富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「生涯の日を正しく数える」詩編90編1-17節 

2021-10-28 20:33:04 | キリスト教

「主よ、生涯の日を正しく数えるように教えてください。」詩篇90:12

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会     週  報

聖霊降臨節第24主日  2021年10月31日(日)     午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                           礼 拝 順 序

                                                             司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 141(主よ、わが助けよ)

交読詩編   90(主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)詩編90編1-17節(旧p.929) 

説  教 「生涯の日を正しく数える」辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                     

讃美歌(21) 528(あなたの道を)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇 オンラインで礼拝に参加できます。設定担当は、斎藤美保姉です。

                                               次週礼拝 11月7日(日)午後5時~5時50分 

                                              聖 書 イザヤ書40章27-31節

                                             説教題 「主に望みをおく人は新たな力を得る」

                                             讃美歌(21) 132 149  27 交読詩編 103編    

本日の聖書 詩編90編1-17節

90:1【祈り。神の人モーセの詩。】主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。
2山々が生まれる前から、大地が、人の世が、生み出される前から、世々とこしえに、あなたは神。
3あなたは人を塵に返し、「人の子よ、帰れ」と仰せになります。     4(なぜなら)千年といえども御目には昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。                                                                        5あなたは眠りの中に人を漂わせ、朝が来れば、人は草のように移ろいます。
6朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ、枯れて行きます。
7(なぜなら)あなたの怒りにわたしたちは絶え入り、あなたの憤りに恐れます。
8あなたはわたしたちの罪を御前に、隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。
9(なぜなら)わたしたちの生涯は御怒りに消え去り、人生はため息のように消えうせます。
10人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。
11御怒りの力を誰が知りえましょうか。あなたを畏れ敬うにつれてあなたの憤りをも知ることでしょう。                             12生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。
13主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください。
14朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ、生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。
15あなたがわたしたちを苦しめられた日々と、苦難に遭わされた年月を思って、わたしたちに喜びを返してください。
16あなたの僕らが御業を仰ぎ、子らもあなたの威光を仰ぐことができますように。
17わたしたちの神、主の喜びが、わたしたちの上にありますように。わたしたちの手の働きを、わたしたちのために確かなものとし、わたしたちの手の働きを、どうか確かなものにしてください。

  本日の説教

 この詩は、人生のはかなさと、神の永遠を歌った詩として有名です。この詩を読む者は、詩人が教えているように、「自分の生涯の日を正しく数える知恵」を学ぶことが出来ます。

祈り。神の人モーセの詩。

表題には、「祈り。神の人モーセの詩」と書かれているが、その内容は、もっと一般的であり、また個人的なものです。この詩は後代にモーセの作とされたが、それはおそらく創造と堕罪の物語や、モーセの歌と祝福(申命32:33)に似た響きを持つためでしょう。この詩があらわす荘厳と哀愁とは、時代のへだたりと、人種の区別をこえて、生と死の厳粛さを強く人に訴えるものです。神の永遠性を歌うこの力強い歌はイスラエル民族最大の人物モーセの作と考えられたのでしょう。この詩は<祈り>とあるように、表現の形式は詩ですが、しかし、その精神は<祈り>です。

 この詩の構成は、三つの部分から成り立っています。

第一部(1-6節)まず1節で、代々、その民を守られるイスラエルの主を賛美し、2節で、世界が存続する以前からいます創造者としての主、神の永遠性をほめ讃え、主への信頼が語られる二つの節で始まります。それからこの詩は、3―6節で、人の命のはかなさ、人間の無常と、この詩を口にする者達の生涯における災いが神の怒りのみ手の業によるものであることを告白します。

第二部(7-12節)自分たちを死すべき人間に過ぎないと述べることへと、10節まで引き継いで行き、11節で嘆願へと転換し、ただ神を畏れる者のみが、このはかなさと、災いは神の怒りによってもたらされたものであることを知るのだと明言します。それから12節で、神に、知恵の心を与えて生涯の日を正しく数えることができるように教えてくださいと願います。定められた条件下で生きる生活の知恵を求めます。

第三部(13-17節)苦しみと嘆きの時が満足と喜びの時へと転換されることを切望し、み怒りを撤回して、祈る者達を「慈しみ」の内に引き入れてくださることを神に求める一連の願いをもってこの詩は閉じられるのです。

それでは、一節ごとに解説しましょう。

「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。」(1節)

 「主よ」は祈りがささげられる方が神であることを述べます。民の「宿るところ」は、主が備えと守りのうちに民を「保護される場所」です。避難所、隠れ家の意味です。神は世代世代、つまり、全世代を通じて、その民の避けどころであり続けられ、今もそうであられる。

「山々が生まれる前から、大地が、人の世が、生み出される前から、世々とこしえに、あなたは神。」(2節)

2節以下に述べられていることは、ほとんど神を中心としています。詩人は神の永遠性によって目覚めさせられた畏敬と驚きを表現します。神は永遠から永遠まで、すなわち地が出来る以前から神であり、地がもはやなくなっても神である、という神の永遠性が讃えられています。

「あなたは人を塵に返し、『人の子よ、帰れ』と仰せになります。」(3節)

このことを人間は自分の身体で体験します。人を塵に帰らせるのは神である。神から一言あれば、人間の生命が終わるのに十分です。永遠の神の力に比べ、人間とは何であろうか。塵より生まれ、神の意志に従って塵に返る。ここに古い堕罪物語(罪を犯したアダムとエバが楽園から追われる物語)の伝承の響きが聞こえます。詩人は意図的に、人間存在のもろさを表す言葉を選んでいます。「人の子よ、帰れ」という宣言は、「塵に帰れ」を意味し、人間の死を表します。人間は神に視線を向けて始めて、人間の無常を理解します。逆に言えば、人間が死に視線を向けることによって、神の永遠性と力がいったい何を意味するかが明らかになります。

 「千年といえども御目には昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。」(4節)

 千年という最も大きな時間の区切りを人間個々人は見渡すことさえできないが、神から見れば、過ぎ去れば昨日の如く、当時の人にとって時間の最小単位であった、夜回りの交代時のようです。

 「あなたは眠りの中に人を漂わせ、朝が来れば、人は草のように移ろいます」。(5節)

人生は、神が人を「流れ去らせる」河のようであり、朝起きて思い返してみても何の意味もない眠りのようです。最後に人生はたちまち「姿が変わる」草のようです。

「朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ、枯れて行きます。」(6節)

朝(あした)に栄え、夕べに枯れる、と言います。詩人は物ごとをあるがままに、神に照らして見ます。

「あなたの怒りにわたしたちは絶え入り、あなたの憤りに恐れます。」(7節)

このような神の前に立たされた人の問題を神の怒りと人の罪から見ます。詩人は神の怒りの前に消え失せ、脅かされると言います。死に直面した人は一番深くそのことを実感するのです。

「あなたはわたしたちの罪を御前に、隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。」(8節)

 神の怒りの対象である罪は、知られざる、隠れた罪です。しかし「御前に」「御顔の光の中に」とあるのは深い罪認識です。わたしたちはさらに進んで十字架の光の下に罪赦されたことを知る時に、初めて罪の何であるかをも知ることが出来るのであり、この詩はまだこのような所には達していないのです。神の怒りがおもに語られているのはそのためです。罪は赦されて始めてその重さが分かるのであり、神の愛の重さを知って始めて神の怒りの重さを知ることができるのです。

 「わたしたちの生涯は御怒りに消え去り、人生はため息のように消えうせます。」(9節)

 9節も神の怒りと人の死の実感を述べています。しかし罪の自覚がそれと結びついていることも否定できません。人生の短さとはかなさを、「ため息」のようだとたとえ、悲観的に判断しています。

「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。」(10節)

人生は七十年、長くて八十年で終わるのであり、その誇る所はつきつめた所、空しい誇りにすぎず、空しい労苦に過ぎない。嘆いているのは、、苦痛として味わわされている死すべき運命なのです。この実感は詩人が若い人ではなく、年老いた人であることを想像させます。しかしそれにもかかわらず人はいつまでも生きるかのように妄想し、死の現実とその背後にある神の怒りを本当に知らうとはしません。ここに神の永遠と人の間違った永遠の空想との対立があるのです。

「御怒りの力を誰が知りえましょうか。あなたを畏れ敬うにつれてあなたの憤りをも知ることでしょう。」(11節)

 「神を畏れ敬うにつれて」は、神の道に従って生命の行くべき道筋を理解させ、神のみ心に沿う生活を整えさせる、神のいと高き神性のみ前での「畏怖」と「畏敬」のことです。主を畏れることによってのみ、現実の神の怒りのみ力を理解することが出来るのです。もし主を畏れないならば、神のみ怒りを免れ得ない自分達の状態を真剣に見据えないことになる、と警告し、教示しているのです。詩人は、自分の言葉を通じて、神に視線を向けるとき立ち現れる事実の力強さを語り、人間の罪と悲観的人生論との関係を神からの展望の下に明らかにしようとします。

 「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。」(12節)

 「生涯の日を正しく数える」というのは、生涯の日を神の意志の実現のためにあてはめ、用いることです。もし、短い一生であっても、神の聖なる支配に進んで服し、その御業に自分の生命を打ち込むとき、たとえに十年三十年の若い生涯であっても、そこには実に無限の長さを感じさせるものです。人の一生は、時間の長短によって価値づけられるのではなく、その生き方のいかんによって意味づけられます。それゆえ、昔の詩人が、知恵の心を得させ給え、と祈った祈りは、今日のわれわれによっても同じように捧げられなければなりません。

「主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください。」(13節)

詩人はこの歌の最後の場面で、もう一度、神が彼のもとに来て、その御怒りを恵みに変えてくださるように祈っています。「主よ、帰って来てください」の「帰る」は、人に死を命じられた神のみ心の転換を求める会衆の願いで用いられています。主は審判の神であるが、同時に恩恵と愛の神であるゆえに、永久にその怒りをいだくことはない。いつかは、必ずその怒りを和らげる時が来る。詩人の「いつまで捨てておかれるんですか」とは、詩人の信仰の忍耐を意味する語です。これは、敬虔な者の苦悩がどんなに激しいかを表しています。詩人は「あなたのしもべらを力づけてください」と嘆願する。

 「朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ、生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。」(14節)

 「朝には」は、主の怒りのゆえに悲しんでいたが(5-6節)、ここでは「願い」として用いられます。朝には、主の慈愛に満ち足らせて、生涯、喜びの声をあげ、喜び祝わせてください、と嘆願します。

 「あなたがわたしたちを苦しめられた日々と、苦難に遭わされた年月を思って、わたしたちに喜びを返してください。(15節)

神は、さきに詩人を、その罪のゆえに苦しめられた。その苦難に遭わされた長い年月を思って、わたしたちに喜びを返してください、と嘆願する。主は、決して冷酷な神ではない。受けた苦しみと悩みに倍する喜びと楽しみを与えてくださる方なのです。

「あなたの僕らが御業を仰ぎ、子らもあなたの威光を仰ぐことができますように。」(16節)

