富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「世の光としての使命」 フィリピの信徒への手紙2章12~18節

2017-06-24 22:13:25 | キリスト教

            ↑ フィリピの遺跡

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

    日本キリスト教 富 谷 教 会   週 報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

   聖霊降臨節第4主日 2017年6月25日(日) 午後5時~5時50分

           礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  56(主よ、命のパンをさき)

交読詩編   67(神がわたしたしを憐れみ、祝福し)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳) フィリピの信徒への手紙2章12~18節(p.363)

説  教   「世の光としての使命」   辺見宗邦牧師

祈 祷         

讃美歌   441(信仰をもて)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

                                  次週礼拝 7月2日(日)  午後5時~5時50分

                                     聖書  2コリントの信徒への手紙8章1~15節

                                     説教   「生涯のささげもの」

                                     讃美歌(21)449 521 24 交読詩編14

    本日の聖書 フィリピの信徒への手紙2章12~18節

 12だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。 13あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。 14何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。 15そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、 16命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。 17更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。 18同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。

              本日の説教

   パウロは、三回にわたって海外への大きな伝道旅行をしています。二回目のときに初めて、アジアから、エーゲ海を渡って、ヨーロッパに行きました。ヨーロッパでの最初の伝道の地がフィリピでした。フィリピは、パウロが訪れた時は、マケドニア東部最大のローマの植民都市で、東西交通の要所でした。マケドニヤ王国のアレキサンダー大王の父親フィリッポス二世が、自分の名にちなんでフィリッピ(ピリピ)命名した町です。フィリピは、現在はギリシャ共和国の北東部に位置する東マケドニア地方にあるピリッポイという町(Filippoi)です。ブルガリアの国境に近い町です。

   パウロから福音を聞いて最初に洗礼を受けたのは、リディアという紫布を商う婦人とその家族でした。彼女の家で集会がもたれ、教会に成長しました。次に信徒となったのは、看守とその家族でした。(使徒言行録16・11~34)

   リディアが洗礼を受けたガギタス川と教会

   使徒パウロから福音を伝えられてフィリピの教会は、以後、パウロと親密な関係を保ちました。4章からなるこの短い手紙には、<喜び>という言葉が16回も用いられ、手紙の内容も<イエス・キリストにある喜び>で満ちているところから、「喜びの書簡(手紙)」とも呼ばれています。 

 パウロがフィリピの信徒へ手紙を書き送った主な理由は、獄中でフィリピ教会の人々から贈り物を受けたことに対する感謝を伝えることにありました。また、捕縛されている自分の近況を報告するためでした。さらに、フィリピ教会の一部の人々が「反対者たち」(1:28)の影響を受けてへりくだりの心を失い、教会の一致を乱し始めていた(2:1~18)ことも関係しています。

 フィリピ書とフィレモン書はパウロが三回目の伝道旅行をしたとき、紀元53~55年頃のことですが、エフェソに二年三か月滞在しました。そのときに監禁され、獄中からフィリピに宛てて書いたと思われています。

 今日の聖書の箇所は、キリストの福音にふさわしく生きよと勧めた部分(1:27~2:18)の中に位置づけられています。先ず、「一致への警告」(1:27~30)を示し、とくに「信徒間の一致」(2:1~4)を勧め、そのために二章6節から11節にかけて、いわゆる「キリスト賛歌」を引用し、へりくだりの模範を示します。キリストは「神の身分でありながら」、「自分を無にして、僕の身分になり」、「人間と同じ者になられました」。キリストは「死、しかも十字架の死」に至るまで父なる神に従順でした。キリストは一生涯、自己に固有の権利の行使を放棄し、断念し続け、「父である神の栄光」に向けられていました。信徒もそれに倣い、キリストにあって従順であれと勧告しているのが今日の箇所です。

 「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」(2:12)

 「だから」は前の節でのべられた「キリストの従順」を受けています。パウロは「わたしの愛する人たち」と信徒たちに呼びかけ、キリストの「従順」を思い起させつつ、自分が捕らわれの身で彼らから離れている今はなおさらのこと、彼らの眼が「神への従順」に向かうように勧告します。従順は「恐れおののきつつ」なされます。なぜ「恐れおののく」のか、それは13節にあるように、「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」。この神の恵みを畏れかしこんで受ける人間は、同時に自分の救いを「達成する」ように促されされるのです。神は恵みの選びによって信徒のうちに働きかけ、信徒自身の救いを達成させるのです。

何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。」(2:14)

  ここで禁じられている「不平を言う行為」は、神のみ旨に反抗する態度意味をし、エジプトを脱出したイスラエルの民が荒れ野で神に対して示した態度にその先例が見いだされます。「理屈を言う」は、神のみ旨や導きに対して逆らう「疑い」「理屈をこねる」と言った意味です。

そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。」(2:15,16a)

 15節は、これまでの勧告の目的を示しています。「よこしまな曲がった時代」という表現は、旧約聖書の申命記の32:5のモーセがイスラエルの会衆に語り聞かせた「不正を好む曲がった世代はしかし、神を離れ、その傷のゆえに、もはや神の子らではない」の言葉を借用し、パウロの時代の人々に適応させたものです。

 「(あなたがたは)非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝く」という表現は、ダニエル書12:3の「目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々は、とこしえに星と輝く」という預言を思わせます。「神の知恵」としての福音によって、賢い者となったキリスト者は福音を堅持し福音をさし出すことにより、「多くの者の救い」に導く者となり、「星のように世に輝く」のです。これは福音による預言の成就です。

  16節の「命の言葉」という表現は、生命を与える神の言葉としての「福音」を意味します。信じる者にいのちを与え、人をいのちに導く言葉という意味で「福音」こそ「命の言葉」です。

 「こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。」(2:16b)

 ここでいう「わたしの誇り」は、もちろんパウロ自身の肉による功績ではありません。パウロはキリストの使徒として、終末のキリストの審判の日に、恵みによって働いたすべての働きを報告し、神からの栄誉を得たいと願っています。彼は、「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(1:6)と言っています。この確信の基づいて、パウロは彼自身の宣教の労苦が無駄にならず、すべて役に立つものであったと評価されることを期待し、確信し、それを「誇ることができる」と言うのです。

 「更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。」(2:17,18)

 ここではキリストの日以前に殉教の血を流さなけばならないかも知れないというパウロの自覚が言い表されています。フィリピの信徒たちの信仰の供えものと礼拝とを神に捧げる祭司として、パウロは彼自身の血がそれに加えて注がれる場合も彼自身喜ぶばかりでなく礼拝者であるあなたたちと共に喜ぶと言うのです。同じように、パウロと共にあなたたちも喜べ、というのです。

  「わたしは喜ぶ」は、たとえパウロが殉教の死を遂げることになっても喜ぶ、という意味ですが、「喜ぶ」には、目的語が欠けています。16節におけるパウロの誇りは、神の恵みの働きに対する誇りでした。とすれば、喜びの内容は、その神の恵みの働きを喜ぶということになります。これは、フィリピの教会の人々の喜びでもあります。彼の働きの実りは、信徒たちの従順と信仰にほかなりません。パウロは「あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように」(1:25)という思いをもって、生き続ける道を選んでいるのです。

 18節の「同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」は、パウロがもし殉教しても、パウロ自身が喜んでいるのと同じように、あなたたちもそれを嘆き悲しむことなく、むしろ喜び、パウロと共に喜びなさい、と命じているのです。

    今も世は、「よこしまな曲がった悪い時代」です。その中にあって「闇の子」から「光の子・神の子」とされたわたしたち信徒と教会は、「命の言葉」を堅持し、真の光であるキリストの光を反映して、世に輝く光としての使命を果たさなければなりません。時代が暗いだけ、その使命は大きいと言えるのです。

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 「悔改めの使信:十字架を欠いたアレオパゴスの説教」使徒言行録17章22~34節

2017-06-18 00:03:41 | キリスト教

      ↑ アレオパゴスの丘。アレオパゴス(軍神アレスの丘)は、パルテノン神殿のあるアクロポリスの山の北西に位置しここからアクロポリスの全体が見える。

               アレオパゴスから見たパンテノン神殿

 かつてこの丘にはギリシャの祭壇や神殿聖所が有ってアレオパゴスの野外評議所も開かれた。今日は地震のため半分以上崩れてしまい、ベンチ状の石の座席が幾つか残っているだけ…かつて使徒パウロもここでアテネの人々に聖所から話した。この丘からはアゴラ(広場)や市の建つ広場などが良く見える。

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

   日本キリスト教 富 谷 教 会 週 報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

   聖霊降臨節第3主日  2017年6月18日(日) 午後5時~5時50分

    礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 441(信仰をもて)

交読詩編   17(主よ、正しい訴えを聞き)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳) 使徒言行録17章22~34節(p.248)

説  教   「悔改めの使信:十字架を欠いたアレオパゴスの説教」 辺見宗邦牧師

祈 祷         

讃美歌   430(とびらの外に)

聖餐式    78(わが主よ、ここに集い)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏   

             次週礼拝 6月25日(日)  午後5時~5時50分

             聖書  フィリピの信徒への手紙2章12~18節

             説教   「世の光としての使命」

             讃美歌(21)56 441 24 交読詩編67

 本日の聖書 使徒言行録17章22~34節

 22パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。 23道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。 24世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。 25また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。 26神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。 27これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。 28皆さんのうちのある詩人たちも、
『我らは神の中に生き、動き、存在する』
『我らもその子孫である』と、
言っているとおりです。 29わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。 30さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。 31それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」

  32死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。 33それで、パウロはその場を立ち去った。 34しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。

     本日の説教

    

   ラファエロ・サンティ 「アテネ(アレオパゴス)で説教するパウロ」1515年作    バチカンのシスティ―ナ聖堂のタペストリーの絵 右下の二人は回心した議員と女性 

 今日の聖書の箇所は、使徒パウロがギリシャのアテネで民衆に福音を語ったときのことが記されています。パウロの第二回伝道旅行中のことです。

 アテネは紀元前四世紀から五世紀にかけては、学問と芸術の町でしたが、パウロがこの町に到着した紀元50年頃は、以前としてギリシャ文化の中心でしたが、最盛期の文化の輝きは失われ、政治や商業の面では、その中心はコリントで、コリントが州都となっていました。アテネは当時、約五千人ぐらいの小さな町でした。

 テサロニケを追われ、ペレアでの妨害を避けて、アテネの町にやって来たパウロは、同伴者シラスとテモテの二人がペレアから来るのを待っている間に、アテネの町の至るところに偶像があるのを見て憤慨しました(17:16)。それで、安息日には会堂でユダヤ人や神をあがめる人々と論じ、また、週日には広場(アゴラ)で居合わせた人々と毎日論じ合っていました。またエピクロス派やストア派の幾人かの哲学者たちもパウロと討論しました。エピクロス派とは、神々の存在を信じるが、この神々は人間の生活には関心を持たないと教え、彼らは、特に死の恐怖から免れる快楽を人生の主要目的としました。ストア派とは、神と宇宙、または神と自然とは同一であるとみなし、宇宙精神と一致した生活を目指す禁欲的な哲学です。

  彼らの中には、パウロを「このおしゃべり」と学者的に軽蔑する者や、他の者は、「彼は外国の神々を宣伝する者らしい」と言う者もいました。パウロが、イエスの復活を告げ知らせていたので、彼らはパウロをアレオパゴスに連れて行き、「あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか」と言ったのです。

 

 そこでパウロはアレオパゴスの真ん中に立って話しました。アレオパゴスとは、標高115mもある丘で、その南東の尾根のかなりの人数の人が集まれる場所です。

  「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。

 「アテネもみなさん」と語りかけます。アレオパゴスでの説教の序論にあたる部分です。この説教は好意を得ようとする巧みな試みで始まります。偶像を見て憤りを感じていたのに、アテネの人々は信仰のあつい方々だと言っています。パウロが取り上げたのは「知られざる神」でした。パウロは「あなたがたが知らず拝んんでいるもを知らせましょう」と「知られざる神」を手がかりに聖書の神を知らせようとします。

 「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。

 本論の第一部です。聖書的「天と地」を「世界」という語を用いて、神は天地の創造者であり、主であると宣言します。次に神が「手で造った神殿などにはお住みになりません」と神殿を批判をします。そして、「何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。」と祭儀を批判をします。そしてその理由が、イザヤ書42章5節の自由引用によって、神が万物を与えるお方だからだ、と語りました。イザヤ書の「霊」の代わりに「命」を用い、世界の創造者が人間に命と息を与え、「万物」を与えた方であると宣言します。

 「また、神は一人の人から全民族をお造りになりました。それは彼らを地の全面に住まわせるためです。そして、一定の季節と彼らの居住地の境界をお定めになりました。それは神を求めさせるためです。もしかしたら彼らが神を探し求め、見つけ出せるのではないか、ということなのです。事実また、神はわたしたち一人ひとりから遠く離れてはおられません。

 本論の第二部です。神による世界創造信仰を語り、人間創造とその二つの目的を示します。第一の目的は、人間を「地の全面に住まわせるため」です。第二の目的は、「神を求めさせるため」です。

 「皆さんのうちのある詩人たちも、『我らは神の中に生き、動き、存在する』『我らもその子孫である』と、言っているとおりです。わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。

 本論の第三部です。紀元前270年頃のギリシャ詩人・アトラスのゼウス賛歌の中にある「我らもその子孫である」という言葉を、聖書引用のように引用します。そして「わたしたちは神の子孫なのですから」という理由にもとずいて、偶像を批判します。

 「さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。

 三部からなる本論が終わり、結論です。世界史はイエスの復活によって二分され、復活以前の神に対する「無知な時代」は、神は大目に見てくださるが、復活以後の無知は許されません。だから今、神は「どこにいる人でも皆」「悔改める」ようにと宣言します。その理由は「お選びになった一人の方」、キリストによって世界を裁く日が行われる。その裁きは、神は「この方を死者の中から復活させ」た出来事によって、すべての人に確証されている、と言って、説教は終わります。

 「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った。

 「死者の復活」は、彼らにとってはあり得ない迷信です。彼らは霊魂の永遠性は信じているが、身体の復活は信じません。死者の復活を聞いたエピクロス派の「ある者はあざ笑い」、また、ストア派の「ある者はいずれまた聞かせてもらおう」と言って去っていきました。

それで、パウロはその場を立ち去った。しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。

 パウロはアテネを去りましたが、ある者はパウロの宣べ伝えた福音を受け入れ、信仰に入ったのです。少なくとも四人はいますが、その中には二人の有力なアテネの市民も含まれていました。アレオパゴスの議員ディオニシオとダマリスという婦人などです。神の前にはこの何人かが尊いのです。

 パウロがアテネを去ってコリントに行ったとき、コリン ト書一、2:3には、「わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安」だったとパウロは語っています。パウロのアテネ伝道が失敗だったように思わせますが、しかし、ルカの記す使徒行伝では、アテネ伝道はむしろ成功したように記しているのです。パウロも何人かを得ただけで満足したと思われます。このような伝道のあることをこの箇所は告げています。

 使徒言行録の成立年代は、ルカ福音書の成立(80年代)からあまり時を経ていない90年代と見做されています。レオパゴスの説教の中に、神殿批判がありますが、このような神殿批判は、紀元70年のエルサレム神殿崩壊以後、初めて可能になったのです。パウロのローマでの殉教は紀元60年頃です。アレオパゴスの説教は、語り手パウロの説教そのものではなく、使徒言行録の著者ルカによる編集によるもので、世界最高の文化に接している異邦人信者の読者に対しての福音の宣教と見做されます。たとえパウロによる説教でないとしても、問題は福音の異教文化との接触、その説き方が示されてえいるきわめて重要な御言葉です。

 この説教で、語られていないのは「キリストの十字架」です。神は「無知な時代を大目に見ていたが」と語っていますが、このことは、パウロ自身の言葉を借りるならば、神の「豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじ」(ロ―マ2:4)、神の怒りを蓄えていたことになります。神はこの罪を御子イエス・キリストの十字架の死で贖ってくださったのです。アレオパゴスの説教では、神が裁く日をお決めにになり、先に「お選びになった方を者者の中から復活させて」と、キリストの復活についてはふれているが、神の裁きを罪人に代わって受けられた「十字架のイエス・キリスト」については語っていません。これでは悔い改めにせまる使信にはなりません。パウロはこことを悟ったのでしょう。コリントの信徒へ宛てた手紙では、「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけらえたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」(コリント一、2:2)と語っています。アレオパゴスの説教でかけたものは、「十字架につけられたキリスト」を語らなかったことです。

 

 

 

 

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「神(キリスト)の計り知れない富」 エフェソの信徒への手紙1章3~14節

2017-06-11 03:06:29 | キリスト教

 ↑ポンぺオ・バトーニ(1708~1787、イタリアの画家)「放蕩息子の帰還」(138×100,5㎝)1773年作、オーストリア、ウイーン美術史美術館所蔵

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

    日本キリスト教 富 谷 教 会   週 報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、リストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

   聖霊降臨節第2主日 2017年6月11日(日)    午後5時~5時50分

          礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 289(みどりもふかき)

交読詩編   99(主こそ王)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳)エフェソの信徒への手紙1章3~14節(p.352)

説  教    「神(キリスト)の計り知れない富」    辺見宗邦牧師

祈 祷         

讃美歌   522(キリストにはかえられません)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏   

            次週礼拝 6月18日(日)  午後5時~5時50分

            聖書   使徒言行録17章22~34節

            説教   「悔い改めの使信」

            讃美歌(21)441 430 24 交読詩編17

本日の聖書 エフェソの信徒への手紙1章3~14節

  3わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。 4天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。 5イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。 6神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。 7わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。 8神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、 9秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。 10こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。 11キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。 12それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。 13あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。 14この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。

      本日の説教

 「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロ」(1:1)から、エフェソにいるキリスト・イエスを信ずる人たちへ宛てられた手紙です。「わたしはこの福音の使者として鎖につながれています」(6:20)と言っています。エフェソ書は、フィリピ書、コロサイ書、フィレモン書と共に、「獄中書簡」と呼ばれています。

 十八世紀終わり以来、この書簡が使徒パウロの書簡であるのか、その「真正性」をめぐる研究がなされました。文体や内容が他のパウロの書簡と違うからです。EKK新約聖書注解の「エペソ人への手紙(1981年出版、1998年翻訳本・教文館発行)」の注釈者は、エフェソ書の著者を使徒パウロの名を借りて、パウロの権威の下に書かれたものとし、小アジア教会(トルコ)の教師で、指導的地位にあり、周辺の諸教会も訪問しつつ指導した人物だろうと推定しています。この人物は自分をただパウロの伝統の伝承者、解釈者としてのみ理解し、未知の人に留まり、パウロの霊においてエフェソ書を著した、と述べています。この手紙は、パウロ以外の人の手になったとしても、パウロ思想は見事に継承されています。書かれた年代を一世紀の終わり頃から二世紀の始め頃と推定しています。

わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」(1:2)手紙の差出人と受け取り人を記した後、手紙は祝祷から始まります。新しく証された憐れみである「恵み」と人間全体を包む救いである「平和」が読者に臨み、働き続け、留まるように祈リます。手紙の最後に記されている結びの祝福(6:23)でも同じ、「平和」と「恵み」の言葉が用いられており、手紙全体が恵みと平和の語りかけの中におさめられています。

 1章から3章の終わりまでは、霊感のみなぎる格調高い教理的な教えの部分です。最初の1章3節から14節には、神のキリストを中心とする人類の偉大な救いの御計画が語られます。

わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。」(1:3)

 先ず、手紙は神への長い感謝の言葉で始まります。格調高く荘重な言葉が使われています。主イエス・キリストの父であり、聖徒たちの父なる神でもある主への賛歌で始まります。父なる神はわたしたちをキリストにおいて、すべての霊的祝福をもって祝福してくださった方であることを讃えます。「天のあらゆる霊的祝福」とは、この世にあって受ける祝福だけではなく、「キリストにおいて」、わたしたちが天でも受ける祝福が約束されていることばです。

天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(1:4、時に先立つ神による選び)

 4節から6節にかけては、神の選びが予定されていることが明らかにされます。「天地創造の前」の選びとは、宇宙形成に先立つ選びです。神がわたしたちを選んでくださった動機は愛です。「わたしたち」の選びは、神のみ前で、聖なる者、汚れのない者になるように意図されていたことが示されています。神の意図にしたがって行動するようにとのわたしたちに対する倫理的呼びかけも聴き取らなければなりません。

イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。」(1:5~6、子たる身分と愛される者へ)

  神のわたしたちに対する倫理的要求が先にあるのではなく、与えてやまない神の愛がまずあります。キリストによる仲立ちによって神の子(等)となるよう、神はあらかじめ愛のうちにそのご計画を定めておられたのです。この計画はつねに救いへと導く神の積極的な行為なので、選ばれない人々は滅びに定められるというふうに神の判断を推論することは禁じられ、ゆるされません。キリストによって知らされた愛をとおしてわたしたちは神に愛される子供になりました。神の愛は、まず神の方からわたしたちに対して与えられる愛であり、わたしたちの罪にもかかわらずわたしたちを包む愛であり、これは御子を世に送られた派遣において証されました。それは「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。」

 「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」(1:7、キリストの血による歴史的救済)

 7節は、贖いと赦しについて述べます。赦しは、御子の十字架の血によって、歴史的一回的にもたらされただけでなく、つねにわたしたちを救済し、罪の赦しが今現在も働き、わたしたちを神と和解させる贖いとなります。これが、神の豊かな恵みです。

 「神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。」(1:8~10、「時が満ち」て起きたキリストの出来事の世界的宇宙的意味)

 神は、この贖いと赦しの恵みを「わたしたちの上に」あふれさせ、知恵と理解とを与えて、神の「秘められた計画」をわたしたちに知らせてくださいました。キリストにおいて開始した神のみ心の計画とその働きは、キリストのうちに実現し、更に「わたしたち」のうちにも実現しました。そのみ心の奥義、秘められた計画の働きは、「時が満ち」て、救いの業が完成し、キリストにおいて万物に対する神の支配がすでに回復されました。わたしたちの救済を含む、この神の計画がここで「神の意志の神秘」と呼ばれ、わたしたちにこの神秘が「知ら」されました。

 「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。」(1:11、12、神から約束された分け前)

 わたしたちは約束されていたものをを受け取りました。天に備えられた世継ぎとしての「相続」です。キリストの救いにあずかったわたしたちは、神を賛美する存在となるべきであります。礼拝における賛美を意味するのみならず、神の意志に即した生活をも含む、キリスト者の存在全体で神をほめ讃えることが求められています。

あなた方もまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。」(1:13、彼らの共同体への恵みに満ちた道を強調)

 著者は読者がキリスト教会に入った道筋を短く描写します。神の働きかけは、第一に福音を聞くことであり、福音を聞くことは、救いと罪の力からの解放へと働く神の力聖霊が働きます。ついで、「信ずる」という福音に対応する決意が生じます。それは福音の宣教による洗礼へと導きます。そして神の働きの力であるところの聖なる霊を受け、聖霊による「証印を押される」者とされます。「証印を押す」とは、押す人(神)の所有となり、神の子等の一人とされ、神の加護を受ける者とされます。イエスの弟子たちのようなユダヤ人だけでなく、手紙の受け取り人も、このようなキリストの救いにあずかり、約束された聖霊を受けました。

 「この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」(1:14、聖霊による保証と完全な救済へ)

 「御国を受け継ぐたえの保証」とは、聖霊が終末の日に受け継ぐ遺産の手付け金(保証)に譬えられています。この保証を受けて、決定的な贖いを待望しつつ、かつ、教会が完全に救われることを待ち望むのです。この終末の日に対する展望の後で、もう一度(6節と12節に続き)「神の栄光をたたえることになる」のです。

 今日の聖書の箇所は、天地創造に先立つ選びから、待望される終末の日の完成までの神のご計画、つまり、神がイエス・キリストにおいてわたしたちに成就する、神のの祝福が描かれているのです。

 著者はこのように語っています。「わたしは、恵みにより、キリストの計り知れない富について、異邦人に福音を告げ知らせており、すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が、どのように実現されるのかを、すべての人々に説き明かしています。」( 3:8ー10)

 まさに、今日の聖書の箇所(1章3節~14節)は「キリストの計り知れない富」についての解き明かしでした。「キリストの計り知れない富(豊かさ)」とは、異邦人を神の満ち溢れるいのちへ引き入れる、すべての知識を越えるキリストの愛です。キリストによって示された神の愛こそ、この世の何にもまさる、計り知れない、無尽蔵の富です。

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「聖霊の賜物」 使徒言行録2章1~11節

2017-06-03 23:13:31 | キリスト教

       ↑ エル・グレコの作品(製作年1596-1600)「ペンテコステ」                                 大きさ:275×127cm(スペイン・プラド美術館所蔵)

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

  日本キリスト教 富 谷 教 会    週 報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

        聖霊降臨節第1主日(聖霊降臨日) 2017年6月4日(日)午後5時~5時50分

                 礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 343(聖霊よ、降りて)

交読詩編   51(神よ、わたしを憐れんでください)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳) 使徒言行録2章1~11節(p.214)

説  教    「聖霊の賜物」     辺見宗邦牧師

祈 祷         

讃美歌   342(神の霊よ、今くだり)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏   

                                次週礼拝 6月11日(日)  午後5時~5時50分

                                  聖書   エフェソの信徒への手紙1章3~14節

                                  説教   「神の富」

                                  讃美歌(21)289 522 24 交読詩編99

             本日の聖書 使徒言行録2章1~11節

 1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。5さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、6この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。7人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。8どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。9わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、10フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、11ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」

                本日の説教

  教会暦では、今日が聖霊降臨日(ペンテコステ)の日です。キリスト教の三大記念日の一つです。「ペンテコステ」とは、ギリシャ語の「50」という意味です。(ちなみに、英語ではPentecostという表記です。)キリストの復活を祝うイ―スターの日から五十日目に当たる日に、イエスの弟子たちに聖霊が降ったことから、この記念日を「ペンテコステ」という名前で呼んでいます。

 この日は、ユダヤ教の過(すぎ)越(こし)祭(さい)の安息日の翌日(日曜日)から、七週を数えたその翌日、すなわち五十日目の「七週祭(シャーブオート)」の日です(レビ記23:15~16)。この日は、ギリシャ語が共通語の時代に、五(ご)旬(じゅん)祭(さい)(ペンテコステ)という別名で呼ばれました。この祭りは新しく穫れた小麦粉で作ったパンを神に献げ、収穫を感謝する日でした。五旬祭は、後期ユダヤ教時代(B.C.5~3世紀)になると、モーセがシナイ山で律法を授かったことを記念する日とされ、ユダヤ教の三大祝祭(過越祭、五旬祭、仮庵祭)の一つとして大切に守られていました。

使徒言行録二章によると、ユダヤ教の五旬祭(ペンテコステ)の日に主イエスの弟子たちの上に聖霊が降り、初代教会が創設され、宣教活動が始まったと伝えています。

 復活したイエスは四十日にわたって弟子たちに現れ、こう命じられました。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた父の約束されたもの(聖霊)を待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」(使徒言行録1:4~5)

 オリーブ山で昇天するときも、イエスは使徒たちに、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサエムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒言行録1:8)と言われました。

 イエスの昇天後、使徒たちはすぐに、最後の晩餐が行われた家と思われますが、彼らが泊まっていた家の上の部屋に上がりました。(使徒言行録1:13)。十一使徒は、婦人たちや、イエスの母、兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていました。

 ペトロは、ユダに代わる人を選ぶことを、百二十人ほどの人々が集まっているところで提案し、二人の候補者を立てて、くじを引き、マティアを使徒に選びました(使徒言行録1・15)。このようにして、五十日間、主イエスが約束された聖霊の到来を待っていたことが、最初の教会誕生のための準備の期間となりました。

 イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、不正を働いて得た銀貨三十枚を神殿に投げ込んでから、首をつって死にました。祭司長たちはその銀貨を、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、その金で陶器職人の畑を買い、外国人の墓地にすることにしました。このため、この畑は「血の畑」と言われるようになりました(マタイ27:3-10)。ルカは、「血の土地(アケルダマ)」と呼んでいます。

 ペトロはユダのことを、「わたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていた」と言っています。ユダはイエスを死に渡した人々と協力し、イエスを裏切りました。しかし、ユダのみがイエスを裏切ったただ一人の弟子ではありませんでした。ペトロ自身も大祭司の庭で声高(こわだか)に主を拒否し、呪いました。他の弟子たちもイエスを見捨てて逃げ去った者たちです。聖霊の力が与えられる前に、背信はまず、指導者と考えられた人々の中で起こったことを、ユダの代わりの補充は思い起させます。この弟子たちは皆、イエスの恵みと憐れみにしか生き得ない者たちです。復活のイエスに赦され、再びイエスの復活の証人とされたのです。

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒言行録2:1~4)

 この五旬祭の日に、<一同>が一つになって集まっていました。彼らが泊まっていた家の上の部屋と思われます。<風>は霊の活動を表現し、天からの<音>は神の直接の働きを示し、<炎>は神が現れたことを示す表現です。<舌>は言葉を表しています。

 すると聖霊に満たされた一同は、御霊の語らせるままに語る者となり、<ほかの国々の言葉で>話しだしました。他の国々の人たちの<故郷の言葉>で話し出したのです(2:6,8,10)。彼らは主のよみがえりを証言し、福音を伝える者になりました。彼らは<神の偉大な業>について語り、神を賛美したのです。

 「さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。」( 2:5、6)

 <あらゆる国から帰って来たユダヤ人>とは、祭りを祝うために帰ってきた巡礼者達ではなく、もとは国外に離散していたユダヤ人が、現在は祖国に帰り、エルサレムに住んでいる人達です。このようにエルサレムには外国生まれのユダヤ人たちや、ユダヤ教に改宗した異邦人たちも数多く住んでいました。エルサレムに住むこのような大勢の人が、この聖霊降臨の出来事の物音に集まって来ました。そしてだれもかれもが、自分たちが生まれた故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまいました。

人々は驚き怪しんで言った。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。』」(2:7、8) 人々は、ガリラヤ出身の使徒たちが、自分たちの生まれ故郷の言葉を話すのを聞いて驚いたのです。聖霊の賜物は異なった言葉で語るという奇跡的な賜物でした。

 「わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もお、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」(2:9~11)

 これらの民族の地名は、ユダヤを中心にして東方から( パルティア、メディア、エラム、メソポタミア)、北西へ(カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア)、またそこから南西へ(エジプト、キレネ、リビア)円を描くように記され、その円から遠く離れた最果てにローマがあります。<クレタ、アラビアから来た者>は、西方の海洋民と東方の内陸民です。

   

(数字の示す下線は、使徒2:9~11に出てくる地名です。)

 当時、国外へ離散していたユダヤ人の数は4~5百万です。エルサレムを含むパレスチナに住むユダヤ人の数はわずか50万ほどでした。

  当時、ユダヤを含むシリア地方、メソポタミアの共通語はアラム語でした。聖霊降臨の時、使徒たちはこれらの共通語であるアラム語(ヘブライ語とは方言程度の差)やギリシア語(コイネー)で話したのではなく、十五の地域の、それぞれの言葉で語ったと言うのです。この出来事は、全世界の人々がやがて、自分たちの国語で、イエスの福音を聞く日が来ることを、象徴する出来事でした。

 聖霊降臨日に起こった霊の注ぎは、個人の内面にかかわる聖化としてではなく、教会が福音を持って「民衆の場へ出て行く」力であり、教会に民衆を引き付ける力でした。臆病だった弟子たちに、語るための力が与えられ、言葉の賜物、異なった言語で語るという賜物が与えられたのです。それぞれの地域の人々に理解できるように話す言葉、通じる言葉が与えられたのです。主イエスが 昇天の時、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録1:8)と告げたことが起こったのです。

 弟子たちはエルサレムに住むユダヤ人や改宗した異邦人に、聖霊に満たされて神の偉大な業を語りました。この日、ペトロの説教の後、三千人ほどの人が洗礼を受け、仲間に加わりました。ペンテコステの日、教会はこうして誕生しました。

 私たちも、聖霊の力、民衆の場に出て行く力を与えられ、隣人にも福音を伝える者とされましょう。


 

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