富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「キリストの昇天」 ルカによる福音書24章44~53節

2017-05-27 08:57:59 | キリスト教

   ↑  The Ascension(昇天) 1636年 Rembrandt (レンブラント)作

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

日本キリスト教 富 谷 教 会    週 報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

   復活節第7主日  2017年5月28日(日)   午後5時~5時50分

                礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 287(ナザレの村里)

交読詩編  110(わが主に賜った主の御言葉)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳) ルカによる福音書24章44~53節(p.161)

説  教    「キリストの昇天」   辺見宗邦牧師

祈 祷         

讃美歌   327(すべての民よ、よろこべ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏   

               次週礼拝 6月4日(日)  午後5時~5時50分

               聖書   使徒言行録2章1~11節

               説教   「聖霊の賜物」

               讃美歌(21)343 346 24 交読詩編51

    本日の聖書 ルカによる福音書24章44~53節

 44イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」 45そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、 46言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、 48あなたがたはこれらのことの証人となる。 49わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」 50イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。 51そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。 52彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、 53絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

    本日の説教

  復活したイエスが天に昇っていく<昇天>の場面を記しているのはルカによる福音書24・50~53と、福音書記者ルカが書いた使徒言行録1・9です。使徒言行録1・3には、復活したイエスが弟子たちに<四十日間にわたって現れた>後、昇天したと記されています。このルカの記述から、イエスが復活したイースターの日から数えて四十日目の木曜日を、昇天日と定めているのです、今年の教会暦では、5月25日(木)が昇天日です。日本の新教の教会では平日に礼拝を守ることが困難なので、次の週の日曜日ににあたる今日、昇天を記念して礼拝を守る教会が多いのです。次の日曜日は復活日から50日目(使徒言行録2・1)の聖霊降臨日(ペンテコステ)になります。

 昇天した場所については、ルカは、「救いの宣教はエルサレムから始まらなければならない」とする観点から、イエスが復活して現れた場所も、昇天した場所も都エルサレム地域に限定しています(ルカ24・49)。昇天の場所とされている所は、エルサレム神殿の西にあるオリーブ山の頂上で、現在、昇天の塔と昇天教会が建っているところとされています。

  

  7がオリーブ山の山頂で、ロシア正教の高い塔と昇天のチャペルとが建っています。1.ライオン門(ステパノ門) 2.ステパノ教会 3.ゲッセマネの教会(万国民教会) 4.マグダラのマリア教会 5.涙の教会 6.主の祈りの教会 7.昇天のチャペル 8.ラザロ教会 9.ラザロの墓 11.オリーブ山展望台 12.ベテファゲ修道院 13.ヘロデ門 14.糞門 。

 【ルカ福音書以外の、他の福音書は昇天についてどのように扱っているのでしょう。マタイによる福音書では、復活したイエスが現れた場所も、宣教を命じた所も、イエスが福音を説き始めたガリラヤの地となっています。昇天の場所は宣教を命じたガリラヤの山が暗示されています。】

     

   ロシア正教会の昇天の塔 と 昇天のチャペル(主イエスの昇天記念堂)                

 オリーブ山の頂上には紀元4世紀に、イエスが昇天されたときの足跡が残っている岩を覆うようにたてられたものと、1870年代に建てられた高い塔をもつロシア正教のチャペルがあります。

 マルコによる福音書では、イエスが復活後に弟子たちに現れたことは記していませんが、ガリラヤで弟子たちとの会うことが、14・28、16・7が天使たちによって語られています。マルコ福音書ではイエスの昇天は記していませんが、長い付録16・9~20の中で、「天に上げられ、神の右の座に着かれた」という言葉があります。

 【ヨハネ福音書では、マタイとルカの記事を合わせるように、宣教命令の場面はエルサレム、、ペトロと他の六人の使徒たちへに復活したイエスが現れるのはガリラヤになっています(ヨハネ21章)。昇天については記していませんが、12・32の「わたしは地上から<上げられるとき>」という言葉で、復活と昇天をひとつにして表現しています。】

