富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「新しい神殿」 マタイによる福音書21章12~16節

2017-01-29 01:01:58 | キリスト教

          ↑ イエスの時代のエルサレム神殿 番号8は異邦人の庭

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

日本キリスト教 富 谷 教 会  週 報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

降誕節第6主日    2017年1月29日(日)   午後5時~5時50分

礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)   7(ほめたたえよ、力強き主を)

交読詩編   84(万軍の主よ、あなたのいますところは)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書21章12~16節

説  教   「新しい神殿」       辺見宗邦牧師

祈 祷                

讃美歌   309(あがないの主に)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

               次週礼拝 2月5日(日) 午後5時~5時50分

               聖書  マタイによる福音書13章10~17節

               説教  「たとえで語るキリスト」 

               讃美歌(21)220 57 24 交読詩編86篇

報告 (株)阿部八商店の阿部敬太社長様より、教会へ金一封の献金が届けられました。感謝してご報告いたします。

本日の聖書 マタイによる福音書21章12~16節

 12それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。13そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」14境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。15他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、16イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」

  本日の説教

 マタイによる福音書21章1節からは、主イエスが最後の一週間を過ごすエルサレムへの入場の場面から始まります。イエスはゼカリア書の預言する姿で、ろばに乗ってメシア的王として入場します。大勢の群衆は「ダビデの子にホサナ」と言ってイエスを迎えました。「ホサナ」は「救いたまえ」という意味の語ですが、当時はその文字通りの意味はではなく、「バンザイ」のような、ほめたたえる叫びとして用いられていました。民衆はイエスをメシアとして喜び迎えたのです。しかし後になって、民衆のホサナの叫びが表面的でしかなかったことを知ることになります。イエスを歓迎すべきであったエルサレムの民衆は、ヘロデ王に加担し、その柔和な王を拒絶し、イエスを十字架につけることに賛同したのです。

 エルサレムに入場したイエスは、そのまま神殿へ進みますが、マルコ福音書では神殿での事件は翌日のこととしています(マルコ11:11、12、15)。

 本日の聖書の箇所は、主イエスが神殿の境内に入ったところで、売り買いをしていた人々を追い出した出来事が記されています。その場所は神殿境内の「異邦人の庭」といわれる区域と思われます。

  当時の神殿はヘロデ大王によって建設された壮麗な神殿です。その神殿の境内の一番外側は「異邦人の庭」と呼ばれれいる広い庭で、異邦人たちはこの庭に入ることが許され、ここで主なる神様を礼拝していました。

  イエスがその異邦人の庭で見たのは、礼拝のために来る人々を相手に様々な品物を売っている商人たちや両替人たちでした。また彼らから犠牲の品物を買っている巡礼者たちでした。過越祭が間近にせまっている時でしたから、神殿内には多くの人たちがいたことが予想されます。ユダヤ国外からやって来た人々はもちろん、エルサレムの近郊からの人々もいて、多くの人が神殿で用いる犠牲の動物を買い求めました。犠牲の動物は羊、やぎ、はとでした。神殿でささげる犠牲の動物は、ささげ物にふさわしいかどうか祭司に調べてもらわなければなりませんでした。そこで、あらかじめ調べられた動物が神殿の境内で売られていたので、それを買う方が手軽だったのです。鳩は貧しい者の捧げ物として用いられました。神殿の祭司たちも、商人たちも、これによって収益を得ていました。また二十歳以上のユダヤ人は神殿税(一人、年間半シュケル=約1万円)を納めなければならなかったので、日常には通用していないシュケル貨幣(銀貨)にするために、両替が必要でした。

 異邦人にとって礼拝の場である境内で、ユダヤ人の礼拝のための商売がなされていたのです。イエスはこの光景を見て怒り、彼らを追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒されました。神殿の領域は広大なので、イエスの劇的な行動は、その範囲がきわめて限定された、象徴的行動であったと思われます。ヨハネによる福音書には、「わたしの父の家を商売の家にしてはならない」(ヨハネ2:16)とあるように、神殿という聖なる領域に市場が存在していたことだけで、イエスの怒りが引き起こされたことを示唆しています。主イエスの乱暴とも思える行動の動機は、神殿礼拝を否定するのではなく、神殿を浄化するためでした。

  主イエスは、「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」と言われました。

 この主イエスのお言葉は旧約聖書の預言書の言葉から取られています。1つはイザヤ書の第56章7節の「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」という言葉です。もう1つはエレミヤ書の第7章11節の「わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目には強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。」という言葉です。

 イザヤ書には、神殿は「すべての民の祈りの家」であることが言われています。ユダヤ人だけではなく、異邦人のための家でもあるのです。神の御子イエスは、神殿を「わたしの家」と呼び、この神殿を、万民のための神聖な礼拝の場所にしようとされたのです。

