦場で命を落とし、名を天下に挙げています。

    私は南海に赴き、命を天に捧げ、流罪となります。如何。六十年の苦しみが

    忽ち散りました。これまでのお礼は中々申し上げられません。

           恐惶敬白                 南坊 等伯(花押) 

       九月十日  

      羽越中様 参人々御中

   伴天連(ばてれん)国外追放令発布の翌年、マニラに追放されることになった右近とその家族は長崎を出帆。小型の老朽船に100名以上がつめこまれて、暴風・逆風に悩まされながら、普通の船で、順風ならば10日ほどで行けるところを、実に34 日もかかって、フィリピンのマニラに到着します。右近と同行した家族は、妻と娘ルチアと5人の孫たちでした。

   右近たちが、信仰ゆえに、祖国を追放されてくるという話は、すでにフィリピンに伝えられていましたので、フィリピンの総督のファン・デ・シルバをはじめ、市民たちは、一行 を敬意をもって、大歓迎しました。右近たち一行は、上陸後、総督官邸に入り、丁重な歓迎を受けます。旧日本人居留地であるパコ駅前のディラオ広場「比(ひ)日(にち)友好公園」に、高槻の城跡公園にある「山右近像」と同じものが建てられています。   

       

   彫刻家西村方昭作の銅像 高槻公園の右近像

     

     マニラ、パコ駅前広場(Plaza Dilao)にある高山右近像と記念碑

   マニラに到着後、40日ほどで、ひどい熱病にかかります。右近は自分の死期の近づいていることを知って、モレホン神父にこう語っています。

  「パードレ(神父様の意)。私はまもなく召されると思いますが、神がそれを希望し給うのですから私は喜び慰められています。今ほど幸せな時が、これまでにあったでしょうか。私は妻や娘・孫たちについては、何も心配してはいません。彼らと私は、キリストのために追放されてここに来ましたが、彼らが私について、この土地まで来てくれた愛情に、深く感謝しています。神のためにこのような境遇になったのですから、神は、彼らにとって真実の父となり給うでしょう。」

   数日後、病状は悪化し、「わが魂(アニマ)は、天地万物の御(ご)作者なる御(おん)主を、ひたすら慕い奉る。」と、繰り返し、主イエス・キリストの御(み)名をとなえながら、1615年2月3日の未明、静かに天に召されました。享年63歳でした。右近の死後、家族は帰国を許されました。

   1615年(元和元年)、1月8日(1615年2月4日)マニラで病没。享年63歳。マニラ市で十日間にわたる葬儀が執行され、遺体は聖アンナ聖堂に安置された。後に、右近の遺体は新築のイグナチオ聖堂に移管された。1945年、イエズス会は遺骨をケソン市北ノバリチェスにあるイエズス会の女子聖心修道院の墓地に、二つの骨壺に分け(1864~1927、1864~1936)、「人々に知られざりしも、神に知られし者」の墓として、57柱と30柱に分けて納められました。

  戦国時代の大名にとっての目標は、功名を得ることであり、禄高(ろくだか)を増やすことであり、誇り高き家名を誇示することでした。しかし、右近は「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。」(マルコ8:36)のキリストの言葉に従ってその生涯を全うしたのです。

   高山右近の列福を願う運動の最初は1946年(昭和21年)にカトリック高槻教会大阪司教田口芳五郎神父が列聖を請願しました。正式には1960年(昭和35)頃から始まり、1971年(昭和41年)には53680人の署名をバチカンに送りました。2009年(平成21年)から司教総会で事由を「証聖者」から「殉教者」に切り替えての請願になりました。高山右近没後400年にあたる平成27年(2015年)、日本のカトリック中央協議会は右近が地位を捨てて信仰を貫いた殉教者として、右近を福者に認定するようローマ教皇庁に申請しました。同年6月18日、教皇庁の神学調査委員会は高山右近の手続きを始めることを了承し、遅くても、2016年1月までには認定される予定になりました。(毎日新聞6月21日発表)

     

   スペインのバルセロナのマンレーサにある聖イグナシオ教会にある壁画。中央右側にいるのがJUSTO UCANDONOと書かれているユスト右近殿である

                                

                                    

  堂本印章画伯(1891~1975)  イタリア人ニコラ・アルギイニ作の大理石像(1946年作)

                                  カトリック高槻教会前の右近像

 

