富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「主イエスよ、来てください。」 ヨハネの黙示録22章6―21節

2021-12-26 03:26:01 | キリスト教

             ↑ 「アーメン、主イエスよ、来てください(マラナ・タ)。」黙示録22:20

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

降誕節第1主日(年末礼拝)2021年12月26日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                           礼 拝 順 序

                                                               司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 474(わが身の望みは)

交読詩編   24(地とそこに満ちるもの)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヨハネの黙示録22章6―21節(新p.479)

説  教   「主イエスよ、来てください。」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                 

讃美歌(21) 579(主を仰ぎ見れば)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇 オンラインで礼拝に参加できます。設定担当は、斎藤美保姉です。申し込み先:Eメール munekuni-hemmi@vesta.ocn.ne.jp

                  次週礼拝 1月2日(年始礼拝)午後5時―5時50分

                  聖書  詩編33篇1-22節 

                  説教題 「新しい歌を喜び、歌え」

                  讃美歌(21) 368 474 27 交読詩編 33    

本日の聖書 

22:6そして、天使はわたしにこう言った。「これらの言葉は、信頼でき、また真実である。預言者たちの霊感の神、主が、その天使を送って、すぐにも起こるはずのことを、御自分の僕たちに示されたのである。 7見よ、わたしはすぐに来る。この書物の預言の言葉を守る者は、幸いである。」 8わたしは、これらのことを聞き、また見たヨハネである。聞き、また見たとき、わたしは、このことを示してくれた天使の足もとにひれ伏して、拝もうとした。 9すると、天使はわたしに言った。「やめよ。わたしは、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書物の言葉を守っている人たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。」 10また、わたしにこう言った。「この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。 11不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。 12見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。13わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。 14命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。 15犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。 16わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」 17“霊”と花嫁とが言う。「来てください。」これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。 18この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。 19また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。 20以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。 21主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。

本日の説教

人類の救いの歴史を記すために、旧約聖書は創世記の天地創造から始めます。そして新約聖書では、ヨハネの黙示録の世の終末と新天新地の出現をもって終わります。黙示とは、神の言(ことば)と業が、幻によって人に示されることであり、旧約聖書ではダニエル書が黙示書です。

第一世紀の終わり頃、ローマ帝国の属州であったアジア州(トルコ)の諸教会は、紀元95年頃、ドミティアヌステ帝の時に行われたキリスト教の迫害によって、殉教者が出始めました。皇帝礼拝が強要されるようになり、教会内部でも偽りの使徒により内部分裂の危機にさらされていました。福音宣教のためにパトモスの島に流刑の身となっていた預言者ヨハネは、キリストの再臨と勝利、この世の終末と神の国の完成を告げて、殉教の危機にさらされている諸教会と信徒を激励し、忍耐をもって信仰を守り抜かせるために、書いたのが黙示録です。

ヨハネの黙示録は聖霊に満たされた預言者ヨハネの幻視による壮大な終末の描写です。世の終わりに来臨する勝利の君、さばき主・キリストはサタンと最後の決戦をして、神の国を来たらせます。黙示録にえがかれているのは、世の終わりに起こる神の審判と、神の完全な支配です。黙示録は神の秘密を解き明かす文書です。

黙示文学に特有なシンボルや奇異な視覚的表現や象徴的表現が用いてられているのは、ローマ帝国のキリスト教徒を迫害する圧制の中では、ローマ帝国に対する神の裁きをあからさまに言えないからなのです。この黙示録では、キリストを小羊という言葉で表現しています。また、破滅するローマの都をバビロンという言葉で表現し、終末ににおける勝利の主イエスの姿を描いています。

                       .

黙示録の構成は、次のようになっています。

1章 初めの言葉、七つの教会へのあいさつ。ヨハネへの啓示が示された顛末(天上におられるキリストの姿)。

2章-3章 七つの教会へのメッセージ(エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキア)。

4章-5章  天上の礼拝と巻物を開く小羊。

6章-8章5節 六つの封印が開かれるー災いをもたらす色々の馬が現れる。神の刻印を押されたイスラエルの子ら。白い衣を着た大群衆。第七の封印が開かれる。 

8章6節-11章19節 天使のラッパと災い。天使が巻物を渡す。二人の証人。第七の 天使がラッパを吹く(天の神殿が開かれる)。

 12章-14章 天の戦い(女と竜ー神の民を迫害する)。二匹の獣。十四万四千人の歌。三人の天使のことば。

15章-16章 最後の七つの災い-七人の天使が七つの鉢から神の怒りをぶちまける。神の怒りが極みに達する。 

17・18章 大淫婦の裁きとバビロンの滅亡。

19章1-10節 天における礼拝 子羊の婚宴。

19章11節-20章 キリストの千年の統治の開始、サタンと人々の裁き。白馬の騎手の君臨。千年間の支配(千年王国)。サタンの敗北。最後の裁き。

21章 新らしい天と新しい地。新しいエルサレム。

22章1-5節 神と子羊の玉座からいのちの水の川が流れる。22章6-21節 キリストの再臨。                                                  .