 エレミヤの言葉は、神殿の門に立って語られた言葉です。主を礼拝するために、神殿の門を入っていくユダの人々が、あらゆる忌むべきことをしながら平気で神殿に来るのを皮肉り、「神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか」と語ったのです。預言者エレミヤは当時の人々の礼拝に厳しい警告を与えました。エレミヤのこの句は、強盗の略奪の場所ではなく、彼らがその略奪品を運びこんで自分たちの身の安全を感じる隠れ家に言及しているのです。従って、主イエスが「あなたたちはそれを強盗の巣にしている」と言われたエレミヤ書への言及は、礼拝する者たちによって神殿が世俗化されていることを市場が象徴している、ということを示唆しているのです。イエスを怒らせたのは、彼らの商売業務ではなく、その場所だからであり、イエスはイスラエルに対する神の審判が、古い神殿の破壊を含むことを、この行為によって暗示されたのです。

 神殿におけるメシアの行動は、否定的であるだけでなく積極的でもあります。境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされました。

  イエスは聖なる場所を誤って使用していることに公的に抗議した後に、目の見えない人や足の不自由な人たちをいやされました。体の不自由な人は神殿内部には入れないことになっていました(サムエル記下5:8、レビ記21:17)。この主イエスのいやしは、このような人々が神殿礼拝に完全に参加することができるようにされたのだというのではありません。このような人々もまた、異邦人の庭で主イエスに出会い、神殿をわたしの家と言われるメシアにいやされ、神の名によって来られた方を拝することができたのです。

  主イエスのなされた不思議な業を見た祭司長たちや、律法学者たちは、境内で、子供たちまでが、「ダビデの子にホサナ」と叫んでいるのを聞いて腹を立てました。彼らは神殿の最高責任者であり、民の信仰の指導者です。そして主イエスに、「子供たちが何と言っているか、聞こえるか」と言いました。律法学者、祭司長にとって主イエスのことを「ダビデの子」などと言ってほめたたえることは、神様への冒涜としか思えなかったのです。

  主イエスは彼らの言葉に対して「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた(詩編8:3)』という言葉をまだ読んだことがないのか。」と言われました。このお言葉によって示されているのは、子供たちが主イエスをほめたたえているのは、神がその賛美を歌わせているのだ、と言われたのです。

  イエスは、古い神殿を強盗の巣として非難されたが、それにもかかわらず神殿は、イエスがそこにおられることで、目の不自由な人々が再び見えるようになり、足の不自由な人々が十分な強さを回復する場所となったのです。「神の子、メシア」(マタイ26:63)であるイエスこそ、神殿で礼拝されるべき方です。ここにこれまでの神殿とは違う新しい神殿が示されたのです。

  ヘロデ大王のよって補修されたエルサレム神殿は、78年後のA.D.70年にローマ帝国のティトゥスによって破壊されました。主イエスは、「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩れずに他の石の上に残ることのない日が来る。」(ルカ21:6)と神殿の崩壊を予告しました。エルサレム神殿から開始された建築の働きは、一つの民族の枠を超えて、地のはてまでも神の国を建設する計画となり、キリストの体である教会に引き継がれたのです。神の住まわれる神殿について、使徒パウロは次のように言っています。

 「あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソの信徒へに手紙2:19~22

   神の神殿であるのは、「あなたがた」つまり信仰者の群れである教会です。「二人または三人がわたし(主イエス)の名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」 (マタイによる福音書 18章20節)とあるように、信仰者の集まるところが教会です。同時に、「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿です。」(コリント一、6:19)とあるように、教会を形成する個々人の体も聖霊が宿ってくださる神殿とされているのです。

 神の神殿である教会も、また個々の信徒も、世俗主義に侵されないようにしなければなりません。また、聖霊によって私たち自身が造り変えられていくことが大切なのであり、神に対する信仰を、自分本位の安心感の拠り所としないように注意しなければなりません。

 

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「神の沈黙―映画「沈黙」について」

2017-01-22 14:13:15 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

     日本キリスト教 富 谷 教 会   週 報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

降誕節第5主日 2017年1月22日(日)  午後5時~5時50分

    礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 149(わがたまたたえよ)

交読詩編   22(わたしの神よ、わたしの神よ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳)ヘブライ人への手紙 2章17、18節

説  教   「神の沈黙―映画「沈黙」について」  辺見宗邦牧師

祈 祷                

讃美歌   311(血しおしたたる)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

                                       次週礼拝 1月29日(日) 午後5時~5時50分

                                       聖書  マタイによる福音書21章12~16節

                                       説教  「新しい神殿」 

                                       讃美歌(21)7 309 24 交読詩編84篇

  本日の聖書 ヘブライ人への手紙 2章17、18節

 17イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。18事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。

 本日の説教

   マーティン・スコセッシ監督によって映画化された遠藤周作原作の「沈黙」が、昨日から日本で公開されました。この映画を見た多くの方は、残虐な拷問に圧倒され、沈黙する神に疑問をもち、棄教する神父たちを見て、複雑な思いを抱かれたのではないでしょうか。そこで映画について解説しながら、神の沈黙について、聖書から学びたいと思います。