        

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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フィリピの信徒への手紙4章1節~3節「女性たちの働き」

2015-07-17 22:51:53 | 説教

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

    日本キリスト教 富谷教会 週報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」  (フィリピ4:6)

    聖霊降臨節第9主日 2015年7月19日(日)  5時~5時50分 

           礼   拝   

前 奏            奏楽   辺見トモ子姉

讃美歌(21)  355(主をほめよ、わが心 )

交読詩編   133(神はわたしたちの避けどころ )   

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

聖 書    フィリピの信徒への手紙4章1~3節    (共同訳[新]p.365)     

説 教         「女性の働き」    辺見宗邦牧師

讃美歌(21)  535(正義の主イエスに) 

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)     24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

                                  次週礼拝 7月26日(日)午後5時~5時50分

                                       聖 書  ペトロの手紙一3章13~22節

                                       説 教   「苦難の共同体」  

                                       讃美歌(21) 528  531  24

     本日の聖書 フィリピの信徒への手紙4章1~3節

 1だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。 2わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。 3なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。

     本日の説教

   パウロのニ回目の旅の随行者はシラスです。途中リストラ(地図12)でテモテを旅行に加えたパウロ一行の三人は、聖霊に導かれてアジア州のトロアス(地図19)に行きました。このトロアスで一行はマケドニヤ伝道の幻を与えられたのです。初めてヨーロッパに渡り、マケドニア州フィリピ(地図20)の町に行って宣教するようになった経緯(いきさつ)が次のように書かれています。 《その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。》トロアスで医者ルカがパウロの一行に加わりました。

    《 わたしたちは(ルカとパウロの一行3人)トロアスから船出してサモトラケ島に直航し、翌日ネアポリス(現在名はカバラ)の港に着き、そこから、マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民都市であるフィリピに行った。そして、この町に数日間滞在した。……ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。そして、彼女も家族の者も洗礼を受けた……》(使徒言行録16・9~15)

 

                              フィリピの遺跡

    フィリピは、現在はギリシャ共和国の北東部、ブルガリアの国境に近い、東マケドニア地方にある、ピリッポイという町(Filippoi)です。

   マケドニヤ王国のアレキサンダー大王の父親フィリッポス二世がこの町を占領し、自分の名にちなんでフィリッピ(ピリピ)命名した町です。近くの山から金が産出したので金鉱開発が進められ、ヨーロッパに通じるエグナティア街道の重要な場所としてこの町は発展しました。パウロが訪れた時は、この地方最大のローマの植民都市でした。

  リディアはエフェス=エペソ(地図18)の北東約80キロにあるティアティラ市(現在名はアクヒサール)出身の紫布を商う商人でした。彼女は家族や使用人と共に、パウロから洗礼を受けたヨーロッパで最初の信徒でした。彼女の家で集会がもたれ、教会に成長しました。彼女が住んでいた土地はリディア村と呼ばれ、現在もフィリピの遺跡の西にリディア(Lydia)と呼ばれる町になっています。

        

                            リディアが洗礼を受けたガギタス川と教会

    このようないきさつで使徒パウロから福音を伝えられてフィリピの教会は、以後、パウロと親密な関係を保ちました。パウロはフィリピの信徒への手紙で、最初の挨拶の後、<わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。>(1・3) と述べています。この4章からなる短い手紙で、<喜び>という言葉が16回も用いられ、手紙の内容も<イエス・キリストにある喜び>で満ちているところから、「喜びの書簡(手紙)」とも呼ばれています。

   フィリピ書、フィレモン書、エフェソ書、コロサイ書は「獄中書簡」と呼ばれています。フィリピ書とフィレモン書はパウロがエフェソで監禁中に書いたものと思われています。監禁の場所とフィリピとの往来(フィリピ2・19~30に四回の行き来が考えられます。1テモテを遣わす、2わたし自身も行く、3・4エバフロディトが来て、帰る)があったことから、フィリピに近いエフェソと思われているのです。パウロは第三伝道旅行中の紀元53~55年頃エフェソに二年三か月滞在しました。エフェソの投獄については、ルカは書いていません。しかし、パウロ自身は、アカイア、マケドニア、アジアの諸教会との文通の中で、繰り返しその受難について言及しています。

「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。」(コリント二,1・8~10)

