富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「最初の弟子たち」ルカによる福音書5章1~11節

2023-01-11 20:36:07 | 礼拝説教

  ↑ Luca Giordano ルカ・ジョルダーノ、イタリアの画家 ( 1632–1705). The Calling of Saint Peter and Saint Andrew. 

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

降誕節第4主日  2023年1月15日(日)  午後5時~5時50分

                            礼 拝 順 序                    

                司会 斎藤 美保姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 402(いともとうとき)

交読詩編    101(慈しみと裁きをわたしは歌い)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳) ルカによる福音書5章1~11節(新p.109)

説  教      「最初の弟子たち」  辺見宗邦牧師

祈 祷                                                    

聖餐式    78(わが主よ、ここに集い)

讃美歌(21) 513(主は命を)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オン・ラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019                                (辺見牧師)に、申し込み下さい。

                                   次週礼拝 1月22日(日)  午後5時~5時50分

                                   聖 書 ルカによる福音書4章16~30節

                                   説教題  「宣教の開始」 

                                  讃美歌(21) 402 518 27 交読詩編 111

本日の聖書 ルカによる福音書5章1~11節

5:1イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。 2イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。 3そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。 4話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。 5シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。 6そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。 7そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。 8これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。 9とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。 10シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後あなたは人間をとる漁師になる。」 11そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

本日の説教

主イエスは、ヨルダン川で洗礼を受けたあと、荒れ野で、四十日間、悪魔の誘惑を受けられました。イエスは誘惑に勝利され、メシアとして働くための準備が整いました。悪魔は離れ去りました。イエスは霊の力に満ちてガリラヤに帰られました。諸教会で教え、皆から尊敬を受けられました。

主イエスは、育った故郷のナザレに来て、安息日に会堂に入り、イザヤ書の言葉を読みました。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」(イザヤ書61・1-2)

イエスは会堂にいる人々に、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言されました。

朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれました。群衆はイエスを捜し当て、自分たちから離れて行かないようにと、引き留めました。しかし、イエスは「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない」と言い、ユダヤの諸会堂に行って宣教されました。

   

イエスがゲネサレト(ガリラヤ湖西岸のカファルナウム周辺のゲネサレト平原に由来する名)湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せてきました。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になりました。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていました。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗って、岸から少し漕ぎ出すように頼み、腰を下ろして舟から群衆に教え始められました。

 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えました。

漁師のシモンにとっては、もう一度、沖に出て網を降ろして漁をすることは、これまでの経験から無駄骨を折ることになると思えたでしょう。しかし、「先生のお言葉ですから」と漕ぎ出して行きます。主が語られる言葉を信じて実行したのです。シモンは圧倒的に迫ってくるイエスの人格から出る言葉に信頼し服従し、疲れ切った体を鞭打って再び沖へ漕ぎ出し、網を下ろしてみたのです。すると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになりました。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼みました。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになりました。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」と言いました。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからです。シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様でした。

シモンは大漁に驚きました。シモンは大漁の前は、イエスを「先生(エピスタタ)」と呼んでいました。弟子たちによって呼ばれるある程度の信仰の呼びかけです。大漁の後は、シモンの名は急にシモン・ペトロという信仰者の団体の頭としての名に変わり、イエスの足もとに平伏します。そしてイエスを「主よ(キュリエ)」と呼んでいます。大漁によってイエスに神の力を見たため、思わずイエスを主と呼んだのでしょう。そして、同時に自分の罪に気付いたのでしょう。「わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言いました。

シモンは聖なる偉大な方の前に立ったとき、傍(かたわ)らにいることが自分に値しないことを感じて恐ろしくなったのです。自分にふさわしくないような神の恵みの体験は、シモンを罪の自覚と告白へと向かわせました。 

豊漁によるシモンの信仰告白と改心は、イエスの弟子となる主の招きとなります。イエスはシモンに、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言われました。シモンの罪の告白に対して、祝福の言葉が与えられたのです。「恐れることはない」のみことばは、罪の赦しのことばでもあります。「人間をとる漁師」の直訳は「人間を生け捕りする者」です。旧約用語では、人を生きたまま危険から救うという意味ですが、神の国に人々を導き入れる宣教を指すことばとして用いられています。「今から後」というルカの用語は、古い状態から新しい状態への決定的転換を意味する句です。従って彼らはこの招きを境にして、彼らの古い職業を表す舟とすべてを捨ててイエスに従ったのです。シモンに向けられた主イエスの言葉を、彼の仲間たちは自分たちにも向けられた言葉として聞きました。そこで彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従いました。

この最初の弟子の召命物語がここに記されているのは、イエスの人気と群衆の規模の拡大のために、主イエスにとって助け手が必要になったということを暗示しています。主イエスは、学者や身分の高い人たちではなく、単純な生活にいそしんでいた漁師たちを選ばれました。純真で、素朴で、実直な彼らは今は無学であるが、神の言葉による真理を受け入れ、成長するのです。彼らに選ばれる資格や素質があるから選ばれたのではありません。彼らは十字架につけられたイエスを見捨てました。復活のイエスによる召命によって彼らは真の弟子となることができたのです。召命は、あくまでも主イエスの恵みによる自由な選びによるものでした。弟子たちの信仰も献身も聖霊に導きによるものでした。

今日の聖書の箇所は、御言葉に従って歴史の中を歩む教会の現実がここに語り告げられています。漁師たちは舟からおりて網を洗っていました。夜通し働いたのに一匹も魚が取れず、疲れ切って網を洗っていました。沖へ漕ぎ出し、網を下して漁をしてみなさい、とのイエスの命令に応え、イエスへの信頼に生きるところに教会の現実があります。

キリスト者はみな神の民の一員として御言葉を伝える使命を与えられています。誰もが伝道者や牧師となる訳けではありませんが、しかし、人々を主キリストに導いていく働きを何らか担うのです。キリスト者はイエス・キリストのすばらしさを深く知り、主イエスを愛することへと、徐々に作り変えられていくのです。そしてキリストによって生かされている喜びを、この世の生活の中で証しし、人々をキリストへ導く、人間をとる漁師とされるのです。わたしたちは、経験や常識にこだわらず、主イエスの「お言葉」に従って、豊かな祝福があることを信じて、宣教活動を続けてまいりましょう。

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