〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12
TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 2015年4月25日(土)
第22回 イ―スター茶会 富谷教会・茶席松風亭にて
礼拝の部 12時~12時25分 (参加者52名)
前 奏 奏楽 坂上芙美恵姉
讃美歌(21) 492(み神をたたえる心こそは)
主の祈り
賛美歌(21) 361(この世はみな)
聖 書(共同訳) ローマの信徒への手紙6章4節
メッセージ 「主の復活にあずかる恵み」 辺見宗邦牧師
讃美歌(21) 327(すべての民よ、よろこべ)
祝 祷
後 奏
聖 書 ローマの信徒への手紙6章4節
「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」
薄茶席床掛物 聖書の言葉
「わたしはキリストと共に死んだ
今わたしはキリストの復活にあずかって
新しい命に生かされている」 (ロマ書6章4節)
演奏の時間(マンドリン演奏)12時25分~12時45分
演奏者:マンドリン 万城目直樹さん
マンドラ 石川 広さん
ギター 大場 俊郎さん
曲 目:丘を越えて(古賀政男)
オーソレミオ(イタリア民謡)
アロハ・オエ(ハワイ民謡)
あの鐘を鳴らすのはあなた(森田公一)
慕 情 (S.Fain)
食事の時間 12時45分~1時30分
午後の茶会 午後1時30~3時
礼拝メッセ―ジ要約
イースター茶会のおいでくださり、歓迎申しあげます。桜の花は散ってしまいましたが、美しい新緑をお楽しみいただきたいと思います。
4月8日(水)の午後でしたが、塩竈で伝道してる韓国人牧師ご夫妻が、前日に日本に来られた韓国の教会の牧師ご夫妻を、富谷教会の茶室でお茶をさしあげてほしいと、お連れになりました。家内の手前で薄茶をさしあげました。韓国の牧師さんは、いただいた主菓子とお茶は、聖餐式のパンとぶどう酒のように感じます、と感想を述べられました。
わび茶を完成した千利休による日本の茶道はキリストの影響を受けました。大阪堺の利休の屋敷の近くに、豪商日比屋了慶の屋敷がありましたが、この日比屋了慶の屋敷にザビエルを始めとして、次々の宣教師が滞在し、ついには屋敷内に教会が建ちました。了慶と交友のあった利休は、了慶の屋敷で行われた神父たちが行うミサの所作を見て、その影響を受け、濃茶のまわし飲みや、ふくささばきや、茶道の所作に取り入れたと考えられています。このように利休の考案したわび茶の完成にキリスト教が大きな影響を及ぼしたと考えられています。韓国からこられた牧師さんが、茶室でお茶の接待を受けたとき、聖餐式のように感じたのも、もっともなことだと思います。
徳川幕府の250年以上も続いたキリシタン禁教令による迫害で、茶道とキリスト教は切り離されてしまいましたが、キリシタン茶人たちが残した多くの茶道具がなどが残っています。高山右近を始めとするキリシタン茶人の後を継ぎ、その復活をはかりたいと願い、富谷教会では23年間、イースター茶会とクリスマス茶会を実施してきました。日本の文化に根ざした教会を目指しています。茶道に、キリスト教の福音による新しい生命が吹き込まれることによって、茶道もさらによりよい発展を遂げることになるでしょう。
薄茶席の床の掛物(お軸)には、毛筆で書いた聖書のことばが書かれています。ローマの信徒への手紙6章4節のことばを、わかりやすく書き換えて、大阪で聖句書道センターを主宰者で、通信講座や、各地で聖句書道展を開催している佐藤望雲先生に揮毫(きごう)頂きました。先生の本名は佐藤義行というお名前で、「(大阪)みとキリスト教会」の牧師でもあります。聖書のことばだということで、先生は掛け軸に名前は記していません。
教会では、洗礼式を行います。人間は罪の中に生まれ、肉に属するものなので、そのままでは神のみこころにかなうことができません。人間は思いや言葉や行いによって神に背いているものです。そのため、罪のゆるしと新しいいのちとを受けるために洗礼式が教会で行われます。洗礼(バプテスマ)は、イエス・キリストの十字架の死にあずかり、御子の復活にあずかって新しい命に歩み、神の国の世嗣(よつぎ)となるためのものです。
キリストはわたしの罪をあがなうために十字架に架かって死んでくださった。キリストの死によって、罪をゆるされていると信じる人が多いのではないかと思います。その場合に、あまり復活の信仰が重んじられていません。しかし、十字架をあがないを信じるだけでは、罪赦され、新しく生まれ変わり、聖霊による新しい生き方はできないのです。キリストの十字架の死と共に死に、御子の復活にあずかって、新しい命を与えられることによって生まれ変わることができるのです。
神の御子イエスは、その地上の全生涯を全く神のみこころにかなう生活をされました、律法全体を表す二つのいましめを完全に実行したのです。一つは、「わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなる主を愛しなさい。」という神を愛する生活です。 第二の掟は、「隣人を自分のように愛しなさい。」という隣人を愛する生活です。主イエスは、苦難を受けるメシア(救世主)として死に至るまで神に従順でした。父なる神は、この御子を陰府(よみ)に捨てておくことはなさらず、復活させ、天上の神のみそばに上がられました。わたしたちは、このイエス・キリストの復活にあずかることの出来る恵みをいただいているのです。
このイエスの十字架の死と復活を信じるとき、わたしたちは、生まれながらの霊によって生きるのでなく、神の霊、聖霊をいただいて、新しく生きることができる者とされます。罪と死に勝利した主イエスの霊を受けるのです。
マザー・テレサはこのキリストの霊を受け、キリストを自分に宿すことによって、キリストと同じような愛の業に励むことが出来るのだと言っています。そのために彼女は毎朝、早朝に行われるミサに参加されていました。私もインドのカルカッタのマザーハウスでこのミサに参加してきました。
復活とか、永遠の命というのは、この世のことではなく、死後のこと、来世のことと考えられていますが、すでに新しい命、復活の命にあずかって生きることができるのです。すでに死を超えた神様の世界に生きるのです。イエス様がこの世の来られ、福音を宣べ伝えられたときから、神の国は始まっています。まだ完成はしていませんが。生老病死といった苦難はあっても、犯罪や事件、紛争や自然災害があっても、悪魔の力が世に満ちていても、この世はすでに神の世界になりつつあるのです。主の復活の恵みにあずかってす、罪と死の支配から解放され、愛に満ちた輝かしい生き方をしようではありませんか。