 一方、エフェソ書とコロサイ書はパウロがローマで監禁中に書いたとする説が有力です。

   フィリピの教会の信徒たちは、監禁中のパウロのもとに、エパフロディトを代表に立て、贈り物を持たさせて派遣しました。彼はしばらくパウロのもとにとどまって奉仕をしていたが、病を得て、フィリピに送り戻されることになりました。パウロは贈り物への感謝を表し、使徒としての配慮から種々の勧告を記したこのフィリピ書をエパフロディトの持たせて送ったのです。

   今日の聖書の個所、4章1節には、「だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。」とあります。<だから>とは、3章に記された主イエス・キリストが救い主として来られるの待ち望みつつ進むキリスト者の生き方を指しています。パウロは愛するフィリピの信徒たちに、さらに勧告を続けるのです。<わたしが愛し、慕っている兄弟たち>と呼びかけ、もう一度、<わたしの喜びであり、冠である愛する人たち>と呼びかけています。 

「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。」

  二章の始めから、信徒間の一致を勧めてきたパウロは、<エボディア>と<シンティケ>という二人の婦人の個人に対して、<主において同じ思いを抱きなさい>と勧告しています。このような個人に対する勧告が、パウロの手紙には他にないので、この二人の婦人の問題が単なる個人的な争いではなく、何らかの形で教会全体に関わる問題であったと思われます。この二人が互いに抗争関係にあるので、仲直りするようにと勧告しているのではなく、パウロの意図は、信徒の交わりとしての教会全体の形成に向けられています。そうすると、<主において同じ思いを抱きなさい>は、彼女たちが他の信徒たちと同じ行動をとり、教会生活を送ることを勧める言葉となります。おそらく彼女たちは、フィリピの教会にとって影響力の大きい人物だったと思われます。

   彼女たちは、4章3節にあるように、かつて<福音のために>、<共に戦った>とあります。これは、単に過去の業績を指摘するだけの言葉ではなく、今また再びそのようなことの行われるを期待する言葉です。

  パウロは、「あなたがたは一つの霊によってしっかりと立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており」(フィリピ1・27)と語りました。パウロは、エボディアとシンティケに語りかける前に、<主によってしっかり立ちなさい>と勧告しています。パウロは、何らかの事情で教会の活動に協力的でなくなっているエボディアとシンティケに<主によってしっかり立つ>ことを求めたのです。おそらく彼女たちは教会建設に際して努力を惜しまなかった婦人たちだったのでしょう。

   「なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。」

  教会の指導的な立場にあった協力者に、二人の婦人を助けるように頼んでいます。彼女たちの間の仲介の労をとってほしいともとれるが、むしろ、彼女たちの信仰の戦線復帰に努力してほしいという依頼です。

 「二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。」

   クレメンスは教会の創立時の指導者だったのでしょう。<命の書>に名を記されているとは、神の民の天にある登録簿に名前が記されているということであり、神の救いの計画に入れられている、という終末的約束です。罪人の名がそこから<消し去る>と言う表現が詩編69・28にあります。命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと同じように、彼女たち二人も救いの計画に入れられており、彼女たちはみんなと力を合わせて、福音のためにわたし(パウロ)と共にと戦ってくれた人達なのです、とパウロは彼女たちのかつての業績をたたえているのです。彼女たちのことを多くの人が忘れても、神はその忠実な僕を覚え、ご自身の民として祝福してくださっていることをパウロはフィリピの教会の人たちに伝え、彼女たちを復帰させるように依頼しているのです。

   フィリピの教会は、先に述べたように、紫の布を商うリディアが信者になり、彼女が自宅を開放して、パウロの宣教を助け、彼女の家が基礎となって出来た教会です。             エボディアとシンティケは、このリディアの信仰を受け継いだ有力な信徒と思われます。リディアたちを中心として出来たフィリピの教会は、その後長くパウロに対する親愛の情を保ち、彼に必要な経済的援助を送ってパウロを助けました。

   パウロがコリントで出会ったプリスキラと夫のアキラもパウロを助けました。パウロは彼女の家に住み込んでコリントで伝道したのです(使徒言行録18・1~4)。この夫妻は、その後、パウロに同行してエフェソに行き、エフェソでも活躍したのです。

   コリントの東にケンクレアイ港がありますが、ケンクレアイの教会の奉仕者の女性フェベもパウロの援助者でした(ローマ16・1~2)。このように、キリスト教の発展の陰にはこのような女性信徒や女性指導者がいたことを覚えたいと思います。

   「正義の君なる神の御子の」で始まる賛美歌376番の4節に「老い人、若うど、おとこ、おみな(女性のこと)、新手となりつつ 敵にあたり、み国をのぞみて いさみ進む、 つづかせ給えや 主よ、我をも」とあります。福音の信仰のために、共に戦いましう。

 

   

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 ガラテヤの信徒への手紙6章1~10節「互いに重荷を担いなさい」

2015-07-12 20:05:27 | 説教

           赤の点線は、パウロの第二回伝道旅行を示す経路です(フリュギアのアンティオケから北上する道は北ガラテヤ説を支持する経路です)。新聖書大辞典(キリスト新聞社発行)の付録地図より転写。

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380              FAX:022-358-1403

          日本キリスト教 富谷教会 週報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

             聖霊降臨節第8主日  2015年7月12日(日)  5時~5時50分 

            礼   拝   

前 奏            奏楽   辺見トモ子姉

讃美歌(21)  402(いともとうとき )

交読詩編    30(主よ、あなたをあがめます )   

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

聖 書    ガラテヤの信徒への手紙6章1~10節  (共同訳[新]p.350)     

説 教   「互いに重荷を担いなさい」  辺見宗邦牧師

讃美歌(21)  411(うたがい迷いの )

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)     24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

                                                   次週礼拝 7月19日(日)午後5時~5時50分

                                                    聖 書  フィリピの信徒への手紙書4章1~3節

                                                    説 教   「女性の働き」  

                                                    讃美歌(21)355 439 24

        本日の聖書

  06:01兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。 06:02互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。 06:03実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。 06:04各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。 06:05めいめいが、自分の重荷を担うべきです。 06:06御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。 06:07思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。 06:08自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。 06:09たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。 06:10ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。

              本日の説教

   ガラテヤの信徒への手紙は、使徒パウロが<ガラテヤ地方の諸教会>に宛てて書いた手紙です。<ガラテヤ地方>は、ヨーロッパ中・西部から移動したケルト系民族のゴール人(ギリシア語でガラタイと呼んだ)ガラテヤ人が住み着いたアンキラ(現在のトルコ共和国の首都アンカラ)を中心とする居住地域に、紀元前25年にローマの属州とされたフリギア、ピシディア、リカオニアの南部地方を合わせた地域全体がガラテヤ地域です(地図参照)。パウロが第一回宣教旅行で初めて訪れ、第二回宣教旅行で再訪したのはガラテヤ南部地方のアンティオケ、デルベ、リストラ、イコニオンでした。この手紙もこの南部の地域の教会に宛てられたものとする「南ガラテヤ説」が有力でした。しかし、使徒言行録16・6と18・23に<フリギアやガラテヤ地方を通って>という表現や、<ガラテヤやフリギアの地方を次々と巡回し>という説明があることから、ガラテヤ人定住地を<ガラテヤ>とする「北ガラテヤ説」が今日の学会では有力視されています。

   

  イコ二オンからアンキラまで北上した道になっているが、その途中にも、当時の北ガラテヤの三大都市の一つであるベッシヌスがあるので、そこを通って、北西のドルライオに向かったとも考えられます。これは北ガラテヤ説にもとずいた経路です。

   パウロの執筆の動機は、パウロが立ち去った後にやって来たユダヤ人キリスト者の扇動に惑わされて、ガラテヤの信徒が真の福音から離れようとする危機があったからです。彼らユダヤ人キリスト者は異邦人でありながらキリスト者となったガラテヤの人たちに律法、ことに割礼を遵守を説いていたかです。パウロにとって、彼らのそのような言動は「律法からの自由」をないがしろにし、また十字架の死によって成し遂げられたキリストの救いの業を無意味にし、「キリストの福音」そのものを否定することに他なりません。そこでパウロは、ガラテヤのキリスト者に改めて正しい福音理解を説き、またそれにふさわしい生き方を示したのです。

    ガラテヤの人々は、パウロによって、ただ信仰によってのみ、人は神の救いに与ることができるというイエス・キリストの福音を伝えられ、聖霊の恵みをいただき、新しい生き方を始めました。ところが、パウロが去ってまもなく、割礼の遵守を説く者たちに惑わされました。そこに信徒同志の間で対立や不和が生じました。