 この映画を製作したスコセッシ監督は、アカデミ―監督賞や種々の受賞をしているイタリア系アメリカ人です。全編を台湾でロケ撮影した原題「Silence」は、17世紀の江戸初期の日本を舞台にした歴史小説を映像化したものです。

  この映画は、激しいキリシタン弾圧の中で棄教した二人の司祭、クリストヴァン・フェレイラ(1580頃~1650)と、ジュセッぺ・キアラ(1602~1685)をモデルにしています。映画で主役を演ずるロドリゴのモデルが、このキアラです。

 ポルトガル出身のイエズス会司祭フェレイラは慶長14年(1609年)長崎に渡来し、迫害下の長崎や大阪で布教しました。寛永10年(1633)長崎で捕らえられ、数時間の穴吊るし刑の後、棄教しました。日本名を沢野忠庵と称し、妻と30人の奉公人を与えられ、禅宗寺の檀家となり、長崎に住み、キリシタン詮議に協力しました。この棄教はイエズス会をはじめ教会関係者に与えた衝撃は大きく、海外にも大きな反響を与えました。

 キアラはイタリア人で、イエズス会の司祭です。1635年にリスボンを出港カンボジア布教などに従事したが、日本布教の熱意から寛永20年(1643)筑前国(福岡県)に潜入するも、間もなく捕らえらえ、幕府側の詮議を受け、念仏を唱え棄教しました。その後、日本名は岡本三右衛門、妻と奉公人10人を与えられ、宗門改め役の配下として江戸切支丹屋敷で死ぬまで幽閉の身となりました。

 映画では、島原の乱(1637~1638)が幕府によって鎮圧されて間もない頃、日本で布教していた準管区長のフェレイラが、苛酷な弾圧に屈して棄教したという報せがローマにもたらされました。フィレイラの弟子であるポルトガル人司祭のセバスチャン・ロドリゴは、恩師の棄教が信じられず、フランシス・ガルペと共に、日本に潜入するためマカオに立ち寄り、そこで気の弱い日本人キジローと出会います。キジローの案内で五島列島に潜入したロドリゴは隠れキリシタンたちに歓迎されるが、やがて長崎奉行所に追われる身となります。

 幕府に処刑され、殉教する信者たちを前に、ガルペは思わず彼らの元に駆け寄って命を落とします。次々と隠れキリシタンが役人によって摘発され、海辺の十字架に磔(はりつけ)にされ、藁に包まれたまま海へ投げ入れられるなど、激しい拷問を受けるキリシタンに救いが見えない状況にロドリゴは苦悩します。宣教師である彼も、苦しい状況においてなお沈黙を続ける神に疑問を持ちはじめる表情がうかがえます。ロドリゴはひたすら神の奇跡と勝利を祈るが、神は「沈黙」を通すのみでした。「主よ、なぜあなたは黙ったままなのですか。」とロドリゴは主に訴えます。逃亡するロドリゴはキチジローの裏切りで密告され、捕らえられます。

 長崎奉行所でロドリゴは棄教したフェレイラに出会います。以前はキリスト教に帰依して、洗礼まで受けた長崎奉行の井上筑後は対話を通して、日本人にとって果たしてキリスト教は意味をもつのかと語り、司祭に「神」への疑問を植え付けます。

 井上(正重)筑後守(1585~1661)は歴史上の人物で、三代将軍家光に仕え、島原の乱で島原や、度々長崎にも行き、キリシタン禁圧政策実行の主導者となり、全国のキリシタン根絶に取り組んだ人物です。

 神の栄光に満ちた殉教を覚悟で牢につながれたロドリゴに、夜半、フェレイラが語りかけます。その説得を拒絶するロドリゴは、一晩中、拷問にかけられた隠れキリシタンたしのうめき声を聞かされます。その信者たちはすでに棄教を誓っているのに、ロドリゴが棄教しない限り彼らは許されないことを告げられます。自分の信仰を守るのか、自らの棄教という犠牲によって、キリスト教徒を救うべきなのか、究極のジレンマを突き付けられたロドリゴは、フェレイラが棄教したのも同じ理由であったことを知り、ついに踏絵を踏むことを受け入れます。

 夜明けに、ロドリゴは奉行所の中庭で踏絵を踏むことになります。銅板に刻まれた主の顔に近づけた彼の足は激しい痛みが襲います。そのとき銅板のあの人は司祭に向かって言った。踏むがよい。お前のその足の痛みを、この私がいちばんよく知っている。その痛みを分かつために私はこの世に生れ、十字架を背負ったのだから」と語りかけます。

  こうして踏絵を踏み、敗北に打ちひしがれたロドリゴを、裏切ったキチジローが許しを求めて訪ねます。映画では、キリストが再び、キチジローの顔を通してロドリゴに語りかけます。「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ。」

 映画の最後は、ロドリゴが亡くなり、仏式の葬儀が行われます。棺桶には座ったロドリゴの遺体があり、ロドリゴの妻がロドリゴの胸のあたりに魔除けの子刀をそっと入れるシーンがあります。このときにロドリゴが最後まで隠し持っていた十字架を入れたのでしょう。ラストシーンは火葬の棺桶の中のロドリゴの遺体の胸には十字架が置かれていました。ロドリゴは棄教したのではないことを示しています。

  原作の小説では、次のようなロドリゴの独白で終わります。

「自分は…あの人を決して裏切ってはいない。今までとはもっと違った形であの人を愛している。私がその愛を知るためには、今日までのすべてが必要だったのだ。私はこの国で今でも最後の切支丹司祭なのだ。そしてあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。」

遠藤周作は、拷問に屈した者と、屈しなかった者の違いを次のように述べています。

「拷問に転んだ者には神がその愛にもかかわらず、かほどの(これほどの)責め苦を受けている自分たちを助けようともせず、沈黙を守っていることが耐え切れなかったのだ。……一方、あくまで拷問に屈しなかった者はこの責め苦をやがて自分たちが受ける永遠の至福のための試練と考えた。彼等はその時、イエスもまた同じような肉体の苦痛を生前、味わったことを思い出し、イエスの受難に倣おうとしたのである。拷問のなかで神のおそろしい沈黙を感じた者は棄教し、神もまた自分と共に今、苦しんでいるのだと考えた者はこの責め苦に耐えぬこうとしたのである。」(『遠藤周作文学全集10 評伝1』エッセイ)

 遠藤周作は拷問に転ぶ弱い者に焦点を当て、神の愛は苦痛から逃れるために踏み絵を踏んでしまう者を許すほど大きいことをこの小説で訴えたのです。

 天地を創造され、人格をそなえた人間を創造された聖書の神は「沈黙の神」ではなく、「語られる神」です。

 偶像の神は「口があっても話せず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかぐことができない。手があってもつかめず、足があっても歩けず、喉があっても声を出せない」(詩115篇5~7節)、神です。なぜなら、それらは人の手によって造られた偶像だからです。

「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」(ヘブライ人への手紙1章1節)とあるように、天地を創造された聖書の神は、「語られる神」です。

 人間の神を無視する不信仰のために、人間は神との霊の交わりを閉ざされ、神の霊を受けられない者となり、神と人間との間に断絶が生じました。人間はこの断絶を超えることができません。神が「沈黙の神」と思えるのはそのためです。聖書の神は、神ご自身が自らを現わされない限り、決して人には知ることのできない神です。

このような人間を救うために、最後には、父なる神は御子イエス・キリストを、この世に送ってくださったのです。

旧約聖書の中には、沈黙されている神に訴える祈りがいくつも記されています(詩編27篇9節、35篇22節、38篇22節、55篇2~5節)。

「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか。わたしの神よ、昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。」(詩編22篇2、3節)

 ヨブ記にしるされている義人ヨブも、災いに会い、嘆き苦しみ、神を呼んだが、その答えがないので苦しみました。「神よわたしはあなたに向かって叫んでいるのに、あなたはお答えにならない。御前に立っているのに、あなたは御覧にならない。あなたは冷酷になり、御手の力をもってわたしに怒りを表される。」(ヨブ記30章20~21節)

 最も注目すべき神の沈黙は、イエスの十字架上で苦しみ、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた時です。

  主イエスは、詩編22篇2節のことばで叫んだのです。詩編22篇は、神に見捨てられた信仰者が、敵対者に取り囲まれながら、なお神に祈りをささげる悲痛な声です。詩編22篇は、悲痛な叫びから始まり、最後は神への感謝の祈りになています。しかし、イエスの叫びは、絶望のただ中で発した祈りで終わっています。

イエスは、殺された後、三日目には復活するという死と復活を、三度も弟子たちに予告していました。なぜキリストがこの悲惨な絶望の言葉を叫ばれたのか。それは、私たちの身代わりとして、罪の報いを受けられたからです。キリストは「神に見捨てられる」という裁きを受けたのです。父なる神は、このキリストを復活させ、「高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(フィリピ2:6~9)キリストは神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。イエスは、約束された聖霊を御父から受けてわたしたちに注いでくださいました。神は沈黙しているのではありません。キリストはわたしたしの心の内に住んでいてくださり、どんなときも共にいてくださるのです。

 第二次世界大戦中にヒトラー暗殺計画に加担し、別件で逮捕され、刑死したボンへッファー牧師の獄中で書いた詩を、二節だけ最後に紹介しましょう。

 主の良き力に誠実に静かに包まれて、守られて、素晴らしく慰められて、私はこの日々をあなた方と生きよう。そして新しい年を迎えよう。

  主の良き力によく守られて、何が起きようと、主の慰めを待ち望もう。主は夜も朝も共にいて下さる。そして間違いなく新しい日々も。」

 この詩は、讃美歌21の469番の讃美歌になっています。

 絞首刑が執行される前、ボンヘッファーは、「これが私の最後です。でも、主にあっては新たな始まり。私はあなたと共に世界におけるキリスト者の広がりを信じています」と、最後の祈りをささげました。最後を見守った医師は「彼は神に全く身を委ねていた」と証言しています。死刑になるときも、主なる神は彼と共におられたので、彼は心の平安を乱されることなく、主と共に神のみもとに行かれたのです。

