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日本キリスト教 富 谷 教 会
週 報
年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』
聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)
復活節第4主日 2016年4月17日(日) 午後5時~5時50分
礼 拝 順 序
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 481(救いの主イエスの)
交読詩篇 116(わたしは主を愛する)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
聖 書 ヨハネによる福音書21章15~25節(新p.211)
説 教 『あなたはこの人たち以上にわたし(イエス)を愛しているか』 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 483(わが主イエスよ、ひたすら)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 4月24日(日) 午後5時~5時50分
聖書 ヨハネによる福音書15章18~27節
説教 「聖霊の実」
賛美歌(21) 97 483 24 交読詩編 116篇
本日の聖書 ヨハネによる福音書21章15~25節
15食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。16二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。17三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。18はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」19ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。
20ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。21ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。22イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」23それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。
24これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。
25イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。
本日の説教
ガリラヤ湖畔での朝食が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われました。<この人たち以上に>というのは、この人たちがわたしを愛している以上にという意味です。このお言葉は、他の弟子たちとの競争をあおるような問いかけのようにも受けとられますが、主イエスの真意は、「あなたはだれにもまして、わたしを愛しているか」という問いではないかと思われます。この問いの背後には、「わたしはあなたをだれにもまして愛している」という、ペトロへの主イエスの愛が込められています。しかし、神の愛は差別のない愛なので、特にペトロだけを優先して愛しているということではありません。神は、それぞれの人の特性に応じて、それぞれの人をだれにもました愛しておられるのです。
結婚式では、夫婦となるための誓約があります。「あなたは彼(彼女)を、愛すことを誓いますか」と牧師は新郎・新婦に尋ねます。主イエスのペトロへの問いは、主イエスがペトロの愛を確かめ、親密な愛の関係を結び、新たな任命をペトロに託すためであったと考えられます。神であられるイエスを愛すということは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マタイ22・37)とあるような心からなる愛がペトロに求められてしかるべきなのです。
ペトロは主の問いに、<はい、わたしはあなたを愛しています>と答えずに、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と控えめに答えています。ペトロがイエスを三度知らないと裏切っているので、このような間接的な言いまわしをしたと思われます。
ペトロはもう以前のように、他の人と比べるようなことをせず、心砕かれて「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です。」と答えています。もはや自分の確信の力、自分の意志の強さに頼るのではなく、主イエスが知っていてくださればいいと、全てを主に委ねる告白へと、変えられています。<あなたがご存じです>という言葉は、すべてを知る復活のキリストの前にいるペトロの畏敬の念を感じさせます。そのようなペトロに主はご自分の大切な羊を任せようとされるのです。イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と命じました。
二度目にもイエスは、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と言われました。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われました。
三度目にイエスは言われました。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」主イエスから三度も繰り返し問われたペトロは「悲しくなった」とあります。三度繰り返して念を押されることによって、ペトロは自らが三度イエスを知らないと言ったことを思い起して悲しくなったとも思われます。しかしそれだけではありません。もっと大きな主イエスの深い愛に触れたのです。罪を犯して、もう弟子とよばれるにふさわしくないペトロに、主イエスの方から近づいて来てくださり、一緒に食事をし、そして過去の罪を責めるのではなく、今も変わらずに愛してくださり、自分の大切な羊を任せようとしていてくださる、その愛、赦し、信任といった、主の大きな愛に触れて主イエスがそれほどまで、心を傾けてくださることに感激したのです。罪深い者を愛し、身代わりのいけにえとなってご自分の身を父なる神に献(ささ)げ、ご自分の血によって罪から解放してくださった神の子であられる方の苦痛と痛みを覚えて悲しくなったのだと思います。その悲しみは、ペトロの心に主の愛が満ちたことによって起こったものです。
イエスが三度も「わたしを愛しているか」と問われたのは、ペトロに対する主イエスの不変の愛を示し、どんなものも引き離すことのできない愛の関係で結ばれていることを確信させ、このイエスの愛に応えて生きる新たな決意をもって、主の与える使命に生きる者とするためでした。
ペトロは、イエスの三度目の問いに答えて、「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と言いました。
「何もかもご存知です」という言葉の中にはペトロ自身がどんなに弱く罪深いものであり、その罪のゆえにイエスを見捨てたということや、このような罪を犯したペトロをイエスが愛し、赦してくださる方であることを信じたことも、またイエスが神であられることも信じたことも含まれています。
イエスは「わたしの羊を飼いなさい」と言われ、教会に対する指導者としての役割をペトロに委託しました。「わたしの小羊を養いなさい」、「わたしの羊の世話をしなさい」、「わたしの羊を養いなさい」という三つの異なる表現も、羊飼いの種々の働きを表していますが、意味の相違はないと思われます。
【イエスの第一回目、第二回目の<(あなたはわたしを)愛しているか>の場合の「愛す」という動詞は、<アガパス(原形はアガパーン)>というギリシャ語が用いられています。これはアガぺーという言葉の動詞です。それに対して、ペトロが<(わたしがあなたを)愛している>と答えた時の「愛す」という動詞は、<フィロー(原形はフィレイン)>という言葉を使っています。三度目にイエスがペトロに<(あなたはわたしを)愛しているか>と問うた時は、イエスの方もペトロの使ったことばに合わせて<フィレイス(原形はフィレイン)>という言葉を使っています。
一般にアガぺーは神が人間を愛するときなど、高い次元の愛に意味します。それに対して、フィレインは人間相互の愛情といった自然の愛情を意味します。これらの二つの言葉が用いられていることから、次のように解釈する人たちがいます。ペトロは終始<フィレ―ン>を用い、自然の愛情を強く言い表し、イエスは最初は<アガパ―ン>を使って高い次元の愛を要求するが、三回目にはペトロの用いた言葉を受け入れる。人間的な限界内でしか愛することのできないペトロの次元にまで、イエスが降りてきて、ペトロの愛を容認してくださったのだとする解釈です。
しかし、ヨハネによる福音書においては、これらの二つの言葉は同義的に用いられているので、このような解釈は成り立ちません。その例として、「もしだれでもわたしを愛する(アガパ)ならば…わたしの父はその人を愛し(アガぺイセイ)…」(14・23)の場合は<アガパ―ン>を使い、ほとんど同じ意味を表す文章の「父ご自身があなたがたを愛して(フィレイ)おいでになる。それは、あなたがたがわたしを愛した(ペルヒルエケーテ)ためである」(16・27)の場合の動詞の原形は<フィレ―ン>です。二つ言葉は意味の上で同じですが、<アガパーン>も<フィレ―ン>も区別なく用いられているのです。
また、イエスの「わたしを愛するか(アガパス)」という問いに対して、ペトロが肯定的に「主よ、そうです」と答えているところからも、異なる二つの動詞の使用は、同義的に用いられ、どちらもキリストの要求する高い次元の愛を表す言葉として用いられています。これは同じ言葉を繰り返すことを避け、言葉に変化をつけたヨハネの文学的技巧によるものと解されます。】
「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」
この表面的な意味は、若くて元気な時には自由に活動できるが、高齢になると人々の世話にならなければ何一つできないようになるという意味です。しかし、ここではペトロの殉教の死を知っていてこれを語っているのです。他の人々に縄をかけられ、逮捕され、十字架の上に両手を伸ばして死刑にされるということが暗示されているのです。ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのです。ペトロは復活の主との固い結びつきにより、死の恐怖も乗り越えていく者へと変えられていきました。
ペトロの殉教の死は紀元六二年頃ネロ皇帝の迫害の下にローマで行われたという伝説が残っています。執筆者は明らかにこのことを知って書いています。
このように話してから、イエスはペトロに、「わたしに従いなさい」と言われました。
ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えました。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人です。<あの夕食のとき>とは、最後の晩餐の席上のことを指しています(13・21~30)。
ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言いました。イエスは「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」と言われました。
イエス様にお仕えする時、どうしても他の人のしていることや、していないことが気になってしまう。それは人間の情として仕方がないことかもしれません。けれども、主イエスは、あなたは、あなたに与えられた分を忠実に果たしなさいということをおっしゃるのです。イエスの答えは、一方が殉教したとしても、他方がそういう死に方で死なないとしても、主が定めることであり、あなたには関係のないことであると言われたのです。
それで、この愛弟子は再臨のイエスが来る時まで生きているいううわさが初代教会に広まりました。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのです。
これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この愛弟子です。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っていると、このヨハネによる福音書の編集者は記しています。
イエス・キリストが「わたしを愛しているか」と三度ペトロに語られたことは、わたしたしに対する主イエスの問いでもあります。私たちを愛し、私たちの罪のために身を献げ、私たちのために親密な愛の関係を結んでくだされる、復活の主イエス・キリストの問いであります。この問いかけに、ペトロと一緒に私たちも「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」とお答えしていきたいと思います。