富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「愛によって歩む、聖なる者とは」 エフェソの信徒への手紙5章1~5節

2017-09-29 00:33:08 | キリスト教

        ↑ 仙台勝山館(しょうざんかん)チャペル[教会式結婚式場]               

     インターネットで、「愛によって歩む、聖なる者」の画像を探すと、上の写真がありました。筆者が結婚式の司式をしているチャペルです。

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

      日本キリスト教 富 谷 教 会    週 報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句 「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

      聖霊降臨節第18主日    2017年10月1日(日)  午後5時~5時50分

       礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)   4(世にあるかぎりの)

交読詩編  121(目を上げて、わたしは山々を仰ぐ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳) エフェソの信徒への手紙5章1~5節(p.357)

説  教  「愛によって歩む、聖なる者とは」     辺見宗邦牧師

祈 祷         

讃美歌   522(キリストにはかえられません)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏  

                                     次週礼拝 10月8日(日)  午後5時~5時50分

                                      聖書  テサロニケの信徒への手紙二、3章6~13節

                                      説教   「労働の意味」

                                      讃美歌(21)155 411 24 交読詩編90篇 

   本日の聖書  エフェソの信徒への手紙5章1~5節

 1あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。 2キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。 3あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。 4卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。 5すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。

      本日の説教

      5章1~5節は、教会への倫理的勧告の一部です。

「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。」(1節)

 パウロは、4章17節から続く最後の4章32節で、「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」と勧めた後で、5章1節で、「それで、だから」(新共同訳は省略している<オウン>という接続詞)と、一つの区切りを示し、結びとして「神に倣う者となりなさい」と勧めています。そして5章1節は、5章3節以下の導入句ともなっています。

 イエスは弟子たちに、「敵を愛しなさい」と教えられたあと、「あなたがたの天の父の子となるためである」(マタイ5・45)と言われ、神の子にならうように命じられました。同様にパウロもわたしたちが愛の中に生きる時、神に最も似る者となるという意味で、<神に倣う>ことを勧めています。「神に倣う」とは、パウロは「キリストに倣う」意味で用いています。

キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」(2節)

 求められている愛は、キリストの見られるような犠牲的な愛です。自己をささげ尽くして歩まれたキリストをモデルにした愛の生き方が、旧約聖書の表現を借りて勧められています(詩篇40・7、出エジプト記29・18等)。「香りのよい備え物」はキリストの父なる神への服従の歩みを指し、「いけにえ」はキリストの贖罪(罪のあがない)の死を指すととれます。「キリストの死に至る愛が」、わたしたちの「愛のうちに歩む」根拠であり、原動力です。「神に倣う」ことは、基本的にはキリストによって示された愛に歩くことです、と説明され、言い換えられています。キリストの死は、一度限りの、あがないの行為ですが、同時に、キリストに従いならう愛の道を示す出来事でもあります。キリストに従い歩む者も「神に対するキリストのかおり」(コリント二、2・15)となります。

 あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。」(3節)

 非常に具体的に倫理的勧めを記しています。<みだらなこと(ポルネイア)>を新改訳や口語訳聖書では<不品行>と訳し、塚本訳や文語訳では<淫行>と訳しています。英語では<sexual immorality 性的不道徳>という言葉で訳しています。<みだらなこと(ポルネイア)>は、「ポルノ(ポルノグラフィの略称―性的興奮を起こさせる肉感的な行為を表現したもの)」と同じ、「ポルネ(売春婦)」という語から出ており、人の道からはずれた性的不品行を指すことばなのです。神の民は<みだらなことや…汚れや、貪欲などを>口にすることさえしてはならないと注意しています。

  「卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。」(4節)

 みだらな<卑わいな言葉>と<愚かな話>も同様に禁じています。「みだらなこと、汚れ、貪欲(むさぼり)、卑わいな言葉、愚かな話、下品な冗談」(5・3、4節)は、ことごとく不純な性欲や肉の欲望から発するものです。パウロはそのような行為から遠ざかることはもちろん、口にさえしてはならないと戒めています。<下品な冗談>とは、みだらな駄じゃれのことです。そのような会話は、<聖なる者>にふさわしくないからです。「悪い言葉」(4・29)は悪を助長してしまうからです。そしてそんな事よりはむしろ感謝をささげなさいというのです。感謝こそキリスト者の生活の出発であるはずです。感謝は、キリストの恵みを見出すことであり、主の恵みを教える言葉が基調になる生活です。感謝の調べは、キリスト者の生活を貫いて鳴りひびいているべきなのです。

 「すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。」(5節)

 次にパウロは、なぜ不品行であってはいけないかを告げます。コロサイの信徒への手紙(3・5)には、「貪欲(むさぼり)は偶像礼拝にほかならない」とあります。パウロは、不品行な人とともに貪欲な者を、<偶像礼拝者>としています。

 物を得ようとする欲望は悪いことではないが、神よりも大事に思い、神を除外して、物質的な目的や人間的な目標を優先させるときに「貪欲」となり、自他ともに傷つくのです。むさぼりは十戒に禁止された罪です。イエスは弟子たちにどんな貪欲にも注意するようにと言われました(ルカ12・15)。

 それゆえに、性的不道徳、貪欲、偶像礼拝が併記されているのです。「彼らは腹を神とし(彼らの神は彼らの欲望であり)、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません」(フィリピ3・19)といわれるのです。貪欲とは広義に解すれば富の礼拝であり、狭義の性的意味では肉欲の礼拝です。旧約聖書には、「高慢は偶像礼拝に等しい」(サムエル上15・23)とあります。

 貪欲の反対は、自分のように隣人を愛することであり、神が与えてくださるものを感謝して受けることであり、聖霊の賜物を熱心に求めることであり、上にあるものに求めることです(コロサイ3・1)。

 不品行は者は、「キリストと神との国を受け継ぐことはできません」。この警告をうけているのはキリスト者であって、一般の人に語られているのではありません。教会が異教社会にあって、その倫理的流れに抗して、キリストの恵みにふさわしく歩むことへの励ましです。

 パウロはエフェソの信徒に、「もはや、異邦人と同じように歩んではなりません」(4・17)、「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て」(4・22)なさい。「神にかたどって造られた新しい人を身に着け」て、「正しく、清い生活を送るように」と、強く勧めています。

神に愛されている子供とされたわたしたちは、キリストに倣って「愛によって歩む」ことと、「聖なる者」にふさわしく清い生活を送るようにしなけばならないのです。それを可能にしてくださるのは、人間の力ではなく、神の力です。神がわたしたちに聖霊を遣わして可能としてくださるのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「隣人愛について」 ヤコブの手紙2章8~13節

2017-09-23 23:45:59 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

          日本キリスト教 富 谷 教 会    週 報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句 「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

      聖霊降臨節第17主日  2017年9月24日(日)   午後5時~5時50分

礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  13(みつかいとともに)

交読詩編   15(主よ、どのような人が)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳) ヤコブの手紙2章8~13節(p.423)

説  教    「隣人愛について」  辺見宗邦牧師

祈 祷         

讃美歌   449(千歳の岩よ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏  

                                次週礼拝 10月1日(日)  午後5時~5時50分

                                  聖書  エフェソの信徒への手紙5章1~5節

                                  説教   「新しい戒め」

                                  讃美歌(21)4 522 24 交読詩編121篇 

    本日の聖書  ヤコブ書2章8~13節

 8もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。 9しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。10律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。 11「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違犯者になるのです。 12自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。 13人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。

   本日の説教

   ヤコブの手紙はパウロの主張した信仰によって義とされるという教えが誤解され、行為が軽視され始めた頃にこれを批判するために書かれたと思われます。したがって時代的にパウロ以後ものであることは明らかで、おそらく一世紀末か二世紀初めに執筆されたと推定できます。執筆場所については、著者がはっきりしていないので不明です。

   著者については、1章1節の挨拶で、著者は自分のことを<神と主イエス・キリストの僕であるヤコブ>と記しています。新約聖書にはヤコブと呼ばれている人物は6人もいますが、このうち最も蓋然性が高いのは、初代教会でよく知られた権威者であった、主の兄弟ヤコブ(マルコ6・3、使徒行伝12・17)です。しかし、誤ったパウロ主義に対する批判が本書に見られるので、当然パウロ以後の著作と考えるべきであり、そうんると年代的に主の兄弟ヤコブでは無理が生じます。

   以上のような理由から本書の著者は不明であり、権威的な指導者であった主の兄弟ヤコブの名を借りたユダヤ人キリスト者の勧告の文書です。

   宛先は<離散している十二部族の人たち>と記されていますが、<十二部族>という伝統的な呼称を用いてキリスト者一般に送られたものと考えられています。

   ヤコブ書では、<行い>が強調されています。<行いのない信仰は人を救うことができない>(2・14)という主張がなされています。アブラハムがその証人であることなどを大胆に証言しています(2・21-24)。<人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません>(2:24)というヤコブの主張は、<人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる>(ガラテヤ書2・16)と述べるパウロに反対しているように見えます。

  パウロは、「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」(ローマ3・28)と教えています。<なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」(ロー3・20、ガラテヤ2・16)とあります。パウロは、次のようにも語っています。「不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」(ローマ4・7)神は、<信心深い者>、すなわち、神の前に立派な行いをしていると自負している者ではなく、<不信心な者>、すなわち、自分の行いなど不完全で、神に喜ばれる生活などできない、と思っている者を、義としてくださり、受け入れてくださり、愛してくださると信じる人を、義として救ってくださるのです。

   ヤコブ書を書いた著者は、パウロのこの教えに反対しているのではありません。救われた者の生活を問題にしているのです。パウロの教えを誤解した人たちが、救われた者にふさわしい生活をしないで、信仰者としての生活を軽視し、聖くない生活をしながら、自らをキリスト者として誇っていたので、ヤコブはそれを戒めるために、信仰者としてふさわしい行いをするように教えたのです。つまり、ヤコブ書は誤ったパウロ主義と戦っているのです。

   ヤコブ書では、貧しさと富についての議論があります。1・9-11、2・1-13、5・1-6にこの問題が展開されています。それは決して単なる道徳的な問題としてではなく、信仰の問題として、福音の立場から論じられています。著者は、貧しい者の喜びは<高くされたこと>、神との交わりによって高くされたから、と理解し(1・9)、富む者の喜びは、<低くされたこと>、謙遜によって神との交わりに入ることができるから、としてとらえています(1・10)。

   2章5節では、著者は、貧しい者を神の<選び>を受けた者、また<御国の相続者>と見ています。富む者はむしろ信者を<しいたげ>、<裁判所にひきずり込む者>、<尊い御名―キリストの名―を汚す者>(2章6,7節)と見ています。ただしこの批評は、貧者は信仰ある者、富者は無信仰の者とする当時のユダヤ的な貧富観にもとづいています。

   2・1-4で富んでいる人と貧しい人に対する扱いに差別があってはならないことを主張した後、直ちに5-13節においてこれを神の選びに基づく律法の問題として展開し、特に8節におおて<隣人を自分のように愛しなさい>という福音書の戒めと関連させて論じています。5・1-6において社会の支配階級に対する警告を述べている場合でも、それを単に社会的道徳としてではなく、これを福音の立場から論じています。

   ヤコブ書2章1節~3章18節は信仰と行為についての問題を扱っています。最初の2章1節から13節までは、「人を分け隔てしてはならない」という主題でまとめられている箇所では、まずキリスト者の集まりで起こったことを仮定した新来者に対する差別の例が示されます。著者はこれをあくまでも仮定のこととして描いているが、恐らく彼の見聞きした実例に基づいているか、少なくとも実際に起こりかねないものと考えていたに違いありません。

   著者は福音の指し示しているところによって、教会では貧しい者の立場が十分に重んぜられるべきであると考えています。真の信仰は社会的差別を全く認めません。それゆえ、もし教会がこのような差別的態度をとったとしたならば、それは大きな過ちであり、キリスト者を迫害する富める者の側に立つことになるのです。

  <人を分け隔て>することは、えこひいきをすることです。神はえこひいきをなさらない(申命記10・17)のであるから、キリスト者もまた他者に対してそうであらねばなりません。

 「もしあなたがたが、聖書に従って、『隣人を自分のように愛しなさい』という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。」(8節)

   8節には隣人愛の戒めが引用されています。この句はレビ記19・18によるもので、新約聖書ではマタイ22・39、ローマ13・9などに引用されています。主イエスがこの句を引用されてた時には、その前に申命記6・5の「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」の言葉と共に引用されることでこれを福音による律法として新しく生かしておられ、パウロもその線を継承しているのですが、ヤコブの場合にはその面が弱いと言えます。むしろ彼は旧約聖書の忠実な継承者と見ることができます。しかしたとえ不十分であるとはいえ、これを<最も尊い律法>と呼んでいる場合、単なる道徳を越えたものと考えていることは確かです。

 しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。」(9節)

 ヤコブは聖書の戒めに対して示している姿勢は純粋なものです。これに従わないことは<罪を犯すこと>であり、その結果<違反者と断定され>るのです。

 「律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。」(10節)

 律法を考える場合、その枝葉末節にこだわり、他者にそれを強要することは律法主義に陥ります。これに対してヤコブは一応<律法全体>に目を向けさせます。しかし同時に、そのことによって個々の律法が疎かにされることを危険視しています。

 マタイ5・19にはイエスの言葉として、<だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる>と言われており、ヤコブの意図もこれに近いと言えます。

 「『姦淫するな』と言われた方は、『殺すな』とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違犯者になるのです。」(11節)

 11節に引用されている二つの戒めは、十戒の中の第六と第七戒ですが、その順序が逆さになっています。ここで注目させらせるのは、<…と言われた方は、…とも言われました>というように、戒めそのものよりもこれを命じられた主なる神御自身に重点を置かれていることです。律法を神の言葉という点から見ているのです。ヤコブはなぜ十戒の中で、特に姦淫と殺人の禁止を命じている戒めだけを問題とするのでしょうか。この二つの戒めがもっとも隣人愛と関係するからです。ヤコブは「隣人を自分と同じように愛しなさい」という戒めを実行するにあたって、もし「他人を差別する」ようなことがあれば、隣人愛の戒めにも違反したことになることを説いています。

 旧約聖書の外典とされているシラ書(知恵の書)には、「貧しい人の持ち物を盗んで、供え物として献げるのは、父親の目の前でその子を殺して、いけにえとするようなものだ。…日雇い人の賃金を巻き上げる者は、人殺しだ>とあり、ここに隣人を愛さない者は殺人の罪を犯すのと等しい、とする見解があります。これと同様な考えがヤコブにあったのでしょう。また姦淫の罪については、ヤコブが批判をする「富んでいる者」にへつらい、媚を得ることとしてこれがこれが戒められていると思われます。しかしこの二つの戒めの一方だけに違反しても、全体に違反したことになる、と著者は論じています。

 「自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。」(12節)

 <自由をもたらす律法>とは、キリストによって新しく定められたもので、人々に自由すなわち解放を与えるもの、すなわち福音に他なりません(1・25)。著者は御言を「完全な、自由を与える律法」と見ています。そのような律法を与えられているキリスト者は、これにふさわしく<語り、またふるま>う責任を負っています。<いずれは裁かれる>とは、最後の審判を示しています。しかし13節に記されているように、この審判はただ人々を滅びに陥れるものではありません。

 「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。」(13節)

  <憐れみ>とはキリストの十字架の贖いにおいて示された、罪人に対する憐れみに発するもので、<自由をもたらす律法>にはこれが含まれているのです。それゆえ<人に憐れみをかけない者>とは、人間の自然的な同情とか愛情ではなく、キリストから与えられた憐れみを感謝をもって受けとめつつ、これを他者に分け与えない者を指します。その場合には、憐れみ深い主もその律法によって厳しくこれを裁かれる、と警告しています。

   主イエスは「良きサマリア人のたとえ」を話されました(ルカ10・25~37)。強盗に襲われ半殺しにされたユダヤ人の旅行者を、隣人となって助けたのは、ユダヤ人が蔑視し、差別していたサマリア人の旅人でした。わたしの隣人とは、わたしの身近にいる、わたしの助けを必要としている人たちです。家族も隣人であり、近所の人たちも隣人であり、わたしたちの周囲の人達ばかりでなく、わたしたちの助けやとりなしの祈りを必要としている人たちは、すべて隣人であるとおもわなければなりません。「敵をも愛しなさい」と主は言われました。助けを求めている敵も隣人なのです。わたしたちは、人が困っているのを見ても、他人事として関わらないでしまうことが多いのではないでしょうか。お節介ではなく、隣人に対する心からの愛と配慮が求められます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「教会の一致の勧め」 コリントの信徒への手紙一、1章10~17節

2017-09-16 21:43:29 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

      日本キリスト教 富 谷 教 会    週 報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句 「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべ

に加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

     聖霊降臨節第16主日  2017年9月17日(日) 午後5時~5時50分

     礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 392(主の強い御腕よ)

交読詩編  147(ハレルヤ。わたしたちの神は)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳) コリントの信徒への手紙一、1章10~17節(p.299)

説  教   「教会の一致の勧め」  辺見宗邦牧師

祈 祷         

讃美歌   441(信仰をもて)

聖餐式   

献 金    72(まごころもて)

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏  

            次週礼拝 9月24日(日)  午後5時~5時50分

             聖書  ヤコブ書2章8~13節

             説教   「隣人」

             讃美歌(21)441 445 24 交読詩編15篇 

   本日の聖書 コリントの信徒への手紙一、1章10-17節

 10さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。11わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。12あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。13キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。14クリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにも洗礼を授けなかったことを、わたしは神に感謝しています。15だから、わたしの名によって洗礼を受けたなどと、だれも言えないはずです。16もっともステファナの家の人たちにも洗礼を授けましたが、それ以外にはだれにも授けた覚えはありません。17なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。

    本日の説教

パウロは、はじめのあいさつの後、コリントの信徒たちのゆえに神様に感謝しています。パウロは、礼儀正しく格調高く手紙を書き始め、教会に感謝しているのです。神様への賛美の後で、パウロはすぐに具体的な勧告に入ります。この手紙は、教義につての教えではなく、コリントの教会からの口頭や手紙で問い合わせのあった諸々の問題に答えている牧会的な手紙です。教会からの質問に答えるに先立って、パウロはまず自分が聞き知った教会内の不和について触れ、同時に彼の教会を立たせるための基本的態度を述べます。そのために相手にその非を気づかせ、教え諭します。パウロは、<兄弟たち>という呼びかけます。相手がたとえ挑戦的・敵対的であろうと、彼は信頼関係の中で諭します。それは<主イエス・キリストの名によって>なされます。したがってこの勧告は主イエス・キリストの勧告です。

 パウロはコリントの教会の争いを<クロエの家の人たち」から聞きました(1章11節)。<クロエ>は女性であり、彼女の奴隷か子供がコリントからエフェソに最近来たらしいこと以外は何もわかりません。クロエがコリント、あるいはパウロが手紙を書いたエフェソに住んでいたかはわかりません。しかし彼女の使者が仕事で二つの町を行き来しており、パウロにコリントの教会で起こりつつある騒動の情報をもたらしたと想像できます。

 コリントの分裂がはっきり組織された分派によるものと理解する必要はないようです。手紙全体を通して示されていることは、それらは始まったばかりの意見の相違であり、起ころうとしつつある議論です。クロエの家の人たちの報告によれば、コリントのキリスト者たちは別々の説教者や指導者の名前の下に結集し始めていました。

  コリントの教会では、<自分はパウロにつく>、<自分はアポロに>、<自分はケファに>、<自分はキリストにつく>、と言い者達がいました。<アポロ>という人物は、学識あるユダヤ人で、アレキサンドリア出身であり、深い聖書の素養があり、「イエスのことについては…正確に教えて」、とても熱心で雄弁家として初代教会の中でよく知られた説教者です。パウロがコリントを去った後、入れ代わりに来た教師です。パウロの同労者で、彼と対立した人ではありません。<ケファ>というのは、イエスの筆頭弟子の「ペトロ」のアラム語名です。彼が実際にコリントを訪ねたのか、それとも単に初期教会でよく知られた指導者としてコリントまで評判と本人の影響が伝わってきたにすぎないのかは明らかではありません。パウロは異邦人に宣教活動するために、ペトロやエルサレム教団との友好的な兄弟関係を大事にしていました。

 また<キリスト>を引き合いに出して自己の正当性を主張しようとする分派的な態度をとる者がいました。このような対立は、コリントの教会員相互の勝手な自己主張によるものです。パウロはコリントの教会の<仲間割れ>(11・18)の状態を、二つの痛烈な質問(13節)によって批判します。

 その一つは、「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか」、より的確に訳すと「キリストは分割され、分配されたのか(原文訳)」という問いです。パウロは共同体の意見の相違は、キリストが商品か所有物が値切られような扱いを受ける、ばかげた状況を生み出したと指摘します。このようにキリストの一つの体は、利害の違う分派に断片化されたのです。

 もう一つは、「パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか」という質問です。信仰者はキリストの名によって洗礼されることによって、キリストの十字架と復活に共にあずかるのであり、教会はただイエスの名においてのみ、救われ、支えられています。この真実の下でささいな競争や違う説教者の好みなどまったくばかげています。分派の原因は、特定の指導者に対する個人的な忠誠や、人間崇拝によって生み出されたもののようです。パウロはこの人間介入が、信仰の本筋から離れさせることを心配して、3章21-22節で、「だれも人間を誇ってはなりません。…パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも、将来起こることも、一切はあなたがたもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです」と注意を促しています。

 実際に洗礼という行為はそれ自体は、パウロにはわずかな意味しか持っていません。パウロはコリントで<クリスポ>や<ガイオ>、<ステファナ>のようなわずかな目立った指導者を除いて、何人の人々に洗礼を授けたか覚えていないと述べています。「もっともステファナの家の人たちにも洗礼を授けましたが、それ以外にはだれにも授けた覚えはありません」とパウロは言います。

 <クリスポ>は使徒言行録18・8によれば、パウロの伝道説教によって一家をあげてキリスト教徒となった「会堂長」でした。<ガイオ>は、ローマ書16・23によれば、パウロとコリントの<教会全体が世話になっている>家の主人と書かれています。これはガイオが共同体の集会が出来るほどの大きさの家を持っていとことを意味しています。<ステファノの家の人たち>については、この手紙の終わりの挨拶のところで名が挙げられています(16・15)。<ステファナ>はアカイア州で最初に改宗した一家の長で、パウロが共同体に認めさせ、仕えるようにと選び出した指導者です。明らかにパウロはこれらの何人かの改宗者に洗礼を授けた後、続く人々の洗礼をこれらの著名な人々に委託しました。パウロは、自分がわずか数人のコリントの人に洗礼を授けなかったことを、むしろ神に感謝しています。もしもそうではなかったならば、クリスチャン同士の一致の基、洗礼さえも、コリントの教会をばらばらにする口実とされたことでしょう。

 パウロはキリストから委託されたのは洗礼を授けることではなく、「福音を告げ知らせる」ことであることを主張します。従って「洗礼を行うこと」は二次的な重要さでさり、教会は誰が洗礼を授けたかによって分裂すべきではありません。なぜなら教会の一致の重要な根拠は告げ知らされた福音にあるからです。恐らくコリントの人々は異なる家の教会共同体に分かれていたのかも知れません。

 キリストがパウロを遣わしたのは、「キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」と告げます。福音の宣言は「言葉の知恵によらないで」(文字通りには、言葉の知恵によらないで)成し遂げられるべきであります。コリントの教会の中には、福音の核心である十字架につけられたイエスを無視しがちになり、宗教的な人間の「知恵」に重きを置き、その解釈を誇示した者たちがいたと思われます。簡素な福音の告知であるべきものが、人間の知識や言葉の「知恵」によって語られるようになったのです。実際にパウロは言葉の知恵によって福音を巧みに示すことは、キリストの十字架を「空しく」すると確信しています(1・17b)。この十字架はユダヤ人にはつまずきであり、ギリシア人には愚かであろうが、民族の枠を超えて召された者には神の力、神の知恵であると、語っています(1・23-24)。パウロの宣教は知恵にあふれた言葉によらず、霊と力の証明によるものでした。それは人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。

 教会内で個人崇拝がある所は、どこでも、パウロの告発は的を射ていることになります。説教者のカリスマや功名心が十字架の福音より大きく現れ始めたら、何かが恐ろしく間違っていることになります。パウロの教会への勧めは、キリストにおける一致です。キリスト者は「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように」呼びかけられています。なぜならキリスト者である独自性は、「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ」(エフェソ4・3-5)と定められているからです。

    

   

 9月8日の日、一人の姉妹の洗礼式が当教会でありましたが、その洗礼式と、その後の祝いの愛餐会には、他の複数の教会の姉妹たちや、牧師が参加してくださり、多くの方々に祝っていただきました。主イエスは「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」(ルカ15・10)と言われていますが、この日は地上でも人々の間に大きな喜びがあったことを、感謝しました。「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ」というみことばを味わいました。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「究極の希望-死者の復活」 コリントの信徒への手紙一、15章35-52節

2017-09-08 23:42:20 | キリスト教

   ↑  フレスコ画イコン『復活』。現在はカーリエ博物館(トルコのイスタンブ―ル)となっている、ホーラ(コーラ)修道院の聖堂内、湾曲した天井に描かれている。主キリストがアダムとエヴァの手を取り、地獄から引き上げる情景を描いたもの。

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

      日本キリスト教 富 谷 教 会    週 報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句 「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

     聖霊降臨節第14主日 2017年9月10日(日)  午後5時~5時50分

         礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 361(この世はみな)

交読詩編  100(全地よ、主に向かって)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳) コリントの信徒への手紙一、15章35-52節(p.284)

説  教  「究極の希望-死者の復活」 辺見宗邦牧師

祈 祷         

讃美歌   474(わが身の望みは)

献 金   

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷          

後 奏  

                              次週礼拝 9月17日(日)  午後5時~5時50分

                                     聖書  ヤコブ書2章8~13節

                                     説教   「隣人」

                                     讃美歌(21)441 445 24 交読詩編15篇 

本日の聖書 コリントの信徒への手紙一、15章35-52節

 35 しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。36 愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。37 あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。38 神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。39 どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。40 また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。41 太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。42 死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、43 蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。44 つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。45 「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。46 最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。47 最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。48 土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。49 わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。50 兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。51 わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。52 最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。

                    本日の説教

  コリントの信徒への手紙一の15章は、<死人の復活>について論じています。コリントの教会の人々の中に、<死人の復活について疑問をもち、それを否定する人々がいたからです。死人の復活ということは信じがたいことだったのです。

 これを聞き知ったパウロは、この手紙の中で、もっとも重要なこととしてこの問題をとりあげました。問題は<死人の復活>についてでしたが、パウロはまず、それを解決する根本問題として、<キリストの復活>から説きおこしました。

 パウロは最も大事なこととして伝えた福音は、キリストが聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、三日目に復活したこと、ケファ(ペトロ)に現れ、その後十二人に現れ、主の兄弟ヤコブに現れ、最後に自分にも現れたと語りました。パウロ自身は、直接の弟子ではなく、復活して天に上げられたイエスの声を聞いて、弟子となったのです。

 キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、キリストを信じて死んだ死者の復活などはない、と否定するならば、キリストも復活しなかったはずです、とパウロは言います。キリストの十字架も、キリストの復活も<わたしたちのため>でした。<わたしたち>キリスト者の死からの復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。キリストの十字架の死は、わたしたしの罪の贖いのためであり、わたしたちの罪のからだがキリストと共に死ぬことにあります。キリストの復活は、わたしたちをも復活させ、罪と死の支配から解放し、神の子とし、神に生きる者とするためなのです。キリストは「死者の中から最初に復活」(使徒言行録26章23節)した方なのです。キリスト者の死からの復活がなければ、<宣教>も<信仰>も<生活>もむなしいものとなり、キリスト者はあわれな存在になる、とパウロは言います。

 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。最初にキリスト、次いでキリストが再臨されるときキリストに属している人たち、次いで、世の終わりがきます。すべてが神の支配下におかれ、神の国となるのです。その最後の敵として滅ぼされるのが死です。

 コリントの教会の人々の疑問は、わたしたちが復活する時は、「どんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか」ということでした。パウロはこの問に対し、「愚かな人だ」と答えます。この愚かさは、単なる知性や知識の不足からくる愚かさではなく、神を知らないための愚かさを意味します。不信仰の愚かさです。

「あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。 神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。」

パウロは麦のような植物の生成の事実を指摘します。蒔かれた種と、そこから育った植物との関係を、死から生への転換と見るのです。そこに有機的関連を見ることをせず、神の創造的行為を見るのです。「ただの種粒」という表現は、「裸の種粒(a bare seed)」と訳すべきもので、実際の種について言っているより、すでに、人間の姿を思い描いているものと思われます。コリント人への第二の手紙5章3節にある「それを着たなら、裸のままでいないことになろう」という、うめきのような嘆きを思い起さないわけにはいかないことばなのです。この裸の種粒から、「生かされた」からだが生まれるのです。死すべき裸の種も、生かされたからだも、わたし自身であることは言うまでもありません。

  神は、御心のままに、一つ一つの種にそれぞれ体を与えるのです。神の積極的創造行為の特質は、四組の対立的表現で示されます。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。

「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。」パウロは、ここにもうひとりの人間の原型になったキリストを、「最後のアダム」と呼びます。決定的意味を持つ人間としてのイエスです。最初のアダムは、「命を与える霊」ではないのです。命を与えられた肉にとどまります。それに対して、「最後のアダムは命を与える霊となった」のです。 最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。 わたしたちは、土からできたその人(アダム)の似姿になっているように、天に属するその人(キリスト)に似姿にもなるのです。

 ただはっきりしていることは、「肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません」とパウロは結論づけます。復活ということは、いかなる意味でも地上の生活の延長ではありません。この世の存在は、神が直接支配する来るべき時代をそのまま継続していくことは出来ません。

 パウロは、終末の神秘を告げます。「わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられ」るのです。死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。復活において個々のキリスト者はそれぞれに自分でありつつ、新しい創造へと造り変えられるのです。これが神の定めであることが、イザヤ書25・8とホセア書13・14の聖書の証言によって基礎づけられます。

「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」

 パウロは、「死のとげは罪であり、罪の力は律法です」言います。問題は、「罪の価」としての死であり、まさに「とげ」となる死です。それは罪がゆるされていない場合です。ゆるされる時、死は「とげ」でなくなります。「とげは死にあるのではなく、罪にある」のです。律法に生きることによって人は罪の支配下におかれてしまいます。律法によって罪が力を得るのです。肉の思いに従う者は神の律法に従うことができません。しかし、キリストにあって、霊に従って歩むわたしたちの内に律法の要求が満たされるのです(ローマ8・1-11)。主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を与えてくださった神に感謝しましょう。この「勝利」は罪に結びついた死の克服であり、死に結びついた罪の赦しであり、それはキリストの十字架の贖いと復活によって賜った勝利です。死がすべての終わりではなく、わたしたちは死をおそれず、死におびやかされず、この世を勝利者として生きてゆくことができるのです。

 だから、どんな時も、落ち着いて動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい、とパウロはこの章を終えるにあたって勧めます。<主の業>とは主御自身がなさる愛のわざにあずかり、励むことを意味します。愛のない人生は無です。主に結ばれていることが何よりも大事なことです。「主にあって」なされる自分たちの苦労は決して無駄にならない、と結んでいます。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「洗礼式」 洗礼の意味

2017-09-05 13:10:46 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

      日本キリスト教 富 谷 教 会

      2017年9月8日(金)午前11時~11時40分

洗 礼 式 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  67(貴きイェスよ)

洗礼の意味

祈 祷

聖 書  ローマの信徒への手紙6章3~5節

勧 告

日本キリスト教団信仰告白

使徒信条   

誓 約

「洗礼を受けるにあたって」  受洗者 佐藤洋子姉妹 

受 洗            授洗者 辺見宗邦牧師

祈 祷        

祝いのことば   仙台北三番町教会川上直哉担任牧師

主の祈り

讃美歌   451(くすしき恵み)                         

頌 栄    24(たたえよ、主の民)

祝 祷

    愛餐会 洗礼式の後、茶室の方で洗礼を祝う愛餐会があります。

本日の聖書 ローマの信徒への手紙6章3~5節

 3それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。 4わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。 5もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。

洗礼の意味

 人はみな罪の中に生れた者です。聖書でいう罪は、神との関係で、神に背を向けて自分勝手に生きることです。神は人間に人格と自由意志を与えたのですが、人間は神にそむき、神を崇(あが)めず、自己を誇り、神に従わない生き方をするようになったのです。罪はあらゆる悪と悲惨と不幸の原因となります。罪は神のさばきとしての死の罰が与えられます。この死は、聖なる神との交わりが完全に断たれ、最後は死で終わる希望のない状態を指します。このようなみじめで恐ろしい状態から自分の力でのがれることでの出来る人間は一人もいません。このような人類を神は憐れみ、救おうとされます。もう一度人間を神との関係に戻し、永遠の命に生きる者にしようとされます。永遠の命とは神との交わり、神と共に生きる命です。

 このために神がとった最後の手段は、神の独り子、イエス・キリストを世に送り、神のみ心を人々に教えた後、罪のないみ子を、世の人々の罪の身代わりとして罰を与え、十字架にかけて死なすことによって、人間に「罪の赦し」をもたらす救いでした。さらに、私たちの罪を赦すだけではなく、罪と死の支配から解放して、神の子とするために、み子を私たちの長子として死より復活させ、天上に上げられました。

 私たちは、神に対する自分の罪の悔い改めと、イエス・キリストを信じる信仰によって、神の前に罪のない者として認められ、神の子とされ、救われるのです。私たちに対するこのようなすばらしいみわざは、聖霊の働きによってなされるのです。

 洗礼(バプテスマ)は、主イエスのお言葉にもとずくものです。「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けよ」(マタイ28・19)。「信じて洗礼を受ける者は救われる」(マルコ16・16)。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(ヨハネ3・5)。洗礼は、私たちの罪のからだがキリストの十字架と共に死んで葬られ、キリストの復活と共によみがえって、聖霊によって新しい命に生まれ変わる、神に生きることを象徴する教会の聖なる式典です。また水を用いるのは、それによって全身から罪が洗い流されきよめられることを象徴しています。キリストを信じた者は、公に信仰を告白し、教会に加わるのです。ローマの信徒への手紙第10章10節でパウロは「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」と語りました。心で信じた者は、それを口で公に言い表すのです。そこにこそ救いが与えられます。洗礼を受けることの一つの意味はそこにあります。

 洗礼を受けた者に与えられる恵みは、聖霊です。使徒ペトロはこう述べています。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(使徒言行録2・38)と言っています。

 主イエスと父なる神より送られのが聖霊です。主イエスは天にいます。しかし同時に聖霊として、霊なるイエス様が信じる者の一人一人の内に共にいてくださるのです。聖霊を内に宿し、イエス様と共に歩む私たち、深い喜びと平安の中に歩む私たち、私たちは神と人への愛をもって生きる者とされるのです。いずれわが身は死を迎えるとしても、永遠に神と共に生きる者とされているのです。天におられるイエス様に迎えられ、栄光のからだによみがえらされ、永遠のみ国にふさわしい者とされるのです。世の多くの人々が洗礼を受けて救いにあずかって下さることを、そして新しい歩みを始めてくださることを心より願っています。

日本キリスト教団信仰告白(要約)

 旧新約聖書は、神の聖霊によって書かれたもので、キリストを証(あかし)し、福音(ふくいん)の真理を示し、教会の根拠となる唯一(ゆゐいつ)の正典です。主イエス・キリストによりて示され、聖書において示されている神は、父と子と聖霊なる神です。御子 (みこ)は私たち罪人(つみびと)の救ひのために人と成り、十字架にかかり、自分を全き犠牲(いけにへ)として神にささげ、私たちの贖(あがな)いとなってくださいました。神は私たちを選び、ただキリストを信ずる信仰により、私たちの罪を赦(ゆる)して正しい者と認めてくださいます。聖霊は私たちを潔めて愛の人としてくださり、完成させてくださいます。教会は主キリストの体であって、召された者たちの集りです。教会は公(おほやけ)の礼拝を守り、福音を正しく宣 (の)べ伝へ、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執(と)り行ひ、愛のわざに励みつつ、主の再臨を待ち望むのです。このように信じて、これまでの聖徒たちと共に、使徒信条を告白します。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする