981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403
日本キリスト教 富 谷 教 会
週 報
年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』
聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)
待降節(アドベント)第1主日 2015年11月29日(日) 5時~5時50分
礼 拝 順 序
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 231(久しく待ちにし)
交読詩篇 42(涸れた谷に鹿が水を求めるように)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
聖 書 イザヤ書52章1~10節(旧p.1148)
説 教 「主の来臨の希望」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 241(来たりたまえわれらの主よ)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 12月6日(日) 午後5時~5時50分
聖書 列王記上22章1~17節
説教 「旧約における神の言」
賛美歌(21)231 196 24 交読詩篇 147
本日の聖書 イザヤ書52章1~10節(旧p.1148)
1奮い立て、奮い立て、力をまとえ、シオンよ。輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ。無割礼の汚れた者が、あなたの中に攻め込むことは再び起こらない。
2立ち上がって塵を払え、捕らわれのエルサレム。首の縄目を解け、捕らわれの娘シオンよ。
3主はこう言われる。「ただ同然で売られたあなたたちは、銀によらずに買い戻される」と。
4主なる神はこう言われる。初め、わたしの民はエジプトに下り、そこに宿った。また、アッシリア人は故なくこの民を搾取した。5そして今、ここで起こっていることは何か、と主は言われる。わたしの民はただ同然で奪い去られ、支配者たちはわめき、わたしの名は常に、そして絶え間なく侮られている、と主は言われる。6それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るであろう。それゆえその日には、わたしが神であることを、「見よ、ここにいる」と言う者であることを知るようになる。
7いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、と、シオンに向かって呼ばわる。
8その声に、あなたの見張りは声をあげ、皆共に、喜び歌う。彼らは目の当たりに見る、主がシオンに帰られのを。 9歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。10主は聖なる御腕の力を、国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人が、わたしたちの神の救いを仰ぐ。
本日の説教
イザヤ書は66章までありますが、歴史的背景や思想などの違いから、一人の預言者の書ではなく、三人の預言者の書とされています。1章から39章までは、預言者イザヤの書、40章から55章までは、無名の預言者なので、第二イザヤの書、56章から66章までは、第三イザヤの書として区別しています。今日の聖書の箇所52章は、第二イザヤの書に当たります。
最初のイザヤは、紀元前8世紀後半、南ユダ王国の首都エルサレムで活動した預言者です。
第二イザヤは、イザヤから200年後、イスラエルの民がバビロンに捕らわれていた捕囚の末期から、捕囚解放、そして祖国のエルサレムに帰るまでの、紀元前6世紀中頃に活動した預言者です。
第三イザヤは、第二イザヤの弟子であったと考えられ、ユダヤ人の祖国帰還と第二神殿再建(B.C.515年)直後まで活動した預言者です。
イザヤ書全体を通して共通しているのは、神を聖なる神としてとらえ、ヤハウェのことを「イスラエルの聖なる方(神)」と呼んでいることです。また、広い世界的視野の観点から神の言葉を語っていることです。
イスラエルの民がバビロンへ捕らえ移されたのは、バビロニア帝国の攻撃によって、イスラエルの南ユダ王国が滅亡したからです。王や住民の重立った者たちが、三度にわたって、バビロニア帝国の首都バビロンへ捕え移されました。これがバビロン捕囚です。第一回目の捕囚の時から58年後の紀元前539年、ぺルシア王、キュロスがバビロンを攻撃し、占領しました。翌年に、「キュロスの勅令」の発布により(エズラ記1:2-4参照)、捕囚の民はエルサレムへ帰還することが許されました。
バビロン捕囚は、度重なる預言者の悔い改めの勧告にも耳を傾けず、神への背信の罪を繰り返すユダ王国の民に対して下された神の審判でした。神と契約を結んだ、選ばれた民でありながら、国を失い、異教の地で半世紀近くもユダの民は苦難をなめました。彼らの苦しみは、単に政治的な屈辱や絶望、あるいは経済的な貧困や不安だけではなく、主なる神・ヤハウェが異教の神に負けってしまったのではないのかという失望や、自分達は神に見捨てられたのではないのかという疑惑がつのり、神に選ばれた民としての意識は失われ、将来への希望を失いかけたことでした。イスラエル人の荒れはてた心の苦しみを、第二イザヤは捕囚民の中で、自分もその苦しみを深く味わいながら、唯一の神が共にいてくださること、主なる神は必ずイスラエルをあがないたもうことを力強く語り、希望と平安をもって生きることをすすめました。
第二イザヤは、おそらく捕囚の地で生まれた第二世代の人であり、祭儀と深く関係していた人物と推測されます。預言者として活動したのは、捕囚時代の末期です。紀元前546年から538年にかけて活動しました。
今日の聖書の箇所52章には、「主は王となられる」という小見出しが記されています。≪主≫とは、全能の神のことです。
「奮い立て、奮い立て、力をまとえ、シオンよ。輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ。無割礼の汚れた者が、あなたの中に攻め込むことは再び起こらない。ち上がって塵を払え、捕らわれのエルサレム。首の縄目を解け、捕らわれの娘シオンよ。主はこう言われる。『ただ同然で売られたあなたたちは、銀によらずに買い戻される』と。」(52・1~3)
