富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「宝を納める土の器」コリントの信徒への手紙二4章7~15節

2022-04-30 14:20:24 | キリスト教

     コリント産の黒絵の陶器

  素焼きの陶器

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

復活節第三主日     2022年5月1日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

                            礼 拝 順 序                    

                 司会 辺見 順子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 206(七日の旅路)

交読詩編  145(わたしの王、神よ、あなたをあがめ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)コリントの信徒への手紙二4章7~15節(新p.329)

説  教     「宝を納める土の器」  辺見宗邦牧師

祈 祷                                           

讃美歌(21) 325(キリスト・イエスは)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オンラインで礼拝に参加できます。富谷教会に電話で申し込みください。

                                  次週礼拝 5月8日(日)  午後5時~5時50分

                                  聖書  エゼキエル書34章7~15節

                                 説教題  「まことの羊飼い」

                                讃美歌(21) 97 459 120 交読詩編 23 

本日の聖書 

 4:7ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。 8わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、 9虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。 10わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。 11わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。 12こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。 13「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。 14主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。 15すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。 16だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。 17わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。 18わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。 

本日の説教

 コリント(現在名はコリントス)は、古代ギリシャの都市で、ローマ帝国時代(B.C.27~A.D. 395年東西分裂)、パウロの時代は、現在のギリシャ全土の北部を除いた地域(アカイア州)の首都でした。現在の首都アテネから西78㌔にあります。

 パウロが第一の手紙を書き送ってから約一年半位後、紀元55年頃に書いたのが第二の手紙です。

パウロがコリントを去った後、他のキリスト教共同体からコリントにやってきた宣教者たちが、パウロの弱さや欠点をとらえて攻撃し、パウロの使徒職を否定しようとしました。「使徒」とは、「特別な使命を受けて派遣された者」と言う意味です。

パウロへの非難は、彼の手紙(1:13-14)も福音(4:3)も不明確である。彼は推薦状を持たず(3:1、4:2)、その振舞いも不可解で、人につまずきを与える(5:1以下、6:3-4,10:5)。悪賢くて、教会からだまし取っている(7:2、12:6)。「面と向かってはおとなしいが、離れていると気が強くなる」男で(10:11)、弁舌はつたない(11:6)。キリストに属していると主張できるはずもなく(10:7)、キリストの委託なしにコリントに来たのだ(10:13-14)。「大使徒」たちに劣る者で(11:5、12:11)、教会からの報酬で生計を立てる資格もない(11:7以下、12:13)。いや、彼は使徒ではないのだ(12:12)。彼をとおしてキリストが語っているとは言えない(13:3)。このような使徒としての自分自身の人格と行動とに向けられた信徒の疑いと非難に対し、パウロは教会に対し、自分の使徒職を説明し、擁護し、弁明するために書いたのがこの手紙です。この手紙の中でパウロは、他のどんな手紙よりも、あからさまに、詳しく自己を語っています。

 四章でもパウロは、自分に委託されている使徒職の正統性と、それが神に由来する事実とを強調します。1節の「憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのです」という考えは、3:6節の「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく、霊に仕える資格を与えてくださいました」と等しい主張です。

 6節の「闇から光が輝き出よ」という神御自身の言葉は、創世記1:3の「光あれ」を思い起させます。パウロは、ダマスコへの途上で起こった自己の回心の出来事に関連づけて考えているものと思われます(使徒言行録9:3-15、22:6-16、26:12-18を参照)。この神が信徒の心の中で輝いてくださり、「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」とパウロは言います。

「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」(4:7)

「このような宝」とは、文脈上、4章4節の「神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光」とある「福音」です。そしてそれは4章5節の「わたしたちは、・・主であるイエス・キリストを宣べ伝えています」の「イエス・キリスト」です。このような宝をわたしたちは「土の器に納めています」。それは「この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるため」と言います。ここでパウロは、その宝と対比して自分を「土の器(ギリシア語では、オストラキノイス)」にたとえます。「土の器」は、ここではパウロの使徒の務めに関する肉体と心のもろさや弱さであり、死ぬべき肉体をも意味しています。この器は土から出来ているので、落せば割れるし、叩けば壊れるもろい存在です。これはパウロだけでなく、弱さともろさを持ち、死ぬべき存在である私たち人間をさしていることは明らかです。

 旧約聖書の創世記2章7節には、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。また3章19節には「あなたは土から取られ、土に帰る」とあります。土の器としての人間は、土から取られて生きる者となり、死んで土に帰る存在です。そこに聖書は人間存在の本質を見ています。

 ギリシャの最大の貿易港であったコリントは、陶器の産地としても有名でした。壺の胴に黒絵で人体を描き、舞い、運動する人体が巧みに描かれたことで有名になりました。パウロは、コリントの人なら誰でも知っている陶器について話します。それも芸術的な装飾のギリシャ陶器(ケラミコス〔黙示録2:27〕)ではなく、彩色をほどこす前の素焼きの「土の器」(オストラキノイス)を用いて、人間を表現したのです。

パウロは、マイナスのイメージをもつ「土の器」を、救い主キリストを宿す「土の器」として、プラスのイメージに変えたのです。

それは、『力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』(12:9)と主イエスから示されたことによるものであったと思われます。「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ・・迫害・・状態にあって、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」と言っています(12:9-10)。

かつて、パウロはファリサイ派の人であったとき、自分が土の器である自覚はありませんでした。だが、福音を伝える使徒職の委託を主からうけた時、福音そのもののもつ神の力の偉大さに比べて、その福音伝道者としての弱さを自覚したのです。しかし、伝道者の弱さの中で、福音そのもののもつ神の力は、著しく現われました。

「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」(4: 8-9)

「四方から苦しめられ」、「行き詰まり」、「途方に暮れ」、「虐げられ」、「打ち倒される」、こうした状況は、肉体をもつ弱い人間であるために引き起こされる状況であり、まさに彼が「土の器」であるためであることを示しています。

パウロはすでに1:8で、「アジア州で被った苦難、すなわち、耐えられないほどひどく圧迫され、生きる望みを失い、死の宣告を受けた思いをした」ことを語っています。また、「マケドニア州にやって来たとき、身に全く安らぎがなく、外には戦い、内には恐れと、ことごとに苦しんでいた」(7:5)事実を述べています。しかしどんなに落胆せざるを得ないような状況に突き落とされても、人々の非難や中傷にさらされることや、鞭打たれたり投獄されたりというような数々の経験をさせられても、どのような患難や、絶望的状況も、パウロを押しつぶすことはありませんでした。それは神の超越的な力が、彼を支えていたからです。パウロの力の源が、自分のうちにあるのではなく、神の恵みのうちにあったからです。神の力はパウロの弱さの中でこそ、完全に現わされました(12:9)。そこには問題は現実にあっても、首尾よく導いてくださる神の力があります。