 割礼を受けることを説く者達を、パウロは次のように言っています。

 「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。」(ガラテヤ6・12~13)

 自分の努力で自分の救い、自分の清さを求めるものは、結局のところ、救いや清さではなく、いつも「自分」が関心の中心なのです。そこに優越感が生まれ、他人を見下す差別ことになるのです。パウロは手紙の終わりに、ガラテヤの人々に互いに助け合うことを勧めます。

   パウロは、「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。」と勧告しています。

 不意に(誘惑)に襲われて何かの罪を犯したら、罪に堕ちた人に対してどうすべきでかという問題を取り上げます。ここで言われている<罪>とは個々の行為としての罪を表します。<霊の人>であるあなたがたは、罪に陥った人を<柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい>とパウロは勧めます。これは5章14節で言われた<律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです」>という隣人愛の奉仕の実践が改めて求められているのです。

 <あなた自身も>誘惑されないように、自分に気をつけなさい。ここで語りかける相手が<あなたがた>から<あなた>へと変えられているのは、手紙の読者一人ひとりの自覚をうながしているのです。ここで言われている<誘惑>は不道徳的な罪への誘惑よりも、自らを他人の欠陥と比較し、思いあがる精神的な誇りです。これを治す方法は、容赦のない自己吟味です。

 「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」

   <重荷>とは、すでに<霊の人>でありながら、まだ<霊の人>ではないという、キリスト者の今なお「肉」と「霊」の対立抗争をかかえている、不完全さや弱さ(罪、誘惑も当然含まれる)を意味しているようです。<担いなさい>とは、相手が自分に負わせるものを耐え忍ぶということよりも、相手が負って苦しんでいるものを一緒に負いなさい、という積極的な意味の言葉です。そのようにしてこそ、<キリストの律法>、すなわち、<律法全体の要約としての隣人愛>を全うすることになるのです。

 「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。」

 ガラテヤの人々は自分たちを「霊の人」と自称していたようです。あやまった優越感によって自分を見失わないようにと、パウロはガラテヤの人々の自覚を促しているのです。そのためには<各自で、自分の行いを吟味してみなさい>と、パウロは具体的な指示を与えます。<自分の行い>は、キリスト者としての生き方・生活について吟味することです。  

 人がキリスト者であり、「霊の人」であることも、またその「行い・生活」も、すべては神の賜物であり恵みによるものです。それは「自分に対して誇りうるもの」であり。満足すべきもの、また感謝すべきものです。他方、すべては神の賜物・恵みであれば、「他人に対しては誇りえないもの」、他人と比較して自分の優位を置く根拠や理由ではありえないものです。

   「めいめいが、自分の重荷を担うべきです。」

   めいめいが自分の罪、誘惑、人間としての弱さ、不完全さなどの重荷を担うべきです。最後の審判では神に対し各人は自分の生涯の決算報告をしなければなりません。それは他人に肩代わりしてもらえるものではないゆえに、今から自己吟味に努めるべきなのです。自分も重荷を担っていると自覚する者こそ、他人の重荷をいっそうよく担うことができるのです。

   「御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。」

  福音宣教者に対する経済的援助が勧められています。

   「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。」

   パウロは読者の注意を喚起します。ここでパウロが神に対する<侮り>とみなしているのは、神を冒涜する行為や個人的不道徳ではなく、他人に対して善を行わないことです。人間の行為とその招く結果の関係が、<(種を)蒔くー(種を)刈り取る>という農耕のたとえが用いられています。「人の行いの善悪に応じてその報いが現われるという道理を思い起して、善い行いに徹せよ。そうすれば、神を侮らずに済む」ということです。

   <自分の肉に蒔く者>、<霊に蒔く者>は、それぞれ、「肉をよりどころにして生きる者」、「霊をよりどころにして生きる者」のことです。それは自己中心主義の「古い人」に生きる者と、神中心主義の「新しい人」に生きる者との相違です。その相違が具体的に表われるのは、次の「肉の業」と「霊の結ぶ実」によって明らかです。

    「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」(5章19~23節以下)

  肉の行いの第一の悪徳は、<姦淫、わいせつ、好色>など、性的不道徳に関するもの。第二の悪徳は、<偶像礼拝、魔術>など真の信仰に反するものです。第三の悪徳は、<敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ>など、対人関係と共同体の秩序を乱すもの、そして第四の悪徳は、<泥酔、酒宴>など過度の飲酒に関するものです。このような自己中心的な肉の生活を平気で続けている者は、聖霊を受けたキリスト者ではありません。霊に生きる者は、このような肉の支配から解放されて、愛に生きる者とされるのです。

 聖霊によって生きる者の結ぶ実は、<愛>です。私たちは御霊(みたま)によって神を愛し、人を愛すのです。<実>は霊に属するものであり、神の恵みによって生ずる美徳です。肉の業が人間が作り出すものであり、霊の実は人間のものではない力によって作り出されるものです。最初に愛があげられているのは、他のあらゆる美徳の主たるものであり、他の諸徳を統一する根本原理です。愛は神と人に対する配慮であり、喜びは<人生はよきもの>という神から生まれた深い確信であり、平和とは神との正しい関係から生まる心の平静さであり、寛容とは心が 広く,他人をきびしくとがめだてしないことであり、親切は思いやりを持ってと人に尽くすことであり、善意は他人のためによかれと思う心であり、誠実とは私利私欲をまじえず、真心をもって人や物事に対することであり、柔和とは性質や態度がやさしくおだやかなことであり、節制とは欲望を抑えてつつしむことです。

 キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉の欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。キリスト者は洗礼によって、キリストと共に葬られ、またキリストの死者の中からの復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。だから古い人(肉の人)をその行いと共に脱ぎ捨て、新しい人(霊の人)を身につけ、日々新たにされ、霊に導きに従って前進しましょう、とパウロは勧めます(コロサイ2章6~3章17節参照)。

 「肉」と「霊」から刈り取るものが、それぞれ<滅び>、<永遠の命>であるとするのは、パウロが世の終わりにおける神の裁きを念頭においているからです。

 「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。」

   善を行いながら、怠りなく、霊に蒔いて、励んでいるならば、世の終わりにおける神の裁きの時、永遠の命に迎え入れられる。したがって、時のある間に、その時を最大限の活用し、すべての人に対して、特に信仰の家族に対して善を行うことがキリスト者に求められているのです。善を行いましょうと、「隣人愛」に生きることを勧めています。わたしたちは<互いに>受け入れ合い、互いの成長のために仕え合い、互いの重荷を負い合い、互いに支え合わなければないりません。自分や自分たちのことを誇る愚かさを捨てて、互いに相手を自分よりすぐれていると思い、各々自分の重荷を負いながら、神を愛し人を愛する生活を続けていくことが大切です。

 

 

 

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パウロの第3伝道旅行「パウロ、青年を生き返らせる」

2015-07-04 01:43:47 | 説教

                      ↑         使徒パウロの3回の宣教旅行とローマへの護送の旅     

             〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本キリスト教 富谷教会 週報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。(フィリピ4:6)

聖霊降臨節第7主日      2015年7月5日(日)    5時~5時50分 

          礼   拝   

前 奏            奏楽   辺見トモ子姉

讃美歌(21)  151( 主をほめたたえよ)

交読詩編   118(恵み深い主に感謝せよ)   

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

聖 書  使徒言行録20章1~12節(共同訳[新]p.253)     

説 教  「パウロ、青年を生き返らせる」 辺見宗邦牧師

讃美歌(21)  515(きみのたまものと )

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)     24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

                          次週礼拝 7月12日(日)午後5時~5時50分

                             聖 書  ガラテヤ書6章1~10節

                             説 教  「互いに重荷を担いなさい」  

                             讃美歌(21) 402 411 24

           本日の聖書 使徒言行録20章1~12節

  20:1この騒動が収まった後、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げてからマケドニア州へと出発した。 20:2そして、この地方を巡り歩き、言葉を尽くして人々を励ましながら、ギリシアに来て、 20:3そこで三か月を過ごした。パウロは、シリア州に向かって船出しようとしていたとき、彼に対するユダヤ人の陰謀があったので、マケドニア州を通って帰ることにした。 20:4同行した者は、ピロの子でベレア出身のソパトロ、テサロニケのアリスタルコとセクンド、デルベのガイオ、テモテ、それにアジア州出身のティキコとトロフィモであった。 20:5この人たちは、先に出発してトロアスでわたしたちを待っていたが、 20:6わたしたちは、除酵祭の後フィリピから船出し、五日でトロアスに来て彼らと落ち合い、七日間そこに滞在した。

  20:7週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。 20:8わたしたちが集まっていた階上の部屋には、たくさんのともし火がついていた。 20:9エウティコという青年が、窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった。起こしてみると、もう死んでいた。 20:10パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて言った。「騒ぐな。まだ生きている。」 20:11そして、また上に行って、パンを裂いて食べ、夜明けまで長い間話し続けてから出発した。 20:12人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた。

    本日の説教

   パウロは紀元10年頃キリキア州のタルソス(地図8)で生まれたユダヤ人です(使徒行伝22・1)。(誕生の年については種々の説があります)。ちなみに、主イエスの誕生は紀元前4年頃、十字架の死は紀元30年頃と推定するのが一般的です。ユダヤ教を信じていたパウロが天上からの主イエスの呼びかけを受けて回心したのは紀元33年頃、彼が20代前半頃と思われます。それは主イエスに死後3年後のことになります。

   使徒パウロの宣教旅行は3回行われました。

   第一回目の宣教旅行(使13・1~14・27)は、紀元48年に行われました。バルナバとヨハネ・マルコと共にでかけ、シリアのアンティオキア(地図7)から出発し、キプロス島(地図9)へ、そして、バルナバと共にピシディアのアンティオキア(地図15)、リカオニアのイコニオン(地図13)、リストラ(地図12)、デルベ(地図11)へ行って、帰りました。

   第二回目の宣教旅行(使15・39~18・22)は、紀元49年から52年にかけて行われました。シラスとテモテと共に出発し、ガラテヤで宣教し、マケドニヤ州25のフィリピ20、テサロニケ23、べレヤ24)を訪ね、アカイヤ州=ギリシア宣教のアテネ21、コリント22)を訪ねてから、シリアのアンティオキアへ帰りました。

   第三回目の宣教旅行(使18・22~21・6)は、53年から56年にかけて行われました。テモテとテトスを連れて出発し。エフェソ18、マケドニヤ25、コリント22を訪問し、そして募金を携えてエルサレム2に上りました。

   ローマ27への護送の旅(使27・1~28・16)は、58から59年にかけて行われたと推定されています。パウロはローマで拘留中に、紀元60年頃、およ50歳で殉教しました。

  今日の聖書の個所にある<この騒動が収まった後>とは、パウロの第三回目の宣教旅行中にアジア州のエフェソで起きた出来事です。エフェソの町の人々のほこりは、高さ19mの大理石円柱が127本も林立する、世界の七不思議建造物の一つに数えられたアルテミスをまつった壮麗な神殿でした。アルテミスは、ギリシアの美しい狩猟の月の女神です。しかし、エフェソで祭られていたアルテミスは、小アジアの地母神キュベレーと結びつき、出産と豊穣をあらわす多数の乳房を持っ女神となります。この像は胸部に18の乳房に見える卵形の装飾を付けた外衣をまといます。天から降ってきた女神と信じられ、乳房の形をした隕石を御神体としたようです。

        

                 世界遺産トルコ感動の旅・中 アルテミス神殿の復元図

          http://wadaphoto.jp/kikou/toruko10.htm 

                                                          メニューバーで検索ください。   

       

    アルティミスの土像    エフェソ博物館にあるアルティミス     ルーブル博物館にあるアルティミス

   デメトリウスという銀細工師がアルテミス入れた神殿の銀の模型を造って、それを売り、同じ細工師たちとともに利益をあげていました。アルテミスというのは、ギリシアの女神で、狩猟や生産を司る女神としてまつられていました。ところが、パウロがキリストの福音をエフェソで伝えてたので、この神殿の模型が売れなくなったしまいました。デメトリウスは他の細工師に呼びかけて、パウロが「手で造ったものなどは神ではない」と言って、女神アルテミスの神殿をないがしろにしていると言ったことから、これを聞いた民衆が腹を立てました。  

  群衆は、パウロを捕えることは出来なかったが、パウロの同行者であるマケドニヤ人ガイオとアリスタルコを捕え、この同行者の処置を決議するため、集会を開こうと野外劇場になだれ込みました。二時間の大混乱の末、町の書記官が、このままでは暴動の罪に問われることになると、群衆をなだめ、解散させました。(このことに関しては、2013・8・25のブログ「貪欲は偶像礼拝にほかならない」の説教で扱っています。)

