富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「霊に従って歩む者ー霊による命」

2020-11-26 21:34:06 | キリスト教

      「霊による命」 ローマの信徒への手紙8章1~17節

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

待降節第一主日(アドベント) 2020年11月29日(日)午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

      礼 拝 順 序 

                  司会 齋藤 美保姉

前 奏(242の1:キャンドル点灯) 奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 355(主をほめよ、わが心)

交読詩編    24(地とそこに満ちるもの)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ローマの信徒への手紙8章1~17節(新p.283)

説  教 「霊に従って歩む者」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                            

讃美歌(21) 475(あめなるよろこび)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                   次週礼拝 12月6日(日)午後5時~5時50分  

                   聖 書  イザヤ書59章12~20節

                   説教題  「旧約における神の言(ことば)」

                   讃美歌(21) 235  27 交読詩篇 96

本日の説教 ローマの信徒への手紙8章1~17節

 8:1従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。 2キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。 3肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。 4それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。 5肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。 6肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。 7なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。 8肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。 9神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。 10キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。 11もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。 12それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなけければならないという、肉に対する義務ではありません。 13肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。 14神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。 15あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。 16この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。 17もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。

          本日の説教 

 

「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」(8:1)

 パウロは7章で「わたしは、自分に内には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意思はありますが、それを実行できないからです」(7:8)と告白しています。心では神の律法を喜び、律法を実行しようとするが、罪が自分を支配し、自分をどうにもならない、罪にとじこめられた、のろわれた死の存在にしてしまったいる、とその悲惨さを嘆きます。そして、ついに「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(7:24)と絶望の叫びをあげました。このような人間を救ってくださるのがイエス・キリストです。ですから、7章25節では、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」と、絶望からキリストによる救いに感謝する叫びに至るのです。

そして、8章の1節では、「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」と、「キリストにある者」であると語ります。<今や>はキリストの死と復活による救いが実現した時です。このキリストによる救いの福音は聞く者に救いをもたらす神の力です。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(コリント一12:3)とあるように、信仰は神の力、聖霊によって与えられ、イエスを信じる者は義とされ、「キリストに結ばれる」のです。「キリストに結ばれている」とは、罪にとじこめられた死の存在から、キリストの救いにあずかり、キリストにある存在になったことを表しています。

 「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」(8:2)

 キリストの救いにあずかる前は、<罪と死の法則>のとりこになって<死に定められ>ていました。自分は心では神の律法を喜び、律法を実行しようとするが、<罪と死との法則が自分を支配し、自分をどうにもならない奴隷状態にしていました。それは罪の根である神と人にたいする自己主張欲、自己顕示欲が自分に内に宿っているからです。律法を実行しようとする熱心さが、自己の義を得ようとする自己追及になるからです。しかし今やイエス・キリストによって<命をもたらす><霊の法則>が、あなたを解放したのです。

「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。」(8:3)

「肉」とはわたしの全存在です。それが律法の真の目的をゆがめてしまうのです。わたしは神にさからい、神に対して自分を主張しているのです。肉は罪の下に売られているからです。律法は、罪をさけ、人間を罪と死の法則から解放することを欲するものです。しかし、律法は人間の罪に支配される肉的性質のために無力になっており、人間を解放することができません。そこで神は別の道をとってくださり、人間の罪を取り除くために、御子を罪深いわたしたちと同じ姿で地上に遣わし、罪(根源的な罪)のない御子に罪を負わせて、十字架で、あなたの罪と肉を罰せられたのです。

「それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。」(8:4)

罪と肉とが罰せられたことは、わたしたちに今や、<肉>によってではなく、<霊>によって歩む道が開かれ、<わたしたちの内に>キリストの霊の力が働き、律法の要求が満たされるためでした。

 「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。」(8:5)

肉に従って歩む者には到底みたされなかった律法が、霊に従って歩む者によって満たされることになるのです。

「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。」(8:6)

肉の支配下にある者の思いは<死>であり、霊の支配下にある者の思いは<命と平和>です。

「なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。」(8:7)

肉は<神に敵対>し、<神の律法>に対立します。なぜなら肉は、神の律法に従っていないばかりか、従うことは不可能だからです。

「肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。」(8:8)

 したがって、<肉>の支配下にある者は、神に喜ばれることはありません。

「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。」(8:9)

霊の下に生きることは、キリストの霊を持つことであり、それはキリストの支配の下に生きることに他なりません。キリストの霊を持たない者は、キリストに属さず、キリストにある存在ではありません。

「キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、は義によって命となっています(8:10)

 宗教的熱狂主義者は霊に生きることは神的祝福を所有することであるとする主張するのに対し、パウロは、霊に生きることは、キリストに生きることであると主張します。キリストがその者の<内にいる>と、キリストがその者の心を支配すると主張します。<“霊”は義によって命となっています>とは、内住する「聖霊」は、神のみ旨に適う生活を通して、体は罪によって死んでいても、人の命となって生かしてくださるのです。ここではキリストの復活とキリスト者の復活が一つに結びついています、

 「もし、イエスを死者の中から復活させた方(神)の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方(神)は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」(8:11)

神は霊、聖霊の力によってイエスを死人の中からよみがえらせました。そのように、神はあなたがた人間の中に宿っている聖霊によってあなたがたをもよみがえらせてくださるのです。聖霊があなたがた人間を命へと復活させてくださるのです。

「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなけければならないという、肉に対する義務ではありません。」(8:12)

肉に従って生きるのか、霊に従って生きるのか、この二つのせめぎ合う力の下で信仰者は、霊に生きる務めを負っています。その責務は肉の支配への従属ではあり得ません。

「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。」(8:13)

キリスト者もこの世の人々と同じです。なお「肉の業」「体の行い」を完全に脱していません。一度決定的にこれらに死んだのですが、今なお、わたしたちの内に生きかえり、罪を産みます。だからたえずこれを殺さなければなりません。<肉に従って生きるなら>、それは死へとつながっています。そこで信仰者は肉の働きと絶縁しなければなりません。体の<仕業>、は個々の道徳的行為だけではなく、罪の根である神と人に対する自己主張欲をも含みます。体の行いを殺すというのは、いわゆる禁欲主義ではありません。それは霊の力によって殺されなければならない働きです。<霊によって体の仕業を絶つ>とは、キリスト者の主体的決断と行為によるものですが、体の働きを殺すのはわたしではありません。わたし自身の力でやって行こうと努力するのではなく、霊の働きにまかせることです。わたしたちを通してキリストに働いていただくことです。「体の働きを殺す」ことは、人間の持っている自然の力の努力によるのではなく、神によってさずけられた働きです。神の言葉を聞いて、従順に生きようとするとき、そこに、積極的に、悪の力に抵抗する力が与えられるのです。そこに奇跡的な出来事が起きるのです。

「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」(8:14)

「霊によって導かれる」という表現は、自分の行動の主体が霊であることを意味します。この霊は、キリストを死者の中から復活させた神の霊であり、キリストと神の関係は父子関係です。それゆえ、この神の霊に依って導かれる者は皆、<神の子>なのです。このようにイエス・キリストを通して、神とわたしたちの間にこのような父と子の関係が開かれ、これがもとになって、人間同志の関係が築かれていくのです。

「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。」(8:15)

奴隷の行動は基本的には恐れに支えられています。<子供>は、未成年の間は後見人や管理人の下にいて、僕と何も変わるところがないが、この子供を支えるのは、自分が奴隷ではなく、子であるという自覚であり、父子関係の愛です。<アッバ>は元来幼児語で、子供の父親に対する呼びかけの「パパ」のアラム語の音訳ですが、ここでは礼拝の中で会衆が挙げる歓呼の声です。

「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。」(8:16)

個々の信仰者と神との父子関係は教会と神との関係、神とその民との関係としてとらえ直されています。

「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(8:17)

 この父子関係が<相続人>と言いかえられています。さらに<神の相続人>は<キリストと共同の相続人>なのです。キリストと共に死に、共によみがえるという、十字架と栄光が結合されています。苦しみを負いつつ、肉の支配力とよく戦う信仰者に、来るべき栄光を受ける望みが与えられています。わたしたちは、キリストの復活にあずかる栄光だけを求めるのでなく、肉の支配力と戦う十字架の苦難にもあずからなければなりません。

神の救いは、人間をその<あるべき姿に>に回復しようという神の御心によるものです。わたしたち、キリストの救いにあずかった者は、神の求める<あるべき姿>になるべく、<肉によってではなく、霊によって生きる>のです。地上的なものにつながって生きるのではなく、神につながり、神から賜る力によって生きるのであり、神の命の働きにあずかって生きるのです。

今日から、待降節アドベントが始まります。平和の君、救い主イエス様を心からお迎えいたしましょう。

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「わたしの内に宿る罪からの解放」 ローマの信徒への手紙7章14~25節

2020-11-20 23:54:51 | キリスト教

                「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」(ローマの信徒への手紙7章24-25a)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

    日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

降誕前第四主日   2020年11月22日(日)     午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

                          礼 拝 順 序

                司会 齋藤 美保姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 214(わが魂(たま)のひかり)

交読詩編    71(主よ、御もとに身を寄せます)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ローマの信徒への手紙7章14~25節(新p.283)

説  教 「わたしの内に宿る罪からの解放」辺見宗邦牧師

祈 祷                                            

讃美歌(21) 441(信仰をもて)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                                                      次週礼拝 11月29日(日)午後5時~5時50分  

                                                      聖 書  ローマの信徒への手紙8章1~17節

                                                      説教題  「霊に従って歩む者」

                                                      讃美歌(21) 355 475 27 交読詩篇 24

本日の説教 ローマの信徒への手紙7章14~25節

 7:14わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。 15わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。 16もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。 17そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。 18わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。 19わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。 20もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。 21それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。 22「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、 23わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。 24わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。 25わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。

                 本日の説教 

 パウロは、7章で、「わたしたち」と一人称複数形で語る部分と「わたし」と一人称単数形で語る部分があります。「わたし」という言葉が使われのは、7章7節からです。「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう」と言っています。7節から25節までは、14節と25節の「わたしたち」という表現以外は、すべて、25回も「わたし」という言葉を用いています。

 「わたし」はパウロ個人をさしつつ、同時にすべての人間に通じる「わたし」です。パウロは、キリスト者になる以前の人間存在を、キリスト者になったキリスト教的観点から眺め、自身の経験を述べるように伝えます。しかし、これはパウロの改心前の自伝的記述ではありえません。パウロは、「わたしは・・・律法い関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ちどころのない者でした」(フィリピ3:5-6)と語っているからです。パウロは、キリストに出会う前、ユダヤ人として律法の研究と遵守には、誰にも負けないという誇りを持ち、神の前に義しいという自覚を持っていました。

 しかし彼がイエス・キリストに出会い、イェスを知ったとき、その徹底的な恵みにふれたとき、彼は自分の罪の深さを知ったのです。いや、彼の罪を知らされたのです。彼のこれまでの律法に対する熱心さは、神と人に対する傲慢、誇り、思い上がり、自己正当化、自己満足、自己追及であったこと、彼は自己中心の醜さを思い知らされたのです。まさに罪の根である自己主張欲、むさぼりの罪が自分に宿っていることを知ったのです。

 だから14節で、彼は「わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています」と言い、20節では、「それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」と言っているのです。

「わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。」(7:14)

 律法は神から出たものであり、本来それによって神の意志と真理が明らかにされ、人間の生きる道、あるいは守るべき事柄を示すものです。パウロは、律法は霊的なものであることを知っているといいます。すなわち律法は本来神から出るもので、人間に命を与えるものであるというのです。しかし同時に自分が<肉の人>、肉に属する人間であることを認めざるをえません。すなわち地上的、この世的な存在であって、そのために罪の奴隷となっているというのです。パウロはこれまで神の前における人間を見つめて来ました。それは問題にみちた人間の姿であり、神の前に罪深い存在でしかない人間の現実でした。ここにはパウロをふくめた、人間が語られています。7章14節以下は、信仰の立場から見た律法のもとにある人間の姿です。

「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」(7:15)

パウロによれば、自分は罪の下に<売り渡され>(14節)たものであり、自分の欲する事は行わず、かえて自分の憎む事をしっている。つまり自己分裂に陥っているといいます。

パウロは、自分の本来欲することを行わず、憎むことをしてしまう自分の行為を、承認することが出来ず、自分で自分を理解することが出来ないというのです。罪の行為をする自分と、心の中で意思している自分とは対立し、分裂し、互に相争っている。これがまさに人間の現実であり、誰もが経験せざるを得ない苦悩です。

「もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。」(7:16)

わたしの中に律法を是認し、これを行おう欲する自分があり、他方自分の欲しない悪を行う自分がある。人間が、真実に自分の分裂に目覚め、罪を罪として受け止めるのは、律法によって神の意志を知らしめられることによってです。信仰において神に目を向けることを通して、人間は自分が本来望んでいたことを行わず、自分の意思と行為が分裂していることを知るのです。

「そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」(7:17)

このような自己分裂に陥っているのは自分の内に宿っている罪のせいだというのです。自分が欲していないことをするのは、わたしではなくて、自分の内に宿っている罪であるからです。

わたしの中に律法を是認し、これを行おうと欲する自分があり、他方自分の欲しない悪を行う自分がある。しかも行おうと欲する自分は希望にとどまり、欲しない自分は実行にまで至る自らの深刻な現実を知る時、自分の中に罪が「住んでいる」という事実を認めざるを得ません。それは単に人間は弱い存在であるとか、自分は意志が弱いといったことではなく、罪の奴隷となっている人間の現実があらわにされることです。

「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。」(7:18)

「罪と律法の支配」の下にある人間を真正面から直視した、そのうめきは「わたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです」と告白します。

「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。」(7:19-21)

人間は善を求める。しかし彼は悪を行う。しかもそれは悪い弱い人間の問題なのではなく、律法に忠実な敬虔な人間において問題となることを、パウロは見ているのです。望まない悪を行っているとすれば、それをしているのは、「もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」と告白します。

「『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。」(7:22-23)

内なる人と自分の五体(肢体)に存在する法則との対立を描きます。自分は内なる人としては神の律法を喜んでいるが、自分の五体には別の法則があって、心の法則と戦い、五体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのが分かるというのです。ここで言われている<内なる人>とは、救いにあずかる前の、まだ霊を受けていない人間のことであり、しかも、律法を喜ぶ面をもつ人間のことであり、23節の<心の法則>の<心>という言葉と同じ意味をもつものです。そのように、内なる人としての人間は律法を喜ぶが、つまり、人間の心の法則は律法を喜び、律法を実行しようとするが、五体の法則がこれを妨げ、自分をとりこにしてしまっているというのです。<神の律法>は神の意志の意です。神の意志が無力となるような法則の力(罪の法則)が人間を支配するのです。

 このように、ここでは、<神の律法>と<五体に存在する別の律法>、<心の法則>と<罪の法則>が対照されています。この<神の律法>とは、これまでの律法、つまり文字として書かれたモーセの律法と違い、神の御心とでも訳すべき律法です。<心の法則>という言葉はローマ1:19-23、2:14,15と対応する考えを表しています。そこでここでは、先の敬虔なユダヤ人から範囲が広げられて人類全体、人間というものが問題とされています。ユダヤ人以外のすべての人間が、モーセの律法は持っていないが、、すべての人は心の奥底では神を知り、その御心に従おう、そして生きたい、救われたい、という思いを持っているが、しかし結局は神を認めず、神ならざるものを神とし、傲慢、自己正当化、自己追及に陥っている、とパウロは言うのです。パウロはキリスト者の視点から、キリストを知らない人間の根本的なあり方を書いているのです。

「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(7:24)

「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」という絶望の叫びが発しています。<死に定められた体>とありますが、罪の結果は滅び以外にはないのです。たとえ律法を喜ぶ「内なる人」という面があるとしても、罪の法則がそれを圧倒し、自分をどうにもならない奴隷状態に閉じ込めてしまうのです。

律法は人間の罪を禁じながら、結局人間を罪にさそい、神に対する反逆を深め、罪の宣告をすることになるのです。律法はそれに聞き従う者を「罪の自覚」へと導くのです。イスラエル人は自分の努力と業によって神の前に義を得ようとしました。あたかも信仰によらず、業によって義が得られるかのように追い求めました。しかしそれは結局、人間の「肉の誇り」となるのであり、それは罪であります。したがって、律法は人間を罪の下に束縛し、キリストによるまでは真に解放されなかったのです。

 罪に閉じ込められているわたしは死の存在です。したがってそのようなわたしのからだは「死のからだ」です。それは死にいたるからであり、死から逃れることのできないからだなのです。そこには何の救いも希望もありません。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」という自己認識は、律法の可能性や人間の可能性の幻想を持ち続ける限り不可能です。「まだなんとかしたい。なんとかなる」と思っているからです。25節に<感謝>の言葉が出てくることからも、自らの悲惨が自覚されるのは、悲惨そのものからではなく、福音の到来によってであることを明らかにしています。

「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」(7:25)

 パウロは、突然調子を変え、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」と感謝の声をあげます。パウロは自己の分裂について語った上、一方では突如としての絶望感に打たれると同時に、他方では、これまた突如としてキリストによる救いへの感謝の念にみたされるのです。 罪の下に売られているものであるにもかかわらず、人は神から離れることは出来ず、「いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれる」(ローマ8:21)ことを待ち望んでいるのです。「だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と叫んでいることは神とある意味でつながりがあることです。そしてこのすべての人の ― 彼らには知られない ― 心の奥底の叫びに対する神の答えが、イエス・キリストなのです。絶望の中で、神の恵みは力強く働くのです。それはただ神のなさる恵みであり、人間はただ信じて受け入れ、感謝するだけです。感謝は「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に」なされます。逃れる道のない「死のからだ」からであるわたしたちを、罪と律法と死から救い出して下さる方は、イエス・キリストを通して働く神のみです。

「このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです」は、後の教会の読み方と推定されています。なぜなら、この付加の部分は、<わたし>の内的葛藤を肯定しているからです。内的葛藤は24節まで否定的にとらえられているのに対し、この部分は、信仰者の現在の姿を語るものと解されるからです。

キリストにある者は律法の支配から解放され、キリストに対して生きる者とされるのです。しかしそのことは、完全に律法の勢力圏から自由にされ、肉との戦いが終わったということではありません。むしろ肉に抵抗し戦い続けることがキリスト者です。パウロ(信仰者)はこの戦いの中に身を置きつつ、そこに働く御霊の働きを信じ、勝利を確信したのです。霊とは、イエスを死人の中から甦らせた神の御霊だからです。肉に抵抗する戦いにおいて、キリスト者たちは絶えず勝つことのできる霊の力を与えられているのです。

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「律法の働きとむさぼりの罪」 ローマの信徒への手紙7章7~13節

2020-11-11 11:55:09 | キリスト教

               ローマの信徒への手紙 「正しい者は信仰によって生きる」(ローマ1:17、ハバクク2:4)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

降誕前第六主日 2020年11月15日(日) 午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

     礼 拝 順 序

                司会 齋藤 美保姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 456(わが魂を愛するイェスよ)

交読詩編    77(神に向かてわたしは声をあげ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ローマの信徒への手紙7章7~13節(新p.282)

説  教     「律法の働きとむさぼりの罪」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                            

聖餐式    78(わが主よ、ここに集い)

讃美歌(21) 433(あるがままわれを)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                    次週礼拝 11月22日(日)午後5時~5時50分  

                    聖 書  ローマの信徒への手紙7章14~25節

                    説教題  「わたしの内に宿っている罪からの解放」

                    讃美歌(21) 214 354 27 交読詩篇 71

本日の説教 ローマの信徒への手紙7章7~13節

 7:7では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。 8ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。 9わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、 10わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。 11罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。 12こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。 13それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。

本日の説教 

 「では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。」(7:7)

パウロは6章で、キリストに結ばれて神に生きるようになった者は、罪に対して死んだ者であり、「罪は、もはや、あなたがたを支配することはない、あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいる」(6:14)と語りました。さらに7章でも、「わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています」(7:6)と語りました。このように律法から解放されたところに救いがあることを、パウロは語りましたが、それはあたかも律法が罪であるかのような印象を与えます。すると律法は罪なのかと読者に疑問をいだかせるので、パウロは律法は「決してそうではない(罪ではない)」と告げます。「しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう」と律法と罪とのむすびつきを強調します。この「知る」は体験的に知ることです。「わたし」はパウロ個人をさしつつ、同時にすべての人間に通じる「わたし」です。パウロは、キリスト者になる以前の人間存在を、キリスト者になったキリスト教的観点から眺め、自身の経験を述べるように伝えます。これはパウロの改心前の自伝的記述ではありえません。パウロは、「わたしは・・・律法い関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ちどころのない者でした」(フィリピ3:5-6)と語っているからです。

律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう」と語ります。「むさぼるな」はモーセの十戒の第十の掟(戒め)です。パウロはこの最後の掟を、ユダヤ教の伝統に従い、律法全体の中心として理解しています。十戒の中で、最初の神についての四つの掟の後に、対人関係の掟が記されていますが、五番目から九番目までは、「父母を敬え」、「殺してはならない」、「姦淫してはならない」、「盗んではならない」、「偽証してはならないとあるように、外に表れる行為について戒めているのに、十番目の戒めは、「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」(出エジプト記20:17)とあるように全く心の中のことについて戒めています。<欲してはならない>は、口語訳聖書では、「むさぼってはならない」と訳しています。「むやみに欲しがってはならない」の意です。この十番目の「むさぼり」の戒めこそが、他の戒めにも深く関係しているものであり、パウロはこの「むさぼり」をあらゆる罪の始まりとしてしているのです。それをヤコブ書では、「人はそれぞれ、自分自身の欲望にに引かれ、そそのかされて、誘惑におちいるのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」(ヤコブ1:14-15)と「欲望」として表現しています。むさぼりは律法によって誘いだされるものであり、同時に律法全体が戒める根本的罪そのものです。従ってコリントの信徒への手紙一では、「悪のむさぼり」として戒めています。出エジプトのイスラエルの民の「大部分は神の御心にかなわず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。・・・と彼らが悪をむさぼった」からです。・・・「偶像礼拝してはいけません。・・・みだらことをしないようにしましょう」(コリント一、10:5-8)とあります。<むさぼる>とは、神と隣人に対する自己主張欲のことであり、むさぼりは宗教的な業績追及の中にも現れるのです。