「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」(4:10)

パウロはここで、イエスの死と命に注目することによって、私たちの生と死の意味をより明瞭に考えます。10節の「イエスの死を体にまとっている」ですが、この死は通常用いられる死ではなく、「死につつある人びとの状態」、「死のさま」を意味します。「イエスの命がこの体に現われるため」なのです。ここでは、「力」の代わりに「命」という言葉が何度も出てきます。力とは、ここでは命の力、自分を生かす「イエスの命」なのです。

「わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。」(4:11)

「イエスの命」と対比されている「イエスの死」は、かならずしも現実の、具体的な「苦しみ」(つまり死の苦しみ)に結びついていると考える必要はないと思われます。むしろ13:4にあるように「キリストは、(人間としての)弱さのゆえに十字架につけられた」、その「弱さ」を指します。そして、この「キリストの弱さ」にあずかる「使徒の弱さ」、すなわち、前述の種々の迫害や苦難の結果使徒が体現することを余儀なくされたあの「弱さ」を指していると思われます。

「こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。」(4:12)

「わたしたちの内には死が働き、あなたがの内には命が働いていることになります。パウロがキリストの死を通して死にさらされていることによって、キリストに回心する人々を獲得し、それがコリントの信徒に命をもたらすのです。パウロが死にさらされているのは、自分自身のためではなく、彼らのためです。パウロの苦しみがキリストの苦しみの欠けた所を補うものであり、教会のためのものです(コロサイ1:24)。

「『わたしは信じた。それで、わたしは語った』と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。」(4:13)

パウロはギリシヤ語訳の詩篇116:10を引用して、詩篇の作者は、主を信じ、御名を呼んで救われ、語ったが、詩篇作者に働きかけた「同じ霊」の働きによって、今の自分も主を信じ、語っている、と言います。

「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。」(4:14)

いかなる迫害にもめげず、主キリストを告げていくための原動力を、ここでは特に、御子を復活させた御父に求めています。これは、この世では苦しいが、やがて死んでから後、よみがえってイエス様のおられる国に入れていただけるのだ、という未来のことなのでしょうか。いいえ、これは将来に対するあいまいな希望ではありません。パウロがすでに自分自身のうちにイエスの命を見出していたように、彼はイエスと共にいる確かさを知り、コリントの信徒もそれを知るべきでありました。

イエスを死人の中から甦らせた方の力は、わたしたちの今の現実の生活の中で働くのであります。だから、パウロは、イエス・キリストを宣べ伝える困難さの中で、何度も打ちひしがれ、弱り衰えながらもなお立ち上がされたのです。この命の力を知っているということこそ信仰なのです。この信仰を与えるのが霊なのです。その命の望みが、今ここにおける患難に生きる力となるのです。

「すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。」(4:15)

パウロは使徒的活動の目的が、実に神の栄光と、信徒たちの利益のみであることを繰り返し述べます。

 本当の正しい信仰は、自己が砕かれ、「土の器」とされていくことから始まります。そして自己が砕かれていくことの中で、わたしたちは、この「土の器」の中に隠された「宝」に目が開かれて行くのです。そして、そこから、「四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害にあっても見捨てられない。倒されても滅びない」という確かな人生が導き出されて来るわけなのです。

わたしたちの毎日は、イエスの死をわが身に負って、愛に生きるのです。そのように生きていくとき、さらに自我が砕かれ、醜いもの、弱いものとされ、「土の器」とされていきます。わたしたちは、自分が砕かれるときにこそ、十字架の主がわたしたちの傍らに立ってくださることを忘れてはなりません。この「土の器」の中に、宝である主イエスがやどってくださり、偉大な神の力、復活の力を発揮するのです。

コリント(現在名はコリントス)は、古代ギリシャの都市で、ローマ帝国時代(B.C.27~A.D. 395年東西分裂)、パウロの時代は、現在のギリシャ全土の北部を除いた地域(アカイア州)の首都でした。現在の首都アテネから西78㌔にあります。

 パウロが第一の手紙を書き送ってから約一年半位後、紀元55年頃に書いたのが第二の手紙です。パウロがコリントを去った後、他のキリスト教共同体からコリントにやってきた宣教者たちが、パウロの弱さや欠点をとらえて攻撃し、パウロの使徒職を否定しようとしました。「使徒」とは、「特別な使命を受けて派遣された者」と言う意味です。

パウロへの非難は、彼の手紙(1:13-14)も福音(4:3)も不明確である。彼は推薦状を持たず(3:1、4:2)、その振舞いも不可解で、人につまずきを与える(5:1以下、6:3-4,10:5)。悪賢くて、教会からだまし取っている(7:2、12:6)。「面と向かってはおとなしいが、離れていると気が強くなる」男で(10:11)、弁舌はつたない(11:6)。キリストに属していると主張できるはずもなく(10:7)、キリストの委託なしにコリントに来たのだ(10:13-14)。「大使徒」たちに劣る者で(11:5、12:11)、教会からの報酬で生計を立てる資格もない(11:7以下、12:13)。いや、彼は使徒ではないのだ(12:12)。彼をとおしてキリストが語っているとは言えない(13:3)。このような使徒としての自分自身の人格と行動とに向けられた信徒の疑いと非難に対し、パウロは教会に対し、自分の使徒職を説明し、擁護し、弁明するために書いたのがこの手紙です。この手紙の中でパウロは、他のどんな手紙よりも、あからさまに、詳しく自己を語っています。

 四章でもパウロは、自分に委託されている使徒職の正統性と、それが神に由来する事実とを強調します。1節の「憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのです」という考えは、3:6節の「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく、霊に仕える資格を与えてくださいました」と等しい主張です。

 6節の「闇から光が輝き出よ」という神御自身の言葉は、創世記1:3の「光あれ」を思い起させます。パウロは、ダマスコへの途上で起こった自己の回心の出来事に関連づけて考えているものと思われます(使徒言行録9:3-15、22:6-16、26:12-18を参照)。この神が信徒の心の中で輝いてくださり、「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」とパウロは言います。

「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」(4:7)

