富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「病気で苦しむ人を癒すキリスト」 (世界保健機関の旗にある蛇について)ヨハネによる福音書5章1~9節

2020-04-28 11:26:05 | キリスト教
          ↑ベトザタの池で、三十八年間も病気で体の不自由な人を癒したイエス・キリスト  
        聖書 ヨハネによる福音書5章1~9節
  1その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。2エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。3この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。4*彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。6イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。7病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」8イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」9すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。
 
               本日の説教
  5章1節には「その後、ユダヤ人の祭りがあって」とあります。「この祭り」は、仮庵の祭りであったと予測されます。紀元31年(?)の秋頃と思われます(バイブルワールドp.89)イエスはエルサレムへ行ききました。
    イエスは、巡礼者が神殿の丘に入る前に沐浴(もくよく)するベトザタの池に行きました。エルサレムの羊の門の近くにあった池です。神殿へ来る巡礼者たちはそこにいる病人たちに施しをしました。
     ベトザタの池の<ベトザタ>とは、「オリーブの木の家」という意味のことばです。この池のあった地域の名称が「オリーブの木」を意味する<ベゼッタ(ベゼタ)>なので、「ベト(家)+ザタ(オリーブ)=ベトザタ(オリーブの木の家)」の名称で呼ばれたものと思われます。
  口語訳聖書で使われたいた<ベテスダ>は、「憐れみの家」を意味することばです。「べト(家)+へセダ(憐れみ)=べテスダ(憐れみの家)」の名称は、イエスの奇跡的行為の行われる場所にふさわしい名称として後からつけられた名と思われます。
   
  「羊の門」は神殿の北の門。ネヘミヤが補修再建したエルサレム第二神殿と12の城門の一つ。
   ベトザタは<羊の門>の近くにありました。羊の門は、ユダヤの総督ネヘミヤがバビロン帰還後に再建(前445~433年)した12の門のうちの一つです(ネヘミヤ記3・1)。この門の名は、神殿に捧げる羊を運び入れる門で、この羊を洗浄するための池が、ベトザタの池の最初でした。その当時は池の名も「羊の池」と呼ばれていたようです。
  この池は、その後の紀元前164年~前63年まで、ユダヤが政治的に独立したハスモン王朝時代、神殿とエルサレム市内に大量の水を供給する必要から、大規模な雨水を集める貯水槽になりました。貯水槽の周りに回廊を造ったのは、ローマ帝国の元老院によりユダヤの王に任命されたヘロデ大王です。回廊というのは、屋根付きの廊下のことです。ヘロデ大王は紀元前20年頃から前9年にかけて、エルサレム神殿の拡張工事をしました。この工事は、紀元64年ヘロデ・アグリッパ王の時に完成しました。
    池の考古学上の発掘が1878~1932に行われた結果、建設されたのは紀元前2世紀頃で、池は長方形で高低差のある二つの池に分かれており、二つの池を囲む四つの回廊と池の段差のある部分を区切を横切るように、高い方にもう一つの回廊がありました。男性用と女性用の二つの池を合せて、南北が約100m、東西は約50-60m(北の池は東西52m・南北40m、南の池は少し大きく,東西64m・南北47m・深さ15m)あることが分かりました。 
    
    (再現した50分の1モデルが、上の写真です。)
    発掘された回廊には水浴中の婦人像や小麦の穂を捧げている人物像の壁画や、さらに蛇の彫刻がなどの断片が出土しました。これらはまさしくギリシア神話の医学の神、アスクレピオスの祭儀のシンボルでした。一世紀の時代に、ここにアスクレピオスの神殿が建っていて、病人が治療に来ていたことが分かったのです(関谷定夫著「聖都エルサレム5000年の歴史」)。アスクレピオスは、優れた医術の技で死者すら蘇らせ、神の座についたとされることから、医神として現在の医学の象徴的存在となっているのです。
              