 コロサイの信徒への手紙には、「地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない」(コロサイ3:5)とあります。貪りの対象は金銭や財産だけではありません。このように、「むさぼり」は物質的にも精神的にもすべてのものに対するあくことのない貪欲です。それは神と隣人に対する自己主張です。私たちが神様をないがしろにして自分が主人になり、自分の思い通りに生きようとする時、私たちは、まことの神を礼拝するのでなく、自分が神となって生きるという偶像礼拝に陥っているのです。

「ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。」(7:8)

「律法」は、総括的な表現であり、「掟」は、律法の特定の部分に関係します。「掟」が集まって律法を構成しています。罪は個々の掟によって働きます。「むさぼるな」という掟をつきつけられると、むさぼりが消滅するどころか逆にむさぼりの貪欲が人間の自覚にのぼって活動をはじめ、罪が現実化します。罪は掟を機会として人間の内に様々な欲をかき立てます。「律法がなければ罪は死んでいるのです」の「死んでいる」は、「潜伏している、働かない、無力である」の意です。律法がないと人間は罪とその働きを経験することはありません。

「わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、律法がなければ罪は死んでいるのです。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。」(7:9-10)

わたしは、かつて律法に関わりなく、律法にまだ直面しないで、生きていました。罪がなかったわけではなく、無力で死んだ状態でした。そこでは罪は人間を滅びの中に引き入れる力をまだ発揮するに至りません。律法がないと人間は罪とその働きとを経験することがありません。律法がなければ、罪を知らないし、救いを求めることもしません。つまり律法がなければ命をもたらす救いもありません。

「罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。」(7:11)

これは、アダムの堕罪場面における蛇の欺きを思い出させる場面です。「善悪を知る木からは取って食べてはなっらない。それを取って食べると、きっと死ねであろう」(創世記2:17)という掟、すなわち、人間に神のみこころを示し生命を約束している掟を与えられているが、その掟を機会として蛇はエバを誘います。蛇は、「それを食べるとあなたがたの目が開け神のように善悪を知る者となる」とあざむいて神の掟を破らせ、これによって神の怒りとアダム・エバの罪責を引き起こし、神は人間を追放し、人間は神から失われたのです(コリント二、11:3)。掟は、人間に神の意志を示し、生命と救いを約束しています。しかし人間はこの掟を破り、自分に死をまねきます。

罪は掟を通して機会を与えられ、わたしを欺き、猛威をふるって、わたしのいのちをうばいます。もうそこではわたしは死んだと同然です。いやもしそこでキリストによる罪の赦しに至らなければ、律法はわたしをのろい殺すだけです。ここでは個々の人間の現実として語られています。

「こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。」(7:12)

律法も掟も聖であるということは、律法も掟も、ともに神より出て神に属し、神のためにこの世のものと区別されているということを意味しています。神が、神と人間の限界を示すために、律法をあたえられたのです(創世記2:17)。したがって、これらは神の側に立つものであって、罪の外にあるのです。さらに、律法と掟が正しいということは、それらは神のみこころと一致して、人間の行為に対して基準となりうることを示しています。これらのものが、善いものであるとは、悪と何のかかわりをもたず、むしろ、積極的に、わたしたちを、刑罰と死をとをもたらす悪から遠ざかるように強要するだけの倫理的な力をもっていることを表しています。このように、律法と掟とは、「聖であり」「正しく」「善いもの」であり、いのちを約束します。

「それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、このようにして、罪は限りなく

邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。。(7:13)

「罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです」。<邪悪な>のは律法ではなく、律法の掟に乗じて忍び込む<罪>です。律法への従順と律法による救いを願う熱心と努力を逆手にとる罪が悪いのです。罪はこの善いものである掟によって、わたしをいのちにみちびくと誘っておいて、わたしをだまして、死に至らせたのです。それは、「このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした」。罪のむくいは死です。「死」とは、罪の罰としてうける人間の滅びです。罪人であるわたしたちはたとえみかけは健康であっても、死による滅びをかかえているのです。「死による滅び」は、わたしの最大の、そして最後の敵です。

さらに7章を読みすすむと、パウロは、律法にしたがい、善をなそうとするわたしと、かえって罪と悪と死におとしこまれるわたしとの間に板挟みになっている苦悶を告白します。そしてついに「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(7:24)という叫びをあげます。そして7章の最後25節で、突如としてイエス・キリストによる罪と死に対する勝利の喜びと感謝を告白するに至るのです。この聖書の箇所は次週の礼拝で学びます。  

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「人間の堕落と信仰による義」 ローマの信徒への手紙3章21節~28節

2020-11-08 15:41:16 | キリスト教

 

    「信仰による、律法の行いにようのではない」「なぜなら、わたしたちは、人が義とされる

      のは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」(ローマ書3:28)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

  日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

  降誕前第六主日  2020年11月8日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

      礼 拝 順 序

                司会 齋藤 美保姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 355(主をほめよ、わが心)

交読詩編    51(神よ、わたしを憐れんでください)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ローマの信徒への手紙3章21節~28節(新p.277)

説  教      「人間の堕落と信仰による義」   辺見宗邦牧師

祈 祷                                            

讃美歌(21) 441(信仰をもて)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                次週礼拝 11月15日(日)午後5時~5時50分  

                聖 書  ローマの信徒への手紙7章7~13節

                説教題  「内在する罪の問題」

                讃美歌(21) 456 433 27 交読詩篇 51

  本日の聖書 ローマの信徒への手紙3章21節~28節

 3:21ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。 22すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。 23人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 24ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 25神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。 26このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。 27では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。 28なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。

   本日の説教

 ローマの信徒への手紙を書いた使徒パウロは、1章16節で「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」と述べます。

イエス・キリストによる福音は、信じる者すべてに救いを与える神の力であることを述べます。<福音>は、ギリシャでは古くから「喜びの音信」、すなわち戦勝を告げを告げる伝令のもたらす良い報告を意味しました。しかし紀元後にはこの語は皇帝礼拝に関連して用いられるようになり、新時代を創り出し、人類に平和と救いをもたらす神の子なる皇帝の出現が福音であるとされました。キリスト教会はこのような背景を持つ語に、特別な意味を持たせ、神の福音、キリストの福音というように用いるようになりました。パウロは、人類に救いをもたらす福音はイエス・キリストであると語りました。この福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力なのです。

「この福音には、神の義が啓示されています。それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」(1:17)

この福音には「神の義」が啓示されています。<啓示される>とは、自明のこととして与えられることではなく、隠された形で与えられるものです。<神の義>とは、ここでは神と人間との関係を作り出す救いの働きであり、「神との正しい関係」をもたらすものであり、その力を指します。この神の力ある働きは<始めから終わりまで信仰を通して実現>されます。<信仰>とは、単に神の存在を認めることや、特定の教義を受け入れることではありません。それは人間を救おうとする神に全存在を賭けて信頼し続けることです。パウロは、<神に従う人は信仰によって生きる>(ハバクク2:4)とう旧約聖書のことばを引用しています。福音は、神の力が私たちに働きかけて、私たちのうちに信仰を起こし、信仰を恵みの賜物として与えるのです。従って、信仰をなんらかの形で少しでも、神の働きを受けるための人間の側の条件にしてしまうことをさけなければなりません。

以上のように、パウロは、信仰によって義とされるという信仰義認の福音を説いた後、1章18節から3章20節にかけて、すべての人が、異邦人とユダヤ人の別なく、罪のもとにあり、人間の側からは救われる可能性が全くないことを論じました。

しかし、3章21節に至って、大きな転換が示されます。

 「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。」(3:21)

「ところが今や」。この言葉によって、イエス・キリストによる歴史の転換が示されます。1章17節でふれた「神の義」について、改めて取り上げて論じます。これまでは人間の罪の絶望的な状態について語ってきましたが、今や一転してキリストの救いについて語ります。キリストの出現と共に始まった新しい時代、新約の時代を示すものです。

キリストの救いは、「律法とは別に」与えられます。旧約時代の律法の命じる行為を人間が満たすことによっては救いに入ることが出来ません。それは自力ではなく、神の側からの働きかけ、恵みによる救いの道です。この救いの道は「律法と預言者によって」証しされています。「律法と預言者」とは、旧約聖書を構成する主要素であり、「旧約聖書」を指しています。旧約の信仰はイスラエルの父祖、その延長としてイスラエルの民と神との「契約」に根ざしています。神の恵みの選びとそれに感謝をもって応答し服従するイスラエルの信仰によって結ばれた契約です。「律法」はこの「契約」を前提とし、契約への応答としての人間の行為を規定するものです。もしこの契約が人間の不従順によって破られた場合、この契約の回復は神の側からの契約の回復、新しい契約の成立を待たなけれなりません。この契約の回復、恵みの回復を律法の行うことによって成しとげようとする律法主義は人間の高ぶりであり、無謀な行為です。パウロはこのようにユダヤ人を2章17節~29節で解明し、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下(もと)にあることを述べ、「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(3章20節)と明確に論じたのです。

それに対して律法それ自体は、その本来の働きを回復するために、神の側からの契約の回復、新しい契約の成立を待ち望むのです。すでに預言者エレミヤは「新しい契約」を待望しました(エレミヤ書31:31以下)。このように旧約の証人たちは新しい契約の担い手としてのメシアを待ち望んだのです。

 「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。」(3:22)

 神との正しい関係に入るためには、信仰によらなければなりません。<信じる者すべて>に与えられる神の義です。<そこには何の差別>条件もありません。律法やそのわざが介在することはありえません。

 「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(3:23-24)

 <人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています>は、罪があまねく人類におよんでいることを、個々人の罪の現実として明らかにしています。個々人が罪を犯し、その結果起こったことは<神の栄光>を「受けられなくなっている>ということです。<栄光>は、アダムの堕罪によって失われてしまった神の似像(似姿)です。個々人は自ら罪を犯すことによって神の似像性をも失ってしまっているのです。人が正しいとされるのは、<キリスト・イエスによる贖いの業を通して>です。「贖い(あがない)」とは、奴隷を身代金を払って買いもどし、解放することを意味しました。そこから、ある犠牲、代価を払っての解放が考えられます。キリストは御自身を犠牲にして、わたしたちを死と滅びから解放されるのです。また、イエスの犠牲は、神が契約の民イスラエルを自分の責任において救い出されることでもあります。

「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」(3:25)

「贖う供え物」と訳された言葉は、「贖罪所」とも訳されます。これは神殿の至聖所に置かれた契約の箱をおおう蓋を指しましす。その両端には向い合って翼を広げたケルビム(天使)が置かれており、そこが神の玉座として、神と人が会う場所と考えられていました。そこには年に一度だけ、贖罪の日に、大祭司が小羊の犠牲の血をたずさえてゆき、神にまみえたのです。贖罪所は、神と人との和解の場、交わりの回復の場です。「贖いの供え物」、「贖罪所」、どちらの意味にとっても、この語によって、神と人との和解のために犠牲となられたイエス・キリストの働きが示されています。

このようにキリストの犠牲によって確立された神の義は、「御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです」(3:26)という二重の義が示されています。キリストは、わたしたちの救いを神の聖なる決定としてなしとげられたのです。

「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。」(3:27)

信仰義認の立場では、救われた者は誇るべきものは何もありません。人間の側に誇ることのできるどのような根拠もありません。これは功績として誇ろうするあらゆる思いを断つものです。それは「信仰の法則」によるものです。「信仰の法則」とは、神の義を受けるのはただ信仰によるのみであって、それ以外には不可能であるという原則です。「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によるのである」(3:28)という原則です。宗教改革者ルターは、<信仰によるのである>の句を、<信仰のみによる>とドイツ語で訳したおとで有名です。まさに<人が義とされるのは、信仰のみによる>のです。信仰義認の立場では、救われた者は誇るべきものは何もありません。人間の側に誇ることのできるどのような根拠もありません。これはあらゆる功績として誇ろうする思いを断つものです。

わたしたちは人の欠点や過失を指摘したり、自分で自分の弱さを責めたりすることを、良心的で良いここと考えています。わたしたちは神を見失っているために人間の義を求め、人を責めたり、人から責められたり、非難したり、非難されたりしていつも心に平和(平安)がありません。人間同士という間だけで正しくあろうとするかぎり、お互いの心は傷つくばかりなのです。わたしたちが正しくあるためには、正しさの根源である<神の義>を求めなければなりません。神から与えられる<福音>に根ざした生き方こそ、弱点をもったままで、わるびれず、たじろがず人と人の間で、愛の人として謙遜に生きていくことができるのです。そのようなわたしたちを通して神は人を変え、社会を変え、歴史を導かれのです。

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