富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

『あなたはこの人たち以上にわたし(イエス)を愛しているか』 ヨハネによる福音書21章15~25節

2016-04-17 16:00:52 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

日本キリスト教 富 谷 教 会

     週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

 復活節第4主日      2016年4月17日(日)  午後5時~5時50分

礼 拝 順 

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 481(救いの主イエスの)

交読詩篇  116(わたしは主を愛する)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書 ヨハネによる福音書21章15~25節(新p.211)

説  教   『あなたはこの人たち以上にわたし(イエス)を愛しているか』   辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 483(わが主イエスよ、ひたすら)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

                                                  次週礼拝 4月24日(日)  午後5時~5時50分

                                                  聖書 ヨハネによる福音書15章18~27節

                                                  説教     「聖霊の実」

                                                  賛美歌(21) 97 483 24  交読詩編 116篇

本日の聖書 ヨハネによる福音書21章15~25節

 15食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。16二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。17三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。18はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」19ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

20ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。21ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。22イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」23それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。

24これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。

25イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。

      本日の説教

 ガリラヤ湖畔での朝食が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われました。<この人たち以上に>というのは、この人たちがわたしを愛している以上にという意味です。このお言葉は、他の弟子たちとの競争をあおるような問いかけのようにも受けとられますが、主イエスの真意は、「あなたはだれにもまして、わたしを愛しているか」という問いではないかと思われます。この問いの背後には、「わたしはあなたをだれにもまして愛している」という、ペトロへの主イエスの愛が込められています。しかし、神の愛は差別のない愛なので、特にペトロだけを優先して愛しているということではありません。神は、それぞれの人の特性に応じて、それぞれの人をだれにもました愛しておられるのです。

 結婚式では、夫婦となるための誓約があります。「あなたは彼(彼女)を、愛すことを誓いますか」と牧師は新郎・新婦に尋ねます。主イエスのペトロへの問いは、主イエスがペトロの愛を確かめ、親密な愛の関係を結び、新たな任命をペトロに託すためであったと考えられます。神であられるイエスを愛すということは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マタイ22・37)とあるような心からなる愛がペトロに求められてしかるべきなのです。

 ペトロは主の問いに、<はい、わたしはあなたを愛しています>と答えずに、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と控えめに答えています。ペトロがイエスを三度知らないと裏切っているので、このような間接的な言いまわしをしたと思われます。

 ペトロはもう以前のように、他の人と比べるようなことをせず、心砕かれて「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です。」と答えています。もはや自分の確信の力、自分の意志の強さに頼るのではなく、主イエスが知っていてくださればいいと、全てを主に委ねる告白へと、変えられています。<あなたがご存じです>という言葉は、すべてを知る復活のキリストの前にいるペトロの畏敬の念を感じさせます。そのようなペトロに主はご自分の大切な羊を任せようとされるのです。イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と命じました。

  二度目にもイエスは、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と言われました。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われました。

  三度目にイエスは言われました。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」主イエスから三度も繰り返し問われたペトロは「悲しくなった」とあります。三度繰り返して念を押されることによって、ペトロは自らが三度イエスを知らないと言ったことを思い起して悲しくなったとも思われます。しかしそれだけではありません。もっと大きな主イエスの深い愛に触れたのです。罪を犯して、もう弟子とよばれるにふさわしくないペトロに、主イエスの方から近づいて来てくださり、一緒に食事をし、そして過去の罪を責めるのではなく、今も変わらずに愛してくださり、自分の大切な羊を任せようとしていてくださる、その愛、赦し、信任といった、主の大きな愛に触れて主イエスがそれほどまで、心を傾けてくださることに感激したのです。罪深い者を愛し、身代わりのいけにえとなってご自分の身を父なる神に献(ささ)げ、ご自分の血によって罪から解放してくださった神の子であられる方の苦痛と痛みを覚えて悲しくなったのだと思います。その悲しみは、ペトロの心に主の愛が満ちたことによって起こったものです。

  イエスが三度も「わたしを愛しているか」と問われたのは、ペトロに対する主イエスの不変の愛を示し、どんなものも引き離すことのできない愛の関係で結ばれていることを確信させ、このイエスの愛に応えて生きる新たな決意をもって、主の与える使命に生きる者とするためでした。

 ペトロは、イエスの三度目の問いに答えて、「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と言いました。

「何もかもご存知です」という言葉の中にはペトロ自身がどんなに弱く罪深いものであり、その罪のゆえにイエスを見捨てたということや、このような罪を犯したペトロをイエスが愛し、赦してくださる方であることを信じたことも、またイエスが神であられることも信じたことも含まれています。

 イエスは「わたしの羊を飼いなさい」と言われ、教会に対する指導者としての役割をペトロに委託しました。「わたしの小羊を養いなさい」、「わたしの羊の世話をしなさい」、「わたしの羊を養いなさい」という三つの異なる表現も、羊飼いの種々の働きを表していますが、意味の相違はないと思われます。  

【イエスの第一回目、第二回目の<(あなたはわたしを)愛しているか>の場合の「愛す」という動詞は、<アガパス(原形はアガパーン)>というギリシャ語が用いられています。これはアガぺーという言葉の動詞です。それに対して、ペトロが<(わたしがあなたを)愛している>と答えた時の「愛す」という動詞は、<フィロー(原形はフィレイン)>という言葉を使っています。三度目にイエスがペトロに<(あなたはわたしを)愛しているか>と問うた時は、イエスの方もペトロの使ったことばに合わせて<フィレイス(原形はフィレイン)>という言葉を使っています。

 一般にアガぺーは神が人間を愛するときなど、高い次元の愛に意味します。それに対して、フィレインは人間相互の愛情といった自然の愛情を意味します。これらの二つの言葉が用いられていることから、次のように解釈する人たちがいます。ペトロは終始<フィレ―ン>を用い、自然の愛情を強く言い表し、イエスは最初は<アガパ―ン>を使って高い次元の愛を要求するが、三回目にはペトロの用いた言葉を受け入れる。人間的な限界内でしか愛することのできないペトロの次元にまで、イエスが降りてきて、ペトロの愛を容認してくださったのだとする解釈です。

  しかし、ヨハネによる福音書においては、これらの二つの言葉は同義的に用いられているので、このような解釈は成り立ちません。その例として、「もしだれでもわたしを愛する(アガパ)ならば…わたしの父はその人を愛し(アガぺイセイ)…」(14・23)の場合は<アガパ―ン>を使い、ほとんど同じ意味を表す文章の「父ご自身があなたがたを愛して(フィレイ)おいでになる。それは、あなたがたがわたしを愛した(ペルヒルエケーテ)ためである」(16・27)の場合の動詞の原形は<フィレ―ン>です。二つ言葉は意味の上で同じですが、<アガパーン>も<フィレ―ン>も区別なく用いられているのです。

  また、イエスの「わたしを愛するか(アガパス)」という問いに対して、ペトロが肯定的に「主よ、そうです」と答えているところからも、異なる二つの動詞の使用は、同義的に用いられ、どちらもキリストの要求する高い次元の愛を表す言葉として用いられています。これは同じ言葉を繰り返すことを避け、言葉に変化をつけたヨハネの文学的技巧によるものと解されます。】

はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。

この表面的な意味は、若くて元気な時には自由に活動できるが、高齢になると人々の世話にならなければ何一つできないようになるという意味です。しかし、ここではペトロの殉教の死を知っていてこれを語っているのです。他の人々に縄をかけられ、逮捕され、十字架の上に両手を伸ばして死刑にされるということが暗示されているのです。ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのです。ペトロは復活の主との固い結びつきにより、死の恐怖も乗り越えていく者へと変えられていきました。

ペトロの殉教の死は紀元六二年頃ネロ皇帝の迫害の下にローマで行われたという伝説が残っています。執筆者は明らかにこのことを知って書いています。

このように話してから、イエスはペトロに、「わたしに従いなさい」と言われました。

ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えました。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人です。<あの夕食のとき>とは、最後の晩餐の席上のことを指しています(13・21~30)。

ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言いました。イエスは「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」と言われました。

イエス様にお仕えする時、どうしても他の人のしていることや、していないことが気になってしまう。それは人間の情として仕方がないことかもしれません。けれども、主イエスは、あなたは、あなたに与えられた分を忠実に果たしなさいということをおっしゃるのです。イエスの答えは、一方が殉教したとしても、他方がそういう死に方で死なないとしても、主が定めることであり、あなたには関係のないことであると言われたのです。

それで、この愛弟子は再臨のイエスが来る時まで生きているいううわさが初代教会に広まりました。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのです。

これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この愛弟子です。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っていると、このヨハネによる福音書の編集者は記しています。

イエス・キリストが「わたしを愛しているか」と三度ペトロに語られたことは、わたしたしに対する主イエスの問いでもあります。私たちを愛し、私たちの罪のために身を献げ、私たちのために親密な愛の関係を結んでくだされる、復活の主イエス・キリストの問いであります。この問いかけに、ペトロと一緒に私たちも「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」とお答えしていきたいと思います。

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「ガリラヤ湖畔で弟子たちに朝食を与えた復活の主」 ヨハネによる福音書21章1~14節

2016-04-09 01:22:28 | 説教

    キリスト教のシンボル:魚

                    

    魚のギリシア語:ΙΧΘΥΣ = ἰχθύς 発音・イクスス

      魚は、「イエス、キリスト、神の、子、救い主」の五つの語の頭文字

       Ι ΙΗΣΟΥΣ (Ιησουσ) イエスス   イエス

         Χ ΧΡΙΣΤΟΣ(Χριστοσ) クリストス  キリスト

         Θ ΘΕΟΥ(Θεου)    セオー    神の

          Υ ΥΙΟΣ(Υιοσ)     フィオス   

          Σ ΣΩΤΗΡ(Σωτηρ)   ソーテール  救い主 

    981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

            日本キリスト教 富 谷 教 会

                       週    報

 年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

 復活節第3主日  2016年4月10日(日)      午後5時~5時50分

       礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 206(七日の旅路)

交読詩篇  145(わたしの王、神よ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書 ヨハネによる福音書21章1~14節(新p.211)

説  教   「ガリラヤ湖畔で弟子たちに朝食を与えた復活の主」 辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 327(すべての民よ、よろこべ)

聖餐式    78(わが主よ、ここに集い)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

       次週礼拝 4月17日(日)  午後5時~5時50分

      聖書 ヨハネによる福音書21章15~25節

      説教 「あなたはこの人たち以上にわたしを愛しているか」

      賛美歌(21) 320 481 24  交読詩編 116篇

   本日の聖書 ヨハネによる福音書21章1~14節

  1その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。2シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。3シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。4既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。5イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。6イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。7イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。8ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。9さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。10イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。11シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。12イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。13イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。14イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。 

          本日の説教

    ヨハネによる福音書は、20章の30、31節で、この福音書が書かれた目的を記し、締めくくりの言葉としています。この書は、20章でいったん終わったことになります。21章は、後になってから追加された文書です。

     21章が追加された理由は、復活のイエスが、ユダヤのエルサレムだけでなく、弟子たちの出身地であるガリラヤでも現れたことを記すためでした。マタイによる福音書の28章10節で、復活の主イエスはマグダラのマリアたちに「わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」と言われました。マルコによる福音書16章7節にも同様の言葉があります。弟子たちは主イエスからガリラヤで会うと言われたので、ガリラヤに帰りました。

     21章の2節以下に、ペトロを筆頭とする七人の弟子たちが、ガリラヤ湖で魚を獲る漁師の仕事をしていることが書かれています。20章で、復活のイエスは弟子たちに現れて、弟子たちを伝道に派遣しており、聖霊を与えています。イエスが二度目に現れたときには、トマスは「わたしの主よ、わたしの神よ」と信仰の告白をしています。その弟子たちが、故郷に帰って漁師の仕事を始めたことについて弟子たちが召命以前の状態に戻ってしまたからだと解釈する説が、意外に多いのです。舟を捨て、漁師の生活を捨ててイエスに従った彼らが再び漁師に戻ったのは、復活の信仰が本当に弟子たちのゆるがない信仰となるためには、相当の時間を要したからであり、そのために主は何度も弟子たちに現れたのだと解するのです。弟子たちはガリラヤで再び復活の主と出会うことによって信仰を回復し、使徒の使命を与えられた、というのです。