ギリシャのエピダウロスにあるアバドン(聖なる場所)  アスクレピオスの像と杖。
ここで受けたお告げにより治療が行われた。
 
杖には蛇が巻き付いています。常に蛇をともなって病気治癒に従事したという伝承によるものです。蛇は長い体や毒をもつこと、脱皮をすることが「死と再生」を連想させるため、古代では「生と死の象徴」とされていたからです。
     ベトザタの池の五つの回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていました。
    彼らは、水の動くのを待っていました。主の使いが時々の池に降りて来て、水を動かすのですが、水か動かされたあとで最初に入った者は、どのような病気かかっている者でもいやされたからです。この池は、水面が波立ったときに、最初に入ったものは、奇跡的に癒されると言われていました。医神アスクレピオスの癒しを求めいたのかも知れません。
    この人たちは、ただ水が動くのをじっと待つ日を送っいたのです。回廊の周りにいる者は、われ先に池に入ろうと池を見つめていたのです。病人の世界にも、われ先に、人を押しのけてでも、という醜い姿がありました。
 この回廊に、38年も病で苦しんでいる人が横になっていました。その人を見たイエスは、こう語りかけます。「良くなりたいか」、原文では「あなたは健康になることを願うか」です。しかし、この人は「よくなりたいです」と答えず、「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです (7節)」と答えています。
    自分の病気が治らないのは、ほかの人が誰も自分のために何もしてくれないからだ、と言ったのです。この言葉は、半ばあきらめて、本気でよくなりたいという意志がほとんどなかったことを表しています。この38年間病気の人は、自分のこれまでの思いをイエスにぶつけました。
     イエスの質問は、この「治りたい」という意志を取り戻すための言葉でした。本気でよくなりたいという意志を取り戻したこの病人に、イエスは「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言われました。
    「すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだし」ました。イエスは、本気でよくなりたいという意志を取り戻した病人に、イエスの言葉を信じて立つことを命じたのです。信仰は、イエスの言葉を信じて立ち上がり、歩み出すことです。
    その後、イエスは神殿の境内でこの人に出会って、「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」と言われました。
    聖書は、人の病気の直接の原因はすべてその人の罪のためであるとは、決して教えていません(9・2~3)。しかしこの病人の場合、この病気の原因は、この人の罪によるものでした。<もう、罪を犯してはいけない>と言われた主イエスのお言葉がそのことを示しています。 
   主イエスは、彼に病気の原因である罪を示すことによって、彼の罪が赦されたことを教え、身体の癒しだけでなく、罪の支配から解放される救いをも与えられたのです。
  異教神殿化されたベトザタの池で、イエスが病人を癒したのは、ローマ帝国の支配する世界で、絶大な勢力を誇っていたアスクレピオス信仰へのイエスの挑戦であり、イエスこそ真の治癒神であることの宣言でした。
    その後、この池の上に聖堂が建てられました。現在は聖アンナ教会が建っています。それは、キリストのアスクレピオスに対する勝利の証しでもあります。
    今日もアスクレピオスの杖は、医療・医術の象徴として世界的に用いられています。世界保健機関(WHO)の旗にも,日本の救急車にも杖と蛇のマークが、薬剤関係の会社名  
    世界保健機関(WHO)        国際連合United Nations(UN)
     
 「国際連合」の旗は、北極を中心にした世界地図を、平和の象徴であるオリーブの葉で囲んだものです。「世界保健機関」の旗は、国際連合の旗の真ん中に、アスクレピオスの杖が入っています。それは、ギリシア神話の医神、アスクレピオスの神力にあやかろうとしているのでしょうか。
  世界中で救急医療のシンボルマークになっているのは、スター・オブ・ライフ(命の星)です。突出した六本の柱には、それぞれ次のような意味があり、「detection」が頂点で以下時計回りである。 1.detection (覚知)2.reporting (通報)3.response (出場)4.on scene care (現場手当)5.care in transit (搬送中手当)6.transfer to definitive care (医療機関への引き渡し)
     
                                   日本の救急車
 
  キリスト者である私たちは、この蛇を聖書的に解釈して、民数記21章4~9節の物語に出てくる蛇を連想した方が良いと思います。
    
 エジプトで奴隷とされていたイスラエルの民は、モーセに導かれて脱出(出エジプト)します。しかし、約束の地カナンにたどり着くまで40年もかかりました。そのためイスラエルの民の喜びは、やがて不満の声となって神に向けられます。怒った神は人々に蛇を送り多くの人が亡くなります。そこでモーセは、神に祈り、神の言葉に従って青銅で蛇を造り、旗竿の先に掲げました。「蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。」とあります。
 ヨハネによる福音書第3章の13節 以下によると、主イエスは、「天から降って来た者、す なわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、 モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならな い。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためであ る」と言われています。このようにモーセが 掲げた青銅の蛇は、主イエス・キリストの十字架の死を予告し、指し 示すものでした。
 主イエスは、「ありとあらゆる病気や患いをいやされた」神の子です。病の癒しだけでなく、罪と死から救ってくださる、真の治癒神であることを人々に伝えなければなりません。
 
 
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「イエスのティべリアス湖畔での顕現」 ヨハネによる福音書21章1~14節

2020-04-27 23:25:20 | キリスト教
981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403
                 日本福音教団 富 谷 教 会    週   報
復活節第三主日   2020年4月26日(日)      午後5時~5時50分
年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体 を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)
聖 句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住ま
わせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」
                                                                                        (エフェソ3・16-17)
                                           礼 拝 順 序
前 奏             奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21)  57(ガリラヤの風かおる丘で)
交読詩編  145(わたしの王、神よ、あなたをあがめ)
主の祈り   93-5、A
使徒信条   93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書21章1~14節(新p.211) 
説  教  「イエスのティべリアス湖畔での顕現」         辺見宗邦牧師
祈 祷                
讃美歌(21) 197(ああ主のひとみ)
献 金
感謝祈祷              
頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)
祝 祷             
後 奏
                                  次週礼拝 5月3日(日)   午後5時~5時50分  
                                聖 書 ヨハネによる福音書21章15~25節
                                説教題 「あなたはこの人たち以上にわたしを愛しているか」 
                                讃美歌(21) 320 481 24 交読詩篇 116

                 本日の聖書 ヨハネによる福音書21章1~14節
 21:1その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。 2シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。 3シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。 4既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。 5イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。 6イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。 7イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。 8ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。      9さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。 10イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。 11シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。 12イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。 13イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。 14イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。
                             本日の説教
 ヨハネによる福音書は、20章の30―31節で、この福音書が書かれた目的を記し、締めくくりの言葉としています。21章は、後になってから追加された文書です。
21章が追加された理由は、復活のイエスが、ユダヤのエルサレムだけでなく、弟子たちの出身地であるガリラヤでも現れたことを記すためでした。
21章1節は、次のような言葉で始まります。「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。」
<ティベリアス湖>とは、ガリラヤ湖の別名です。紀元18年頃にヘロデ大王の子、ヘロデ・アンティパスによってガリラヤ湖畔の西岸中央部にティベリアスという町が建てられました。このティベリアスという名は、当時のローマ皇帝ティベリアスにちなんで付けられ、ギリシア風都市として建てられました。この町はガリラヤ地方の首都になりました。ガリラヤ湖がティベリアス湖と呼ばれるようになったのは、この町の名に由来しています。
21章の2節以下に、ペトロを筆頭とする七人の弟子たちが、ガリラヤ湖で魚を獲る漁師の仕事をしていることが書かれています。主イエスに従っていた三年間は、自分の持ち物を出し合って、イエスの一行へ奉仕する多くの婦人たちもおり、金持ちの徴税人ザアカイのようなイエスによって救われた協力者もいたので、弟子たちは生活には不自由しませんでした。だが、イエスを失った後、自活しなければなりません。弟子たちが漁を始めたのは、パウロがテント作りをして生計を立てたように、自活するために必要だったのではないでしょうか。
シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいました。ゼベダイの子たちとは、ヤコブとその兄弟ヨセフです(マタイ4・21)。七人の内、五人の名は分かります。他の二人は、ペトロの兄弟アンデレと、ペトロと同じベッサイダ出身のフィリポと思われます。
ペトロ、ヤコブ、ヨセフは明らかにガリラヤ湖の漁師でした。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言いました。場所は記されていませんが、おそらくペトロやヨセフの出身地のベッサイダと思われます。
彼らは出て行って、舟に乗り込みました。しかし、その夜は、弟子たちは夜通し漁をしたのに、一匹の魚も獲れませんでした。徒労感で、心身疲れ切って岸に向かって帰ってきたのです。
既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられました。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分かりませんでした。舟が岸に近づいたときでしょう、イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるのかと言われると、彼らは、「ありません」と答えました。イエスの質問は、食べる魚を欲しくて言ったのではなく、「何も食べるものを獲れなかっただろう」という思いやりの質問でした。
イエスは、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」と言われました。言われた通り網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができませんでした。
イエスとペトロたちの最初の出会いの時も、これと同じような大漁の奇跡がありました(ルカ5・1~11)。ペトロやヨハネは主イエスと最初にお会いして召し出された時の事を思い起こしたに違いありません。
「イエスの愛しておられたあの弟子」のヨハネがペトロに「主だ」と言いました。ヨハネは復活の主を感知することはペトロに先んじています。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着(漁師の服)をまとって湖に飛び込みました。上着をまとったのは、主の前に裸で出るのは畏れ多かったからでしょう。飛び込んだのは、主の身許に少しでも早く泳いで近づくためだったと思われます。ペトロの愛すべき性急さ行動力が表れています。
ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来ました。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのです。<二百ペキス>とは、90メートルの距離です。
さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてありました。その上に一匹の魚がのせてあり、一個のパンもありました。主イエスが弟子たちのために朝食を用意しておられたのです。イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われました。シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいでした。それほど多くとれたのに、網は破れていませんでした。
<百五十三匹>という数字は何を象徴しているのかにつては、古来種々の説があり確定することはできません。分かりやすい有力な説は、ヒエロニムス(340?~420年、アンティオキア教会の教父、神学者)の説で、当時の地中海に棲む魚の種類を表す数であったとし、世界のすべての人々が伝道の網に一杯に満たされるということの象徴であるとする説です。
 <網は破れなかった>は、「天国は、網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める網にたとえられる」(マタイ13・47)とイエスが教えらえているので、網は教会を指すものと想定され、多種多様な人々から成り立っていても、主にあって一つであり、分裂しない、ということを表していると解されます。
イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われました。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしませんでした。主であることを知っていたからです。イエスは来て、パン(単数形)を取って弟子たちに与えられました。魚(単数形)も同じようにされました。主イエスは生きるために必要な食卓を弟子たちのために用意用意してくださったのです。
主から与えられた朝食は日毎の糧としての食事でした。主と食事を共にするのは最後の晩餐の時以来のことであり、この日毎の糧としてのパンをいただいた弟子たちは、「わたしが命のパンである」(6・50)と言われた主のことばも思い起したでしょう。また、最後の晩餐の時の聖餐のテーブルを思い起したでしょう。
ペトロがこの時の食事について、コルネリウスの家で話したことが、使徒言行録に記されています。「神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。」と話しています。
イエスは、弟子たちの故郷の地、ティベリアス湖畔で弟子たちに御自身を現されたのは、三度目です。イエスは、一度目は、エルサレムで弟子たちに現れ、二度目は一週間後、不信のトマスが弟子たちと共にいた時に現れました。その時トマスは、復活の主を「わが主、わが神」と呼んで、信じました。復活のイエスの顕現は、幻影や幻想ではなく、霊や幽霊でもなく、死の支配に勝利されて復活された神であるキリストとの交わりを体験したのです。
エルサレムから故郷に戻った弟子たちは宣教していく時、自活するために仕事をしなければならないこともあります。その場合にも生活を支えてくださるのは主であることが、この出来事の中に示されています。弟子たちが夜通し漁をしても不漁であったことを知っておられた主は、空腹の弟子たちが岸に帰るのを待って、朝食を準備し、既に夜が明けたころから、イエスは岸に立って弟子たちを待っておられたのです。
また、イエスのお言葉に従って網を打ったとき、沢山の魚がとれたのは、宣教の業においても使徒たちの人間的努力だけではうまくかず、主イエスの命令と助けによってはじめて可能であることが示された出来事でした。
岸での復活の主イエスと共に過ごした朝食のひと時は、弟子たちにとって天上の至福にも等しい貴重な経験であり、主の復活の証言者として宣教活動を続けていくうえで、大切な意味をもっていました。
十字架で死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスは、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださる方なのです(ローマ8:34-35)。御霊の神として、いつもわたしたちと共にあり、私達の日常の
生活も配慮してくださり、必要なものを備えてくださる方であり、宣教の業も支え導いて下さる神であられる方です。
 主イエスによる救いの恵みを人々に証し、伝えてまいりましょう。