   この騒動が治まった後、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げてからマケドニア州へと出発しました。マケドニヤ州やアカイ州の諸教会でエルサレム教会宛ての献金を集め、ギリシアのコリントに行きました。冬期にかかったこともあって、そこで三か月滞在しました。このコリント滞在の間に、パウロは1ローマの信徒への手紙を書きました。15章22節から29節(新p.296)にかけてローマ訪問の計画を述べています。

   パウロ一行は当初はシリアに向かって、海路を直行するつもりでしたが、彼に対しユダヤ人の陰謀が起こったので、急遽マケドニア州経由に変更しました。陰謀とは、おそらく、過越の祭に行くユダヤ人巡礼者たちが船上でパウロを殺す計画だったと思われます。パウロの同行者として七人の名前があげられています。ここに出てくる人物は、マケドニヤ州やアジア州各地の教会を代表してエルサエムに募金を届ける人々です。ベレヤ(地図24)出身のソバトロ、テサロニケ(地図23)のアリスタルコとセクンド、デルベ(地図11)のガイオ、リストラ(地図12)のテモテ、アジヤ州出身のティキコとトロフィモの七人です。この七人は先に出発して、トロアスでパウロの一行を待つことにしました。パウロとフィリピで除酵祭(過越祭)を過ごしました。その後、フィリピから加わったルカと共に、ネアポリスの港から船出して、五日後にミシア州のトロアスに着きました。先に出発してトロアスで待ったいた同行の者たちと落合い、七日間トロアスに滞在しました。

   その最後の日が週の初めの日、日曜日でした。その夕に、パウロたちがこの地の信徒たちと、パンを裂き、食事を祝い、礼拝するために集まりました。<パンを裂く>とは最後の晩餐とそれに続くイエスの死と復活を記念する集会です。集会は信徒の家でなされました。パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続きました。集まっていた階上の部屋には、たくさんのともし火がついていました。エウティコという青年が、窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまいました。礼拝をしていた者たちはあわてて駆け下り、彼を抱き起こしてみると、すでに死んでいました。滑稽(こっけい)な話ですが、落ちて死んだとなると深刻な事態になってしまいました。パウロも降りて行き、彼の上に身をかがめ、抱きかかえて言いました。「騒ぐな。まだ生きている」と告げました。パウロは青年を生き返らせたのです。まだ命があることを伝え、また上に行って、パンを裂いて食べ、夜明けまで、長い間話し続けてから出発しました。人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められました。

   パウロが青年を生き返らせた話は、旧約聖書に出てくる預言者エリヤがサレプタの貧しいやもめの子を生き返らせたこと(列王記上17・22、旧p.561)や、また、預言者エリシャが死んだシュネムの裕福な婦人の子を生き返らせたこと(列王記下4・32~27、旧p.583)に似ています。かつての預言者エリヤやエリシャと同じように、「神の人」の域に達していたことを示しています。

   主イエスは、ナインの町のやもめの息子(ルカ7・11~17)「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言い、会堂長ヤイロの娘(マルコ5・25~43)に、「タリタ・クム(少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい)と言い、また、死んだ洞穴の墓におかれたラザロ(ヨハネ11・28~44)に、「ラザロよ出てきなさい」と呼びかけ、生き返らせています。

   主イエスは言われました。「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。」(ヨハネ14・12~14)

   使徒ペトロは、主にならって、「タビタ、起きなさい」と言って、タビタを生き返らせています(使徒言行録9・36~43)。

   パウロは、<霊の力に満ちた>(ルカ4・14)イエス・キリストに従うものとして、ペトロと同じように、青年を生き返らせるような<霊の力に満ちた>伝道者であることが、ここに示されています。ペトロの場合と同じように、主イエス御自身がパウロを通して、死んだ者を生き返らせたのです。

  イエスの死と復活を信じる者にとって、死は最後ではありません。死を乗り越えて生きる者とされていることを、この奇蹟は示唆しています。主イエスは死んだ者に、「起きなさい」と言って下さり、復活の命を与えて、生かしてくださるのです。

  主イエスは言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを(あなたは)信じるか。」(ヨハネ11・25,26)

 

 

 

 

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