富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。」 マタイによる福音書7章1-12節

2020-01-31 17:56:30 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12         TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

                                   日本福音教団 富 谷 教 会     週  報  

     降誕節第6主日   2020年2月2日(日)        午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                                          礼 拝 順 序

                                                       司会 斎藤 美保姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 214(わが魂(たま)のひかり)

交読詩編    9(わたしは心を尽くして主に感謝を捧げ)                    

主の祈り    93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書7章1-12節(新p.11)

説  教  「求めなさい。そうすれば、与えられる。」 

辺見宗邦牧師

祈 祷                

讃美歌(21) 440(備えて祈れ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                                                      次週礼拝 2月9日(日) 午後5時~5時50分  

                                                        聖 書 マタイによる福音書7章13-23節

                                                        説教題   「天の父の御心を行う者」

                                                        讃美歌(21) 206 459 交読詩編 86    

                   本日の聖書 マタイによる福音書7章1-12節

 7:1「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。 2あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。 3あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。 4兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。 5偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。 6神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」 7「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 8だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。 9あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。 10魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。 11このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。12だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」 13「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。 14しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」 15「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。 16あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。 17すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。 18良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。 19良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 20このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」 21「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。 22かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。 23そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

                          本日の説教

 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」

 <裁くな>という言葉は、「腹を立ててはならない」(5・22)の教えと同様に、隣人との関わりが神との関わり方と結びついているのであり、他者に対して善悪の判断を下す(裁く)より、相手との和解こそが優先されるべきなのです。

「裁く」は、見下げる、批判する、非難するという意味です。相手を「裁く」とき、人は相手には厳しく自分には寛大になりがちです。しかし相手を裁く人は、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられるのです。

 主イエスは私たちが人を裁く時に誤りを犯すのは、自分の目の中に丸太があるのに気づかないでいるからだと言われるのです。私たちは、兄弟の目にある小さなおが屑には気がついても、自分の目にある大きな丸太には気がつかないのが問題なのであと言われているのです。「目にある丸太」という言葉で、私たちが知ることの難しい、自分の罪やあやまちや欠点を表しています。

 大切なことは、人を裁くことではなく、自分の目から丸太を取り除くことだと、主イエスは言われているのです。そして、もしも自分の目から丸太を取り除くことができるならば、兄弟の目にあるおが屑をも取り除くことが出来ると言われています。

では、「自分の目から丸太を取り除く」とはどういうことでしょうか。丸太とは私たちの心の中にある自己中心的な思いです。人は誰でも他人の欠点を探し、けちをつけ、優越感に浸るという悪い性質をもっています。この自己中心的な思いが取り去られ、自我が砕かれるためには、主イエス・キリストの十字架の死によって示された神の愛によるほかないのです。私たちの一切の罪が赦されていることを知り、キリストの愛に感謝するときに、兄弟を裁ない人に変えられるのです。

人を裁かないとは、人に対して善悪の判断をしないということではありません。もし誰かが間違っていたり、「あやまちに堕ちなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげる」(ガラテヤ6・1)べきなのです。

次に、主イエスは、「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない」と言われました。値打ちの分からない者に宝物をやっても無意味で、かえってろくなことはないと言う意味です。主の御言葉も、十字架において示された神の愛も、心を閉ざしている人々にとっては、豚に真珠に過ぎません。主の御言葉は、それを心から信じる人々にとってこそ、神聖なものであり、真珠のように尊いものです。頑なな思いを捨て、心を開いて主の御言葉を聞かなければなりません。

主イエスは、「求めなさい。そうすれば、与えられる」と言われました。祈りは必ず聞かれると言われているのです。私たちにとって大きな励ましとなるこの言葉が、ここで語られるのは、これまで主イエスが語った様々な教えや戒めを実行することは、到底不可能に思え、「わたしは何と惨めな人間なのだろう」と無力さ、罪深さを自覚し、助けを求める者に対する励ましなのです。

主イエスは、<求める>、<探す>、<たたく>と言う三つの言葉を並べることによって、熱心な祈りをささげるように励まされます。しかし、祈りに限定する必要はありません。「求める」は神の国とその義」に対して使われています。「見出す」は、「自分の命」(10・39)、「安らぎ」(11・29)、「宝」(13・44)などで用いられています。「たたく」は「門」(7・13)と関係があるかも知れません。いずれも、「求め続けなさい」、「捜し続けなさい」、「たたき続けなさい」と、熱心に継続することが求められています。

そうすれば、「与えられる」、「見つかる」、「開かれる」といっておられます。神は熱心な祈りに答えてくださるのです。しかし、神は何でも祈ったとおりに与えてくださるというのではありません。熱心に祈る人に対し、神御自身が最善のことを、最善の方法で、最善の時に答えてくださるのです。願ったとおりにならないときでも、神は今、自分にとって最善の道を歩ませてくださっていることを信じ続けるべきなのです。

 主イエスは、さらに必ず与えられるという確かさを、親子の例を用いて説明します。世の親は、子供に少しでも良い物を与えようとします。パンを欲しがっているのに、石を与える親はいません。あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいないと言われています。ルカによる福音書には、「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(11・13)とあります。絶えざる熱心な祈りに応えて神は、わたしたちにとって、もっとも良いものである愛と聖霊とを与えてくださり、父なる神の性質にあずからせてくださるのです。

神が私たちの祈りに応えて、良い物をくださるのだから、「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です」と主は言われます。黄金律と言われているこの言葉は、徹底的な愛の実行を勧めます。愛において律法の諸要求は満たされ、完成するのです。律法は徹底的に隣人を尊重することによって、守られるものであり、そのような人間関係と、神との関係を<求めなさい>と主イエスは勧めるのです。

「黄金律」とは、1750年にイギリスのジョン・ウェスレーがマタイ7・12を黄金律(Golden Rule)というタイトルで説教をしたことから、黄金律と呼ばれるようになったと言われています。また第24代ローマ皇帝アレクサンデル・セヴェルスという人がこの言葉を自分の部屋の壁に、金文字で刻ませた額を飾ったことからとも言いわれています。

「狭い門から入りなさい。その道もせまい。」命に通じる門は狭く、その道も細いからです。それを見出す者は少ないのです。主イエスは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」(マタイ11・28)と招いています。この主イエスの招きに、頑なに拒む人々が大勢いるので、狭い門になっているのです。狭い門、命に至る門から入るには、素直になって、主により頼む生き方をすることが求められています。

主イエスは、「滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い」と言われます。滅びに通じる道とは、自己により頼む生き方、自分の力と努力で生きて行けるとする自己中心的な人々の生き方を意味しています。その道は死をもって閉ざされます。主イエスは、死を乗り越える道、「永遠の命」を与えられる道を選ぶように私たちを招いています。

「偽預言者を警戒しなさい」と主イエスは言われます。ここで言われている「預言者」とは旧約の預言者ではありません。イエス様の時代に、間違った教えや指導をする教師たちです。偽預言者とは、神の言葉を用いて羊を養うような振舞いを示しながら、その実、飼っている羊を食べてしまう人たちです。

では、どのようにして偽預言者を見分けたらよいのでしょう。「彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼」です。彼らは表面的に見る限りでは親切で立派ですが、その権威の行使は私欲、名声や権力欲のために人々を利用するのです。

では、何によって見分けるのでしょうか。主は、「あなたがたは、その実で彼らを見分ける」ことが出来ると言われます。良い木か悪い木かは、その実を見れば明らかではないか、と主は言われます。「実」という言葉は、その人の歩み、人格、品性、生活などを想定させますが、偽預言者かどうかは彼の隣人愛の行為に表れてきます。偽預言者はその本質を隠し通すことが出来ず、教えであれ生活であれ、その偽善性はやがて外面に表れるのです。

人間が「良い木」や「悪い木」に例えられています。天の父のみこころを行い、主に喜ばれる生活をしている人が、「良い木」であり、良い実を結ぶ人です。主イエスにつながっていなければ良い実を結ぶことができません(ヨハネ15・5)。

イエスは、「主よ、主よ」と口先で言うだけの人が「皆、天の国に入るわけではない」と言われます。口先で言う人も何人かは天国に入れるのでしょか。原文は部分否定ではなく、全面否定です。「わたしに『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るのではない。わたしの天の父上の御心を行う者(だけ)が入るのである」という意味です。

人間にとって重要なのは、やがて来る神の裁きです。そのとき「大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。」ここでイエスに訴えている人々は、自分たちの行った預言や悪霊追い出し、奇跡を、神の裁きを免れる条件として主イエスに認めてもらうことを期待して話しているのです。

 新約聖書には、悪魔が行った「しるしと不思議」も数多く記されています(使徒言行録19・13-16)。偽預言者たちはイエスの名によって奇跡的なことを行っていました。

偽預言者たちが、イエスの名によってなした業績をいくら並び立てたところで、それは全く無駄なことです。たとえ信仰をもち、数々の奇跡を行うことが出来ても、愛がなければ何の益もないのです(コリント一13・3)。

「その時、イエスは、きっぱりと、『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』」と宣告されるのです。<不法を働く者ども>とは、律法を否定する者であり、愛の律法を否定しているからです。

「わたしから離れ去れ」は、完全な拒絶の言葉です。イエスは終末の父なる神の裁きを代行する者となられます。「知らない」は、詩篇6・9の「悪を行う者よ、皆わたしを離れよ」に基ずくのろいであり、永遠の滅びの宣告です。

主イエスは「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かな実を結ぶ」(ヨハネ15・5)と言われました。主イエスに結ばれている私たちは良い木とされ、良い実を結ぶ木とされていることを感謝しましょう。聖霊を与えられ、神の性質に与る神の子とされていることを自覚し、充実した日々を主イエスと共に歩んでまいりましょう。

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「明日のことまで思い悩むな」 マタイによる福音書6章19-34節

2020-01-23 15:49:47 | キリスト教

              ↑ イスラエルのガリラヤ地方の春の野の花

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

              日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

              降誕節第5主日  2020年1月26日(日)

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                                  礼 拝 順 序

                                                 司会 辺見 順子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子

讃美歌(21) 361(この世はみな)

交読詩編  118(恵み深い主に感謝せよ)                    

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書6章19-34節(新p.10)

説  教  「明日のことまで思い悩むな」 辺見宗邦牧師

祈 祷                

讃美歌(21) 463(わが行くみち)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                                          次週礼拝 2月2日(日) 午後5時~5時50分  

                                           聖 書 マタイによる福音書7章1-12節

                                           説教題「求めなさい。そうすれば与えられます。」

                                           讃美歌(21) 214 446 交読詩編 119篇1-24   

       本日の聖書 マタイによる福音書6章19-34節

 6:19「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。 20富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。 21あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」 22「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、 23濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」 24「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」 25「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。 26空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。 27あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。 28なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。 29しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 30今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。 31だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。 32それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。 33何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。 34だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

                         本日の説教

 マタイ福音書によると、イエスは群衆を見て山に登られ腰を下ろすと、弟子たちが近くに寄って来たので口を開き、教えられた(マタイ5:1,2)、と記されているように群衆よりも主に弟子たちに語っています。山上の説教は祝福の言葉で始まっていることからも、単なる戒めや倫理ではなく、弟子たちが恵みとして与えられている神の国の生き方が勧められています。

