↑ コリント産の黒絵の陶器
←素焼きの陶器
〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403
日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
復活節第三主日 2022年5月1日(日) 午後5時~5時50分
年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)
礼 拝 順 序
司会 辺見 順子姉
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 206(七日の旅路)
交読詩編 145(わたしの王、神よ、あなたをあがめ)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)コリントの信徒への手紙二4章7~15節(新p.329)
説 教 「宝を納める土の器」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 325(キリスト・イエスは)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
祝 祷
後 奏
〇オンラインで礼拝に参加できます。富谷教会に電話で申し込みください。
次週礼拝 5月8日(日) 午後5時~5時50分
聖書 エゼキエル書34章7~15節
説教題 「まことの羊飼い」
讃美歌(21) 97 459 120 交読詩編 23
本日の聖書
4:7ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。 8わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、 9虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。 10わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。 11わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。 12こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。 13「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。 14主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。 15すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。 16だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。 17わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。 18わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。
本日の説教
コリント(現在名はコリントス)は、古代ギリシャの都市で、ローマ帝国時代(B.C.27~A.D. 395年東西分裂)、パウロの時代は、現在のギリシャ全土の北部を除いた地域(アカイア州)の首都でした。現在の首都アテネから西78㌔にあります。
パウロが第一の手紙を書き送ってから約一年半位後、紀元55年頃に書いたのが第二の手紙です。
パウロがコリントを去った後、他のキリスト教共同体からコリントにやってきた宣教者たちが、パウロの弱さや欠点をとらえて攻撃し、パウロの使徒職を否定しようとしました。「使徒」とは、「特別な使命を受けて派遣された者」と言う意味です。
パウロへの非難は、彼の手紙(1:13-14)も福音(4:3)も不明確である。彼は推薦状を持たず(3:1、4:2)、その振舞いも不可解で、人につまずきを与える(5:1以下、6:3-4,10:5)。悪賢くて、教会からだまし取っている(7:2、12:6)。「面と向かってはおとなしいが、離れていると気が強くなる」男で(10:11)、弁舌はつたない(11:6)。キリストに属していると主張できるはずもなく(10:7)、キリストの委託なしにコリントに来たのだ(10:13-14)。「大使徒」たちに劣る者で(11:5、12:11)、教会からの報酬で生計を立てる資格もない(11:7以下、12:13)。いや、彼は使徒ではないのだ(12:12)。彼をとおしてキリストが語っているとは言えない(13:3)。このような使徒としての自分自身の人格と行動とに向けられた信徒の疑いと非難に対し、パウロは教会に対し、自分の使徒職を説明し、擁護し、弁明するために書いたのがこの手紙です。この手紙の中でパウロは、他のどんな手紙よりも、あからさまに、詳しく自己を語っています。
四章でもパウロは、自分に委託されている使徒職の正統性と、それが神に由来する事実とを強調します。1節の「憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのです」という考えは、3:6節の「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく、霊に仕える資格を与えてくださいました」と等しい主張です。