「このような宝」とは、文脈上、4章4節の「神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光」とある「福音」です。そしてそれは4章5節の「わたしたちは、・・主であるイエス・キリストを宣べ伝えています」の「イエス・キリスト」です。このような宝をわたしたちは「土の器に納めています」。それは「この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるため」と言います。ここでパウロは、その宝と対比して自分を「土の器(ギリシア語では、オストラキノイス)」にたとえます。「土の器」は、ここではパウロの使徒の務めに関する肉体と心のもろさや弱さであり、死ぬべき肉体をも意味しています。この器は土から出来ているので、落せば割れるし、叩けば壊れるもろい存在です。これはパウロだけでなく、弱さともろさを持ち、死ぬべき存在である私たち人間をさしていることは明らかです。

 旧約聖書の創世記2章7節には、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。また3章19節には「あなたは土から取られ、土に帰る」とあります。土の器としての人間は、土から取られて生きる者となり、死んで土に帰る存在です。そこに聖書は人間存在の本質を見ています。

 ギリシャの最大の貿易港であったコリントは、陶器の産地としても有名でした。壺の胴に黒絵で人体を描き、舞い、運動する人体が巧みに描かれたことで有名になりました。パウロは、コリントの人なら誰でも知っている陶器について話します。それも芸術的な装飾のギリシャ陶器(ケラミコス〔黙示録2:27〕)ではなく、彩色をほどこす前の素焼きの「土の器」(オストラキノイス)を用いて、人間を表現したのです。パウロは、マイナスのイメージをもつ「土の器」を、救い主キリストを宿す「土の器」として、プラスのイメージに変えたのです。

それは、『力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』(12:9)と主イエスから示されたことによるものであったと思われます。「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ・・迫害・・状態にあって、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」と言っています(12:9-10)。

かつて、パウロはファリサイ派の人であったとき、自分が土の器である自覚はありませんでした。だが、福音を伝える使徒職の委託を主からうけた時、福音そのもののもつ神の力の偉大さに比べて、その福音伝道者としての弱さを自覚したのです。しかし、伝道者の弱さの中で、福音そのもののもつ神の力は、著しく現われました。

「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」(4:8-9)

「四方から苦しめられ」、「行き詰まり」、「途方に暮れ」、「虐げられ」、「打ち倒される」、こうした状況は、肉体をもつ弱い人間であるために引き起こされる状況であり、まさに彼が「土の器」であるためであることを示しています。

パウロはすでに1:8で、「アジア州で被った苦難、すなわち、耐えられないほどひどく圧迫され、生きる望みを失い、死の宣告を受けた思いをした」ことを語っています。また、「マケドニア州にやって来たとき、身に全く安らぎがなく、外には戦い、内には恐れと、ことごとに苦しんでいた」(7:5)事実を述べています。しかしどんなに落胆せざるを得ないような状況に突き落とされても、人々の非難や中傷にさらされることや、鞭打たれたり投獄されたりというような数々の経験をさせられても、どのような患難や、絶望的状況も、パウロを押しつぶすことはありませんでした。それは神の超越的な力が、彼を支えていたからです。パウロの力の源が、自分のうちにあるのではなく、神の恵みのうちにあったからです。神の力はパウロの弱さの中でこそ、完全に現わされました(12:9)。そこには問題は現実にあっても、首尾よく導いてくださる神の力があります。

「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」(4:10)

パウロはここで、イエスの死と命に注目することによって、私たちの生と死の意味をより明瞭に考えます。10節の「イエスの死を体にまとっている」ですが、この死は通常用いられる死ではなく、「死につつある人びとの状態」、「死のさま」を意味します。「イエスの命がこの体に現われるため」なのです。ここでは、「力」の代わりに「命」という言葉が何度も出てきます。力とは、ここでは命の力、自分を生かす「イエスの命」なのです。

「わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。」(4:11)

「イエスの命」と対比されている「イエスの死」は、かならずしも現実の、具体的な「苦しみ」(つまり死の苦しみ)に結びついていると考える必要はないと思われます。むしろ13:4にあるように「キリストは、(人間としての)弱さのゆえに十字架につけられた」、その「弱さ」を指します。そして、この「キリストの弱さ」にあずかる「使徒の弱さ」、すなわち、前述の種々の迫害や苦難の結果使徒が体現することを余儀なくされたあの「弱さ」を指していると思われます

「こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。」(4:12)

「わたしたちの内には死が働き、あなたがの内には命が働いていることになります。パウロがキリストの死を通して死にさらされていることによって、キリストに回心する人々を獲得し、それがコリントの信徒に命をもたらすのです。パウロが死にさらされているのは、自分自身のためではなく、彼らのためです。パウロの苦しみがキリストの苦しみの欠けた所を補うものであり、教会のためのものです(コロサイ1:24)。

「『わたしは信じた。それで、わたしは語った』と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。」(4:13)

パウロはギリシヤ語訳の詩篇116:10を引用して、詩篇の作者は、主を信じ、御名を呼んで救われ、語ったが、詩篇作者に働きかけた「同じ霊」の働きによって、今の自分も主を信じ、語っている、と言います。

「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。」(4:14)

いかなる迫害にもめげず、主キリストを告げていくための原動力を、ここでは特に、御子を復活させた御父に求めています。わたしたちもやがてよみがえります。そしてすべて教会に生きる者と共に、神のみまえに義なる者として立たせてくださる。この命の力を知っているということこそ信仰なのです。この信仰を与えるのが霊なのです。その命の望みが、今ここにおける患難に生きる力となるのです。

「すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。」(4:15)

信徒たちへの使徒的働きかけとその効果とが、結局は神への感謝と賛美、神への栄光につながっていくのです。わたしたちの毎日は、イエスの死をわが身に負って、愛に生きるのです。そのように生きていくとき、さらに自我が砕かれ、醜いもの、弱いものされ、「土の器」とされていきます。

 本当の正しい信仰は、自己が砕かれ、「土の器」とされていくことから始まります。そして自己が砕かれていくことの中で、わたしたちは、この「土の器」の中に隠された「宝」に目が開かれて行くのです。そして、そこから、「四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害にあっても見捨てられない。倒されても滅びない」という確かな人生が導き出されて来るわけなのです。

わたしたちの毎日は、イエスの死をわが身に負って、愛に生きるのです。そのように生きていくとき、さらに自我が砕かれ、醜いもの、弱いものとされ、「土の器」とされていきます。わたしたちは、自分が砕かれるときにこそ、十字架の主がわたしたちの傍らに立ってくださることを忘れてはなりません。この「土の器」の中に、宝である主イエスがやどってくださり、偉大な神の力、復活の力を発揮するのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「復活の証人」コリントの信徒への手紙一15章1~11節

2022-04-24 09:43:22 | キリスト教

↑ 『復活』(キリストと十一人の弟子たち)作者ポーランド人        Szymon Czechowicz(シモン・チェホヴィッチ)1758年         ポーランドのクラクワ国立美術館所蔵

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  (日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

                            礼 拝 順 序                    

                 司会 辺見 順子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 204(よろこびの日よ)

交読詩編   16(神よ、守ってください)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)コリントの信徒への手紙一15章1~11節(新p.320)

説  教    「復活の証人」

祈 祷                                           

讃美歌(21) 402(いともとうとき)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オンラインで礼拝に参加できます。富谷教会に電話で申し込みください。

                                      次週礼拝 5月1日(日)  午後5時~5時50分

                                     聖書  コリントの信徒への手紙二、9章13~15節

                                     説教題  「イエスのいのちが現われるため」

                                     讃美歌(21) 206 335 交読詩編 145

本日の聖書 

1兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。 2どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。 3最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、 4葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、 5ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。 6次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。 7次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、 8そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。 9わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。 10神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。 11とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。

本日の説教

「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。」(15:1-2)

福音、喜びのおとずれ、救いの知らせ、それはわたしがあなたがたに伝えてきましたが、ここでもう一度知らせます。これはあなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音です。そのことをしっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。そうでないと、あなたがたが信じたことが、無駄になってしまいます。

「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」(3-5)

自分が最も大切なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。 それは、「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたことです。また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」

「聖書に書いてあるとおり」と二度も繰り返えされ、大切なこととされています。この当時は、聖書は旧約聖書のことです。主イエスの死に関しては、イザヤ書53:5-8の「苦難の僕」の死、また復活に関しては、詩篇16:10の「あなたはわたしの魂を陰府(よみ)に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず」や、ホセア書6:2の「二日の後、主はわれわれを生かし、三日目に、立ちあがらせてくださる」等が考えられます。キリストの死と復活は、永遠に変わらない神の計画の中にあり、その計画の中心をなすものであり、神の言葉である聖書に書いてある通りということは、神がその約束を守てくださったことをあらわしています。

 そのような神の決意にもとづく、キリストの生は、死と復活という二つの中心的な出来事が起こったとされています。ローマの信徒への手紙4:25でも「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです」と同じ表現がとられています。死は、罪ある人間にとって神に至る道が閉ざされていることを示します。それに対して復活は、神から人間に至る道が開かれ、人間が神からの生命を与えられて、新しい存在になることを示しています。キリストは、御自身は罪はおかされなかったが、罪人と連帯されることによって、この死を経験され、しかも神の子の生命をもって、新しい生によみがえられたのです。

 その神のみこころに従い、ご計画に従って、まず第一に「わたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと」です。第二に「三日目に復活したこと」です。さらに「ケファに現われ・・・」。ケファ(岩の意)は、ペトロのことです。それから「十二に現われ・・・。「十二人」とは、ペトロとマティア(使徒言行録1:26)を含めた十二人の使徒となった人々です。

 「次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ」(6-7)

 それから、「五百人以上もの兄弟たち」、信仰の仲間たちに同時に現れました。その中には、何人か死んでしまっています。この事によってパウロはすでに死んだものも復活の希望にあずかっていることを語ろうとしています。イエスの死と復活は紀元三十年の時のことです。この手紙は紀元五十四年頃に書かれています。復活の出来事から二十四年位経てから書かれています。「大部分は今なお生き残っています」という現存の経験者の証言の紹介を含めています。それから「ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ」ました。ヤコブはイエスの弟でエルサレム教会の指導者でした。三つの福音書は紀元七十年~八十一年頃に書かれました。福音書にある復活の記述より二、三十年も早くこの手紙は書かれています。墓参りする婦人たちのことが省略されているのは、福音書の物語をパウロは知らかったからか、あるいは使徒の証言を重んじたからとも言われています。

「そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」(8-10)

 そして最後にこの、「月足らずで生まれた」わたしにも、甦った主イエスはご自分の姿を示してくださった、と自分を卑下してパウロは語っています。

パウロへのイエスの顕現を「最後に」と言うことで、イエスの直弟子たちへの顕現と結びつけ、続いて起こるすべての幻や、すべての信仰者が聖霊を通して個人的にキリストを経験することと区別しています。

パウロの使徒としての権威が、コリントのある人々から問題にされています。従ってパウロはここで機会をとらえて、復活のキリストが顕現した人の名簿に自分自身を加え、神の恵みがパウロをどの使徒たちよりも多く働くことを可能にしたと慎重に語っています。ここで使われている「月足らずで生まれた」の原語エクトロ-マティは、発育不全を意味します。日本だったら、「未熟者」とか、「青二才」という表現がいます。パウロの風采が「弱々しい」(Ⅱコリント10:10)とか、「話しもつまらない」と中傷する人によって、この言葉がパウロに使われ、肉体的醜さか障害を笑いものにされたことが、この言葉の使用によって示唆されています。もしそうであれば、パウロは中傷の形容詞を皮肉的に取り入れ、巧みにキリストがパウロに早々に現われたことを語るために使っていることになります。同時にパウロに値打ちが無いにも関わらず、神の恵みが使徒職を通して働くことも確認するのです。しかしパウロがはっきりさせているのは、パウロの価値のなさは、肉体的容姿の結果ではなく教会の迫害者という過去の役割のためです。

実際わたしは、神の教会を迫害していた人間です。使徒たちの中でいちばん小さい者でしかなかった。最も低く身を屈めていなければならない、神から遣わされた使徒などと呼ばれる値打ちもない者だけれども、しかし「神の恵みによって」、この無価値な者をあえて選んでくださって使徒とされ、今日のわたしがあるのです、とパウロは語ります。

パウロはキリキヤのタルソ(トルコ中部の地中海に近い、現在名タルスス)で生まれ、その後エルサレムに上って、ガマリエル門下で律法を学び、ユダヤ教の教師として訓練を受け、熱心に律法を守るファリサイ派に属し、キリスト教徒を迫害しました。そのパウロ(当時の名はサウロ)がキリスト教徒を迫害したのは、聖書が約束するメシヤは、のろいの十字架にかかって死ぬような者でないのに、キリスト教徒がそれをメシヤと信じているばかりか、人々に宣伝してやまないことを激怒していたからでした。

ところが、キリスト教徒を撲滅しようとしていた迫害者のパウロは、イエスの死(紀元30年頃)の後、紀元三十三年頃、キリスト教徒を捕縛するために、シリヤのダマスコへ行きました。その郊外で、パウロは復活されたキリストに出会い、回心し、キリスト教徒になりました。

 回心した時、彼の聖書の読み方がすっかり変わり、「十字架と復活の主」こそ旧約聖書に約束されたメシヤであると信じる者になったと告白します。

 パウロは、ガラテヤ書1:18にあるように、回心後三年たってから、第一回目のエルサレム訪問をし、ケファ(ペトロ)と主の兄弟ヤコブに出会って十五日間を過ごした時期に、彼の回心の体験とエルサレム教会の伝承とが結びつき、パウロの宣教の中心的内容となったものと思われます。

 「そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」(10節後半)

 パウロは、神の無限の恩恵を受けたことを自覚することによって、誇り高ぶるのでなく、むしろ感謝をもって主の委託に応えようとしました。わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました、と述べます。パウロにとって、自分の労苦は、自分から出たものというより、神の恵みにつき動かされた、なさざるを得ない必然の働きでした。わたしたちの行動の原動力は実は主から来るのです。

 「とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。」(11)

 誰が宣教しても、皆が同じく、3節後半~5節の定式で語られる福音を受けました。イエスの死と墓からの復活を中心にした福音です。さらにコリントの人々はこの言葉がパウロによって宣教された時に信じたのです。この使信がコリントの人々を異教世界から神の力と恵みの世界に引き出したのです。従って今になって、コリントの人々が死者の復活に疑問を持ち、否定することは、パウロが次に議論するように自分たちの経験と福音そのものを否認することになると警告しました。

 復活信仰は使徒の証言を信頼することなしには起こり得ません。使徒の復活証言を介して、聖霊の働により、わたしたちは復活の主との交わりに入れられます。それは見ずして信じるという形においてですが、主との本当の出会いとなるのです。この復活信仰なくしては、イエス様と共に、迫害に耐えることも、殉教の死を遂げることも出来ないのです。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「キリストの復活」マルコによる福音書16章1-8節

2022-04-15 12:29:49 | キリスト教

 ↑ 【墓を訪れる三人のマリア】バルトロメオ・スケドーニ

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    

週    報

復活節第1主日     2022年4月17日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

                            礼 拝 順 序                    

                 司会 辺見 順子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 327(すべての民よ、よろこべ)

交読詩編  103(わたしの魂よ、主をたたえよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)マルコによる福音書16章1-8節(新p.97)

説  教      「キリストの復活」

祈 祷                                           

聖餐式    72(まごころもて)

讃美歌(21) 328(ハレルヤ、ハレルヤ、たたかいは終わり)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オンラインで礼拝に参加できます。富谷教会に電話で申し込みください。

          次週礼拝 4月24日(日)  午後5時~5時50分

          聖書   コリントの信徒への手紙一、15章1~11節

          説教題  「パウロにも現われたキリストの復活」

          讃美歌(21) 204 402 27 交読詩編 145

本日の聖書 マルコによる福音書16章1~8節

16:1安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。 2そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。 3彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。 4ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。 5墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。 6若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。 7さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」 8婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。 9〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。 10マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。 11しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。 12その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。 13この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。 14その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。〕

本日の説教

 主イエスが十字架上で息を引き取られたのは金曜日の午後3時頃でした(マタイ27:46)。遠くから見守っていた婦人たちの中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいました。<マグダラのマリア>はガリラヤ湖南西に位置するマグダラ出身で、、イエスのガリラヤ伝道中に七つの悪霊を追い出してもらった婦人です(ルカ8・1-2)。<サロメ>はゼベダイの妻で、ヤコブとヨハネの母(マタイ4・21、27・56)で、クロパの妻(ヨハネ19:25)と同一視されています。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従ってきて世話をしていた人々です(マルコ15:40)。

アリマタヤ出身で身分の高い議員のヨセフが遺体の引き渡しを願い、イエスを十字架から降ろして、亜麻布で巻き、岩を掘って作った横穴型の墓の中に納め、墓の入口には石を転がして閉じておきました。アリマタヤはエルサレムの北西32キロの町です。 イエスの弟子でないヨセフが大胆にもイエスを葬ったのです。マグダラのマリアとヨセの母マリアは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていました。

 土曜日の日没で安息日が終わるので、買い物が出来るようになります。マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメの三人はイエスの遺体に油を塗りにいくために香料を買って準備しました。婦人たちにとって、イエスへの最後の奉仕であり、精一杯の愛から出た行為でした。翌朝、日曜日の夜明けの朝早く、すぐ墓に行きました。

 彼女たちは、墓へ行く途中、だれがあの墓の入口の石を転がしてくれるだろうかと、話し合っていました。墓は岩盤に掘り込まれた横穴型のものです。ところが墓に着くと石は既にわきへ転がしてありました。非常に大きい石でした。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚きました。

 若者のように見えた天使は、「驚くことはありません、十字架につけられたイエスは復活されて、ここにはいません」と言いました。「復活されて」は、復活させられて、という受動態です。イエスの復活は父なる神の行為です。「あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています」と、ペトロ一、1:21にあります。

「御覧なさい。お納めした場所です」とイエスが納められた空虚な墓を示し、イエスが復活されたことを示しました。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。」この言葉には弟子たちに対するイエスの愛があらわれています。弟子たちはイエスを見捨てたが、イエスは弟子たちを見捨てません。三度イエスを否認したペトロも見捨てられていません。あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。かねて言わていたように(マルコ14:28)、そこでお目にかかれますよと天使は言いました。ガリラヤにおけるイエスの復活顕現を示しています。婦人たちは、天使より最初の復活の使者として立てられました。

 天使の言葉は、十字架につけられた者が甦ったという、人間の理解をはるかに超える出来事を告げたのです。イエスの復活は人間に恐れを生じさせる驚くべき奇跡です。婦人たちは墓を出て、逃げ去りました。震え上がり、恐れて、正気を失っていました。ここには少しの喜びもなく、イエスの復活という恐るべき神の出来事に対する恐怖と無理解だけがあります。そして、だれにも何も言いませんでした。非常に恐ろしかったからです。イエスの復活は恐ろしい神的な出来事でした。天使の言葉は、十字架につけられた者が甦ったという、人間の理解をはるかに超える神の奇跡でした。

 マルコ福音書は復活のイエスの顕現物語を福音書の中に取り入れず、十字架につけられたナザレ人イエスが甦り、ガリラヤで弟子たちに会うという天使の告知だけを記しています。婦人たちもイエスの空虚な墓を示されただけではイエスの復活を信じることには至っていません。復活を信じる信仰は、生ける復活の主と出会うことによって生まれるものであり、主の御言葉により、主の聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」とは言えないのです(コリント一、12:3)。

ガリラヤはイエスがその活動を開始し、弟子たちを召し出した場所です。弟子たちはかつての出会いの場所で復活のイエスに会います。復活のイエスはかつてのようにガリラヤで弟子たちに会い、<わたしについて来なさい>と呼びかけ、再び彼らをとおして宣教の業を始めるのです。

16章9節以下の「結び」は、本文に付加された部分です。他の三福音書に見られる顕現物語の諸伝承に基づいて、復活のイエスの顕現を述べています。

マグダラのマリアへの復活者の顕現はヨハネ福音書20章14節に記されています。イエスは週の初めの日曜日の朝早く、まずマグダラ出身の女といわれるマリアに御自分を現されました。マリアは、イエスと一緒にいた弟子たちや婦人たちが、イエスが死んだあと、泣き悲しんでいるところへ行って、復活されたイエスが現れ、お会いしたことを知らせました。しかし彼らは、イエスが復活して生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じませんでした。

 この日、その後、二人の弟子がエマオという田舎の方へ行く途中、イエスが別の旅人の姿でこの二人に御自身を現されました。ルカ福音書24:13-35による記事です。この二人もエルサレムに行って、残りの弟子たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じませんでした。

 その後、十一人の弟子たちが、夕食の食事をしているとき、イエス御自身が彼らの中に現れました。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思いました(ルカ24:37)。そこでイエスは「なぜ、うろたえるのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになりました。イエスは彼らの不信仰とかたくなな心をおとがめになりました。復活されたイエスを見た人々の言うことも、彼らにイエス御自身が現れても、信じなかったからです。

聖書は復活について、次のような証言をしています。第一に、復活のイエスはたびたび弟子たちにあらわれたので、弟子たちは復活の証人として立ち上がったことです。イエスの裁判のときは、三度まで、「イエスを知らない」と否定したペトロが、「神はこの方(イエス)を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です」(使徒言行録3:15)と言って立ち、やがてそのために殉教の死をとげています。

第二に、「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。」(コリント一、15:3-6)という言葉です。

第三は、新約聖書はイエスが復活したから出来上がったものであること、キリストの教会が存在していること、主の日と称してイエスの復活の日である日曜に礼拝が守られていること、などです。

 イエスの十字架の死は、わたしたちの罪のあがないのための死でした。すなわち、「罪の払う報酬は死です。」(ロ-マ6:23)とあるように、わたしたちが自分の罪のために支払わなければならない値は、死であったが、それを、イエスがわたしたちに代わって支払われ、死を滅ぼされ、永遠の生命が約束され、イエスの復活によって与えられるようになったのです。

キリストの十字架と復活が、もっとも大切な福音の中心です。キリストが復活しなかったのならわたしたちの信仰はむなしく、今もなお罪の中にあることになります。キリストの十字架の死と復活を信じる信仰は、ただ、二千年前に死刑に処せられた主イエスが甦ったという奇跡のみを信じることではありません。復活されたキリストが今も生きておられると信じることなのです。復活というかつて起こったことを信じるだけでなく、復活の主が今も生きて働いておられ、私たちを導き、罪から解放し、永遠の命を与えて下さっていることに信頼して、その命に生かされるのです。主イエスが生きておられるというのは、復活の後、天に挙げられ、父なる神の右の座におられて世を支配し、聖霊をわたしたちに与えて、主イエスは生きて働き、御自身を御言葉を通してあらわしてくださるのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「平和の王イエス」マルコによる福音書11章1-11節

2022-04-10 22:29:08 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

受難節第6主日     2022年4月10日(日)  午後5時~5時50分

 

                            礼 拝 順 序                    

                 司会 辺見 順子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 298(ああ主は誰(た)がため)

交読詩編  118(恵み深い主に感謝せよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)マルコによる福音書11章1-11節(新p.83)

説  教      「平和の王イエス」

祈 祷                                           

讃美歌(21) 311(血しおしたたる)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オンラインで礼拝に参加できます。

申し込み先:Eメール munekuni-hemmi@vesta.ocn.ne.jp

                  次週礼拝 4月17日(日)  午後5時~5時50分

                  聖書  マルコによる福音書16章1-8節

                 説教題  「キリストの復活」

                讃美歌(21) 327 72 328 27 交読詩編 118

受難週 3月10日(日)~4月16日(土)

本日の聖書

11:1一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、 2言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。 3もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」 4二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。 5すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。 6二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。 7二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。 8多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。 9そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。10我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
11こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。

本日の説教

本日から、受難節に最後の一週間、受難週が始まります。

イエスがエルサレムの城門に、子ろばに乗って入城するとき、民衆が木の枝を道に敷いて、イエスを迎えたことから、「しゅろの日曜日(パーム・サンデー」と言われています。実は「しゅろ」ではなく、「なつめやし」の枝です。聖書協会訳が「しゅろの枝」(ヨハネ12:13)と訳したことによります。新共同訳聖書では、「なつめやしの枝」と訳しています。(英語では、branches of palm trees)   

                       

 なつめやしの木           しゅろ(棕櫚)の木

イエスがエルサレムに入城する記事は、マタイ21:1-11,ルカ19:28-40、ヨハネ12:12-19にもあります。

 一行はエルサレムへ上って行く途中、イエスはエルサレムで自分の身に起こることを十二人の弟子に話しました(マルコ10:23-34)。「人の子は・・祭司長たちに捕らえられ、死刑の宣告を受け、殺されるが、三日目に復活する」と話されました。そして一行はエリコの町に着きました(10:46)。

イエスは、エリコからエルサレムを目指して進みます。エリコはエルサレムから北東20キロほど離れています。当時は30キロもある山道でした。エリコは地中海水面よりも250メートル低い町です。エルサレムに上るためには、エルサレムの台地が標高750メートルなので、標高差約1000メートルもある上り坂を歩くのに、10時間も要したものと思われます。

   

 

オリーブ山はエルサレムの東、キドロンの谷を挟んで広がる丘陵地で、標高は809メートルです。北から南に傾斜しています。エルサレム(旧市街)より50メートルほど高い丘陵です。そのふもとには、ベトファゲとベタニアの二つの村があります。べトファゲ(「未熟のいちじくの家」の意)はエルサレムから東、約2キロのオリ―ブ山東斜面にある村です。ベタニア(「なつめやしの実(Dates)の家」の意)は、エルサレムからの距離は約3.2キロです。

イエスはベタニアにさしかかった時、二人の弟子を使いに出そうとして、「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい」と言われました。二人の弟子とは推測の域を出ないが、ルカ22:8と結びつけるとペトロとヨハネが想像されます。向こうの村とはベトファゲのことと思われます。

「もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」と言って、弟子たちを送りました。

弟子たちは言われたとおりにつながれていたロバを見つけ、そこに居合わせた有る人々にイエスの言葉を伝えると不思議と許してくれました。すべてがイエスの言葉どおりに実現し、二人は子ろばを連れてイエスのところに戻り、自分たちの服を連れてきた子ロバの背にかけて鞍の代わりにすると、イエスはそれにお乗りになりました。

「だれも乗ったことのない子ろば」は、神にかかわる聖なる目的に使用されるためには、まだ一度も使用されていないものでなければなりません(民数記19:1-9)。「主がお入り用なのです」の「主」とは、神を指すことばと思われます。ここでは、ご自分のことを「主」と言い、そのように呼ぶことを弟子たちに求めたとも思われます。

イエスがろばに乗って都入りされることは、ゼカリヤの預言の成就のためです。マタイ21:5には、ゼカリヤ9:9が引用されています。

「娘シオンよ。大いに躍れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ。あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って」と、あります。

 また、ヨハネ12:15には、「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる。ろばの子に乗って。」とあります。

 イエスの一行はリラヤから来た過越しの祭りに参加する多くの巡礼者と一緒にエルサレムを目指します。多くの人々は衣服を道に敷きました。また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷きました。服(上着)を敷くことは王の即位を思わせます(列王下9:13)。葉のついた枝を道に敷くことも王に対する尊敬を表します。

ヨハネ12:13には、大勢の群衆がなつめやしの枝を持ってイエスを迎えに出たと報じています。

 イエスの前を行く者も後に従う者も、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と叫びました。

「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように(11:9b)」は、詩篇118:25-26aの引用です。これは本来エルサレム神殿を訪れる巡礼者たちに祭司がのべる祝福の言葉ですが、ここでは神から遣わされたメシア的王としてのイエスに対する歓呼とされています。

「ホサナ(ヘブライ語のホ-シャナ-)」は「救ってください」という意味ですが、イエスの時代には単なる讃美の叫びの言葉になっていました。「ハレルヤ」という言葉が、「神を讃美せよ」という本来の意味よりも、むしろ、強烈な喜びの表現として用いられるようになったのと同様です。万歳の歓呼の声と似た言葉になっています。

「我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」「我らの父ダビデの来るべき国」はユダヤ人が待ち望んでいた地上的メシア王国です。ダビデは、エルサレムをイスラエルの王都として定め、築いた、王の中の王です。ダビデ以降、歴代の王たちはこのエルサレムで国を治めてきました。ダビデの来るべき国とは、ダビデ王の子孫にイスラエルのまことの王である救い主が現れ、その王国が実現する時、イスラエルの民の救いが実現する、という旧約聖書の預言の成就を期待したのです。 メシアと呼ばれるまことの王、救い主が来て、ダビデの王国を再現して下さる、そういう救いをイスラエルの人々は待ち望んでいたのです。人々が主イエスを王としてエルサレムに迎えたのは、ダビデの王国を再現するまことの王ではないか、という期待によってなのです。過越祭の巡礼者たちはその実現を熱狂的にイエスに期待したのです。しかしそこには政治的な意味はないように思われます。

これまでは自分が誰であるかを誰にも言うなと弟子たちに繰り返し警告してきたイエスですが、いよいよ自身の目的の成就が近づくにあたり、自分の入城が歓呼で迎えられることを否定しません。群衆はイエスをメシア的王として迎えたが、イエスは王にふさわしく馬に乗って威勢よく入城したのでなく、通常の「王」らしからぬ謙虚な姿で入城したことは「受難のメシア」としての入城だったからです。ろばに乗るという象徴的行為が示すように武力によって支配する王でなく、人々の嘲笑を受けつつ自己を十字架にささげるという徹底的無抵抗の王であることを示しています。

エルサレムに入られた主イエスは、先ずその神殿に行かれました。神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれました。

主イエスが与えようとしている平和は、力の均衡によって保たれるようなうわべの平和ではありません。私たちの心の中に生れる平和です。戦争や憎み争いの原因は、どこにあるのでしょうか。人間の争いは、心の中の欲望に原因があります。主イエスは、全人類の罪を贖い、復活によって神への道を開いて下さいました。だれでも罪を悔い改めて主イエス・キリストを信じるならば、神は私たちと共にいてくださり、神の愛が私たちの心の中を支配してくださるようになるのです。キリストの苦難をしのび、感謝しつつ、喜びの復活の日を迎えましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「福音にふさわしい生活ーあなたの体を献げなさい」

2022-04-03 00:21:44 | キリスト教

    ↑ 「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

受難節第5主日     2022年4月3日(日)  午後5時~5時50分                 

                            礼 拝 順 序                    

                 司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 288(恵みにかがやき)

交読詩編   22(わたしの神よ、わたしの神よ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ローマの信徒への手紙12章1-8節(新p.291)

説  教     「福音にふさわしい生活」                                     辺見 宗邦牧師

祈 祷                                           

讃美歌(21) 512(主よ、献げます)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オンラインで礼拝に参加できます。

申し込み先:Eメール munekuni-hemmi@vesta.ocn.ne.jp

 

               次週礼拝 4月10日(日)  午後5時~5時50分

               聖書  マルコによる福音書11章1-11節

               説教題  「子ろばに乗って入場するイエス」

               讃美歌(21)83 302 27 交読詩編 24

 

               受難節 3月2日(水)~4月16日(土)

本日の聖書

 12:1こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。 12:2あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。

本日の説教

 「ローマの信徒への手紙」は、十六章までありますが、、一から八章までは、「神の義による救い」について記し、九から十一章までは、イスラエル人についての神の救いの計画について説きました。

 「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」

 パウロは、十二章から、神の義としての福音を信じる者は、「どのように生きるべきか」、「福音にふさわしい生活とはどのようなものであるか」を説きすすめます。

「こういうわけで」とは、これまで説いた福音とこれから述べる福音に生きる生活をつなぐ言葉です。「兄弟たち」と呼び掛け、「神の憐れみによってあなたがたに勧めます」と言って、福音にふさわしい生活についての勧告を始めます。これまではわたしたちが神からどのような憐れみをうけているかを説いてきました。今度は「神の憐れみによって」、生活についての勧めをするのです。「兄弟たち」とパウロはローマの信徒に語りかけます。神が、わたしたち一人一人を深く憐れみ、慰め、そして愛してくださり、見守っていてくださっています。そこからこのすすめをします、というのです。ですから、福音にふさわしい生活とは、決して強制された生活、むりやりに何かをさせられるという、そのような生活ではないのです。

つづいてパウロは、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」と記しています。

「体」とは、「体」をもって世に生きているわたしの存在です。パウロは、心と体とか、精神と体というように分けては考えてていません。

 「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」とは、どいうことなのでしょうか。「聖なるいけにえとして献げなさい」とは、当時のユダヤ教の神殿礼拝の神にささげる動物の犠牲にたとえて語ります。体はこの世に関わる人間存在全体を意味しているので、体を神への供え物として献げるとは、神に従ってわたしたちがこの世に関わって行くことを意味しています。これこそが本当の霊的な礼拝だというのです。聖なる供え物の「聖」とは、道徳的に聖というよりも、福音に生かされているという意味で聖ということであり、パウロがキリスト者を聖徒と呼んでいるのに当たります。

 ですから、ただ特別な時間に特別の聖なる場所に集まり、犠牲を捧げて神のご利益に与ろうというのが本当の霊的な礼拝ではなく、世俗的なこの世での日常生活において、神に生かされた者として、この世にかかわり、交わり、生きて行く、これこそが本当の霊的な礼拝だというのです。こうして福音はこの世に深い影響を与え、この世をその深い所から変えていく力を持つのです。

 ここでパウロが言っているのは、すべての信徒は、神への献身者として世で過ごすことを勧めているのです。その信徒の中から、教職者としての特別な召命を受けた者が選ばれるのであって、それは第二義的な召命のことであり、先ずその前に、信徒が「召される」という第一義的な献身を勧めているのです。キリスト者の世における全生活が、献身してなすべき礼拝として勧められているのです。

このことをパウロは他の箇所にも記しています。「また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。」(ローマ6章:13)。五体と体とは同意語です。それから「・・・あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(Ⅰコリント6:19-20)と記されています。体は、いずれ必ず朽ち果てるものですが、聖霊を宿す神殿です。神のものであって、自分のものではありません。だから、自分の体をもって、つまり自分の全生活をもって神の栄光を表しなさいと言うのです。これが神への供えものの真の意味なのです。

 パウロは次に、「あなたがたはこの世に倣ってはなりません」と言います。

 世とは、ローマ書五章後半によると、古い世と新しい世とがあり、古い世はアダムの支配する世、罪の支配する世であり、新しい世とはキリストが支配する世、恵みが支配する世です。しかし古い世はキリストの恵みによって打ち勝たれてしまいました。古い世は、キリストによって過ぎ去ってしまったのです。だからわたしたちは新しい世、キリストの支配する世に生きる者として、古い世の考え方に従ってはならないのです。自己の義を立て、または神を軽んじ、または神なしにやって行けるという幻想と自己中心に生きるのでなく、神によって打ち砕かれ、キリストの恵みにのみ立ち、神の義に従うものでなければなりません。

「むしろ、心を新たにして自分を変えていただ」かなければならないと言います。この命令形は受身形です。主体は神です。わたしたち人間は神のみこころにかなう生き方をしようと思っても、結局は神に逆らい、人を押しのけ、自分だけを大切にして生きてゆこうとする生活態度から抜け出すことが出来ません。洗礼において信仰者は新しい存在へと造り変えられるのです。「心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け」なさい(エフェソ4:23-24)とパウロは勧めています。

このことによって思い出されるのは、「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」(ガラテヤ6:14-15)というパウロの言葉です。さらにまたこういう言葉もあります。

 「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(Ⅱコリント5:17)とあります。

 パウロはここで、古い自己ではなく、新しい自己に造り変えられることについて語っています。そしてそのことは、キリストが十字架にかかり、復活したことによって、今や古い世が終わり、新しい世が始まったというパウロの認識と密接に結びついています。新しい世が来たからこそ、わたしたちも新しく造りかえられるのです。

もしそうだとすれば、わたしたちはもはやこの世に同化し、この世に順応してはならないのです。わたしたちはむしろ、新しく造りかえられたものにふさわしく歩まなければならいのです。

「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」

ここでは人間は経験によって判断するのではありません。理性によって判断するのでもありません。キリストにあって新しく造られたものとして判断するのです。その際、経験も理性も働かなくなるというのではありません。経験も理性も、いわば信仰の光によって造り変えられて、判断するのです。心による判断の基準になるものは、神の御心、神のみ旨です。イエス・キリストにあらわれた福音、キリストの愛、すなわち神の義が根本的な神のみ旨です。

もちろん、いかにすべきか判断に迷うことが多々あるとしても、また往々にして間違うことがあるとしても、イエス・キリストに導かれ、福音に生かされた者として、何をなすべきか、どうあるべきか、を具体的に示されていくのです。

新しく造りかえられることと聖霊との関係があります。「新しく造られること」、すなわち生命の再創造は聖霊の注ぎなしにはありません。聖霊が注ぎこまれることによって、生命の再創造が行われるのです。

 ユダヤ人にとっては、彼らの倫理生活を規定するものは律法でした。彼らは、この律法を守ることによって義とされること、すなわち自分の救いを確実なものにすることに努力しました。しかし、キリストが山上の説教で教えるような律法の教えを実行しようとしても、依然としてエゴイズムがあり、肉の弱さがあり実行できません。それは人間にひそむ罪のためなのです

 パウロは、キリストが到来した今、もはや律法は無意味になったと主張しました。人間は今や律法から完全に解放されたと信じました。律法によって歩むのではなく、聖霊によって歩む救いをキリストによって与えられたのです。「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい」とパウロは言っています。御霊によて歩むということは、次の四つことを意味しています。

1.自分の判断だけで歩むのではなく、御霊の導きによって歩むことです。現代人は自分の理性のみを頼りとし、自分だけで判断しようとします。しかしパウロはそうではりませんでした。彼は、その欲求するままではなく、聖霊の導きに従いました。

2.聖霊によって歩むとは、わたしたちが聖霊の力に助けられて歩むということです。自分の力を過信するのではなく、「聖霊によらなければ、イエスを主と告白することができない」というパウロの言葉に従い、また感情面でも、「聖霊における喜び」(ローマ14:7、ルカ10:21)に満たされていることです。

3.御霊によって歩むとは、律法に強いられてではなく、自由において生きることです。それは、自分の計画だけで自分の未来を閉じてしまうのではなく、御霊の働く余地を開いておくことです。

4.御霊によって歩むとは、肉の働きにまかせず、御霊の実を結びつつ歩むことです。パウロによれば、それは「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」であります。

 パウロは、「どうか御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて下さるように」と祈っています(エフェソ3:16)。聖霊は祈り求める者に与えられます(ルカ11:13)。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする