富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「敵による苦難からの救い」 詩編143編1-12節

2021-11-25 20:29:00 | キリスト教

    ↑ 「朝にはどうか、聞かせてください。あなたの慈しみについて。あなたにわたしは依り頼みます。行くべき道を教えてください。あなたに、わたしの魂は憧れているのです。」(詩篇143編8節)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

  日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

降誕前第4主日  2021年11月28日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を

成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわ

せ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」                                      (エフェソ3・16-17)

                           礼 拝 順 序

                                                             司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 506(すべては主のため)

交読詩編  143(主よ、わたしの祈りをお聞きください)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳) 詩編143編1-12節(旧p.983) 

説  教  「敵による苦難からの救い」  辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                     

讃美歌(21) 566(むくいを望まで)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇 オンラインで礼拝に参加できます。設定担当は、斎藤美保姉です。

申し込みは、Eメール:munekuni-hemmi@vesta.ocn.ne.jp に。

              次週礼拝 12月5日(日)午後5時~5時50分 

              聖 書 イザヤ書9章1-6節

              説教題 「『平和の君』の誕生預言」

              讃美歌(21) 235 356 27 交読詩編 147:1-20    

 本日の聖書 詩編143編1-12節

143:1【賛歌。ダビデの詩。】主よ、わたしの祈りをお聞きください。嘆き祈る声に耳を傾けてください。あなたのまこと、恵みの御業によってわたしに答えてください。

2あなたの僕を裁きにかけないでください。御前に正しいと認められる者は、命あるものの中にはいません。

3敵はわたしの魂に追い迫り、わたしの命を地に踏みにじり
とこしえの死者と共に、闇に閉ざされた国に住まわせようとします。

4わたしの霊はなえ果て、心は胸の中で挫けます。

5わたしはいにしえの日々を思い起こし、あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し、御手の業を思いめぐらします。

6あなたに向かって両手を広げ、渇いた大地のようなわたしの魂をあなたに向けます。〔セラ

7主よ、早く答えてください。わたしの霊は絶え入りそうです。御顔をわたしに隠さないでください。わたしはさながら墓穴に下る者です。

8朝にはどうか、聞かせてください。あなたの慈しみについて。あなたにわたしは依り頼みます。行くべき道を教えてください。あなたに、わたしの魂は憧れているのです。

9主よ、敵からわたしを助け出してください。御もとにわたしは隠れます。

10御旨を行うすべを教えてください。あなたはわたしの神。恵み深いあなたの霊によって、安らかな地に導いてください。

11主よ、御名のゆえに、わたしに命を得させ恵みの御業によってわたしの魂を災いから引き出してください。

12あなたの慈しみのゆえに、敵を絶やしてください。わたしの魂を苦しめる者をことごとく滅ぼしてください。わたしはあなたの僕なのですから。

本日の説教

この詩は七つの悔い改めの詩篇(16、32、38、51、102、130、143)の最後のものです。表題には「ダビデの詩」とありますが、この詩の内容はダビデ自身の作ではないが、実際に同じような苦しみを経験したある敬虔な詩人によって作られたものです。罪を告白し、敵による苦難からの救いを切に求めている詩です。

詩人は、彼の受けた苦難が、彼の罪にたいする罰であることを率直に認め、しかも神は恵みの神であるので、赦しと救いとを祈り求めています。彼は、かつて経験した神の愛の御手を思い起し、その恵みが新たに示されることを待ち望んでいるのです。そして最後に、その祈りの答えとして、神が、詩人を亡ぼそうとしている敵の手から、詩人を救い出してくださるように祈って、この詩を歌い終わています。その敵が具体的にどんな人々なのか、また何といって攻撃しているのかは分かりません。しかしこの詩人はこの攻撃を自己の魂に対する攻撃であり、彼を神から引き離し、暗黒に陥れる暗い力として体験しています。新約聖書に従って言うなら詩人は「敵」を動かしているサタン的な力と死闘しているのです。ここにこの詩の最も深い問題があります。

「主よ、わたしの祈りをお聞きください。嘆き祈る声に耳を傾けてください。あなたのまこと、恵みの御業によってわたしに答えてください。 あなたの僕を裁きにかけないでください。御前に正しいと認められる者は、命あるものの中にはいません。」(1-2節)

 苦難にさいなまれた詩人は、神の真実と恵みの御業に信頼しつつ、祈りを聞いてくださいと神に願い求めます。「恵みの御業によって」は、原語では「あなたの義をもって」とあります。神の義とは、神の選びと契約を拒み曲げるあらゆる企てにもかかわらず、神御自身の選びと契約に従って事柄を正しくされる神の御旨とみ業のことです。これこそイザヤ書45:22-25)や、パウロが語っている(ローマ1:17)、神の義です。イザヤ書には、「地の果てのすべての人々よ、わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。・・・恵みの御業と力は主にある、とわたしは言う。・・・イスラエルの子孫はすべて主によって、正しい者とされて誇る」とあります。「神は真実で正しい方(義なる方)ですから、(私たちの)罪を赦し・・・てくださいます)と、ヨハネの手紙一、1:9にあります。

