富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「主の変貌ー栄光に輝くキリスト」 マタイによる福音書17章1~13節

2017-03-25 22:45:41 | キリスト教

                     ↑ Trancefiguration  

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

日本キリスト教 富 谷 教 会    週 報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

受難節第3主日  2017年3月26日(日)   午後5時~5時50分

       礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  13(みつかいとともに)

交読詩編  145(わたしの王、神よ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書17章1~13節(p.32)

説  教    「主の変貌―栄光に輝くキリスト」      辺見宗邦牧師

祈 祷         

讃美歌   481(救いの主イェスの)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

           次週礼拝  4月2日(日) 午後5時~5時50分

           聖書  マタイによる福音書20章20~28節

           説教   「十字架の勝利」 

           讃美歌(21)300 535 24 交読詩編 118 

本日の聖書 マタイによる福音書17章1~13節

 1六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。 2イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。 3見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。 4ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 5ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。 6弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。 7イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」 8彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。 9一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。 10彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。 11イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。 12言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」 13そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。

   本日の説教

 今日の聖書の箇所は「山上の変貌(へんぼう)」とも呼ばれています。変貌とは、姿や様子などが変わることです。イエス様の姿が変わり、栄光に輝くお姿になられた記事です。

 「六日の後」とは、フィリポ・カイサリアでペトロがイエスを「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰告白した後、イエスが弟子たちに、自分がメシアとして受けなければならない苦難と死、そして復活について語り、十字架を背負ってイエスに従うとき、永遠の命が与えられる話をされてから、六日たったとき、を指しています。

 主イエスはペトロ、ヤコブとその兄弟のヨハネの三人を連れて、高い山に登られました。この三人の弟子は、十二人の弟子の中でも中心的な位置にあり、ゲッセマネで主イエスが祈ったときも、この三人を伴われています(マタイ26:37)。

 主イエスが三人を連れて登られた高い山とは、フィリポ・カイサリアの北東19㎞に位置するヘルモン山(標高2815m)も考えらますが、「一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った」(マルコ9:30)とあるので、ガリラヤ方面へ下る途中の、フィリポ・カイサリア周辺の山と思われます。ルカ福音書には「祈るために山に登られた」とあいます。

 イエスは、度々人里離れた所に退いて祈られたり、祈るために山に行かれたりしています。主イエスにとって、父なる神との祈りの交わりは、霊の交わりでもあり、その使命遂行のための力と確信とを与えられるために欠くことのできない大切のものでした。イエスは祈りによって、神のみ心を知り、そのみ心に従いました。この時山に登られたのも、イエスは苦難の道を歩み出すに当たって、神との霊的交わりを求められたものと思われます。

 イエスが三人の弟子を連れて山に登られてたのは、モーセがシナイ山に登って活ける神を拝したように、弟子たちに神を拝するときを与えるためでした。

 山上にいる三人の目の前でイエスの姿が神々しく変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなりました。イエスの顔の肌は、モーセを思わせるように光を放っていました(出エジプト記35・30)モーセの顔の輝きは、神の栄光の反射させた輝きでしたが、イエスの輝きは神の栄光そのものであり(ヨハネ1:4、9)、モーセのそれとは比べものにならないものでした。イエスの服は<この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白く>(マルコ9・3)なりました。この白い着物という言葉で、神のような姿が描写されています。栄光に輝く主イエスのお姿がここに示されたのです。

 見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていました。「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後について話したいた」とルカは伝えています。主イエスの受難と十字架の死について語っていたのは、旧約の律法を代表するモーセと預言を代表するエリヤの果たした役割が、イエスの十字架の死と復活によって成就される時が来たことを示しています。モーセは1200年前の人物であり、エリヤは850年前に活躍した預言者です。彼ら二人ともシナイ山で神と語った経験をもち、しかも二人とも、当時の人々の間では死んでいないと思われ、メシア時代に戻って来ると信じられていました。

  旧約時代のはるか過去の人物です。(エリヤは死なずに天に上って行ったとされている預言者です(列王記下2・11)。モーセは、ユダヤ人のあいだでは、だれも彼の墓を知らないという申命記34・6の記述から、死なずに天に上ったという伝承が生じたイスラエルの指導者です。)イエスと語り合うのにふさわしい天上の人物です。

 この不思議な、神秘的な光景を見た弟子たちは、天に迎えられるような体験をしたことでしょう。栄光に輝く主イエスを見たのですから。

 ぺトロが口をはさんでイエスに言いました。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは「どう言えばよいのか、分からなかった」とマルコは記し、ペトロは「自分でも何を言っているのか、分からなかったのである」とルカは記しています。

 ペトロの思いついた「仮小屋」は、三人の天からの来客に敬意を払って、会見の幕屋のような小屋を用意し、歓迎しようとしのかもしれません。ペトロは、この出来事が霊的世界の現実であることを十分に受け止めきれていなかったのです。

 ペトロがこう話しているうちに、光輝く雲が彼らを覆いました。雲は神の臨在を表わす象徴です。すると、雲の中から、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が聞こえました。神がイエスのことを「わたしの愛する子」と宣言したのです。これによってフィリポ・カイサリアでのペトロの「あなたはメシア・生ける神の子です」と言った告白の言葉(16:16)が、神によって承認されたことになります。

<これはわたしの子>は詩編2・7に由来し、イエスが神の子であり、メシアであることを示しています。

 主イエスこそ、栄光に輝く神様の独り子、神様が遣わして下さった救い主です。イエスの受難予告が、天の声によって確認されました。<これに聞け>は、イエスの言うことを聞けと弟子たちに言われた言葉です。<これに聞け>は、申命記18・15「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたし(モーセ)のような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わなければならない。」が言及されていると思われます。イエスは、イスラエルの同胞の中から立てられた預言者ではありません。イエスは神の子であり、「モーセ以上の預言者」なのです。モーセは神の民を奴隷にされていたエジプトの地から導き出した指導者でした。神の子は、罪の奴隷になっている人々をこの世から神の国へと導かれる方です。

  弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れました。弟子たちは、神であられるイエスの栄光に富んだお姿に接し、聖なる恐れを感じました。そのような彼らに、罪を贖ってくださるために世に来られたイエスが近づき、彼らに手を触れて言われました。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいませんでした。

 一同が山を下るとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられました。だれにも話してはならないと命じられたのは、「人の子が死者の中から復活するまで」です。

 なぜ、話してはならない命じられたのでしょう。山上の変貌の意味を本当に理解できるようになるのは、イエスと同伴した三人の弟子たちにとっても、復活以降だったからでしょう。主イエスは、人々を救う十字架の贖い死を遂げるために人の子となられてこの世に来られたのです。神の身分でありながら、神と等しい者であることをやめて、人間と同じ姿になっているのです。贖いの死を遂げるまでは、神扱いをされることを拒否されるのです。イエスがよみがえられるとき、イエスの贖いの業が完成します。聖霊も弟子たちに注がれ、イエスを理解する力が与えられます。

 イエスの変貌は、イエスがこの世の人ではなく、神の子であることを弟子たちに明らかにされた出来事でした。しかし、弟子たちはその意味を、この時は理解できなかったと思われます。イエスの生涯が死をもって終わるのではなく、復活する神の子であることが明らかになるのは、イエスの復活後、聖霊を与えられて初めて分かることでした。

 弟子たちは、イエスに、なぜ、律法学者は、メシア到来の前に、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうかと尋ねました。律法学者は、マラキ書4:1-6を基に、メシア到来の前にエリアが万物を回復すると教えていました。ところが、万物はいまだ回復されていないのだから、エリヤはまだ来ていないことになります。とすれば、まだメシア到来の時ではないのだから、今ここにいるイエスはメシアではにことになります。律法学者の言う万物を回復するエリヤとは誰になるのか、という疑問でした。

 イエスは、「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする(物事を本来のあるべき姿に戻す)。言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」とお答えになりました。そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと気づき悟りました。

 この変貌の意義は、第一に、苦しみを受けるためにエルサレムに上ろうとするイエスの決意を強めるものでした。神はイエスに十字架の道を示し、復活することを保証したのです。第二に、弟子たちは、世の終わりに現れる神の国の力、主イエスの栄光を、今のこの世を生きる中で、垣間見ることを許されたのです。

  地上に来られたイエスは、神であるにもかかわらず、人間の罪を救うために、私たちと同じ人間の姿を取り、苦難の道を歩み、十字架にかかって死んだくださったのです。地上の生涯においては隠されていたけれども、本当は栄光に輝く神の独り子であられるということです。イエスは死より復活して、天に上り、神の右に座し、父なる神と共に世を支配したもう神なのです。この主イエスの十字架と復活と昇天によって成し遂げられた救いこそが、私たちの罪を贖い、神の子とし、聖霊を与え、永遠の命に生きる恵みを与える救いとなったのです。

 

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「フィリポ・カイサリアでの信仰告白と受難の予告」マタイによる福音書16章13~28節

2017-03-19 00:03:19 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

日本キリスト教 富 谷 教 会    週  報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、リストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

受難節第2主日   2017年3月19日(日)    午後5時~5時50分

礼 拝 順 序

前 奏            奏楽 辺見トモ子姉

 讃美歌(21) 300(十字架のもとに)

交読詩編   86()

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書16章13~28節(p.31)

説  教    「受難の予告」  辺見宗邦牧師

祈 祷         

讃美歌   297(栄えの主イエスの)

聖餐式    72(まごころもて)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

            次週礼拝  3月26日(日) 午後5時~5時50分

             聖書  マタイによる福音書17章1~13節

             説教   「主の変容」 

             讃美歌(21)285 481 24 交読詩編 145 

本日の聖書 マタイによる福音書16章13~28節

 13イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。 14弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 15イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 16シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。 17すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。 18わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。 19わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」 20それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。 21このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。 22すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」 23イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」 24それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 25自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。 26人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 27人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。 28はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

  本日の説教

 イエスは、弟子たちを伴い、フィリポ・カイサリア地方に旅をされました。フィリポ・カイサリアは、ガリラヤ湖の北端からさらに北西に40㌔に位置する町で、ヘルモン山(ハーモン山:2815m)の南西の山麓にある、標高330mの風光明媚な地方の町です。

  現在はバーニヤスという町名で、シリアとの国境に近く、首都ダマスコ(ダマスカス)の南西に位置し、ゴラン高原の北にある都市です。ヨルダン川の水源に近い地で、紀元前二世紀のギリシャ時代には、大きな洞穴がギリシャの牧畜の神パン(上半身が山羊の角が生えた人間の姿で、下半身が山羊の姿)の誕生の聖地とされ、パン神を祭る神殿が建てられことから、パネアス(パンの町)と呼ばれていました。神殿の周囲の岸壁にはギリシャの神々が祀られました。

        パン神殿の想像図

 紀元20年、皇帝アウグストゥスはこの地をヘロデ大王に与えました。彼はここにに皇帝アウグストゥスを神としてて礼拝する神殿を建てました。ヘロデ大王の死後、フラ湖(ガリラヤ湖の北20㌔にある湖)や、ゴラン高原一帯の領主となったヘロデ大王の息子のヘロデ・フィリポが、この町を拡張し、ローマ皇帝(カイサル)に敬意を表して、自分の名も加え、フィリポ・カイサリアと改名しました。

 この地は、古代から神の宿る地として尊ばれ、異教の豊穣神バアルの祭儀の一根拠地でした。旧約聖書にも、この地がバアル・ヘルモン(士師記3:3)、バアル・ガド(ヨシュア記11:17)と言う名で呼ばれています。

 イエスは、このような異教の多くの神々が祀られているパレスチナの北限の土地に、弟子たちを連れて来られたのです。多くの神々とメシア・イエスとが向き合う場所で、弟子たちは、イエスに対する信仰を問われるのです。

 イエスは弟子たちに、「群衆は、人の子のことを何者だと言っているか」と人々の意見を尋ねました。弟子たちは、復活した<洗礼者ヨハネだ>と言っています、預言者<エリヤ>の再来だと言う人も、エレミヤのような<昔の預言者>が生き返ったのだという人もいます、と答えました。イエスは自分のことを「人の子」と自称しています。イエスは自らを、神の権威を持って終末時に現れることが期待されていた「人の子」と宣言されているのです。ガリラヤの民衆はイエスを、メシアではなく、神が終末の救済のために送られた預言者の一人と見たのです。

 イエスはさらに弟子たちに、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と弟子たちの考えを問われました。ペトロが真っ先に答えます。「あなたはメシア、生ける神の子です。」ギリシャ語の原典では、「あなたは生ける神の子、キリストです。」となっています。口語訳聖書もこのように訳しています。ギリシャ語の「キリスト」は、ヘブライ語の<メシア>を表しています。ヘブライ語の<メシア>は「油を注がれた(者)」を意味する語であり、終わりの日にイスラエルに遣わされる救済者の称号となっています。

 「神のキリストです」という信仰告白は、イエスの復活後に成立した教会の復活信仰が基盤として成立したと考えられます。共同訳聖書がこれを「神のメシアです」と訳したのは、まだキリストの復活を知らないペトロたちの信仰告白なので、あえてそのように訳したものと思われます。

 ペトロたちは、イエスこそイスラエルが待ち望んでいた<メシア>だと言い表したのです。これまでイエスの権威に満ちた教えを受け、力ある業や奇蹟を目撃してきた弟子が、イエスをメシアと信じたのです。

 すると、イエスは、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」と、お答えになりました。

 「バルヨナ」とは、「ヨハネの子」のなまった短縮形と考えられます。ユダヤ人は苗字のない時代、父の名をつけて名を呼ぶ習慣がありました(ヨハネ1:42)。「あなたは幸いだ」と、イエスはシモンを祝福しました。ペトロの信仰表明は、イエスが選んだ弟子たちにだけ与えられた神の啓示によるものでした。

 イエスは、わたしも言っておく言って、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府(よみ)の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」と、言われました。

 イエスはペトロに、岩という意味の「ペトロ」と言う名を与えました。「この岩の上に教会を建てる」とは、ペトロは与えられた名のとおり教会の土台石となると宣言されたのです。土台石の上に「教会を建てるは、一つの建物のイメージを生みます。陰府の力(直訳では「陰府の門」)という表現になり、門から連想される「天の国の鍵」という比喩が生まれます。陰府の門は死者が閉じ込められる呪の国の入口です。しかしメシア・イエスに属する者(教会)は、今や「死の力」の拘束されず、これを克服します。「陰府の門」が死を意味するなら、「天の国」は逆に命(復活)を表します。門の鍵を預かる者は、そこを通る者をすべて決定する権を持つので、単なる門番ではなく、その家の全権を委ねらた管理人です。

 イエスはペトロの告白を聞いたあと、このことはだれにも話さないように命じました。なぜなのでしょう。当時の人々が抱いていたメシア観は、ダビデ王国を再興し、ローマのの属領から解放してくれるメシアを期待していました。もし弟子たちが「イエスはメシアである」と宣伝するなら、群衆はイエスを政治的メシアと誤解することを、イエスは避けたかったからです。

  このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められました。

 ここで初めてイエスはエルサレムで受けねばならない苦難の使命について述べ、自分の間近い死と復活について弟子たちに予告しました。苦難の予告は受難が起こったときに、弟子たちがつまずくことがないように、あらかじめ語られたのです。

   イエスは、受難して復活する自分のことを<人の子>ということばで表しました。<人の子>は旧約聖書では、<人間>を表すのに用いられていますが(詩編8・5他)、そのほかにダニエル書7・13~14では、神の権威を受けた<人の子>を描いています。イエスは同時に、<主の僕の苦難と死>(イザヤ書52・13~53・12、詩編22篇118・22)の預言を成就する、<人の子>と自称したのです。

 イエスは、これから向かうエルサレムでは、弟子たちの予想とは全く異なって、最高法院を構成する、長老、祭司長、律法学者たちから排斥され、最高法院の判決で殺される運命にあることを打ち明けます。「必ず…ことになっている」と言います。イエスの苦難と死と復活は、究極的に神の意志を実現するために必然的な事であると語ります。それは、神があらかじめ決定していたことであり、旧約において記されていたことの成就なのです。<三日目に復活する>というとき、神のご計画に基づいて実現していくことが強調されています。ユダヤ式の数え方では、初めと終わりとを入れた数えるので、イエスの死なれた金曜日と、復活した日の日曜日までを含めて三日目になります。

 受難予告を聞かされたペトロは驚き、すぐにイエスに計画を変更するようにいさめました。イエスは振り向いてペトロに、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」と言われました。ペトロの言葉は、人間的な同情に満ちたものでしたが、イエスにとっては、致命的な結果をもたらしかねないサタンの誘惑でした。