 

 

 

 

 

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「最初の弟子たち―人間をとる漁師」 マタイによる福音書4章18~25節

2017-01-14 20:56:47 | キリスト教

                   ↑ イエスのガリラヤでの宣教活動

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

    日本キリスト教 富谷教会     週報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

降誕節第4主日  2017年1月15日(日)   午後5時~5時50分

      礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉             

讃美歌(21)  56(主よ、いのちのパンをさき)                                       

交読詩編   33(主に従う人よ)                                                         

主の祈り   93-5、A                                                                     

使徒信条   93-4、A                                                                     

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書4章18~25節(新p.5)                      

説  教  「最初の弟子たち―人間をとる漁師になる」 辺見宗邦牧師      

祈 祷                                   

讃美歌   517(神の民よ)                       

聖餐式    72(まごごろもて)                     

献 金                                   

感謝祈祷                                   

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)                   

祝 祷                                      

後 奏  

            次週礼拝 1月22日(日) 午後5時~5時50分

            聖書  マタイによる福音書4章12~17節

            説教  「宣教の開始」 

            讃美歌(21)96 494 24 交読詩編44篇

  本日の聖書 マタイによる福音書4章18~25節

18イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 19イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 20二人はすぐに網を捨てて従った。 21そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。 22この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。 23イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。 24そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。25こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。

   本日の説教

  先週の説教では、マタイの3章13節から17節にかけてのイエスの洗礼についてお話しいたしました。今日の聖書の箇所に入る前に、4章の1節から17節までの部分について、かいつまんでお話しいたします。

 1節から11節には、イエスが霊に導かれ荒れ野に行き、四十日間、悪魔から誘惑を受けたことが記されています。イエスはこの誘惑に勝利され、メシアとして働くための準備が整いました。悪魔は離れ去り、天使たちがイエスに仕えました。

 そして、4章12節から17節には、ヨハネが捕らえられたことを聞いたイエスが、ユダヤの荒れ野からガリラヤに帰り、その後、故郷のナザレを離れて、ガリラヤ湖の湖畔の町カファルナウムに住まわれたことが記されています。

 ヨハネはガリラヤとペレヤの領主ヘロデ・アンテパスが妻と離婚して、異母兄弟ヘロデ・フィリポの妻ヘロディアを自分の妻としたことを強く非難したため、怒りを買い、逮捕されました。紀元29年頃のことです。ヨハネは死海東岸に近いマケルス要塞の牢に幽閉され(マタイ11:2~15)、ほどなく惨殺されました(14:1~12)。

 先駆者ヨハネの逮捕をきっかけにして、イエスはガリラヤに戻り、宣教を開始しました。カファルナウムに行く前に、ナザレでは会堂でイザヤ書の言葉が実現したことを宣言され(ルカ4:16~30)、ナザレに近いカナでは、婚礼に招かれたイエスが、最初の奇跡を行ったとヨハネ福音書は報告しています(ヨハネ2:1~11)。

 イエスがガリラヤに退いたことは、預言者イザヤの言われたことが実現するためでした。「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」(イザヤ書9:1~2)

 「ゼブルン」や「ナフタリ」は、イスラエルの十二部族の中の二部族の名ですが、分割されて与えられたガリラヤ地方の土地を指す地名となりました。ガリラヤは、紀元前八世紀のアッシリアに征服されて以来、住民の強制移住や他民族の入植が数世紀にわたって繰り返された結果、異教的要素が強く残りました。紀元前167~63年、マケドニヤの支配から独立したユダヤ王朝時代(ハスモン王朝)に、ガリラヤ地方は大掛かりなユダヤ化政策が実施されたが、それでもイエスの時代は、人口の半部以上が異邦人で、ユダヤ地方からは「異邦人のガリラヤ」と蔑視されていました。この暗闇の地に住む異邦人への宣教が、メシア・イエスの出現によって始まったのです。

 「そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められ(4:17)ました。

 イエスの公的伝道は、悔い改めの勧告と天の国の到来の宣言で始まります。天の国はイエスの到来と共に始まり、イエスの再臨をもって完成するのです。悔い改めは、神の支配するときが近づいたという救いの恵みに応えて、神に立ち返ることです。神の方に生き方を方向転換することを意味しています。自分の間違いや失敗などを反省したり、後悔するという意味ではありません。キリストの救いにあずかる喜びの行為なのです。

 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、四人の漁師を弟子とされました。ガリラヤ湖は南北約20キロ、東西はもっとも広いところで12キロ(琵琶湖のほぼ四分の一)です。古くから漁業が盛んでした。

 まず、イエスは二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとアンデレの兄弟が湖で網を打っているのを御覧になり、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。二人はすぐに網を捨てて従いました。そこから進んで、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの兄弟が、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になり、彼らをお呼びになりました。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従いました。