 今日のルカによる福音書の箇所は、復活されたイエスがエマオで二人の弟子に現れた後、エルサレムでも他の弟子たちに現れた時の出来事です。復活されたイエスが、話しあっている弟子たちの真ん中に立ち、声をかけられたとき、弟子たちは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思いました。そこで、イエスは、自分の手と足を見せ、触って見なさいと言い、まさしく私だ、と言いました。亡霊には肉も骨もないが、わたしにはそれがある、と語りました。復活されたキリストの霊体の肉と骨とは、人間の朽ちる体の肉と骨とは、違うことは言うまでもありません。天上の体の肉と骨です(コリント一,1540)

 それでもまだ信じられず、不思議がっている弟子たちに、「何か食べ物があるか」言って、魚を一切れ食べて見せてから、語り始めたのが今日の箇所です。

わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」と言われました。

 この言葉は、エマオへ向かうクレオパともう一人の弟子にも、主は言われています(ルカ24:26-27)。「メシアが苦しみを受けて栄光に入るはずだったのではないか」と言われていますが、イエスは十字架につけられる前に、三度も(ルカ9:22、9:44、18:31-33)弟子たちに語っていたのです。

「モ―セの律法と預言書の書と詩篇」とは、旧約聖書全体を意味します。主は「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」言われました。主の働きによって弟子たちの心の目は開かれるのです。エマオの場合と同じですが、ここではパンを裂く式という行いによってではなく、言葉によってです。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する』」(44~46節)と。ここで主は、ご自身の受難と復活が旧約聖書に預言されていたことを明らかにします。それはどこか特定の箇所からというよりも、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体」からでした。聖書全体の言葉、出来事が皆主イエスの甦りを目指して起こっていると語られたのです。また、主は復活の新しい側面を加えて話します。

「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」と語られました。

  「罪の赦し」と「復活」との関係は、死と命との対立関係を示します。病や死の原因は人間の罪にあるとされています。生ける神に反する人間の行為は罪といわれ、それは心身に影響を及ぼし、神から与えられた命を失い、病や、その極限である死を招くと考えられました。ところが死を克服して命にあふれるキリストは単に自分の命を得るだけでなく、他を生かす命ともなります。その命は、生ける神に対する人間の罪の状態を消し去り、罪を赦すという行為になります。しかし、罪の赦しのためには、人間の側からの、生ける神への立ち返り、悔い改めが必要です。そこで、悔い改めの宣教は、「その名によって」、すなわちキリストの御名によって宣べ伝えられなければなりません。宣教者の病を癒す行為や洗礼を授ける行為において、また、キリストについて教える言葉においても、復活の主イエス御自身の力が働くことが、「その名によって」の意味です。主イエスは、神の国の宣教を民族宗教の枠を超えてなすべきことを示します。「あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」とは、全世界への宣教は神の救いの計画であることを示しています。「あなたがたはこれらのことの承認となる」、の「これらのこと」とは、「キリストが苦しみを受けたこと、復活したこと、悔い改めの宣教がなされること」であり、神の救いの計画の実現です。「証人」とは、これから自分たちによって始まろうとする世界宣教が、他を生かす復活者の命に動かされてなされることを認め、公言する者という意味での証人です。宣教者はイエスの受難と復活の証人であり、イエスのなさる宣教の道を歩む証人なのです(使徒行伝2:32、3:13-15、5:31-32、10:37-43、13:31以下)。

 「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。

 「父が約束されたもの」、また「高い所からの力」は、聖霊のことを指しています。それを受けるまでは、弟子たちに都エルサレムにとどまるようにと主は命じます。

 「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。

ルカによる福音書では、イエスについての最後の言葉は「彼は、祝福しながら彼らを離れて、天に引き上げられた」(ルカ24:51)とあります。弟子たちとの別れは昇天という形で伝えます。「昇天」とは、復活の体(天の体)を与えられたキリストが見えざる神の領域に入り、見えざる神的な力に満ちた方となられた、ということです。

使徒信条では、「天に昇り神の右に座したまえり」と、天に上ったキリストが神の右の座につくということが告白されています。天とは見えざる神のおられるところです。神の右の座とは、神に一番近い場所を意味します。永遠の昔から父なる神と共におられた主イエスは、罪と死に支配されている人間を救うため、人間となってこの世に来られ、全てのわざを成し遂げられ、再び、元おられた所に上げられ、帰えられたのです。主イエスは、また、「神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださる(ローマ人への手紙8・34)」方です。私を罪ありと訴える者から弁護して下さり、また私たしの祈りを天の父に取り次いでくださるのです(ヨハネ16・23)。キリストの昇天は、罪のために死んでいたわたしたちを、キリストによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださるためでした(エフェソ2・6)。キリストの昇天は、「私たちのために天への入口が開かれる」ためでした。私たちもいずれその時が来たならば、天の主の御許に迎えられるのです。

 復活者が弟子たちをベタニアの近くまで伴ったのは、そこにオリーブ山があり、そこはかつてイエスの旅の終点であるエルサレムに近い所だったからです(ルカ19:28-29)。主が弟子たちを祭司のように手を上げて祝福するのは、ここが初めてであり終わりです。同時に弟子たちがイエスを伏し拝むのもこれが最初です。弟子たちはここで初めてイエスが何者であるかを完全に知ったのです。。

 天におられる主への信仰をドイツの詩人シラーは高らかに歌い上げました。その詩に、晩年のベートーベンが曲をつけたのが、第九交響曲の最後のあの有名な「歓喜に寄す」なのです。次が、シラーの詩の最後の部分の訳文です。

 「抱き会え、幾百万の人々よ!この接吻(くちづけ)を全世界に!兄弟よ!星空の上に愛する父なる神が住んでいるに違いない。君たちはひれ伏すか、幾百万の人びとよ?創造主(つくりぬし)を予感するか、世界よ?星空のかなたに創造主(つくりぬし)を求めよ!星々の上に創造主(つくりぬし)が住んでいるに違いない。」

 シラーの詩「歓喜に寄す」は、シラーが26歳の1785年に作られました。当時べートーヴェン(1770-1827)は15歳でした。26歳の頃からこの詩の作曲を志し、第九の初演は、べートーヴェンが54歳の晩年の時でした。耳が聞こえない状態で、タクトを振ったのです。それから3年後に生涯を閉じました。この名曲が日本でも歌い続けられていることはうれしい。在天のイエスを皆が信じて歌うならば、その時こそ真の歓喜が日本にあふれるでしょう。

 

 

 

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「施しと祈りについてのイエスの教え」 マタイによる福音書6章1~8節

2017-05-21 20:55:56 | キリスト教

         「ゲッセマネの祈り」 ハインリヒ・ホフマン(1824~1911)はドイツ画家。

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

      日本キリスト教 富 谷 教 会    週 報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

      復活節第6主日   2017年5月21日(日)      午後5時~5時50分

            礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 495(しずけき祈りの)

交読詩編   93(主こそ王)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳) マタイによる福音書6章1~8節(p.9)

説  教   「施しと祈りについてのイエスの教え」   辺見宗邦牧師

祈 祷         

讃美歌   441(信仰をもて)

聖餐式    72(まごごろもて)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏   

                                            次週礼拝 5月28日(日)  午後5時~5時50分

                                            聖書   ルカによる福音書24章44~53節

                                            説教   「キリストの昇天」

                                            讃美歌(21)336 338 24 交読詩編93

              本日の聖書 マタイによる福音書6章1~15節

 1「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。2だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。3施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。4あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」

   5「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。6だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。7また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。8彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。

              本日の説教

  今日の聖書の箇所は、マタイ5章1節から始まり、7章28節で終わる主イエスの山上の説教の一部です。6章の1節から18節までには、ユダヤ人の宗教的善行について三つの具体的な問題を取り上げています。施し(6:2-4)と祈り(6:5-15)、と断食(6:16-18)です。この三つについて話す前に、6章1節は、これらに共通する注意を述べています。

見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。」(6:1)

    イエスは、自分に従う弟子たちに対して、「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」(マタイ5:20)と教えました。このことを前提にして、弟子たちは義の実行に際して、「人の前で見てもらおうとして善行をしないように」と注意したのです。

   律法学者やファリサイ派の人々、熱心に施し、祈り、断食などの宗教的な業に励んでいました。それらの業に励むこと自体は、すばらしいことでしたが、彼らは、それらの業を自らの敬虔さを誇るため、「人に見せるために」行っていたのです。「人に見せるために」行う行為は、人間からの称賛を期待する行為であり、その業は神からいただくべき報いを、先に人から受けてしまうことになってしまいます。神からいただく報いとは、神がその人の業に対して  それに値するご褒美を与える、ということです。そのような人に見せようとする善い行いは、「天の父のもとで」、報いをいただくことは出来ません。なぜなら、その業は人から報いをすでに受けてしまっているからです。

 この6章1節で言われたことが、施しについても、祈りや断食についても、繰り返し強調されるのです。

   ところで主イエスは、5:16で、人々の前にあなたがたの光を輝かしなさいと教えています。これは神の民の中に輝く光(キリスト)をこの世に証しし、「父に栄光を帰す」ことを教えているのです。これは自分の業を人々に示し、自分に誉れを帰すことにはならないのです。

   「だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」(6:2―4)

「施し」というのは、貧しい者たちへのあわれみの心をもつ行為です。貧しい者への施しは、信仰からでてくる当然の行為です。ところが、その人を本当に同情する心からではなく、自分の名誉心から行われることが多かったのです。主イエスは、憐れみに動かされたとしても、自分の誉れのために施しを行う人を「偽善者」と呼んでいます。ギリシャ語の「偽善者」という語は「役者」を意味しています。舞台ではなく、日常生活の中での「施し」は、俳優の演技のように、観衆の喝采を当てにしてなされるべきものではありません。それは当然の行為にすぎないのです。だから、自分の前でラッパを吹きならすな」と言われているのです。「ラッパを吹く」とは、自己顕示のたとえです。施しをするとき、人に見られるためにしてはいけない、ということを言っているのです。

 「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」ということばは、事実上不可能です。施しは本来、信仰からでてくる当然の行為なので、世間の称賛を博するためになされるえきものではありません。そのような演技意識から全く自由に、自然になされなければなりません。そして自意識からの自由にまで至らなければならいと教えているのです。その行為は隠れたものであるべきことを教えています。そしてそれを「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」という約束と結びつけています。

 さて、「見られるために」、また「人にほめられるために」施しをすることの偽りを、主イエスは鋭く突いていますが、そのことによって主は、われわれすべての人間の持っている致命的な弱点を突いているのです。わたしたちは自己への関心によって支配され、自我意識のとりこになってしまいます。人間に宿る罪から解放され、聖霊に導かれているときにできる善行なのです。

 「天の父からの報い」ですが、施しをする場合、神が報いてくださることを予想し、あるいは期待することは、問題なく認められています。だが、この場合の「神の報い」は、終末の裁きにおいて、神がその人の行為にたいして褒美を与えるということです。この世ではだれからも認めらえず、称賛されず、むしろすべての人にけなされても、なお神に従って生き、行動するのがキリストに従う者の姿です。このような生き方をささえるのは、終末的な神の支配、救いの成就への希望です。「喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい」(マタイ5:12)と主は言われます。

   ところで、人に認められること、人から認めてもらいたい気持ちは決して悪いことばかりではありません。むしろ、才能の開発や、仕事の進展にもつながるという利点を持っているというこは明らかです。逆に人から認められないと、張り合いをなくして、せっかくの才能もその芽を摘み取られたりすることがあります。人から認めてもらうことが、神も喜ばれることであれば、それは「神の報い」の対象となります。人からの承認や世間の評価を求める者は、ほんとうは神の承認、「神の報い」に目を向けるべきなのです。

 神の報いを期待して行動すること自体、間違っているのではないか、と考える人もいるでしょう。神の報いさえ期待せず、純粋な思いで善行をすべきであるというのは、もっともな理屈です。自分への褒美を考えて行うような善行は、最初から善行と呼ぶには値しないものであり、善行と呼ぶわけにはいきません。報いがあってもなくても、ただ相手の必要を満たすため、愛にもとずく行為こそが善行なのです。このような善行にたいして、神の報いがあるのです。このような神の報いを期待することは、当然認められているのです。

 フィリピの信徒への手紙3章14節に「目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである」とパウロは述べています。。「神の賞与」、神様からの誉れを、それは神様が喜んでくださる、そのことを望み見て、人生の馳せ場を走ることが、わたしたちに求められているのです。

 次に主イエスは、「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない」と警告されました。当時の敬虔なユダヤ人は、午前9時、正午、午後3時に祈ることを習慣とし、どこにおいても祈りの姿勢を取ったようです。ところが、祈りの時間になると、町の広場や街角などにわざわざ出向いて祈りをささげる人々がいました。彼らは、自分がどれほど敬虔な者であるかを示しかったのです。イエスは、公の祈りを禁じられのでも、公の場所での個人の祈りを禁じたのでもありません。人に見られるためにささげられた祈り、偽善的な祈りを非難されたのです。

 だから主イエスは、「祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と勧めたのです。人々が集まっている礼拝や祈祷会などで祈ることを禁じているのではありません。「もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事で、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」(マタイ18:19-20)と主は言われています。集会の祈りは共に祈るという性格をもっています。ですから、最後にアーメンと唱和するのです。

  人前で祈ろうが密室で祈ろうが、ただ神にのみ向かって祈ることが大切なのです。正しい祈りは、父なる神に、子どものように求める信頼に基づいています。だから祈りは他の人々に対しても、自分自身に対しても、父なる神に対してすらも、決して人に見られるためにするものではありません。

 主イエスは、「異邦人のようにくどくどと述べてはならない」と戒めています。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいるからです。主は祈りの模範として「主の祈り」を教えられました。この「主の祈り」も、呪文のように、意味もよく考えないで、何度も繰り返して、念仏のような祈りにしてはなりません。

 主イエスは、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と言われました。神は、私たちのすべての必要をご存知ですから、くどくどとし長たらしく祈る必要はないのです。神を信頼して祈ることが求められているのです。主イエスは、長い祈りを戒められたのではりません。神に対する信頼のない祈り、確信のない祈りを戒められているのです。主イエスは、「だから、言っておく、祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい」(マルコ11:24)と言われました。

   ゲッセマネの園で、主イエスは長い時間祈りの時を過ごされました。祈りは神を信じる者にとって、神との霊的な交わりであり、神との対話です。神を、「アッパ、父よ」と呼ぶことができる霊を、キリスト者は与えられているのです。これは、キリストを信じる者に与えられている大きな恵みであり、特権です。祈りは、美しく洗練された言葉で祈る必要はありません。「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執成してくださるからです。」(ローマ8:26)聖霊は、信仰者の祈りを支える働きをしてくれるのです。    

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「神の霊に従って歩む者」 ローマの信徒への手紙8章12~14節、コロサイの信徒への手紙3章1~10節

2017-05-14 15:49:41 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

日本キリスト教 富 谷 教 会  週 報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、

キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋) 

    復活節第5主日 2017年5月14日(日)午後0時30分~1時10分

     (仙台青葉荘教会壮年会との合同礼拝) 

          礼 拝 順 序

                司会 野崎 光男兄

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

 讃美歌(21) 459(飼い主わが主よ)

交読詩編   86(主よ、わたしに耳を傾け)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳)   ローマの信徒への手紙8章12~14節(p.284)

           コロサイの信徒への手紙3章1~10節(p.371)

説  教   「神の霊に従って歩む者」 辺見宗邦牧師

祈 祷         

讃美歌   521(とらえたまえ、われらを)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

             合同礼拝について

日本キリスト教団仙台青葉荘教会の壮年会の皆様は、毎年5月第二主日の昼頃から、富谷教会支援のために、富谷教会で合同礼拝をしてくださっています。今回は6名の方がお出でになり、礼拝の司会を担当されます。富谷教会の方では6名の参加予定です。礼拝後は、壮年会で用意して下さる弁当をいただきます。昼食後は、茶室で抹茶の接待をし、懇談の時を過ごします。終了は3時頃の予定です。

      本日の聖書 ローマの信徒への手紙8章12~14節

  12それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。 13肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。 14神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。

          コロサイの信徒への手紙3章1~10節

 1さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。 2上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。 3あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。 4あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。

 5だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。 6これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。 7あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。 8今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。 9互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、 10造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。

       本日の説教

  ローマの信徒への手紙を書き送ったのも、コロサイの信徒への手紙を書き送ったのも、キリストに福音を伝える使徒とされたユダヤ人のパウロという人です。宛先のコロサイは、現在のトルコ共和国の壮大な石灰棚で世界遺産となっているパムッカレの近くにあった町です。

  パウロは熱心なユダヤ教徒で、キリスト教徒を迫害していた人でしたが、十字架の死刑を受けて死んだと思っていたキリストの天上からの声を聞いて回心した人です。パウロの書いた13の手紙が新約聖書の正典とされています。

  パウロは、ローマの信徒への手紙で、人間はすべて、真の神を神として礼拝しようとしない、神に背く罪を宿していて、神の「律法」を守ることができない罪人であると説いています。

  7章では、律法の掟を実行しようとすると、自分が望むことは実行できず、かえって憎んでいることをするようになってしまうと深刻な葛藤の体験を述べ、律法の実行によっては罪の自覚しか生じないことを明らかにします。

  自分の望まないことをしているなら、それをしているのは、もはや自分ではなく、自分の中に住んでいる罪であり、その罪のとりこになっているみじめな人間を誰が救ってくれのでしょうか、と苦悶の叫びをあげます。このような人間を、救ってくださるのがイエス・キリストだと神に感謝するのです。

 神は人間が宿している罪を取り除くために、御子キリストを罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を断罪されました。これがキリストの十字架の死です。わたしたちも洗礼によってキリストと共に葬られました。また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられ、新しい命に生きる者とされたのです。イエスを死者の中から復活させられた方の霊が、わたしたちの内に宿り、「神の霊によって歩む者」とされたのです。

 古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためです。死んだ者は、罪から解放されています。キリスト者は、罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのです。自分自身を死者の中から生き返った者として神に捧げて生きるのです。罪は、もはや、キリスト者を支配することはないのです。キリスト者は、霊に従って歩む者です。霊も思いは命と平和です。

 使徒パウロはコロサイの信徒に対して、信徒たちは洗礼によって、キリストの十字架と共に死に、キリストの復活にあずかって、キリストと共に、<新しい命>に生かされていることを自覚させます(2章12~13節)」。そして、「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、ご自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました」(1:21,22)と伝えています。

 「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。」(3章1節)と勧め、「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。」(3章5節)と命じます。

 <捨て去りなさい>は、原語では「殺しなさい」という、とても厳しい命令です。

 ローマ書にも、「肉に従って生きるならあなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を断つならば、あなたがたは生きます」(8章13節)と言っています。キリスト者は、なお日々「霊によってからだの働きを殺す」必要があるのです。

 私たちはキリストにあっては完全な者とされていますが、すでに完全な者となっているわけではありません(フィリピ3:12)。わたしたちの命は、キリストと共に神の内に隠されています。この世にあって大切なのは、新しく創造されることです(ガラテヤ6:15)。

「霊によって体の仕業を断つ」とは、私自身の力でやって行こうとする努力を殺すことです。そして霊の働きにまかせることです。私たち自身の責任は、私たちを通してキリストに働いていただくことです。パウロの強い勧告は、道徳的な闘いを求めているのではありません。自力で悪徳に立ち向かっても絶対に勝目はない。…「上にあるもの」に導かれることなくして悪徳への闘いは不可能なのです。  

内村鑑三は、「悪とは神を離れて存在することであり、神と共にあるならば、万事すべの行いは善となります。わたしたちは悪を避けようとするよりも、むしろ神と共にいることをつとむべきであり、そうすればわたしたちはおのずから善をなすことができ、悔い改めの苦痛を感じることもなくなるでしょう。(筆者による口語訳)」と述べています。

 パウロは、「キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません」(ローマ8:9)と言っています。「神の霊によって導かれる者は神の子です」(8:14)とパウロは宣言します。

 人間は、律法の行いによってではなく、ただこの神が救い主として与えてくださったキリストを信じる信仰によって、神の前で正しい者(義)とされ、救われるのです。キリストを信じている私たちは、神の霊に従って歩んでいる者であること、「神の子」とされた者であることを自覚して、絶えず祈りつつ、神との交わりの中に生きることが大切です。

              次週礼拝 5月21日(日) 午後5時~5時50分

               聖書 マタイによる福音書6章1~15節

               説教    「イエスの祈り」

               賛美歌(21)495 441 24 交読詩編93篇

 

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「復活と命の主イエス」 ヨハネによる福音書11章17~27節

2017-05-07 10:01:51 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

   日本キリスト教 富 谷 教 会   週 報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

    復活節第4主日   2017年5月7日(日)    午後5時~5時50分

    礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 436(十字架の血に)

交読詩編  136(恵み深い主に感謝せよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書11章17~27節(p.189)

説  教    「復活と命の主イエス」 辺見宗邦牧師

祈 祷         

讃美歌   327(すべての民よ、よろこべ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

                       次週礼拝 5月14日(日) 午後0時30~1時10分

           仙台青葉荘教会壮年会との合同礼拝

                      聖書  コロサイの信徒への手紙3章1~11節

                                   ローマの信徒への手紙8章12~14節

                      説教 「上にあるものを求め、霊によって体の仕業を断ちなさい」

                      讃美歌(21)504 196 24 交読詩編136

   本日の聖書 ヨハネによる福音書11章17~27節

 17さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。 18ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。 19マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。 20マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。 21マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。 22しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」 23イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、 24マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。 25イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 26生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 27マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

   本日の説教

  今日の聖書の箇所は、ベタニアに住むマルタにイエスが「復活と命の主」であることを教えます。ベタニアは、エルサレム近郊の村で、オリーブ山の東南の麓にあり、エルサレムまでは15スタディオン(1スタディオンは185m、15スタディオンは2775mです。約3㌔)の距離にあります。ベタニアにはイエスが愛したラザロとその姉妹マルタとマリアアが住んでいました。イエスの一行がベタニアの村に最初行かれたとき、マルタはイエスを迎え入れ、接待で忙しくしていたとき、マリアは主の足もとに座って、イエスの話に聞き入っていたことが、ルカ福音書10章38~42節に記されています。

 イエスが、姉妹たちが遣わした人から、ラザロが病気であることを知らされたのは、ヨルダン川の向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所でした(ベタニアから100㌔も離れたアノンに近い所)。イエスはラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在しました。出発を後らせている間にラザロは死んでしまいます。イエスはユダヤに行くことを決意し、また、死んだラザロを死から生き返すために、ベタニアを訪ねました。イエスはラザロを癒すだけでなく、死から生き返らせる能力が備わっており、<復活であり、命>であることを示す必要があったのです。ラザロが病気であることを姉妹たちから報らされてから、六日以上の日が過ぎていました。ラザロは死んで墓に葬られてから、四日もたっていました。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人の弔問者が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていました。

  マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行きました。マリアは家の中に座ってイエスが来られるのを待ちました。マルタはイエスに、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」と言いました。

  マルタは、ラザロが生きているうちに、イエスが来られていれば、イエスに癒していただけたでしょう、と悔やんでいるのです。しかし、主イエスが病を癒す方であることは信じていても、死の力をも克服する方であるとは信じてはいないことが次の会話で明らかになります。

 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言うと、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言いました。

 当時の多くのユダヤ人は、この世が終わる日まで死人は眠っていて、その終わりの日に死人の復活と神の審判があると信じていました。マルタはそのことを知ってはいたが、イエスに「あなたの兄弟ラザロは復活する」と言われても、現在ラザロが復活することは考えられないのです。そこで、イエスは言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と問われました。

 イエス御自身が十字架を経験し、また死人のうちからの復活を経験された方です。<わたしは復活である>という言葉は、死んで生き返った初穂であることを示しています。同時にその十字架と復活によりすべての人に対して肉体の死の彼方に永遠の命を約束し、これを与えることができる存在であることを示すものです。神との関係、隣人との関係において破れ、活ける屍のような状況のある罪人たちに対して、地上においてこの歴史の中で新しい命を与えて永遠の命に生きるような生活を始めさせます。こういう命を与える存在としてイエスがおられるということをひと言で<わたしは復活である>という宣言は含んでいます。

 <命である>という言葉も、これに即して考えることができます。<わたしを信じる者は、死んでも生きる>とは、イエス・キリストを信じる者、つまり十字架の贖罪と、死んだイエスを死人の中から甦らせることのできた神を信じる者、神の力を信じる者は、自分が肉体において、死を経験するにしても、この死の状況から新しい命を与えられて生き返らされる、このことを信じることができるようになる、という意味です。

 「生きていてわたしを信じる者はだれも死ぬことはない」というのは、この世で決して肉体的な意味で死なないと言っているのではありません。その本質において、つまり罪の結果としての死、滅びを経験することがない、という意味です。イエスの十字架の死のゆえに人々は無罪放免されているので、肉体的な死を味わうとしてもそれが決定的には滅びにはつながらないのです。既に罪を赦され、救われていて永遠の命が約束され保証されています。そればかりかこの地上にあって永遠の命を生き始めることができます。特にヨハネにおいては、永遠の命は最後の審判の彼方において与えられていることが保証されているだけではなく、イエスを信じることによって現在与えられるものとして語られています。生きるにも、死ぬにも、イエス・キリストと共にあり、その命に与って生きるということです。そこに、真の慰めがあるのです。

 これを信じるか否か、イエスをこのような方として信じるか否か、ただこのことが問われているのです。

 このイエスの問いかけに対して、マルタは正面から、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と口に出して告白しています。

 イエスを単なる人間以上の者、神と等しい者であり、最後の審判において裁き主であるところの神が今既にイエス・キリストにおいて来られているのだということをマルタが受け入れたことは、会堂から追放され、あるいは殉教の死を遂げる危険を冒してまでもイエスを告白するという立場にマルタが立ったことを示しています(9:22参照)。

 この後、マルタもマリアも、イエスがラザロを生き返らせたことを目撃しました。ラザロのよみがえりの出来事は、主イエスが復活であり、命であることを示された最後のしるし(奇跡)でした。

 イエスが死を覚悟してエルサレムに行く前に、マリアは、十字架につかれるイエスの死を予感して、イエスの足に高価なナルドの香油を塗り、自分の髪の毛でその足を拭き、イエスに対する信仰行為を表しました。ベタニアはイエスが地上での最後の日々の夜を過ごした村でした(マルコ11・11~12)。 

 神の御子イエス・キリストは、この罪と死の支配するこの世に来られ、十字架の死によるあがないによって人間の罪を赦し、陰府(よみ)にまで降って、死を打ち破って復活し、天に昇られました。イエスは最後の晩餐の席で、私たちのために「場所を用意しに行く」と言われました。イエスは私たちに復活と永遠の命を与えてくださる神の子です。

 使徒信条にも主イエスの再臨を待ち望む信仰が告白されています。世の終わりの時、キリストが来られて、「生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまわん。罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず」とあります。しかし、身体のよみがえり・復活という出来事は、もはや遠い将来のことではなくて今既に自分の中に起きていることなのです。

  聖霊を与えられ、主イエスと共に生きる者とされた私たちは、世の終わりに起こる「身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)」を、現在、聖霊によって保証され、そのよみがえりの命に生かされているのです。主イエスを信じる者の死は、天の御国への凱旋なのです(テモテ二、4・18)。死に勝利させてくださる十字架と復活の主と、御子を世に送って下さった父なる神に感謝をささげましょう。

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