≪シオン≫とは、イスラエルのエルサレム地方の歴史的な地名です。転じて、イスラエル全体のことを指しています。≪無割礼の汚れた者≫とは、ここではアッシリヤやバビロニアの異邦人を指していています。ここではシオンは≪娘≫として登場します。その娘シオンに≪立ち上がって塵を払え≫と、汚された娘シオンを神が励ますのです。≪銀によらずに買い戻される≫とはただ同然で売られたあなたたちを、神は代償金を払うことなしに買い戻し、あなたがたを救うということです。
「主なる神はこう言われる。初め、わたしの民はエジプトに下り、そこに宿った。また、アッシリア人は故なくこの民を搾取した。そして今、ここで起こっていることは何か、と主は言われる。わたしの民はただ同然で奪い去られ、支配者たちはわめき、わたしの名は常に、そして絶え間なく侮られている、と主は言われる。それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るであろう。それゆえその日には、わたしが神であることを、『見よ、ここにいる』と言う者であることを知るようになる。」(52・4~6)
≪初め、わたしの民はエジプトに下り、そこに宿った。≫とは、イスラエルの民がエジプトに420年間ほど移住して寄留していたことを指しています。エジプトでの寄留、アッシリアによる搾取(これは、イスラエル北王国がアッシリア帝国によって滅ぼされ、民が奪われ、暴虐が行われたことを指しています。)を回顧した後、バビロン捕囚期のシオンに思い致します。そこでは異教の国の支配者たちがわめき、吠え、主なる神は蹂躙された。そのことに主は耐え得ない。それゆえにシオンへの救いを現す。≪見よ、ここにいる≫と語る主が、自らその存在を表明する。
「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、と、シオンに向かって呼ばわる。その声に、あなたの見張りは声をあげ、皆共に、喜び歌う。彼らは目の当たりに見る、主がシオンに帰られのを。歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。主は聖なる御腕の力を、国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人が、わたしたちの神の救いを仰ぐ。」(52・7~10)
預言者はここでは≪良い知らせ≫を伝える福音伝達者とされています。良い知らせ、福音とは≪平和≫と≪救い≫を告げる≪恵みの良い知らせ≫であり、信仰はこれを聞くことによって始まります。彼はシオンに向かって「あなたの神は王となられた」と叫びます。預言者は主の帰還を賛美し、その栄光を歌います。これは主なる神の即位を意味し、今より後主の永遠の王国が建設されることを言います。そのような福音を伝える者の足は≪なんと美しいことか≫という感動で始まります。主はすでに王者としてエルサレムに来たりつつあるので、オリブ山に上った先ぶれの伝令が、神王の到着を伝えます。預言者は一足先に帰って、行列をシオンの城門で出迎える見張り人の役に代わります。≪見張り≫は、向かいのオリブ山に現れた伝令の叫びを聞き、歓声を上げます。彼の歓声にエルサレムの民は和して≪喜び歌う≫のです。そして実際に彼らは主(神)の帰られるを≪目の当たりに見る≫のです。これは、捕囚民がエルサレム神殿の祭儀の用いる≪主の祭具を担≫ってエルサレムに戻って来ることを象徴しているのでしょう。
何のために神は王としてエルサレムに帰る来るのか、それは、主が≪その民を慰め≫、この都を≪贖う≫ためです。それゆえ≪エルサレムの廃墟≫も≪歓声を上げ、共に喜び歌う≫べきです。≪主はその民を慰め、エルサレムを贖われた≫、≪主は聖なる御腕の力を、国々の民の目にあらわされ≫ました。過去形の訳されていますが、これは「預言者的完了形」と呼ばれるもので、未来のことを必ず実現すべきものと確信していい表す、ヘブライ語の特徴ある表現です。≪御腕≫とは、神の力と支配の象徴です。それゆえ、≪地の果て≫までが主の救いを見るのです。
第二イザヤ書の40-48章においては、終始一貫してバビロン捕囚からの解放とエルサレムへの帰還が主要テーマとなっています。53章では「苦難の僕(しもべ)のうた」が歌われます。この苦難の僕とはいったい誰を指すのでしょうか。神は王になって来られる(52・7)とすでに語られています。「王」と「僕」とは全く対照的です。ここには偉大な転換があります。神から遣わされる新しい王は、この世では、僕として奉仕するのであり、苦難の僕こそ栄光の王と考えられているのです。そして神の子、ナザレのイエスは、この苦難の道を歩むことによって神の国の王として真の栄光を受けられたと新約聖書は告げています(フィリピ2・6~11)。55章の終章では、解放された民が安全に荒れ野を通って故国に帰ることが告げられています。
現代においても、戦禍のために国外に逃れ、いつ祖国に平和がくるのか、祖国に帰れる日はいつ来るだろうか、という思いで苦難の日々を過ごしている民は大勢いま す。特にシリア共和国の避難民にとっては深刻な問題です。日本でも、大津波の被害や原発の放射能汚染で荒廃した故郷に戻ることができないでいる大勢の人たちがいます。
主イエスは、ナザレの会堂で、預言者イザヤの巻物が渡されたとき、「主(父なる神)がわたしを遣わされたのは、捕らわれといる人々に解放を…告げ、主の恵みの告げるためである」と言われ、「この聖書のことばは、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話されました(ルカ4・16~21)。
<今日、…実現した。>とは、 神の国はここに来ている、ということです。今は神の恵みの時である。神の約束が成就され、神の目的が実現する終末の時が、来たのだ。貧しい者や不当な扱いを受けていた者、抑圧されていた者のための変化が、今日現れるのだと、主イエスは宣言したのです。
主イエスは、罪と死に捕らわれているわたしたちを開放し、救うためにこの世に来られた神の独り子です。わたしたしを罪と死の支配から解放し、わたしたちに聖霊を与えて神との交わりを回復してくださり、永遠の命に生きる道を開いてくださいました。この神の愛を受けて生きるとき、人々も互に兄弟姉妹として愛し合う関係が生まれます。そこにこそ真の平和の道が開かれるのです。