富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「主の来臨の希望」イザヤ書52章1~10節 

2015-11-29 21:10:01 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

                       日本キリスト教 富 谷 教 会

                     週    報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

 待降節(アドベント)第1主日    2015年11月29日(日)      5時~5時50分 

           礼 拝 順 

前 奏            奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 231(久しく待ちにし) 

交読詩篇   42(涸れた谷に鹿が水を求めるように)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書   イザヤ書52章1~10節(旧p.1148)

説  教   「主の来臨の希望」      辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 241(来たりたまえわれらの主よ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏 

                                                                          次週礼拝 12月6日(日) 午後5時~5時50分

                                                                                聖書  列王記上22章1~17節  

                                                                                説教   「旧約における神の言」

                                                                                賛美歌(21)231 196 24  交読詩篇 147 

               本日の聖書 イザヤ書52章1~10節(旧p.1148

1奮い立て、奮い立て、力をまとえ、シオンよ。輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ。無割礼の汚れた者が、あなたの中に攻め込むことは再び起こらない。
2立ち上がって塵を払え、捕らわれのエルサレム。首の縄目を解け、捕らわれの娘シオンよ。
3主はこう言われる。「ただ同然で売られたあなたたちは、銀によらずに買い戻される」と。
 4主なる神はこう言われる。初め、わたしの民はエジプトに下り、そこに宿った。また、アッシリア人は故なくこの民を搾取した。5そして今、ここで起こっていることは何か、と主は言われる。わたしの民はただ同然で奪い去られ、支配者たちはわめき、わたしの名は常に、そして絶え間なく侮られている、と主は言われる。6それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るであろう。それゆえその日には、わたしが神であることを、「見よ、ここにいる」と言う者であることを知るようになる。
 7いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、と、シオンに向かって呼ばわる。
8その声に、あなたの見張りは声をあげ、皆共に、喜び歌う。彼らは目の当たりに見る、主がシオンに帰られのを。            9歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。10主は聖なる御腕の力を、国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人が、わたしたちの神の救いを仰ぐ。

     本日の説教

 イザヤ書は66章までありますが、歴史的背景や思想などの違いから、一人の預言者の書ではなく、三人の預言者の書とされています。1章から39章までは、預言者イザヤの書、40章から55章までは、無名の預言者なので、第二イザヤの書、56章から66章までは、第三イザヤの書として区別しています。今日の聖書の箇所52章は、第二イザヤの書に当たります。

   最初のイザヤは、紀元前8世紀後半、南ユダ王国の首都エルサレムで活動した預言者です。

 第二イザヤは、イザヤから200年後、イスラエルの民がバビロンに捕らわれていた捕囚の末期から、捕囚解放、そして祖国のエルサレムに帰るまでの、紀元前6世紀中頃に活動した預言者です。

 第三イザヤは、第二イザヤの弟子であったと考えられ、ユダヤ人の祖国帰還と第二神殿再建(B.C.515年)直後まで活動した預言者です。

   イザヤ書全体を通して共通しているのは、神を聖なる神としてとらえ、ヤハウェのことを「イスラエルの聖なる方(神)」と呼んでいることです。また、広い世界的視野の観点から神の言葉を語っていることです。

 イスラエルの民がバビロンへ捕らえ移されたのは、バビロニア帝国の攻撃によって、イスラエルの南ユダ王国が滅亡したからです。王や住民の重立った者たちが、三度にわたって、バビロニア帝国の首都バビロンへ捕え移されました。これがバビロン捕囚です。第一回目の捕囚の時から58年後の紀元前539年、ぺルシア王、キュロスがバビロンを攻撃し、占領しました。翌年に、「キュロスの勅令」の発布により(エズラ記1:2-4参照)、捕囚の民はエルサレムへ帰還することが許されました。

  バビロン捕囚は、度重なる預言者の悔い改めの勧告にも耳を傾けず、神への背信の罪を繰り返すユダ王国の民に対して下された神の審判でした。神と契約を結んだ、選ばれた民でありながら、国を失い、異教の地で半世紀近くもユダの民は苦難をなめました。彼らの苦しみは、単に政治的な屈辱や絶望、あるいは経済的な貧困や不安だけではなく、主なる神・ヤハウェが異教の神に負けってしまったのではないのかという失望や、自分達は神に見捨てられたのではないのかという疑惑がつのり、神に選ばれた民としての意識は失われ、将来への希望を失いかけたことでした。イスラエル人の荒れはてた心の苦しみを、第二イザヤは捕囚民の中で、自分もその苦しみを深く味わいながら、唯一の神が共にいてくださること、主なる神は必ずイスラエルをあがないたもうことを力強く語り、希望と平安をもって生きることをすすめました。

    第二イザヤは、おそらく捕囚の地で生まれた第二世代の人であり、祭儀と深く関係していた人物と推測されます。預言者として活動したのは、捕囚時代の末期です。紀元前546年から538年にかけて活動しました。

  今日の聖書の箇所52章には、「主は王となられる」という小見出しが記されています。≪主≫とは、全能の神のことです。

奮い立て、奮い立て、力をまとえ、シオンよ。輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ。無割礼の汚れた者が、あなたの中に攻め込むことは再び起こらない。ち上がって塵を払え、捕らわれのエルサレム。首の縄目を解け、捕らわれの娘シオンよ。主はこう言われる。『ただ同然で売られたあなたたちは、銀によらずに買い戻される』と。」(52・1~3)

 ≪シオン≫とは、イスラエルのエルサレム地方の歴史的な地名です。転じて、イスラエル全体のことを指しています。≪無割礼の汚れた者≫とは、ここではアッシリヤやバビロニアの異邦人を指していています。ここではシオンは≪娘≫として登場します。その娘シオンに≪立ち上がって塵を払え≫と、汚された娘シオンを神が励ますのです。≪銀によらずに買い戻される≫とはただ同然で売られたあなたたちを、神は代償金を払うことなしに買い戻し、あなたがたを救うということです。

 「主なる神はこう言われる。初め、わたしの民はエジプトに下り、そこに宿った。また、アッシリア人は故なくこの民を搾取した。そして今、ここで起こっていることは何か、と主は言われる。わたしの民はただ同然で奪い去られ、支配者たちはわめき、わたしの名は常に、そして絶え間なく侮られている、と主は言われる。それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るであろう。それゆえその日には、わたしが神であることを、『見よ、ここにいる』と言う者であることを知るようになる。」(52・4~6)

  ≪初め、わたしの民はエジプトに下り、そこに宿った。≫とは、イスラエルの民がエジプトに420年間ほど移住して寄留していたことを指しています。エジプトでの寄留、アッシリアによる搾取(これは、イスラエル北王国がアッシリア帝国によって滅ぼされ、民が奪われ、暴虐が行われたことを指しています。)を回顧した後、バビロン捕囚期のシオンに思い致します。そこでは異教の国の支配者たちがわめき、吠え、主なる神は蹂躙された。そのことに主は耐え得ない。それゆえにシオンへの救いを現す。≪見よ、ここにいる≫と語る主が、自らその存在を表明する。

  「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、と、シオンに向かって呼ばわる。その声に、あなたの見張りは声をあげ、皆共に、喜び歌う。彼らは目の当たりに見る、主がシオンに帰られのを。歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。主は聖なる御腕の力を、国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人が、わたしたちの神の救いを仰ぐ。」(52・7~10)

  預言者はここでは≪良い知らせ≫を伝える福音伝達者とされています。良い知らせ、福音とは≪平和≫と≪救い≫を告げる≪恵みの良い知らせ≫であり、信仰はこれを聞くことによって始まります。彼はシオンに向かって「あなたの神は王となられた」と叫びます。預言者は主の帰還を賛美し、その栄光を歌います。これは主なる神の即位を意味し、今より後主の永遠の王国が建設されることを言います。そのような福音を伝える者の足は≪なんと美しいことか≫という感動で始まります。主はすでに王者としてエルサレムに来たりつつあるので、オリブ山に上った先ぶれの伝令が、神王の到着を伝えます。預言者は一足先に帰って、行列をシオンの城門で出迎える見張り人の役に代わります。≪見張り≫は、向かいのオリブ山に現れた伝令の叫びを聞き、歓声を上げます。彼の歓声にエルサレムの民は和して≪喜び歌う≫のです。そして実際に彼らは主(神)の帰られるを≪目の当たりに見る≫のです。これは、捕囚民がエルサレム神殿の祭儀の用いる≪主の祭具を担≫ってエルサレムに戻って来ることを象徴しているのでしょう。

 何のために神は王としてエルサレムに帰る来るのか、それは、主が≪その民を慰め≫、この都を≪贖う≫ためです。それゆえ≪エルサレムの廃墟≫も≪歓声を上げ、共に喜び歌う≫べきです。≪主はその民を慰め、エルサレムを贖われた≫、≪主は聖なる御腕の力を、国々の民の目にあらわされ≫ました。過去形の訳されていますが、これは「預言者的完了形」と呼ばれるもので、未来のことを必ず実現すべきものと確信していい表す、ヘブライ語の特徴ある表現です。≪御腕≫とは、神の力と支配の象徴です。それゆえ、≪地の果て≫までが主の救いを見るのです。

  第二イザヤ書の40-48章においては、終始一貫してバビロン捕囚からの解放とエルサレムへの帰還が主要テーマとなっています。53章では「苦難の僕(しもべ)のうた」が歌われます。この苦難の僕とはいったい誰を指すのでしょうか。神は王になって来られる(52・7)とすでに語られています。「王」と「僕」とは全く対照的です。ここには偉大な転換があります。神から遣わされる新しい王は、この世では、僕として奉仕するのであり、苦難の僕こそ栄光の王と考えられているのです。そして神の子、ナザレのイエスは、この苦難の道を歩むことによって神の国の王として真の栄光を受けられたと新約聖書は告げています(フィリピ2・6~11)。55章の終章では、解放された民が安全に荒れ野を通って故国に帰ることが告げられています。

  現代においても、戦禍のために国外に逃れ、いつ祖国に平和がくるのか、祖国に帰れる日はいつ来るだろうか、という思いで苦難の日々を過ごしている民は大勢いま す。特にシリア共和国の避難民にとっては深刻な問題です。日本でも、大津波の被害や原発の放射能汚染で荒廃した故郷に戻ることができないでいる大勢の人たちがいます。

  主イエスは、ナザレの会堂で、預言者イザヤの巻物が渡されたとき、「主(父なる神)がわたしを遣わされたのは、捕らわれといる人々に解放を…告げ、主の恵みの告げるためである」と言われ、「この聖書のことばは、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話されました(ルカ4・16~21)。

  <今日、…実現した。>とは、 神の国はここに来ている、ということです。今は神の恵みの時である。神の約束が成就され、神の目的が実現する終末の時が、来たのだ。貧しい者や不当な扱いを受けていた者、抑圧されていた者のための変化が、今日現れるのだと、主イエスは宣言したのです。

  主イエスは、罪と死に捕らわれているわたしたちを開放し、救うためにこの世に来られた神の独り子です。わたしたしを罪と死の支配から解放し、わたしたちに聖霊を与えて神との交わりを回復してくださり、永遠の命に生きる道を開いてくださいました。この神の愛を受けて生きるとき、人々も互に兄弟姉妹として愛し合う関係が生まれます。そこにこそ真の平和の道が開かれるのです。

 

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「エレミヤの救済と回復の預言」エレミヤ記23章1~6節

2015-11-20 22:38:50 | 説教

            レンブラント1630年「悲嘆にくれる預言者エレミヤ」エルサレムの破壊を悼むエレミヤ) アムステルダム国立美術館 (かすかに、エルサレムが燃える火と逃げ出している人の姿が、左奥に描かれています。エレミヤは大きな柱に寄りかかり、足元に絨毯が見えます。エレミヤの傍らに見える金属製のものは、神殿から持ち出した聖杯なのでしょうか?二本の紐がついたものは、預言を記した巻物でしょうか?)                

             981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

       日本キリスト教 富 谷 教 会

                週    報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

 降誕前第5主日    2015年11月22日(日)     5時~5時50分 

          礼 拝 順 

               司会 永井 慎一兄

前 奏            奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 149(わがたまたたえよ) 

交読詩篇   72 (神よ、あなたによる裁きを)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書   エレミヤ記23章1~6節(旧p.1218)

説  教   「エレミヤの救済と回復の預言」   辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21)  97(羊飼いの羊飼いよ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏 

                                                       次週礼拝 11月29日(日)待降節 午後5時より。

                                                          聖書  イザヤ書52章1~10節  

                                                          説教   「主の来臨の希望」

                                                          賛美歌(21)231 232 24  交読詩篇 42 

   本日の聖書 エレミヤ記23章1~6節

  1「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と主は言われる。 2それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。

   「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」と主は言われる。

    3「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。         4彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる。

    5見よ、このような日が来る、と主は言われる。

   わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え
この国に正義と恵みの業を行う。6彼の代にユダは救われ
イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。

     本日の説教

  先週は「モーセの誕生と神の御手」という題の説教でした。モーセは紀元前1280頃の人物です。今日はエレミヤの預言について学びます。

    エレミヤは紀元前650年頃に生まれたとされている、イスラエルのユダ王国で活躍した預言者です。モーセからエレミヤの時代までの間には、およそ630年の時が過ぎています。その間、次のような時代が経過しました。

   40年間の出エジプト時代、50年間のカナン進入時代、180年間の士師時代、サウル王、ダビデ王、ソロモン王と98年続いた統一王国時代、そして統一王国は、紀元前922年に、北と南の二つに分裂しました。

  北のイスラエル王国は198年続きましたが、アッシリア帝国に攻められ、紀元前722年に滅亡しました。南のユダ王国はアッシリアの属国として存続しました。

   エレミヤが生まれたのは、バビロニア帝国が世界制覇を成し遂げたバビロニア時代(前626~539年)です。エレミヤが53歳頃の紀元前597年に、エルサレムは陥落し、ヨヤキン王は重要人物らと共に、バビロンに連行されました。

   エルサレムではゼデキヤが王として任命されたのですが、バビロニヤに反逆したので、エルサレムは包囲され、陥落し、338年続いたユダ王国は、紀元前586年に滅亡しました。エレミヤの最晩年64歳の頃です。王とその家族、側近たちは処刑され、民はバビロンへ連行されました。この時代は、イスラエルの長い歴史の中で、最も激しく危険な、悲劇的な時代だったのです。

 エレミヤの出身地はエルサレムの北東4・5キロの地点にあるベニヤミン族に属するアナトテです。アナトテはレビ人の町の一つです。ベニヤミン族は、北イスラエル王国に属する部族でしたが、エルサレムに近かったのでアッシリアの占領を免れました。

 北王国の滅亡期の預言者はホセアヤ、イザヤですが、南王国の滅亡期の預言者はエレミヤです。エレミヤが預言者として召されたのはヨシヤ王の時代の治世13年(紀元前627年)、彼が22、3歳の頃です。エレミヤの預言活動は、バビロニアの占領に抵抗したグループによって、エジプトへ連行されるまで(紀元前585年頃)まで、およそ42年間続きました。

エレミヤは召命体験を、彼が46歳の頃に、弟子バルクに命じて記述させ、これをユダのすべての人に語らせました(36・1~10)。召命の記事は、エレミヤ記1章の4~19節に記されています。

「主の言葉がわたしに臨んだ。『わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。』 わたしは言った。『ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。』 しかし、主はわたしに言われた。『若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す』と主は言われた。』」

  エレミヤの召命は、神の御言葉を真実に選民イスラエルの滅亡期に身をもって語ることでした。エレミヤは、主の言葉を、文字通り命がけで伝えた預言者です。彼はどんなに烈しい言葉であっても妥協なく語らざるを得なかったのです。

  エレミヤはエルサレム神殿で、「主の神殿、主の神殿、主の神殿とという、むなしい言葉に依り頼んではならない」(7・4)と厳しく非難し、このまま形ばかりの礼拝を続けるなら、エルサレムは滅亡するであろうと預言したので、人々の反感をかい、迫害されます(26・8)。エレミヤの生涯のうちで、最も苦悩に満ちた時期でした。

  「エレミヤの告白」が、20章7~20節にあります。

 「わたしは一日中、笑い者にされ、人が皆、わたしを嘲ります。わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり『不法だ、暴力だ』と叫ばずにはいられません。主の言葉のゆえに、わたしは一日中恥とそしりを受けねばなりません。主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思っても、主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります。押ささえつけておこうこうとして、わたしは疲れ果てました。……呪われよ、わたしの生まれた日は。母がわたしを産んだ日は祝福されてはならない。……なぜ、わたしは母の胎から出て労苦と嘆きに遭い、生涯を恥の中に終わらねばならないのか。

 神に対する嘆きの訴えです。エルサレムの滅亡が近づき、国の危機を預言する真の預言者エレミヤと、泰平を預言する、宗教的に最高の地位にあり、大きな権力を握っていた偽りの預言者の対立がいよいよ激しくなったと時の告白です。エレミヤは、神の都の平安をみだす危人物とされ、その宮を冒涜する反逆者として打たれ、捕らえられ、足かせをもってつながれました(20・2)。エレミヤは内村鑑三などから「涙の預言者」と呼ばれていますが、それは彼の味わった苦悩の深さを示す表現です。

 エレミヤ記1章1・1~3節には、エレミヤが活躍した時の王の名が3人記されています。しかし治世の短い王は略されています。ヨシヤ王(治世31年)、[ヨアハズ(治世3か月)]、ヨヤキム(治世11年)、[ヨヤキン(治世3か月)]、ゼデキヤ(治世11年)です。  

  今日の聖書の箇所・23章は、バビロン捕囚期の回復の預言です。同様の回復の預言は、3・14~18、30章、31章、33章にも見られます。この予言は、バビロニア帝国によってエルサレムが陥落し、イエスラエルの国家は滅び、民は敵地バビロンに捕らわれて行った後の預言です。

 「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と主は言われる。それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。」(1、2節)

  ここで言っている牧者たちとは、支配者たちであり、ユダの王たちのことです。牧者である彼らはかえって狼の如く、神の羊の群れを散らす。この牧者たちは、国を滅ぼし、バビロンへの捕囚に導いたからです。

  ユダの王たちとは、22章10節以下にその名が記されています。宗教改革を行ったヨシヤ王の悲運について述べたあと、22章11節には、ヨシヤの子シャルム(=ヨアハズの幼名)、18節には、ヨシヤの子ヨヤキム、34節では、ヨヤキムの子コンヤ(エコンヤの表記もある=ヨヤキン)の三人の王の名があげられ、彼らが申命記に記されたような神の律法を守らなかったことを厳しく批判し、ユダの王であった者たちに対する罰を告げています。 

  ≪正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人の血を流してはならない(22・3)≫。これが律法の要約です。ヨヤキムは、≪不当な利益を求め、無実の人の血を流し、虐げて圧制を行っている≫と批判されています。

  「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる。」(3、4節)

  エレミヤの預言は、バビロニアによってイスラエルが滅亡し、国を失ったのを境にして、その調子が一変します。エレミヤは、真実の預言者として、ただ祖国の災いと滅亡を預言するだけでなく、救済と回復とを予告します。

  ≪群れの残った羊とは、ここでは捕囚として散らされた民のことです。神が自ら牧者として、散らされた民を集め、もとの牧場であるユダの地に帰らせ、新しい牧者を立てると言います。

  「見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う。彼の代にユダは救われイスラエルは安らかに住む。彼の名は、『主は我らの救い』と呼ばれる。」(5,6節)

  ≪枝≫とは、メシアを象徴する言葉です。一度切り倒されたダビデの木の株から一つの若枝が生じるとして、イザヤ書の4・2、11・1などの預言と対応しています。

 「その日には、イスラエルの生き残った者にとって、主の若枝は麗しさとなり、栄光となる。この地の結んだ実は誇りとなり、輝きとなる。」(イザヤ4・2)

  エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち…」(イザヤ書11・1) 

  ≪ダビデ≫の名は、新約聖書の良い羊飼いとしてのイエスを表しています。バビロンで召命を受けたエゼキエルの書34章にも「イスラエルの牧者」についての長い回復の預言が見られます。

  エレミヤ書のこの箇所は詩文であり、本来の預言としての格調を持っています。この王は、詩編72・2-~4で歌われているような王の理想を実行します。≪王は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う。≫彼は神の意志を行うので、≪主は我らの救い≫と呼ばれます。エレミヤもまた新しい理想的な新しい王がダビデの家に生まれることを期待したのです。

  イザヤと共に、エレミヤは「最大の預言者」と言われています。エレミヤは祖国の罪に対する神の審判だけを叫んだ滅亡の預言者ではありません。彼は次のように預言しています。エレミヤ書31章27,28節では新し時代と到来を告げ、

わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる(33節)」という新しい契約が結ばれます。

 エレミヤの最後は明らかではありませんが、エジプトで石で打たれて殉教したと言われています。彼の預言者生活は闘争と緊張の連続でした。

  エレミヤの、「口だけで神に近づき、心では神から遠ざかる」形式的な宗教への徹底的な批判は、真実なる神との「新し契約」の主張に至りました。それがキリストの血による「新しい契約」によって成就するのです。それは、この世のすべての人のための罪の赦しであり、神との交わりの回復であり、≪神、われらと共にいます≫ということが実現しました。

 (読者の方は、記事一覧から、2014年8月10日の説教「『神の真実』を説いた涙の預言者」をお読みいただければ幸いです。)

 

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「モーセの誕生と神の御手」出エジプト記2章1~10節

2015-11-13 14:15:13 | 説教

                  ↑  世界遺産・ルクソールの「アブシンベル神殿」の四体のラムセス二世像 

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

日本キリスト教 富 谷 教 会

      週    報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

 降誕前第6主日    2015年11月15日(日)      5時~5時50分 

          礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21)  33(主に従う人よ、主によって喜び歌え) 

交読詩篇   84(万軍の主よ、あなたのいますところは)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書   出エジプト記2章1~10節(旧p.95)

説  教    「モーセの誕生と神の御手」    辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 458(信仰こそ旅路を)

聖餐式    78(わが主よ、ここに集い)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏  

                                                      次週礼拝 11月22日(日)午後5時~5時50分

                                                          聖書  エレミヤ記23章1~6節説教  

                                                          説教   「王の職務」

                                                          賛美歌(21)149 97 24  交読詩篇 

本日の聖書 出エジプト記2章1~10節

  1レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。 2彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた。3しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた。

     4その子の姉が遠くに立って、どうなることかと様子を見ていると、5そこへ、ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りて来た。その間侍女たちは川岸を行き来していた。王女は、葦の茂みの間に籠を見つけたので、仕え女をやって取って来させた。6開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた。王女はふびんに思い、「これは、きっと、ヘブライ人の子です」と言った。7そのとき、その子の姉がファラオの王女に申し出た。「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」

     8「そうしておくれ」と、王女が頼んだので、娘は早速その子の母を連れて来た。9王女が、「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当てはわたしが出しますから」と言ったので、母親はその子を引き取って乳を飲ませ、10その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行った。その子はこうして、王女の子となった。王女は彼をモーセと名付けて言った。「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから。」

               本日の説教

    創世記はヨセフ物語(37章~50章)で終わります。アブラハムの子はイサク、イサクの子はヤコブです。ヨセフはヤコブの息子です。ヨセフは兄達に奴隷として売られてエジプトへ行きますが、ファラオ(エジプト王)の夢を解いたことから出世し、エジプトの宰相になります。カナンの地が激しい飢饉に襲われたとき、ヨセフの父ヤコブと兄弟たち十一人の一族が、ヨセフを頼ってエジプトに移住し、ヨセフの庇護のもと、ゴシェンの地に定住しました。そこでヤコブは死に、ヨセフも長寿を全うして死にます。

 創世記の族長物語(アブラハム・イサク・ヤコブ)が大家族の歴史物語であったのに対し、出エジプト記からは民族の歴史の叙述になります。この橋渡しをしたのがヨセフ物語でした。

 イスラエルの人達は、ヨセフの時代は祭司並みの特権階級でした。これに対して、出(しゅつ)エジプト物語になると、イスラエル人は被抑圧階級、迫害を受けるものとなります。創世記と出エジプト記の間には、実に四百年という時間が流れているのです。イスラエル人はエジプトで外国人労働者として厳しい労働に組み込まれ、奴隷という身分ではないが、激しい労働に従事させられました。イスラエル人はファラオのために貯蔵の町、ピトムとラメセスを建てました。ラメセス二世(紀元前1290~1224年)の頃でした。

    メンフィスにあるラムセス二世の巨大寝像

    ラメセス二世は権力を誇示するために、エジプト各地に記念物を造営させています。アブ・シンベル神殿に残された高さ20mもの座像4基もその一つです。

 出エジプト記1章は、イスラエル人のエジプトでの公の事業のために、一定期間課せられ重労働の苦しみと、ヘブライ人の勢力を弱めるために、ファラオは助産婦に男児殺しを命じた話が記されています。そんな中でモーセが生まれたのです。

  <ヘブライ人>とは、イスラエル人の古代名です。<ヘブライ>はヘブライ語の<イブリー>に由来し、「越えゆく」「渡り歩く」の意があり、ヘブライ人は、「(ユーフラテス川の向こうから)渡って来た者」を意味し、川を渡ってきた遊牧民族をさしたものです。旧約聖書ではイスラエル人を外国人(エジプト人など)と対比させるときに用いられています。

  イスラエルのレビ族の夫婦に一人の男の子が生まれました。6章20節(民数記26・59)によると、アムラムとその妻ヨケベドの夫婦です。母はその子がかわいかったのを見て3ケ月の間エジプト人の目から隠していましたが、もう隠しきれなくなり、その赤子をパピルス(ナイル河畔に生える水草)で編んだ籠を用意し、アスファルトとピッチ(黒色で粘弾性のある樹脂)で防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置きました。

  籠は、ヘブライ語では<テヴァーハ>ですが、ノアの箱舟の「箱舟」と同じ語です。神の保護を約束された容器を意味します。聖書はモーセがノアと同じように特別の導きがあったことを暗示しています。

  その子の姉がどうなるかと様子を、遠くに立って見ていると、そこへ、水浴びをしようと川に下りてきたファラオの王女がその籠を見つけ、仕え女をやって取って来させました。開けてみると男の赤ん坊が泣いていました。

                                          

                  フェルメールのモーセ発見   1670年アイルランド・ナショナル・ギャラリー所蔵

     王女はふびんに思い、「これは、きっと、ヘブライ人の子です」と言いました。そのとき、その子の姉が走り寄って「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りしょうか。」と言いました。「そうしておくれと王女が頼んだので、娘は早速その子の母を連れて来ました。

   王女が、「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当てはわたしが出しますから』と言ったので、母親はその子を引き取って乳を飲ませ、その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行きました。その子はこうして、王女の子となりました。

 王女は彼をモーセと名付けて、「水の中からからわたしが引き上げた(マーシャー)のですから」と言いました。「モーセ」はヘブル語では「モーシェ」、「引き上げる」は「マーシャー」です。

   エジプト王が助産婦に命じたのは、ヘブライ人の女の出産を助けるとき、男の子なら殺せという命令でした。助産婦は神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにしまかったので、ファラオは全国民に「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め」と命じたのです。しかし、すべてはむだでした。一人の男の子が網から逃れ出て、その民の救出者となったのです。

   モーセの両親がモーセを隠したのは信仰によるものであるとヘブライ人への手紙11・22で語っています。「信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。」両親が完全に防水したパピルスの籠の赤子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間においたときも、神の守りと助けを信じて手放したと思われます。両親がこの子の運命を神様に委ねたのです。姉がどうなるかと遠くから見守っていたのは、母の言いつけに従ったのでないかと思われます。また赤子の弟のことを心配し思いやる行為の表れでした。なんのためらいも、恐れももなく、赤子を抱き上げた王女にとっさに駆け寄って乳母としての母を紹介すします。この姉はミリアムと思われます。神様に委ねた子が、再び神様によって母に託されたのです。こうしてモーセは実母のもとに戻り、実母に育てられ、イスラエル人としの自覚を持つことになります。

   王女は赤ん坊が父親の下した殺害命令の対象であることを十分知りながら、自分の子供として養う決意をしました。これは大きな罪を犯すことに他なりません。それどころか、エジプト王女は継母として少年を「モーセ」と名付け、王室に養子として迎えたことを公式に表明したのです。

  仕方なく捨てられた捨て子が不思議にもファラオの王女に助けられ、守られるこの物語には、神は直接現れてはいません。モーセの誕生は、たとえ目には見えなくとも、神の御手の導きがあったことを思わせられます。

  「主は高い天から御手を遣わしてわたしをとらえ、大水の中から引き上げてくださる。敵は力があり、わたしを憎む者は勝ち誇っているが、なお、主はわたしを救い出される」(詩編18・17,18)。

  このことばは、モーセの出生のとき救われた神の御手にも通じることばです。

  このモーセこそ、やがて強制労働の苦しみの中にいたイスラエルの民をエジプトの地から救い出す偉大な民族的、宗教的指導者となるのです。モーセを生み出し、世に送り出すために、母の必死な努力、姉の気転、王女の勇気と不憫に思い養子として育てた慈愛があったこと、更にまた神の御手と導きがあったことを忘れてはなりません。後に、モーセはホレブの山(シナイ山)で主なる神の声を聞きます。

  「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫びを聞き、その痛みを知った。…わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルをエジプトから連れ出すのだ。」(3・7~10)神がすべての有様を見ておられたと言っています。

  「主は天から見渡し、人の子らをひとりひとり御覧になり御座を置かれた所から、地に住むすべての人に目を留められる。人の心をすべて造られた主は、彼らの業をことごとく見分けられる。」(詩編33・13~15)

 「主は国々の計らいを砕き、諸国の民の企てを挫かれる。主の企てはとこしえに立ち、御心の計らいは代々に続く。」(詩編33・10,11)

 

 

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「わたしが示す地に行きなさい」創世記12章1~9節

2015-11-07 18:40:46 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

日本キリスト教 富 谷 教 会

      週    報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

    降誕前第7主日    2015年11月9日(日)   5時~5時50分 

         礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 151(主をほめたたえよ) 

交読詩篇   71(主よ、御もとに身を寄せます)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書   創世記12章1~9節(旧p.15)

説  教    「わたしが示す地に行きなさい」   辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 517(神の民よ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏  

                                                                      次週礼拝 11月15日(日)午後5時~5時50分

                                                                               聖書  出エジプト記2章1~10節

                                                                               説教  「救いの約束(モーセ)」

                                                                               賛美歌(21)155 458 24  交読詩篇 84

本日の聖書 創世記12章1~9節

   1主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷の父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。2わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。3あなたを祝福する人をわたしは祝福しあなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」

     4アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。

      アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。5アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った。6アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた。

      7主はアブラムに現れて、言われた。

      「あなたの子孫にこの土地を与える。」

      アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。

    8アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。 9アブラムは更に旅を続け、ネゲブ地方へ移った。

      本日の説教

   創世記11章前半で創世記の第一部であるいわゆる神話の部分が終わって、12章から第二部の族長伝説に入ります。

    創世記11章26節から32節までのところには、アブラハムの父テラの系図が記し、アブラハム物語の導入部になっています。

  アブラハム[多くの者の父の意味]という名は神によって改名されるまでは、アブラム[高められた父]という名でした。父の名はテラで、弟はナホルで、もう一人の弟の名はハランでした。ハランにはロトが生まれました。アブラハムの生まれ故郷はカルデアのウルです。

  アブラハムの妻の名はサライ。神によって改名された名で、初めはサラでした。アブラハムの弟ナホルの妻の名はルカでした。ミルカは妹ハランの娘です。ハランにはもう一人娘がいて、名はイスカでした。アブラハムの妻サライは不妊の女で子供ができませんでした。

                テラ

                 ↓ 

   アブラハム        ナホル            ハラン

   妻サライ(異母兄弟)  妻ミルカ(ハランの娘)      ↓

      創世記20・12                娘ミルカ、息子ロト、娘イスカ

    テラは、息子アブラハムと孫ロトと嫁のサライを連れてカルデアのウルを出発して、カナン地方に向かったが、ハラン[人名のハランと地名のハランは原語では綴り字が違います]まで来ると、そこにとどまって生涯を終えました。(地名のウル、カナン、ハランは、新共同訳聖書巻末の1聖書の古代世界を参照)

        

   ≪ヨシュア記24:2-3にはウルという地名は出ませんが、その地は「ユーフラテス川の向こう」にあり、そこでアブラムの父テラは、異教の神々へ仕えていたことが記されています。神はアブラムたちを、そのような異教的生活の地から連れ出して、約束の地へと導き出されたと考えらえます。ウルはユーフラテス川下流沿岸の古代都市です。ハランは同じユーフラテス川上流の都市です。

  創世記12章には、アブラハムの召命と移住が記されます。主はアブラハムに、≪あなたは生まれ故郷の父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい≫と命じます。≪生まれ故郷≫は直訳すると、<あなたの地から、あなたの親族から>となります。ハランは生まれ故郷ではありません。≪ハラン≫から離れて、ということです。わたしが示す地に行きなさい≫は、神の目指す新しい共同体の成立する場へ向けての出発が強く促されます。祝福の約束が続きます。<ハラン>は、現在のトルコの東の方の町ウルファに、ハランの遺跡があります。シリア国境に近い地です。

  ≪わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように≫。アブラハムには罪と呪いに陥った人類を救うための仲介者としての使命を与えられるのです。選民イスラエルの歴史がアブラハムから始まるのです。アブラハムはイスラエルの父と言われ、イスラエル民族の始祖です。

   アブラハムは甥のロトと共に、主の言葉に従って旅立ました。紀元前1950年頃、エジプト第十二王朝(1991~1778)時代のことです。(ちなみにエジプト初期王朝は、紀元前3125ころから、首都メンフィスで始まっています。) 

   主はアブラハムが向かう先を≪わたしが示す地≫としか言わなかったが、五節では、アブラハムはそれをカナン地方であると理解しています。アブラハムの父テラがアブラハム、サラ、ロトを連れてカルデアのウルを出発して向かったのがカナン地方であったここから、テラもアブラハムと同じように主から命令を受けたのではないかと思われます。15章7節で、主はアブラハムに「わたしはあなたをカルデアのウルから導き出した主である」と言っています。

  アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳でした[アブラハムは百七十五歳まで生きたとされています]。アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入りました。

  アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来ました。当時、その地方にはカナン人が住んでいました。 ≪シケム≫はカナン地方のほぼ中心に位置しています。(聖書巻末の4統一王国時代のシケムの位置を参照。)シケムの聖所、モレの樫の木は一種の聖木で神が託宣を与える場でした。7節では主が、この場に顕現し、カナン地方をアブラハムの子孫与えるとの約束をアブラハムにします。アブラハムは彼に現れた主のために、そこに祭壇を築きました。シケムの聖所はカナン先住民の聖所で、エール礼拝が行われていました。

   主が言われた≪わたしが示す地≫は、やはりカナン地方であったのだが、カナン地方にはすでにカナン人が住んでいたので、アブラハムはここに住むことが出来ませんでした。アブラハムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼びました。≪ベテル≫という地名は、ヤコブが旅の途中、夢を見た地で、「神の家」という意味です。その町はそれまではルズと呼ばれていました。≪西にベテル、東にアイ≫は、 13章の物語の舞台となるところです。≪主の御名を呼んだ≫とは祭儀を行ったということです。

   アブラハムは更に旅を続け、ネゲブ地方へ移りました。≪ネゲブ地方≫はユダ山地の南側の地域のことです。

   ヘブライ人への手紙11章8節では、「信仰によって、アブラハムは、自分の財産として受け継ぐことになる土地に出ていくように召し出されると、これに服従し、行く先も知らずに出発したのです」と記しています。アブラハムは住み慣れた土地を離れ、親族と分かれて旅立ったのは大きな犠牲を払って神の言葉に信頼して行動したのであり、「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」(ヘブライ11・1)信仰によるものでした。アブラハムは、<信仰の父>と呼ばれるにいたった人です。創世記25章10節まで、アブラハムの物語は続きます。

  「信仰によってアブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、…幕屋に住みました。…自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを言い表したのです。…実際は、更にまさった故郷、天の故郷を熱望していたのです。…神は彼らのために都を準備されていたからで」(ヘブライ11・9~16)。

   わたしたちにも、勇気をもって決断しなければならないことがあります。アブラハムの場合のように、人生の転機に立たされた時には、不安があっても、神のみこころを求め、神の導きを信じて従い、必ず神が守って下さるという神への信頼に立っことが、わたくしたちを勇気ある決断に導きます。

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永眠者記念礼拝説教「わたしは道であり、真理であり、命である」

2015-11-05 11:35:13 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

日本キリスト教 富 谷 教 会

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

   永眠者記念礼拝    2015年11月3日(火・文化の日) 11時~11時50分 

       礼 拝 順 序

招 詞    詩編68篇20-21節

      「主をたたえよ。日々、わたしたちを担い、救われる神を。この神はわたしたちの神。主、死から解き放つ者。」

讃美歌(21) 492(み神をたたえる心こそは) 

交読詩篇   84(万軍の主よ、あなたのいますところは)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書   ヨハネによる福音書14章1~6節 (新p.196)

説  教   「わたしは道であり、真理であり、命である」     辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 382(力に満ちたる)

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏  

  本日の聖書 ヨハネによる福音書14章1~6節

  14:1「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。 14:2わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。 14:3行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。 14:4わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」

14:5トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」

14:6イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

     説 教

 「永眠者記念礼拝」とは、神に召されて亡くなった方々を覚えて礼拝することです。 

 「命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。…いかに幸いなことでしょう。あなたの家に住むことができるなら、まして、あなたを賛美することができるなら(詩編84・3,5)」、とあるように、今は天に迎えられ、神を賛美している方々を覚えながら、わたしたちはみ神をたたえるのです。

 アブラハムから始まった創造主への信仰は、「わたしの示す地に行きなさい」と言われた神に、聞き従うことから始まりました。それは、紀元前1950年頃、エジプト第二王朝時代のことです。すでに、アブラハムを呼び出された時から、神は世界の民を救うために御子・キリストを世に与えるご計画を立てておられました。

 イエス・キリストによる救いが分かるのは、信仰によらなければなりません。信仰は神のことばを聞くとき、キリストの福音を聞くときに与えられます。聖霊の恵みによって、神の愛、キリストの愛が分かり、キリストの復活も信じることができるようになるのです。信仰は神がわたしたちに与えてくださる恵みによって生じるのです。

 聖書は人間の罪や死を次のように教えています。人間は、人間を造られた神と霊的に交わり、神に生きる特別な存在として創造されました。それにも関わらず、神に背を向け、神に従うのではなく、神から自由になって、自分が主人となり、自分の思いに従って生きる者となりました。<罪>とは、神に背を向かせる方向に働く霊的な力であり、人間に及ぼす支配力です。人間は、この罪に陥ったため、神との関係は破れ、神との交わりを絶たれ、罪のゆえに死ぬべき存在となりました。この罪によって神との関係だけでなく、人間同士の間の愛の関係も損なうことになりました。

 罪の故の死は、ただ身体が死ぬということではなく、霊的存在としての人間が、神との霊的交わり失い、霊的に死んでいる状態を言います。身体の死はその結果であり、死とはそのような霊的な死をもたらす支配力を言います。罪と死は一体として人間を支配する霊的な力なのです。この罪があるために、神の前には正しい者は一人もいないのです。罪の自覚が生じるのはそのためです。

 罪の支配下にある人間へ、罪へ誘う欲情が働き、死に至る実を結ぶせます。それが、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、貪欲といったものです。このような罪を犯す者は神の怒りのもとにあります。罪にそまっているわたしたちは、行いによって神に正しい者と認められることは不可能です。御子キリストの救いを信じる信仰によってのみ、正しい者とされ、神との霊的な交わりを取り戻すことができるのです。神の霊を受けて歩む人間は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制の実を結ぶ人になります。

  神の御子イエス・キリストは、この罪と死の支配するこの世に来られ、十字架の死によるあがないによって人間の罪を赦し、陰府(よみ)にまで降って、死を打ち破って復活し、天に昇られました。わたしたちのために天に場所を用意してくださるためです。

 洗礼式は、イエスの十字架の死とあずかって、イエスと共に死に、イエスの復活にあずかって、新しい命をいただき、聖霊を受けて生きる者とされるための式です。

 イエスは、最後の晩餐のあとの告別説教で、弟子たちに、わたしは「場所を用意しに行く」と言われました。イエスは、これから受ける苦しみ(十字架の死)と栄光(復活)を、弟子たちが父の家に入ることができるようになるために準備しておられます。イエスは道であり、真理であり、命です。イエスを通らなければ、だれも父のもとに行くことができないのです。

 信仰の証人となった聖徒たちは、様々な困難な闘いの中で、最後まで信仰を捨てず、この世の幸いよりも、永遠の御国に憧れて、その生涯を走り終えました。そして御国へと力強く凱旋されたのです。人生は死をもって終わるものではありません。死はしばらくの間の眠りです。そして、永遠の光の中で再び目覚めるとき、私たちは、キリスト顔と顔とを合わせてお会いすることになり、信徒同士もまた神を賛美し、手と手をとり合って共に喜びに溢れるでしょう。その喜びを奪い去る者はだれもいません。死に勝利させてくださる十字架と復活の主と、御子を世に下さった父なる神に感謝をささげましょう。

   祈 り

  聖なる天の父よ、きょうわたしたちは過ぐる日みもとに召された辺見哲三兄、加藤英治兄、加藤昌子(よしこ)姉を記念して、世に会った日をしのび、またご遺族の上に主の慰めを祈り、礼拝をささげるためにここに集まりました。どうか、み言葉によって主の深いみ旨をさとらしめ、主の慰めとみ恵みとを豊かに与えてください。兄弟、姉妹が世にあったとき、主にある交わりを与えられ、共に主の恵みあずかったことを深く感謝いたします。

  今は主のみもとに受け入れられ、平安と祝福とのうちにあることを信じて、み名をあがめます。また、わたしたちも兄弟姉妹のよい模範にならい、心を尽くして主に仕える者とならせて下さい。救い主イエス・キリストのみ名によってお願いいたします。アーメン。

 

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