富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「人間を救うのは、この人以外にない。」 使徒言行録4章1~12節

2019-06-29 12:06:27 | キリスト教

               ↑ ペトロの最高法院(サンヘドリン)での説教。最高法院(ユダヤの祭司たちによる議会)の議員たちは半円形に座り、その中央に被告ペトロを立たせている。ペトロの後ろ手は縛られていうるが、聖霊に満たされた大胆な姿が描かれています。

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

         日本福音教団 富 谷 教 会   週 報

聖霊降臨節第4日  2019年6月30日    午後5時~5時50分

年間標語 「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により、力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                              礼 拝 順 序

                                                司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 155(山べにむかいて)

交読詩編   52

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者木

聖 書(新共同訳) 使徒言行録4章1~12節(新p.219)

説  教   「人間を救うのは、この人以外にない」

                      辺見宗邦牧師

祈 祷                 

讃美歌(21) 566(むくいをのぞまで)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

                                       次週礼拝 7月7日(日)  午後5時~5時50分 

                                       聖 書 創世記28章10~22節

                                       説教題 「主がこの場所におられるとは!」 

                                       讃美歌(21) 214 320(旧) 24 交読詩編 51

     今週の行事 韓国の教会から14名の方が来られます。茶室での呈茶とキリシタンの講話をいたします。

               本日の聖書 使徒言行録4章5~12節

 4:1ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た。 2二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち、 3二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。既に日暮れだったからである。 4しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった。 

  5次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。 6大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。 7そして、使徒たちを真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問した。 8そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、 9今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、 10あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。 11この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』す。 12ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」

                      本日の説教

 使徒言行録は一章では、主イエスの復活と昇天を書き、二章では聖霊が弟子たちの上に降ったことが書かれ、ペトロの説教と民衆の悔い改めと、初代の教会の生活が記されています。

  三章では、弟子たちの中心であるペトロとヨハネが行った足の不自由な人を癒した業と、神殿での説教が記されています。癒しと教えはイエス御自身がなさった働きであり、弟子たちはイエスに倣って、その宣教の業を進めていったのです。

 ペトロとヨハネが午後三時の祈りの時に神殿に行ったとき、毎日、エルサレム神殿の「美しい門」の所に座って物乞いをしていた生まれつき足の不自由な男から施しを求められました。「美しい門」は、おそらく神殿東側の境内から婦人の庭に入る門のことと思われます。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言いました。キリストによって生かされている自分たち、そして自分たちのうちに働いている<聖霊の賜物>を見てもらいたかったのだとおもわれます。

  ペトロは、「金や銀はないが、持っているものをあげよう」と言って、「イエス・キリストの名」によって彼を癒したのです。「イエスの名」には、イエスの人格の力がこもっています。そのイエスの名の力が働いたのです。施しを求めて座っていた男は躍り上がって立ち、歩き回り、神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行きました。イエス・キリストによる救いが、人間を自立させ、自由を与え、喜びをもって自らの人生を歩ませてくださることを、この奇跡は示しています。

  それを見た民衆は皆非常に驚き、「ソロモンの回廊」にいる彼らの方に集まってきました。これを見たペトロは、民衆に、「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか」と話し始めました。そしてイエスの十字架の死と復活を語り、わたしたちは、このことの証人です。イエスの名を信じる信仰がこの人を完全にいやしたのです、と語りました。イエスは預言者が予告していたメシアであることを告げ、罪を悔い改めて神に立ち帰りなっさい、と訴えました。ペトロとヨハネの語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数だけでも五千人ほどになりました。

  そして、4章に入ります。ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、「祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々」たちが近づいてきました。二人が死者の中から復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだちました。とくに、天使や復活を否定しているサドカイ派の人たちは激しくいらだちました。そこで二人を捕え、すでに日暮れだったので、翌日まで牢に入れました。翌日、議会(最高法院・サンへドリン)が召集され、「議員、長老、律法学者たち」、それに「大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族」もエルサレムに集まりました。議会の開かれた場所は、大祭司(カイアファ)の邸宅とされていますが、神殿とエルサレム市街との間にかけられた橋の下にある宮殿の「切リ石の間」で行われました。後には王室の廊(王の柱廊)の真ん中の下にある地下宮殿でサンヘドリンが持たれました(バイブルワールドp.94、私市元宏(きさいいちもとひろ)「ヨハネ福音書講話ー最高法院の審議」参照)

  

 法院に集まっていた人々は当時のユダヤ教の指導者たちであり、知識も富も力も権威もありました。この大祭司を頂点とする支配階級は、ペトロとヨハネによる集まりを厄介な騒動と見做し、秩序を乱す者として罰するために集まったのです。この時、アンナスは大祭司を引退していましたたが、依然として実権を握っていました。大祭司はアンナスの娘婿のカイアファです。ヨハネとアレクサンドロはアンナスの息子たちです。他の大祭司一族も集まりました。議会を構成する議員は七十一名ですが、この日集まったのは、評議員の十数名です。律法学者たちの大部分はファリサイ派の人たちで、死人の復活を認める立場の人たちです。そこで尋問の内容が変わります。使徒たちは復活を語ったことによって捕えられたのに、彼らは、二人の使徒を真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と、癒しの奇跡の<力>の源を問うものでした。その場には、自分たち以上の権威は無いと高ぶり、ペトロやヨハネのような身分の低い者たちから出ている力を危ぶみ、非難している権力者の姿があります。

   そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言いました。「民の議員、また長老の方々、今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。」 

   ペトロとヨハネは、犯罪者のように権力者の前に引き出されたが、堂々と答弁します。足の不自由な男を癒し、善い行いをしたのに、何故自分たちを取り調べのか、と皮肉を込めた答弁から始まります。「その人がいやされたのは、あなたがたが十字架につけて殺したイエス」であり、「神により死者の中から復活したナザレの人、イエス・キリストの名によるものです」と答えたのです。