 受難予告を聞いた今、弟子たちは新たにイエスに従う決断の前に立たされます。イエスは、「わたしについて来たい者は」と語りかけて、十字架への道を歩むイエスのあとに従ってくることを求めました。「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って従ってきなさい」とは、日々に、自己中心的な古い自己を捨て、キリストとの復活にあずかって、<神にかたどって造られた新しい人を着て>(エフェソ4・24)、生きることです。これは人間の努力や熱心によって出来るものではありません。ただ人間以上の力を持たれる聖霊が一人一人に臨むとき初めて可能となるのです。日毎に<試みに逢わせないでください>と主の祈りを祈りつつ、古い自分に死に、キリストにある新しい命に生きることです。

「自分の十字架」とは、キリストを信じた故に負わねばならない信仰者としての苦しみです。ある人にとっては家族の中での無理解でしょう。ある人にとっては会社での不利益でしょう。ある人にとっては偶像礼拝拒否の戦いでしょう。人により異なりますが、それが主イエスによって担わされる十字架です。

 イエスに従い、イエスと共に生きる生き方でなく、自分本位の生き方を続ける者は、永遠の命を失い、魂を失ってしまいます。キリストのために生きる者には、神が永遠の命をという賜物を与えるので、自己の魂を見出すことができるのです。

 「人の子」イエスが、独自の使命をもってふたたび到来されることが告げられています。ここで明らかに示そうとされていることは、神の王国をもたらす救い主の支配が、遠からず地上に現れる、ということです。すでに来ている主の支配が、明らかになるとき時が近づいていることを思いつつ、主イエスに従う日々の歩みを続けていきましょう。

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「悪と戦うキリスト、聖霊によって悪霊を追い出す」 マタイによる福音書12章22~32節

2017-03-12 21:43:02 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

日本キリスト教 富 谷 教 会   週 報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

受難節第2主日  2017年3月12日(日) 午後5時~5時50分

           礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 528(あなたの道を)

交読詩編  130(深い淵の底から)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書12章22~32節(p.22)

説  教    「悪と戦うキリスト」  辺見宗邦牧師

祈 祷         

讃美歌   377(神はわが砦(とりで))

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

              次週礼拝  3月19日(日) 午後5時~5時50分

               聖書  マタイによる福音書16章13~28節

               説教   「受難の予告」 

               讃美歌(21)300 297 24 交読詩編 86

   シェアホーム訪問 ミニ礼拝と聖餐 3月15日(水)午後2時30分~3時10分

本日の聖書 マタイによる福音書4章1~11節

 22そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。 23群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。 24しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。 25イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。 26サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。 27わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。 28しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。 29また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。 30わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。 31だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。 32人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」

      本日の説教

 主イエスは、ガリラヤ湖周辺の町々村々を巡回して、神の国は近づいたと宣べ 伝え、そのしるしとして、病人をいやし、悪霊を追放し、嵐を静め、死人を生き返らせ、奇蹟を行われました。主イエスが行った奇蹟は、イエスが自然、病、罪、悪霊、死に対して支配する権威を持つ神の子、メシヤ(救い主)であることを示すものでした。

 イエスの時代は、重い病気や身体障害は、悪霊の仕業だと考えられていました。イエスのところに、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が連れられて来ました。イエスが癒されると、ものが言え、目が見えるようになりました。群衆は皆、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言って驚嘆しました。「ダビデの子」とは、メシアの称号です。

 しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言って、イエスの力の源を悪霊の頭のせいにし、イエスが神から遣わされたメシアであることを暗に否定しました。ファリサイ派の人々は、イエスを殺害しようと陰謀を企ていた人々です。(12:14)

 <ベルゼベル>とは、「君主バール」の意で、バールは古代シリアの偶像神の名です。この当時は、<悪霊の頭(頭領)>すなわちサタンを指す名として<ベルゼベル>という言葉が用いられていました。彼らはイエスの力を<悪霊の頭>の力と見做したのです。

 イエスはファリサイ派の人々がイエスを落とし込むために考えていることを見抜かれ、反論しました。

 「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。」

   「どんな国でも内輪で争えば」、その国は立ち行かない。内部抗争に明け暮れる国や家が荒廃し、倒れていったことは、歴史や世間の事実が示していて明らかです。わたし(イエス)がサタンの頭の力で、サタンの手下である<悪霊>を追い出していると言うのであれば、それは内輪争いをすることであり、サタンの支配は崩壊してしまいます。サタンは、内部抗争によって自滅するほで愚かではありません、とイエスは反論しました。

 「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。

   わたしが悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うのなら、あなたたちの仲間、ユダヤ教団内部で行われている<悪霊祓い>は何の力で悪霊を追い出しているのか。彼らも悪霊で追い出していることになるのではないか。もしそうなら、彼らは怒ってあなたたちの罪を裁くことになろう。彼らの悪霊追放を、神の側に立って働いているとみなすなら、イエスの悪霊追放も同じように神の側に立って働いているを認めるべきではないか、と反論しました。

 当時のユダヤ教では、祈祷師や霊能者が悪霊を追い出すことをしばしば行っていました。使徒言行録19章11節以下にもユダヤ人の魔術師や祈祷師がいたことが記されています。

「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」

  わたしが「神の霊」によって悪霊を追い出しているのだから、神の国、神の支配は、あなたたちのところに来ているのだ、とイエスは重大な宣言をされました。「神の支配」は、やがて来る終末的な出来事ですが、しかし、聖霊の働きによって、すでに始まっているのだ、と言われたのです。「神の国」が「あなたたちのところに」、今イエスが直接話を向けておられる批判者たちのところに来ている。聖霊の存在を否定するようなあなたがたには不利な、神の裁きがすでに下っている、という警告でもあります。

 ルカによる福音書11章20節では、「神の指で」悪霊を追い出しいるとあります。これはヘブライ的背景を持つ古い表現です(出エジプト記8:15、詩篇8:14)。マタイがこれを「神の霊」に改めたのは、18節でイエスの権能の根源を「わたしの(神の)霊を授ける」という言葉によっているからです。

「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」

イエスは、ご自身とともに「神の支配」が到来していることを、イザヤ書49章24~25のたとえを用いて語ります。

「勇士からとりこをとり返せるであろうか。暴君から捕らわれ人を救い出せるであろうか。主はこう言われる。捕らわれ人が勇士から取り返され、とりこが暴君から救い出される。わたしが、あなたと争う者と争い、わたしが、あなたの子らを救う。」

「強い人」とはサタンのことです。サタンは所有物である悪霊にとりつかれた人々を、奴隷(捕虜)としてそのままにしておこうとしても、サタンよりももっと強う者(イエス)の前には、サタンは無力です。イエスはサタンの捕虜をすべて奪い取ってしまう。サタンに対するイエスの勝利こそ、彼が、神の側なのか、サタンの側なのか、どちら側なのかを、十分に示す証拠である、と語っているのです。

「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」  

 この戦いにおいて、どちらつかずいることはありえない。今神の指で悪霊を追い出しておられるイエスの側につくか、その働きを悪霊の頭によるものとして、イエスに敵対する側につくのか、どちらの側につくのかと決断を迫ります。今神から遣わされて世に来られたイエスの呼びかけに呼応して、イエスの陣営に集合しない者は、終末に、イエスがその群れを集められる時に、この集めようとされる働きに敵対するものであり、羊である民を散らしている者とされる、と警告しています。

 「だから、 言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」

 「だから、言っておく」とは、「このことのゆえに」といことであり、新しい重要なことを話す導入のことばです。イエスは、人が犯すどんな罪や冒涜でも赦されと語りました。しかし、聖霊に対する冒涜は赦されない、と語りました。「人の子に言い逆らう者」でも赦される、と語りました。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世においても、後の世でも、決して赦されない、繰り返されました。

 ここで言われている「聖霊に言い逆らう」とは、イエスの働きを汚れた霊に帰すことです。

 「人の子に言い逆らう者」には、ギリシャ語原文では、「言葉(λογονロゴン)」という語がついていますが、「聖霊に言い逆らう者」にはついていません。32節を直訳すると次のようになります。

「また、誰であれもし人の子に反対して言を語る者は、許されるでしょう。しかし、誰であれ、なんであれ聖霊に反対して語る者は許されることはありません。」となります。

 EKKマタイ注解では、

「人の子に反対して言葉を口にする者は、その言葉を許されるであろう。しかし、聖霊に反対して語る者は、許されないであろう。」とあります。(EKK新約聖書注解Ⅰ/2マタイによる福音書p.329-330)

 イエスに対する言葉による冒涜と、聖霊そのものに対する冒涜の違いが語られています。

 イエスが最高法院で死刑の判決を受けたとき、ペトロは大祭司の屋敷の中庭で、呪いの言葉さえ口にしながら「そんな人は知らない」と誓って、イエスの弟子であることを打ち消しました。(26:74)ペトロがイエスを否んだことは、「人の子に逆らうことば」を語ったものであり、ファリサイ派の人々がイエスの活動を悪霊に帰したことは、聖霊そのものを冒涜したことになります。

 当時、ユダヤ教の悪魔祓いは、呪文を唱えたり、物質材料を用いたり、(指輪や植物の根、一鉢の水等)を用いる魔術的な癒しでした。主イエスの場合は、神の霊によってなされる特別なものでした。イエスの癒しは、単なる肉体の治療をこえて、かれの全人格がいまわしい運命の力から自由にされ、生気になり、むしろ生まれかわったという経験にほかなりませんでした。この事実が人々を驚かし、この人がメシアではないかという噂をひきおこしたのです。

 サタンは確かに「強いもの」ですが、今やその強いものを縛りあげる方、神に選ばれ、神の霊を与えられたメシア、救い主が世に来られたのです。

わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」

 私たちは、主の祈りで、「御国を来らせたまえ」と祈ります。終末のときに実現する「御国」を求めるだけではなく、今、わたしたちのところで実現している「神の国」、「神の支配」を求めて祈る事も必要です。罪と死に打ち勝ち、復活され、天上におられ、父なる神とともに世を支配されておられる、神の御子イエス・キリストの「神の霊」による救いの働きを日々に受けていることを自覚し、悪霊に打ち勝つ勝利を確信して日々の生活を営んでまいりましょう。

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「キリシタン史や踏絵等を、英語で話すための資料」

2017-03-11 01:53:12 | キリスト教

日本史時代区分 Japanese Eras                                          

 旧石器  Old Stone Age      14000BC                          

 縄文   Jomon c.14000BC~c.600BC    Hunter-gathers,fishing and porttery  

 弥生 Yayoi   c.600BC~c.300AD    Rice and culture,  iron,independent “countries”, and Himiko(shaman queen)                  

 古墳  Kofun     c.300~592     Burial muunds; emergence of Yamato hegemony and  emperor  system

 飛鳥 Asuka     592~710   Buddhism and Chinese influence ;  first  constitution under Prince Shotoku                          

奈良 Nara  710~794  First “permanent capital” . Building of Todaiji.

平安 Heian   7941185 An aristocratic age with rule by the emperor from Heian-Kyo (Kyoto) 

鎌倉 Kamakura   11851333  Beginning of samurai rule, with a military leader (Shogun) in Kamakura

室町 Muromach   13361573   Ashikaga dynasty rules from Kyoto;central power collapses in Period of Warring States (Sengoku Period)

  1549 Francis Xavier arrives in Kagoshim with the first mission.        Kirishitan Century  500.000 Christians(5%) (1549年 フランシスコ・ザビエル、鹿児島に上陸。キリシタン世紀始まる。1613年頃はキリシタンの人口約50万人にたっする。(当時の日本の人口の約5%)

安土・桃山 Azuchi-Momoyama 15731603  Unification under Nobunaga Oda and Hideyoshi Toyotomi         

  1614 Statement expelling missionaries and nationwide ban on Chrisitianity(1614年 宣教師追放令発布、全国的なキリスト教弾圧始まる)キリシタン禁教令を発布。キリシタン弾圧259年続く)

 江戸 Edo 16031868   Tokugawa rule and an age of isolationism                 1633 National Isolation. Travel overseas banned for Japanese      (1633年 鎖国開始 日本人の海外渡航禁止)長崎の出島で、オランダとの通商に限定する。

    Time of Persecution (259years) Over 4.000 people died for their belief.                キリシタン禁令の時期に、およそ四千人が殉教

 1854  Treaty with the United States and ending of Isolationism(1854年 米国との通商協定を結ぶ 鎖国制度廃止

  1859 Canceled ban on Christianitay. Return of first Catholic  missonaris (Paris Forreign Mission Society)1859年 外国奉行にキリスト教解禁(パリ―外国宣教会神父来日)

明治 Meiji    18681912   Restoration of the emperor in the newly named Tokyo.  Westernnization and modernization                               1873 Sign Boards banning Christianity take down (1873年、明治6年、キリシタン禁令の高札撤去)キリシタン禁令解除

大正Taisho 19121926    Industrial growth and Imperialism          

1895 Construction of Urakami Cathedral bigins (1895年 長崎の浦上天守堂再建)

昭和 Showa  19261989     Militarism,world War Two, and the postwar economic miracle

平成 Heisei 1989~present    Economic bubble; ageing society and rural depopulation;  Peace Constitution

    「キリシタン」とは   kirishitan is a teram used to refer to Catholics  in Japan in the 16th and 17th centuries. Following the time of persecution, it was used in the expression Kakure Kirishitan (Hidden Christians).(キリシタンとは、16世紀から17世紀にかけて、日本のカトリックの宗教について用いられた用語です。続いて、迫害の時期には、「隠れキリシタン」という表現が用いられました。)

     「踏絵」とは   A fumie is a plate with a picture of Christ or the Virgin Mary used by the Tokugawa shogunate during the Edo period to identify Christians by making them step on it. It is used at Nagasaki at the beginning in 1628 . There are four kinds of fumie made by paper,,wood,copper and brass. (踏絵とは、江戸時代徳川幕府によって用いられた、キリストやマリア様の絵のある板状のもので、それを踏ませることで、キリシタンを見分けました。踏絵は、紙踏絵、板踏絵、銅踏絵、真鍮踏絵の四種類があります。)

  「キリシタン大名」とは  Daimyo is a feudal load who are Christian. There are about two hundreds of territories in Japan and more than 60 loads become Christians. (キリシタン大名とは、キリスト教徒となった封建時代の領主です。全国は、二百近い領土に分かれていましたが、そのうち六十人以上の切支丹大名がいました。)

     「天正遣欧使節」  Four young Envoys depart for Rome with Valignano in 1582, and they arrive 1590. (1582に、ヴァリニヤーノ神父と共に、九州の諸大名の五人の若い家臣が、天正時代に遣欧使節としてローマに向けて出発しました。八年後帰国して、秀吉に報告しました。)

     「慶長遣欧使節」  Tsunenaga Hasekura departs for Rome as a Envoy of the load Masamune Date in Sendai in 1613. And he arrives in Japan in 1620.(慶長時代の1613年、奥州仙台の伊達政宗の家臣支倉常長が遣欧使節としてローマに向け出発し、7年後日本に帰国し、翌年仙台に戻りました。)

     「高山右近」  Ukon Takayama is famous for  a Christian load who gives up his position of load and he is banishied from Japan to Philippine in 1614. He is also an expert tea ceremony. He is  beatified as a beatus (the blessed) in 2017.(高山右近は、キリシタン大名でしたが、信仰のため大名の地位を捨てたことで有名です。1614年日本からフィリッピンに追放され、数か月後、死亡しました。千利休の弟子として茶道を究めた人でもあいます。2017年(本年)2月7日(火)大阪城大ホールにて、カトリックの福者(聖人に次ぐ)として、列福されました。)

  「わび茶」  Tea ceremony seeks wabi. The aesthetics of wabi cha express a style of tea that thrives on minimalism and rustic simplicity.Wabi-sabi (侘・寂) is a concept in traditional Japanese aesthetics constituting a world view centered on the acceptance of transience and imperfection. The aesthetic is sometimes described as one of beauty that is "imperfect, impermanent, and incomplete".(わびとは、茶道が求めるもので、わび茶の美学は最小限と質素な地味さでなりたつお茶の様式を表現します。わび・さびは、はかなさと不完全さを受け入れることに集中する世界観を構成している伝統的な日本の美学の概念です。美的価値は、「不完全で、一時的で、不十分である」美しさの1つとして時々表現されます。

 「茶道とミサとの関係」 The grand tea master Sen no Rikyu was influenced by the Catholic Mass. There are some similarity for raising the tea to head height as a token of respect and wiping the bowl after drinking with a white cloth. Also,in the whole ritual a sense of two or three gathering together in spiritual union. 「茶道を大成した千利休はカトリックのミサの影響を受けました。お茶の茶碗を顔の高さまで高くおしいただく動作は敬意のしるしであり、お茶を飲んだ後、白い布巾で茶碗を拭くのも、ミサに共通しています。全体の式中で、二、三人が集まり、霊的に一つとなる感覚も共通しています。」

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「荒れ野の誘惑:人は神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」 マタイによる福音書4章1~11節 

2017-03-03 13:54:30 | キリスト教

    ↑ ボッティチェリ 「三誘惑のキリストと重い皮膚病の人の癒し」1480年  345㎝×555㎝  バチカン・システィナ礼拝堂  絵の上部には、三つの誘惑が描かれ、下部には、皮膚病を癒された人が祭司に会う場面と、中段左にキリストが描かれている(ルカ5:12~16参照)。    

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

    日本キリスト教 富 谷 教 会   週 報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

    受難節第1主日 2017年3月5日(日)   午後5時~5時50分

        礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

 讃美歌(21) 298(ああ主は誰(た)がため)

交読詩編   91(いと高き神のもとに身を寄せて)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書4章1~11節(p.4)

説  教      「荒れ野の誘惑」  辺見宗邦牧師

祈 祷               

讃美歌   530(主よ、こころみ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

                              次週礼拝  3月12日(日) 午後5時~5時50分

                              聖書  マタイによる福音書12章22~32節

                              説教   「悪と戦うキリスト」 

                              讃美歌(21)377 24 交読詩編 130

     本日の聖書 マタイによる福音書4章1~11節

 1さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。 2そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。 3すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」 4イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」 5次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、6言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」 7イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。 8更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、 9「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。 10すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」 11そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

    本日の説教

 3月1日の水曜日から、イースター前日の4月16日のまでの、6回の日曜日を除く、40日間の受難節に入りました。40日という期間は、主イエスが悪魔から誘惑を受けるために荒野で断食した40日を思い起こして過ごすためです。

 この期間中にある6回の日曜日を除くのは、日曜日をイエスの復活を記念する主の日として、教会では礼拝をするためです。復活節の最後の一週間を受難週と呼びます。イエスが十字架に架かるためにエルサレムで過ごした最後の週として、その苦難を覚えるためです。受難節の間は、主イエスが荒れ野で誘惑に会われ、十字架への道を歩まれたことを思って感謝し、主の復活を祝うイースターに備えるための期間です。

 イエスの「荒野の誘惑」は、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書に記されていますが、本日はマタイの福音書から神のみことばを与えられたいと思います。

 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。」(マタイ4:1~2)

 主イエスはヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた後、悪魔から誘惑を受け、その誘惑に打ち勝つために、聖霊に導かれ荒れ野に行かれました。荒れ野は、エリコから西3キロに広がる「ユダの荒れ野」と推定されています。そこには「誘惑の山」と呼ばれている所があります。

   

                        誘惑の山(ユダの荒れ野)   

 イエスは荒れ野で四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられました。イエスの四十日間の断食と誘惑は、モーセが山で食糧もなく四十日間放浪したこと(出エジプト記34・28、申命記9・9)や、イスラエルの民が荒れ野で四十年間の試練の旅を続けたこと(申命記8・2-6)と関連し、背景となっています。

 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。』イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」(マタイ4:3~4

  イエスは洗礼を受けたとき、天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聞きました。イエスは「神の子」の自覚をもって、悪魔の誘惑にあわれるのです。イエスは伝道の始める前に、人間に罪を犯すように誘った悪魔の誘惑に勝たねばならなかったのです。

 「誘惑する者」の第一の誘惑は、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」という誘いでした。四十日も断食し、空腹を覚えているイエスにとって、パンはのどから手を出したいほど欲しいものでした。悪魔の言うように、イエスは神の子として権能を用いて石をパンにすることは、できないことではありませんでした。しかし、イエスは自分をお遣わしになった神の御心を行うために世に来られたことを自覚され、自分の意志を行うために神の子としての権能を用いることはしませんでした。

 イスラエルの民は、シナイ半島の荒れ野の旅で空腹だったとき、指導者のモーセとアロンに不平を述べ立て、必用なものを与えてくださる神を信頼せず、不信仰を表しました(出エジプト記16・3)。しかし、不平を聞かれた神は天からマナを降らせ、うずらの肉を与え、こうして民を守る神であることを知らせたのです。

 主イエスは荒れ野で、イスラエルの民と同じような空腹を味わいましたが、イスラエルの民と同じような不信仰の罪を犯しませんでした。悪魔の誘惑に対して、イエスは神によって命じられたのではない奇跡を行うことを拒絶しました。「『人はパンだけで生きるのではない。人は神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる』と書いてある」と聖書のことばを引用し、現実の空腹に目を留めるのではなく、神に信頼し、神のみ心に従って生きることを宣言したのです。

 イエスは、申命記8章3節のことばを引用しました。申命記には、荒れ野でのイスラエルの民の空腹をつぎのように伝えています。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」とあります。イスラエルの民は、神に対する謙虚な信頼を、すなわち、神のご意思と言葉を待ち、神の摂理の力に感謝することを学んだのです。

「人はパンだけで生きるのではない」とは、生きるために人はパンを必要とするが、パンだけで生きるのではない。人は神が与える命のパンで生きる(ヨハネ6:35)、と解することができます。人の生死は神の計らいの中にあり、人は神に生かされている存在です。人には、いのちの霊の糧が必要なのです。

「主の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」とはとは、どのように理解したらよいのでしょうか。イスラエルの民は、天から降るマナによって神に養われました。マナを与えるとき、主なる神は、モーセに「見よ、わたしはあなたたちのために天からパンを降らせる」(出エジプト16:4)と言われました。また、「あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する」(同16:12)と言われました。このように「主の口から出る一つ一つの言葉」によって、マナが与えられ、うずらが与えられたのです。このように、人は神のことばによって生かされるのです。天地の創造も神のことばによるものでした。万物は言(ことば)によって成りました(ヨハネ1:3)。神はことばによって、ご意思を示されます。活ける神は、ものを言わない偶像の神とは違います。神と人との関係は、人格的・霊的なものです。神の言葉は、荒れ野の旅におけるマナのように、私たちに、単なるパンとは違う命の糧を与えて生かし、神に信頼して歩む者としてくださるのです。私たちは、日用の糧とともに、日々神のみことばによる霊の糧で養われて生きるのです。

 「次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。『神の子なら、飛び降りたらどうだ。≪神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える≫と書いてある。』 イエスは、『≪あなたの神である主を試してはならない≫とも書いてある』と言われた。」(マタイ4:5~7) 

 次に悪魔は イエスを聖なる都エルサエムへ連れて行き、神殿の屋根の端に立たせ、神の子なら飛び降りたらどうだ、と誘いました。当時のユダヤの人々は、いつの日か自分たちを救いに来てくれるメシアが登場する場所は、このエルサレムの壮大な神殿の、しかも誰からもよく見える屋根である、と信じていたのです。そこに救い主が姿を現して民に救いを告げる。そういう最もふさわしい場所を悪魔は選んだのです。

  悪魔は、「神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える」と書いてあると聖書のことばを用いて、イエスに対して、神の子メシアとしての力を魔術的に行使して自分が神の子たることを示しなさい、と誘ったのです。

 悪魔が引用した聖書のことばは、詩篇です。このように書かれています。「主はあなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る」(詩編91・11~12)とあります。

  悪魔が引用したこの詩篇は、神への全き信頼を示す祈りです。イエスは、悪魔の要求する奇蹟は自分のための悪用であり、神への偽りの信頼への誘いであることを見破り、イエスも聖書の言葉を引用し、「あなたの神である主を試してはならない」と言って誘惑をはねのけました。

  イエスが言われたこの言葉は、モ―セが民に語った言葉です。これは旧約聖書の出エジプト記で語られている出来事を背景にしています。荒れ野で民の飲み水がなかったとき、「イスラエルの人々が、『果たして、主は我々の間におられるのかどうか』と言って、モーセと争い、主を試し」ました。主は、苦境にあるモーセの祈りを聞き、モーセが岩を打てば、そこから水が出て、民は飲むことができるようにしました(出エジプト記17:1~7)。

 モーセはこの時の出来事を回顧し、イスラエルの民に対し「あなたたちがマサにいたときのように、あなたたちの神、主を試してはならない(申命記6・16)」と語りました。主イエスはこの言葉を引用して悪魔を撃退したのです。イエスはイスラエルが犯した不信仰のあやまちを犯すようなことはしませんでした。

 「更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」(マタイ8:10)

 ここにはイエスの内面的な霊的戦いが描かれています。悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行きました。一瞬のうちに世界のすべての国々とその繁栄ぶりを見せました。そして「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら」、この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ、と言ったのです。この悪魔の言葉は、神の子の権威を表す言葉であり、「すべてのことは、父からわたしに任せられています(ルカ10・22)」というイエスのことばに類似しています。この誘惑はイエスにとって大きな誘惑です。この世の権力と繁栄は、すべての権力者が求めるものであり、この世の繁栄、栄華と富はすべての人を魅了するものだからです。この誘惑は、神の子への権威の約束が暗示されています。「求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし、地の果てまで、お前の領土とする」(詩篇2:8)とあります。

  悪魔はここで自らを神として、神の子イエスに拝むことを要求したのです。しかし、悪魔に全世界を与える力も権限もあるわけありません。全世界は、神のものだからです。悪魔は、できもしないことを言って、自分を拝ませようとしたのです。ここに人をだます悪魔の真の姿があります。サタンが蛇の姿で現れ、「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものと」なります、とだまして、アダムとエバを誘い、罪を犯させたことが思い出されます。

  主イエスは、「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」と言って悪魔を退けました。

 主イエスが用いたこのことばは、モーセがホレブの山(シナイ山)で十戒を与えられたあと、イスラエルの民に神の言葉を取り次いだときの言葉です。「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないように注意しなさい。あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい(申命記6:13)」とモーセは語りました。主イエスは、悪魔をこの聖書のことばで退散させたのです。

 わたしたちは、人生において追い求める目標が、富とか地位とか世間での名誉とかいう地上の宝ではなく、何よりもまず、神の国と神の義を求め、主に仕え、隣人を愛すことが大切です。それが「宝を天に積む」ことになり、心はいのちの源である神に結びつけられて、死によっても脅かされることのない、霊の喜びと永遠の命に生きる者とされます。

 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。」(マタイ4:11)

 悪魔はあらゆる誘惑を終えてイエスを離れました。すると、天使たちが来て仕えた。これは、誘惑に打ち勝たれたイエスに、神の豊かな恵みが伴ったことを示しています。イエスは、わたしたちに赦しと恵みを注ぐために来られたのです。私たちにサタンに打ち勝つ聖霊による力を与え、私たちを罪と死の支配から解き放ち、永遠の命を与えるために、この世に来られたのです。私たちはこの主イエスを信じ、復活されたイエスと結び合わされ、この主イエスと共に生きていくことが出来るのです。そのことによって、私たちも神の子とされるのです。

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