↑ Trancefiguration
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日本キリスト教 富 谷 教 会 週 報
年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』
聖句「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)
受難節第3主日 2017年3月26日(日) 午後5時~5時50分
礼 拝 順 序
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 13(みつかいとともに)
交読詩編 145(わたしの王、神よ)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
聖 書(新共同訳)マタイによる福音書17章1~13節(p.32)
説 教 「主の変貌―栄光に輝くキリスト」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌 481(救いの主イェスの)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 4月2日(日) 午後5時~5時50分
聖書 マタイによる福音書20章20~28節
説教 「十字架の勝利」
讃美歌(21)300 535 24 交読詩編 118
本日の聖書 マタイによる福音書17章1~13節
1六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。 2イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。 3見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。 4ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 5ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。 6弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。 7イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」 8彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。 9一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。 10彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。 11イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。 12言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」 13そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。
本日の説教
今日の聖書の箇所は「山上の変貌(へんぼう)」とも呼ばれています。変貌とは、姿や様子などが変わることです。イエス様の姿が変わり、栄光に輝くお姿になられた記事です。
「六日の後」とは、フィリポ・カイサリアでペトロがイエスを「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰告白した後、イエスが弟子たちに、自分がメシアとして受けなければならない苦難と死、そして復活について語り、十字架を背負ってイエスに従うとき、永遠の命が与えられる話をされてから、六日たったとき、を指しています。
主イエスはペトロ、ヤコブとその兄弟のヨハネの三人を連れて、高い山に登られました。この三人の弟子は、十二人の弟子の中でも中心的な位置にあり、ゲッセマネで主イエスが祈ったときも、この三人を伴われています(マタイ26:37)。
主イエスが三人を連れて登られた高い山とは、フィリポ・カイサリアの北東19㎞に位置するヘルモン山(標高2815m)も考えらますが、「一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った」(マルコ9:30)とあるので、ガリラヤ方面へ下る途中の、フィリポ・カイサリア周辺の山と思われます。ルカ福音書には「祈るために山に登られた」とあいます。
イエスは、度々人里離れた所に退いて祈られたり、祈るために山に行かれたりしています。主イエスにとって、父なる神との祈りの交わりは、霊の交わりでもあり、その使命遂行のための力と確信とを与えられるために欠くことのできない大切のものでした。イエスは祈りによって、神のみ心を知り、そのみ心に従いました。この時山に登られたのも、イエスは苦難の道を歩み出すに当たって、神との霊的交わりを求められたものと思われます。
イエスが三人の弟子を連れて山に登られてたのは、モーセがシナイ山に登って活ける神を拝したように、弟子たちに神を拝するときを与えるためでした。
山上にいる三人の目の前でイエスの姿が神々しく変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなりました。イエスの顔の肌は、モーセを思わせるように光を放っていました(出エジプト記35・30)モーセの顔の輝きは、神の栄光の反射させた輝きでしたが、イエスの輝きは神の栄光そのものであり(ヨハネ1:4、9)、モーセのそれとは比べものにならないものでした。イエスの服は<この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白く>(マルコ9・3)なりました。この白い着物という言葉で、神のような姿が描写されています。栄光に輝く主イエスのお姿がここに示されたのです。
見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていました。「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後について話したいた」とルカは伝えています。主イエスの受難と十字架の死について語っていたのは、旧約の律法を代表するモーセと預言を代表するエリヤの果たした役割が、イエスの十字架の死と復活によって成就される時が来たことを示しています。モーセは1200年前の人物であり、エリヤは850年前に活躍した預言者です。彼ら二人ともシナイ山で神と語った経験をもち、しかも二人とも、当時の人々の間では死んでいないと思われ、メシア時代に戻って来ると信じられていました。
旧約時代のはるか過去の人物です。(エリヤは死なずに天に上って行ったとされている預言者です(列王記下2・11)。モーセは、ユダヤ人のあいだでは、だれも彼の墓を知らないという申命記34・6の記述から、死なずに天に上ったという伝承が生じたイスラエルの指導者です。)イエスと語り合うのにふさわしい天上の人物です。
この不思議な、神秘的な光景を見た弟子たちは、天に迎えられるような体験をしたことでしょう。栄光に輝く主イエスを見たのですから。
ぺトロが口をはさんでイエスに言いました。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは「どう言えばよいのか、分からなかった」とマルコは記し、ペトロは「自分でも何を言っているのか、分からなかったのである」とルカは記しています。
ペトロの思いついた「仮小屋」は、三人の天からの来客に敬意を払って、会見の幕屋のような小屋を用意し、歓迎しようとしのかもしれません。ペトロは、この出来事が霊的世界の現実であることを十分に受け止めきれていなかったのです。
ペトロがこう話しているうちに、光輝く雲が彼らを覆いました。雲は神の臨在を表わす象徴です。すると、雲の中から、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が聞こえました。神がイエスのことを「わたしの愛する子」と宣言したのです。これによってフィリポ・カイサリアでのペトロの「あなたはメシア・生ける神の子です」と言った告白の言葉(16:16)が、神によって承認されたことになります。
<これはわたしの子>は詩編2・7に由来し、イエスが神の子であり、メシアであることを示しています。
主イエスこそ、栄光に輝く神様の独り子、神様が遣わして下さった救い主です。イエスの受難予告が、天の声によって確認されました。<これに聞け>は、イエスの言うことを聞けと弟子たちに言われた言葉です。<これに聞け>は、申命記18・15「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたし(モーセ)のような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わなければならない。」が言及されていると思われます。イエスは、イスラエルの同胞の中から立てられた預言者ではありません。イエスは神の子であり、「モーセ以上の預言者」なのです。モーセは神の民を奴隷にされていたエジプトの地から導き出した指導者でした。神の子は、罪の奴隷になっている人々をこの世から神の国へと導かれる方です。
弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れました。弟子たちは、神であられるイエスの栄光に富んだお姿に接し、聖なる恐れを感じました。そのような彼らに、罪を贖ってくださるために世に来られたイエスが近づき、彼らに手を触れて言われました。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいませんでした。
一同が山を下るとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられました。だれにも話してはならないと命じられたのは、「人の子が死者の中から復活するまで」です。
なぜ、話してはならない命じられたのでしょう。山上の変貌の意味を本当に理解できるようになるのは、イエスと同伴した三人の弟子たちにとっても、復活以降だったからでしょう。主イエスは、人々を救う十字架の贖い死を遂げるために人の子となられてこの世に来られたのです。神の身分でありながら、神と等しい者であることをやめて、人間と同じ姿になっているのです。贖いの死を遂げるまでは、神扱いをされることを拒否されるのです。イエスがよみがえられるとき、イエスの贖いの業が完成します。聖霊も弟子たちに注がれ、イエスを理解する力が与えられます。
イエスの変貌は、イエスがこの世の人ではなく、神の子であることを弟子たちに明らかにされた出来事でした。しかし、弟子たちはその意味を、この時は理解できなかったと思われます。イエスの生涯が死をもって終わるのではなく、復活する神の子であることが明らかになるのは、イエスの復活後、聖霊を与えられて初めて分かることでした。
弟子たちは、イエスに、なぜ、律法学者は、メシア到来の前に、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうかと尋ねました。律法学者は、マラキ書4:1-6を基に、メシア到来の前にエリアが万物を回復すると教えていました。ところが、万物はいまだ回復されていないのだから、エリヤはまだ来ていないことになります。とすれば、まだメシア到来の時ではないのだから、今ここにいるイエスはメシアではにことになります。律法学者の言う万物を回復するエリヤとは誰になるのか、という疑問でした。
イエスは、「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする(物事を本来のあるべき姿に戻す)。言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」とお答えになりました。そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと気づき悟りました。
この変貌の意義は、第一に、苦しみを受けるためにエルサレムに上ろうとするイエスの決意を強めるものでした。神はイエスに十字架の道を示し、復活することを保証したのです。第二に、弟子たちは、世の終わりに現れる神の国の力、主イエスの栄光を、今のこの世を生きる中で、垣間見ることを許されたのです。
地上に来られたイエスは、神であるにもかかわらず、人間の罪を救うために、私たちと同じ人間の姿を取り、苦難の道を歩み、十字架にかかって死んだくださったのです。地上の生涯においては隠されていたけれども、本当は栄光に輝く神の独り子であられるということです。イエスは死より復活して、天に上り、神の右に座し、父なる神と共に世を支配したもう神なのです。この主イエスの十字架と復活と昇天によって成し遂げられた救いこそが、私たちの罪を贖い、神の子とし、聖霊を与え、永遠の命に生きる恵みを与える救いとなったのです。