↑ フィリピの遺跡
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日本キリスト教 富 谷 教 会 週 報
年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』
聖句「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)
聖霊降臨節第4主日 2017年6月25日(日) 午後5時~5時50分
礼 拝 順 序
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 56(主よ、命のパンをさき)
交読詩編 67(神がわたしたしを憐れみ、祝福し)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
聖 書(新共同訳) フィリピの信徒への手紙2章12~18節(p.363)
説 教 「世の光としての使命」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌 441(信仰をもて)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 7月2日(日) 午後5時~5時50分
聖書 2コリントの信徒への手紙8章1~15節
説教 「生涯のささげもの」
讃美歌(21)449 521 24 交読詩編14
本日の聖書 フィリピの信徒への手紙2章12~18節
12だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。 13あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。 14何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。 15そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、 16命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。 17更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。 18同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。
本日の説教
パウロは、三回にわたって海外への大きな伝道旅行をしています。二回目のときに初めて、アジアから、エーゲ海を渡って、ヨーロッパに行きました。ヨーロッパでの最初の伝道の地がフィリピでした。フィリピは、パウロが訪れた時は、マケドニア東部最大のローマの植民都市で、東西交通の要所でした。マケドニヤ王国のアレキサンダー大王の父親フィリッポス二世が、自分の名にちなんでフィリッピ(ピリピ)命名した町です。フィリピは、現在はギリシャ共和国の北東部に位置する東マケドニア地方にあるピリッポイという町(Filippoi)です。ブルガリアの国境に近い町です。
パウロから福音を聞いて最初に洗礼を受けたのは、リディアという紫布を商う婦人とその家族でした。彼女の家で集会がもたれ、教会に成長しました。次に信徒となったのは、看守とその家族でした。(使徒言行録16・11~34)
リディアが洗礼を受けたガギタス川と教会
使徒パウロから福音を伝えられてフィリピの教会は、以後、パウロと親密な関係を保ちました。4章からなるこの短い手紙には、<喜び>という言葉が16回も用いられ、手紙の内容も<イエス・キリストにある喜び>で満ちているところから、「喜びの書簡(手紙)」とも呼ばれています。
パウロがフィリピの信徒へ手紙を書き送った主な理由は、獄中でフィリピ教会の人々から贈り物を受けたことに対する感謝を伝えることにありました。また、捕縛されている自分の近況を報告するためでした。さらに、フィリピ教会の一部の人々が「反対者たち」(1:28)の影響を受けてへりくだりの心を失い、教会の一致を乱し始めていた(2:1~18)ことも関係しています。
フィリピ書とフィレモン書はパウロが三回目の伝道旅行をしたとき、紀元53~55年頃のことですが、エフェソに二年三か月滞在しました。そのときに監禁され、獄中からフィリピに宛てて書いたと思われています。
今日の聖書の箇所は、キリストの福音にふさわしく生きよと勧めた部分(1:27~2:18)の中に位置づけられています。先ず、「一致への警告」(1:27~30)を示し、とくに「信徒間の一致」(2:1~4)を勧め、そのために二章6節から11節にかけて、いわゆる「キリスト賛歌」を引用し、へりくだりの模範を示します。キリストは「神の身分でありながら」、「自分を無にして、僕の身分になり」、「人間と同じ者になられました」。キリストは「死、しかも十字架の死」に至るまで父なる神に従順でした。キリストは一生涯、自己に固有の権利の行使を放棄し、断念し続け、「父である神の栄光」に向けられていました。信徒もそれに倣い、キリストにあって従順であれと勧告しているのが今日の箇所です。
「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」(2:12)
「だから」は前の節でのべられた「キリストの従順」を受けています。パウロは「わたしの愛する人たち」と信徒たちに呼びかけ、キリストの「従順」を思い起させつつ、自分が捕らわれの身で彼らから離れている今はなおさらのこと、彼らの眼が「神への従順」に向かうように勧告します。従順は「恐れおののきつつ」なされます。なぜ「恐れおののく」のか、それは13節にあるように、「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」。この神の恵みを畏れかしこんで受ける人間は、同時に自分の救いを「達成する」ように促されされるのです。神は恵みの選びによって信徒のうちに働きかけ、信徒自身の救いを達成させるのです。
「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。」(2:14)
ここで禁じられている「不平を言う行為」は、神のみ旨に反抗する態度意味をし、エジプトを脱出したイスラエルの民が荒れ野で神に対して示した態度にその先例が見いだされます。「理屈を言う」は、神のみ旨や導きに対して逆らう「疑い」「理屈をこねる」と言った意味です。
「そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。」(2:15,16a)
15節は、これまでの勧告の目的を示しています。「よこしまな曲がった時代」という表現は、旧約聖書の申命記の32:5のモーセがイスラエルの会衆に語り聞かせた「不正を好む曲がった世代はしかし、神を離れ、その傷のゆえに、もはや神の子らではない」の言葉を借用し、パウロの時代の人々に適応させたものです。
「(あなたがたは)非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝く」という表現は、ダニエル書12:3の「目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々は、とこしえに星と輝く」という預言を思わせます。「神の知恵」としての福音によって、賢い者となったキリスト者は福音を堅持し福音をさし出すことにより、「多くの者の救い」に導く者となり、「星のように世に輝く」のです。これは福音による預言の成就です。
16節の「命の言葉」という表現は、生命を与える神の言葉としての「福音」を意味します。信じる者にいのちを与え、人をいのちに導く言葉という意味で「福音」こそ「命の言葉」です。
「こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。」(2:16b)
ここでいう「わたしの誇り」は、もちろんパウロ自身の肉による功績ではありません。パウロはキリストの使徒として、終末のキリストの審判の日に、恵みによって働いたすべての働きを報告し、神からの栄誉を得たいと願っています。彼は、「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(1:6)と言っています。この確信の基づいて、パウロは彼自身の宣教の労苦が無駄にならず、すべて役に立つものであったと評価されることを期待し、確信し、それを「誇ることができる」と言うのです。
「更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。」(2:17,18)
ここではキリストの日以前に殉教の血を流さなけばならないかも知れないというパウロの自覚が言い表されています。フィリピの信徒たちの信仰の供えものと礼拝とを神に捧げる祭司として、パウロは彼自身の血がそれに加えて注がれる場合も彼自身喜ぶばかりでなく礼拝者であるあなたたちと共に喜ぶと言うのです。同じように、パウロと共にあなたたちも喜べ、というのです。
「わたしは喜ぶ」は、たとえパウロが殉教の死を遂げることになっても喜ぶ、という意味ですが、「喜ぶ」には、目的語が欠けています。16節におけるパウロの誇りは、神の恵みの働きに対する誇りでした。とすれば、喜びの内容は、その神の恵みの働きを喜ぶということになります。これは、フィリピの教会の人々の喜びでもあります。彼の働きの実りは、信徒たちの従順と信仰にほかなりません。パウロは「あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように」(1:25)という思いをもって、生き続ける道を選んでいるのです。
18節の「同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」は、パウロがもし殉教しても、パウロ自身が喜んでいるのと同じように、あなたたちもそれを嘆き悲しむことなく、むしろ喜び、パウロと共に喜びなさい、と命じているのです。
今も世は、「よこしまな曲がった悪い時代」です。その中にあって「闇の子」から「光の子・神の子」とされたわたしたち信徒と教会は、「命の言葉」を堅持し、真の光であるキリストの光を反映して、世に輝く光としての使命を果たさなければなりません。時代が暗いだけ、その使命は大きいと言えるのです。