    弟子たちが漁師となったのは、生計を立てるためです。主イエスに従っていた三年間は、自分の持ち物を出し合って、イエスの一行へ奉仕する多くの婦人たちもおり、金持ちの徴税人ザアカイのようなイエスによって救われた協力者もいたので、弟子たちは生活には不自由しませんでした。だが、イエスを失った後、自活しなければなりません。弟子たちが漁を始めたのは、パウロがテント作りをして生計を立てたように、自活するために必要だったのではないでしょうか。弟子たちは、キリストによって派遣された使命に背を向けて漁師の生活をしていたのではないと私は思うのです。

     21章1節は、次のような言葉で始まります。「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。」

     <ティベリアス湖>とは、ガリラヤ湖の別名です。紀元18年頃にヘロデ大王の子、ヘロデ・アンティパスによってガリラヤ湖畔の西岸中央部にティベリアスという町が建てられました。このティベリアスという名は、当時のローマ皇帝ティベリアスにちなんで付けられ、ギリシア風都市として建てられました。この町はガリラヤ地方の首都になりました。ガリラヤ湖がティベリアス湖と呼ばれるようになったのは、この町の名に由来しています。

     シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいました。ゼベダイの子たちとは、ヤコブとその兄弟ヨセフです(マタイ4・21)。七人の内、五人の名は分かります。他の二人は、ペトロの兄弟アンデレと、ペトロと同じベッサイダ出身のフィリポが思い浮かびます。

     ペトロ、ヤコブ、ヨセフは明らかにガリラヤ湖の漁師でした。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言いました。場所は記されていませんが、イエスのガリラヤ伝道の本拠地であったカファルナウムか、ペトロやヨセフの出身地のベッサイダと思われます。

   彼らは出て行って、舟に乗り込みました。しかし、その夜は、弟子たちは夜通し漁をしたのに、一匹の魚も獲れませんでした。徒労感で、心身疲れ切って岸に向かって帰ってきたのです。

   既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられました。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分かりませんでした。舟が岸に近づいたときでしょう、イエスが、「子たちよ、何か食べる物(プロスファギオン「副食物、ここでは魚の意」)があるのか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えました。イエスの質問は、食べる魚を欲しくて言ったのではなく、「何も食べるものを獲れなかっただろう」という思いやりの質問でした。

   イエスは、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」と言われました。おそらく少し沖へ出たのでしょう、言われた通り網を打ってみると、魚(イクスオン「イクススの複数形」)があまり多くて、もはや網を引き上げることができませんでした。

   イエスとペトロたちの最初の出会いの時も、これと同じような大漁の奇跡がありました(ルカ5・1~11)。夜通し漁をして何もとれなかったペトロに、主イエスは人々に話をするので舟を出してくれるよう頼みました。主イエスは舟から人々に教え、話が終わると、ペトロに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」と言われました。「夜通し苦労しても何もとれなかったのです。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」と答えてペトロが網を降ろしてみると、おびただしい魚で網が破れそうになりました。ペトロは「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」と言いました。とれた魚にペトロも一緒にいたヨハネも驚いたからです。するとイエスはペトロに向かって、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」と言われました。そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従いました。

   この時も、同じようなことが起こったのです。ペトロやヨハネは主イエスと最初にお会いして召し出された時の事を思い起こしたに違いありません。「イエスの愛しておられたあの弟子」のヨハネがペトロに「主だ」と言いました。ヨハネは復活の主を感知することはペトロに先んじています。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着(漁師の服)をまとって湖に飛び込みました。上着をまとったのは、主の前に裸で出るのは畏れ多かったからでしょう。飛び込んだのは、主の身許に少しでも早く泳いで近づくためだったと思われます。ペトロの愛すべき性急さ行動力が表れたユーモラスな光景です。

   ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来ました。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのです。<二百ペキス>とは、90メートルの距離です。

   さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてありました。その上に一匹の魚(オプサリオン「食べる魚の意、単数形」)がのせてあり、一個のパン(アルトン「単数形」)もありました。主イエスが弟子たちのために朝食を用意しておられたのです。

   イエスが、「今とった魚(オプサリオン「複数形」)を何匹か持って来なさい」と言われました。シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚(イクスオン)でいっぱいでした。それほど多くとれたのに、網は破れていませんでした。

   <百五十三匹>という数字は何を象徴しているのかにつては、古来種々の説があり確定することはできません。分かりやすい有力な説は、ヒエロニムス(340?~420年、アンティオキア教会の教父、神学者)の説で、当時の地中海に棲む魚の種類を表す数であったとし、世界のすべての人々が伝道の網に一杯に満たされるということの象徴であるとする説です。

      <網は破れなかった>は、「天国は、網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める網にたとえられる」(マタイ13・47)とイエスが教えらえているので、網は教会を指すものと想定され、多種多様な人々から成り立っていても、主にあって一つであり、分裂しない、ということを表していると解されます。

   イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われました。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしませんでした。主であることを知っていたからです。イエスは来て、パン(アルトン「単数形」)を取って弟子たちに与えられました。魚(オプサリオン「単数形」)も同じようにされました。主イエスは生きるために必要な食卓を弟子たちのために用意してくださったのです。

   この場面は、二匹の魚と五つのパンで五千人の人々を満腹させた、6章に記されている奇跡を想起させます。主イエスがパンを裂いて弟子たちに与えられ、魚も同じように弟子たちに分けられた時、弟子たちも、あの時のことを思い起こしていたに違いありません。あの時主が与えた食事は過越祭が近いことから主の晩餐(聖餐)を先取りする食事でした。しかし、この度主から与えられた朝食は日毎の糧としての食事でした。主と食事を共にするのは最後の晩餐の時以来のことであり、この日毎の糧としてのパンをいただいた弟子たちは、「わたしが命のパンである」(6・50)と言われた主のことばも思い起したでしょう。

   ペトロがこの時の食事について、コルネリウスの家では話したことが、使徒言行録に記されています。「神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。」と話しています。この食事は、復活のイエスの顕現が幻影や幻想でもなく、霊や幽霊の顕現でもなく、死の支配に勝利されて復活した生けるキリストとの交わりを体験したことが語られています。

    七人の弟子たちが、生計を立てるために漁師の仕事をしていたのは、宣教に遣わされた者として、信仰にふさわしくない行為だったのでしょうか。決してそうではないと思います。イエスは「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」と漁を続けるように言われており、また「今とった魚を何匹か持って来なさい」とまで言われています。ペトロたちの仕事を認めておられるのです。そうでなければ、ペトロたちの獲った魚は無くとも、イエスの用意した一匹の魚でも十分であったはずです。

    弟子たちが宣教していく時、自活するために仕事をしなければならないこともあります。その場合にも生活を支えてくださるのは主であることが、この出来事の中に示されています。弟子たちが夜通し漁をしても不漁であったことを知っておられた主は、空腹の弟子たちが岸に帰るのを待った、朝食を準備し、既に夜が明けたころから、イエスは岸に立って弟子たちを待っておられたのです。私たちを豊かな命の糧でもてなしてくださる御方は、また私たちの日常生活の中においても、豊かな命にあずからせてくださる御方であることが示されています。同時に宣教の業も使徒たちの人間的努力だけでは遂行不可能であって、主イエスの命令と助けによってはじめて可能であることが示されています。岸での主イエスと共に過ごした朝食のひと時は、弟子たちが宣教活動を続けていくうえで、大切な意味をもっていました。

 私達の日常の糧まで配慮して、備えてくださる復活の主を信じて、自活のためにも働き、託されている宣教の業に励みたいと思います。

                        

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 「トマスに現れた復活のイエス」  ヨハネによる福音書20章19~31節

2016-04-03 14:23:22 | 説教

           ↑   レンブラント 「聖トマスの懐疑」 1634年 53×51㎝ プーシキン美術館 モスクワ

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

    日本キリスト教 富 谷 教 会

          週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

    復活節第2主日     2016年4月3(日)   午後5時~5時50分

   礼 拝 順 

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 302(暗いゲッセマネ)

交読詩篇  118(恵み深い主に感謝せよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書 ヨハネによる福音書20章19~31節(新p.210)

説  教   「トマスに現れた復活のイエス」    辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 481(救いの主イェスの)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

          次週礼拝 4月10日(日)午後5時~5時50分

         聖書 ヨハネによる福音書21章1~14節

         説教 「ガリラヤ湖畔で現れた復活のイエス」

         賛美歌(21) 206 327 24  交読詩編145篇

 本日の聖書 ヨハネによる福音書20章19~31節

  19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

  24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

  30このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

    本日の説教

 週の初めの日、朝早く、マグダラのマリアが墓に行った時の出来事は、20章の1節から18節までに記されていました。マリアから、主が墓から取り去られたという知らせを聞いたペトロとヨハネは墓に走って行き、イエスが葬られた墓穴が空虚であることを確認して帰りました。墓に居残ったマグダラのマリアに復活されたイエスが姿を現されました。このマリアが弟子たちとところへ行って、「わたしは主イエスを見ました」と証言し、主から託された伝言を弟子たちに伝えました。

 その日の夕方です。マグダラのマリアから主が復活したという知らせを聞いていた弟子たちでしたが、依然として三日前に起こったイエスの十字架の死による衝撃を消えず、失意のうちにありました。また、ローマの官憲と結託して、主イエスを十字架刑につけたユダヤの当局者たちの弾圧と迫害を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていました。一緒に集まっていた弟子たちのところへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和(平安)があるように」と言われました。イエスの与える平安は、日常的な挨拶の言葉としての平安ではなく、「わたしが与える平安は、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな。またおじけるな」(14・27)と言われたように、神が共にいてくださることによって与えられる特別な平安です。主イエスの与えるこの平安は、最後の晩餐の席での訣別(告別)説教で、「わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る」(14・28)と言われた約束が、ここで実現したことになります。

 「平安があるように」と言って、イエスは弟子たちに、手とわき腹とをお見せになりました。手には釘の跡があり、わき腹には槍で刺された傷跡がありました。十字架の上で人々の罪のために身代わりとなって死んでくださったイエスが復活されて現れたのです。弟子たちは、復活されたイエスの「手とわき」の傷跡を見て、自分たちの罪をも赦すためになされたキリストの贖いの業を直感しました。弟子たちはイエスが新しい復活の命をもって彼らの前に現れたことを見て喜びました。

  訣別の説教でイエスが、「このように、あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあながたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない」(16・23)と約束された言葉が実現しました。

   イエスは重ねて言われました。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」主は弟子たちに、この世への宣教の派遣を命ぜられました。父なる神が、御子イエス・キリストに託された宣教の業が、今度は、復活の主によって弟子たちに、そして後の教会に託されたのです。

  そう言ってから、イエスは彼らに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。

 ここにおいても、「わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊(みたま)が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう」(5・26)という訣別の説教での御霊の派遣の約束が成就するのです。「息を吹きかけた」という言葉は、創世記での人間創造の記事(2・7以下)で、「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた」という言葉を想起させます。イエスの弟子たちは、復活の主イエスにより、聖霊が与えられることを通して、弟子たちは罪と死の支配から解放され、神の子である身分と永遠の命に生きる新しい人間に再創造されたのです。

   イエスは弟子たちに聖霊によって執行される罪の赦しの権威を与えます。聖霊の導きと、聖霊の力により弟子たちは、確信をもって、罪の赦しを告げ知らせ福音を宣べ伝えなければなりません。十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいませんでした

   <ディディモ>とは双子のことです。彼が双子の兄弟の一人であることから呼ばれた通称です。トマスは、イエスが病気で死んだと思われるラザロのところへ行こうと言ったとき、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(11・16)と言った人物です。また、イエスの訣別の説教の時、「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません」(14・5)と言いています。トマスは師イエスと共に死ぬ覚悟であり、死がすべての終わりであるという人生観を持っていたようです。

  ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言いました。

  復活の主イエスが弟子たちに現れた時、トマスは弟子たちと一緒にいませんでした。トマスは弟子たちの証言にもかかわらずイエスが現れたことを信ずることが出来ませんでした。イエスが弟子たちに現れたとき、イエスは手とわき腹とをお見せになったことを聞いたからでしょうか、トマスは自分の目でイエスの手に釘の跡を見、わき腹に槍の跡を見て、自分の指をその跡に入れてみなければ決して信じない、と言ったのです。このトマスの態度と言葉から、疑い深いトマスとか、不信のトマスと非難する呼び名が生まれました。しかし、直接自分の目で見て、確かめなければ信じられない、というトマスの態度を、一概に懐疑的とすることはできないのではないでしょうか。しかもトマスは死がすべての終わりだという考えを持っていとすれば、なおさらイエスの復活を信じることができなかったはずです。

  この八日の後、ちょうど一週間後の日曜日、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいました。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て、弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。最初に甦りの主が弟子たちに姿を現した時、トマスは弟子たちの交わりの中にいませんでしたが、今回は一緒にいました。トマスは復活されたイエスを信じられない心のまま、弟子たちの群れの中にとどまっていました。そこに復活された主イエスは、まさにトマスを目指しておいでになりました。それから、トマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と呼びかけられました。

 釘跡に手を入れてみなければ信じられないと語ったトマスの要求をそのまま主イエスは容認されました。イエスは手の釘跡とわき腹の槍跡をトマスに見せ、あなたの指を当て、指を入れなさい、と言われました。マグダラのマリアの場合は、生前のイエスのような思いでイエスにすがりとくとしたので、「すがりつくのはよしなさい」と主は拒否されたのですが、トマスの場合は復活されたイエスであることを、トマスに示そうとされたのです。

 この主イエスの言葉を聞いてトマスは手を伸ばして、イエスのわき腹の槍跡に指を入れたでしょうか。この場面を、画家のカラヴァッジョは描いています。

  「聖トマスの不信」 1601-02 107 x 146cm フィレンツェ、ウフィツィ美術館

 この絵では、トマスがイエスのわき腹の傷跡に指を入れています。しかしトマスは、イエスの十字架に付けられた手とわき腹を見よと言われたとき、もはや見る必要なかったと思われます。そう言われたイエスの言葉を聞くだけで十分であったと思われます。

  レンブラントの絵では、イエスの前でトマスが驚いています。自分の前に立たれるイエスの臨在にトマスは圧倒されたのです。トマスは、自分のために現れてくださった復活のイエスを見て、この方は神だと直感したと思います。復活を信じられなかった自分のために、主が現れてくださっただけで感動したと思われます。トマスの聞いた主の言葉は、復活のキリストの言葉であり、また十字架に付けられたあのイエスの言葉でした。トマスはこの主のお言葉を聞いて、イエスの手に釘跡や胸の槍跡をつけたのは、自分の罪のためでもあったと気付いたのです。トマスは、最初自分は師であるイエスのために死ぬことのできる人間でありたいと志していました。ところが、その師が十字架に付けられた時、師を捨てて逃げた人間であり、そのような罪深い自分のために、主の十字架は、自分の罪の赦しであることに気付いたのです。

  トマスは、「わたしの主、わたしの神よ」と告白する以外にはなかったのです。トマスはイエスの復活を信じただけではなく、もっと深く、イエスが神であることを信じ、告白したのです。

  イエスはトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言われました。イエスの弟子であったトマスは、復活されたイエスが現れてくださったことによって、イエスに対する信仰を告白することができました。しかし、彼以後の人々は、イエスの弟子たちの証言を通して、宣教の言葉を通して信じなければなりません。イエスは、そういう人々こそ、トマス以上に幸いなのだと、祝福を約束されたのです。信仰とは、語りかけてくる神のことばに耳を開いて聞くことであります。そして今も生きておられる主イエスに、「わが主よ、わが神よ」と呼びかける関係に入ることです。

  このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていません。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためなのです、と執筆の目的が書かれています。<イエスの名により命を受けるため>とは、わたしたちの罪の赦しのためのイエスの十字架の贖いの死をけ入れ、イエスを神と等しい者、神と信じて永遠の命を得るたであると勧めています。

コメント (1)
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