 この無学な普通の人である漁師四人がイエス様の最初の弟子でした。9章9節ではマタイを選んでいます。イエスは十二人の弟子を作ります(マタイ10:1~4)。十二の数は、イスラエルの部族の数に基づいています(19:28)。十二の弟子から出発した教会は、新しいイスラエルとして、新しい神の民を形作るのです。イエスはこの十二人を「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」と派遣しましたが(10:6)、復活後は、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい(28:18,19)」と言って、派遣しています。

 最初の四人の弟子の召命ですが、大のおとなが初対面の人の一声ですぐついて行くというのは理解しがたいことです。マタイ福音書とマルコによる福音書の記事は、ほとんど同じです。イエスは抵抗できない権威をもって召し、召された人は徹底的な従順をもってそれに応答するという記事になっています。状況などはすべて省いており、弟子の献身に焦点を当てています。

 ヨハネによる福音書では、洗礼のヨハネがイエスを見て、「見よ、神の小羊だ」と言ったのを聞いた、ヨハネの二人の弟子がイエスについて行って、イエスのもとに泊ります。そのヨハネの弟子の一人がアンデレです。もう一人の匿名の弟子はヤコブの兄弟ヨハネではないかと推察されています。翌日、アンデレは兄弟シモン(ペトロ)に会って、「わたしたちはメシアに出会った」と伝え、シモンをイエスのところに連れて行って、イエスに会わせます。(ヨハネ1:25~42)

 ルカによる福音書では、イエスがシモンの舟に、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われ、大漁の魚なとれたのに驚いたシモンが、イエスに従っています。

 このような状況を、マタイとマルコは省略しています。主イエスはシモンとアンデレに、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と語りかけました。ヤコブとヨハネに対しては「彼らをお呼びになった」とありますが、シモンとアンデレに言ったと同じことを語りかけたと思われます。「わたしについて来なさい。」イエスは人々を招かれるとき、この言葉をしばしば使いました(8:22、16:24、19:21)。この言葉は、単に教えを学ぶためについて来るように、という軽いものではありません。これからの歩みのすべてをわたしにかけ、わたしと行動を共にしなさい、という言葉です。イエスは弟子たちに、「わたしについて来たいと思う者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16:24)と言っています。イエスにどこまでもついて行く覚悟をしたペトロも、他の弟子たちも、十字架につけられたイエスを見捨てました。この弟子たちに、復活されたイエスは現れ、再び弟子として派遣したのです。「わたしについて来なさい」というイエスの招きの言葉は、わたしたちをイエスについて行けるようにしてくださる言葉でもあるのです。

  イエスは彼らに「人間をとる漁師にしよう」と語られました。「人間をとる」とは、イスラエルの家の滅びた羊を神のもとに連れ戻すことです(10:6)。この言葉はエレミヤ書16:16を背景にしているとも思われます。

 「見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。……わたしの目は、彼らのすべての道に注がれている。彼らはわたしの前から身を隠すこともできず、その悪をわたしの目から隠すこともできない。(エレミヤ書16:16~17)

 この漁師たちは、ユダ王国の罪人に対する神様の裁きのために遣わされた敵バビロンの兵士を表しています。しかし、神のさばきと同時に神の救いが告げられています。

見よ、このような日が来る、と主は言われる。人々は……『イスラエルの子らを、北の国、彼らが追いやられた国々から導き上られた主は生きておられる』と言うようになる。わたしは彼らを、わたしがその先祖に与えた土地に帰らせる(エレミヤ16:14,15)とあります。

   これは、エレミヤ書に加筆されたバビロン捕囚の終わりも近づいた頃の回復の預言です。神の定めたさばきの期間が終わるとき、バビロンに連れて行かれがユダの残りの人々は、ふたたびユダの国に帰って来るのです。その時には、「『このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる…』と主は言われ」(エレミヤ23:2)ます。「見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす」(同23:5)とメシア・イエスの来ることを予言しました。そのとき、主は新しい契約を結ばれるのです(同31章)。

 主イエスが派遣する「人間をとる漁師」としての弟子たちは、罪人に対して神様の裁きのために遣わされるのではなく、イスラエルの家の滅びた羊を神のもとに連れ戻すためです。

 イエスの呼びかけに応じた四人は直ちにイエスの招きに従っています。それは自然な人間の絆を断ち切り(父親を残す)、それまでの生活で手放せないと思っていた拠り所を放棄(舟、網を捨てる)したのです。私たちはこれを読むと不思議に思います。どうしてすぐにそのような献身ができたのでしょう。それは彼らが主イエスに出会ったからです。主イエスは神の独り子としての権威をもって、そして圧倒的な愛をもって、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と招きました。この招きの言葉を受けて、四人は喜んで従ったのです。

  私たちも、主イエスが今も生きておられる神の子であることを信じることができるならば、このイエスに招きに喜んで従うことができるでしょう。このような信仰も献身も聖霊に導きによるものなのです。