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「あなたがたに平安があるように」-コロナウイルスに勝利しましょうー

2020-04-21 11:18:50 | キリスト教
                                                                   ↑  
                                               「共に祈りましょう。」
    2020年4月21日(火)14時~14時40分
               場所 シェアホーム みどり
               〒981-1102 仙台市太白区袋原字小原56-1         
               電話 022-797-8331 Fax 022-797-8332
       「ミニ礼拝と聖餐」
讃美歌(21) 327(すべての民よ、よろこべ) 
主の祈り   93-5、
新共同訳聖書 
説  教    「あなたがたに平安があるように」 辺見宗邦牧師
       -コロナウイルスに勝利しましょうー
祈 祷
讃美歌(21) 197(ああ主のひとみ)
聖餐式・讃美歌(21) 72(まごこころもて)
感謝祈祷
祝祷

      本日の聖書 ヨハネによる福音書20章19~29節(新p.210)
20:19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 
26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸
ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
                 
                        本日の説教 
 週の初めの日(主が復活した日曜日)の夕方、弟子たちはイエスが死んだので失望し、大祭司や最高法院の迫害を恐れ、逮捕されればイエスと同じように十字架につけられることを恐れ、自分たちのいる家の戸口に鍵をかけていました。
一緒に集まっていた弟子たちのところへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和(平安)があるように」と言われました。イエスの与える平和は、「世神が共にいてくださることによって与えられる特別な平和です。それはイエスを裏切り、見捨て、見殺しにした弟子たちの罪をも赦す平和でもありました。
イエスは最後の晩餐の席、「わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る」(14・28)と言われた約束が、ここで実現したことになります。
イエスは弟子たちに、手とわき腹とをお見せになりました。手には釘の跡があり、わき腹には槍で刺された傷跡がありました。十字架の上で人々の罪のために身代わりとなって死んでくださったイエスが復活されて現れたのです。弟子たちは、イエスが新しい復活の命をもって彼らの前に現れたことを喜びました。この喜びは、ユダヤ人を恐れていたことからも解放し、彼らが自らを閉じ込めていた死の恐れとイエスを見捨てた罪を赦され、新しい命に生きることが出来る喜びでもありました。
イエスは重ねて言われました。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
イエスの十字架と復活に出会って、始めて弟子たちは、イエスの本当の姿、神であり救い主であることが分かり、福音を正しく宣べ伝えることができるようにされたのです。
 最後の晩餐の席で、イエスが、「あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない」(16・23)と約束された言葉がここに実現しました。
そう言ってから、イエスは彼らに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
復活の主イエスにより、聖霊が与えられることを通して、弟子たちは罪と死の支配から解放され、神の子である身分と永遠の命に生きる新しい人間に造り変えられるのです。聖霊の導きと、聖霊の力により弟子たちは、確信をもって、罪の赦しを告げ知らせ福音を宣べ伝えることができる者とされたのです。
十二人の弟子の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいませんでした。<ディディモ>とは双子のことです。彼は双子の兄弟の一人なので、そのように呼ばれたのです。イエスが病気で死んだと思われるラザロのところへ行こうと言ったとき、トマスは、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(11・16)と言った人物です。また、最後の晩餐のとき、イエスの語られたことに対して、「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません」(14・5)と言っています。トマスは主イエスと共に死ぬ覚悟であり、死がすべての終わりであるという人生観を持っていたようです。
ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言いました。トマスは弟子たちの証言を聞いても、イエスが現れたことを信ずることができませんでした。トマスは自分の目でイエスの手に釘の跡を見、わき腹に槍の跡を見て、自分の指をその跡に入れてみなければ決して信じない、と言ったのです。このトマスの態度と言葉から、疑い深いトマスとか、不信のトマスと非難する呼び名が生まれました。しかし、直接自分の目で見て、確かめなければ信じられない、というトマスの態度を、一概に懐疑的とすることはできないのではないでしょうか。この疑い深いトマスと私たちも同じではないでしょうか。
この八日の後、ちょうど一週間後の日曜日、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいました。戸にはみな鍵がかけてありました。まだ、弟子たちには不安があったのでしょう。その家にイエスが来て、弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。トマスは復活されたイエスを信じられない心のまま、弟子たちの群れの中にとどまっていました。そのトマスに、イエスは「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と呼びかけられました。
トマスは主イエスの言葉を聞いて、「わが主、わが神よ」と言いました。自分のために現れてくださった復活のイエスを見て、この方は神だとトマスは直感したのです。
  トマスは、最初自分は師であるイエスのために死ぬ覚悟をしていました。ところが、イエスが十字架に付けられた時、イエスを捨てて逃げた人間でした。そのような罪深い自分のために、主が十字架で受けた傷痕は、自分の罪の赦しであることに気付かされました。トマスは生きておられる神であり、復活された方であり、自分の罪を赦してくださっている主であることを告白したのです。このとき「死ですべてが終わる」という固定観念からトマスは解放されました。
イエスはトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言われました。<見ないで信じる者>、それはキリストの言葉を聞いて信じる者のことです。トマスは、復活されたイエスが現れてくださったことによって、イエスに対する信仰を告白することができました。しかし、彼以後の人々は、イエスの弟子たちの証言を通し、宣教の言葉を通し、キリストの言葉を聞いて信じなければなりません。イエスは、そういう人々こそ、トマス以上に幸いなのだと、祝福を約束されたのです。
主イエスは、トマスのようなイエスの復活を信じることが出来ない者のために御自分を示してくださる方です。復活した体で現れるのではなく、聖霊により、御声を持って語りかけてくださるのです。イエスの復活を信じることが出来ず、キリスト教徒を迫害しようとしていたサウロ(後のパウロ)にも、天からの御声によって語りかけてくださいました。それは肉の眼や耳を以て見聞きしたものでなく、聖霊によって与えられた霊的な体験です。パウロはこの経験を、キリストが復活したことは・・<最後にわたしにも現われました>(コリント一、15:8)と言っています。パウロに現われたように、主イエスは私たちにも神として語りかけて下さる方です。
今も生きておられるイエスに向かって「わが主、わが神」と信じる者は、「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくとも信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれ」(ペトロ一、1・8)、キリストとの霊的交わりを与えられ、信仰の実りと魂の救いを受けているのです。イエスの復活を信じる信仰は、福音の御言葉を聞くことから始まります(ローマ人への手紙 10・17)。そこに神からの聖霊の働きがあり、今も生きておられる主イエスを「わが主よ、わが神よ」と呼びかける信仰が与えられるのです。
コロナ・ウイルスの感染が日本でも、世界でも続いています。多数の死者も出ています。いつになったら終息するのか、先が見えない不安の中にあります。外出自粛により、多くの商店や会社が営業が出来ず、収入が減り、経済的な危機の状態にあります。
しかし、「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。(ヨハネ16:33)と主イエスは宣言され、私たちを励ましておられます。イエスは「わが主、わが神」です。神がわたしたちの味方であるならば、これ以上の安心はありません。主イエスが、いつも私たちと共にいてくださり、真の平安をくださり、わたしたちを不安と悩みにおとし入れる世に勝利させてくださることを信じましょう。全国民、こころを一つにし、「ワン・チームone team」となって、コロナ・ウイルスにも勝利しましょう。



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「エルサレムでの弟子たちへの顕現と疑うトマスへの顕現」 ヨハネによる福音書20章19~31節

2020-04-19 00:45:26 | キリスト教
    ↑  レンブラント 「使徒トマスの不信」 1634年作
                         モスクワ、プーシキン美術館所蔵 
981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 
                    日本福音教団 富 谷 教 会     週  報
           復活節第二主日  2020年4月19日(日)      午後5時~5時50分
年間標語   「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて          体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)
聖 句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住ま
  わせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」
                                                                                              (エフェソ3・16-17)
           礼 拝 順 序
司会 斎藤 美保姉
前 奏             奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 204(よろこびの日よき)
交読詩編   16(神よ、守ってください)
主の祈り     93-5、A
使徒信条   93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書20章19~31節(新p.210) 
説  教  「エルサレムでの弟子たちへの顕現」
辺見宗邦牧師
祈 祷                
讃美歌(21) 325(キリスト・イエスは)
献 金
感謝祈祷              
頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)
祝 祷             
後 奏
           次週礼拝 4月26日(日) 午後5時~5時50分  
           聖 書 ヨハネによる福音書21章1-14節
           説教題  「イエスのティべリアス湖畔での顕現」
           讃美歌(21) 57 197 交読詩篇 145:1-9節
     
     本日の聖書 ヨハネによる福音書20章19~31節
 20:19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 
26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」 30このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。 31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

            本日の説教

週の初めの日、すなわち日曜日の朝早く、マグダラ出身のマリアが朝早く、主イエスが葬られた墓に行くと、横穴式の墓の入口を閉じた石が取り除けてあり、イエスの遺体がだれかに取さ去られたと思い、それをシモン・ペトロとヨハネに伝えました。ペトロとヨハネは墓へ走って行き、墓穴に入り、イエスを包んだ覆いの亜麻布だけが置いてあり、墓穴には遺体はなく、空虚であることを確認して家に帰りました。
マリアは墓の外に立って泣いていました。このマリアに復活されたイエスが現れ、弟子たちのところへ行って、イエスは天の父のもとへ上っていくことを知らせなさい、とマリアに命じました。マリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主をみました」と告げ、主から言われたことを伝えました。
 その日の夕方のことから、今日の聖書の箇所は始まります。弟子たちはイエスの死によって失望し、大祭司や最高法院の迫害を恐れ、逮捕されればイエスと同じように十字架につけられることを恐れ、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていました。一緒に集まっていた弟子たちのところへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和(平安)があるように」と言われました。
イエスの与える平和は、「世が与えるように与えるものではない。あなたがたは心を騒がせるな。おびえるな」(14・27)と最後の晩餐の席で言われましたが、それは神が共にいてくださることによって与えられる特別な平和です。それはイエスを裏切り、見捨て、見殺しにした弟子たちの罪をも赦す平和でもありました。
最後の晩餐の席で言われた「わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る」(14・28)と言われたイエスの約束が、ここで実現したことになります。
イエスは弟子たちに、手とわき腹とをお見せになりました。手には釘の跡があり、わき腹には槍で刺された傷跡がありました。十字架の上で人々の罪のために身代わりとなって死んでくださったイエスが復活されて現れたのです。弟子たちは、イエスが新しい復活の命をもって彼らの前に現れたことを喜びました。同時にこの喜びは、ユダヤ人を恐れていたことからの解放であり、彼ら自身が自らを閉じ込め
ていた死と罪の支配から解放され、新しい命に生き始めることが出来た喜びでもありました。
イエスは重ねて言われました。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」十字架と復活に出会って始めて弟子たちは、イエスの本当の姿が分かり、福音を正しく宣べ伝えることができるようになったのです。父なる神が、御子イエス・キリストに託された宣教の業が、今度は、復活の主によって弟子たちに託されたのです。
 最後の晩餐の席で、イエスが、「このように、あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあながたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない」(16・23)と約束された言葉がここに実現しました。
そう言ってから、イエスは彼らに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
「息を吹きかけた」という言葉は、創世記での人間創造の記事(2・7以下)で、「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた」という言葉を想起させます。復活の主イエスにより、聖霊が与えられることを通して、弟子たちは罪と死の支配から解放され、神の子である身分と永遠の命に生きる新しい人間に再創造されるのです。
イエスは弟子たちに聖霊によって執行される罪の赦しの権威を与えます。この権威は父なる神が子なるイエスに託しておられる権威です(5・19)。聖霊の導きと、聖霊の力により弟子たちは、確信をもって、罪の赦しを告げ知らせ福音を宣べ伝えることができる者とされたのです。ヨハネによる福音書では、甦りの主イエスが最初に弟子たちに出会った場所で聖霊降臨が起こっています。
 十二人の弟子の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいませんでした。<ディディモ>とは双子のことです。彼が双子の兄弟の一人であることから呼ばれた通称です。イエスが病気で死んだと思われるラザロのところへ行こうと言ったとき、トマスは、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(11・16)と言った人物です。また、イエスの訣別の説教の時、「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません」(14・5)と言っています。トマスは主イエスと共に死ぬ覚悟であり、死がすべての終わりであるという人生観を持っていたようです。
ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言いました。トマスは弟子たちの証言にもかかわらずイエスが現れたことを信ずることが出来ませんでした。イエスが弟子たちに現れたとき、イエスは手とわき腹とをお見せになったことを聞いたからでしょうか、トマスは自分の目でイエスの手に釘の跡を見、わき腹に槍の跡を見て、自分の指をその跡に入れてみなければ決して信じない、と言ったのです。トマスは実証的な証明を求めたのです。このトマスの態度と言葉から、疑い深いトマスとか、不信のトマスと非難する呼び名が生まれました。しかし、直接自分の目で見て、確かめなければ信じられない、というトマスの態度を、一概に懐疑的とすることはできないのではないでしょうか。この疑い深いトマスの中に私たち自身がいます。しかもトマスは死がすべての終わりだという考えを持っていたので、なおさらイエスの復活を信じることができなかったはずです。
 この八日の後、ちょうど一週間後の日曜日、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいました。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て、弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。トマスは復活されたイエスを信じられない心のまま、弟子たちの群れの中にとどまっていました。そのトマスに、イエスは「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と呼びかけられました。
マグダラのマリアの場合は、「すがりつくのはよしなさい」とイエスは言われました。マリアが信じていたのは、手で触ることが出来る主イエスだったので、それは間違いだ、とイエスは教えたのです。しかし、釘跡に手を入れてみなければ信じられないと語ったトマスには、その要求をそのまま主イエスは受け入れられたのです。両方とも同じ愛から出た恵みの言葉であり、信じる者になって欲しいからです。
この場面を、画家のカラヴァッジョは以下のように描いています。この絵では、トマスがイエスのわき腹の傷跡に指を入れています。
      
  カラヴァッジョ(イタリア人画家) 「聖トマスの懐疑」(1601-02年)
        イタリアのフィレンツェ、ウフィツィ美術館所蔵
 しかし、聖書の記述では、トマスは主イエスの言葉を聞いて、「わが主、わが神よ」と信仰を告白しています。自分の前に立たれるイエスの臨在にトマスは圧倒され、驚き、感謝したのです。トマスは、自分のために現れてくださった復活のイエスを見て、この方は神だと直感したのです。
 トマスは、最初自分は師であるイエスのために死ぬことのできる人間でありたいと志していました。ところが、その師が十字架に付けられた時、師を捨てて逃げた人間であり、そのような罪深い自分のために、主の十字架は、自分の罪の赦しであることに気付かされました。トマスはイエスの復活を信じただけではなく、もっと深く、イエスが生きておられる神であり、自分の罪を赦してくださっている主であることを告白したのです。このとき「死ですべてが終わる」という固定観念からトマスは解放されました。
イエスはトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言われました。<見ないで信じる者>、それはキリストの言葉を聞いて信じる者のことです。
イエスの弟子であったトマスは、復活されたイエスが現れてくださったことによって、イエスに対する信仰を告白することができました。しかし、彼以後の人々は、イエスの弟子たちの証言を通し、宣教の言葉を通し、キリストの言葉を聞いて信じなければなりません。イエスは、そういう人々こそ、トマス以上に幸いなのだと、祝福を約束されたのです。
主イエスは、トマスのようなイエスの復活を信じることが出来ない者のために御自分を示してくださる方です。復活した体で現れるのではなく、聖霊により、御声を持って語りかけてくださるのです。イエスの復活を信じることが出来ず、キリスト教徒を迫害しようとしていたサウロ(後のパウロ)にも、天からの御声によって語りかけてくださいました。
パウロはダマスコ途上で彼に顕れた啓示の出来事を、神が<御子をわたしの内に啓示して下さった>(ガラテヤ1:16)と言っています。<わたし内に>というのは肉の眼や耳を以て見聞きしたものでなく、聖霊によって与えられた霊的な認識です。パウロはこの経験を、キリストが復活したことは・・<最後にわたしにも現われました>(コリント一、15:8)と言っています。パウロに現われたように、主イエスは私たちにも現われ、語りかけて下さる方であります。主イエスの復活というのは、私に現れた主イエス御自身によって納得させられることなのです。
今も生きておられるイエスに向かって「わが主、わが神」と信じる者は、「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくとも信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれ」(ペトロ一、1・8)、キリストとの霊的交わりを与えられ、信仰の実りと魂の救いを受けているのです。
イエスの復活を信じる信仰は、福音の御言葉を聞くことから始まります(ローマ人への手紙 10・17)。そこに神からの聖霊の働きがあり、今も生きておられる主イエスを「わが主よ、わが神よ」と呼びかける信仰が与えられるのです。
 31節には、この福音書の執筆の目的が明らかにされています。それは、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名による罪の赦しを受け入れ、永遠の命を受けるためなのです。



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イースター礼拝 「エマオ途上での主の顕現」ルカによる福音書24章13~35節

2020-04-12 00:08:41 | キリスト教
                 ↑     Emmaus Disciples by Bloemaert 1622

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

   日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
 復活節第一主日(復活日・イースター) 2020年4月12日(日)午後5時~5時50分
年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体       
 を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)
聖 句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住ま
 わせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」
                         (エフェソ3・16-17)
          礼 拝 順 序
                司会 斎藤 美保姉
前 奏             奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 327(すべての民よ、よろこべ)
交読詩編   30(神よ、守ってください)
主の祈り   93-5、A
使徒信条   93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)ルカによる福音書24章13~35節(新p.160) 
説  教  「エマオ途上での主の顕現」  辺見宗邦牧師
祈 祷                
聖餐式    78(わが主よ、ここに集い)
讃美歌(21) 328(ハレルヤ、ハレルヤ〔たたかいは終わり〕)
献 金
感謝祈祷              
頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)
祝 祷             
後 奏
           次週礼拝 4月19日(日) 午後5時~5時50分  
           聖 書  ルカによる福音書24章36-49節
           説教題   「エルサレムでの主イエスの顕現」
           讃美歌(21) 204 325 交読詩篇 16篇
  愛餐会 礼拝後、牧師館洋室で、イースタを祝う食事を共にいたしましょう。

     本日の聖書 ルカによる福音書24章13~35節
 13ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、14この一切の出来事について話し合っていた。15話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。16しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。17イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。18その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」19イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。20それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。21わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。22ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、23遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。24仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」25そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、26メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」27そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。28一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。29二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。30一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。31すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。32二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。33そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、34本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。35二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
        本日の説教
  十字架の死の三日後、週の初めの日にキリストは復活されました。ルカ福音書では、空の墓(1-12節)、エマオへの途上での顕現(13-35節)、エルサレムでの顕現(36-49節)、この三つの出来事が一日で起こったこことして語られています。
 この日の明け方早く、香料を持って墓に行った婦人たちは、墓の入口の石が転がしてあるのを見て不思議に思い、中に入るとイエスの遺体がないので、途方にくれてしまいました。すると、輝く衣を着た二人に人が現われて、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」と告げました。そこで婦人たちはイエスの言葉を思い出しました。
 婦人たちは、墓から帰って、一部始終を使徒たちに話しましたが、使徒たちは、それをたわ言のように思い、信じませんでした。しかし、ペトロは、立ち上がって、墓へ走り、中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚き家へ帰りました。
この日、二人の弟子が、エルサレムから約11キロ㌔離れたエマオという村へ向かって歩いていました(1スタディオンは185m。60スタディオンは11100m=約11km)。歩いて3時間ほどの距離です。今日もエマオがどの位置にあるのか明確ではありません。二人は歩きながら、婦人たちによって知らされた出来事、主イエスの十字架の死と復活について話し合っていました。大切な人生の指導者を失った二人は、悲しみながら、弟子たちの集団を離れ、故郷に帰ろうとしていたと思われます。すると復活された主が近づいて来て、一緒に歩き始められました。二人の目は遮られていて、イエスだとは分かりませんでした。
 イエスは、話し合ったいるのは何のことですか、と尋ねました。二人は暗い顔をして立ち止まりました。その一人のクレオパという人が、「あなたは、エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、ご存知なかったのですか」と問いました。
イエスが、「どんなことですか」と聞くと、二人は「ナザレのイエスのことです」と言って、エルサレムで起こった出来事の一部始終を話し、特にイェスが十字架につけられてから、今日で三日目になるのに、墓に行った婦人たちからイエスが復活したことを聞いて驚いているのだと話しました。
すると、イエスは、「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」と言って、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明されました。
一行はエマオの村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子でした。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られました。
  
    レンブラント 「エマオのキリスト」
一緒に食事の席に着いたとき、イエスは主人のようになってパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになりました。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その時には、イェスの姿は見えなくなりました。二人の「目を開いた」のは聖霊の働きによるものです。二人の弟子は、この方こそ不信仰な自分達のために、神の計画によって十字架で死んでくださり、復活されて栄光に入ったキリストだとわかったのです。弟子たちがキリストであると認めるに至ったのは、キリストの側からの働きかけによるものであり、決して弟子たちの自然的な認識能力によるものではありませんでした。
 二人は、「あの方が道で話しておられたとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合いました。みことばが説き明かされることによって、聞く人々には、心が燃える経験をするのです。そこには聖霊が働き、聞く者の心を命の言葉で満たすのです。
二人は、復活された主との食卓を共にしたことによって、悲しみと絶望から立ち直っており、イエスに出会ったことをしらせるため、エルサレムにいる兄弟姉妹の許へと向かわせます。二人はすぐに出発して、その日の夜のうちにエルサレムの町へ戻りました。
   エルサレムに、二人が戻ってからのできごとは次回の説教でお話しいたします。、
 エマオでの二人の弟子たちへのイエスの顕現は、主イエスは復活され、昇天された後も、父なる神とともに世を支配し、常に私ちと共に歩んでくださる方であり、御言葉を語ってくださる方であり、主の食卓に招いて、私たちにパンと杯をお与えくださる方であり、私たちと出会って、祝福を与えてくださる方であることを伝えます。
  死んだ者が生き返るなどということは、ばかげていると常識的には考えられるでしょう。多くの現代人は、そんなばかばかしいことを信じているやつの気が知れない、と言います。復活を信じない人は、死に打ち勝つものを信じません。永遠に生命的なものがあるということを信じません。したがって、人生は、「どうせ死んでしまってすべて終わり」と考えます。
  イエスの弟子たちも、とくにトマスという弟子は、復活したイエスの脇腹の傷跡に手でふれてみなければ、復活を信じられないと言った人です。そのトマスにも主は現われ、「あなたの手をのばして、わたしの脇腹に手をのばしなさい。」と言われました。トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と信仰を告白しました
   使徒パウロも、天から声をかけてくださる生けるキリストと出会うまでは、キリストの復活を否定して、キリスト教徒を撲滅しようとしていた人です。パウロは、よみがえったキリストが「わたしにも現れたのである」と言ってます。
 信仰は神に与えられるものです。私たちが信仰を求めようという気持ちを与えられるのも、聖書のお話を聞いてみようという思いを与えられるのも、とにかく教会の礼拝というものに行ってみようという思いになるのも、皆聖霊の働きによることなのです。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」(コリント一、12:3)
  信仰者となるために私たちのできることは、この聖霊の働きを祈り求めることです。神様、私はあなたを信じる者になりたいのです。だから、聖霊の働きを与えて下さい、と神様に祈るのです。そのような祈り求めに、神様は必ず応えて下さいます。
 主イエスが復活して永遠に生ける方となられました。主イエスは、永遠に生ける者として、私たちと共にいたもう方です。イエスが死から復活し、人間の罪と死とに打ち勝たれたからこそ、神の子イエスの信仰が生まれたのです。主イエスは、目には見えませんが、今なお、聖霊の主として私たちと共にいてくださり、私たちを護り導いてくださっています。聖霊の力をいただき、罪の支配と死の恐怖から解放され、主を賛美しつつ、主に従ってまいりましょう。

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