   更に続けてペトロは、「この方(イエス)こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」と語りました。「あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石」とは、メシア預言として知られている詩編118篇22節からの引用です。「隅の親石」は、建物を建てるとき土台となる最も重要な石です。神の家を建てる者たちであるあなたがたに軽蔑され捨てられたイエスは、神によって復活させられ、神の家の<礎(いしずえ)の石>にされたのです。この方以外には、だれによっても救いは与えられません。神はわたしたちを救うために、このイエス・キリスト以外のだれも救い主として与えていません。イエス・キリストこそ、神が与えた真の救い主です、と宣言して、ペトロは弁明を終えました。ここでは、病が癒されることが救いとしてと語られています。

   このペトロの大胆な態度とその答弁を聞いて、「議員や他の者たちは」驚いてしまいました。しかも二人が無学な普通の人であることを知ったからであり、また、「イエスと一緒にいた者であるということも分かった」からです。ペトロたちが、このような答弁ができたのは、「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、……わたしの証人となります」(1・8)と主が約束された聖霊に満たされて語ったからです。

  議員たちは、イエス・キリストの名によって足を癒された生き証人がそばに立っているのを見て、この否定しようもない事実の前に「ひと言も言い返す」ことが出来ませんでした。そこで一旦、二人を議場から去らせましたが、これ以上民衆にイエスの名が広まらないようにするために、再び二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話してはならないと命じました。しかし、そのような言い渡しに屈することなく、ぺトロとヨハネは、「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」と、その決意を明らかにしました。議員たちは、二人を更に脅してから釈放しました。民衆がこの奇跡の出来事について神を賛美していたので、民衆の反応が気になり、どう処罰してよいか分からなかったので釈放したのです。

  4章22節に、「このしるしによっていやしていただいた人は、四十歳を過ぎていた」とあります。ペトロとヨハネが行った癒しの奇跡によって癒された男は、生まれたから40年以上も不自由の身であった、と釈放物語を終えます。

 「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」イエス・キリストは、神が人間を救うために、この世に送られた神の子です。その教えや敵をも愛する愛、様々な癒しや奇跡によっても神の子であることが示されています。人間の罪を赦す十字架による全き贖いの死、罪と死の支配から解放し、わたしたちを神の子として、永遠の命を与えるための復活と昇天、父なる神と共に、世の支配者となられ、天上にあって、わたしたちの祈りを聞き、わたしたちに聖霊を送られて導き、いつも共にいて下さる方は、この方以外は、この世にいません。「キリストの名による救い」、このペトロの言葉には、「イエス・キリストの名」によって救われる、溢れるような喜びが込められています。そしてその喜びを全ての人々の救いのために伝えていきたいという思いが込められています。このような救い主を神がわたしたちに与えてくださった大いなる恵みに深く感謝するほかありません。

 「人間を救うのは、この人以外にない。」この言葉をもって、信仰を強制したり、他の宗教を排斥するは避けなければなりません。赦しと愛を教えられているキリスト教徒は、宗教的寛容の精神を世界に根付かせる責任を負っています。聖霊によらなければだれも「イエスは主なり」と告白することはできません。金銀はなくとも、わたしたちにも与えらえている聖霊の力の威力を実証していくことが人々の心をとらえることになるのです。

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「主がこの場所におられるとは!」 創世記28章10~22節

2019-06-26 09:34:40 | キリスト教

     ↑ Michael Willmann(1630-1706)「ヤコブの夢の状況」(1691年)

  2019年6月26日(水)15時~15時40分

    「ミニ礼拝と聖餐」   場所 仙台市、養老施設シエアホームみどり

讃美歌(21) 214(わが魂のひかり)

主の祈り   93-5、

新共同訳聖書 創世記28章10~22節

説  教   「主がこの場所におられるとは!」 辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌   434(主よ、みもとに)

聖餐式(21)  72(まごころもて)

感謝祈祷

祝祷

           本日の聖書 

 28:10ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。 11とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。 12すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。 13見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。 14あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。 15見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」 16ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」 17そして、恐れおののいて言った。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」 18ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、 19その場所をベテル(神の家)と名付けた。ちなみに、その町の名はかつてルズと呼ばれていた。 20ヤコブはまた、誓願を立てて言った。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、 21無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、 22わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」

            本日の説教

 アブラハムの子イサクには、双子の兄弟が生まれました(創世記25章19節以下)。先に生まれた子は赤かったのでエサウと名付けられ、後から生まれた子は、兄のかかと(アケブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けられました。この二人は性格の違う兄弟でした。エサウは「巧みな狩人で野の人」だったのに対して、ヤコブは「穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした」とあります。ヤコブは、兄のかかとをつかんで生まれてきたように、人を押しのける狡猾な人だったようです。父イサクはエサウを愛しました。狩りの獲物が好物だったからでした。母リベカはヤコブを愛しました。親の偏愛を受けて二人は育ちました。

 父は、兄のエサウを跡取りしようと考えていました。しかし、ヤコブは、腹のすいたエサウから、一杯の煮物と引き替えに、長男としての権利を自分のものにしました。しかし、誰が跡取りとなるかは、父イサクが誰に祝福を与えるかにかかっていました。老い先短いことを意識したイサクが、エサウに祝福を与えようとしていました。ところが、ヤコブを気に入っていた母リベカが、イサクの目がかすんでよく見えないのをいいことに、ヤコブにエサウの着物を着せ、エサウになりすまさせて、父イサクの祝福を代わって受けさせてしまったのです。ヤコブはこうして、長男としての権利を奪っただけでなく、エサウに与えられるはずだった祝福をも奪い取ってしまったのです。エサウは、父がヤコブを祝福したことを根に持って、ヤコブを憎むようになった。そして、心の中で言った。「父の喪の日も遠くない。そのときがきたら、必ず弟のヤコブを殺してやる」と、エサウはヤコブに殺意を抱くようになりました。それを察知した母リベカは、ヤコブを守るために彼をハランへと旅立たせることにします。その口実は、ハランにいるリベカの兄ラバンの娘を嫁に迎えるためということでした。リベカは夫に、ヤコブを嫁取りのために旅立たせようと提案しました。リベカは、「わたしは、ヘト人の娘たちのことで、生きているのが嫌になりました。もしヤコブまでも、この土地の娘の中からあんなヘト人の娘をめとったら、わたしは生きているかいがありません(27:46)」と夫に告げました。エサウがヘト人の娘を妻として迎えたため、彼女たちが、イサクとリベカにとって悩みの種となっていました。リベカは、アブラハムの神、ナホル(アブラハムの弟)、その子ベトエルの信仰のもとで育ったヤコブの伯父ラバンの娘とヤコブを結婚させようとしたのです。  

 ヤコブは父イサクをも騙したが、父はこれを赦し、祝福して送り出しました。こうしてヤコブは、ベエル・シェバの父の家からパダン・アラムのラバンの所へ旅立ちました。パダン・アラムはアラム人(古代シリヤ北部に住む民族)の平地の意味で、ベエル・シェバから725キロもある、徒歩で一か月を要する遠い地です。今日のシリヤの国境を越えたトルコの地です。ラバンは母リベカの兄です。この旅は、兄が父から受けるはずの跡取りの祝福まで奪ったので、兄エサウの憎しみを買い、殺意を逃れて、母の勧めで伯父ラバンの許に身を寄せる逃亡の旅でした。 

 一人でベエル・シェバを立ったヤコブは、後にベテルと呼ばれる場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜の過ごすことにしました。ベエル・シェバはパレスチナ南部の町であり、ヤコブの父イサクがそこに井戸を掘り当てて家族と共に住んでいた所です。ヤコブにとってここは父の家、故郷なのです。しかし今ヤコブはその故郷を離れて、シリアのはるか北方、ユーフラテス川の上流にあるハランへと旅をしているのです。これまでの生活は、家督相続の争い、兄弟との不和、人間的な争いに満ちていました。表向きは嫁探しの旅ですが、実は逃亡の旅でした。人里離れた誰もいない夜空の下で、石を枕にして寝るヤコブの姿は哀れです。このヤコブの姿は、人間関係における破れと挫折に苦しむ人間の姿です。この時のヤコブの心境はどのようなものだったでしょうか。希望のない孤独な荒れ野の旅です。神様の祝福を求めるあまりに、兄の心を踏みにじるようなことをしたヤコブは、石を枕にしながら自分のしでかしたあやまちを反省したに違いありません。

   ヤコブの寝たベテルの風景

 その夜、ヤコブは夢をみました。旧約聖書では、夢という手段を用いて、神様がヤコブと出会われた出来事でした。ヤコブに神が近づき、かわらに立ち、語りかけられました。「先端が天にまで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりして」いました。前の口語訳聖書ではこの「階段」は「はしご」となっていました。「ヤコブのはしご」という言葉がここから生まれました。旧賛美歌320番「主よみもとに近づかん」の3節では「かよう梯(ばし)(梯子)の上より」とあり、賛美歌21に434番では、「天よりとどくかけはし(架け橋)」とあります。この階段は地上から天に上っていく階段ではなく、神の住む天から地に下ろされた階段です。この階段は、天と地とをつなぐものです。神様の世界と人間の世界とをつなぐ架け橋がここにある、ということを、ヤコブはこの夢において体験しました。ヤコブはこの夢で、自分がいるこの場所が神様の御臨在される所であることを知らされたのです。

 ヤコブは、アブラハム・イサクと続いた神様の祝福を、父から受けながら、約束の地を負われた身でした。ヤコブはもう自分には神様の祝福はもうないのではないかとさえ思ったことでしょう。しかし、そのようなヤコブに対して、神様は夢を見せ、語りかけてくださったのです。

 ヨハネによる福音書1章51節に語られています。「更に言われた。『はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる』」。「神の天使たちが昇り降りするのを見る」、これはまさにヤコブがあの夢で見たことです。「人の子の上に」とあります。「人の子」とは主イエス・キリストのことです。ヤコブが見たあの階段は、主イエスを指し示しているのです。主イエスが天と地の、神様と私たちの間の架け橋です。

 ヤコブは主なる神のご臨在と神が語りかけてくださったみ声を聞きました。「見よ、主が傍らに立って言われた。『わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。』」神様からも見放されているという思いがあったヤコブに神が現れ、語りかけて下さったのです。そして、カナンの土地を与えるという約束を神様からいただいたのです。「あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。また、あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなって世界に広まり、地上の氏族はすべてあなたとあなたの子孫とによって祝福に入る。」

 そして、神が共にいて下さり、守って下さるという約束を与えてくださったのです。「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこに行っても、わたしはあなたを守り・・・あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」

 ヤコブは眠りから覚めて言いました。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」ヤコブの見た夢は正夢でした。神は、夢をとおして、ヤコブに語りかけてくださったのです。神からも人からも遠く離れていると思っていた野外のヤコブに、神が現れてくださったのです。ヤコブは朝早く起きると、自分がまくらにした石を立てて、油を注いで聖別しました。その所の名をベテル(「神の家」の意)と名付けました。神がこれからもヤコブと共にいてくださるなら、この地を礼拝の場所とし、必ず収入の十分の一をささげると約束し、請願を立てたのです。

 ヤコブにとって、体を横たえたルズの荒野は、「神の家」「天の門」となりました。私たちにも、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」ということがあります。私はそれを、入院中の病室で経験しました。

 主イエスがこの地上にこられて救いのみ業を完成してくださったことにより、地上のすべての場所がベテルとなりました。神は地上のどこにでも偏在され、支配されておられるのです。私たちが神から最も遠く離れたとこに置かれていると思えるような所、最も落ち込み気落ちしているときにも、私たちが最も弱い、貧しい状態にあるときにも、主イエスは共にいてくださり、力を与え、祝福してくださるのです。

 ヤコブは荒れ野で野宿している時に、神様のご臨在を経験し、「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」と叫びました。このように、たとえあなたが知らなくても、主はいつもあなたの側にいてくださり、あなたの心に愛をもって宿ってくださるのです。

 

     

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「教会の一致と交わり」 使徒言行録2章37~47節

2019-06-23 14:57:38 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

   日本福音教団 富 谷 教 会   週 報

聖霊降臨節第3主日 2019年6月23(日)   午後5時~5時50分

年間標語 「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により、力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                            礼 拝 順 序

                                                司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 149(わがたまたたえよ)

交読詩編  138(わたしは心を尽くして感謝し)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者木

聖 書(新共同訳) 使徒言行録2章37~47節(新p.216)

説  教    「教会の一致と交わり」 辺見宗邦牧師

祈 祷                 

讃美歌(21) 535(正義の主イエスに)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

 

                                      次週礼拝 6月30日(日)  午後5時~5時50分 

                                       聖 書 使徒言行録4章5~12節

                                       説教題   「キリストを信任する教会」 

                                       讃美歌(21) 155 564 24 交読詩編 52

        今週の行事   6月26日(水)午後3時~4時老養施設「シエアホームみどり」でのミニ礼拝

                     本日の聖書 使徒言行録2章37~47節

 2:37人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。 38すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 39この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」 40ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。 41ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。 42彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。 43すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。 44信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、 45財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。 46そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、 47神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。

                    本日の説教

 使徒言行録二章は、聖霊降臨の奇跡について語り(1節―13節)、次に、聖霊降臨を受けたペトロの説教について述べ(14節―41節)、その結果として生じた最初の教会の生活についての要約を記します(42節―47節)。

 今日の聖書の箇所は、ペトロの説教を聞いた聴衆の反応(37節―41節)から始まります。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(36節)というペトロの説教によって、聴衆は強く心を打たれ、罪の自覚が生じました。エルサレムのユダヤ人たちは、ペトロと他の使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言いました。この「兄弟たち」という呼びかけは、ペトロの同じユダヤ人としての同胞に対する「兄弟たち」という呼びかけ(29節)に応えたものでしょう。

  ペトロの説教は霊の力によるものでした。ペトロに与えられた力とは、民衆を感情的な熱狂に駆り立てたり、民衆を真剣に決意させて神との正しい関係に導く、ペトロの説教の能力のことではありません。民衆の罪を告発する言葉は、聖霊の働きであり、聴衆はそれに応答したのです。ペトロの説教を聞くやいなや民衆は悔い改めに導かれました。そして何をすればよいのかを知ろうとしました。

 するとペトロは、彼らに向かって、「悔い改めなさい。イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」と言い、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めました。

   聴衆の問いに対する答えとして、ペトロは二つのことを勧めています。その一つは「悔い改め」です。ヨエルの預言では、「主は言われる。『今こそ、心からわたしに立ち帰れ断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく、お前たちの心を引き裂け。』あなたたちの神、主に立ち帰れ」(ヨエル2章12節-13節)とあるように、ここでは神に立ち返ることを意味します。これを「罪の赦し」の条件とし、さらに「自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」(使徒3:19)というイエス・キリストによる罪の赦しを示しています。

 もう一つの勧めは「洗礼を受けなさい」です。ヨハネの「罪のゆるしを得させる悔い改めのバプテスマ」と違って、「イエス・キリストの名によって」とあるように、「罪のゆるしを得るための」根拠は「イエス・キリストの名」にあることを示しています。

 次に重要な点は、「そうすれば、賜物として聖霊を受けます」という約束です。ここでは、聖霊の賜物はヨエルの預言の実現として、悔い改めてイエス・キリストの名によって洗礼をうける者に約束されています。聖霊降臨で起こった霊の注ぎは、パウロの場合のように倫理的行動の源泉となる個人の内面にかかわる聖化としてではなく、「イエスの救いの証人となる」霊の力(使徒1:8)を意味しています。教会が福音をたずさえて「民衆の場へ出て行く」力です。

 しかし、人は「心を打たれ」、悔い改め、洗礼を受け、罪を赦され、そして、聖霊を受けるという、個人の救いが段階を踏んで進むのではなく、救いの順序ではなく、ここでは、悔い改めと赦しが、悪から離れさせ、生ける神に立ち返る改宗が勧められているのです。

  次に、キリストの名による洗礼に続いて、聖霊の賜物が記述されていることをあまり重視すべきではありません。10章47節の記述を見れば、洗礼と聖霊の賜物とは、連続していません。コルネリウスとその家族は彼らが洗礼を受ける前に、ペトロの福音を聞いていると、聖霊を受けたことが示されています。また、19章5-7節では、洗礼者ヨハネの弟子たちに霊が降ったのは、彼らが洗礼を受けて後に、パウロが彼らの上に手を置いて、按手したときです。使徒言行録では、霊はその好むところに息吹を与え、洗礼と按手とに結び付いています。この霊の付与が後の教会の定めや慣習に束縛されることを拒絶しています。

 賜物として聖霊を受ける「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」とペトロは言います。

 「あなたがたの子供」とは、将来の世代を予想しています。「遠くにいるすべての人」とは、イスラエルから遠くにある異邦の人々を意味します。今やイエス・キリストにおいて、旧約の「約束」は実現し、ユダヤ人にも異邦人にもすべて信じる者にそれは与えられているのです。

 ペテロの説教は、「このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、『邪悪なこの時代から救われなさい』と勧めて」終わります。「邪悪なこの時代」とは、神の意図された秩序からはずれた不従順と反逆の時代を意味します。イエスは「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」と嘆き、「邪悪な時代」として非難しています(ルカ9:41)。「救われなさい」は、神の終末的審判からの救いにあずかることできることが意味されています。

   こうして、ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に約三千人が信者に加えられたのは神の業でした。

   42節から49節までの箇所は、イエス・キリストの名によってバプテスマをうけた者たちの生活を具体的に示しています。42節の「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」は、まとめの句です。

(1)    彼らは、「使徒の教えに」熱心でした。「神の偉大な業についての宣教、すなわち、イエス・キリストの死と復活の出来事を旧約聖書の成就として示し、それによって生じる信徒の新しい生き方を教えることでした。このような使徒たちの教えは、やがて新約聖書の文書となりました。信徒の生活は、使徒たちの教えをしっかり守ることでした。

(2)    次は信徒たちの交わりです。この交わりは「心と思いを一つにし、持ち物を共有した信徒の共同生活を意味してます。それは「聖霊の賜物」に共に与ることによって基礎づけられた信徒の交わりにほかなりません。4章36-37節には、バルナバの物惜しみしない行為について記されているので、この初期の兄弟の分かち合いは教会内では幾分、例外的であったことが推測されます。しかし、普通の人々がその財産を共有にしたのは、何か異常な、特別で重大なことがこれらの人々に起こったという具体的な証拠なのです。

(3) 信徒たちは「パンを裂くこと」に従事しています。食卓の交わりに集まることは、新しい共同体における霊の働きのもう一つの具体的な、目に見える現れです。食事を共にすることは、かつて人々を苦しめていた社会的な障壁が打ち破られたという目に見える徴なのであり、一致と連帯と深い友情の現れなのです。彼らの喜びと真心からの共なる食事は、メシアの到来の時における溢れるばかりの喜びを示しています。

(4) 信徒たちは祈ることに熱心でした。おそらくこの祈りは、ユダヤ教で定められた日々の祈りの時刻になされたのでしょう。彼らはイエス・キリストの名によるバプテスマを受けた集団として、「心を合わせて、ひたすら祈る」集団を形成していったものと思われます(1:14参照)。教会はこの後も、祈りの集団として、その働きを推進したことが示されいます(10:2、12:12、13:3等)。また使徒たちも自由な祈りを重んじたことが記されています(8:22、9:11,40)。

 「すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。」

 これについては、3章1-10「ペトロ、足の不自由な男を癒す」記事や、5章1-11「アナニヤとサフィラ」の記事で示されます。

 「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。」

 彼らはメシア・イエスにあって一つであるという一体感から共同生活を行いました。彼らが共有した「すべての物」は、不動産と動産を意味します。動産は個人的な財産です。信者たちは個々の必要に応じてそれを分配していたと言っています。しかし使徒言行録では、このことは実際に維持されたとは記されていません。むしろアナニヤやサフィラのようにこれについていけない者が現れています。それは強制力を伴った財産の共有性ではなく、あくまでも、信仰の喜びを共にする自発的な行為とみなされます。

 「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、 47神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」

 最初の信者たちは神殿での礼拝を続けていました。彼らこそ真のイスラエルであるという主張を意味していました。その場所は「ソロモンの廊」とされています(3:11、5:12)。また彼ら自身の家々で彼らは共同の食事をし、共にパンをさきました。パン裂きは、主の晩餐を含む共同の食事と結合しています。彼らは喜びとまごころをもってこれに参加しました。信者たちは神を賛美していたので、民衆全体から好意をもたれていました。こうして主は救われる人々をに日々仲間に加え一つにされたのです。救われる人々を加えてくださり、一つにされたのは主イエスによるものでした。

 使徒ペトロの説教に、反応した人々の「わたしたちはどうしたらよいのですか」という問いに対する答えから、今日の聖書の箇所は始まりましたた。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10:17)とパウロは語っています。宣べ伝える人がいなければ、どうして人はキリストの言葉を聞くことができるでしょうか。聖霊の力はわたしたちを宣教に送り出す力です。人々がキリストの言葉を聞くときに、聖霊が働きます。「聖霊によらなければ、誰もイエスは主である」と言うことはできません」(コリント12章3節)とあります。聖霊こそ物語の主役です。説教を聞いて、心を打たれ、悔い改めてバプテスマを受ける、このことが初期の教会を形成する基礎でした。そこから、使徒たちの教え、すなわち聖書と聖書を中心とした交わり、共同の食事と主の晩餐、祈りの生活がありました。これが彼らの教会生活の基本でした。私たちも日々の生活でキリストの愛を証しし、礼拝を守り、愛餐を共にし、神を賛美し、すべての人に喜ばれる教会を形作っていきましょう。

 

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「五旬祭のペトロの説教」 使徒言行録2章14~36節

2019-06-13 16:53:18 | キリスト教

         ↑ ペトロの聖霊降臨日の説教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

       日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

聖霊降臨節第2主日  2019年6月16(日)     午後5時~5時50分

年間標語 「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて

働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により、力をもって、あなたがたの心の内に

キリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと

立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

 

礼 拝 順 序

司会 辺見 順子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 404(あまつましみず)

交読詩編    8(主よ、わたしたちの主よ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者木

聖 書(新共同訳) 使徒言行録2章14~36節(新p.215)

説  教  「五旬祭のペトロの説教」 辺見宗邦牧師

祈 祷                 

聖餐式    72(まごころもて)

讃美歌(21) 351(聖なる聖なる)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

                                        次週礼拝 6月23日(日)  午後5時~5時50分 

                                          聖 書 使徒言行録2章37~47節

                                          説教題   「教会の一致と交わり」 

                                          讃美歌(21) 149 535 24 交読詩編 138

              本日の聖書 使徒言行録2章22~36節

 2:14すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。15今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。16そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。17『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。18わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。19上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。20主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。21主の名を呼び求める者は皆、救われる。』

  2:22イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。 23このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。 24しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。 25ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。 26だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。 27あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。 28あなたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』 29兄弟た、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。 30ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。 31そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました。 32神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。 33それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。 34ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。 35わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで。」』 36だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

                              本日の説教

   五旬祭の日に、ガリラヤ出身のイエスの弟子たちが聖霊に満たされて、世界各地の土着の言語を使って、神の偉大な業を語り出しました。それを聞いて、当時の世界各地から帰ってきて、エルサレムにいた信心深いユダヤ人たちは驚きとまどいました。しかし、このような不思議な熱狂的様子を、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」とあざける者もいました。

 この奇跡に驚いている民衆に向かって、ペトロは他の十一人の使徒と共に立って、声を張り上げて話し始めました。ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち」とペトロは呼び掛け、「知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください」と語りかけました。

 ペトロは、「今は朝の九時ですから、この人たちは酒に酔っているのではありません」と話し出しました。聖霊の働きによって弟子たちが、外国の言葉で語った現象を、ペトロは預言者ヨエルによって語られていた預言が実現したのだと語りました。ヨエルが活動したのは、紀元前450年から400年頃と思われています。旧約聖書の預言者の中では、年代的には最後の預言者です。ヨエル書には、「神の霊の降臨」を、次のように記しています。

 「その後わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。主の日、大いなる恐るべき日が来る前に太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたようにシオンの山、エルサレムには逃れ場があり、主が呼ばれる残りの者はそこにいる。」(ヨエル書3章1~5)

 「その後」とは、ヨエル書1章で描写されたいなごの災害の後の回復の時、2章18~27節に約束された祝福が成就された時を指しています。ヨエルは、「その後」、聖霊降臨が生じ、人々が、神の言葉、すなわち、福音を聞いて救われる恵みの時代がくることを予言しました。「わが霊」とは、神の息であり、神の力です。ここでは神が人の命を支え、歴史の中で力強い業を行い、救いを与えることです。

 旧約聖書の伝統の中では、神の霊は、神の特別な選びと好意を受けた者だけ注がれるものでした。例えば王や士師、預言者でした。ところが、預言者ヨエルはそれが全ての人に対して起こると言っています。「すべての人」とは、ヨエル書では全人類、全世界の意味ではなく、イスラエルの民のすべての人です。「息子や娘」、すなわち、男女の性別にかかわりなく、聖霊は与えられて、人は預言をする。また、「奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。」すなわち、社会の階級や立場にかかわりなく、社会の最下層の男の奴隷、女の奴隷も、聖霊を与えられる、という預言です。

 ペトロは、ヨエルの預言を、次のように語ります。

「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。」(使徒言行録2:17~18)

 ヨエル書の「その後」が、「終わりの時に」にとなっています。聖霊の注ぎによって教会が宣教を開始する「終わりの時」です。ヨエル書の3節と4節は、世の終わりの最後の審判が来るとき、その前兆(しるし)が、天にも地にも自然界に異変、災害が現われることを教えています。しかし、その前に、聖霊が豊かに注がれて、人が、神の言葉を語る時代が来るので、神の言葉を聞いて、神を信じ、「主の御名を呼ぶ者」は、裁きの試練の中で、エルサレムに避難所を見出し、救われる。このようにして主に選ばれた残りの民がそこに残る。

 ペトロは、次のように語ります。

 「上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。」(使徒言行録2:19~21)

 ペトロの説教では、「エルサレムには逃れ場がある」という表現はありません。天上の都こそ永遠の都なのです。ペトロは「主の名を呼び求める者は皆、救われる」と締めくくります。その主とは、私たちのために十字架にかかり、三日目に復活し、天に昇って父なる神の右に座しておられるイエス・キリストです。私たちも、その主の名を呼び求めることによって救われ、喜びと希望を与えられて生きています。その喜びと希望は、この世の人生を支え導くのみでなく、肉体の死を越えた彼方にまで及ぶものです。

 ペトロは、「イスラエルの人たち」(22節)と呼びかけます。「イスラエルの人たち」は神に選ばれ、神の民とされた人たちです。「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。……このイエスを、……あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。」(2:22b…23)

 「律法をしらない者たち」とは、ローマ帝国の総督ピラトやその兵卒たちを指しています。しかしこのことは神が予知されていたことが起きたのです。

 「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。ダビデはイエスについてこう言っています。」(2:24~25a)

 ペトロはこう言って、詩編16篇8~11節を引用し、ダビデ王が言った言葉で、イエスの復活を証明しました。

 「『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。あなたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』」(2:25b~28)

 この詩編の言葉は、主イエス・キリストの復活が神様のご計画の中に既にあったことなのだと、ペトロは説明したのです。「兄弟たち」(29節)、とペトロは三度目の親しい呼びかけをしました。

 「先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました。」(2:29~31)

 ダビデは死んで、その墓が今もあり、ダビデは彼の子孫の一人が王座に着き、「彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない」とペトロは詩篇16編10節を再び引用して、キリストの復活を証明します。

 「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。《わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで。》』だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」(2:32~36)

 イエスの復活を詩編の言葉で証明したペトロは「わたしたちは、イエスの復活と昇天の証人です」と宣言しました。さらにペトロは神の右の座に上げられたイエスの昇天を、詩編110・1を引用し、「主(神)は、わたしの主(キリスト)に神の右の座に着くようにお告げになった」と証明しました。

 ペトロは、今度は「イスラエルの全家(ぜんか)は」と言い、「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」と語りました。「イスラエルの全家」とはイスラエルの全(すべ)ての家のことで、国外に滞在するユダヤ人を含めたユダヤ人をも対象として語りかけたのです。そして、神はあなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神の右に上げられ、主(世を支配する主)とし、メシア(救い主)とされたのです、と宣言しました。

 ペトロの説教は、ユダヤ人に対して、キリストの十字架と復活、昇天、聖霊降臨を、聖書の預言の成就であると説き、自分たちは主の復活の証人であることを述べ、イエスは神の右に座す支配者であり、救い主(キリスト)であると宣言したのです。

 「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(2・36)は、ペトロの説教の要約です。ペトロはこの説教で、「あなたがたはこのイエスを殺してしまったのです」(23節)、「あなたがたが殺したイエス(36節)」と、二度もイエスの殺害の責任をユダヤ人に帰しています。神の民であると自負するユダヤ人が神の子を拒否し、直接手を下さないまでもイエスを十字架に追いやった責任と罪に気付き、悔い改めるように迫っています。

 しかし、ペトロの説教はユダヤの罪を告発しただけではありませんでした。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」という言葉には、イスラエルの人々の罪を用いて救いのみ業を達成して下さった神様の恵みが示されています。罪が指摘されていると同時に、その救いと赦し、人間の罪に対する神様の恵みの勝利が宣言されているのです。神様の恵みが、人間の罪と死に既に打ち勝ち、それを滅ぼしてしまっていることを、ペトロの説教は告げているのです。

 ペトロの説教を聞いた人々は心を打たれ、ペトロと他の使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言いました。

 ペトロは、彼らに向かって、「悔い改めなさい。イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」と言って、聖霊はイスラエルの人々に限定されない、すべての人に与えられるものであると言いました。

 ペトロが告げ知らせた福音は、ダビデ王の時代から、およそ一千年もの間イスラエルの民が待望してきた、イスラエルの民を救うメシアが、神の右に座し、世を支配する主となられたという知らせです。神がイスラエルの始祖アブラハムに誓われた「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」という約束が実現したのです。実に、紀元前二千年も前の、全人類を救う神の御計画が実現したのです。

 今日も、人々が、神の言葉、すなわち、福音を聞いて救われる恵みの時代、聖霊の時代です。二千年前に弟子たちや初期教会を導いた聖霊が、同じように現代のわたしたちにも与えられるのです。聖霊は、キリストの現存の力と栄光のしるしです。主イエスは、「求めなさい。そうすれば、与えられる。天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ11:13)と約束されています。聖霊は罪から清める力でもあり、愛の賜物でもある聖霊を祈り求めましょう。そして、神の偉大な救いを世に告げ知らせようではありませんか。

 

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「聖霊の賜物ー宣教する教会の誕生」 使徒言行録2章1~11節

2019-06-05 15:31:12 | キリスト教

    ↑ ファン・バウティスタ・マイ―ノ「聖霊降臨」1615-1620年作 マドリード・プラド美術館蔵 (説明:中央の女性は、イエスの母マリア、その右前の女性はマグダラのマリア、母マリアの左に立っているのはペトロ?、右に立っているのはヨハネ?とヤコブ?だろうか?11人の弟子が描かれています。そのうち一人は左端の後ろ姿の禿頭の首かげに顔だけ描かれています。)

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

      日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

   聖霊降臨節第1主日(聖霊降臨日)  2019年6月9(日)   午後5時~5時50分

年間標語 「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により、力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

          礼 拝 順 序

                 司会 佐藤 洋子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 343(御霊よ、降りて)

交読詩編  146(ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せ

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳) 使徒言行録2章1~11節(新p.214)

説  教       「聖霊の賜物」   辺見宗邦牧師

祈 祷                                

讃美歌(21) 342(神の霊よ、今くだり)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

            次週礼拝 6月16日(日)  午後5時~5時50分 

           聖 書 使徒言行録2章22~36節

           説教題   「教会の使信」 

           讃美歌(21) 404 351 24 交読詩編 8

       本日の聖書 使徒言行録2章1~11節

 2:1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 2突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 4すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。 5さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、 6この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。 7人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。 8どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。 9わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、 10フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、 11ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」

            本日の説教

  教会暦では、今日が聖霊降臨日(ペンテコステ)の日です。「ペンテコステ」とは、ギリシャ語の「50」という意味です。この聖霊降臨は、ユダヤ教の五旬祭の日に起こりました。

 五旬祭は、レビ記23章15~21節に基づくイスラエルの七週祭(シャブオット)の別名です。七週祭は、過越祭(すぎこしさい)の安息日の翌日(日曜日)は、祭司に大麦の初穂を携え,奉納物とする日から数え初め、七週間を経た翌日、即ち五十日目に、祝われた祭りです。

 七週祭は、「刈り入れの祭り」(出23:16)とも呼ばれ、新しく穫れた小麦粉で作ったパンを神に献げ、小麦の収穫を感謝する祭りでした。この日は、ギリシャ語が共通語として使われた時代に、ペンテコステ(五旬祭)という別名で呼ばれました。

  五旬祭は、後期ユダヤ教時代(B.C.5~3世紀)になると、モーセがシナイ山で律法を授かったことを記念する日とされ、ユダヤ教の三大祝祭(過越祭、五旬祭、仮庵祭)の一つとして大切に守られていました。今日、五旬祭は農耕的特徴を失ってしまい、契約記念の祭りとして祝われています。

 キリストの復活を祝うイ―スターの日から五十日目に当たる五旬祭の日に、イエスの弟子たちに聖霊が降ったことから、この聖霊降臨を祝う記念日を、教会も「ペンテコステ」という名前で呼んでいます。

  使徒言行録1章3~5節によると、四十日にわたって弟子たちに現れた復活のイエスは、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた父の約束されたもの(聖霊)を待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」(使徒言行録1:4-5)と命じていました。オリーブ山で昇天するときも、イエスは使徒たちに、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサエムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒言行録1:8)と言われました。

 イエスの昇天後、使徒たちはすぐに、最後の晩餐が行われた家と思われる、彼らが泊まっていた家の上の部屋に集まりました(使徒言行録1:13)。十一使徒は、婦人たちや、イエスの母、兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていました。

  ペトロは、ユダに代わる人を選ぶことを、百二十人ほどの人々が集まっているところで提案し、二人の候補者を立てて、くじを引き、マティアを使徒に選びました(使徒言行録1・15)。このようにして、最初の教会は五十日間、主イエスが約束された聖霊の到来を待っていました。

 五旬祭の日に、<一同>が一つになって集まっていました。彼らが泊まっていた家の上の部屋と思われます。聖霊降臨という大きな出来事は、三つの超自然的なしるしを伴っておきました。

 その第一は、<突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に>響きました。<風>は霊の降臨を表現しています。

 その第二は、<炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上に>とどまりました。火の<炎>は、汚れを除く神の働きを示し、聖霊を指します。炎のような<舌>は、言葉を表しています。聖霊は「言葉」の賜物を伴って臨んだのです。

 第三のしるしは、言葉の賜物は<一人一人の上にとどまり>、一同は聖霊に満たされました。聖霊は、<一人一人>に個別的に与えられ、<一同>は聖霊に満たされた、とあるように、個々人は別々の言葉を語りつつ、同じ聖霊を与える主を語るのです。宣教は多様であっても、全体の益のためになされるのです。

 すると一同は、御霊の語らせるままに語る者となり、<ほかの国々の言葉で>話しだしました。他の国々の人たちの<故郷の言葉>で話し出したのです(2:6、8、10)。彼らは<神の偉大な業>について語ったのです。

 エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいました。国外に離散していた人々で、現在は祖国に帰った人たちです。また、エルサレム巡礼に来て、一時的に滞在していた人もいました。ユダヤ教に改宗した異邦人もいました。エルサレムに住むこのような大勢の人が、この聖霊降臨の出来事の物音に集まって来ました。そしてだれもかれもが、自分たちが生まれた故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまいました。自分たちの外国の生まれ故郷の言葉を、ガリラヤ出身の使徒たちが話すのを聞いて驚いたのです。聖霊の賜物は異なった言葉で語るという奇跡的な賜物でした。離散のユダヤ人の出身地の地名が、ユダヤを中心にして東方からあげられます。

     ぺンテコステの日の巡礼者たちの出身国

 1パルティア、2メディア、3エラムは、ローマ帝国外の東方諸地方です。4メソポタミア、ユダヤ(パレスチナ北西部を指す)、そして北西へ、5カパドキア、6ポントス、7アジア、8フリギア、9パンフィリアは地中北東部の諸地方です。またそこから地中海東南部へ、10エジプト、11キレネ、12リビアと円を描くように記され、そこから一転して北上し、遠く離れた13ローマがあげられます。14クレタ、15アラビアから来た者とは、西方の海洋民と東方の内陸民です。離散のユダヤ人の出身地の地名が、ユダヤを中心にして東方から15地域あげられています。

 これら15の地域のことばで、キリストの弟子たちが、神の偉大な業を語っているのを聞いて驚いたのです。神の偉大な業の具体的な問題は、14節以下のペトロの説教において明らかになります。

  当時、国外へ離散していたユダヤ人の数は4~5百万人です。エルサレムを含むパレスチナに住むユダヤ人の数はわずか50万人ほどでした。ユダヤを含むシリア地方とメソポタミアの共通語は、その当時はアラム語(ヘブライ語とは方言程度の差)でした。ローマ帝国の支配する地中海沿岸の地域の共通語はギリシア語(コイネー)でした。またローマはラテン語でした。聖霊降臨の時、使徒たちはこれらの共通語であるアラム語やギリシア語、またラテン語で話したのではなく、十五の地域の、それぞれの言葉で語ったと言うのです。この出来事は、全世界の人々がやがて、自分たちの国語で、イエスの福音を聞く日が来ることを、象徴する出来事でした。

  聖霊降臨で起こった霊の注ぎは、個人の内面にかかわる聖化としてではなく、教会が福音をたずさえて「民衆の場へ出て行く」力であり、教会に民衆を引き付ける力でした。臆病だった弟子たちに、語るための力が与えられ、言葉の賜物、異なった言語で語るという賜物が与えられたのです。それぞれの地域の人々に理解できるように話す言葉、通じる言葉が与えられたのです。主イエスが昇天の時、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録1:8)と告げたことが起こったのです。

  この日、ペトロの説教の後、三千人ほどの人が洗礼を受け、仲間に加わりました。「五旬祭」は収穫の感謝として初穂を献げる祭りです。この日、教会に「三千人ほど」の初穂が与えられたのです。

  ぺンテコステは、教会誕生の日とか、教会設立の日としてよく言われます。それは間違っているとは言わないものの正確な表現ではありません。ペンテコステの物語は、ルカ福音書24章にあるイエスの復活顕現の文脈で読まれなければなりません。エマオでは、二人の弟子にイエスはぱんを裂くとき、復活したイエスであることを分からせ、エルサレムでは、疑う弟子たちに手足を見せ、「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開かれ」ました(ルカ24:45)。

 四十日にわたって、復活の主は弟子たちに現れ、「わたしは父が約束されたものをあなたがたに送る」と約束し、「高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」と命じました(使徒言行録1:3~4)。その後、天に上げられるときには、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そしてエルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒言行録1:8)と語って昇天しました。弟子たちは、主に言われたように、エルサレムにとどまり、泊まっていた家の二階に集まり、心を合わせて熱心に祈り、聖霊が降ることを待ちました。

 キリストの昇天とぺンテコステの聖霊降臨は共に、復活祭の奇跡のさらに詳細な説明なのです。ということは、教会の誕生日はペンテコステ以上に主の復活にあるとする方がもっと正確です(現代聖書注解「使徒言行録」W.H.ウィリモン,p58)。五旬祭は、教会形成の物語りです。霊の力強い働きの起源を詳しく語ることによって、どのようにして教会が存在するようになったのか、そして、どのようにしてかつては臆病であった弟子たちが、彼らの言葉でキリストの真理を宣べ伝えることができるようになったかという真実を説明するのです。

 ペンテコステは、「教会の誕生」というよりも、「宣教する教会の誕生」を伝える物語です。わたしたちも、隣人にも福音を伝える者とされましょう。先に救われ、キリストの愛を知ったわたしたちは、自己愛の延長としての愛ではなく、イエス様によって示された赦しを伴う献身的な愛を証しし、このイエス様の愛を受けるとき「あなたも、あなたの家族も救われる」と、宣べ伝えましょう。

 聖霊はわたしたちに、聞く価値のあることを語らせてくださる力であり、聞く人に希望といのちと力を与えます。聖霊はイエスの十字架と復活を証言する力であり、教会を全世界へと押し出す原動力です。

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