 主イエスは弟子たちに「あなたがたは地上に富を積んではならない」と教えます。理由は、「虫が食ったり、さび付いたりする」からです。害虫が衣服をたべたり、金属に腐食作用が進むからです。また「盗人が忍び込んで盗み出したりする」からです。地上の宝として、主に物質的なものが考えられているようです。それを「積む」と言う言葉で、宝への執着を示しているようです。しかし、この世の生活で終わってしまう名誉、地位、身分なども人間が執着する富です。ギリシヤ語の原語では、「あなたがたは宝をあなた方自身のために蓄えてはならない」とあります。宝を自分の欲望充足のために追い求めることを戒めているのです。

 「宝は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない」と言われました。イエスのこの教えは、キリスト者が将来のために必要な資産を準備することを禁じたものではありません。生命保険に入ってはいけないとか、ビジネスに成功してはいけないとか、この世で名を残すような業績を上げてはいけない、ということでもありません。この地上において得たものは神から与えられたものであり、委ねられているものとして、神に認められ喜ばれるような使い方をすべきなのです。

地上の宝を神や人に仕えるため、愛の業にために用いるとき、天に宝を積むことになります。そして神が求めておられるような本当の自分になり、神から永遠の喜びをいただけるのです(詩篇16:11)。

 「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」と主イエスは言われます。ここでは「宝」ではなく、「富」という言葉が使われています。原語は「マンモン」という「金銭」表わすアラム語です。マンモンは人間が信頼を寄せる財貨です。モンモンは金銭だけでなく地上で人を引きつけるあらゆるものが含まれます。このような富に心を寄せ、富に頼ると、地上の生活だけに関心を抱くようになり、神をないがしろにして、自己中心に生きる生きた方をするようになります。一方、天に宝を積む生き方は、天上で神からの栄誉を受けること目指し、神中心に、神の御意志に従って生活し、神や人への奉仕や愛の業に生きる生き方になります。そして、人との関係も争う関係ではなく、正しい愛の関係になり、平和をもたらします。

 「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い」と主は言われます。目は体にとって灯火の役目を果たします。目が澄んでいれば、体のともし火の役目をする目が暗い室内を照らし出して明るくするので、人は明るいところで行動できます。このような状況を「全身が明るい」と言っています。目が病んで見えなければ、人は明るい室内にいでも暗闇にいるようで、その体は行動できません。このような状況を「全身が暗い」と表現しています。 「目が澄んでいれば」とか、反対に、「目が濁っていれば」とは、追い求める対象に向かって、混じりけのない心で対しているか、または、他のものにも心を向けて混じりけのある心で対しているかを表しています。

この目のたとえは、先の宝をどこに積むかのたとえと、この後に続く神と富のどちらを選ぶかの教えの間にあって、選び取った対象に向かって混じりけのない心で、全存在を傾けて対すべきことを説くたとえになっています。私たちは、主イエスを信じ、主イエスに従って歩むとき、物事を正しく見分ける澄んだ目を持ち、心も体も明るく輝くことができます。世の光となって、周囲の人々をも明るく照らすことができるのです。しかし、自己の欲望のままに、自己中心的に生きようとするなら、私たちの目は濁ってしまい、物事を正しく判断できず、間違った道を歩むことになります。

主イエスは、「だれも、二人の主人に仕えることはできない」と言われます。当時の奴隷は一人の主人に仕えて、全面的にその主人の意志に従わなければなりませんでした。神に仕えて永遠の命を得るか、富に仕えて滅びに陥るか、その何れかを選びなさい。「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と主イエスは言われました。神を信じながら、富に仕えるということは出来ないのです。一方に親しんで他方を軽んじることになるからです。

主イエスは富の所有を全く否定しているのではありません。神の御栄のために富を正しく用いることを求めているのです。

金銭的な富への執着だけでなく、地上的ないろいろな欲望も、過度の欲望となると、その貪欲は「偶像礼拝」にほかならないものとなります(コロサイ3:5)。私たちを真に幸せにしてくれるのは過行く地上の富や欲望にあるのではなく、永遠の神にあることを忘れてはなりません。清い心と澄んだ目を与えられ、生涯誤ることのない正しい人生の選択ができるように、主のお導きをいただかなければなりません。

人生の拠り所を富に求め、それを自分の努力で確保しなければならないと考えるとき、人は思い悩みから免れることは出来ません。主イエスは富についての思い悩みを捨てて、神に全面的に信頼して生きるように勧めます。

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」と主は言われます。「何を食べようか」と言って思い悩み、それらを切に求めているのは異邦人です。ここで言われている異邦人とは、悔い改めない不信仰な大衆を指しています。彼らはこの世に目を向け、生ける真の神を知らないので、食べる物、飲む物、着る物のことで思い悩みます。これらのものがみな私たちに必要であることは天の父なる神が知っておられ、これらのものを神は与えてくださるのです。

主イエスは、「空の鳥をよく見なさい」、「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」と言われます。空の鳥も野の花も神の御手の中におかれています。ソロモンの豪華な衣装にも勝る美しい衣で、神は野の花は装ってくださっています。空の鳥も野の花も、神がなすままに身を委ねきっているではないか。あなたがたはそこから神に信頼することを学びなさい、と言われるのです。

神は必要とあれば、何でもくださることがおできになる方です。主イエスは無計画な空の鳥のような自然的生存に身を任せるようにと勧めておられるのではありません。私たち人間は知能と人格を与えられ、人間として良き業に励む生活をしなければなりません。

それゆえ、主イエスは、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と言われます。「神の国と神の義」の「と」は、二つのものを対等に並べる接続詞ではなく、「すなわち」の意味です。「神の国」を求めることは「神の義」を求めることに他なりません。「神の国」とは神のご支配を意味し、「神の義」とは神の正しさ意味します。「義」とは神様のご性質です。「神の義を求めよ」とは、神が「正しいと認めること」、「よしとされること」を求めなさい、ということです。

 アブラハムが主を信じたとき、主はそれを彼の義(彼を正しい)と認められました(創世記15:6)「神の国は・・・聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(ローマ14:17)と使徒パウロは語っています。義とは、聖霊によって与えられる正しさであり、神に良しとされ、迎え入れられることです。イエスの弟子たる者は、食物や衣服など地上の生活に必要なものについて、思い悩むことなく、ひたすらこのような神の義を追い求め、、神様の御心にかなった正しい行いを続けるように命じられているのです。

どのようにして、神様に正しいとされるのでしょうか。それは、なにか良いことをする、善行を積む、祈る、断食をするということではありません。ただイエス様の救いによって、その救いを信じる信仰によって、わたしたちは神様に正しいと認められるのです。わたしたちに、その救いの業、救いの恵みをこそ求めなさいと、イエス様は言われています。そして、その救いに既に与ったものは、その救いに感謝して生き、神様のみ心を求め、神様の正しさのなかを生きていくことが求められています。そうすれば、わたしたちに日々の糧や、魂に必要なもの、生きるに必要なすべてを整えてくださるのです。主イエスを信じる者は、復活の恵みにあずからせていただけるのです。死はもはやキリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできません(ローマ8:38-39)。

「だから、明日のことまで思い悩むな、明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」と主イエスは言われます。神の国と神の義を求めて生きることは、それなりの労苦があります。しかし、思い煩いからは解放されています。「その日の苦労は、その日だけで十分である」とイエス様はいたわってくだいます。今日を生きる苦労は、神様の恵みと支えによって乗り切きることができました。だから、明日も主が必ず支えてくださると信じて、明日を迎えましょう。一日一日を充実した日にしていただきましょう。

 

 

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「『主の祈り』とその他の祈り」 マタイによる福音書6章1~18節

2020-01-16 13:07:21 | キリスト教

                     ↑   A. デューラーの「祈りの手」  

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

     日本福音教団 富 谷 教 会     週 報

     降誕節第4主日  2020年1月19日    午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)                                                                                                                        聖 句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせあなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                     礼 拝 順 序

                                                              司会 斎藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 494(ガリラヤの風)

交読詩編    5(主よ、わたしの言葉に耳を傾け)                    

主の祈り    93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書6章1~18節(新p.9)

説  教  「『主の祈り』とその他の祈り」 辺見宗邦牧師

祈 祷                  

聖餐式    78(わが主よ、ここに集い)

讃美歌(21) 513(主は命を)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

                                      次週礼拝 1月26日(日) 午後5時~5時50分  

                                      聖 書 マタイによる福音書6章19-34節

                                      説教題  「明日のことまで思い悩むな」

                                      讃美歌(21) 361 367 交読詩編 118   

      本日の聖書 マタイによる福音書6章1~18節

 6:1「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。 2だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。 3施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。 4あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」 5「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。 6だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。 7また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。 8彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。 9だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。 10御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。 11わたしたちに必要な糧を今日与えてください。 12わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。 13わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』 14もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。 15しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」 16「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。 17あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。 18それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」

                   本日の説教

山上の説教の聴衆は、マタイ福音書によると、イエスは群衆を見て山に登られ腰を下ろすと、弟子たちが近くに寄って来たので口を開き、教えられた(マタイ5:1,2)、と記されているように群衆よりも弟子たちです。そして祝福の言葉で始まっていることからも、山上の説教は単なる戒めや倫理ではなく、恵みとして与えられている神の国の生き方が勧められているのであり、弟子たちが神との恵みの関係を確立するための教えです。

マタイ6章の1節から18節までには、ユダヤ人の宗教的善行について三つの具体的な問題を取り上げています。施し(6:2-4)と祈り(6:5-15)、と断食(6:16-18)です。6章1節は、これらに共通する注意を述べています。

「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。」(6:1)

主イエスは、弟子たちに対して、「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」(マタイ5:20)と言われました。このことを前提にして、「人の前で見てもらおうとして善行をしないように」と注意したのです。

律法学者やファリサイ派の人々は、熱心に施し、祈り、断食などの宗教的な業に励んでいました。それらの業に励むこと自体は、すばらしいことでしたが、彼らは、それらの業を自らの敬虔さを誇るため、「人に見せるために」行っていたのです。「人に見せるため」の行為は、人間からの称賛を期待する行為であり、その業は神からいただくべき報いを、先に人から受けてしまうことになってしまいます。

この6章1節で言われたことが、施しについても、祈りや断食についても、繰り返し強調されるのです。「施し」というのは、貧しい者たちへのあわれみの心をもつ行為です。貧しい者への施しは、信仰からでてくる当然の行為です。ところが、その人を本当に同情する心からではなく、自分の名誉心から行われることが多かったのです。主イエスは、憐れみに動かされたとしても、自分の誉れのために施しを行う人を「偽善者」と呼んでいます。「ラッパを吹く」とは、自己顕示のたとえです。施しをするとき、人に見られるためにしてはいけない、ということを言っているのです。

「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」ということばは、事実上不可能です。施しは本来、信仰からでてくる当然の行為なので、世間の称賛を博するためになされるべきものではありません。そのような演技意識から全く自由に、自然になされなければなりません。その行為は隠れたものであるべきことを教えています。そしてそれを「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」という約束と結びつけています。

わたしたちは自己への関心によって支配され、自我意識のとりこになってしまいます。「施し」は、人間に宿る罪から解放され、聖霊に導かれているときにできる善行なのです。報いがあってもなくても、ただ相手の必要を満たすため、愛にもとずく行為こそが善行なのです。

ところで、人に認められること、人から認めてもらいたい気持ちは決して悪いことばかりではありません。むしろ、才能の開発や、仕事の進展にもつながるという利点を持っているというこは明らかです。逆に人から認められないと、張り合いをなくして、せっかくの才能もその芽を摘み取られたりすることがあります。人から認めてもらうことが、神も喜ばれることであれば、それは「神の報い」の対象となります。人からの承認や世間の評価を求める者は、ほんとうは神の承認、「神の報い」に目を向けるべきなのです。

フィリピの信徒への手紙3章14節に「目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである」とパウロは述べています。。「神の賞与」、神様からの誉れを、それは神様が喜んでくださる、そのことを望み見て、人生の馳せ場を走ることが、わたしたちに求められているのです。

次に主イエスは、「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない」と警告されました。当時の敬虔なユダヤ人は、午前9時、正午、午後3時に祈ることを習慣とし、どこにおいても祈りの姿勢を取ったようです。ところが、祈りの時間になると、町の広場や街角などにわざわざ出向いて祈りをささげる人々がいました。彼らは、自分がどれほど敬虔な者であるかを示しかったのです。イエスは、公の祈りを禁じられのでも、公の場所での個人の祈りを禁じたのでもありません。人に見られるためにささげられた祈り、偽善的な祈りを非難されたのです。

だから主イエスは、「祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と勧めたのです。人々が集まっている礼拝や祈祷会などで祈ることを禁じているのではありません。「もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事で、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」(マタイ18:19-20)と主は言われています。

人前で祈ろうが密室で祈ろうが、ただ神にのみ向かって祈ることが大切なのです。正しい祈りは、父なる神に、子どものように求める信頼に基づいています。だから祈りは他の人々に対しても、自分自身に対しても、父なる神に対してすらも、決して人に見られるためにするものではありません。

主イエスは、「異邦人のようにくどくどと述べてはならない」と戒めています。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいるからです。「彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と言われました。

「だからこう祈りなさい」と、主イエスは模範的な祈りを示されました。それが「主の祈り」(マタイ6:9-13、ルカ11:1-4)です。神を信頼して祈ることが求められています。主イエスは、長い祈りを戒められたのではりません。神に対する信頼のない祈り、確信のない祈りを戒められているのです。主イエスは、「だから、言っておく、祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい」(マルコ11:24)と言われました。

祈りは、美しく洗練された言葉で祈る必要はありません。「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執成してくださるからです。」(ローマ8:26)聖霊は、信仰者の祈りを支える働きをしてくれるのです。

神の子とする霊を受けた私たちは、まず神に全幅の信頼をよせて、「天におられるわたしたちの父よ」と呼び掛けて祈るように、主イエスは神を親しみ深い父親として示してくださいました。そして、私たち自身のことに先立って、真っ先に神のことを祈るよう求めています。「み名があがめられますように、み国が来ますように、御心が行われますように」と祈ることにより、まず神が神とされることを願い、神への讃美し、神のご支配の力にすべてを委ね、私たちの生活が神中心の生活とされるように願うのです。

その生活は、十字架と復活による救いの恵みに応える生活です。最も大切なことは、主日礼拝に連なって主の御名をほめたたえることです。ほかにもいろいろのことが考えられるが、キリストの体である教会を愛し、教会に奉仕し、教会を支えることが求められているのではないでしょうか。

つづいて私たち自身のことについて祈るのです。生活上の個々のことは省略され、神の前に生きる人間が祈らなければならないことを三つに凝縮して祈るように示してくださいました。「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」、「わたしたちの負い目を赦してください」、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」の三つの祈りです。

「糧を与えてください」という祈りには、私たちが働いて糧を得るというよりも、神が糧を与えてくださるという神への感謝があるのです。私たちが、糧のために働くことが出来るのも、神が私たちに働く力や健康を与えてくださっているからです。この糧のための祈りをするとき、食べるものだけでなく、住むところ、着るものなど、生きていくために必要なものや、また、家族のこと、仕事のこと、健康ことなど、すべてのことがその中に凝縮して収められているのです。

次に「罪の赦し」ですが、神の子としていただいた私たちは、その時以来、全く罪がなくなった生活を始めたわけではありません。そこで主イエスは、毎日神に対する罪の赦しを求める祈りをするように教えるのです。

「わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」は、神から赦しを受けるには、自分に対してなされた罪を赦すことが不可欠だということを強調しています。罪の赦しを願うための条件としてではなく、人と人との関係の中でも和解が実現することが前提になっている言葉です。神の赦しを願い求めることと人間同士の関係において和解を成り立たしめることとは不可分離に結びついているからです。主イエスは兄弟を赦すことの重要性を、「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」(6:14-15)と教えられ、さらに7度の70倍まで赦すように(18:22)言われています。主イエスに赦していただいて、神の子とされた喜びに比べたら、他の人の罪を赦すことは何でもないことであるはずです。

わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」この祈りは、たえず私たちを襲う悪の力、罪の支配があるからです。神の恵みの力に挑戦し、聖霊を否定しようとするこの力を侮ることができません。自分の決心や力では打ち勝つことができません。私たちは謙虚に神の力により頼むべきであることを主イエスは教えておられるのです。

私たちが献げている「主の祈り」には、結びとして、「国と力と栄えとは限りなくなんじのものなればなり。アーメン」という頌栄があります。これはイエスの後の時代、おそらく二世紀頃に、歴代誌上29:11の祈りが付け加えられ、そして今のかたちになったのです。

主イエスは、「求めなさい。そうすれば与えられる。……あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるに違いない」と教えています(マタイ7:7-11)。ルカ福音書には、「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ11:13)と記しています。これは祈りにおいて求めるべきものは、最終的には聖霊であることを示しています。

「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しい確かな霊を授けてください。」(詩篇51:3-4、12)とダビデ王は、罪の告白の後で、聖霊を求める祈りをささげています。このように、祈りには、神への讃美と感謝や、罪の告白があります。祈れないときは、「祈れない私をあわれんで下さい」と祈るのです。神の恵みが感じられない時は、自分の現実を正直に神に申しあげ、「あなたの僕に光を注ぎ、慈しみ深く、わたしをお救いください」(詩篇31:17)と詩篇にあるように祈りましょう。

自分の種々の願いの他に、自分以外の他の人々のためにとりなす祈りも大切です。使徒パウロは自分のために祈って欲しいと、執り成しの祈りを求めています。体が不自由になっても、執り成しの祈りをすることで、多くの人達のために役立つことが出来るのです。

「主の祈り」以外の祈りをするとき、「わたしの名によって祈り願うことは、何でもかなえてあげよう」(ヨハネ14:13)と主イエスは教えています。そこから、祈りの最後に、「イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします」と唱(とな)えるのです。

祈りは、「天の父なる神」に向かって祈るように、主イエスは教えられました。「イエス様」に向かって祈っても良いのでしょうか。最初の殉教者となったステファノは、神の御子イエスに向かって祈っています。「主イエスよ、わたしの霊をお受けください。」そして「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と祈って眠りにつきました(使徒言行録7:59-60)。時には、イエス様に直接祈ることがあっても、良いのです。「聖霊様」、「み霊(たま)よ」と祈るのもかまいません。神様は三位一体の神だからです。

「アーメン」という祈りの最後に言う言葉の意味は、「まことに」「本当に」「確かに」「そのとおり」「そのようになるように」といった意味です。「アーメン」はヘブライ語・アラム語の「真実に」「確かに」、などの意味のことばで、祈ったことの実現を願うことばです。だれかが祈った祈りに「アーメン」と唱和するのは、祈られたその祈りに心を合わせ、心からその実現を祈願するためです。

イエス様に教えていただいた「主の祈り」を日々祈りながら、神の子とされている恵みに感謝し、その証しをしつつ過ごしてまいりましょう。

 

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「あなたの敵を愛しなさい。」 マタイによる福音書5章38~48節

2020-01-11 22:41:02 | キリスト教

     ↑  Sermon on the Mount by Carl Bloch(1877)

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

       日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

     降誕節第3主日  2020年1月12日     午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)                                                                                                                    聖 句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせあなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                                礼 拝 順 序

                                                              司会 千田 開作兄

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)   4(世にある限りの)

交読詩編   23(主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない)                    

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書5章38~48節(新p.8)

説  教  「敵を愛しなさい」   辺見宗邦牧師

祈 祷                  

讃美歌(21) 280(馬槽(まぶね)のなかに)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

           次週礼拝 1月19日(日) 午後5時~5時50分  

           聖 書 マタイによる福音書6章1~18節

           説教題  「祈るときには」

           讃美歌(21) 494 513 交読詩編 5  

  本日の聖書 マタイによる福音書5章38~48節

 5:38「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。 39しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。 40あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。 41だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。 42求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」                                                 43「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。 44しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 45あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。 46自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。 47自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。 48だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

      本日の説教

「目には目を、歯には歯を」という句は、旧約聖書に出て来る言葉です。出21・24、申19・21、レビ24・20の中に記されている言葉です。そのほか、レビ19・12-18も念頭においていたようです。「人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない」(レビ記24章19、20節)と記されています。

この教えが意味しているのは、過剰な復讐をしてはならない、ということです。人から何か損害や苦しみを受けたら、それに対して個人的な恨みや憎しみによって復讐しようとすると、自分が傷つけられたよりもひどい復讐をしようとします。それが人間の復讐の思いです。復讐は復讐を生み、エスカレートしていきます。そのような、復讐が過激になっていくことへの抑止力(創4・23参照)として、この「目には目を歯には歯を」という戒めがあるのです。

しかし、主イエスの時代の律法学者やファリサイ派の人は、律法は言葉通りに守ることが正しいことであると考えるようになり、「目を傷つけられれば、目を傷つけ返してもいい」「歯をやられれば、歯にやり返してもいい」というように、復讐することが自分に与えられた権利であるかのように思ってしまっていました。本来、神様は人と人が互いに傷つけあうこと、殺しあうことから守るために立てられた律法が言葉通りの解釈により、変容してしまっていたのです。

これに対して主イエスは、「しかしわたしは言っておく」と言われ、これまでの「目には目を歯には歯を」の解釈を否定され、「悪人に手向かってはならない」と報復を否定するだけでなく、さらに「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と教えます。これは打たれてもなお毅然と立つ勇気がなければできることではありません。

「あなたを訴えて下着を取ろうとする者」というのは、多分損害賠償か借金上の訴訟で、担保として下着をとる場合でしょう。身につけたものを脱ぐ以外に何もない貧しい状態です。下着という安価なものまでも裁判で要求される状況で、「上着をも取らせなさい」とあります。下着よりも高価な上着まで与えよというのです。上着は、身を守るもの、また寝床のない人にとっての寝具でもありました。

「一ミリオンいかせるように強いるなら」のこの強いるは、国家に強いられるということを示す言葉です。この当時、ユダヤは、ローマ帝国に支配されていましたから、戦争が起これば、ユダヤ人は軍隊に徴兵されるだけでなく、食糧を緊急に強制的に提供させられることもあったようです。そのように人に対して、求めに応じるだけでなく、こちらから進んで余分の奉仕をせよというのです。「一緒に来いといった1ミリオン(約1480m)だけでなく、一緒に2ミリオンいきなさい」と主イエスは言われます。

「左の頬をも向けなさい」「上着をも与えなさい」「一緒に二ミリオン行きなさい」ということに示されているのは、そのように自分を苦しめる相手に対して、むしろ愛をもって臨めということです。これはただ抵抗するな、対抗するなということだけではありません。

「隣人を愛し、敵を憎め」の「隣人を愛し」は、レビ19・18の引用です。「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない」とあります。「敵を憎め」は旧約聖書に中にはありません。むしろ旧約聖書は敵(あるいは外国人)に対して親切にふるまうべきことをしばしば教えています(出23・4-5、箴24・17、25・21-22など)。

イスラエルにおいて<隣人>とは、同じ神への信仰をもつ同胞のことであり、神との契約共同体に入っている者のことです。したがって非イスラエル人は<寄留する者>(レビ19・34)であって<隣人>ではありません。このように<隣人>が閉鎖的な意味があったのに対して、主イエスは敵をもすることを求めます。つまりイエスの言葉は<敵を憎め>を否定するのみでなく、隣人愛の限界を破る言葉でした。ここでは隣人と隣人でない者との区別そのものが撤廃され、愛の対象は何によっても制限されません。これは全く驚くべき発言です。

 「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。自分を迫害する者のために祈りなさい」との命令は、民族的・宗教的区別をのり越えて、隣人愛の姿勢を貫くことを要求します。隣り人とは特定の性質をもっただれかではなく、わたしたちが現在具体的に出会っている人です(ルカ10・25-37の「よきサマリア人のたとえ」)。

 「自分を迫害する者のために祈りなさい」も衝撃的なすすめです。旧約には敵に対抗する祈りはあっても、敵のための祈りは全くありません。これは主の福音の新しさです。

さらに、愛において隣人・敵の区別が消えるようにイエスは善人・悪人の区別さえ超えてしまいます。神がすべての人に<太陽を昇らせ……雨を降らせる>(45節b)という場合、人間に対する神の働きは人間によって条件づけられるのではありません。<父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである>は、素朴な比喩的表現ですが、そこには新しい「神」観が示されています。このような神の哀れみを知り、この哀れみによって神の子とされていることを理解すると、敵を愛することは義務ではなくて、神の子の本来の姿であることを知らされるのです。

「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか」。ここでは徴税人が敬虔でない世俗主義的人間の代表としてあげられています。「自分の兄弟にだけ挨拶する」という場合の兄弟は、肉親のみならず、ファリサイ派の人々が同じ仲間をもこの名称で呼んでいたように、何らかの意味で密接に関係のある同胞です。「挨拶」とは街頭の儀礼のような形式的なものであるより、「抱き合って口づけする」ような親密な愛情の表現です。例え同一集団の中では共に生きる相互愛があったとしても、それが閉鎖的な集団であり、他者に対する差別と排除によって保たれているのであれば、それは愛というより集団的自己保存本能です。しかし神の愛は絶えず外に向かって開かれ、新しい交わりを作り出してゆくものです。

 「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」。キリスト者すべてが「完全な者」となるように期待されているのです。キリスト者は完全を目指して歩み続ける途上の人間です。

主イエスが求めておられることは、極めて高度な倫理です。生まれつきの人間には、実践不可能な戒めです。「敵を愛しなさい」(マタイ5・43-48)という言葉も、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(同39)という言葉にも、「どうしてそんなこ とができるだろうか」とか、「私には、そんなことはとてもできない」と言う人が多いと思います。しかし、これは、歯を食い縛って努力しろと、無理を要求している言葉ではありません。もし私たちが神の恵みに生かされていれば、自分を憎む人、自分にひどい仕打ちをする人さえも受けいれることができるようになる、ということを言っているのです。

利己的な自我に支配される私たちが神の恵みを受けるには、キリストによる救いにあずからなければなりません。キリストの十字架の死は、自分の罪を赦すための贖いの死であり、キリストの復活は、私たちを罪の死の支配から解放し、聖霊によって、永遠の命を与えるためです。この神の恵み、神の力を信じるとき、私たちは、聖霊によって神の子とされます。聖霊によって、神様の力がいつも私たちと共にあり、イエス様の愛がいつも私たちと共にあるようにしていただけるのです。この神の恵みに生かされるときに、「敵をも愛す」ことができるようになるのです。しかし、私たちはすでに完全な者となっているわけではありません。大切なのは、神の恵みを受けて、日々新しく創造されることです(ガラテヤ6・15)。

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「「新しい歌を主に向かって歌おう。」 詩篇98篇、コロサイの信徒への手紙3章1~4節

2020-01-05 22:13:49 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

 日本福音教団 富 谷 教 会     週  報

       降誕節第2主日(年始礼拝) 2020年1月5日    午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                  礼 拝 順 序

                                                              司会 斎藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 368(新しい年を迎えて)

交読詩編   96(新しい歌を主に向かって歌え)                    

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)  詩篇98篇(旧p.935)

     コロサイの信徒への手紙3章1~4節(新p.371) 

説  教   「新しい歌を主に向かって歌おう」  辺見宗邦牧師

祈 祷                  

讃美歌(21) 405(すべての人に)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

              次週礼拝 1月12日(日) 午後5時~5時50分  

              聖 書 マタイによる福音書5章38~48節

              説教題  「敵を愛しなさい」

              讃美歌(21) 4 280 交読詩編 36

        本日の聖書 

 詩篇98篇  1【賛歌。】

新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって、主は救いの御業を果たされた。

2主は救いを示し、恵みの御業を諸国の民の目に現し、

3イスラエルの家に対する、慈しみとまことを御心に留められた。地の果てまですべての人は、わたしたちの神の救いの御業を見た。

4全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。歓声をあげ喜び歌い、ほめ歌え。

5琴に合わせてほめ歌え。琴に合わせ楽の音に合わせて。

6ラッパを吹き、角笛を響かせて、王なる主の御前に喜びの叫びをあげよ。

7とどろけ、海とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものよ。

8潮よ、手を打ち鳴らし、山々よ、共に喜び歌え。

9主を迎えて。主は来られる、地を裁くために。主は世界を正しく裁き、諸国の民を公平に裁かれる。

     コロサイの信徒への手紙3章1~4節

3:1さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。 2上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。3あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。 4あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。

         本日の説教

「新しい歌を主に向かって歌え」という言葉は、神の勝利を預言した第二イザヤが初めて用いた言葉だと言われています(イザヤ書42・10)。「新しい歌を主に向かって歌え」で始まる詩篇98編と詩編96編は共に礼拝のための詩編です。

「新しい歌」によって歌うのは、主の成し遂げられた「驚くべき御業」であり、「主の救いの御業です」です。また、「地を裁くために」来られる「主を迎える」ためです。「新しい歌」とは、「終末時に神の到来を迎える」喜びの歌であり、希望の歌です。

イスラエルの民は、主なる神が理想的な王として改めて即位される祭りを、新年に神殿で行ないました。大祭司も毎年、年に一度、神殿の至聖所に入って、民の罪の贖いの供え物を献げる祭儀を行いました。しかし、罪なき主イエスが十字架に架かり、全き贖いとなり、復活して天上の御座につき、永遠に世を支配する方となられたので、「主の即位祭」も、大祭司による「贖いの供え物」を献げる祭儀も必要でなくなりました。

詩編98編は、エルサレム神殿で神の民に顕現される主に向かって、バビロン捕囚からの解放を、「主は驚くべき御業を成し遂げられた」と告げ、新しい歌を歌うように、礼拝者たちに促します。

バビロン捕囚からの解放とは、主が、ペルシアの王クロスを用いて、バビロンを滅ぼし、59年にも及ぶ捕囚のユダヤ人たちを解放し、エルサレムに帰還させたことです(紀元前538年)。

「右の御手、聖なる御腕」とは、共に主なる神の御力を強調する表現です。主なる神は全能の御力で、バビロン捕囚から神の民を解放するという救いの御業を実行されました。

「主は救いを示し」とは、主が神の民イスラエルをバビロン捕囚から救い出すことを、世界の諸国民に知らせられたということです。 全ての人を罪と死の支配から救う、キリストのよる救いの福音も世界に告げられました。

「イスラエルの家に対する」とは、イスラエルの民に対するという意味です。「慈しみとまことを御心に留められた」とは、慈しみとまことを、主はお忘れにならなかったということです。「慈しみ」は、主なる神の不変の愛を表します。

神の救いは、神の民イスラエルを通して、世界の果てにまで及ぶのです。全地に、地の果てに至るまで、主なる神の喜びの声を上げよと、讃美を促しています。 琴、竪琴、角笛、ラッパと、様々な楽器に合わせて、喜び、賛美せよと促します。

礼拝は人間だけでありません。海に、世界とそこに住む被造物に、潮、すなわち、大川に、山々に主を賛美するように促しています。

イスラエルの神、王である主がこの世界に来られる。 これは、神の民イスラエルのためだけではありません。世界の諸国民、さらに全被造物を含めた世界の喜びとなるのです。

主がこの世界に来られて、正しい裁きをなされる。諸国民が公平に裁かれるという「さばき」は、罪への刑罰と審判と言うよりも、神の支配・統治をあらわす言葉です。そして「来られる」という言葉も未来形ではありません。主の支配は始まっていて、やがて成就するのです。

この期待はイエス・キリストによって実現します。神の裁きによって世界のすべての民と全被造物は滅びることがないように、神は御子イエスを世の送り、十字架の贖いの死により、世の人々を罪を赦し、復活と昇天によって罪と死から解放し、聖霊を与え、永遠の命を与えられました。主イエスの来臨と共に、神の支配が始まり、神の御国が近づいています。そして主が再臨されるのです。

このイエス・キリストによってなされる新しい救いの御業に、今やわたしたちが新しい歌をもって応えるようにと、神は招いておられます。

コロサイの信徒への手紙3章1節に、「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます」とあります。2章12節によると、わたしたちが主イエスを救い主と信じるということは、わたしが主キリストと共に罪に支配されていた古いわたしに死んで、また、主キリストと共に、罪ゆるされた新しいわたしに復活させられるということなのです。主イエス・キリストの十字架の死が、わたしのための死であったからであり、また主イエス・キリストの復活がわたしのための復活であったからです。そのことを知らされ、信じているわたしたちは、今や主キリストと共に復活させられ、復活の命に生かされているのだから、上にあるものを求めなさいと命じられています。

主キリストと共に復活させられ、復活の命に生かされているわたしたちは、この世の朽ち果てざるを得ない死ぬべき命に生きているのではありません。復活された主キリストがいます天の永遠の故郷へ目指して歩んで行くのです。

しかし、わたしたちは今なおこの地上に生きています。この地上で生きていく限りは、様々な試練や苦悩、痛み、迷い、病、災いを経験しなければなりません。しかし、その中でわたしたちが信仰をもって生きるときに、その道は主なる神によって守られ、導かれているのだということです。だから、どのような時にも、決して絶望することなく、悲嘆にくれることなく、立ち止まることなく、天に見上げて、平安を与えられ、その道を進むことができるのです。

この新しい年も主に向かって「新しい歌」を歌いつつ、復活の命に生き、愛に生き、天に宝を積む生活をいたしましょう。

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