6節の「闇から光が輝き出よ」という神御自身の言葉は、創世記1:3の「光あれ」を思い起させます。パウロは、ダマスコへの途上で起こった自己の回心の出来事に関連づけて考えているものと思われます(使徒言行録9:3-15、22:6-16、26:12-18を参照)。この神が信徒の心の中で輝いてくださり、「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」とパウロは言います。
「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」(4:7)
「このような宝」とは、文脈上、4章4節の「神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光」とある「福音」です。そしてそれは4章5節の「わたしたちは、・・主であるイエス・キリストを宣べ伝えています」の「イエス・キリスト」です。このような宝をわたしたちは「土の器に納めています」。それは「この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるため」と言います。ここでパウロは、その宝と対比して自分を「土の器(ギリシア語では、オストラキノイス)」にたとえます。「土の器」は、ここではパウロの使徒の務めに関する肉体と心のもろさや弱さであり、死ぬべき肉体をも意味しています。この器は土から出来ているので、落せば割れるし、叩けば壊れるもろい存在です。これはパウロだけでなく、弱さともろさを持ち、死ぬべき存在である私たち人間をさしていることは明らかです。
旧約聖書の創世記2章7節には、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。また3章19節には「あなたは土から取られ、土に帰る」とあります。土の器としての人間は、土から取られて生きる者となり、死んで土に帰る存在です。そこに聖書は人間存在の本質を見ています。
ギリシャの最大の貿易港であったコリントは、陶器の産地としても有名でした。壺の胴に黒絵で人体を描き、舞い、運動する人体が巧みに描かれたことで有名になりました。パウロは、コリントの人なら誰でも知っている陶器について話します。それも芸術的な装飾のギリシャ陶器(ケラミコス〔黙示録2:27〕)ではなく、彩色をほどこす前の素焼きの「土の器」(オストラキノイス)を用いて、人間を表現したのです。
パウロは、マイナスのイメージをもつ「土の器」を、救い主キリストを宿す「土の器」として、プラスのイメージに変えたのです。
それは、『力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』(12:9)と主イエスから示されたことによるものであったと思われます。「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ・・迫害・・状態にあって、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」と言っています(12:9-10)。
かつて、パウロはファリサイ派の人であったとき、自分が土の器である自覚はありませんでした。だが、福音を伝える使徒職の委託を主からうけた時、福音そのもののもつ神の力の偉大さに比べて、その福音伝道者としての弱さを自覚したのです。しかし、伝道者の弱さの中で、福音そのもののもつ神の力は、著しく現われました。
「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」(4: 8-9)
「四方から苦しめられ」、「行き詰まり」、「途方に暮れ」、「虐げられ」、「打ち倒される」、こうした状況は、肉体をもつ弱い人間であるために引き起こされる状況であり、まさに彼が「土の器」であるためであることを示しています。
パウロはすでに1:8で、「アジア州で被った苦難、すなわち、耐えられないほどひどく圧迫され、生きる望みを失い、死の宣告を受けた思いをした」ことを語っています。また、「マケドニア州にやって来たとき、身に全く安らぎがなく、外には戦い、内には恐れと、ことごとに苦しんでいた」(7:5)事実を述べています。しかしどんなに落胆せざるを得ないような状況に突き落とされても、人々の非難や中傷にさらされることや、鞭打たれたり投獄されたりというような数々の経験をさせられても、どのような患難や、絶望的状況も、パウロを押しつぶすことはありませんでした。それは神の超越的な力が、彼を支えていたからです。パウロの力の源が、自分のうちにあるのではなく、神の恵みのうちにあったからです。神の力はパウロの弱さの中でこそ、完全に現わされました(12:9)。そこには問題は現実にあっても、首尾よく導いてくださる神の力があります。
「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」(4:10)
パウロはここで、イエスの死と命に注目することによって、私たちの生と死の意味をより明瞭に考えます。10節の「イエスの死を体にまとっている」ですが、この死は通常用いられる死ではなく、「死につつある人びとの状態」、「死のさま」を意味します。「イエスの命がこの体に現われるため」なのです。ここでは、「力」の代わりに「命」という言葉が何度も出てきます。力とは、ここでは命の力、自分を生かす「イエスの命」なのです。
「わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。」(4:11)
「イエスの命」と対比されている「イエスの死」は、かならずしも現実の、具体的な「苦しみ」(つまり死の苦しみ)に結びついていると考える必要はないと思われます。むしろ13:4にあるように「キリストは、(人間としての)弱さのゆえに十字架につけられた」、その「弱さ」を指します。そして、この「キリストの弱さ」にあずかる「使徒の弱さ」、すなわち、前述の種々の迫害や苦難の結果使徒が体現することを余儀なくされたあの「弱さ」を指していると思われます。
「こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。」(4:12)
「わたしたちの内には死が働き、あなたがの内には命が働いていることになります。パウロがキリストの死を通して死にさらされていることによって、キリストに回心する人々を獲得し、それがコリントの信徒に命をもたらすのです。パウロが死にさらされているのは、自分自身のためではなく、彼らのためです。パウロの苦しみがキリストの苦しみの欠けた所を補うものであり、教会のためのものです(コロサイ1:24)。
「『わたしは信じた。それで、わたしは語った』と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。」(4:13)
パウロはギリシヤ語訳の詩篇116:10を引用して、詩篇の作者は、主を信じ、御名を呼んで救われ、語ったが、詩篇作者に働きかけた「同じ霊」の働きによって、今の自分も主を信じ、語っている、と言います。
「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。」(4:14)
いかなる迫害にもめげず、主キリストを告げていくための原動力を、ここでは特に、御子を復活させた御父に求めています。これは、この世では苦しいが、やがて死んでから後、よみがえってイエス様のおられる国に入れていただけるのだ、という未来のことなのでしょうか。いいえ、これは将来に対するあいまいな希望ではありません。パウロがすでに自分自身のうちにイエスの命を見出していたように、彼はイエスと共にいる確かさを知り、コリントの信徒もそれを知るべきでありました。
イエスを死人の中から甦らせた方の力は、わたしたちの今の現実の生活の中で働くのであります。だから、パウロは、イエス・キリストを宣べ伝える困難さの中で、何度も打ちひしがれ、弱り衰えながらもなお立ち上がされたのです。この命の力を知っているということこそ信仰なのです。この信仰を与えるのが霊なのです。その命の望みが、今ここにおける患難に生きる力となるのです。
「すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。」(4:15)
パウロは使徒的活動の目的が、実に神の栄光と、信徒たちの利益のみであることを繰り返し述べます。
本当の正しい信仰は、自己が砕かれ、「土の器」とされていくことから始まります。そして自己が砕かれていくことの中で、わたしたちは、この「土の器」の中に隠された「宝」に目が開かれて行くのです。そして、そこから、「四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害にあっても見捨てられない。倒されても滅びない」という確かな人生が導き出されて来るわけなのです。
わたしたちの毎日は、イエスの死をわが身に負って、愛に生きるのです。そのように生きていくとき、さらに自我が砕かれ、醜いもの、弱いものとされ、「土の器」とされていきます。わたしたちは、自分が砕かれるときにこそ、十字架の主がわたしたちの傍らに立ってくださることを忘れてはなりません。この「土の器」の中に、宝である主イエスがやどってくださり、偉大な神の力、復活の力を発揮するのです。
コリント(現在名はコリントス)は、古代ギリシャの都市で、ローマ帝国時代(B.C.27~A.D. 395年東西分裂)、パウロの時代は、現在のギリシャ全土の北部を除いた地域(アカイア州)の首都でした。現在の首都アテネから西78㌔にあります。
パウロが第一の手紙を書き送ってから約一年半位後、紀元55年頃に書いたのが第二の手紙です。パウロがコリントを去った後、他のキリスト教共同体からコリントにやってきた宣教者たちが、パウロの弱さや欠点をとらえて攻撃し、パウロの使徒職を否定しようとしました。「使徒」とは、「特別な使命を受けて派遣された者」と言う意味です。
パウロへの非難は、彼の手紙(1:13-14)も福音(4:3)も不明確である。彼は推薦状を持たず(3:1、4:2)、その振舞いも不可解で、人につまずきを与える(5:1以下、6:3-4,10:5)。悪賢くて、教会からだまし取っている(7:2、12:6)。「面と向かってはおとなしいが、離れていると気が強くなる」男で(10:11)、弁舌はつたない(11:6)。キリストに属していると主張できるはずもなく(10:7)、キリストの委託なしにコリントに来たのだ(10:13-14)。「大使徒」たちに劣る者で(11:5、12:11)、教会からの報酬で生計を立てる資格もない(11:7以下、12:13)。いや、彼は使徒ではないのだ(12:12)。彼をとおしてキリストが語っているとは言えない(13:3)。このような使徒としての自分自身の人格と行動とに向けられた信徒の疑いと非難に対し、パウロは教会に対し、自分の使徒職を説明し、擁護し、弁明するために書いたのがこの手紙です。この手紙の中でパウロは、他のどんな手紙よりも、あからさまに、詳しく自己を語っています。
四章でもパウロは、自分に委託されている使徒職の正統性と、それが神に由来する事実とを強調します。1節の「憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのです」という考えは、3:6節の「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく、霊に仕える資格を与えてくださいました」と等しい主張です。
6節の「闇から光が輝き出よ」という神御自身の言葉は、創世記1:3の「光あれ」を思い起させます。パウロは、ダマスコへの途上で起こった自己の回心の出来事に関連づけて考えているものと思われます(使徒言行録9:3-15、22:6-16、26:12-18を参照)。この神が信徒の心の中で輝いてくださり、「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」とパウロは言います。
「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」(4:7)
「このような宝」とは、文脈上、4章4節の「神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光」とある「福音」です。そしてそれは4章5節の「わたしたちは、・・主であるイエス・キリストを宣べ伝えています」の「イエス・キリスト」です。このような宝をわたしたちは「土の器に納めています」。それは「この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるため」と言います。ここでパウロは、その宝と対比して自分を「土の器(ギリシア語では、オストラキノイス)」にたとえます。「土の器」は、ここではパウロの使徒の務めに関する肉体と心のもろさや弱さであり、死ぬべき肉体をも意味しています。この器は土から出来ているので、落せば割れるし、叩けば壊れるもろい存在です。これはパウロだけでなく、弱さともろさを持ち、死ぬべき存在である私たち人間をさしていることは明らかです。
旧約聖書の創世記2章7節には、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。また3章19節には「あなたは土から取られ、土に帰る」とあります。土の器としての人間は、土から取られて生きる者となり、死んで土に帰る存在です。そこに聖書は人間存在の本質を見ています。
ギリシャの最大の貿易港であったコリントは、陶器の産地としても有名でした。壺の胴に黒絵で人体を描き、舞い、運動する人体が巧みに描かれたことで有名になりました。パウロは、コリントの人なら誰でも知っている陶器について話します。それも芸術的な装飾のギリシャ陶器(ケラミコス〔黙示録2:27〕)ではなく、彩色をほどこす前の素焼きの「土の器」(オストラキノイス)を用いて、人間を表現したのです。パウロは、マイナスのイメージをもつ「土の器」を、救い主キリストを宿す「土の器」として、プラスのイメージに変えたのです。
それは、『力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』(12:9)と主イエスから示されたことによるものであったと思われます。「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ・・迫害・・状態にあって、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」と言っています(12:9-10)。
かつて、パウロはファリサイ派の人であったとき、自分が土の器である自覚はありませんでした。だが、福音を伝える使徒職の委託を主からうけた時、福音そのもののもつ神の力の偉大さに比べて、その福音伝道者としての弱さを自覚したのです。しかし、伝道者の弱さの中で、福音そのもののもつ神の力は、著しく現われました。
「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」(4:8-9)
「四方から苦しめられ」、「行き詰まり」、「途方に暮れ」、「虐げられ」、「打ち倒される」、こうした状況は、肉体をもつ弱い人間であるために引き起こされる状況であり、まさに彼が「土の器」であるためであることを示しています。
パウロはすでに1:8で、「アジア州で被った苦難、すなわち、耐えられないほどひどく圧迫され、生きる望みを失い、死の宣告を受けた思いをした」ことを語っています。また、「マケドニア州にやって来たとき、身に全く安らぎがなく、外には戦い、内には恐れと、ことごとに苦しんでいた」(7:5)事実を述べています。しかしどんなに落胆せざるを得ないような状況に突き落とされても、人々の非難や中傷にさらされることや、鞭打たれたり投獄されたりというような数々の経験をさせられても、どのような患難や、絶望的状況も、パウロを押しつぶすことはありませんでした。それは神の超越的な力が、彼を支えていたからです。パウロの力の源が、自分のうちにあるのではなく、神の恵みのうちにあったからです。神の力はパウロの弱さの中でこそ、完全に現わされました(12:9)。そこには問題は現実にあっても、首尾よく導いてくださる神の力があります。
「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」(4:10)
パウロはここで、イエスの死と命に注目することによって、私たちの生と死の意味をより明瞭に考えます。10節の「イエスの死を体にまとっている」ですが、この死は通常用いられる死ではなく、「死につつある人びとの状態」、「死のさま」を意味します。「イエスの命がこの体に現われるため」なのです。ここでは、「力」の代わりに「命」という言葉が何度も出てきます。力とは、ここでは命の力、自分を生かす「イエスの命」なのです。
「わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。」(4:11)
「イエスの命」と対比されている「イエスの死」は、かならずしも現実の、具体的な「苦しみ」(つまり死の苦しみ)に結びついていると考える必要はないと思われます。むしろ13:4にあるように「キリストは、(人間としての)弱さのゆえに十字架につけられた」、その「弱さ」を指します。そして、この「キリストの弱さ」にあずかる「使徒の弱さ」、すなわち、前述の種々の迫害や苦難の結果使徒が体現することを余儀なくされたあの「弱さ」を指していると思われます
「こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。」(4:12)
「わたしたちの内には死が働き、あなたがの内には命が働いていることになります。パウロがキリストの死を通して死にさらされていることによって、キリストに回心する人々を獲得し、それがコリントの信徒に命をもたらすのです。パウロが死にさらされているのは、自分自身のためではなく、彼らのためです。パウロの苦しみがキリストの苦しみの欠けた所を補うものであり、教会のためのものです(コロサイ1:24)。
「『わたしは信じた。それで、わたしは語った』と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。」(4:13)
パウロはギリシヤ語訳の詩篇116:10を引用して、詩篇の作者は、主を信じ、御名を呼んで救われ、語ったが、詩篇作者に働きかけた「同じ霊」の働きによって、今の自分も主を信じ、語っている、と言います。
「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。」(4:14)
いかなる迫害にもめげず、主キリストを告げていくための原動力を、ここでは特に、御子を復活させた御父に求めています。わたしたちもやがてよみがえります。そしてすべて教会に生きる者と共に、神のみまえに義なる者として立たせてくださる。この命の力を知っているということこそ信仰なのです。この信仰を与えるのが霊なのです。その命の望みが、今ここにおける患難に生きる力となるのです。
「すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。」(4:15)
信徒たちへの使徒的働きかけとその効果とが、結局は神への感謝と賛美、神への栄光につながっていくのです。わたしたちの毎日は、イエスの死をわが身に負って、愛に生きるのです。そのように生きていくとき、さらに自我が砕かれ、醜いもの、弱いものされ、「土の器」とされていきます。
本当の正しい信仰は、自己が砕かれ、「土の器」とされていくことから始まります。そして自己が砕かれていくことの中で、わたしたちは、この「土の器」の中に隠された「宝」に目が開かれて行くのです。そして、そこから、「四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害にあっても見捨てられない。倒されても滅びない」という確かな人生が導き出されて来るわけなのです。
わたしたちの毎日は、イエスの死をわが身に負って、愛に生きるのです。そのように生きていくとき、さらに自我が砕かれ、醜いもの、弱いものとされ、「土の器」とされていきます。わたしたちは、自分が砕かれるときにこそ、十字架の主がわたしたちの傍らに立ってくださることを忘れてはなりません。この「土の器」の中に、宝である主イエスがやどってくださり、偉大な神の力、復活の力を発揮するのです。