  パウロは、「わたしの主イエス・キリスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみなしています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです」(フィリピ3:8,9)と言っています。

 牧師や伝道者だけが伝道するのではありません。キリスト者はみな神の民の一員として御言葉を伝える使命を与えられているのです。キリスト者はイエス・キリストのすばらしさを深く知り、主イエスに聞き従っていくとき、「網」や「船や父親」などに代表されるこの世の支えに頼るという生活から、主イエスのみを信じることへ、主イエスを愛することへと、徐々に作り変えられていくのです。そしてキリストによって生かされている喜びを証しし、人々をキリストへ導く、「人間をとる漁師」とされるのです。キリスト者は誰もが伝道者として献身しなければならない、ということではありません。しかし、すべてのキリスト者は、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という主イエスの招きを受けているのです。

「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。……こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。」

 この要約的な報告には、イエスがガリラヤを歩き回り、教えに並んでいやされたことが記されています。イエスのもとにあらゆる病人が持ち込まれたこと、そしてイエスはどんな病気もいやしたことを強調しています。重要なのはイエスの神の子としての奇跡力を誇張することよりも、むしろ教えが重要視されています。そして大勢の群衆がイエスに従いました。

 このガリラヤ伝道の記事は、ルカによる福音書では、四人の「漁師を弟子にする」記事の前に、書かれています(ルカ4:14~44)。マタイ福音書の唐突とも思える四人漁師に対するイエスの招きも、ルカが記すように、イエスのガリラヤ伝道が進展し、イエスの評判が広まった中で行われた、と考えられるのです。。

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「イエスの洗礼」 マタイによる福音書3章13~17節

2017-01-04 18:56:17 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

  日本キリスト教 富 谷 教 会  週 報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、

キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに

加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしな

さい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって

行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

  降誕節第3主日   2017年1月8日(日)午後5時~5時50分

     礼 拝 順 序

                司会 永井 慎一兄

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 368(新しい年を迎えて)

交読詩編    2(なにゆえ、国々は騒ぎ立ち)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書3章13~17節(新p.14)

説  教    「イエスの洗礼」   辺見宗邦牧師

祈 祷                

讃美歌   528(あなたの道を)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

            次週礼拝 1月15日(日) 午後5時~5時50分

            聖書  マタイによる福音書4章18~25節

            説教  「最初の弟子たち」 

            讃美歌(21)56 516 24 交読詩編40篇

本日の聖書 マタイによる福音書3章13~17節

  13そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。 14ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」 15しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。 16イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。 17そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

本日の説教

 マタイによる福音書二章は、ヘロデ王がユダヤ人のメシアとして生まれた幼子イエスを探し出して殺そうとしているから、エジプトへ逃れるようにと、天使から夢で知らされたヨセフが幼子とその母マリアを連れて避難したことが記されていました。そのヨセフの家族が、ヘロデ王の死後、故国に帰り、がリラヤ地方のナザレの町に行って住んだところで終わっています。

 三章では、洗礼者ヨハネの宣教活動の開始から始まります。ルカによる福音書三章1節によると、ヨハネが悔い改めの洗礼を宣べ伝え始めたのは、ローマ皇帝ティベリウスの治世の第15年とあるので、これは紀元27年から28年のことになります。イエスが30歳前後の頃になります。「そのころ」(3:1)、神の言葉が荒れ野で祭司ザカリアの子ヨハネに降りました。ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って教えを宣(の)べました。。

 荒れ野は神の恵みに頼って生かされるところであり、神だけが希望となる場所です。ヨハネの宣教はこの荒れ野で始まりました。預言者イザヤの書に書いてあるように、「荒れ野で叫ぶ声がする。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」の預言が実現したのです。

 ヨハネの服装は、預言者エリヤのように、「毛衣を着て、腰には革帯を締めていました」(列王下1:8)。旧約聖書の最後のマラキ書にある、「見よ、わたし(主)は多いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす」(3:23)という預言のように、ヨハネはエリヤのような服装をしていました。

 ヨハネは、神の審判の時が間近に迫っており、ファリサイ派やサドカイ派の宗教家も、それから免れることはできないと告げました。これまでの祭儀的な清めや、形式的な律法遵守や、イスラエルの民族的特権が通用する時代は終わった。今や神の怒りに対して備える道は、罪の告白と悔い改めのみであると説いたのです。自分が立派なことをしてきたとか、血筋はアブラハムの子孫であるとか、神に仕える職業にあるとか、そういったことは通用しない。そんなことで、差し迫った神の怒りを免れることはできないと言ったのです。

ヨハネが行った洗礼は、従来の繰り返しなされる清めの洗礼や、改宗者の洗礼とは違って、一度限りの徹底的な悔い改めの洗礼でした。彼は一般民衆を相手に語りかけたので、エルサレムとユダヤ全土から、またヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で洗礼を受けました。

