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富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「わたしは命のパンである」ヨハネによる福音書6章34節~40節

2023-04-29 21:49:47 | 礼拝説教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

復活節第4主日 2023年4月30日(日)  午後5時~5時50分

                            礼 拝 順 序                    

                 司会 邉見 順子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  56(主よ、いのちのパンをさき)

交読詩編     24(地とそこに満ちるもの)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳) ヨハネによる福音書6章34節~40節(新p.175)

説  教    「わたしは命のパンである」 辺見宗邦牧師                                          

讃美歌(21) 411(うたがい迷いの)

献 金  

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オン・ラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019

 (辺見牧師)に、申し込み下さい。

       次週礼拝 5月7日(日)  午後5時~5時50分

       聖 書 ガラテヤ書3章23節~4章7節

       説教題 「律法の支配から自由にされた神の子」  

       讃美歌(21) 6 289 27 交読詩編 119:9-16

本日の聖書ヨハネによる福音書6章34~40節

 34そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、35イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。36しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。37父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。38わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。39わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。40わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

 本日の説教

 ヨハネによる福音書の6章全体が一つの主題についての記しています。その主題は命のパンの与え手であり、また同時に命のパンそのもであるイエスを明らかにすることにあります。

 6章の始めに書かれているのは、「五千人に食べ物を与えた」、供食(きょうしょく)の記事です。イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸で、イエスの後を追ってきた五千人ほどの群衆に食べ物を与えられました。人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ世に来られた預言者である」と言いました。しかし、神の子とは認めていません。この供食の記事では初代教会の聖餐式で使われた言葉遣いが用いられており、パン裂きの出来事がイエスの十字架の死・贖罪と結びつけられるべきであることを表しています。  

 夕方、弟子たちは舟に乗ってカファルナウムに行こうとしました。その途中、強風で湖が荒れ始めたとき、イエスが湖の上を歩いて舟に近付いて来られたのを見て、弟子たちは恐れました。イエスは、「わたしだ。恐れることはない」と言われました。間もなく舟は目指すカファルナウムに着きました。ここではイエス御自身が神と等しい、あるいは自分は神であるという形で自己を顕現しています。

 その翌日、五千人に供食した地に残っていた群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、ちょうどティベリアスからやって来た数そうの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来ました。そしてイエスを見つけると、「ラビ(ユダヤ教の宗教的指導者や学者を指す呼び名)、いつ、ここにおいでになったのですか。」と言いました。

 イエスは答えて、「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満足したからだ。朽ちる食べ物のためではく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」と言われました。

 そこで人々は、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて、「神がお遣わしなった者を信じること、それが神の業である」と言われました。

 彼らは、「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野で天からのパン、マンナを食べました」と言いました。

 群衆はシナイ半島の荒野で先祖が与えれたマンナのようなしるしを求めて、もしそれが与えられるならば、昔の人がモーセを神の人と信じたように、キリストを神の子と信じようというのです。

 するとイエスは、「モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」と言われました。これはモーセが与えられたパンを指すだけでなく、これからイエスに起ころうとしていることが示されています。<世に命を与えるもの>と言われています。この世はイエスを拒む勢力の代表者ですが、ここでは神の目的はこの世に命を与えることであり、世は救いの対象としてとらえられています。

 ここからが、今日の聖書の箇所に入ります。

 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちに与えてください」と言いました。<パン>は、人間の生命を支え養うのに必要なもののすべてを表します。しかし、群衆はこれを「肉のパン」と言う意味に受けとっています。イエスは、この言葉にもっと深い意味をこめて語っています。それは<命のパン>と表現されています。ここではパンは明らかに、この世の物質以上のもの、一人の人格をとってこの世にあらわれた生命であることが示されています。群衆は<命のパン>とは肉の生命を支えるための肉のパンと思い込んで、どこまでもそれをイエスの求めています。

 イエスは言われました。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。」

 イエスは言われます。<わたしが命のパンである。>わたしは荒野のマンナと違って、わたしに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じる者は永遠に渇くことがない。わたしこそ神の、まことの、命のパンである、と明らかにされたのです。

 本当の生命の養いは、一人の<人格>であるイエスの中にこそ求めるべきだというのが、この解答です。物質としての糧は、やがてすぐなくなるばかりでなく、飢えや渇きがいやされたとしても、それは一時的な充足にしか過ぎません。しかし、永遠に生き給う神の子との愛の交わりは、永遠的生の充足をわたしたちに与えます。これがイエスが約束する永遠の生命です。

 この群衆はすでにパンの奇跡において、ある決定的事件を目撃したのです。ところが彼らは、それが何を意味するかを見通すことができなかったのです。信仰の目には見えたはずのイエスの神の子としての栄光が、彼らの眼にはかくされていたのです。

 イエスの許に導かれ、彼をキリストと信じるということは、父なる神のお与えになるものであり、神の恩恵によるものだ、と述べています。

 <わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない>とあります。イエスのもとに来る者が、信仰告白へと導かれ、救いに至ることを、イエスは保障しています。

 ここでは<上から>という代わりに<わたしが天から降ってきた>とはっきり言われています。天は神のおられる領域なので、<わたし(イエス)は神から来た>ということを表わしています。

 イエスの神的権威は、どこにあるのでしょうか。それは、父の御心に従うことしかできないイエスの神への従順さにありました。イエスの死は、信じるすべての人に復活の生命を与えるための犠牲でした。<永遠の生命>とは、死を乗り越える「復活の生命」でした。これを約束し、与えることができる者は、もはや単なる人間ではあり得ません。神のなさることです。

 「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

 <終わりの日>は未来的なことですが、現在的なことでもあります。つまり永遠の命は歴史の終末の時に与えられるものではありますが、<子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり>とあるように、イエスの言葉を聞く時に与えられることが明らかにされています。

 ここでの重要な点は、イエスはモーセのようにただ神から与えられるパンを民に分け与えるだけではなく、命のパンそのもであるという点です。モーセはあくまでも人間であり、預言者に過ぎません。イエスは神と等しい者であり、神であるということです。その命に与ること以外に終末の復活にあずかることはないと宣言されています。

 41節からは、群衆がユダヤ人たちになります。ユダヤ人たちが登場すると、むしろイエスに対する批判的な、敵意が明らかになり、反抗が明らかになっていきます。ここでの主題は命のパンそのものであるイエスです。

 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは、天から降ってきたパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始めました。これはヨセフの息子のイエスではないか。ヨセフとマリアから生まれた子が、どうして今「天から降ってきた」などというのか。神への冒涜ではないか、とつぶやいたのです。

 イエスは答えて、「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。はっきる言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、わたしは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生けるパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と言われました。ここではイエスが命のパンとして、十字架の贖罪によって人々に永遠の命を与えるということが言われています。

 イエス様というパンを食べた人、すなわち、イエス様を信じた人は、神との豊かな交わりで霊的に満たされ、潤されますので、霊的に飢えたり、渇いたりすることがありません。「命」は、神との交わりで人を生かす霊的命のことです。生まれたときからの自然的意味での命ではなくて、神に造られた人間として、神との交わりの中で、与えられる聖霊です。「命のパン」とは、神との交わりで与えられる、人を生かし養う霊的な命を表しますが、具体的には、霊的命が無限に充満している神の子イエス・キリストを表しています。

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「最初の弟子たち」ルカによる福音書5章1~11節

2023-01-11 20:36:07 | 礼拝説教

  ↑ Luca Giordano ルカ・ジョルダーノ、イタリアの画家 ( 1632–1705). The Calling of Saint Peter and Saint Andrew. 

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

降誕節第4主日  2023年1月15日(日)  午後5時~5時50分

                            礼 拝 順 序                    

                司会 斎藤 美保姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 402(いともとうとき)

交読詩編    101(慈しみと裁きをわたしは歌い)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳) ルカによる福音書5章1~11節(新p.109)

説  教      「最初の弟子たち」  辺見宗邦牧師

祈 祷                                                    

聖餐式    78(わが主よ、ここに集い)

讃美歌(21) 513(主は命を)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オン・ラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019                                (辺見牧師)に、申し込み下さい。

                                   次週礼拝 1月22日(日)  午後5時~5時50分

                                   聖 書 ルカによる福音書4章16~30節

                                   説教題  「宣教の開始」 

                                  讃美歌(21) 402 518 27 交読詩編 111

本日の聖書 ルカによる福音書5章1~11節

5:1イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。 2イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。 3そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。 4話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。 5シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。 6そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。 7そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。 8これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。 9とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。 10シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後あなたは人間をとる漁師になる。」 11そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

本日の説教

主イエスは、ヨルダン川で洗礼を受けたあと、荒れ野で、四十日間、悪魔の誘惑を受けられました。イエスは誘惑に勝利され、メシアとして働くための準備が整いました。悪魔は離れ去りました。イエスは霊の力に満ちてガリラヤに帰られました。諸教会で教え、皆から尊敬を受けられました。

主イエスは、育った故郷のナザレに来て、安息日に会堂に入り、イザヤ書の言葉を読みました。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」(イザヤ書61・1-2)

イエスは会堂にいる人々に、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言されました。

朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれました。群衆はイエスを捜し当て、自分たちから離れて行かないようにと、引き留めました。しかし、イエスは「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない」と言い、ユダヤの諸会堂に行って宣教されました。

   

イエスがゲネサレト(ガリラヤ湖西岸のカファルナウム周辺のゲネサレト平原に由来する名)湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せてきました。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になりました。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていました。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗って、岸から少し漕ぎ出すように頼み、腰を下ろして舟から群衆に教え始められました。

 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えました。

漁師のシモンにとっては、もう一度、沖に出て網を降ろして漁をすることは、これまでの経験から無駄骨を折ることになると思えたでしょう。しかし、「先生のお言葉ですから」と漕ぎ出して行きます。主が語られる言葉を信じて実行したのです。シモンは圧倒的に迫ってくるイエスの人格から出る言葉に信頼し服従し、疲れ切った体を鞭打って再び沖へ漕ぎ出し、網を下ろしてみたのです。すると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになりました。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼みました。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになりました。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」と言いました。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからです。シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様でした。

シモンは大漁に驚きました。シモンは大漁の前は、イエスを「先生(エピスタタ)」と呼んでいました。弟子たちによって呼ばれるある程度の信仰の呼びかけです。大漁の後は、シモンの名は急にシモン・ペトロという信仰者の団体の頭としての名に変わり、イエスの足もとに平伏します。そしてイエスを「主よ(キュリエ)」と呼んでいます。大漁によってイエスに神の力を見たため、思わずイエスを主と呼んだのでしょう。そして、同時に自分の罪に気付いたのでしょう。「わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言いました。

シモンは聖なる偉大な方の前に立ったとき、傍(かたわ)らにいることが自分に値しないことを感じて恐ろしくなったのです。自分にふさわしくないような神の恵みの体験は、シモンを罪の自覚と告白へと向かわせました。 

豊漁によるシモンの信仰告白と改心は、イエスの弟子となる主の招きとなります。イエスはシモンに、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言われました。シモンの罪の告白に対して、祝福の言葉が与えられたのです。「恐れることはない」のみことばは、罪の赦しのことばでもあります。「人間をとる漁師」の直訳は「人間を生け捕りする者」です。旧約用語では、人を生きたまま危険から救うという意味ですが、神の国に人々を導き入れる宣教を指すことばとして用いられています。「今から後」というルカの用語は、古い状態から新しい状態への決定的転換を意味する句です。従って彼らはこの招きを境にして、彼らの古い職業を表す舟とすべてを捨ててイエスに従ったのです。シモンに向けられた主イエスの言葉を、彼の仲間たちは自分たちにも向けられた言葉として聞きました。そこで彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従いました。

この最初の弟子の召命物語がここに記されているのは、イエスの人気と群衆の規模の拡大のために、主イエスにとって助け手が必要になったということを暗示しています。主イエスは、学者や身分の高い人たちではなく、単純な生活にいそしんでいた漁師たちを選ばれました。純真で、素朴で、実直な彼らは今は無学であるが、神の言葉による真理を受け入れ、成長するのです。彼らに選ばれる資格や素質があるから選ばれたのではありません。彼らは十字架につけられたイエスを見捨てました。復活のイエスによる召命によって彼らは真の弟子となることができたのです。召命は、あくまでも主イエスの恵みによる自由な選びによるものでした。弟子たちの信仰も献身も聖霊に導きによるものでした。

今日の聖書の箇所は、御言葉に従って歴史の中を歩む教会の現実がここに語り告げられています。漁師たちは舟からおりて網を洗っていました。夜通し働いたのに一匹も魚が取れず、疲れ切って網を洗っていました。沖へ漕ぎ出し、網を下して漁をしてみなさい、とのイエスの命令に応え、イエスへの信頼に生きるところに教会の現実があります。

キリスト者はみな神の民の一員として御言葉を伝える使命を与えられています。誰もが伝道者や牧師となる訳けではありませんが、しかし、人々を主キリストに導いていく働きを何らか担うのです。キリスト者はイエス・キリストのすばらしさを深く知り、主イエスを愛することへと、徐々に作り変えられていくのです。そしてキリストによって生かされている喜びを、この世の生活の中で証しし、人々をキリストへ導く、人間をとる漁師とされるのです。わたしたちは、経験や常識にこだわらず、主イエスの「お言葉」に従って、豊かな祝福があることを信じて、宣教活動を続けてまいりましょう。

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「栄光から栄光へと造り変えられていく。」コリントの信徒への手紙二、3章7-18節

2022-02-13 16:04:41 | 礼拝説教

        ↑ 直訳 「わたしたちは、造り変えられていきます。主の似姿に、栄光から栄光へと、それは主によるものです、聖霊であられる」(コリントⅡ3:18)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    

 

週    報

降誕節第8主日 2022年2月13日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を

成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわ

せ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」                         (エフェソ3・16-17)

                            礼 拝 順 序                    

前 奏               

讃美歌(21) 484(主われを愛す)

交読詩編   84(万軍の主よ、あなたのいますところは)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)コリントの信徒への手紙二、3章7-18節(新p.328)

説  教      「神の栄光を表す」

祈 祷                                            

讃美歌(21) 518(主にありてぞ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オンラインで礼拝に参加できます。

申し込み先:Eメール munekuni-hemmi@vesta.ocn.ne.jp

                                               次週礼拝 2月20日(日)  午後5時~5時50分

                                               聖書  フィリピの信徒への手紙2章1~5節

                                              説教題  「キリストに倣って」

                                              讃美歌(21) 13 518 27 交読詩編 147   

本日の聖書

 3:7ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、 8霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。 9人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています。 10そして、かつて栄光を与えられたものも、この場合、はるかに優れた栄光のために、栄光が失われています。 11なぜなら、消え去るべきものが栄光を帯びていたのなら、永続するものは、なおさら、栄光に包まれているはずだからです。 12このような希望を抱いているので、わたしたちは確信に満ちあふれてふるまっており、 13モーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛けたようなことはしません。 14しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。 15このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。 16しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。 17ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。18わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。

本日の説教

モ―セがシナイ山で十(とお)の戒めからなる契約の言葉を記した二枚の石の板を手に持って山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知りませんでした。兄アロンとイスラエルの人々がモ―セを見ると、彼の顔の肌は光を放ていました。彼らは恐れて近づけなかったが、モーセが呼びかけると、アロンと共同体の代表者は全員が彼のもとに戻ってきたので、モーセは彼らに語りました。その後、イスラエルの人々が皆、近づいて来たので、彼はシナイ山で主が彼に語られたことをことごとく彼らに命じました。モーセはそれを語り終わったとき、自分の顔に覆いをかけました。

モーセは、主の御前に行って主と語るときはいつでも、出てくるまで覆いをはずしていました。彼は出て来ると、命じられたことをイスラエルの人々に語りました。イスラエルの人々がモーセの顔を見ると、モ―セの顔の肌は光を放っていました。モーセは、再び主と語るまで顔に覆いを掛けました(出エジプト記34章29~35)。

 なぜ、モーセは普段は顔に覆いを掛けたのでしょう。モーセの顔が神の栄光の輝きで輝いていたので、人々はモーセに近づくのを恐れていたからです。モーセは明らかにイスラエルのために覆いをしていました。それはモーセの背後に輝きに満ちている神がおられることを示すものでもありました。

神がモーセに契約として十戒を与えたのは、「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」(申命記5:10)と神が語ったように、民を幸いにするための戒めと掟でした。

だが、信仰の厚かったダビデ王もバト・シェバを妻としたことで、預言者ナタンによってその罪を指摘されたとき、「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」(詩篇51:12)と罪を悔い祈ったように、神の戒めを守ることはむずかしいことでした。ソロモン王も、晩年に外国生まれの妻たちのために他の神々の礼拝所を建てることを認め、共に参加したことにより、主なる神に背信の罪を犯しました。アッシリヤの侵略による北イスラエル王国の滅亡も、バビロニヤの侵略による南ユダ王国の滅亡も、王と民による神への不信の罪によるものでした。

 しかし神はイスラエルに対する憐れみのゆえにイスラエルとの契約を破棄することなく、その罪を赦されました。旧約の預言者エレミヤは、「主が、新しい契約を結ぶ日が来る」、主は律法を「彼らの心に記す」(エレミヤ書31:33)と預言しました。エゼキエルは、主が「彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける」。主は「彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。」彼らが主の「掟に従って歩み、法を守りおこなうためである」(エゼキエル書11:19-20)と預言しています。

 そもそも、神が契約を結ぶためにイスラエルを選ばれたのは、「他のどの民よりも数が多かったからでは」ありません。イスラエルは「他のどの民よりも貧弱であった。ただ主の愛のゆえに、先祖に誓われた誓いを守る」ためである、と主は語っています(申命記7:7-8)。

 パウロは旧約聖書が書かれた時代の後に発展したユダヤ教の伝統を用いて解釈します。律法は神から出ているのでそれ自体に輝きがあったが(ローマ7:12,13参照)、キリストによってもたらされたさらに優れた輝きによって、死と罪しかもたらさなくなりました。ユダヤ人パウロは律法が命を与えることを信じていたが(詩篇119篇参照)、キリスト者となったパウロはその結果が死であことを知っていました(ローマ8:2、ガラテヤ3:10-14,21、23)。そして律法はわたしたちがどこで過ちを犯したかを明らかにするが、何の希望も与えないので、死と共に人を罪に定める務めとなりました。

 パウロのようなキリストに仕える人を通してもたらされる霊の務めは、古い契約の最大の奉仕者であるモーセよりも輝き、古い契約のあらゆる奉仕者よりも優れた輝きを与えることができます。それは罪に定める務めから解き放つばかりでなく、義をも与えるのです。それは救ってくださる神との新しい関係(信仰による義認)に入るように、わたしたちを導きます。

 ユダヤ人としてのパウロは、律法以外に神に近づく道がありませんでした。そして律法によって命がもたらされると信じていました。キリスト者となったパウロは、律法をすべて新しい視点から理解したのです。

 パウロは,12-18節で、モーセの顔に掛けられた覆いに注意を向けます。出エジプト記34章29-35節によれば、モーセが臨在の幕屋で神と語り合っている時、あるいはそこから出て来てイスラエルの民に神が何を語ってくださったかを伝える時以外は、モ―セの顔に絶えず覆いがかけられていました。モーセは明らかにイスラエルの民のために覆いをしていました。モーセの顔が神の栄光(輝き)で輝いていたので、人々はモーセに近づくのを恐れていたからです。

だが、パウロはモーセの蔽いを違った方法で説明しています。モーセは神と語り合って幕屋から出てきた後に、その栄光が次第にその顔から消え去っていくのを人々に見られないために、モーセは顔に覆いをしていたと説明します。

パウロによれば、モーセの顔の上で消え去る輝きは、古い契約(モ―セの律法)が過ぎ去ることを意味しています。またユダヤの心に掛けられた覆いは、彼らが旧約聖書を正しく読むことに失敗したこと、すなわち旧約聖書の中にキリストを見出すことに失敗したこと、さらに重要なことは、キリストが宣べ伝えられた時にそれを受け入れなかった、パウロ自身の時代のユダヤ人の失敗を意味しています。パウロは回心の際に、自分の心から覆いが取り除かれるのを体験しました。だがその覆いがすべてのユダヤ人キリスト者から、とくにコリントでパウロに敵対している人々から十分に取り除かれていないことを恐れていました。彼らがあまりにも教えの中心に律法を置いていたからです。

 すべてのキリスト者は、死の恐怖と人を罪に定める恐怖から解き放たれて、永続する輝きを共にすることができるという希望を抱いています(7-11節)。希望によって大胆さが与えられ(12節)、モーセが臨在の幕屋で大胆にも覆いをしないで神と会見したように、「わたしたちは皆」(18節)、覆いをしないで主の栄光を見ます。しかも、モーセは幕屋から出て来た時に顔に覆いを掛けていたが、わたしたちは自分の命のうちにある神の栄光に覆いを掛けるべきではありません。主の栄光がわたしたちのうちに現れるようにすることによって、大胆にキリストを告白すべきです。

 16節の「しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます」は、出エジプト記34:34に基ずいています。「モーセは、主の御前に行って主と語るときはいつでも、出て来るまで覆いをはずしていた」とあります。そこでは「主」とは神を意味していました。パウロにとって、16節の「主」はキリストのことであり、17節の「ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります」の「主」は、キリストのことです。「主の霊」とは、旧約聖書でも新約聖書でも、聖霊を指す言葉としてしばしば用いられるので、「神の霊」を意味するので、神を指していると受け取る方がふさわしいのです。「主は霊である」とは、主と霊は一つであって、同じ存在であるということです。「自由がある」とは、聖霊の内住の結果として起こる自由です。神の子の栄光の自由です(ローマ6:14、7:4)。キリストがわたしたちに与える自由です(ガラテヤ5:1)。

自由であるキリスト者は古い契約から自由であり、律法を行うことによって義とされるのではなく、キリストによって義とされるのです。パウロはキリスト者の生活におけるキリストの働きと聖霊の働きを同一視しているが、両者が実際に同一である、と述べているのではありません。

 主に立ち返った人は、そこで、新しい希望、新しい自由、新しい大胆さを得ます。何にもまして、彼らは変えられるが、この変化は霊である主に由来します。

パウロの口から勝利に満ちた文章が続きます。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(19節)

わたしたちは皆、顔や心に掛かったどのような覆いも取り除かれて神の栄光を見ます。キリストが宣べ伝えられる時、聖霊の中にキリストを見い出す時、聖餐の中にキリストに出会う時、わたしたちはキリストのうちに神の栄光を見て、わたしたち自身も変えられて主の栄光を表す者とされます。年月が経てば経つほど、キリストや主の民と共に生きるわたしたちは、いっそうキリストの似姿に変えられていきます。ただ復活したキリストの力のみが、わたしたちのうちで真実で永続する変化を完成することができるのです。モーセと律法は、ユダや人に対してこのように行う力をもっていませんでした。わたしたちはキリストの似姿と栄光に遂に全くかえられるまで、キリストを通して栄光から栄光へと変えられていくのです。

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 辺見 宗邦 説教集 新約聖書の部

2020-03-26 16:37:53 | 礼拝説教

説教集 新約聖書の部

   マタイによる福音書

1 「東方の占星術の学者たち」 マタイによる福音書2章1~12節 2019/12/28

「東方の占星術の学者たちの礼拝」マタイによる福音書2章1~12節 2018/12/29 

「東方の学者たちの来訪」 マタイよる福音書2章1~12節 2017/12/29 

「星に導かれた東方の学者たち」 マタイによる福音書2章1~12節 2015/12/27 

「東方の学者たちの来訪とヘロデ大王」 マタイによる福音書2章1-18節 2014/12/22 

2 「聖家族のエジプト避難」 マタイによる福音書2章13~23節 2016/12/31 

「ヘロデ王と神のみ旨に従ったヨセフ」 マタイによる福音書2章13-23節 2017/01/04 

3 「イエスの洗礼」 マタイによる福音書3章13~17節 2017/01/04 

4 「荒れ野の誘惑」 マタイによる福音書4章1~11節 2017/03/03 

「人は神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」 マタイによる福音書4章1~11節 2016/02/13 

5 「最初の弟子たち―人間をとる漁師」 マタイによる福音書4章18~25節 2017/01/14 

6 「山上の説教―八つの幸いの教え」 マタイによる福音書5章1~12節、17節 2017/02/12 

7  「八つの祝福と、地の塩・世の光である信徒」 マタイによる福音書5章17-26節 2019/11/10

8 「律法の完成と隣人との和解」 マタイによる福音書5章17節-26節 2019/11/16

9 「姦淫、離婚、誓いについて」 マタイによる福音書5章27-37節 2019/11/22

10 「あなたの敵を愛しなさい。」 マタイによる福音書5章38-48節 2020/1/11

11 「施しと祈りについてのイエスの教え」 マタイによる福音書6章1~8節 2017/05/21 

12 「『主の祈り』とその他の祈り」 マタイによる福音書6章1-18節 2020/1/16

13 「明日のことまで思い悩むな」マタイによる福音書6章19-34節 2020/03/26 2020/1/23

14「求めなさい。そうすれば、与えられる。」 マタイによる福音書7章1-12節 2020/1/31

15「主イエスの言葉を聞いて行う者」マタイによる福音書7章24-29節 2020/2/9

16「悪と戦うキリスト、聖霊によって悪霊を追い出す」 マタイによる福音書12章22~32節 2017/03/12 

17「たとえで語るキリスト-種蒔きのたとえ」 マタイによる福音書13章10~17節 2017/02/04 

18 「奇跡を行うキリストー湖上を歩く」 マタイによる福音書14章22~36節 2017/02/26 

19 「心身の病(やまい)をいやすキリスト」 マタイによる福音書15章21~31節 017/02/19 

20 「主の変貌―栄光に輝くキリスト」 マタイによる福音書17章1~13節 2017/03/25 

21 「フィリポ・カイサリアでの信仰告白と受難の予告」マタイによる福音書16章13~28節 2017/03/19 

22 「十字架の勝利(偉くなりたい者は仕える人に)。」 マタイによる福音書20章20~28節 2017/04/02 

23 「新しい神殿」 マタイによる福音書21章12~16節 2017/01/29 

24「タラントンのたとえが主張するもの」マタイによる福音書25章14-30節 2020/2/14

25 「十字架への道」 マタイによる福音書27章32~56節 2017/04/09 

26 「キリストの復活」 マタイによる福音書28章1~10節 2017/04/16 

27 「主の復活顕現」 マタイによる福音書28章11~20節 2017/04/23 

28 「キリストの昇天」 マタイによる福音書28章16~20節 2019/05/30 

「キリストの昇天の意義」 マタイによる福音書28章16-20節 2015/05/16 

 マルコによる福音書

1 「イエスの洗礼」 マルコによる福音書1章1~11節 2018/01/14

2 「荒れ野の誘惑と神の国の宣教」 マルコによる福音書1章12~15節 2018/02/16

3 「イエスの最初の弟子たち」 マルコによる福音書1章14~20節 2018/01/20

4 「癒すキリスト」 マルコによる福音書2章1~12節 2018/01/31

5 「悪(霊)と戦うキリスト」 マルコによる福音書3章20~30節 2018/02/23

6 「教えるキリスト」 マルコによる福音書4章1~9節 2018/01/28

7 「奇跡を行うキリスト:突風と湖を静める」 マルコによる福音書4章35~41節 2018/02/10

8 「受難の予告とイエスに従う者」 マルコによる福音書8章27~33節 2018/03/02

9 「高山右近の信仰に学ぶ」 マルコによる福音書8章36-38節 2014/05/18

10 「主の変容とその意義」 マルコによる福音書9章2~10節 2018/03/07

11 「十字架の勝利」 マルコによる福音書10章32~45節 2018/03/18

12 「十字架への道」 マルコによる福音書14章32-42節 2018/03/24

13 「イエスの十字架上の最後の言葉」 マルコによる福音書15章25-37節 2014/04/13

14 「キリストの復活」 マルコによる福音書16章1-8節 2018/03/30

「イエスの復活」 マルコによる福音書16章1-11節 2014/04/21

 ルカによる福音書

1 「洗礼のヨハネの父、ザカリアの賛歌」 ルカによる福音書1章67-79節 2014/11/30

2 「受胎告知とマリアの賛歌」 ルカによる福音書1章47-55節 2014/11/30

3 「世を救うキリストの降誕」養老施設でのクリスマス・ミニ礼拝と聖餐式 ルカ2章1-20節 2019/12/25

   「世を救うキリストの降誕」 ルカによる福音書2章1~20節 2019/12/20

「クリスマスー世の罪を取り除く神の小羊の誕生」 ルカによる福音書2章1~20節 2018/12/14 

「キリストの降誕」 ルカによる福音書2章1~20節 2017/12/24

「キリストの降誕」 ルカによる福音書2章1~20節 2016/12/24

「キリストの降誕」ルカによる福音書2章1~20節 2015/12/19

「真の救い主の誕生」 ルカによる福音書2章1-55節 2014/12/14 

「救い主の誕生」 ルカによる福音書2章1-20節 2013/12/24

4 「シメオンの讃歌」 ルカによる福音書2章22-38節 2014/12/28

5 「イエスの洗礼」 ルカによる福音書3章15~22節 2019/01/03 

「洗礼のヨハネの出現とイエスの洗礼」 ルカによる福音書3章1-22節 2015/01/18

6 「神殿での少年イエス」 ルカによる福音書2章41~52節 2018/01/06

7 「荒れ野の誘惑」 ルカによる福音書4章1-13節 2019/03/04

「イエスの荒れ野の誘惑」 ルカによる福音書4章1-13節 2015/02/22

8 「宣教の開始ーナザレの会堂で教えるイエス」 ルカによる4章16~30節 2019/01/16 

「イエスの宣教開始とナザレの人々の反応」 ルカによる福音書4章14-30節 2015/01/25

9 「最初の弟子たちの召命」 ルカによる福音書5章1~11節 2019/01/12

10 「病を癒すキリスト」 ルカによる福音書5章12-26節 2019/02/21 

「イエスの病気の癒しと罪の赦し」 ルカによる福音書5章12-26節 2015/02/01

11 「断食についての問答―新しい時代の到来」 ルカによる福音書5章33~39節 2019/02/02

12 「安息日の主」 ルカによる福音書6章1~11節 2019/02/07

13 「百人隊長の驚くべき信仰」 ルカによる福音書7章1~10節 2019/05/26

14 「教えるキリストー種を蒔く人のたとえ」 ルカによる福音書8章4-15節 2019/02/12 

『種を蒔く人のたとえ』 ルカによる福音書8章1-15節 2015/02/08

15 「五千人に食べ物を与えたイエスの奇跡」 ルカによる福音書9章1-17節 2015/02/15

16 「受難の予告」 ルカによる福音書9章18-27節 2019/03/20

「メシアの受難の予告とイエスに従うこと」 ルカによる福音書9章18-27節 2015/03/07

17 「奇跡を行うキリスト」 ルカによる福音書9章10-17節 2019/02/27

18 「イエスの姿が変わる」 ルカによる福音書9章28-36節 2019/03/26 

「山上で神の栄光に輝くイエス」 ルカによる福音書9章28-36節 2015/03/15

19「『善きサマリア人』のたとえ」ルカによる福音書10章25-37節 2020/2/19

20 「悪と戦うキリスト」 ルカによる福音書11章14-26節 2019/03/11

「神の指による悪霊追放と神の国の到来」 ルカによる福音書11章14-26節 2015/03/01

21「『愚かな金持』のたとえ」ルカによる福音書12章1-21節 2020/2/28

22「『放蕩息子』のたとえ(二人の息子の父の愛)」ルカによる福音書15章11-32節 2020/3/14

23「『金持ちとラザロ』のたとえ」 ルカによる福音書16章19-31節 2020/3/20

24「『ファリサイ派の人と徴税人』のたとえ」ルカによる福音書18章10-14節 2020/3/6

25「十字架の勝利」 ルカによる福音書20章9~19節 2019/04/03 

26「ぶどう園と農夫のたとえ」 ルカによる福音書20章9-19節 2015/03/22

27 「貧しいやもめの献金」 ルカによる21章1~4節 2019/01/25

28「十字架への道―オリーブ山で祈る」 ルカによる福音書22章39~53節 2019/04/12 

「ゲッセマネの祈り」 ルカによる福音書22章39-46節 2015/03/29

29 「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」 ルカによる福音書23章39-43節 2014/05/25

30 「キリストの復活」 ルカによる福音書24章1-12節 2019/10/10 04/18 

「キリストの復活」 ルカによる福音書24章1-12節 2015/04/04

31 「「エマオ途上での主の顕現」 ルカによる福音書24章13~35節 2019/04/27 

「エマオへの道でのイエスの顕現」 ルカによる福音書24章13-35節 2015/04/12

32 「弟子たちに現れた復活のイエス」 ルカによる福音書24章36~43節 2019/05/05 

「弟子たちに現れた復活のイエス」 ルカによる福音書24章36-49節 2015/04/19

33 「キリストの昇天」 ルカによる福音書24章44~53節 2017/05/27

 ヨハネによる福音書

1 「世に遣わされた神の子イエス」 ヨハネによる福音書1章14~18節 2016/01/03

2 「世の罪を取り除く神の子羊」 ヨハネによる福音書1章29~34節 2016/01/10

3 「最初の弟子たちの信仰告白」 ヨハネによる福音書1章35~51節 2016/01/13

4 「病気で苦しむ人を癒すキリスト」ヨハネによる福音書5章1~18節 2016/01/27

5 「奇跡を行うキリスト」ヨハネによる福音書6章1~15節 2016/02/06

6 「わたしは命のパンである 」 ヨハネによる福音書6章34-51節 2015/04/26

7 「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか」 ヨハネによる福音書6章60~71節 2016/02/26

8 「わたしのことばにとどまるならば、わたしの弟子である」ヨハネによる福音書8章21~362016/01/24

9 「心の目を開くイエス」 ヨハネによる福音書9章1~7節、35~41節 2016/02/21

10 「真の良い羊飼い」 ヨハネによる福音書10章7~18節 2018/04/16

11 「復活と命の主イエス」 ヨハネによる福音書11章17~27節 2017/05/07

12 「イエスに香油を注いだマリアの信仰」 ヨハネによる福音書12章1~8節 2016/03/06

13 「自分の命を失う者と永遠の命に至る人」 ヨハネによる福音書12章20~28節 2016/03/13

14 「キリストの新しい愛の掟」 ヨハネによる福音書13章31~38節 2018/04/24

15 「道であり、真理であり、命である」ヨハネによる福音書14章1~17節 2016/05/22

16 「聖霊の賜物」 ヨハネによる福音書14章15節~27節 2016/05/15

17 「わたしはまことのぶどうの木」 ヨハネによる福音書15章1~11節 2018/04/28

18 「新しい愛の戒め」 ヨハネによる福音書15章12~17節 2019/05/26

「新しいイエスの戒めー互いに愛し合いなさい」 ヨハネによる福音書15章12-17節2015/05/03

19 「世の苦難に打ち勝つ勝利」 ヨハネによる福音書16章25節~33節 2016/04/30

20 「父のみもとへ行く。聖霊をおくる。」 ヨハネによる福音書16章12~24節 2018/05/05

21 「十字架への道」 ヨハネによる福音書18章1-14節 2016/03/20

22 「マグダラのマリアに現れた復活のイエス」 ヨハネによる福音書20章1~18節 2019/04/18

23 「復活顕現」 ヨハネによる福音書20章19~31節 2018/04/05 

「トマスに現れた復活のイエス」 ヨハネによる福音書20章19~31節 2016/04/03

24 「ガリラヤ湖畔で弟子たちに朝食を与えた復活の主」ヨハネによる福音書21章1~14 2016/04/09

25 「主イエスとの愛による永遠の結合関係」 ヨハネによる福音書21章15~25節2016/05/07 『あなたはこの人たち以上にわたしを愛しているか』 ヨハネによる福音書21章15~25 2016/04/17

 使徒言行録

1 「キリストの昇天と、私たちが天国に行くことについて」 使徒言行録1章1-13節 2014/06/01

2 「聖霊の賜物ー宣教する教会の誕生」 使徒言行録2章1~11節 2019/06/05

「聖霊の賜物」 使徒言行録2章1~11節 2018/05/20

「聖霊の賜物」 使徒言行録2章1~11節 2017/06/03 

「聖霊降臨による教会創設と世界宣教」 使徒言行録2章1-11節 2015/05/24 

「聖霊降臨日の出来事と私たちが聖霊に満たされるには」 使徒言行録2章1-13節 2014/06/08

3 「五旬祭のペトロの説教」 使徒言行録2章14~36節 2019/06/13 

「ペトロのペンテコステ説教」 使徒言行録2章14-36節 2015/05/28

4 「教会の一致と交わり」 使徒言行録2章37~47節 2019/06/23 

「邪悪な時代から救われなさい」 使徒言行録2章37-47節 2015/06/07

5「ヨエルの預言『神の霊の降臨』と、ぺトロの聖霊降臨日の説教」 ヨエル書3章1-2節  2014/08/03

6 「人間を救うのは、この人以外にない。」 使徒言行録4章1~12節 2019/06/29 

「わたしたちが救われるべき名」 使徒言行録4章1-12節 2015/06/14 

「ヨエルの預言『神の霊の降臨』と、ぺトロの聖霊降臨日の説教」 ヨエル書3章1-2節  2014/08/03

7 「宣教する教会」 使徒言行録4章13~31節 2018/06/03

8 「主にある共同生活」 使徒言行録4章32節~37節 2017/07/08

9  「キリストの苦しみにあずかる喜び」 使徒言行録5章27~42節 2018/10/06

10 「フィリポ、エチオピアの高官に福音を伝える 」 使徒言行録8章26-38節 2015/06/21

11 「宣教への派遣」 使徒言行録9章26節~31節 2017/08/12

12 「ペトロによる、しるしと不思議な業」使徒言行録9章32~43節 2016/06/24

13 「異邦人にも聖霊が降る」 使徒言行録11章1-18節 2015/06/28

14 「アンティオキア教会の誕生」 使徒言行録11章19~26節 2013/06/16

15 「教会の祈りと天使による牢からの脱出 」 使徒言行録12章1-19節 2013/07/02

16 「宣教への派遣」 使徒言行録13章1-12節 2018/06/18「宣教への派遣」

17 「罪の赦しの福音」 使徒言行録13章13-26節 2013/07/09

18 「すべての人に対する教会の宣教」 使徒言行録13章44~52節 2018/08/15

19 「偶像を離れて、生ける神に立ち帰る 」 使徒言行録14章8-20節 2013/0

20 「エルサレムの使徒会議」 使徒言行録15章1-21節 2013/07/23

21 「神の摂理による伝道」 使徒言行録15章36-16章5節 2013/07/28

22 「悪霊追放」 使徒言行録16章16~24節 2018/06/10 

「人生の揺るがない土台と自由」 使徒言行録16章11-40節 2013/08/04

23 「偶像崇拝との対決 」 使徒言行録17章13-31節 2013/08/11

24 「悔改めの使信:十字架を欠いたアレオパゴスの説教」使徒言行録17章22~34節 2017/06/18

25 「わたしが共にいる。恐れるな、語り続けよ。」 使徒言行録18章1-17節 2013/08/18

26 「生活の刷新」 使徒言行録19章11節~20節 2017/07/23

27 「貪欲は偶像礼拝にほかならない 」 使徒言行録19章23-40節 2013/08/25

28 「パウロ、青年を生き返らせる」 使徒言行録20章1-12節 2015/07/04

29 「苦難の共同体」 使徒言行録20章17節~35節 2017/08/17

30 「復活の希望」 使徒言行録24章10~21節 2016/07/03

31 「パウロへのイエスの顕現」 使徒言行録26章12-23節 2013/09/01

32 「パウロのローマへの旅」 使徒言行録27章13-38節 2013/09/06

33 「破局からの救い」 使徒言行録27章33~44節 2016/07/10

34 「パウロのローマ到着と伝道 」 使徒言行録28章11-31節 2013/09/18

 ローマ の信徒への手紙

1 「霊に従う生活」 ローマの信徒への手紙7章1節~6節 2016/08/14 

2 「希望による忍耐」 ローマの信徒への手紙8章18-25節 2017/09/02 

3 「神の子とする霊」 ローマの信徒への手紙8章12~17節 2018/05/27

「神の霊に従って歩む者」 ローマの信徒への手紙8章12~14節 

4 「聖書の神は語られる神、沈黙し続けない」 ローマの信徒への手紙8章31~39節 2018/05/08 

5 「異邦人の救い」 ローマの信徒への手紙9章19~29節 2017/07/26 

6 「新たな神の民の誕生」 ローマの信徒への手紙10章1節~17節 2016/05/29 

7 「神の救いのご計画の深い富と知恵」 ローマの信徒への手紙11章28~36節 2016/09/17 

8 「神の賜物である愛に生きる生活」 ローマの信徒への手紙12章9~21節 2019/08/14 

「偽りのない愛」 ローマの信徒への手紙12章9-21節 2015/08/12 

9 「教会内の強い者と弱い者の交わり」 ローマの信徒への手紙14章1~9節 2019/09/04

「正しい服従」<福音のためなら、わたしはどんなことでもします> 2015/08/23 

 コリントの信徒への手紙 

1 「教会の一致の勧め」 コリントの信徒への手紙一、1章10~17節 2017/09/1  6 

2 「神のために力を合わせて働く」 コリントの信徒への手紙一、2章10節~3章9節 2016/08/06 

3 「試練から逃れる道」 コリントの信徒への手紙一、10章13節 2019/05/11 

4 「主の晩餐とは」 コリントの信徒への手紙一、11章23~39節 2016/07/21 

5 「キリストの体である教会」 コリントの信徒への手紙一、12章14~26節 2018/07/21 

6 「最高の道である愛」 1コリント12章27~13章13節 2018/08/24 

7 「世を救うキリストの愛」 1コリント13章4~8、13節 2018/09/17 

8 「もし、キリストが復活しなかったのなら。」 コリントの信徒への手紙一、15章1-20節 2014/04/28 

9 「もし、死者が復活しないとしたら」 コリントの信徒への手紙一、15章30-34節 2014/05/04 

10 「究極の希望-死者の復活」 コリントの信徒への手紙一、15章35-52節 2017/09/08  

コリントの信徒への手紙二

1 「左右の手にある義の武器」 コリントの信徒への手紙二、6章1~10節 2018/07/16 

2 「永遠の住み家」 コリントの信徒への手紙二、5章1~10節 2016/09/25 

3 「和解の福音」 コリントの信徒への手紙二、5章14~6章2節 2017/08/02 

4 「神の恵みに応える献金」 2コリントの信徒への手紙9章6~15節 2018/09/08 

「神の恵みによる慈善の業(献金)」 コリントの信徒への手紙二、8章1~15節 2017/07/02 

5 「神の恵みに応える献金」 2コリントの信徒への手紙9章6-15節 2018/09/08 

「神の恵みによる慈善の業(献金)」 2コリントの信徒への手紙8章1-15節 2017/07/02 

6 「パウロの伝道者としての誇り」 コリントの信徒への手紙二、11章7~15節 2019/09/10 

「弱さの中で発揮される神の力」 コリントの信徒への手紙二、11章7~15節 2015/08/30 

 ガラテヤの信徒への手紙

1 「キリストの僕として生きる」 ガラテヤの信徒への手紙1章1~10節 2018/08/31 

2 「愛に生きるキリスト者の自由」 ガラテヤの信徒への手紙5章1~11節 2018/07/01 

3 「霊の導きに従って歩もう」 ガラテヤの信徒への手紙5章13節~25節 2016/05/01 

4 「聖霊に導かれる信仰生活」 ガラテヤの信徒への手紙5章16-26節 2015/05/10 

5 「キリスト者の愛の実践」 ガラテヤの信徒への手紙6章1~10節 2019/07/27 

「互いに重荷を担いなさい」 ガラテヤの信徒への手紙6章1~10節 2015/07/12 

6 「十字架の他に誇るものなし」 ガラテヤの信徒への手紙6章14~18節 2019/09/16

「十字架の他に誇るものなし」ガラテヤの信徒への手紙、6章11~18節 2015/09/06 

 エフェソの信徒への手紙

1 「神(キリスト)の計り知れない富」 エフェソの信徒への手紙1章3~14節 2017/06/11 

2 「異邦人の救い」 エフェソの信徒への手紙2章11~22節 2016/06/19 

3 「キリストを心に宿す者」エフェソの信徒への手紙3章14~21節 2016/09/11 

4 「新しい人」 エフェソの信徒への手紙4章17~32節 2018/08/12 

5 「愛によって歩む、聖なる者とは」 エフェソの信徒への手紙5章1~5節 2017/09/29 

6 「新しい人間」 エフェソの信徒への手紙5章11~20節 2016/08/20 

7 「夫と妻の務め、親と子の務め」 エフェソの信徒への手紙5章21~6章4節 2018/08/05 

フィリピの信徒への手紙

1 「キリストの日に備えて」フィリピの信徒への手紙1章1~11節 2015/10/11 

2 「キリストにある生」 フィリピの信徒への手紙、1章12~30節 2016/10/02 

3 「世の光としての使命」 フィリピの信徒への手紙2章12~18節 2017/06/24 

4 「天国に市民権を持つ者」 フィリピの信徒への手紙3章7~21節 2016/10/16

「何とかして死者の中からの復活に達したいのです」 フィリピの信徒への手紙3章10-15 2014/05/11 

5 「女性の働き」 フィリピの信徒への手紙4章1~3節 2019/08/04

「女性たちの働き」 フィリピの信徒への手紙4章1節~3節 2015/07/17 

 コロサイの信徒への手紙

1 「キリストに仕える喜びと苦難」 コロサイの信徒への手紙1章21~29 2018/09/23 

2 「新しい命・悪徳に勝つには」 コロサイの使徒への手紙3章1~11節 2017/04/30 

3 「赦しの愛に生きる新しい人間」 コロサイの信徒への手紙、3章12~17節 2019/09/28 

「すべてを主イエスの名によって行い、神に感謝しなさい」3章12~17節 2015/09/12 

4 「主にある家族の関係」 コロサイの信徒への手紙3章18節~4章1節 2017/08/26 

 テサロニケの信徒への手紙一

1 「主の来臨の希望と忍耐」 テサロニケの信徒への手紙一、1章1~10節 2019/08/23 

 テサロニケの信徒への手紙二

「主の来臨に備える」 テサロニケの信徒への手紙二、1章1-10節 2015/08/13 

2 「働きたくない者は、食べてはならない。」テサロニケの信徒への手紙二、3章6~13節 2017/10/05 

 テモテへの手紙一

1 「教会における祈り」 テモテへの手紙一、2章1節~10節  2017/07/14

2 「真理の柱である、生ける神の教会」 テモテへの手紙一、3章14~16節 2018/07/08

3 「世の富」 テモテへの手紙一、6章1~12節  2019/10/06 

 「富にではなく、神に望みを置くように」   2015/09/20

 テモテへの手紙二

1 キリスト者の走るべき道のりとは」 テモテへの手紙二、4章7~8節 2018/06/25

 テトスへの手紙

 

フィレモンへの手

1 「奴隷をも愛する兄弟とする福音」フィレモンへの手紙1~25節  2015/10/04

 ヘブライ人への手紙

1 「大祭司イエスの執り成し」 ヘブライ人への手紙4章14~16  2018/09/29

  「大祭司イエスによる永遠の救いの完成」 ヘブライ人への手紙4章14-16   2018/09/14

2 「キリストによる永遠の贖罪」 ヘブライ人への手紙9章11~22節  2016/10/07

2 「信仰による生涯」 ヘブライ人への手紙11章23~29節  2018/10/12

3  「信仰による生涯」 ヘブライ人への手紙11章17~22、29~31節  2017/10/13

4 「天国に市民権を持つ者」 ヘブライ人への手紙11章32-12章2節 2019/10/18

「信仰の完成者イエスを仰ぎ見つつ走ろう」ヘブライ人への手紙11章32~12章2節  2015/10/17

5 「主に従い、信仰のコースを走りきる」 ヘブライの信徒への手紙12章1~13節  2018/07/29

6 「天のエルサレムを目指して」 ヘブライ人への手紙12章18~29節   2016/06/11

 ヤコブの手紙

1 「信仰者の実行による証し」 ヤコブの手紙1章19~27節  2019/08/29

 「御言葉の実践」 ヤコブの手紙1章19~27節  2015/08/15

2 「金持ちと貧者」 ヤコブの手紙2章1-9節 2019/10/10

「分け隔てをしない真実の愛」ヤコブへの手紙2章1~9節   2015/09/27

3 「隣人愛について」 ヤコブの手紙2章8~13節  2017/09/23

 ペトロの手紙一

1 「上に立つ人々に対して」ペトロの手紙一、2章11~25節  2016/09/04

2 「苦難の中にあるキリスト者を励ます」 ペトロの第一の手紙3章13~22節   2019/08/11

  「苦難の中の喜び」 ペトロの手紙一、3章13-22節   2015/07/26

 ペトロの手紙二

 ヨハネの手紙一

1 「世に打ち勝つ信仰」 ヨハネの手紙一、5章1~5節  2016/07/29

2 「天国に市民権を持つ者」 ヨハネ黙示録7章1-4、9-12節   2018/10/19

  「天国の礼拝に迎えられるキリスト教徒」 ヨハネの黙示録7章9~17節   2017/10/20

3 「信仰の道」 ヨハネ第一の手紙2章18~29節   2016/06/05

4 「神の愛」 ヨハネによる手紙一、4章7~21節   2018/03/19

5 「神に属する者」 ヨハネの第一の手紙5章10~21節  2016/08/27

ヨハネの手紙二

ヨハネの手紙三

ユダの手紙

 ヨハネの黙示録

1 「天国の礼拝に迎えられたキリスト教徒」 ヨハネの黙示録7章9-17節 2017/10/20

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「神に従う人は信仰によって生きる」 (ハバクク書)

2014-10-12 15:02:42 | 礼拝説教

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本キリスト教 富谷教会 週報

聖霊降臨節第十九主日  2014年10月12日(日)  5時~5時50分 

       礼   拝    

前 奏           奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)    6(つくり主を賛美します)

交読詩編   13(いつまで、主よ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書   ハバクク書2章1~4節

説 教  「神に従う人は信仰によって生きる   辺見宗邦牧師

賛美歌(21)441(信仰をもて)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)    24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

                         次週礼拝 10月19日(日)夕礼拝 午後5時~5時50分

                           説教題  「主の怒りの日の後の贖い」 

                           聖 書   ゼファニヤ書3章9~13節

                           本日の聖書 ハバクク書2章1~4節

「1わたしは歩哨の部署につき、砦の上に立って見張り、神がわたしに何を語り、わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。2主はわたしに答えて、言われた。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように、板の上にはっきりと記せ。3定められた時のために、もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。4見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」

     本日の説教

預言者ハバククが、幻で示された託宣(ハバクク書1章1節)

  <ハバクク>は新バビロン(カルデヤ人による)の支配が始まった紀元前7世紀の終わり頃、預言者エレミヤと同時代の預言者と考えられています。<ハバクク>は祭司の家柄で、紀元前605年から600年頃まで、神殿で奉仕した預言者と考えられています。この時代は神から啓示を受けたことを<幻で示された>と表現しています。

  ハバクク書は神への訴えと嘆きで始まります。

  「主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのにいつまで、あなたは聞いてくださらないのか。わたしが、あなたに「不法」と訴えているのに、あなたは助けてくださらない。どうして、あなたはわたしに災いを見させ、労苦に目を留めさせられるのか。暴虐と不法がわたしの前にあり、争いが起こり、いさかいが持ち上がっている。律法は無力となり、正義はいつまでも示されない。神に逆らう者が正しい人を取り囲む。たとえ、正義が示されても曲げられてしまう。1:2~4)

  アッシリアの滅亡の後、カルデヤ人の新バビロンが勢力を伸ばし、エルサレムを攻撃(B.C.598年)しました。<災い>は南ユダ王国に敵対したカルデヤ人によるものと思われます。預言者ハバククは民の代表として、敵の不法を神に訴えています。ハバククの場合は、個人の叫びではなく、民族の名においてなされた問いであり、訴えです。宗教改革を行ったヨシュア王の死後、ユダの社会の秩序は法的に守られず、言い争いも起こり、悪人であっても力のある者が公然とまかり通り、正義が曲げられて横行しました。少数の正しい者は悪人どもに踏みにじられていました。預言者は神の統治と神の裁きの不在を神に訴えています。

 預言者の訴えに対して、神はすでにユダ王国の悪に対する裁き人を用意していると答えられます。なんとそれはカルデヤ人だと言うのです。

 「諸国を見渡し、目を留め、大いに驚くがよい。お前たちの時代に一つのことが行われる。それを告げられても、お前たちは信じまい。見よ、わたしはカルデア人を起こす。それは冷酷で剽悍な国民。地上の広い領域に軍を進め、自分のものでない領土を占領する。 彼らは恐ろしく、すさまじい。彼らから、裁きと支配が出る。彼らの馬は豹よりも速く、夕暮れの狼よりも素早く、その騎兵は跳びはねる。騎兵は遠くから来て獲物に襲いかかる鷲のように飛ぶ。彼らは来て、皆、暴虐を行う。……しかし、彼らは罪に定められる。自分の力を神としたからだ。」(1:5~11)

 カルデヤ人が神の懲らしめの道具として、ユダに侵入し、暴虐を行うことが告げられます。<カルデヤ人>とはバビロン南部の民で、紀元前7~8世紀に強大な勢力を持ち、新バビロン帝国を建設しました。冷酷で、剽悍(「ひょうかん」、荒々しく強いの意)な民です。しかし、カルデヤ人は、神の懲らしめの鞭として、神の代理人として立てられながら、傲慢になり、自己の力を神とするような大きな罪に陥ってしまうので、最後は滅ぼされる運命にあると述べられます。

   神の答えを受けて、ハバククの第二の嘆きの訴えが始まります。

 「主よ、あなたは永遠の昔から、わが神、わが聖なる方ではありませんか。我々は死ぬことはありません。主よ、あなたは我々を裁くために、彼らを備えられた。岩なる神よ、あなたは我々を懲らしめるため彼らを立てられた。……あなたは人間を海の魚のように、治める者もない、這うもののようにされました。彼らはすべての人を鉤にかけて釣り上げ網に入れて引き寄せ、投網を打って集める。こうして、彼らは喜び躍っています。それゆえ、彼らはその網にいけにえをささげ、投網に向かって香をたいています。これを使って、彼らは豊かな分け前を得、食物に潤うからです。だからといって、彼らは絶えず容赦なく、諸国民を殺すために、剣を抜いてもよいのでしょうか。(1:12~17)

  14~17節は無残に獲られる魚をユダの民にたとえてカルデヤ人の強奪を非難し、神に訴えています。<投網に向かって香をたいて>は、カルデヤ人が勝利をもたらす武器をあがめていたことへの非難です。<剣を抜いてもいのでしょうか>は、「網を使って」を読み替えて、容赦なく諸国民を殺すカルデヤ人を訴えています。もしもカルデヤ人が神の代理人であるならば、暴虐を極め略奪をほしいままにして自ら罪に陥り、正しい者たちを滅ぼしつくそうとしているのに、神はそれでもなお、いつまでも彼らを神の代理人として立てておかれるのだろうか。神は永遠から永遠まで正義な方でいますのに、この状態をいったいどのように御覧になっているのか。預言者は国民を代表して、<わが神、わが聖なる方>と神に迫っています。

 第二の訴えは、神の世界支配のために立てられた者が何ゆえその与えられた力を自分のためにほしいままにしているのか、神が正しい方なら何ゆえにそれを黙って見ておられるのかという疑いでした。

 「わたしは歩哨の部署につき、砦の上に立って見張り、神がわたしに何を語り、わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。」(2:1)

  2章1節は、預言者ハバククが神がなんと答えられるかを耳を傾むけて待っている状態を表現しています。

   2章2~20節は、預言者の第二の嘆きに対する主の答えが語れます。

  「主はわたしに答えて、言われた。『幻を書き記せ。走りながらでも読めるように、板の上にはっきりと記せ。定められた時のために、もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」(2:2~4)

   <走りながらでも読めるように>とはメッセージを伝えるために伝令が走りながら読めるようにの意味です。<板の上にはっきりと記せ>は紙に書くのではなく、粘土板や石のような書き板に鋭い釘のようなペンで書き記せ、の意味です。<もうひとつの幻>は何を示すか明らかでありません。<待っておれ>は、主とその御業である裁き、解放を「待つこと」を求めています。

  「見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」(2:14)

  この2章14節が、ハバククの嘆きに対して語られた神からの答えであり、これが幻の中心部分です。<高慢な者>とは、諸国を侵略し、多くの民を踏みにじり、虜として自国に連行していく暴虐で高慢なカルデヤ人であり、その王です。<神に従う者>とはハバククと彼の民、ユダの民を指しています。

  <神に従う人は信仰によって生きる>。<信仰>は堅固、確実などを意味する「アーメン」と同じ語源です。抑圧の下にあっても、義人は神への不動の信頼、忠実さによって裁きの日に生存するというのが、ハバククの言った意味です。不義なる者の滅びとの対比において語られています。

  しかし、使徒パウロがこれを引用したとき、信仰義認の重要な聖句(ロ-マ1:17、ガラテヤ3:11、ヘブライ10:38)となっています。このことについては、最後にもう一度取り上げます。

 神からの答えは、今どのように不正な者が勢力を得ていても、必ず彼らは衰える。そして義人はその抱いている信仰によって生きるのである。しかしその神の意志も、すぐさま来ないかも知れない。だが、神の究極の意志は、定められた時に向かって滞ることなく的確にすすんでいる、と伝えてます。

 カルデヤ人に対して<災い>の預言、非難,威嚇(いかく)のことばが五回語られます。彼らに避けられない神の裁きとして滅亡が宣告されます。

  最後の章の1~19節は、主御自身が世界の強暴者と戦い勝利したもうという壮大な幻であり、信仰を歌です。神殿での典礼用賛歌として用いられたようです。<預言者ハバククの祈り>とありますが、礼拝に用いられた賛美の歌です。最後の18~19節は、神に叫ばざるを得ないほどの、この世の矛盾と自らの苦難に心を痛める者が、その苦しみの中から、信仰によって生きることにより、神によって喜び、神によって楽しみむことが述べられています。

  ハバクク書のメッセージの頂点である2章4節の「神に従う人は信仰によって生きる」は、「主に忠実な者は、主の真実に応えることで生かされる」とも訳すことができることばです。<神に従う人>すなわち「主に忠実な者」は、ただ神の真実に依り頼み、神のまことに応えて、神にのみ助けを求めて嘆き訴えているゆえに、必ず到来する神の審判のとき、滅ぼされることなく生かされる。これが預言者ハバククに与えられた神からの啓示でした。

  ハバクク書の預言は、国内でも国外でも危機的歴史状況のさなかに礼拝式文として用いられました。B.C.609年、ヨシヤ王がメギドでエジプト王ネコ2世に敗れ、戦死してから、南王国ユダの国内においては宗教改革の意義が失われ、律法はゆるみ、公義は行われなくなっていました。同時に数百年間その勢力を振るってきたアッシリア大帝国が滅亡し、新バビロニア帝国のネブカデネザル2世が、B.C.605年にカルケシでエジプト王ネコ2世を破って以来、当時の世界の覇権を奪い、パレスチナ、シリア地方の諸民族を征服、蹂躙していきました。B.C.597年のエルサレム第一回陥落と、捕囚に先立つ10年間の世界史的大変換の中で、このハバクク書は成立しました。国内外の大激動の中にあって預言者はハバククは、ユダの救済をただ神にのみ求めて預言書を構成しました。

  このハバクク書2章4節は、「正しい者は信仰によって生きる」(新共同訳聖書ローマ1:17)という信仰義認の証言となり、「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」(ロ-マ3:28)とのパウロ的福音信仰の聖書証言となったのです。<正しい者>とは人間の目から見て正しい人のことではありません。キリストの義の衣を着せられた、神が御覧になって「正しい者」、「正しくされた者」のことです。主イエス・キリストの十字架と復活に与る信仰によって、キリスト者は「正しい者」とされ、新しい生が始まるのです。

  預言者ハバククは、民族の危機的状況の中で、世界の人を救うことになる至宝の御言葉「神に従う人は信仰によって生きる正しい者は信仰によって生きる)」を主から与えられたのです。

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