21章1節には、「わたしはまた。新しい天と新しい地を見た」とあります。<新しい天と新しい地>は、旧約の預言者第三イザヤの預言が引き継がれています。

第三イザヤは紀元前六世紀頃(前539年~441年)に活動した預言者で、イザヤ書56章~66章の著者です。「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。」(イザヤ書65:17)。<始めからのことを思い起す者はない>とは、古き時代の苦悩が拭い去られる、ということです。第三イザヤは新天新地の創造によって神の国が実現し、神殿さえも不要になる日を描いています(66:1)。

それでは、22章6節から、御言葉を聞いていきましょう。 

 「そして、天使はわたしにこう言った。「これらの言葉は、信頼でき、また真実である。預言者たちの霊感の神、主が、その天使を送って、すぐにも起こるはずのことを、御自分の僕たちに示されたのである。」(22:6)

 ヨハネに対する天使の言葉です。この黙示は、<キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになった>(1:1)メッセージでした。ここも<預言者たちの霊感の神、主が>天使を送って僕たちに示したことが反復されています。<すぐにも起こるはずのこと>と<わたしはすぐに来る>も、序文と挨拶の<時が迫っている>(1:3)と<見よ、その方が雲に乗って来られる>(1:7)を繰り返しています。

「見よ、わたしはすぐに来る。この書物の預言の言葉を守る者は、幸いである。」(22:7)

<わたしはすぐに来る>は1:31で述べられた状況です。<この書物の預言の言葉を守る者は幸いである>も、<この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちは幸いである>(1:3)と、始めに挨拶した言葉と呼応しています。

 「わたしは、これらのことを聞き、また見たヨハネである。聞き、また見たとき、わたしは、このことを示してくれた天使の足もとにひれ伏して、拝もうとした。」(22:8)

 預言者ヨハネは、読者・聴衆にあて、書き記してきたメッセージに思いいたし、これを伝えるためにキリストから送られた天使に感謝の思いでいっぱいでした。ヨハネは<天使の足もとにひれ伏して拝もうと>しました。

 「すると、天使はわたしに言った。『やめよ。わたしは、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書物の言葉を守っている人たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。』」(22:9)

 すると、天使はわたしに、<やめよ・・・神を礼拝せよ>と言いました。天使も預言者たちと同じ神に仕える者だからです。

 「また、わたしにこう言った。「この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。」(22:10)

ヨハネの黙示は、書き記して読み伝えなければならないメッセージです。<秘密にしておいてはいけない>のです。<時が迫っているから>です。ここにはパウロの祈り、<マラナ・タ(主よ、来てください)>(コリント一16:22)と同じ再臨期待があります。

「不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。」(22:11)

 <不正>-<汚れ>と<正しい>-<聖なる者>とが、道徳的観点と宗教的観点から対比され、示されてます。神に背く者たちの裁かれるべき定めが断言され、神に従う者の祝福が約束されています。

 「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。」(22:12)

 <見よ、わたしはすぐに来る>が繰り返し言われています。<それぞれの行いに応じて報いる>は、<彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた>(20:13)の内容と並行します。

「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」(22:13)

<アルファ・・・オメガ>は、ギリシア語の文字一覧の最初と最後の文字です。歴史を始め、歴史を終わらせるのはキリストです。キリストによって救いの歴史は完成したことを示します。

「命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。」(22:14)

<幸い>な者は、7:14で述べられたように、小羊の値で罪を贖われ、衣を白く洗われた者です。<幸いである>と言われる者はまた<命の木に対する権利を与えられ>ている者であり、<門を通って都に入れる>者です。

「犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。」(22:15)

<都に入れない>者は、21:27に、「汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都に入れない。小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる」と述べられたが、ここでは更に強調されて、<犬のような者、魔術を使う者>と表現を変え、言葉を加えて拡大されています。

「わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」(22:16)

<わたし、イエスは・・・・証しした>は、序文1:2を再度述べたものです。イエスは天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものであり、ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを諸教会のために、あなたがたに証言しました。<ダビデのひこばえ>は、ダビデ王の子孫のメシアを強調します。<明けの明星>は勝利者に与えられる約束です。それは、序文1:4-6で、おごそかに賛美されているキリストの十字架の血による権威に他なりません。

と花嫁とが言う。『来てください。』これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。」(22: 17)

<『来てください』>という重要な鍵となる語は、聖霊も言います。夫を待つ花嫁のような教会も言います。それを<聞く者も言うがよい>と繰り返されます。都に入れる者は、<命の木><命の水>にあずかります。<価なしに>無償の<恵み>によって、の意味です。

「この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。」(22:18)

この警告の言葉は、申命記4:2、13:1を引用したものです。

「また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。」(22:19)

手紙の結びに際して、ヨハネは<この書物の預言の言葉>を読者・聴衆に確実に守らせようとしています。

以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。」(22:20)

<証しする方>イエスは、序文では<証人>とありました(1:4)。<然り・・・アーメン>も序文の再録です(1:7)。<アーメン>は「真実に、確かに」の意味です。キリストの<わたしはすぐに来る>を、<然り>と<アーメン>で囲む形になっています。さらに、キリストの然りに応答して<主イエスよ、来てくださいという祈りがあります。

「主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。」(22:21)

<主イエスの恵みが>あるようにと、預言者ヨハネは手紙の前後に入れて、啓示の使信を送ったのです。終末の時、「命の書」に名を記された人は祝福を受け、新しい天と地に迎えられ、永遠の生命を受けるのです。こうしてすべてが新しくされ、神と小羊は永遠に支配し、民は祝福の中に生きるのです。したがって民は「マラナ・タ(われらの)主よ来てください」と祈り、主は「わたしはすぐに来る」と約束されたことを記して、ヨハネの黙示録は終わるのです。

主イエスが世に来られ、「悔い改めよ。神の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められました(マタイ4:17)。この時より神の支配が始まったのです。わたしたちは、主の来臨の日が遅いと考えがちですが、「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。・・・神の日の来るのを早めるようにすべきです。・・・わたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。・・・このことを待ち望みながら、きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい」(ペトロ二、3:8-14)とあります。

 完全な救いは主の来臨をまたなければないませんが、その前に地上の生涯が閉じられて日が来ても、主のおられる天上に迎えられ、「目の涙はことごとく拭い取られ、もはや死はなく、悲しみも嘆きも労苦もない、祝福、喜びに満たされることになるのです(黙示録22:4)。神との交わりの中に生きる者とされるのです。

世の人々は、真実の愛を求めています。対人関係で最も大切なのは愛です。赦しの愛、裏切ることのない不変の愛、差別のない愛、利害に左右されない愛、利己的でない愛です。人間の愛は完全な愛ではありません。主イエス・キリストのわたしたちに対する愛が、真実の愛であり、永遠の愛です。

キリストを信じて救われた者は、神様との完全な交わりの中に生きる者とされます。聖霊による神に愛に生かされ、神を愛し、隣人を愛し、神に仕え、隣人に仕える生き方を与えられます。

りつつ、マラナ・タと主を待ち望みつつ、新年を迎えましょう。

この一年、神の守られて過ごすことが出来たことを感謝し、マラナ・タと主を待ち望みつつ、新年もキリストによる神の愛を証ししてまいりましょう。

今年もあと五日を残すだけとなりました。この一年、神の守られて過ごすことが出来たことを感謝し、「御国を来らせたまえ」と祈りつつ、マラナ・タと主を待ち望みつつ、新年を迎えましょう。

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「「独り子をお与えになった神」 ヨハネによる福音書3章16-21節

2021-12-14 03:07:24 | キリスト教

   ↑ 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、      永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    

週    報

降誕前第1主日  2021年12月19日(日)    午後4時~4時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                           礼 拝 順 序

                                                              司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 260(いざ歌え、いざ祝え)

交読詩編    2(なにゆえ、国々は騒ぎ立ち)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書3章16-21節(新p.167)

説  教    「独り子をお与えになった神」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                     

聖餐式    81(主の食卓を囲み)

讃美歌(21) 265(天なる神には)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇 オンラインで礼拝に参加できます。設定担当は、斎藤美保姉です。

申し込み先:Eメール munekuni-hemmi@vesta.ocn.ne.jp

               次週礼拝 12月26日(年末礼拝)午後5時―5時50分

               聖書   ヨハネの黙示録22章20~21節

               説教題 「主イエスよ、来てください。」

               讃美歌(21) 474 579 27 交読詩編 24    

本日の聖書 

3:16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

18御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。 19光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。 20悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。 21しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。

本日の説教

 ヨハネによる福音書2章23節に、「多くの人々は、その行われたしるしを見て、イエスの名を信じた」とあります。3章は、イエスが行ったしるしを見て、イエスが神から来られた人と信じた一人として、ニコデモが夜イエスの前に登場します。ニコデモは、議会の議員で、ファリサイ派に属する、律法を守ることに熱心な人です。イエスはニコデモに「人は新しく生れなければ神の国に見ることは出来ない」と言うと、ニコデモは「年をとった者がどうして生まれることができましょうか」と言います。それにイエスが答えて「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることは出来ない」(3章5節)と言われ、二人の対話が10節まで続いて終わります。11節からは対話ではなく、イエスの独白へと移ります。「わたしたち」は、「あなたたち」と語り出します。「わたしたち」とは、イエスと福音書記者ヨハネを含む教会です。「あなたがた」とは、ニコデモによって代表されるユダヤ教の会堂とこの世、すなわち不信仰の世界です。12節で再び「わたし」に戻り、「わたしが地上のことを話しても信じないとすれば・・・とイエスが語り出します。天から下って来た人の子の他に、天に上った者はだれもいないと話し、14節で、イエスはモ―セが荒野でへびを上げたという故事(民数記21:4-9)を引き合いに出し、へびに人を救う力があったのではなく、へびを仰ぎ見ることが大切だったのです。モーセが青銅の蛇を上げたと同じように人の子も上げられなければならないと話し、イエスも十字架につくことが父のみこころであると、その必然性が語られます。15節は福音書記者による14節の解説です。それを信じる者は永遠の命を得るためである、と語ります。それは荒野で死をまぬがれたような一時的な命ではなく、永遠の命です。永遠の命とは、命が永遠に続くという未来のことよりも、現在「キリストによって与えられる」永遠の命に生きることであり、永遠なる神との交わりを与えられることです。永遠の命が与えられる根拠を示すのが、3章16節です。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(3:16)

この聖書の言葉は、ルターが「小福音書」と呼んだように、聖書全体のメッセージが要約されている聖句です。主イエスのお言葉であり、教会の信仰告白の言葉でもあります。

永遠の命を与えられる根拠は、神のこの世に対する徹底的な愛にあります。世とは、この世界とそこに生きている私たち人間全体を意味しています。「この世」は、神によって創造されながら、その神を信じようとしないで、神に逆らう罪の中にあり、神に背むいている世なのです。私たち人間が、神に従わずに自分の思いを通そうとし、自分が主人となって支配しようとする罪に陥ったために、神の祝福は失われ、この世界も闇となってしまったのです。そのような世であるにもかかわらず、神はこの世を限りなく愛し、ご自分の独り子を与えて下さったのです。<独り子>という言葉によって表現されるのは、「何にもまして愛されている神の御子」のことです。<与えて下さった>とは、独り子であるイエスが、この世に人間として来て下さっただけでなく、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったということです。神の独り子が罪人である私たちの身代わりとなって死刑になって下さったのです。そのことによって、父である神は私たちの罪を赦して下さり、私たちをもう一度神の下で生きる者として下さり、失われた祝福を回復して下さったのです。さらに、神はイエスを死から復活させ、天に上げられ、私たちを支配している死の力に勝利して、わたしたちに復活と永遠の命を与えて下さったのです。神はそれほどまでに私たちを愛して下さっている、愛されるに値しない罪人であるこの私たちに愛を注いで下さっている、それがキリストによる救いの福音なのです。

「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」(3:17

16節後半で、神の愛は、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とありましたが、それを受けて、17節は「その理由は」で始まります。16節で語られたことが、更に説明されます。

<裁かれる>という言葉が繰り返し用いられています。<裁かれる>とは、16節の<滅びる>と同じ意味です。神が御子を世に遣わされた目的は、世が御子によって救われることにあることが繰り返され、強調されています。

「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」(3:18)

神の御子の十字架の死によって、神の愛が明らかにされました。この神の御子を信じるか、信じないかによって、救いか、それとも裁きか決定されます。ここでは、裁きは歴史の終末の時に行われるのではなく、今ここで信じる者は裁かれない、信じない者は裁かれる、と言っています。今、イエスを信じ、救い主として受け入れるか、否定するか、の決断を迫られているのです。永遠の命は未来の約束ではなく、現在与えられているものとなっています。

「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」(3:19)

 この世が暗黒におおわれているうちは、信仰と不信仰のどちらかを選ぶという決断は起こりません。光に照らされなければ、この世が闇であることに気づかないし、そこから抜け出したいとも思いません。<裁き>というとき、罪に対する罰として与えられる不幸や苦難を考えやすいものです。しかしヨハネは、「光よりも闇の方を愛したこと」がすでに裁きであると言っています。光に背を向けて、自分の欲望のおもむくままに、生きたいように生きることができるということが、すでに神のさばきなのです。

 主イエスを信じて罪を赦され永遠の命に至る救いの道を歩むのか、それを拒み、罪による滅びへの道を歩み続けるのかが、今私たちに問われているのです。

「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。」(3:20)

悪を行うというのは、何か大それた罪を犯すことではなくて、光を憎み、光の方に来ないこと、つまりまことの光として世に来られた主イエスを信じることなく、この世を覆っている闇の中に留まっているということです。光である主イエスのもとに来るなら、その行いが明るみに出されるとあります。それは隠していた罪が暴かれるということではなくて、私たち人間が根本的に神に背き逆らっている罪人であることが、主イエスの光に照らされることによって明らかになる、ということです。主イエスによって罪を示され、明らかにされるところにこそ、主イエスの十字架による赦しの恵みが与えられていくのです。罪を明らかにされることを恐れて、光である主イエスのもとに来ないならば、救いにあずかることもできない、それが悪を行う者の歩みです。

「しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」(3:21)

真理を行う者としての歩みは、ことさらに立派な善いことをして生きることではなくて、光の方に来る、つまり主イエスのもとに来て、その救いにあずかることです。それは真理を行う者の行いが元来神から出て、それに導かれていることが明らかになるためであるとしています。そこで明らかになるのは、その人の行いが立派だということではなくて、彼らは神に導かれて生きているということです。独り子をも与えて下さる神の愛を信じ受け入れて、その救いの恵みによって生かされていくところに、真理を行う者としての歩みが与えられるのです。

人を信仰に導く決断は、その人の自由意志でしょうか。パウロの言葉によれば、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言えないのです」(コリント二,12:3)。わたしたちは、聖霊の働きによって光に導かれるのですが、光に照らされて初めて、自分の罪深さを知らされます。光のもとに来たことが苦痛となり、重荷となります。しかし、その時こそ、大胆にキリストの十字架によるあがないに信頼しなければなりません。罪から解放して下さるイエスに信頼しなければなりません。そうすれば、イエス・キリストと結ばれて、聖霊に従って生きる者とされる望みが与えられます。主イエスと一つとされて、聖霊の力を受けて歩むことが信仰生活なのです。「今やキリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって、命をもたらす霊の法則は、罪と死の法則からあなたを解放したからです」(ローマ8:1-2)とあります。

「この世には「滅び」というものがあります。「一人も滅びないで」という言葉は、「滅び」が存在していることを表します。わたしたちの誰もが死を迎えます。どんな人でも、老衰や死には無力です。人間の死は花が散ったり落葉したりする自然の結果とは違います。また動物の死とも違います。人間の死ぬのは自然なことではなく、あってはならないことが起こることなのです。だから人間は死をこわがるのです。人間が死を恐れるのは、死に付随する苦痛のためではなく、死が「滅び」であることを直感的に知っているからです。

ところがこの「滅び」に打ち勝つものがあります。それが「愛」です。キリストの愛は不滅だからです。その愛は、「神は、その独り子をお与えになった」ということ、イエスが神の独り子としてわたしたしのために死んだ、ということによって説明されています。そして、キリストの永遠の愛に生かされることにより、死が克服され、死を恐れず生き、そして死んでゆけること、それが永遠の命というものです。ここにキリスト教のどんな宝にも勝る、お金で買うことが出来ない高価な恵みがあるのです。

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「世界の希望・主の僕」 イザヤ書42章1―13節

2021-12-08 23:29:16 | キリスト教

                           ↑  I  AM COMING SOON !  AMEN . COME, LORD JESUS !

                                                   「わたしは すぐ来る! アーメン。来たりませ、主イエスよ!」

            イザヤ書42章 イエスは、ヤ-ウェ(主なる神)の苦難の僕です。

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

降誕前第2主日 2021年12月12日(日)   午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を

成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわ

せ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                           礼 拝 順 序

                                                              司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 288(恵みにかがやき)

交読詩編   24(地とそこに満ちるもの)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)イザヤ書42章1―13節(旧p.1128) 

説  教     「世界の希望・主の僕」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                     

讃美歌(21) 561(平和を求めて)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇 オンラインで礼拝に参加できます。設定担当は、斎藤美保姉です。

申し込み先:Eメール munekuni-hemmi@vesta.ocn.ne.jp

                                                       次週礼拝 クリスマス礼拝 12月19日 午後4時―5時

                                                        聖書  ヨハネによる福音書3章16-21節 

                                                          説教題 「独り子をお与えになった神」

                                                         讃美歌(21) 260 194 27 交読詩編 2   

                                            礼拝後、クリスマス茶話会 午後5時―6時

本日の聖書 イザヤ書42章1―13節

42:1見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。
2彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
3傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。
4暗くなることも、傷つき果てることもない。この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。
5主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ、地とそこに生ずるものを繰り広げ、その上に住む人々に息を与え、そこを歩く者に霊を与えられる。
6主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として、あなたを形づくり、あなたを立てた。
7見ることのできない目を開き、捕らわれ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出すために。
8わたしは主、これがわたしの名。わたしは栄光をほかの神に渡さず、わたしの栄誉を偶像に与えることはしない。
9見よ、初めのことは成就した。新しいことをわたしは告げよう。それが芽生えてくる前に、わたしはあなたたちにそれを聞かせよう。
10新しい歌を主に向かって歌え。地の果てから主の栄誉を歌え。海に漕ぎ出す者、海に満ちるもの、島々とそこに住む者よ。
11荒れ野とその町々よ。ケダル族の宿る村々よ、呼ばわれ。セラに住む者よ、喜び歌え。山々の頂から叫び声をあげよ。
12主に栄光を帰し、主の栄誉を島々に告げ知らせよ。
13主は、勇士のように出で立ち、戦士のように熱情を奮い起こし、叫びをあげ、鬨の声をあげ、敵を圧倒される。

本日の説教

イザヤ書40章から55章までは、イスラエルの民のバビロン捕囚時代の無名の預言者によって、ペルシアのキュロス王によるバビロン占領直前に書かれたものと思われ、通常「第二イザヤ」と呼んでいます。第二イザヤの預言活動(546-538年)は、最初のイザヤの活動(739-700年)より、およそ150年後になります。

第二イザヤが預言活動を開始したときは、イスラエルの民の捕囚期間が、短い人でも50年になろうとしていました。イスラエルの民は、「いつまで、主よ、隠れておられるのですか。御怒りは永遠に火と燃え続けるのですか」(詩篇89・46)と故国を失ったことを嘆いていました。そのような人々に、長い間隠れたまま応答をしなかった神が現れ、第二イザヤに語るべき預言を与えました。彼は民に捕囚からの解放の時が来たことを告げ、神が民の罪を赦してくださったことを説き続けました。彼の預言は、40~48章と、49章~55章の二部構成になっています。前者は解放前の預言でキュロスが、後者は解放後で主の僕が、それぞれ中心的登場人物となります。僕の歌は、①42:1-4、②49:1-6、③50:4-9、④52:13-53:12の四つです。①は解放前の預言、②以下は解放後の預言です。

「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。」(42:1)

僕の歌と呼ばれる四歌のうちの第一歌です。僕の選び、霊の付与、使命についての神の独白です。第二イザヤはまず「見よ」という非常に力強い呼びかけをします。語る者は主なる神(ヤーウェ)です。見よは「僕」を紹介する言葉です。聞く者は地上の諸国民であり、天上の天使たちです。

<僕>とは、神が地上に義をもたらす際の使者となるのが<僕>です。<僕>が誰を指すのかについては諸説がありますが、メシア的な人物と思われます。

主の僕の四つの特性が告げられます。主が<支え><選び><喜び迎え>、そして主の<霊>を置かれている、というのです。人の思いを超えた神からの啓示を受けていることを表現しており、その働きが誤らずに導かれることを保証しています。彼の上に神の霊は置かれ、彼は<国々>の諸国民に<裁き>(正義)をもたらします。神の世界救済の使命を僕は与えられるのです。マタイには、「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる」(マタイ12:18)と記されてます。世界に神の計画を伝えるのは御霊の働きです。主の僕は御霊の実である愛と柔和(ガラテヤ5:22-23)に満ちています。

「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。」(42:2)

では、この僕はどのような働きをするのでしょうか。僕は預言者のように大声で叫ぶことも、また街頭で語ることもしない仕方で、神の使命を果す、というのです。マタイには、「彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない」(マタイ12:19)とあります。

「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。」(42:3)

 <傷ついた葦><暗くなってゆく灯心>とは、戦争か何かで踏みにじられ、暗闇の中ですすり泣く様子を表しています。神の愛への信頼が薄れ、信仰が死に瀕した状況にあり、その中にあってなお生きようとして悶え苦しむ者たちの姿です。<裁きを導き出して>は、1節にもあるように、正義を地に確立することが僕の使命です。主の僕の生き方は死に瀕した者、弱い者を支えつくします。マタイ福音書では、正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」(マタイ12:20-21)と訳しています。初代教会はこの箇所をメシア的に解してキリストの預言と見ています。

「暗くなることも、傷つき果てることもない。この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。」(42:4)

<暗くなることも、傷つき果てることもない>は、神の導きに信頼してくずおれず黙々と使命遂行に向かう僕の姿を示しています。こうしてこの僕の使命はこの地に正義をもたらすことでした。<この地>とはイスラエルの地だけではなく、当時世界の果てと思われた地中海の<島々>に至る全世界を指します。世界伝道の幻が語られているのです。全世界は僕によって伝えられる正しい信仰の教えを待ち望むのです。マタイには、「異邦人は彼の名に望みをかける」(マタイ12:21)とあります。

「主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ、地とそこに生ずるものを繰り広げ、その上に住む人々に息を与え、そこを歩く者に霊を与えられる。」(42:5)

主なる神の約束です。まず神は天地創造の神であると言います。<天を創造して>は、この神によって天地が創造されたことをを言います。<そこに生ずるもの>とは植物のことで、それを生え出させる者は主なる神です。<息><霊>は共に生命を意味します。神は地上の人間に生命を与え、その人間は力強く活動します。神はただ天地を創造した神であるだけでなく、歴史を支配する神であることがここに暗示されています。

「主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として、あなたを形づくり、あなたを立てた。」(42:6)

 神は<あなた=僕>を神と人類全体との間の契約の仲立ちとするのです。それゆえ僕は<諸国の光>とされます。僕を通じて神と人類とは新しい契約の関係に入るのです。

「見ることのできない目を開き、捕らわれ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出すために。」(42:7)

<捕らわれ人><闇に住む人>とは、イスラエルのみならず、バビロニアの捕囚民として集められた諸国民を指し、その解放が歌われます。

「わたしは主、これがわたしの名。わたしは栄光をほかの神に渡さず、わたしの栄誉を偶像に与えることはしない。」(42:8)

<わたしは主(ヤーウェ)、これがわたしの名>であると、ヤーウェが唯一の神であることの再確認です。主なる神は、栄誉を偶像に与えることはしません。

「見よ、初めのことは成就した。新しいことをわたしは告げよう。それが芽生えてくる前に、わたしはあなたたちにそれを聞かせよう。」(42:9)

<始めのこと>はキュロスによる過去のリディア、メディアの征服を、<新しいこと>は将来のバビロン征服とイスラエルの捕囚民と諸国民との解放とを指します。こうして僕(あなた)は、ここでは政治的解放者キュロスを指すと考えられます。宗教的救済は政治的救済へと幅を与えています。<それが芽生えてくる前に>は歴史の予兆としてのキュロスの入場を指します。

「新しい歌を主に向かって歌え。地の果てから主の栄誉を歌え。海に漕ぎ出す者、海に満ちるもの、島々とそこに住む者よ。」(42:10)

賛美の様式で、高らかに神の勝利を歌ったこの文は、勝利がキュロスにではなく、神に帰せられることを明らかにするために置かれたと思われます。イザヤは<島々とそこに住む者>に強い終末性と世界伝道の幻を担わせました。<新しい歌>は主なる神の栄光を賛美する歌です。全地は創造者なる神をほめたたえます。

「荒れ野とその町々よ。ケダル族の宿る村々よ、呼ばわれ。セラに住む者よ、喜び歌え。山々の頂から叫び声をあげよ。」(42:11)

 <ケダル族>はヨルダン東方のアラビア砂漠の遊牧民です。荒れ野とその町々と村々に住む者よ、呼ばわれ。<セラ>とは死海とアカバ湾の中間に位置するペトラでしょう。南部の山岳地帯です。山岳地帯に住む者よ、山々の頂から叫び声を上げよ、と呼びかけます。

「主に栄光を帰し、主の栄誉を島々に告げ知らせよ。」(42:12)

主なる神に栄光を帰し、主の栄誉を島々に告げ知らせよ、とよびかけています。主なる神が<主の僕>を通して世界の統治の計画を実現することを、世界がこぞってほめたたえ、「栄光をヤ-ウェ帰して」歌い、希望に生きるのです。

第二イザヤは「主の僕の歌」と呼ばれる預言によって人々に苦難の意味を明らかにしました。苦しみを神の与える審き(さばき)また刑罰であるとしか考えられなかったイスラエルの民に、現在受けている苦難は意味のない苦しみなのではなく、他の人間がその罪のゆえに負わなければならない苦難を、選民であり神の僕であるイスラエル民族が負っている、その苦難は他者に仕えるためであり、神の救いのみこころを証しするという、説教的な意味があるのだ、と語ったのです。

 主の僕の歌の第四歌は、「主の僕の苦難と死」が預言されています。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。」(イザヤ53:5-6)

この苦難の僕の歌は、イエス・キリストの生涯、特に十字架の出来事についての預言として理解されるようになりました。この預言は、神の救いの業がイスラエルにとどまらず、すべての民に及ぶことを明らかにしたのです。

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「『平和の君』の誕生預言」 イザヤ書9章1-6節

2021-12-03 21:57:27 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

降誕前第3主日  2021年12月5日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を

成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわ

せ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                           礼 拝 順 序

                                                              司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 235(久しく待ちにし)

交読詩編  147(ハレルヤ。わたしたちの神をほめ歌う・・)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳) イザヤ書9章1-6節(旧p.1073) 

説  教   「『平和の君』の誕生預言」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                     

讃美歌(21) 356(インマヌエルの主イェスこそ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇 オンラインで礼拝に参加できます。設定担当は、斎藤美保姉

です。申し込み先:Eメール munekuni-hemmi@vesta.ocn.ne.jp

                                                                     次週礼拝 12月12日(日)午後5時~5時50分 

                                                                     聖 書 イザヤ書42章1-13節

                                                                    説教題 「世界の希望―主の僕」

                                                                 讃美歌(21) 288 561 27 交読詩編 24     

本日の聖書 イザヤ書9章1-6節

9:1闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
2あなたは深い喜びと、大きな楽しみをお与えになり、人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように、戦利品を分け合って楽しむように。
3彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を、あなたはミディアンの日のように、折ってくださった。
4地を踏み鳴らした兵士の靴、血にまみれた軍服はことごとく、火に投げ込まれ、焼き尽くされた。
5ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。
6ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。

本日の説教

 イザヤ(第一イザヤ)は、南ユダ王国の首都エルサレムで活動した預言者です。イザヤは、エルサレムの貴族階級に属する祭司であったと思われています。1章から39章までが、イザヤの予言です。イザヤが預言者として神から召命を受けたのは、ウジヤ王の死んだ年のことです(紀元前739年)。

イザヤは、エルサレムの神殿で神の啓示を受けて、預言者となりました。彼は聖なる神の顕現に接して、聖なる神こそ、全世界を究極的に支配しておられる王、万軍の主であることを知りました。この信仰が常にイザヤの預言活動の根底にありました。

 イザヤはエルサレムとその住民、そして特にエルサレムとユダ王国の政治に責任を負う王と支配階級に対して、悔い改めるべきこと、神の意志を行うべきこと、そして何よりも神の約束に対して確固たる信頼を寄せることを求めました。

イザヤの場合、エルサレムとユダの人々の不信仰のゆえに、彼らは徹底的に神の裁きを受けなければならないが、しかしそれにもかかわらず、神のエルサレムとその王に対する約束は変わらないという信仰が一貫として堅持されていることです。

 紀元前前922年に統一王国から分離独立した北王国は、初代の王ヤロブアム1世がエフライム族出身だったので、紀元前745年頃から、北王国をエフライム王国と呼ぶようになりました。エフライム族は、イスラエルの十二支族の中のヨセフ族から別れた二支族(マナセ族、エフライム族)の一つです。

 北王国エフライムは、前750年頃ヤラベアム二世(13代)のとき最盛期を迎えます。周辺帝国の衰退期に乗じてエフライムは、国土を拡張し、交易を盛んにして経済的基盤を確立しました。しかし、その繁栄は内に危機を抱えたものでした。アモスやホセアという預言者が、その危機について警告しました。危機は外側からも迫っていました。

 新アッスリア帝国のティグラト・ピレセル3世(11代)が王として即位すると、アッスリアは勢力を西へ伸ばし始めます。この動きに対抗しようと、シリアと北王国エフライムは同盟を結び、南王国ユダに対して同盟に加入するように武力をもって強要しました(前733年)。南王国のアハズ王(12代)はこれに対して、アッスリアに援軍を求めました(イザヤ書7:1以下)。アハズの要請に応じたティグラト・ピレセル3世は、734年に、速やかにシリア及びエフライムに大軍をひきいて怒涛のように攻め寄せました。そのため多くの町が蹂躙され、敵に支配されました。その悲惨な舞台となったのがガリラヤ地方のナフタリの地やゼブルンの地でした。多くの町や村が破壊されただけでなく、労働力になりそうな者たちは捕虜とされ、連れ去られました(イザヤ書8:1-4)。

 預言者イザヤは、8章22節のあと、この地に住む者たちに、神の救いの栄光が輝くことを預言しました。そして、9章に続きます。

             

 「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(9:1)

 北王国がアッスリアによって蹂躙され、支配されたのは、歴史を導く主なる神に頼むことをしないで、シリアとの同盟によって危機を回避しようとする不信仰に対する、主なる神の審判に他なりませんでした。神のみを畏れよ、語る預言が8章5~22に記されています。

 ガリラヤの地は光のささない暗闇となり、「死の陰の地」になりました。だが、そのような地に住む者の上に光が輝いたと、預言者イザヤは預言したのです。生きる喜びも希望も失っている人々が、再び生きる喜びを取り戻す日が来ると預言したのです。

 「あなたは深い喜びと、大きな楽しみをお与えになり、人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように、戦利品を分け合って楽しむように。」(9:2)

 イザヤは祭りを例にあげて喜びを語ります。刈り入れの時を祝う祭りのように、人々に大きな楽しみを神は与えるというのです。

 「彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を、あなたはミディアンの日のように、折ってくださった。」(9:3)

 ミディアン人とは、パレスチナの南の荒れ地に住む遊牧民です。「ミディアンの日」とは、昔、士師ギデオンがミディアン人を、北イスラエルのイズレエルの平野で、撃ち破った日のことです。そのように主なる神がアッシリアの軍隊を打ち破り、イスラエル人が負わされた軛や、肩を打つ杖や、虐げる者の鞭をへり折ってくださるとイザヤは預言しました。

 「地を踏み鳴らした兵士の靴、地にまみれた軍服はことごとく、火に投げ込まれ、焼き尽くされた。」(9:4)

 戦場となった地を踏み鳴らしたアシリア兵の靴や、彼らの 激戦地で殺戮して血まみれになった軍服は、全てことごとく、神によって焼き尽くされた。戦争は根絶された、とイザヤは預言しました。

 「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。」(9:5)

 イザヤは、この喜びが与えられる保証として、ひとりのみどりごの誕生による即位を預言します。「みどりごが生まれた。男の子が与えられた」というのは、過去形ではなく、予言的完了形というへブル語独特の表現で表しています。必ずそうなる、そういうことが起こるということを表す時に用いる表現法です。「生まれた」という表現は、詩篇2:5~7bでも用いられているように、「出生」ではなく、王の「即位」を意味することばとして用いられています。

 苦難は北王国の住民だけでなく、南王国の住民も味わいました。アハズ王が神に寄り頼まず、アッスリアに援軍を要請したことで、多額の献上金を要求される結果となり、事実上、アッスリアの属州となって支配されるようになったのです。

 イザヤは、南ユダの国で新しく即位する王ヒゼキヤの期待をこめて、この預言をしたと思われます。その王は、一面では、アッシリアに勝利し、その支配をはねのける軍事的メシア・救世主の姿でした。だがその期待とは裏腹に、ヒゼキヤはそのようなことは実行できませんでした。

 しかし、彼が、あげた四つの王の呼称は、やがて世に現われる世界の救い主の預言となるのです。

 「権威が彼の肩にある」とは、王が王衣を肩にまとったことからおこった言葉で、王が主権を掌握することを意味します。王の四つの呼称ですが、「不思議な助言者」とは人間の能力をはるかに越えた助言者・相談役を意味します。「力ある神」は超自然的能力をもつ神のような人格を備える者であり、「永遠の父」とは永遠の父のような慈愛をもって人民を治める者であり、「平和の君」は正しい政治によって、永久の平和と繁栄と幸福とを与える王であり、地上にメシア王国をもたらす王として、人々に言われるようになる、と預言しました。

 「ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」(9:6)

 来るべき救世主(メシア)はダビデ王の家系から出て、ダビデの王統を継ぐ者となる。「今もとこしえに」は、メシア王国は永遠に続くことを意味します。王国の政治は武力や権力によらず、公平と正義と恵みの業によって立てられ、支えられるとされ、メシア的支配の理想の姿が示されています。「万軍の主の熱意」とは、神が人間に注がれる熱愛のことで、そのダビデの王国はその神の熱愛によって実現する、とイザヤは神の霊を受けて預言しました。

 イザヤの預言は、およそ700年後の主イエスによって、実現しました。

 マタイ福音書の4章12~16節によると、イエスがガリラヤで伝道すると、それは、預言者イザヤを通して言われたいたことが実現するためであったと記されています。「ゼブルンの地とナフタリの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」とあります。イエスは「天の国は近づいた」と宣べ始められました。

 イザヤの預言には、武力による支配者としてのイスラエルのための王の出現を期待する預言でしたが、主イエスは限られた国の政治的支配者としてではなく、人類全体のために、わたしたちの最大の敵であるサタンの支配を撲滅し、罪からの解放者として、神の民に永遠の命を与える神の国を実現するために来られました。まさにイザヤが預言した「平和の君」なのです。

 

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