 ヨハネは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言いましたが、イエスの宣教開始の宣言と同じです(4:17)。ヨハネはイエスの先駆者としての役割を担ったのです。「預言の時」はヨハネまでであり、新しい救いの時が、ここに始まったのです。

 マタイ福音書によると、ヨハネの洗礼運動はあくまで罪の告白と悔い改めを促すものでした。ヨハネは自らの洗礼を、「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けている」と、「水で」と限定しています。彼の後に来る方は、「聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(3:11)と告げました。「火で洗礼を授ける」とは、聖霊降臨(ヨエル書3:1)を示し、また、火による清め(マラキ書3:2)を示しています。

そして、手に簑(みの)を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて蔵に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」(3:12)と語りました。

人々を、麦ともみ殻とにふるい分けるように裁くのは、審判者である神のなさる行為です(イザヤ書17:13、29:5)。そして殻のような人を「永遠の火で焼き払われる」行為は、神の決定的な裁きを意味します。ヨハネはこのような勧めを民衆に語り、イエスの先駆者としての使命を果たしたのです。

 そして、今日の聖書の箇所に入ります。

そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。

イエスが神の子であり、メシア(救い主)であるなら、悔い改める罪を犯しているはずがありません。なぜイエスは、ヨハネの悔い改めの洗礼を受けるのでしょうか。

 ヨハネはそれを思いとどまらせようとして言いました。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」と、イエスの申し出を強く辞退しました。しかし、イエスは、「今は、止めないでほしい。」「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と言ってヨハネを説得しました。

 「正しいことをすべて行うのは、……」の文は、ギリシャ語の聖書原典では、「このように、すべての義を成就することは、私たちにふさわしいことなのだから」と言う文章です。これは、ヨハネの洗礼は神の意志にかなった正しいことであり、すべての正しいことを成し遂げる(実行する)ことが私たちにふさわしいことなのです、という意味になります。パウロも「すべて正しいことを…実行しなさい」(フィリピ4:8)と勧めています。

  ところで、どうしてメシアが洗礼を受けることが神のご意志なのでしょうか。それは、ご自分の民を罪から救う方は、ヨルダン川の水の中で、罪深い大衆に加わり、民と共に洗礼を受け、民と連帯されるためでした。主イエスは、人々の主、また王として定められた方として、民が「神の民」として再生するための清めの洗礼を受けられたのです。こうしてイエスは十字架の道へと歩み出すのです。

イエスは、…民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。」(ヘブライ2:17)

そこで、ヨハネはイエスの言われたとおりにしました。ヨハネの施した洗礼は、洗礼を受ける者の身体をヨルダン川の水に沈める浸礼でした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられました。その時、天がイエスに向かって開きました。

 預言者エゼキエルがケバル川の河畔で召命を受けたときも、「天が開かれ……神の顕現に接し」(エゼキエル書1:1)ました。天が開くとは、イエスがメシアとして活動を開始する時が迫ったことを示します。

 「イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。

 メシアとは、「(油を)注ぐ」という意味の動詞から派生した語で、「救世主」という意味の語です。イエスに神の霊が注がれたことは彼が神によって立てられた「メシア」であることを表しています。旧約聖書の時代は、油を注がれて神からの特別な使命を受けた預言者や、祭司や王は、しばしば神の霊を授けられてその任務に携わりました。神の霊はメシアに悟りと力と聖別を付与すると信じられていました。

「神の霊が鳩のように」とありますが、当時ユダヤ教では鳩は神の霊の象徴とされていました。イエスに霊が降ったことは、今や終末のメシア時代が始まったことを意味しています。

 「そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。

 天の声は、神の子としてのイエスの身分を読者に宣言します。全く同じ言葉が再び山上の変容の場面でも告げられます(マタイ17:5)。

 イエス様が洗礼を受けられたことは、現在の私たちとどのようなかかわりがあるのでしょうか。

 復活されたイエスは、弟子たちに「あなたたちは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」(マタイ28:19)と命じています。洗礼は、イエス・キリストに結ばれるために受けるのです。(ローマ6:3)イエス様の死にあずかるために洗礼を受け、キリストが死者の中から復活されたように、私たちも新しい命に生きるためです。

  私たちは、洗礼によって神様の愛する独り子であるイエス様と一つに結び合わされます。そのことによって私たちは神様の子とされるのです。神の子とされた私たちは、イエス様と同じように、神様の御心に適うことを何よりも第一とする者にされるのです。それは神を愛し、人を愛し、神に仕え、人に仕える道です。まことの神の御子であるイエス様に似た者に変えられ続けていく道です。 イエス様が備えて下さった洗礼は、わたしたちを新たに作り変えるための洗礼です。火によってわたしたちの古い姿を焼き捨て、すべての罪を赦し、すべての過去の穢れを清め、聖霊によって新しい人間として造りかえてくださるのです。これが霊と火によるイエス様が授けてくださる洗礼です。

  今年の教会の年間標語は、「キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。」です。

   そして具体的な勧めてとして、次の聖句を選びました。

互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

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