↑ 「霊による命」 ローマの信徒への手紙8章1~17節
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日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
待降節第一主日(アドベント) 2020年11月29日(日)午後5時~5時50分
年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)
礼 拝 順 序
司会 齋藤 美保姉
前 奏(242の1:キャンドル点灯) 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 355(主をほめよ、わが心)
交読詩編 24(地とそこに満ちるもの)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)ローマの信徒への手紙8章1~17節(新p.283)
説 教 「霊に従って歩む者」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 475(あめなるよろこび)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 12月6日(日)午後5時~5時50分
聖 書 イザヤ書59章12~20節
説教題 「旧約における神の言(ことば)」
讃美歌(21) 235 27 交読詩篇 96
本日の説教 ローマの信徒への手紙8章1~17節
8:1従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。 2キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。 3肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。 4それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。 5肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。 6肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。 7なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。 8肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。 9神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。 10キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。 11もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。 12それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなけければならないという、肉に対する義務ではありません。 13肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。 14神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。 15あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。 16この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。 17もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。
本日の説教
「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」(8:1)
パウロは7章で「わたしは、自分に内には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意思はありますが、それを実行できないからです」(7:8)と告白しています。心では神の律法を喜び、律法を実行しようとするが、罪が自分を支配し、自分をどうにもならない、罪にとじこめられた、のろわれた死の存在にしてしまったいる、とその悲惨さを嘆きます。そして、ついに「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(7:24)と絶望の叫びをあげました。このような人間を救ってくださるのがイエス・キリストです。ですから、7章25節では、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」と、絶望からキリストによる救いに感謝する叫びに至るのです。
そして、8章の1節では、「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」と、「キリストにある者」であると語ります。<今や>はキリストの死と復活による救いが実現した時です。このキリストによる救いの福音は聞く者に救いをもたらす神の力です。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(コリント一12:3)とあるように、信仰は神の力、聖霊によって与えられ、イエスを信じる者は義とされ、「キリストに結ばれる」のです。「キリストに結ばれている」とは、罪にとじこめられた死の存在から、キリストの救いにあずかり、キリストにある存在になったことを表しています。
「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」(8:2)
キリストの救いにあずかる前は、<罪と死の法則>のとりこになって<死に定められ>ていました。自分は心では神の律法を喜び、律法を実行しようとするが、<罪と死との法則が自分を支配し、自分をどうにもならない奴隷状態にしていました。それは罪の根である神と人にたいする自己主張欲、自己顕示欲が自分に内に宿っているからです。律法を実行しようとする熱心さが、自己の義を得ようとする自己追及になるからです。しかし今やイエス・キリストによって<命をもたらす><霊の法則>が、あなたを解放したのです。
「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。」(8:3)
「肉」とはわたしの全存在です。それが律法の真の目的をゆがめてしまうのです。わたしは神にさからい、神に対して自分を主張しているのです。肉は罪の下に売られているからです。律法は、罪をさけ、人間を罪と死の法則から解放することを欲するものです。しかし、律法は人間の罪に支配される肉的性質のために無力になっており、人間を解放することができません。そこで神は別の道をとってくださり、人間の罪を取り除くために、御子を罪深いわたしたちと同じ姿で地上に遣わし、罪(根源的な罪)のない御子に罪を負わせて、十字架で、あなたの罪と肉を罰せられたのです。
「それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。」(8:4)
罪と肉とが罰せられたことは、わたしたちに今や、<肉>によってではなく、<霊>によって歩む道が開かれ、<わたしたちの内に>キリストの霊の力が働き、律法の要求が満たされるためでした。
「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。」(8:5)
肉に従って歩む者には到底みたされなかった律法が、霊に従って歩む者によって満たされることになるのです。
「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。」(8:6)
肉の支配下にある者の思いは<死>であり、霊の支配下にある者の思いは<命と平和>です。
「なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。」(8:7)
肉は<神に敵対>し、<神の律法>に対立します。なぜなら肉は、神の律法に従っていないばかりか、従うことは不可能だからです。
「肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。」(8:8)
したがって、<肉>の支配下にある者は、神に喜ばれることはありません。
「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。」(8:9)
霊の下に生きることは、キリストの霊を持つことであり、それはキリストの支配の下に生きることに他なりません。キリストの霊を持たない者は、キリストに属さず、キリストにある存在ではありません。
「キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。」(8:10)
宗教的熱狂主義者は霊に生きることは神的祝福を所有することであるとする主張するのに対し、パウロは、霊に生きることは、キリストに生きることであると主張します。キリストがその者の<内にいる>と、キリストがその者の心を支配すると主張します。<“霊”は義によって命となっています>とは、内住する「聖霊」は、神のみ旨に適う生活を通して、体は罪によって死んでいても、人の命となって生かしてくださるのです。ここではキリストの復活とキリスト者の復活が一つに結びついています、
「もし、イエスを死者の中から復活させた方(神)の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方(神)は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」(8:11)
神は霊、聖霊の力によってイエスを死人の中からよみがえらせました。そのように、神はあなたがた人間の中に宿っている聖霊によってあなたがたをもよみがえらせてくださるのです。聖霊があなたがた人間を命へと復活させてくださるのです。
「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなけければならないという、肉に対する義務ではありません。」(8:12)
肉に従って生きるのか、霊に従って生きるのか、この二つのせめぎ合う力の下で信仰者は、霊に生きる務めを負っています。その責務は肉の支配への従属ではあり得ません。
「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。」(8:13)
キリスト者もこの世の人々と同じです。なお「肉の業」「体の行い」を完全に脱していません。一度決定的にこれらに死んだのですが、今なお、わたしたちの内に生きかえり、罪を産みます。だからたえずこれを殺さなければなりません。<肉に従って生きるなら>、それは死へとつながっています。そこで信仰者は肉の働きと絶縁しなければなりません。体の<仕業>、は個々の道徳的行為だけではなく、罪の根である神と人に対する自己主張欲をも含みます。体の行いを殺すというのは、いわゆる禁欲主義ではありません。それは霊の力によって殺されなければならない働きです。<霊によって体の仕業を絶つ>とは、キリスト者の主体的決断と行為によるものですが、体の働きを殺すのはわたしではありません。わたし自身の力でやって行こうと努力するのではなく、霊の働きにまかせることです。わたしたちを通してキリストに働いていただくことです。「体の働きを殺す」ことは、人間の持っている自然の力の努力によるのではなく、神によってさずけられた働きです。神の言葉を聞いて、従順に生きようとするとき、そこに、積極的に、悪の力に抵抗する力が与えられるのです。そこに奇跡的な出来事が起きるのです。
「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」(8:14)
「霊によって導かれる」という表現は、自分の行動の主体が霊であることを意味します。この霊は、キリストを死者の中から復活させた神の霊であり、キリストと神の関係は父子関係です。それゆえ、この神の霊に依って導かれる者は皆、<神の子>なのです。このようにイエス・キリストを通して、神とわたしたちの間にこのような父と子の関係が開かれ、これがもとになって、人間同志の関係が築かれていくのです。
「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。」(8:15)
奴隷の行動は基本的には恐れに支えられています。<子供>は、未成年の間は後見人や管理人の下にいて、僕と何も変わるところがないが、この子供を支えるのは、自分が奴隷ではなく、子であるという自覚であり、父子関係の愛です。<アッバ>は元来幼児語で、子供の父親に対する呼びかけの「パパ」のアラム語の音訳ですが、ここでは礼拝の中で会衆が挙げる歓呼の声です。
「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。」(8:16)
個々の信仰者と神との父子関係は教会と神との関係、神とその民との関係としてとらえ直されています。
「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(8:17)
この父子関係が<相続人>と言いかえられています。さらに<神の相続人>は<キリストと共同の相続人>なのです。キリストと共に死に、共によみがえるという、十字架と栄光が結合されています。苦しみを負いつつ、肉の支配力とよく戦う信仰者に、来るべき栄光を受ける望みが与えられています。わたしたちは、キリストの復活にあずかる栄光だけを求めるのでなく、肉の支配力と戦う十字架の苦難にもあずからなければなりません。
神の救いは、人間をその<あるべき姿に>に回復しようという神の御心によるものです。わたしたち、キリストの救いにあずかった者は、神の求める<あるべき姿>になるべく、<肉によってではなく、霊によって生きる>のです。地上的なものにつながって生きるのではなく、神につながり、神から賜る力によって生きるのであり、神の命の働きにあずかって生きるのです。
今日から、待降節アドベントが始まります。平和の君、救い主イエス様を心からお迎えいたしましょう。