富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「貧しいやもめの献金」 ルカによる21章1~4節

2019-01-25 01:12:23 | キリスト教

       ↑ 賽銭箱の前に立つ金持ちの男は、何枚もなくさんの硬貨を入れている。一方貧しいやもめは、最小額のレプトン銅貨二枚、有り金全部を賽銭箱に入れている。

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

   日本福音教団 富 谷 教 会 週 報 

 降誕節第5主日   2019年1月27日(日)    午後5時~5時50分 

         礼 拝 順 序

                 司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  17(聖なる主の美しさと)

交読詩編   48(大いなる主、限りなく賛美される主)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)ルカによる21章1~4節(新p.151)

説  教  「貧しいやもめの献金」     辺見宗邦牧師

祈 祷                 

讃美歌(21) 512(主よ、献げます)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

             次週礼拝 2月3日(日) 午後5時~5時50分 

             聖 書  ルカによる福音書5章33~39節

             説教題   「新しい教え」 

             讃美歌(21) 16 360 24 交読詩編 109

    本日の聖書 ルカによる21章1~9節    

 21:1イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。 2そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、 3言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。 4あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」

      本日の説教

 ルカによる福音書21章1-4節の「やもめの献金」と、5-6節の「神殿崩壊の予告」は、19章28節のエルサレム入場から始まる主イエスの受難と復活の記事に先立つ記事です。イエスの三年近い公生涯の最後という観点からこの記事を読むことが求められます。さらに、細かく言いと、「やもめの献金」は、ルカ20章45節-47節の「律法学者を非難する記事の後に置かれています。「やもめの献金」は、マルコによる福音書の並行記事(マルコ12章41節-44節)の方では、「律法学者を非難する」(マルコ12章38-40節)の直後の置かれており、一つのまとまりとなっています。

 主イエスは「長い衣を着て歩くことや、広場であいさつされることや、また会堂の上席、宴会の上座を」好み、「またやもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈りをする」と律法学者たちを非難しています。

 「やもめの献金」のやもめは、律法学者たちによって「家を食い倒」されると言われるやもめと関連でここに配列されといると思われます。受難週の火曜日の出来事です。この後、三日後には十字架の死を遂げるのです。そのような緊迫した日の中での出来事として、記されています。           

       

       ラッパ形の献金箱

  主イエスは、エルサレムの神殿の「賽銭箱」の置かれている広場で、金持ちたちが賽銭箱にたくさん献金を入れるのを見ておられました。おそらく自由献金用の「賽銭箱」の近くに「座って」(マルコ12・41)て見ておられたようです。

 神殿の婦人の庭の周りは柱廊で囲まれ、壁を背にして十三個のトランペット形の献金箱が置かれていました。それぞれの箱には、献金の使途のラベルが記されていました。箱のそばに祭司が立っていて、献金者は、自分の献金の使途と金額とを告げました。十三番目の箱は自由献金用の箱でした。ユダヤ人男性は、「婦人の庭」で献金し、そこを通って、円形状の階段を上がり、「イスラエル人の庭」まで入って祈ることができました。

 ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚を入れました。「レプトン」は、「レプタ」の複数形です。レプトン銅貨は当時パレスチナに流通していたギリシヤ銅貨の中で最小のものでした。

  旧約聖書に、夫に先立たれた「やもめ」や親を失った「孤児」の保護が命じられいることは、イスラエル社会の中で、この人たちが不安定な生活基盤で生きていたことを物語っています。「みなし子・やもめ・寄留の外国人」に対する神の顧(かえり)みの愛をいいあらわす旧約のことばがあります。

「あなたがたの神である主は、……みなし子とやもめのために正しいさばきを行い、また寄留の外国人を愛して、食物と着物を与えられるからである」(申命記10・17-18、詩篇68・5)。

 マルコ福音書の方では、レプトン銅貨二枚を、一クァドランスと説明しています(マルコ12・42)。クァドランスはローマの青銅貨で、一デナリオンの64分の1に相当します(共同訳聖書巻末付録「度量衡および通貨」参照)。一デナリオンはローマの銀貨で一日の賃金に当たります。日本の貨幣に換算すると、一日の労務者の賃金を8000円とすると、その64分の1は、125円です。貧しいやもめは、125円しか持っていなかったことになります。

  イエスは、このやもめに目をとめ、弟子たちを呼び寄せて言われました。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から自分の持っている生活費を全部入れたからである」と言われました。

 イエスは、やもめが生活費の全部を入れたことを、貧しいやもめのみすぼらしい姿から見抜かれたのか、超能力によるものかは記されていません。彼女は二枚の銅貨ではなく、一枚のレプタ銅貨を入れて、もう一枚を残すこともできたでしょう。しかし、彼女は「生活費」を全部を入れたのです。

  この「生活費」という言葉は、原文のギリシャ語では「ビオス」という言葉です。この「ビオス」という語から、英語の「生」「生命」の意を表す接頭語<bio->という語ができました。生物学 バイオロジーbiology(bio[生命]+logy[学問])やバイオテクノロジー(生命工学)ということばも、ギリシャ語の「ビオス」から派生しています。「生活費」という原語は、「生命」をも意味する語です。彼女は彼女の「生命」をささげているのです。

 金持ちの「有り余る中から」の献金と、貧しいやもめの「乏しい中から」の献金とは、著しい対照をなしています。多額の金を入れて満足している金持ちに比べて、このやもめは、わずかな献金にひけ目さえ感じたかも知れません。しかし、困難な生活の中で彼女を支えてくださる神に感謝する心をあらわしたいばかりに、持っていたもの全部を献金したのです。

  普通の人ならこの貧しい婦人を見ても、特別な感じも抱くことなく、せいぜい気の毒な人がいるといった位にしか思わなかったでしょう。しかし主イエスはこの婦人に目をとめられました。小さい者への優しさと配慮に満ちておられます。

 「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」と主イエスは弟子たちに言われました。主イエスは金額を問題にしているのではありません。彼女は神により頼み、神は完全に守り給うと確信して、すべてを神に献げつくしたと、主イエスは言われているのです。神の求められるのは、献げ物ではなく、彼女の神に対する愛であり、神により頼む純粋な人の心であり、信仰です。

 主イエスは山上の説教で、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのもので」ある」(マタイ5・3)と教えられました。この貧しいやもめは、「心の貧しい人」でした。「心の貧しい人」とは、「神に全く依り頼んでいる人」のことです。すべては神様の恵みによって生かされていることを自覚し、自らを貧しい者であるかのように見做している人」です。富んでいても、すべては神様からの預かりものとして、神様の御心に従う人です。「心の貧しい人々」は、神の国に将来参加するというだけでなく、その至福を現在受けているからこそ「幸い」なのです。

 この「貧しいやもめの献金」の物語は、神への献げ物が大きいほど神に喜ばれるという当時のユダヤ人の考えを是正する教えでした。献金する金額ではなく、その日の生活費を全部ささげたかどうかとかという問題でもありません。献金する心を神は求めておられるのです。何よりも大切なことは、富に頼るのではなく、神にすべてを委ね、全くより頼んで生きることです。

 礼拝については、使徒パウロはローマの信徒への手紙12章1節で、「こういうわけで、兄弟たち神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる、聖いなる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」勧めています。自分の体を献げること、自分の生命をささげることが霊的な礼拝であると教えています。

 献金については、コリントの信徒への手紙二、9章6節-15節で、1.いやいや惜しみながらではなく、気前よく、喜んで。2.強制されてでもなく、自発的に。3.他人との比較ではなく、自分のきめたとおりに行うように、と教えています。神から与えられているお金を、神のみこころにかなうように、生活のためにも有効に用いなければなりません。神は生活費のすべてを献げことを求めているのではありません。献金はわたしたたちの命をささげる献身のしるしです。献金は神の恵みに対する感謝から、神への愛、隣人への愛、教会の宣教のために用いられるものであり、神への栄光のためなのです。

   主イエスは不信仰な律法学者や祭司たち、イスラエルの民の反抗と迫害の中にあって、孤独でした。すべてを献げる信仰深いこの貧しいやもめの姿に、どんなにか慰められたことでしょう。彼女の神に対する真実と愛とを見られて、どんなにか力づけられたことでしょう。主イエスも、父なる神を信じて、十字架の上ですべてを献げられるのです。

  讃美歌21の512番「主よ、献げます」の1、4節の歌詞を紹介します。

 1 主よ、献(ささ)げます、私のいのち、 あなたのために 用いてください。

   今この時も これからのちも    み名をたたえて 日々過ごします。

  4 主よ、献げます、私の愛を   知恵も力も 宝もすべて

   私のうちに あなたが住んで    みむねのままに 用いてください。

                                                               アーメン。

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