「あなたの御業」は救いの業。「あなたの威光」はイスラエルの救いによってあらわされた神の栄光です。詩人は彼の生涯において、神の御業を彼自身に明らかにされ、その栄光が彼の子等に現れることを心からの願いとして祈ったのです。神が審きにおいて神の恵みの意志が見える形をとり、実際に働くよう、そしてそのことにおいて神のとらえがたい栄光が現在の世と来るべき世とに対して啓示されるよう、神に祈ったのです。こうして本来はみすぼらしい人生も、永遠の輝きと最終的な不変の意味とを獲得します。

わたしたちの神、主の喜びがわたしたちの上にありますように。わたしたちの手の働きを、わたしたちのために確かなものとし、わたしたちの手の働きを、どうか確かなものにしてください。」(17節)

み怒りの下で過ごした「全ての日々・・・年月」が「わたしたちの神、主の喜び」の下で過ごす「日々・・・年月」(15節)に変わることを切望しているのです。空虚に代えて満ち足りる時、労苦と災いの代わりに喜びの時を求めるのです。それは、彼ら自身の手の働きが確かなものとされる時なのです。

詩人は「手の働き」を確かなものにしてください、繰り返し祈願して、この詩を結んでいます。「手の働きを確かなものとする」とは、日々の業が成就し栄えるようにとの祈りです。まだ来世の生命の希望を持たないこの詩の作者にとっての祈りは、イスラエルの回復によって現世における人民の幸福繁栄が与えられ、喜び楽しむことであったのです。イザヤ書26:12には、「わたしたちのすべての業を成し遂げてくださるのはあなた(主)です」とあります。キリストの使徒パウロは、わたしたちの手の働きを、「主に結ばれているならば自分たちの労苦が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」(コリント一15:58)と述べています。

教会は13-17節にある「願い」をイエス・キリストにおける神の啓示の光に照らして読みます。キリストによる救いは神のみ手の業によるものであり、わたしたちの生死を支配している神の摂理は、み怒りからみ恵みへと変えられる出来事だったのです。キリストに結ばれているキリスト者は、生にふりかかる災いを、神の裁きや怒りによるものではなく、「懲らしめ」や「鍛錬」として、またキリストの苦しみにあずかる者としてくださいました。キリスト者は、彼らの罪に対する裁きがイエス・キリストに下され、義とされ、主に愛していただいていることに信頼し、「どんな被造物もキリストによって示された神の愛から引き離すことはできにない」(ローマ8:39)ことを信じて死に直面するのです。

讃美歌21のアイザック・ウォッツの141番(讃美歌88番)は、この詩の持つ慰めを歌います。「主よ、わが助けよ、いつの世にも、嵐の中なる、わが隠れ家」と、神を賛美します。2節は、「ただ強きみ手に支えられて、みつばさのかげに、宿るわれら」と歌います。 

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「神は苦難のとき、必ず助けてくださる」 詩編46編1-12節

2021-10-23 21:30:30 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

聖霊降臨節第23主日  2021年10月24日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                           礼 拝 順 序

                                                             司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 355(主をほめよ、わが心)

交読詩編   46(神はわたしたちの避けどころ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)詩編46編1-12節(旧p.880) 

説  教 「神は苦難のとき、必ず助けてくださる」辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                     

讃美歌(21) 377(神はわが砦(とりで))

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇 オンラインで礼拝に参加できます。設定担当は、斎藤美保姉です。

            次週礼拝 10月31日(日)午後5時~5時50分 

            聖 書 詩編90編1-17節

            説教題 「生涯の日を正しく数える」

            讃美歌(21) 141 528  27 交読詩編 90    

  本日の聖書 詩編46編1-12節

1【指揮者に合わせて。コラの子の詩。アラモト調。歌。】
2神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
3わたしたちは決して恐れない。地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも
4海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも。〔セラ

5大河とその流れは、神の都に喜びを与える。いと高き神のいます聖所に。
6神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。
7すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る。
8万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。〔セラ
9主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。
10地の果てまで、戦いを断ち、弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。
11「力を捨てよ、知れ。わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」
12万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。〔セラ

本日の説教

 【指揮者に合わせて。コラの子の詩。アラモト調。歌。】(1節)

 <アラモト>とは、「少女たち(乙女たち)」という意味なので、乙女たちの音調(高い音程)にあわせて、の意味のようです。

 マルティン・ルターの有名な讃美歌「神はわがやぐら、わがつよき盾(讃美歌(旧)267番、讃美歌21の377番」は、この詩編46編に基ずいて創作したものです。詩編も讃美歌も、神の民と共にいますことを選んで下さった神ゆえに、必ず助けていただけることを確信して喜び歌っています。詩では、神の都における臨在を通して共におられ、讃美歌ではキリストにおけるご臨在を通して共におられます。この詩のテーマ(主題)は、避けどころとしての万軍の主です。

 この歌は三つの部分からなります。

第一部(2-4節)は、たとえ海の中に地が飲まれるような、究極的な恐れが襲うとも、礼拝共同体の信頼は恐れに変わることは決してないことを、はっきり語ります。

第二部(5-8節)は、神の都について語ります。エルサレムに迫る諸国民の攻撃の歴史の中で、神の都は、神に守られてゆらぐことがないことを語ります。

第三部(9-12節)は、主の御業と見られる戦いによってもたらされる、破壊について語る勧告です。

 「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。」(2節)

 まず、二節において、詩人の信仰の結論が述べられます。<避けどころ>は、戦闘の最前線において、一時的に敵の攻撃から身を避け、危険から逃れ、次の戦いに備えるための避難所であり、<砦>は、文字通り敵の進入を食い止めるために設けられた味方の前線基地を意味します。

<砦(とりで)>の原語、ヘブライ語「マハセー」は、(堅固な)「避難所」です。讃美歌21では、「神はわがやぐら」を、「神はわが砦(とりで)」、と訳しています。ルターの「Burg」が、城、城郭(じょうかく)、避難所を意味しているからです。「櫓(やぐら)」は、城を守るため、敵を見張り、攻撃する建物なので、城の一部分なのです。ちなみに、盾(たて)は、自分の体を盾に攻撃を防ぐ様の比喩としても使われることばです。ここに歌われているのは、いかなる試練や苦難の時にも、神は必ずそこにいて、盾となってくださり、最も安全な避難の場所を常に用意しておられる、という信仰の確信です。

 ルターは、神はわが砦、わが避け所という強い神への信頼に支えられて、当時絶大な権力を誇った中世カトリック教会の圧力にプロテスト(抗議)し、宗教改革の偉業をなしとげました。

 「わたしたちは決して恐れない。地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも。海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも。」(3-4節)

 <地><山々><海(の水)>といった表象は、それぞれ天地自然の創造の時の、それ以前の混沌(カオス)の持つ勢力を表しています。荒れ狂う自然の猛威に、とうてい抵抗し難い困難や苦難に対しても、神の救いの確実さのゆえに、詩人は恐れる必要が無い、というのです。

 「大河とその流れは、神の都に喜びを与える。いと高き神のいます聖所に。神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。」(5-6節)

<大河とその流れ>は、創世記二章のエデンの園から流れ出る川を連想させます。すなわち、「エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。・・・」(10節)。「神の都」、シオンには「大河」が流れているわけではないので、この川は神話的表象としての<川>で、尽きることのない命の泉が川となって溢れ、<神の都>を潤し、神の都に喜びを与えます。神は常にこの都の永遠の住まい、至聖所におられて助けを必要とするすべての者にその救いの力を顕されるのです。<都は揺るぐことはありません>。

 「すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る。万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。〔セラ 」(7-8節)

世が乱れ、<すべての民>が騒乱し、<国々>が動揺しています。詩人は世界の変動を二つの面で考えています。第一は、創造世界の混沌化であり(3-4節)、第二は、歴史世界の動乱です(7節)。だが、神の<御声>は、世界をおびえさせ、恐怖に溶かし去り、世界を静めるのです。<万軍の主>とは全宇宙の支配者の意。<ヤコブの神>とは先祖の時代からのイスラエル民族と主との関係を強調しています。<万軍の主はわたしたちと共にいます>。主はわたしたちと共にあって戦い、身をなげだして、わたしたちを護ってくださるのです。ヤコブの神はわたしたちの<砦の防衛塔>だからです。

「主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。地の果てまで、戦いを断ち、弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。」(9-10節)

詩人は、世界の変動を戦争と兵器によるものとして語ります。主なる神の御業があらわされる時、<地の果てまで、戦いを断ち、弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる>。正義が成就し、秩序が世界に打ち立てられ、平和が実現します。そのような永遠の平和を作り出し、完結させる方としての神ヤーウェへの信頼の歌が、この詩編四十六編の基本的なテーマ(主題)なのです。

「力を捨てよ、知れ。わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。」(11-12節)

<力を捨てよ>は、戦いを止めよ。攻撃を中止せよ。お前の力で歴史を従えようとする空しい試みを捨てよ。地と国々の上に君臨する神の力がある。その方のみ業は兵器を破壊すること、その助けは、この方こそ避けどころとなられる。それを詩人は信仰の確信のうちに告白し、賛美するのです。「万軍の主はわたしたちと共にいます」とは、「インマヌエル」の信仰告白です。詩人はこのインマヌエルの信仰に立って、主の救いの確実さを証言するのです。主なる神が共にいますかぎり、恐れの入り込む余地はありません。神が共にいますがゆえに、またこの神ご自身が、砦となられ、避けどころとなってくださるゆえに、すべての内的、外的な敵の攻勢から身をまもることができるのです。このような神のいますところ、その聖なる住まいが、シオンであり、エルサレムに他なりません。

重要なことは、シオンそれ自体で聖なる地を意味を持つのではない、ということです。同様に「神の都」と歌われるエルサレムが、それ自体において神の聖所なのではありません。そこにおいて神の臨在が確認される時においてのみ、シオンは「神の都」たり得るのであり、そこに神がおられる時においてのみ、敵の進入を食い止め、助けを身近に持つことができるのです。裁きの神に対する理解と畏れなしに、シオンをとなえ、エルサレムとそこに建てられた神殿の不可侵性を頼みとすることは、信仰でも何でもありません。

二節の「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦」と、八節と十二節で、二回繰り返される「万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔」は、この詩編の基調となるテーマ(主題)を示しています。この三つは共に、告白的な宣言です。それらは、礼拝者が神のみ守りのうちにその生命があることに寄り頼んでいるところからくる、礼拝の言葉です。万軍の主とは、ご自身の支配を保つために世にある敵、そして人のうちにいる敵に対して天の軍勢を率いる神なる戦士としての主のことです。

イスラエルの神として、主はイスラエルの歴史の歩みに伴ってくださり、助けてくださった方でした。告白が神を「避けどころ」「砦」と呼び表しているが、この言葉遣いは、ここでは共同体全体の信仰告白です。「それゆえわたしたちは決しておそれない」(3節)とあるように、信仰者は恐れないものとされます。思い煩いと警戒心は消え去り、信頼が広がり、代わって、「主は避けどころ、わたしたちの砦」と告白するものとされます。

新約聖書では 、主なる神はキリストのご臨在を通して共におられます。キリストの体である教会に属する一人一人が、「神の神殿」です(コリント二、3:16)。また、わたしたちに近づいているのは、「シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム」(ヘブライ12:22)です。

 

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「わたしの魂は神を慕い求める」 詩篇42編1-12節

2021-10-15 16:07:52 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

聖霊降臨節第22主日  2021年10月17日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                           礼 拝 順 序

                                                              司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 433(あるがままわれを)

交読詩編   42(涸れた谷に鹿が水を求めるように)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)詩編42編1-12節(旧p.876) 

説  教  「わたしの魂は神を慕い求める」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                     

聖意餐式   78(わが主よ、ここに集い)

讃美歌(21) 132(涸れた谷間に野の鹿が)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇 オンラインで礼拝に参加できます。設定担当は、斎藤美保姉です。

                              次週礼拝 10月24日(日)午後5時~5時50分 

                                 聖 書 詩編46編1-12節

                                説教題 「神は、苦難のとき必ず助けてくださる」

                               讃美歌(21) 354 457  27 交読詩編 46    

本日の聖書 詩編42編1-12節

1【指揮者によって。マスキール。コラの子の詩。】
2涸れた谷に鹿が水を求めるように神よ、わたしの魂はあなたを求める。
3神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て
神の御顔を仰ぐことができるのか。
4昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う
「お前の神はどこにいる」と。
5わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす。喜び歌い感謝をささげる声の中を、 祭りに集う人の群れと共に進み,神の家に入り、ひれ伏したことを。
6なぜうなだれるのか、わたしの魂よ。なぜ呻くのか。神を待ち望め。         わたしはなお、告白しよう。「御顔こそ、わたしの救い」と。
7わたしの神よ。わたしの魂はうなだれて、あなたを思い起こす。     ヨルダンの地から、ヘルモンとミザルの山から
8あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえて、深淵は深淵に呼ばわり、    砕け散るあなたの波はわたしを越えて行く。
9昼、主は命じて慈しみをわたしに送り、夜、主の歌がわたしと共にある。  わたしの命の神への祈りが。
10わたしの岩、わたしの神に言おう。                 「なぜ、わたしをお忘れになったのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ、  嘆きつつ歩くのか。」
11わたしを苦しめる者はわたしの骨を砕き、絶え間なく嘲って言う。   「お前の神はどこにいる」と。                                             12なぜうなだれるのか、わたしの魂よ。なぜ呻くのか。神を待ち望め。  わたしはなお、告白しよう。「御顔こそ、わたしの救い」と。       わたしの神よ。

      本日の説教

【指揮者によって。マスキール。コラの子の詩。】(42:1)

表題の「マスキール」は十三の詩編についています。「瞑想(Contemplation)」という歌の類型を示していると思われます。    「コラの子」は神殿合唱隊の名です。彼らはモーセとアロンのいとこコラ(出エジプト記6:18-21)から出た子孫で、ダビデ王によって歌い手の務めに任じられました(歴代上15:16)。

 詩編42編は、次の43編と、合わさって一つの「救いを求める祈り」となっています。両詩編が、三つの部分に分かれ、

どちらも同じ言葉「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ」を繰り返しています。最初の二つの部分(42:-6と7-12)は詩人の置かれている困難を描写し、第三の部分(43:1-5)は、救いを求める懇願となっています。43:1-5に至ってはじめて神に直接祈りの言葉をあげています。とくに3-4節では神の「光とまこと」を遣わしてくださいと祈ります。神から送られてくる「光とまこと」と導きを謙虚に受け入れる信仰に立っています。

 詩人の祈りの場が、7節の「ヨルダンの地」「ヘルモン」、そして「ミザルの山」から、ヨルダン川をさかのぼって、はるかイスラエルの最北端に位置するヘルモン山であるかのように思われます。そこから、詩人は遠く故国を離れた異国の地に追放の身の人とする説があります。しかし、詩人はヨルダン川の源流についての、何らかの知識をもっており、その場所を、詩的技巧としての誇張法で用いたのです。42章8節の「深淵」、「激流」、そして「波」も、しばしば聖書の詩文に用いられているように、明らかに、抵抗しがたい困難を表すための隠喩です。

「お前の神はどこにいるのか」という問いは、詩編79:10,115:2や、ヨエル書2:17、ミカ書7:10の礼拝に関する箇所に現われる定式的な用例です。詩編43:1によると、この敵は「神なき民(あなたの慈しみを知らぬ民)」です。

この詩人は、捕囚後の困難な時代、信仰者が他の人々のなすがままに、その中で生きなければならなかった時に、ある集団の中で、その集団に対して語った一人の代表的な人物によって歌われたものであることを示唆しています。

捕囚後の困難な時代とは、バビロンの捕囚から解放されたユダヤ人が、三回にわたって帰国するのですが、その一回目の第一陣と第二陣、合わせて4万2千人余りが、紀元前538年と521年に帰国しました。彼らはさっそく神殿再建工事に着手したのですが、捕囚期にこの地に住みついていた雑種民が神殿用地の既得権を主張し、妨害したため、神殿再建は、基礎工事だけで頓挫し、以後18年間、工事はやむなく中止されました。詩人はこの時代の人物と推測されます。

「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐことができるのか」(2-3節)

 2-3節は、詩人の置かれている困難を告げ、神を慕う心の悲哀を述べます。「神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。」詩人は、枯れた谷に鹿が水を求めてあえぐように、彼の魂は神を求める、とその胸中を吐露します。夏のパレスチナの厳しい暑さは、ただ乾燥と渇きに支配されます。体は水なしには生きられません。水分の欠乏は、呼吸することを除けば、真っ先に死にものぐるいになって求めるべきものです。同じように、魂は、神なしには生き続けられないのです。それは、ただ単に、信仰深い者にのみ限られることではなく、すべての人間の魂に当てはまる真理なのです。だが、ほとんどの人は、この渇きが、彼らの生を妨げ、また生を左右していることを理解していません。けれども神は、人の魂を、神に向けてお造りになったゆえに、魂は、神を求めて渇くのです。神はまさしく「生命の神」です。そして神の「み顔」の前に出て神と親しく交わることが唯一のあこがれです。詩人が切望しているのは、神の臨在(現臨)です。この詩では、シオンの丘の神殿での礼拝での神の現臨です。そこで魂は、「神のみ顔を仰ぐ」のです。主なる神(ヤーウェ)は天地に偏在する方であり、どこでも、個人にも現臨される神です。だが、主イエスも、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:18〜20)と言われているように、教会は、常に主イエスが現臨するところです。

「昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う「お前の神はどこにいる」と。わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす。喜び歌い感謝をささげる声の中を、祭りに集う人の群れと共に進み、神の家に入り、ひれ伏したことを。」(4-5節)

4-5節は、祈り手と神を結ぶきずなは、「お前の神はどこにいるか」という、敵が嘲笑って発する問によって、引き裂かれようとします。「どこにいるか」は、神の存在を問う言葉ではなく、神は現実に生きて働いていないではないか、という嘲笑いです。十字架につけられたイエスも、そこを通りかかったい人々や、祭司長たちや律法学者や長老たちも、一緒に十字架につけられた強盗たちも、「神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言ったのだから」(マタイ27:39-44)と侮辱した場面を思わせられます。

これが彼の耐え難い苦悩となり、嘆きの理由となっています。この人はそのために「昼も夜も」、涙を流すのです。詩人は、思い起します。自分が、神殿の中の祭壇の前で、祭りに集まった人の群れに加わり、賛美の告白と歌の中に入れられていく自分の姿を思い浮かべます。幸福な過去の神殿での思い出で耐えます。

「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ。なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう。『御顔こそ、わたしの救い』と。」(6節)

6節は、彼の魂が神との交わりを取り戻そうとします。「うなだれる」とは、首を低くたれ、首の後ろを曲げ、嘆き悲しむさまを表します。「呻(う)めく」は、苦しさのあまり、低い声をもらすことです。詩人は自分の魂に向かって、「なぜうなだれるのか」「なぜ呻くのか」と問いかけ、「神を待ち望め」とはげまし、「神の現臨こそが、わたしの救い」と告白しよう、と決意します。苦悩の彼方に通じる道が開ける手がかりを見つけます。闇から光への道は「神を待ち望め」にあります。助けは現われないのではありません。神は宮の中にいまし、その現臨と助けとをもって近くにおられます。

 主イエスは、十字架に向かうみ苦しみに遭われた時、ご自身のうなだれ、もだえる魂について語られる際、これらの詩の言葉を繰り返されました。主イエスはゲッセマネで、「悲しみもだえ始められた。そして彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい』」と。(マタイ26:37-38)

「わたしの神よ。わたしの魂はうなだれて、あなたを思い起こす。ヨルダンの地から、ヘルモンとミザルの山から、あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえて、深淵は深淵に呼ばわり、砕け散るあなたの波はわたしを越えて行く。」(7-8節)

7-8節は、詩人が信じて待ち望む方向へと歩み出したのに、その思いは苦痛に沈んでしまいます。それを6節の「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ」を繰り返して述べます。ヨルダン川の源流がヘルモン連山の南斜面で、ごうごうと音をたて急流となって谷に落ちます。ミザルの山とは、ここからヨルダンの水源の山と思われます。その激流はたけり狂ったように彼をおそい、あたかも彼の生命を奪い去ろうとするかのように彼の魂に襲います。

「昼、主は命じて慈しみをわたしに送り、夜、主の歌がわたしと共にある。わたしの命の神への祈りが。わたしの岩、わたしの神に言おう。『なぜ、わたしをお忘れになったのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ、嘆きつつ歩くのか。』」(9-10節)

昼は主が慈しみをわたしに送り、夜は、主の歌がわたしと共にある。また、わたしの命の神への祈りがある。「わたしの岩」である神との祈りの交わりによって、詩人は現在の悲惨に耐えるのです。

「わたしを苦しめる者はわたしの骨を砕き、絶え間なく嘲って言う。「お前の神はどこにいる」と。」(11節)

わたしを苦しめる者は、絶え間なく「お前の神はどこにいる」と嘲って問うのを、詩人はいやでも耳にします。詩人が真の神、生命と力として拝するヤーウェ(主なる神)に対するこの冒涜は、彼にとって、まさに堪え難い苦しみであり、それは実に骨が打ちくだかれるほどの激しさです。

「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ。なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう。『御顔こそ、わたしの救い』』と。わたしの神よ。」(12節)

神の確かさを得ようとするこの絶望的な格闘の背後で、例の折り返しの言葉、「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ。なぜ呻くのか。神を待ち望め」が反復されます。詩人が切望しているのは、神殿での礼拝であり、神の「御顔」、神の臨在です。詩人は、苦闘しつつ、神の恵みを「神を待ち望む」のです。

私達のうち誰一人として、この詩編の祈りの主題である魂のかわきを避けて通ることはあり得ません。神の臨在へとわたしたちを導くのは、この魂の渇きです。常に「お前の神はどこにいるのか」との問いを提起する世に生きるキリスト者にとって、この詩は、かけがいのない御言葉です。これらの詩は、私達の魂の本性的に持っている不安を、神への渇きとして明らかにします。

詩人の心を満たすことのできるのは、世の富でもなく、権力でもなく、名誉でもありませんでした。これらのものは皆過ぎ行くものです。詩人はただ主を求め、主のみこころが行われること、主の栄光があらわれることです。

「ああ、人はただ影のように移ろうもの。ああ人は空しくあくせくし、だれの手に渡るととも知らずに積み上げる。主よ、それなら何に望みをかけたらよいのでしょう。わたしはあなたを待ち望みます。」(詩編39:7-8)

詩人はただ、活ける神との交わりだけが彼を満たし、神から棄てられないようにということだけが、彼の心からの願いでした。詩人はシオンの神殿から退けられた時、神からも同時に捨てられたのかと思い惑いました。しかし今、なお一層強く主を求めてやまない自分の心を見出しのです。人は苦難を受けるということは、決して神から棄てられたことを示すものではなく、神がますます近くその人を招いてくださるしるしなのです。         「人の心は神に向かて造られています。ゆえに人の心は神のうちに憩うまでは 安らぎを得ることはできません。」(アウグスチヌスの「告白」1章より)

詩編42編は、賛美と聖礼典と説教による礼拝へと私達を向かわせます。その礼拝において、またその礼拝を通して、、われらの主は、会衆のために臨在されることを望まれるのです。

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「主の慈しみによる魂の救い」 詩編6編1-11節

2021-10-07 23:31:41 | キリスト教

              ↑ 「主はわたしの嘆願(嘆き)を聞き、主はわたしの祈りを受け入れてくださる。」(詩篇6:10)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週    報

聖霊降臨節第21主日  2021年10月10日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」 (エフェソ3・16-17)

                           礼 拝 順 序

                                                             司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 474(わが身の望みは)

交読詩編    4(主よ、怒ってわたしを責めないでください)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)詩編6編1-11節(旧p.838) 

説  教  「主の慈しみによる魂の救い」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                     

讃美歌(21) 441(信仰をもて)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇 オンラインで礼拝に参加できます。教会に申し込みください。設定担当は、斎藤美保姉。

           次週礼拝 10月17日(日)午後5時~5時50分 

           聖 書 詩篇42編1-12節

           説教題 「わたしの魂は神を慕い求める」

           讃美歌(21)433 78 132 27 交読詩編 42    

 本日の聖書 詩編6編1-11節

 6:1【指揮者によって。伴奏付き。第八調。賛歌。ダビデの詩。】
2主よ、怒ってわたしを責めないでください。               憤って懲らしめないでください。
3主よ、憐れんでください。わたしは嘆き悲しんでいます。                     主よ、癒してください、わたしの骨は恐れ
4わたしの魂は恐れおののいています。主よ、いつまでなのでしょう。
5主よ、立ち帰り、わたしの魂を助け出してください。            あなたの慈しみにふさわしく、わたしを救ってください。
6死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず、
陰府に入れば、だれもあなたに感謝をささげません。
7わたしは嘆き疲れました。夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです。
8苦悩にわたしの目は衰えて行き、
わたしを苦しめる者のゆえに、老いてしまいました。
9悪を行う者よ、皆わたしを離れよ。主はわたしの泣く声を聞き
10主はわたしの嘆きを聞き、主はわたしの祈りを受け入れてくださる。
11敵は皆、恥に落とされて恐れおののきたちまち退いて、恥に落とされる。

   本日の説教

    【指揮者によって。伴奏付き。第八調。賛歌。ダビデの詩。】(6:1)   表題は聖歌隊の指揮者に、弦楽器付きを指示しています。<第八調>は、Hebrew English Interlineare,urlによると八弦のハープ(竪琴)とあります。指揮者に八弦の竪琴(たてごと)で伴奏するように指示していると思われます。

この詩は神の怒りに対して激しく、苦悶しつつ、恵みを願い求める祈りの歌です。ここで用いられていることばの多くは、癒しを求める病人の祈りとしてこの詩が書かれていることを示しています。病、そして癒しに関する言葉の多くは、旧約聖書では罪人としての状態を比喩的に描き出すものとして用いられました。それゆえ、この詩は信仰者の集まりの罪の赦しを求める祈りとして用いられるようになっていったものと思われます。それがイスラエルの祭儀のときに用いられたものと思われます。

 この詩編は、32、38、51、102、130、143篇とともに、七つの悔い改めの詩篇に数えられ、その最初にあたります。詩篇6編には罪の懺悔らしい言葉は見当たりません。罪や罪深さについての言葉はなく、罪の赦しを求める明確な祈りの言葉もありません。作者とその境遇について詳しく知ることはできません。詩の背後に罪の認識があるようには思われますが、病の苦しみと死の恐怖からの魂の救いを求めることで終始し、最後に願いが聞き届けられたことを確信しています。

「主よ、怒ってわたしを責めないでください。憤って懲らしめないでください。主よ、憐れんでください。わたしは嘆き悲しんでいます。主よ、癒してください、わたしの骨は恐れ、わたしの魂は恐れおののいています。主よ、いつまでなのでしょう。」(6:2-4)

始めの2-4節では、嘆きと願いが交互にあらわれます。詩人は、<わたしを責めないでください。・・・懲らしめないでください。・・・癒してください。わたしの骨は恐れ、わたしの魂は恐れおののいています。>と懇願します。<わたしの骨と魂>とは、わたしの全身全霊が恐れと苦悩の包まれていることを表しています。それは、あたかも神と人との間にあるべき好ましい在り方は、人が健康であり、生き生きとしていることであると確信しているかのように懇願しています。

すべての病が罪の結果による神の怒りによるものではありません。罪の全くない主イエスも苦難を受けています。この世は、天国でも楽園でもないからです。罪を犯した覚えのない義人ヨブは重い皮膚病による苦難をうけ苦悩したが、すべてのことは神の経綸(神が世界と歴史を支配し導いておられるということ)にあることを神に知らされています(ヨブ記38:2)。

だが、重病を患うことで、わたしたちは、自身の限界と欠けていることに気づかされるものです。それは反省と悔い改めをうながし、ついに祈りを通して神に依り頼むものとされます。聖書の神は、恵みだけでなく、怒りをもっても働きかけられる方なのです。この詩人は、自分が神の怒りに価することを認めています。彼はひたすら神の恵みと憐れみにすがる他はありません。<主よ、いつまでですか>と問いかけています。神のみ旨を尊重しつつも、彼の苦痛がいかに耐えがたいものであるかを、この言葉はあらわしています。

「主よ、立ち帰り、わたしの魂を助け出してください。あなたの慈しみにふさわしく、わたしを救ってください。死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず、陰府に入れば、だれもあなたに感謝をささげません。」(6:5-6)

続く5-6節では、救いを求める祈りが新たな形で始まります。「主よ、立ち帰って、わたしの魂を救ってください」と祈ります。「あなたの慈しみにふさわしく、救ってください」とあるように、神の慈しみが彼の身に事実となってあらわされ、それによって彼の魂が罪から救われ、助け出されることを願っているのです。ヘブライ語の「慈しみ(ヘセッド)、新改訳聖書では「恵み」と訳しています」は、契約に基づく神の変わらない愛、真実な愛を意味しています。それは神にのみ属する、神の本質です。新約では、ギリシヤ語の「愛(アガぺー)」と訳され、罪人を赦し、愛される神の無償の愛を示します。

詩人の苦悩と不安とは、病苦だけではありませんでした。病苦によってひきおこされる死の不安でもありました。死はあらゆる人間にとって、常に不安であり、悲哀です。とくに、旧約聖書時代のイスラエル人にとっては、死は絶望的な悲しみでした。なぜなら、死によって神と人との関係がまったく遮断されてしまうからです。陰府(よみ)は永遠の暗黒と沈黙とであり、天上の光さえもそこには達しないと、当時のイスラエル人は考えていたからです。陰府とは死せる者の住みかであり、地下の暗黒です。旧約聖書の中には、死後、神の宮で過ごす生命について、ところどころに記されているが、それはかすかな望みのようなものでした。詩人は死ねば神との生きたつながりを失うのではなかという不安を抱いているのです。神を想い、神を讃える幸福が、永久に奪い去られてしまうのではないだろうかと不安を抱いたのです。この詩人は、復活の希望も永遠の生命の信仰もまだ与えられていませんでした。パウロは「今や、わたしたちの救い主キ リスト・イエスの出現によって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現わしてくださいました」(テモテ二、1:10)と言っています。

「わたしは嘆き疲れました。夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです。苦悩にわたしの目は衰えて行き、わたしを苦しめる者のゆえに、老いてしまいました。」(6:7-8節)

7-8節では、ふたたび詩人は嘆きの淵に沈んでいきます。いくぶん誇張した言葉を用いて、<夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです>と歌います。<わたしを苦しめる者>とは、神を信じない者たちが詩人を嘲笑していると考えられます(10節)。彼らによって負わされた苦悩によって、詩人は<老いてしまいました>と語ります。

「悪を行う者よ、皆わたしを離れよ。主(ヤーウェ)はわたしの泣く声を聞き、主(ヤーウェ)はわたしの嘆きを聞き、主(ヤーウェ)はわたしの祈りを受け入れてくださる。敵は皆、恥に落とされて恐れおののきたちまち退いて、恥に落とされる。」(6:9-11)

最後の9-11節では、願いが聞き届けられたという確信によって、祈り手は新たな力と希望を得ます。何度も主(ヤーウェ)の名が繰り返えされています。詩人は救いの確信を得るのです。今や不安と絶望に取って代わるのは、生に対する新たな勇気と毅然たる態度です。この覚悟によって彼の心は奮い立ち、今まで彼を脅かしていた敵の圧迫からたちまち自由にされます。敵とは、詩人が重病により苦しんでいた時に、彼をあざけり、彼を苦しめた人たちです。義人ヨブの友人たちも、彼の敵となってヨブを責め、苦しめました。

だが、詩人の願いと祈りを受け入れたこの出来事が彼の敵にとっては恐怖となり、彼らは恥じ入って彼の前から退却します。

神の怒りによって病を負ったある特定の個人が語った詩が、聖書正典に含められ、悔い改めの祈りとされるようになって、すべての人の罪の赦しを願う普遍的な祈りとなりました。

死は、すべての人間の存在に問いを投げかけます。死は、生にけりをつけ、また過ちや失敗からの回復の可能性を断ちます。死は、神から永遠に引き離されるか、神に究極的に受け入れられるかの二者択一を迫ります。詩編6編は、どのような絶望の中にあろうとも、なおそこから救い出してくださる道のあることを教え、励まし、神の救いの恵みの内に安らかにおらせてくれる御言葉です。わたしたちキリスト者は、キリストによる復活と永遠の生命の信仰を与えられている恵みに感謝せざるを得ません。この恵みを人々にも伝えて、共に分かちあいたいものです。

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