↑ The Ascension(昇天) 1636年 Rembrandt (レンブラント)作
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日本キリスト教 富 谷 教 会 週 報
年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』
聖句「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)
復活節第7主日 2017年5月28日(日) 午後5時~5時50分
礼 拝 順 序
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 287(ナザレの村里)
交読詩編 110(わが主に賜った主の御言葉)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
聖 書(新共同訳) ルカによる福音書24章44~53節(p.161)
説 教 「キリストの昇天」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌 327(すべての民よ、よろこべ)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 6月4日(日) 午後5時~5時50分
聖書 使徒言行録2章1~11節
説教 「聖霊の賜物」
讃美歌(21)343 346 24 交読詩編51
本日の聖書 ルカによる福音書24章44~53節
44イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」 45そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、 46言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、 48あなたがたはこれらのことの証人となる。 49わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」 50イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。 51そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。 52彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、 53絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
本日の説教
復活したイエスが天に昇っていく<昇天>の場面を記しているのはルカによる福音書24・50~53と、福音書記者ルカが書いた使徒言行録1・9です。使徒言行録1・3には、復活したイエスが弟子たちに<四十日間にわたって現れた>後、昇天したと記されています。このルカの記述から、イエスが復活したイースターの日から数えて四十日目の木曜日を、昇天日と定めているのです、今年の教会暦では、5月25日(木)が昇天日です。日本の新教の教会では平日に礼拝を守ることが困難なので、次の週の日曜日ににあたる今日、昇天を記念して礼拝を守る教会が多いのです。次の日曜日は復活日から50日目(使徒言行録2・1)の聖霊降臨日(ペンテコステ)になります。
昇天した場所については、ルカは、「救いの宣教はエルサレムから始まらなければならない」とする観点から、イエスが復活して現れた場所も、昇天した場所も都エルサレム地域に限定しています(ルカ24・49)。昇天の場所とされている所は、エルサレム神殿の西にあるオリーブ山の頂上で、現在、昇天の塔と昇天教会が建っているところとされています。
7がオリーブ山の山頂で、ロシア正教の高い塔と昇天のチャペルとが建っています。1.ライオン門(ステパノ門) 2.ステパノ教会 3.ゲッセマネの教会(万国民教会) 4.マグダラのマリア教会 5.涙の教会 6.主の祈りの教会 7.昇天のチャペル 8.ラザロ教会 9.ラザロの墓 11.オリーブ山展望台 12.ベテファゲ修道院 13.ヘロデ門 14.糞門 。
【ルカ福音書以外の、他の福音書は昇天についてどのように扱っているのでしょう。マタイによる福音書では、復活したイエスが現れた場所も、宣教を命じた所も、イエスが福音を説き始めたガリラヤの地となっています。昇天の場所は宣教を命じたガリラヤの山が暗示されています。】
ロシア正教会の昇天の塔 と 昇天のチャペル(主イエスの昇天記念堂)
オリーブ山の頂上には紀元4世紀に、イエスが昇天されたときの足跡が残っている岩を覆うようにたてられたものと、1870年代に建てられた高い塔をもつロシア正教のチャペルがあります。
マルコによる福音書では、イエスが復活後に弟子たちに現れたことは記していませんが、ガリラヤで弟子たちとの会うことが、14・28、16・7が天使たちによって語られています。マルコ福音書ではイエスの昇天は記していませんが、長い付録16・9~20の中で、「天に上げられ、神の右の座に着かれた」という言葉があります。
【ヨハネ福音書では、マタイとルカの記事を合わせるように、宣教命令の場面はエルサレム、、ペトロと他の六人の使徒たちへに復活したイエスが現れるのはガリラヤになっています(ヨハネ21章)。昇天については記していませんが、12・32の「わたしは地上から<上げられるとき>」という言葉で、復活と昇天をひとつにして表現しています。】
今日のルカによる福音書の箇所は、復活されたイエスがエマオで二人の弟子に現れた後、エルサレムでも他の弟子たちに現れた時の出来事です。復活されたイエスが、話しあっている弟子たちの真ん中に立ち、声をかけられたとき、弟子たちは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思いました。そこで、イエスは、自分の手と足を見せ、触って見なさいと言い、まさしく私だ、と言いました。亡霊には肉も骨もないが、わたしにはそれがある、と語りました。復活されたキリストの霊体の肉と骨とは、人間の朽ちる体の肉と骨とは、違うことは言うまでもありません。天上の体の肉と骨です(コリント一,1540)
それでもまだ信じられず、不思議がっている弟子たちに、「何か食べ物があるか」言って、魚を一切れ食べて見せてから、語り始めたのが今日の箇所です。
「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」と言われました。
この言葉は、エマオへ向かうクレオパともう一人の弟子にも、主は言われています(ルカ24:26-27)。「メシアが苦しみを受けて栄光に入るはずだったのではないか」と言われていますが、イエスは十字架につけられる前に、三度も(ルカ9:22、9:44、18:31-33)弟子たちに語っていたのです。
「モ―セの律法と預言書の書と詩篇」とは、旧約聖書全体を意味します。主は「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」言われました。主の働きによって弟子たちの心の目は開かれるのです。エマオの場合と同じですが、ここではパンを裂く式という行いによってではなく、言葉によってです。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する』」(44~46節)と。ここで主は、ご自身の受難と復活が旧約聖書に預言されていたことを明らかにします。それはどこか特定の箇所からというよりも、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体」からでした。聖書全体の言葉、出来事が皆主イエスの甦りを目指して起こっていると語られたのです。また、主は復活の新しい側面を加えて話します。
「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」と語られました。
「罪の赦し」と「復活」との関係は、死と命との対立関係を示します。病や死の原因は人間の罪にあるとされています。生ける神に反する人間の行為は罪といわれ、それは心身に影響を及ぼし、神から与えられた命を失い、病や、その極限である死を招くと考えられました。ところが死を克服して命にあふれるキリストは単に自分の命を得るだけでなく、他を生かす命ともなります。その命は、生ける神に対する人間の罪の状態を消し去り、罪を赦すという行為になります。しかし、罪の赦しのためには、人間の側からの、生ける神への立ち返り、悔い改めが必要です。そこで、悔い改めの宣教は、「その名によって」、すなわちキリストの御名によって宣べ伝えられなければなりません。宣教者の病を癒す行為や洗礼を授ける行為において、また、キリストについて教える言葉においても、復活の主イエス御自身の力が働くことが、「その名によって」の意味です。主イエスは、神の国の宣教を民族宗教の枠を超えてなすべきことを示します。「あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」とは、全世界への宣教は神の救いの計画であることを示しています。「あなたがたはこれらのことの承認となる」、の「これらのこと」とは、「キリストが苦しみを受けたこと、復活したこと、悔い改めの宣教がなされること」であり、神の救いの計画の実現です。「証人」とは、これから自分たちによって始まろうとする世界宣教が、他を生かす復活者の命に動かされてなされることを認め、公言する者という意味での証人です。宣教者はイエスの受難と復活の証人であり、イエスのなさる宣教の道を歩む証人なのです(使徒行伝2:32、3:13-15、5:31-32、10:37-43、13:31以下)。
「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
「父が約束されたもの」、また「高い所からの力」は、聖霊のことを指しています。それを受けるまでは、弟子たちに都エルサレムにとどまるようにと主は命じます。
「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。」
ルカによる福音書では、イエスについての最後の言葉は「彼は、祝福しながら彼らを離れて、天に引き上げられた」(ルカ24:51)とあります。弟子たちとの別れは昇天という形で伝えます。「昇天」とは、復活の体(天の体)を与えられたキリストが見えざる神の領域に入り、見えざる神的な力に満ちた方となられた、ということです。
使徒信条では、「天に昇り神の右に座したまえり」と、天に上ったキリストが神の右の座につくということが告白されています。天とは見えざる神のおられるところです。神の右の座とは、神に一番近い場所を意味します。永遠の昔から父なる神と共におられた主イエスは、罪と死に支配されている人間を救うため、人間となってこの世に来られ、全てのわざを成し遂げられ、再び、元おられた所に上げられ、帰えられたのです。主イエスは、また、「神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださる(ローマ人への手紙8・34)」方です。私を罪ありと訴える者から弁護して下さり、また私たしの祈りを天の父に取り次いでくださるのです(ヨハネ16・23)。キリストの昇天は、罪のために死んでいたわたしたちを、キリストによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださるためでした(エフェソ2・6)。キリストの昇天は、「私たちのために天への入口が開かれる」ためでした。私たちもいずれその時が来たならば、天の主の御許に迎えられるのです。
復活者が弟子たちをベタニアの近くまで伴ったのは、そこにオリーブ山があり、そこはかつてイエスの旅の終点であるエルサレムに近い所だったからです(ルカ19:28-29)。主が弟子たちを祭司のように手を上げて祝福するのは、ここが初めてであり終わりです。同時に弟子たちがイエスを伏し拝むのもこれが最初です。弟子たちはここで初めてイエスが何者であるかを完全に知ったのです。。
天におられる主への信仰をドイツの詩人シラーは高らかに歌い上げました。その詩に、晩年のベートーベンが曲をつけたのが、第九交響曲の最後のあの有名な「歓喜に寄す」なのです。次が、シラーの詩の最後の部分の訳文です。
「抱き会え、幾百万の人々よ!この接吻(くちづけ)を全世界に!兄弟よ!星空の上に愛する父なる神が住んでいるに違いない。君たちはひれ伏すか、幾百万の人びとよ?創造主(つくりぬし)を予感するか、世界よ?星空のかなたに創造主(つくりぬし)を求めよ!星々の上に創造主(つくりぬし)が住んでいるに違いない。」
シラーの詩「歓喜に寄す」は、シラーが26歳の1785年に作られました。当時べートーヴェン(1770-1827)は15歳でした。26歳の頃からこの詩の作曲を志し、第九の初演は、べートーヴェンが54歳の晩年の時でした。耳が聞こえない状態で、タクトを振ったのです。それから3年後に生涯を閉じました。この名曲が日本でも歌い続けられていることはうれしい。在天のイエスを皆が信じて歌うならば、その時こそ真の歓喜が日本にあふれるでしょう。