悔い改めとは、神の義に、その義のみに目を向けることです。詩人は人間を救おうとしてやまない神の真実と義に信頼しているのです。彼は神の前では誰も正しい者はいないことを知っているので、神に裁判にかけないでくださいと懇願します。この詩は、まだ神が御自分の義のゆえにイエス・キリストを私たちの代わりに裁かれたという真理を知らないのです。

彼はすべての人が罪に引き渡されており、自分の力ではそこから抜け出ることができないという事実と、そしてそこには全く神の恵みに委ねる道のみが残されていることを知っているので、ただ乞い願う者として立っています。

 「敵はわたしの魂に追い迫り、わたしの命を地に踏みにじり、とこしえの死者と共に、闇に閉ざされた国に住まわせようとします。 わたしの霊はなえ果て、心は胸の中で挫けます。」(3-4節)

詩人はこの乞い願う祈りの態度に達してはじめて、神に自分の苦しみを訴えます。自分の魂は敵に負い迫われ、自分の命は地に踏みにじられ、自分が死人のように希望なき闇に囲まれている有様を告げます。外的に窮し、内的に助けがないので、生きる勇気は奪われ、自分が、もう死にかけて硬直するのを感じる人のように衰え果てていると訴えます。詩人はここに、サタン的な力のために彼の魂が神から離れて死んだ者のようになったというのです。霊的な苦悶を受けています。

「わたしはいにしえの日々を思い起こし、あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し、御手の業を思いめぐらします。あなたに向かって両手を広げ、渇いた大地のようなわたしの魂をあなたに向けます。〔セラ 」(5-6節)

 詩人は自分の個人的な苦難から抜け出そうとして、「いにしえの日」の民族の過去を顧みます。民族の過去における神のさまざまの恩恵、その救済の歴史を考えます。霊的苦悩のただ中で、神がすでに自分以外の多くの人に施した救いの業に思いをはせます。他の多くの人が先に救われたことはやがて自分も救われる一つのしるしです。詩人も神の民イスラエルに属する一人として、民族救済の歴史の中で自己の救いを見ようと試みているのです。

 「両手を広げる」とは、イスラエル人の祈りの姿勢です。天に向かって両手を挙げ、手のひらを拡げて上を仰いで祈るのです。イスラエル人の祈りの態勢は上なる神から一切の力を仰ぐのです。民のために、民の間でなされた神の救いのみ業の記憶が、詩人に、乾いた大地が雨を求めるように神を待ち望ませるのです。

「主よ、早く答えてください。わたしの霊は絶え入りそうです。御顔をわたしに隠さないでください。わたしはさながら墓穴に下る者です。 朝にはどうか、聞かせてください。あなたの慈しみについて。あなたにわたしは依り頼みます。行くべき道を教えてください。あなたに、わたしの魂は憧れているのです。(7-8節)

詩人の神の救いを求めるせっぱつまった気持ちが表面に出ます。「御顔」とは神の人格を表すものであり、それが隠されてしまうことは神との生ける交わりが断たれることです。「墓穴に下る者」とは神との交わりを絶たれた死者です。「朝にはどうか、聞かせてください」は、朝は光の時、恵みの時だからです。彼は朝に神の「慈しみ」、神の憐れみの愛を聞き、自ら歩まなければならに道を教えてくださいと願いました。彼の魂は神に憧れているのです。そのことだけが、彼の魂をよみに陥る危険から守る力でした。

「主よ、敵からわたしを助け出してください。御もとにわたしは隠れます。御旨を行うすべを教えてください。あなたはわたしの神。恵み深いあなたの霊によって、安らかな地に導いてください。」(9-10節)

 詩人にとっては、神の御もとだけが隠れ家であり、この神に逃れる以外には救いを得ることは不可能でした。しかし詩人は、ただ単に神の平安を求めるだけではなく、「御旨を行うすべを教えてください」と祈っています。神のみ旨を行い、その御名のために生きることこそ詩人にとって生き甲斐のある生活であり、これこそどのような敵も侵すことの出来ない、平安に満たされた生活なのです。

 「主よ、御名のゆえに、わたしに命を得させ恵みの御業によってわたしの魂を災いから引き出してください。あなたの慈しみのゆえに、敵を絶やしてください。わたしの魂を苦しめる者をことごとく滅ぼしてください。わたしはあなたの僕なのですから。」(11-12節)

わたしの命を救い出してくださいとの願いは、祈り手にとって、「御名のゆえに」、「恵みの御業によって」とあるように、神御自身の一方的なあわれみの心から実際に助けの手が伸べられることを期待しています。しかし、この世の「命」にこだわるところに、旧約の詩人の限界があるのです。

主イエスの十字架と復活の恵みに与り、永遠の命を与えれた者は、「神の恵みの福音を、力強く証しするという任務を、果たすことができさえすれば、この命すら、決して惜しいとは思いません」(使徒言行録20:24)という生き方を与えられるのです。

最後に詩人は敵の滅亡を祈ってこの詩を終わっています。その祈りは、ほとんど呪いのような激しいものです。神の御名のゆえに、神が崇められるために敵の裁きを望む彼の信仰には学ぶべき点がありますが、その敵が完全に滅ぼされるのを見ることによって、自分が神の僕であることを知るという彼の信仰には、この詩人の限界を見ることができます。

彼は、サタンに勝利したイエス・キリストの十字架と復活を、まだ知らないのです。イエス・キリストは、「死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分に死によって滅ぼし」(ヘブライ2:14)ました。サタンはキリストの千年王国の最後に火と硫黄との池に投げ込まれます(黙示録20:10)。

わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方、主イエスによって「輝かしい勝利を収めています」(ローマ8:37)。なぜなら、「死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださる」からです。パウロは、「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望し」(フィリピ1:23)ていると言い、この世の生に執着することから解放されています。もはや死は、キリストとの交わりを絶つものではなく、一層キリストに近づき、共にいるための通過点になったのです。

詩人に旧約的信仰の制限があるにもかかわらず、この詩人が、率直に自分の罪を悔いる謙遜な信仰の態度と、あくまでも神の御栄のあめに生きようとする雄々しい精神を、この詩を通して学びたいと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「深い淵の底からの祈り」 詩篇130編1-8節

2021-11-15 00:07:53 | キリスト教

      ↑ 「わたしは主に望みをおき、わたしの魂は望みをおき、御言葉を待ち望みます。わたしの魂は主を待ち望みます。見張りが朝を待つにもまして、見張りが朝を待つにもまして。」詩篇130編5-6節

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

降誕前第5主日  2021年11月21日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を

成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわ

せ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」                         (エフェソ3・16-17)

                           礼 拝 順 序

                                                                司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 474(わが身の望みは)

交読詩編  130(主の僕らよ、こぞって主をたたえよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳) 詩篇130編1-8節(旧p.973) 

説  教      「深い淵の底からの祈り」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                     

聖餐式    78(わが主よ、ここに集い)

讃美歌(21) 160(深き悩みより)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇 オンラインで礼拝に参加できます。設定担当は、斎藤美保姉です。

           次週礼拝 11月28日(日)午後5時~5時50分 

           聖 書 詩編143編7-12節

           説教題 「主よ、敵からわたしを助け出してください」

           讃美歌(21) 506 566 27 交読詩編 143    

本日の聖書 詩篇130編1-8節

130:1【都に上る歌。】深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。

2主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。

3主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう。

4しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです。

5わたしは主に望みをおき、わたしの魂は望みをおき、御言葉を待ち望みます。

6わたしの魂は主を待ち望みます。見張りが朝を待つにもまして、見張りが朝を待つにもまして。

7イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに、豊かな贖いも主のもとに。

8主は、イスラエルを、すべての罪から贖ってくださる。

本日の説教

 ルタ―作詞の有名な讃美歌258番「貴きみかみよ、悩みの淵より」(讃美歌21:160番)は、この詩編をもとに作られました。これは初代教会の七つの悔い改めの詩篇(6、32、38、51、102、130、143編)の第六番目の詩であり、繊細な心、単純で誠実な言葉、それに罪と恵みの本質についての最も深い理解とを持ち合わせています。ルターは、この詩の中に新約聖書の敬虔な精神に近いものを認め、この詩を最高の詩としてパウロ的な詩(32、51、130、143)の一つに数えました。

 イスラエルは主の御前に背信の罪を犯して、神から捨てられました。この詩人は、望みと光とを失った祖国の民に向い、神によりふたたび望みをいだいて立ち上がらなくてはならないと激励するのです。これを読むことにより、バビロンの東350キロほどの地点にあるペルシャの首都スサに残留民としてペルシャ王に仕えていたネヘミヤの祈りが思い出されます。

ネヘミヤは、祖国ユダからやってきたハナニと数人の連れから祖国の事情を聞きました。「ユダの人々は貧しく、少数であり、圧迫され、不幸の中にあり、エルサレムの城壁も城門も破壊されているので、周囲の民から恥辱を受けています」という訴えを聞いたネヘミヤは、座り込んで泣き、幾日も嘆き、食を断ち、神に祈りをささげました。

 「おお、天にいます神、主よ、偉大にして畏るべき神よ、主を愛し、主の戒めを守る者に対しては、契約を守り、慈しみを注いでくださる神よ。耳を傾け、目を開き、あなたの僕の祈りをお聞きください。あなたの僕であるイスラエルの人々のために、今わたしは昼も夜も祈り、イスラエルの人々の罪を告白します。わたしたちはあなたに罪を犯しました。わたしも、わたしの父の家も罪を犯しました。」(ネヘミヤ記1:5-6)という祈りです。

この詩はある敬虔な者の告白です。彼は最も深い罪の不安から神の恵みと赦しの確かさへと引きあげられることを許されました。8節によると、この詩は共同体の祭儀の中で詩人が朗読したものと推測されます。

1-4節で、罪の悩みのうちに神に捧げた悔い改めの祈りを神のみ前にくり返すのは、5-8節で会衆の前で、神の恵み深い赦しを切に待ち望む心がいかに満たされたかを感謝をもって告白するためです。

この詩は四つの部分からなっています。

1-2節:声を聞きとってくださることを求める願いから始まります。

3-4節:赦しを賜る主と罪深い人間の関係についての言及が続きます。

5-6節:主に望みを置いて待つという形を取る信仰の告白がなされる。

7-8節:主に呼ばわることから主に贖いを待ち望むよう信仰共同体に勧める勧告へと移行する。

 「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。(130:1)

詩人は「深い淵の底」から、主に向かって叫び求めています。深い淵の底とは、死の世界、よみの世界、神から無限に離れた所を意味します。そこは、神の光のささない所、神との交わりのたたれた所です。この歌で深い淵の底にいることは、明らかに、すべての人間の生涯に宿っている罪(3節)、そしてさらに具体的には罪を犯した集団(民)の罪(8節)と結びつけられています。このような現実の中から、詩人は神を呼ぶのです。信仰は神の恵みのあふれている所ではなく、神から捨てられた所で、なお神を呼ぶことなのです。その時最も遠い神が最も近い神となるのであり、それが恵みの奇跡なのです。そのように神から遠い所から神との交わりの開けるために、祈りがあるです。

 「主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。」(2節)

 「嘆き祈る声」を聞いてくださいと嘆願しています。神が人の祈りを聞かれないように見えるのは実は人の罪のためなのです。咎と罪とが神と人との間をへだて、罪が神のみ顔をかくし、神が聞いてくださるのを妨げているのです(イザヤ59:1-2)。それゆえ人と神との交わりが開かれるためには、罪が除かれなければなりません。しかしこれは人が自分でできないから罪なのです。ただの間違いならこれを改め、正すことができます。しかし罪は人の神に対して申し訳けなく感じている心の負担なので、人は自分で処理することのできないものです。

「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう。」(3節)

罪は神との関係によるものなので、神がこれをないものと認めてくださらなければ、誰も神のみ前に立つことはできないのです。

「しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです。」(4節)

詩人は神の赦しがあるから、待ち望んでいるのです。主には赦しの愛があるので、人は主を畏れ敬うのです。罪の赦しとは神がわたしたちの罪を除き、神との間の障害物が除かれて、神との交わりが開けることです。罪の赦しとはいつも神の前に出られること、神に祈れることです。新約ではキリストの贖いにより罪の赦しがはっきり示されているが、旧約ではそのような仲保者がいません。それにもかかわらず、旧約の神もただ厳しい義の神ではなく、赦しの神、愛の神なのです。

「わたしは主に望みをおき、わたしの魂は望みをおき、御言葉を待ち望みます。」(5節)

 罪の赦しという驚くべき事実を詩人は神に示されました。しかしそれは一度示されてそれだけで分かってしまうようなものではありません。むしろ生ける神に固着し、神を待ち望み、神に祈り、それを通じていつも新たな赦しの言葉として与えられるものでなければなりません。

 「わたしの魂は主を待ち望みます。見張りが朝を待つにもまして、見張りが朝を待つにもまして。」(6節)

「見張り」はエルサレムの城壁の上で夜の間都を守る。見張りは必ず朝の来ることを知っており、詩人は必ず主の赦しの宣言(御言葉)が与えられることを知っている。「見張りが朝を待つ」という言葉は比喩であって、それほどに烈しく主を待ち望む、というのです。罪の赦しを信じて、詩人は神を待ち望み、神のみ言葉を待つ、と言っています。

「イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに、豊かな贖いも主のもとに。」(7節)

これは詩人のイスラエルに対する励ましの言葉です。6節までで詩人が示された信仰の中心問題が、全イスラエルの問題に広げられています。「赦し」が「贖い」となっていることがそれを示しています。「贖い」は民族全体の救いです。「いつくしみ」は普通「契約に基づく愛」だ、といわれています。この詩において「いつくしみ」とは主なる神が僕に対して示すあわれみの愛を示しています。主人と僕は対等ではないから、「いつくしみ」は上から下への愛なのです。この7節において「いつくしみ」が「贖い」と並列に用いられていることも、イスラエルの救いを示しています。神の力(慈しみ)は赦し、そして贖う力であり、イスラエルの背き、世界の悪がいかに大きくとも神の人間に対する救いの契約の力は更に大きいのです。それが神の「義」であり、それに答える人間の「義」は、いかに深い淵の底にあっても神を呼ぶ回心です。

詩人の霊魂が、ただひたすらに神を待ち望むように、イスラエルもまた絶望の淵から主を待ち望まなければなりません。

「主は、イスラエルを、すべての罪から贖ってくださる。」(8節)

イスラエルは、主の御前に背信の罪を犯して、神から捨てられ、エルサレムは廃墟となり、今や、絶望の淵にあり、主を呼び求めています。主はイスラエルの犯したすべての不義を、儀性をはらって赦し、罪から解放してくださるのです。

 詩人が神の赦しを求めて叫んだ深い淵の底に、わたしたちを救うために、すでにキリストは来てくださり、わたしたちと共におられます。父なる神から無限に離れた罪にまみれたこの死の世界に神の御子がわたしたちと共におられます。キリストの十字架は、実に血の価を払って、人を罪から贖ってくださる神の業でした。同時に、人を罪から解放して、新たに自由人としてくださる救いです。わたしたちもまた、詩人と共に、ただひたすら神を待ち望み、夜を守る見張りが、朝を待ちこがれるように、キリストと共にあることを求めたいと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「清い心を創造してください」 詩篇51編12-21節

2021-11-10 15:43:53 | キリスト教

 ↑ 「御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えてください。」(51編14節)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

降誕前第6主日  2021年11月14日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を                                         成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、                               あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                           礼 拝 順 序

                                                              司会 水田 淳子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 492(み神をたたえる心こそは)

交読詩編   51(神よ、わたしを憐れんでください)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)詩篇51編12-21節(旧p.885) 

説  教 「清い心を創造してください」辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                     

讃美歌(21) 481(救いの主イェスの)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇 オンラインで礼拝に参加できます。設定担当は、斎藤美保姉です。

                                                            次週礼拝 11月21日(日)午後5時~5時50分 

                                                             聖 書 詩編130編1-8節

                                                            説教題 「わが魂は主を待ち望む」

                                                            讃美歌(21) 506 474 27 交読詩編 130    

本日の聖書 詩篇51編12-21節

12神よ、わたしの内に清い心を創造し
新しく確かな霊を授けてください。
13御前からわたしを退けず
あなたの聖なる霊を取り上げないでください。
14御救いの喜びを再びわたしに味わわせ
自由の霊によって支えてください。
15わたしはあなたの道を教えます。
あなたに背いている者に、罪人が御もとに立ち帰るように。
16神よ、わたしの救いの神よ、流血の災いからわたしを救い出してください。                                                 恵みの御業をこの舌は喜び歌います。
17主よ、わたしの唇を開いてください
この口はあなたの賛美を歌います。
18もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、                                                 わたしはそれをささげます。
19しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、                                                      神よ、あなたは侮られません。
20御旨のままにシオンを恵みエルサレムの城壁を築いてください。
21そのときには、正しいいけにえも、焼き尽くす完全な献げ物も、                                                                   あなたに喜ばれ、そのときには、あなたの祭壇に雄牛がささげられるでしょう。

本日の説教

 詩編51編は、七つの悔い改めの詩篇(6、32、38、51、102、130、143編)のうちで                                     一番重要です。それは真の悔い改めの本質を示しているからです。ここでは自分の罪に悩み苦しむ心の状態が記され、 赦しと真の神との交わりに至る道が示されています。この詩は願いで始まり、願い続け、そして願いで終わっています。

 1-2節の表題は、この詩をバト・シェバとの不倫の罪(サムエル記下11章~12章)を問う預言者ナタンに会った後のダビデによって祈られたものとしています。詩には、これが捕囚期、あるいは捕囚後に作られ、イスラエルで一般的な悔い改めの祈りとして用いられたことを示唆するいくつもの特徴があります。18-19節と20-21節が、「救いを求める個人の祈り」の拡張部分と考えられます。

 51編を、次のような段落に分けて読むことができます。

第一(3-5節)罪の赦しを神に呼び求める。

第二(6-8節)罪の告白。

第三(9-11節)赦しの願い。

第四(12-15節)霊による再創造を求める祈り。

第五(16-19節)霊的礼拝への誓い。

第六(20-21節)加筆。祭儀批判とまことの礼拝への招き。

それでは、今日の聖句である第四編からみことばをいただきましょう。

「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。」(12節)

罪が人間の「本性」になっているとすれば神が新しい「本性」を造って下さるときだけ、人間はその罪を克服することが出来ます。それは到底人間の力で、できることではなく、神から賜るたしかな霊の力によってのみなされるのです。

人間が道徳的な正しい行為を行えるのは、最終的には人間のわざではなく、神からの恩恵による聖霊の力によるものです。神の霊を与えられて、人はふたたび神の子とされ、もはや罪を犯すことのない、正しく生きることができる者とされるのです。

 「御前からわたしを退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。」(13節)

 神のみ前から追い出されず、つねに神のいますところにいて、たえず神と交わる関係に立って、「聖化」の力である神の霊に与ることが祈り手の願いです。彼は、つねにこの生きた交わりを続けなければ新しい生命はあり得ないことをわきまえています。

 「御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えてください。」(14節)

 詩人は新しい生活を行おうとして神の喜びと助けを求めてています。人は救われて、真の喜びを得ることが出来るのです。神の救いによって、自由に霊、善を意志する霊、喜んで善いことをしようとする霊が与えられ、喜びの生活を送ることが可能となるのです。

 「わたしはあなたの道を教えます。あなたに背いている者に、罪人が御もとに立ち帰るように。」(15節)

 詩人は、伝道により罪人を神に帰らせることを、自分の新生の使命とします。新生により、「わたしたちは見たり聞いたりしたことを、語らないでおこうとするわけにはいかない」(使徒言行録4:20)のです。

 「神よ、わたしの救いの神よ、流血の災いからわたしを救い出してください。恵みの御業をこの舌は喜び歌います。」(16節)

「流血の災いからわたしを救い出してください」という願いは、一見したところ文脈から外れているように思われます。この「流血の災い」は詩人自ら犯した罪悪ではなく、詩人の生命を脅かす危険からの救助を指しています。死んでしまえば、信仰によって働き、神の義(神が贈られる救い)を讃える機会は永遠に失せてしまいます。それゆえ、詩人は神から贈られた新しい生命と使命を覚えた時、ただちにこの生命が保たれるようにと願ったのです。

 「主よ、わたしの唇を開いてください。この口はあなたの賛美を歌います。」(17節)

 詩人は自ら会衆の中での賛美を神の賜物として願い求めています。詩人の新しい生活は、賛美を歌う霊的礼拝を捧げるために与えられています。

 「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、わたしはそれをささげます。」(18節)

 犠牲と捧げ物をもって神に感謝することは、この詩の作者もよく知っているしきたりです。しかし、この祈り手のように、神の霊によって新生を経験したものは、表面的な捧げ物や行動で神の好意を自分に向けさせようとすることはできません。詩人は「神は霊である。神を拝する者は霊と真実をもって拝すべきである」(ヨハネ4:23-24)という言葉に従って歩んでいるのです。

 「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」(19節)

 神はへりくだる者を侮られません。神は単にとりつくろった献げ物や行動を望まず、むしろ人間の全部を求められます。神が喜ばれるのは、破れた霊であり砕かれた心です。神が求める犠牲は、人間が自分の意志や価値を認めてほしいという要求を犠牲にすることです。自分に対する要求はみな放棄して砕けた態度でみ前に立つ人々、ただ神の恵みだけに頼って、自己を全面的に明けわたして神に身を捧げる人々を、神は喜ばれるのです。

 「御旨のままにシオンを恵み、エルサレムの城壁を築いてください。」(20節)

 詩人は、神がエルサレム(とその神殿)を再建されることを願っています。これは後の祭儀をすることが出来なかった捕囚時代の状態を指していることから、加筆されたものです。

 「そのときには、正しいいけにえも、焼き尽くす完全な献げ物も、あなたに喜ばれ、そのときには、あなたの祭壇に雄牛がささげられるでしょう。」(21節)

 神殿が再建された時には、神は「正しい」犠牲を喜ばれるだろうとの希望と願いを述べています。

 詩編51編12節の「わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」という、聖霊によってなされる心の再生を求めた言葉は個人的な体験によるものですが、預言者たち、エレミヤやエゼキエルも将来民の上に確実に起こると告げています。

 「来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主はいわれる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。」(エレミヤ書31:33)

 「わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を取り除き、肉の心を与える。」(エゼキエル書11:19)

 12節の再生は、新約聖書でいう再生(テトス3:5-6)の、旧約聖書におけルーツ(起源)です。

  「神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、聖霊によって新しく生れさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。」(テトスへの手紙3:5-6)

聖霊による心の再生は、主イエス・キリストによって成し遂げられたことを感謝いたしましょう。この恩恵によって、「御救いの喜びを味わわされ、自由の霊によって支えられる」(詩編51:14)という私たちの霊的な生活が守られるのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「主に望みをおく人は新たな力を得る」 イザヤ書40章27-31節

2021-11-03 23:08:37 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

降誕前第7主日  2021年11月7日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                           礼 拝 順 序

                                                              司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 132(涸れた谷間に野の鹿が)

交読詩編  103(わたしの魂よ、主を讃えよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)イザヤ書40章27-31節(旧p.1125) 

説  教 「主に望みをおく人は新たな力を得る」辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                     

讃美歌(21) 149(わがたまたたえよ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇 オンラインで礼拝に参加できます。設定担当は、斎藤美保姉です。

           次週礼拝 11月14日(日)午後5時~5時50分 

           聖 書 詩編51編12~21節

           説教題 「清い心を創造してください」

           讃美歌(21) 492 481 27 交読詩編     

本日の聖書 イザヤ書40章27-31節 51

40:27ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ断言するのか。わたしの道は主に隠されている、と。わたしの裁きは神に忘れられた、と。
28あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。
29疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
30若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、
31主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。

本日の説教

 イザヤ書40章から55章までの無名の著者を、第二イザヤと呼んでいます。その預言の歴史的背景は、紀元前6世紀の中頃(B.C.546~538年)と推定されています。イザヤ書1章から39章までの預言者であるエルサレムで活動したイザヤは、アッシリア帝国の時代を歴史的背景としていますが、バビロンで活動した第二イザヤは、バビロン帝国時代よりペルシヤ帝国が勃興する時代を背景としています。イザヤと第二イザヤの間は、150年以上の開きがあります。第二イザヤの時代は、多くのユダ王国の民はバビロンに捕囚され、祖国の都エルサレムは荒廃し、ユダ王国を滅ぼしたバビロニアはその国運が傾き、ペルシア王キュロス(B.C.557~529年)が現れて、バビロニア軍を破り、捕囚の民イスラエルに解放を告げる時代でした。異教徒の王キュロスは、「主が油を注がれた人」(イザヤ45・1)と呼ばれ、神の意志を知らずして、捕囚民の解放を行うことになります。

第二イザヤはバビロン捕囚のユダヤ人の間から召された一預言者です。彼の名前も、出生についても、預言者としての召命も伝えられていません。しかし彼は、イスラエルの最大の預言者の一人です。第二イザヤは、ユダヤ人のバビロン捕囚という現実にも神の意志である審きを見(40・2)、捕囚からの解放と祖国帰還にも神の意志である救いを見ました(44・28)。

  第二イザヤが預言活動を開始したときは、イスラエルの民の捕囚期間が、短い人でも50年になろうとしていました。イスラエルの民は、「いつまで、主よ、隠れておられるのですか。御怒りは永遠に火と燃え続けるのですか」(詩篇89・46)と故国を失ったことを嘆いていました。そのような人々に、長い間隠れたまま応答をしなかった神が現れ、第二イザヤに語るべき預言を与えました。彼は民に捕囚からの解放の時が来たことを告げ、神が民の罪を赦してくださったことを説き続けました。彼の預言は、捕囚解放前の預言を集めた40~48章と、解放後の預言を集めた49~55章の二部構成になっています。

  イザヤ書40章第一部1節~11節は、「帰還の約束」です。イスラエルの捕囚の民が、バビロンからっだ奇跡的に故国へ帰還することになるという内容です。ここで告知されているのは、解放であり、救済です。イスラエルの審判は過ぎ去り、そのとがはゆるされ。服役の期(とき)は終わり、神自身が解放者として来臨することが語られています。

 第二部12節~31節は、「創造と贖いの神」についての預言です。第二部は、6段からなります。

 12~14節 宇宙の広大と神の主権。預言者は希望の確かさを、主が創造と贖いの神であることを想起することによって、保証しようとします。繰り返して強調していることは、人知を超えた自然と歴史を支配できるものは主のほかにはない、という点です。

 15~17節 無に等しい諸国民。諸国民のむなしさの描写と序曲の「万物は草」は、創世記一章二節の混沌虚無の思想に通ずるものがあります。

 18~20節 空しきもの。偶像攻撃がなされ、捕囚の苦難と屈辱の中で、バビロンの偶像崇拝の愚を攻撃してヤハウェ(主なる神、創造の神)の神を語ります。

21~24節 天に座する者 自然の創造者であり歴史の審判者である主の超絶的な力を強調します。

25~26節 万象をひきだす者 森羅万象をひきいだし、すべてが神の手中にあることを告げる。

27~31節 力の源 今日の聖書の箇所です。捕囚の民、イスラエルは、目に見える現実の前で、「わが道は隠れている」「わが訴えはわが神に顧みられない」(40:27)という不信の言葉を語っています。預言者はより鮮明にイスラエルに対する神の働きについて語ります。

27~31節は、三つの内容で構成されています。

1.(27-28節a)予言者の問いかけ。預言者は、何とかして民にかつて礼拝で賛美した神の働きを思い起させようとしました。

2.(28b-29節)主の讃美。預言者は捕囚の民に賛歌を歌って、力づけている。預言者は、歴史的世界を支配し生きて働く神が今や新しい時を開こうとされる、と告げる。

3.(30-31節)主を待ち望む者。 疲れ、倦怠、無気力が血気さかんな若者たちを襲っている。しかし、主を待ち望む者は絶えず新たな力を得る。

それでは、27節から、1節ごとにみことばを味わいましょう。

「ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ断言するのか。わたしの道は主に隠されている、と。わたしの裁きは神に忘れられた、と。」(27節)

預言者は眼を同胞に転じます。「ヤコブよ、イスラエルよ」は、現実にはユダの捕囚民をさしているが、神の選民の総称であるイスラエル全体をも意味しています。「わたしの道は・・・、わたしの裁きは・・・」の道とは運命の意味であり、裁きとは、神の公正なさばきを意味します。「わたしの道は主に隠されている」とは、私を導く方がいないということであり、結局神が隠れているということです。「裁き」は、ここは「訴え」の意で、なぜ苦難の中を這いずり回らねばならないのか、いったい救いは来るのか、あるいはさらに、契約の民にこのような苦難を与える神は義(ただ)しいのか、との訴えです。主の道はわたしから隠されている。神が顔をかくして、その民の訴えに耳をかさず、正しいさばきをしてくれないことが、敬虔な人々をも焦りと絶望にかりたてたのです。捕囚民の苦しみが続けば続くほど、その信仰が揺らぎ不信の声が上がります。果たして主は、イスラエルの運命に無関心でいられるのか。また、その受けるべき権利を忘れられたのか、という問いです。人間は、一般的に苦難の時には、その苦しみのために神を見失ってしまいます。それだけでなく不平不満を述べ、神から離れ、神ならざるこの世のものに身をまかせてしまいます。

「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。(28節)

預言者は、人間の目に見える現実はどうであれ、歴史を通して働く神を強調しています。いついかなる時代にあっても神の声を聞くことが出来る透徹した信仰の姿勢の必要性を示しています。「とこしえにいます神、地の果ての造り主」と人々は神をこのように教えられました。時間と空間の支配者である神は、人間の思いを越えた遠大な計画をもって歴史を導く方です。それを今思い起すべき時だと言うのです。「地の果て」とは、当時の世界観によればバビロンを指しており、神は、そこで起こっている事態に対しても関心をもっておられることを意味しています。イスラエルの神はバビロンの創造者でもあり、バビロンの辺境で苦しんでいる捕囚民のひとりびとりの存在を、決して忘れてはいない。また主は、決して「倦(うむ)ことなく(弱ることなく)、疲れることのない」方である。その「英知」、すぐれた知恵ははかりがたい、と言うのです。神は答えない、との嘆きをいま預言者は否定するのです。

「疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。」(29節)

<疲れ><勢いを失っている>捕囚民にも力を与え返し、これを救いたもう方だからです。神は一人一人の生に深くかかわっておられます。根源的な所で人間を支え、力を与え、強めてくださる方であります。パウロは、「わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」(コリント二12:10)と語っています。信仰とは、神から力を頂く体験であると言えます。

「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(30―31節)

「若者(年若い者)」と「勇士(血気盛んな者)」が対比されており、人間の力を信じ、主の支えなしに歩もうとする若者も弱り、かつ疲れ、勇士も疲れはてて、つまずき倒れます。しかし、今や新たな歩みが提起されます。「主に望みを置く人」は、神の現在の働きを信じ、来るべき救いを待ち望む者のことです。つまり、神に信頼と望みをおいて生きる者は、神から力を頂くのです。それは自分の所有してい力とは違って、全く新しい力なのです。「主に望みをおく」こと、待ち望むことは神の民、特に「残りの者」の伝統的な姿勢です。

 「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。」「鷲のように翼を張って」とは、鷲は力の象徴であり、翼さをのばすと三メートル近くのもなるという鷲の勇姿、その飛ぶ様は自由さを表します。「鷲の翼」は神の力の象徴です。人間の力に頼らず、根源的力である神に信頼する信仰者のダイナミックな姿が表徴されているのです。その神の力をいただいた者は,「走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」というのです。詩篇103編5節には、「長らえる限り良いものに満ちたらせ、鷲のような若さを新たにしてくださる」とあります。

第二イザヤの預言40章は、この最後の段落(27~31節)において、人間が人間の力に寄り頼むことの空しさ、はかなさを語り、人間を造り、この宇宙を造った創造者なる神に寄り頼むことによってのみ、神からの大きな力に満たされることを預言したのです。この預言は今日のわたしたちにとっても真理なのです。自力では自己を救うことは出来ないのです。宗教改革者ルターも、自力による努力を断念し、心から天を仰ぎ、神の憐れみに依り頼み、「主に望みを」おいた時に、天地を創造し、統治しておられる神の力が臨んだのです。キリストによる愛と平安を与えられ、何をもおそれない強い人に造り変えられたのです。来世への確かな希望を与えられ、愛の人に造り変えられるのです。これこそ今日の世界の人々を救う神の力なのです。「走っても疲れない」精神力、「鷲のような」若々しさ、誰もが望む人間らしい誇りと生き甲斐をも、「主に望みをおく人」は与えられるのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする