富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「『愚かな金持ち』のたとえ―その愚かさとは」 ルカによる福音書12章13~21節 

2020-02-28 20:24:35 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

                       日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

                  受難節第1主日  2020年3月1日(日)      午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                                   礼 拝 順 序

                                                          司会 千田 開作兄

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 206(七日の旅路)

交読詩編    49(諸国の民よ、これを聞け)                    

主の祈り    93-5、A

使徒信条       93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)」ルカによる福音書12章13~21節(新p.131)

説  教 「『愚かな金持ち』のたとえ―その愚かさとは」  辺見宗邦牧師

祈 祷                

讃美歌(21) 454(あいする神にのみ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                  次週礼拝 3月8日(日) 午後5時~5時50分  

                  聖 書  ルカによる福音書18章9~14節

                  説教題  「『ファリサイ人と取税人』のたとえ」

                  讃美歌(21) 6 495 交読詩編 12    

       本日の聖書 ルカによる福音書12章13~21節

 12:13群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」 14イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」 15そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」 16それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。 17金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、 18やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、 19こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』 20しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。 21自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

           本日の説教

 ある日、イエスと弟子たちがいる所に群衆が集まってきました(12・1)。群衆の一人が、兄弟に遺産を分けてくれるように言ってください」と、イエスに願いでました。イエスはその人に向かって、自分は裁判官でも調停人でもないと言ってその願いを退けました。このことは、イエスが公平ということに無関心であられたということを意味しません。遺産の争いは、ラビたち(ユダヤ教の指導者)が民数記27:1-11、申命記5-17によって調停していました。ある人がイエスを「先生」と呼んだのは、イエスをラビと考えたのでしょう。イエスはラビ以上の者として、地上の財の調停役を断ります。

 この兄弟は、自分の相続財産を不当に多く取っていたかも知れません。この不正はこの兄弟の貪欲が原因となっているとイエスは思われたのでしょう。また、イエスに願い出た人も、少しでも多くの分配に与ろうとしている貪欲にとらわれていると思われたのでしょう。彼らは、金銭を愛する者たちであり、人を幸せにするのは、所有物の豊かさにあると考えていたのです。主イエスは、その人の問題の核心が「貪欲」にあることを見抜かれ、その問題を解決しない限り、たとえ遺産の問題を解決しても、その人は決して幸せにはなれないことを知っておられたのです。

イエスは、囲の人達みんなに向かって、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」とさとされました。金銭は決して真実な安らぎを与えるものでないことを明確にされたのです。

 「貪欲」は、通常の金銭欲だけでなく、際限なく所有物の増大に執着する欲望です。イエスはこの世に束縛された自己追及欲を戒め、細心の注意を払うように警告しました。人の尊い命は、持っている財産とは関係がないことを、「愚かな金持のたとえ話」で、分かりやすく説明されました。

ある一人の金持ちの畑が、ある年豊作でした。その収穫をしまい込む場所がないので、どうしようかと考え、彼は倉を壊し、大きな倉に建てかえて、その収穫と財産をみなしまいこみ、「さあこれで大丈夫だ。これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と安心し、喜び、満足しました。

この金持の言葉の中には日本語訳には出てこない、「わたしの作物 my crops」、「わたしの倉 my barns」、「わたしの穀物やわたしの財産 my grain and my goods」「自分に〔わたしの魂に〕 my soul )言ってやる」というように、「わたしの」という語が、ギリシヤ語原典や英語訳でも五回も使われており、自分に向かって「(あなた自身を yourself単数形)楽しめ」と、他人のことなど考えてみたこともない様な、ただ自分のことだけを考えて話している非常に自己中心的な人物の姿が、巧みに表現されています。これまで彼がせっせと働いて来たのは、自分の余生を楽に過ごそうということにあったのでしょう。

その希望はやっと満たされたかに見えたが、しかしその時待ち受けていたのは、彼の死でした。「神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と」言われました。「愚かな者」とは、神を忘れた者(「神を知らぬ者」詩篇14:1)のことです。「今夜、お前の命は取り上げられる」とは、突然の発病や災害や事故や紛争などで命を失うことがあるように、私たちの人生は不安定な土台の上に立っており、私たちの寿命は神の御手の中にあるということです。

そして、イエスは「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と話されました。この金持には、大きな誤りがありました。一つは、この世の自分の命を、希望通りにいつまでも長く、自分で持ち続けうると、考えたことです。自分の命も魂も、神からの預かりものであり、時期がくれば神の御心次第で引き上げてしまわれるものであること、即ち人の寿命を支配しているのは神であるという重大な真理を、彼は頭に置いていなかったことです。

二つは、自分のために沢山の宝を蓄えることにより、自分の魂に平安を与えうると考えていたことです。肉体的に楽をして、自分の好きなことをしておれば、その暮らしが裕福でおだやかなのに平行して、自分の魂もそれで平安であることが出来る、と彼は考えています。これは彼が、人の魂の平安とは何であるかをわきまえていなかった誤りでした。人の魂の平安はどんな時にも神が共にいて下さることによって与えられるものだからです。

三つは、「わたしの作物、わたしの倉、わたしの~わたしの~わたしの~」を追及する自己中心性(エゴイズム)と富(マモン)崇拝のなかに埋没し、人間として生きる相手、隣人も神も眼中に置かず、あたかも自力で生き続けることができるように思い上がったことでした。「飲み、食い、楽しむ」ことがただちに悪いことではありませんが、作物が満ちあふれる殼倉に魅惑され、神の恵みによる産物であることを認めない傲慢によって、彼は「貪欲」という欲望の罠に捕らわれていたのです。

このような誤った考えのために、この金持は、はかない生涯を閉じなければなりませんでした。この金持はこの世限りの金持ちであって、神の所には何の蓄えもありません。神の目には全く価値のない愚かな者と認められることになってしまうのです。この金持は、自分のことだけを追い求めるのでなく、神のことを思い、人のことを顧みて、そのために彼の豊かな財産を用いるべきでした。

「神の前に豊かになれ」という呼びかけは、この世のことのみに捕らわれている小さな自我の束縛から解放され、死をさえ超えた彼方から「新しい生」を与えられるとき、神の支配される広大な世界に、神と共に生きる者とされ、「何も持たないようでも、すべてのもの持つ」(コリント一、6:10)豊かな者とされるのです。「あなたがたの宝のある所には、あなたがたの心もあるからです」(12・34)。自分の「生命」も「持ち物」も 、すべてが神のものであります。すべてが神に与えられ、委ねられているのです。このことが明確に理解されるとき、信仰者は「神に富む」者とされます。「自分のために宝を積む」思い煩いから解放され、財の正しい用い方を知り、日毎に必要なものを日々祈り求めながら、神の栄光のために、また隣人を愛するために財が用いられ、「天に宝を積む」生き方ができるようになるのです。

 神が、「お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と問われた時、この金持は、自分の富は自分の所有物であり、どのように使おうと勝手だと思っていたと思われます。自分の蓄えたすべての物を残しての彼の突然の死は、それらが、彼に一時的管理を委ねられていたにすぎないことを示しています。彼の命は、彼の持つ豊かな財産にあるのではありませんでした。神が彼の生命をとり上げる時、彼は裸で神の前に立たなければならないのです。

世のすべてを支配し、すべてを所有しているのは全能の神です。人が、それをあたかも自分の所有物であるかのように扱う時、その愚かさが明らかになります。

「人は永遠に生きようか。墓穴を見ずにすむであろうか。人が見ることは知恵ある者も死に、無知な者、愚かな者と共に滅び、財宝を他人に遺さねばならないということ。自分の名を付けた地所を持っていても、その土の底だけが彼らのとこしえの家、代々に、彼らが住まう所。人間は栄華のうちにとどまることはできない。屠られる獣に等しい。これが自分の力に頼る者の道」(詩篇49:10~14)。詩篇の作者は、このように富に信頼することの愚かさを強調しています。

さらに続けて、詩篇には次のように書かれています。「人に富が増し、その家に名誉が加わるときも、あなたは恐れることはない。死ぬときは、何ひとつ携えて行くことができず、名誉が彼の後を追って墓に下るわけでもない。命のある間に、その魂が祝福され、幸福を人がたたえても、彼は父祖の列に帰り、永遠に光を見ることはない。人間は栄華のうちに悟りを得ることはない。屠られる獣に等しい」(49:17~21)。あの天下を統一し、最大の権力をにぎり、大阪城を築き、黄金の茶室まで造り、世の栄華を誇った豊臣秀吉も死ぬときは哀れでした。辞世の句に表現されています。「露と落ち 露と消えにし わが身かな。難波(なにわ)のことも夢のまた夢」と詠み、はかない生涯を嘆きました。

 この金持は、物質的なものをもって、自分を満足させようとしました。このたとえの中心的な教えは。彼の貪欲であり、物質的な富や金銭が本当の富だという彼の判断の誤りです。使徒パウロは、「貪欲は偶像礼拝です」(コロサイ3:5)と言っています。偶像崇拝とは、偽りの神々を礼拝すること、あるいは、人や物を神の位置におくことです。貪欲が偶像崇拝であるのは、私たちの愛が神に向けられる代わりに、物や金銭に向けられるからです。貪欲からの救済は、神へのひたむきな愛、「神の国と神の義を求める」こと、そして隣人を自分と同じように愛すことです。

キリスト者は、洗礼によってキリストに結ばれ、主イエスの死と復活にあずかり、日々、罪人としての自分は死に、キリストと共に新しい命に生かされ、永遠の命に生きる神の民とされる希望を与えられています。肉体の死は、天国に行くための通過点に過ぎないものになります。死は必ずやってきます。だれも死を逃れることはできません。確かに人間は「死への存在」です。しかし私たちの魂は神のものです。その神のもとにいつか私たちは帰らなけれなりません。それはいつのことであるのか、私たちにはわかりません。「それだからこそ、魂をいつ召し上げられてもよいように備えが常に必要です。いつ召されてよいような生き方は、「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、その事この事もしよう」(ヤコブ4・15)と主にすべてを委ね、主と共に歩むことです。

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「『善きサマリア人』のたとえ」 ルカによる福音書10章25~37節

2020-02-19 16:55:55 | キリスト教

                 ↑ ゴッホ「善きサマリア人」 クレーラ・ミューラ美術館 (オランダ)

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

       日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

    降誕節第9主日   2020年2月23日(日)   午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

              礼 拝 順 序

                司会 斎藤 美保姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 204(よろこび日よ)

交読詩編   84(万軍の主よ、あなたのいますところは)                    

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)」ルカによる福音書10章25~37節(新p.126)

説  教  「『善きサマリア人』のたとえ」      辺見宗邦牧師

祈 祷                

讃美歌(21) 430(とびらの外に)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

           次週礼拝 3月1日(日) 午後5時~5時50分  

           聖 書  ルカによる福音書18章9~14節

           説教題  「ファリサイ人と取税人の祈り」

           讃美歌(21) 6 495 交読詩編 12    

 本日の聖書 ルカによる福音書10章30~37節

 10:25すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」 26イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、 27彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」 28イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」 29しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。 30イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。 31ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 32同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 33ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、 34近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。 35そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』 36さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」 37律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

          本日の説教

 ある律法の専門家が「イエスを試そうとして」立ち上がって、「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と問いかけました。律法学者とは、モーセの律法とその他多くの規則と規定のすべてに置ける専門家でした。この律法学者がその答えを知ろうとイェスに問いかけたのではなく、イエスをためし、律法を正しく解釈しているかどうか、イエスを厳しく追及したかったからです。

律法学者のたくらみを見抜かれたイエスは、彼の質問には直接答えないで、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と聞き返しました。すると彼は、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」とありますと答えました。申命記六章五節と、レビ記十九章十八節の言葉です。

イエスは、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と言われました。律法の教えを正しく解釈し、知っているだけでは、永遠の命を受けることはできません。律法の言葉を聞いて実行することが求められるのです。

律法学者は、愛を「実行しなさい」というイエスの言葉には答えずに、自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と聞き返しました。律法の隣人という言葉は知っていても、真剣に愛していないことが明らかになります。彼は愛することを考える前に、愛する相手である隣人について特定し、論争しようとします。

隣人について特定しようとしたのには、律法学者の意図がありました。イエスが交際してはならないと律法に定められている取税人、罪人、遊女たちと親しくしていたからです。彼らにとっては、自分たちの生き方と結び付く重大な問題です。イエスは、同じ論争の仕方では答えず、彼の「わたしの隣人とはだれですか」という問いが間違っていることを示す一つの例話を語ります。それが「善きサマリア人のたとえ」です。

ある人―それは疑いもなくユダヤ人です―が、エルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われました。海抜750メートルの山の上にある首都エルサレムから、ヨルダン川に近い海面下250㍍にあるエリコの町までは、1000㍍の上下差があり、その距離は27㌔ほどで、急な曲がりくねった危険な岩の多い坂道です。途中かなりの距離は人家のない寂しい道で、よく強盗が通行人を襲う道でした。

突然、強盗たちがその人に襲いかかり、服を剥ぎ取り、殴りつけ、半殺しにして、そのまま、す早く逃げ去ったのです。

 

 ある祭司がたまたまその道を下って来ました。神殿の仕事を終えて、エリコにある家に帰る途中でした。その倒れている人を見ると、道の向こう側を通って行きました。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行きました。レビ人(レビ部族の人)は祭司の下で神殿に奉仕ししている人でした。

祭司の登場も、レビ人の登場も、助けを要する同族であるユダヤ人に手をさしのべることは、当然行うべき行為でした。律法学者がイエスに答えた神と人への愛の戒めを、この祭司のレビ人もしらないはずはありません。しかし目の前に倒れている哀れな同族の一人を助ける愛を持っていませんでした。旅人の世話をするのが面倒だったのでしょうか、あるいは何かかかわり合いが生じるのを避けたかったのでしょうか、わざわざ道の向こう側を通り過ぎ、見て見ぬふりをしたのです。どんなに礼拝を守り、神殿に仕えていても、この祭司やレビ人のように愛を持たないならば、天国には入れません(マタイ25・41-45)。

ところが、旅をしていたサマリア人が通りかかります。当時ユダヤ人とサマリア人とは仲が悪く、対立し、互いの交流がありませんでした。

 その対立は、ソロモン王の死後、イスラエル統一王国が、ユダヤ人の住む南のエルサレムを首都とするユダ王国と北のサマリアを首都とするイスラエル王国とが分裂(紀元前922年)した時から始まりました。サマリアは、パレスチナ北部のガリラヤ地方と南部のユダヤ地方の中間に位置しています。

もともとは同じイスラエル民族ですが、政治的に分裂した二つの王国は、宗教的にも差異が生じました。サマリア人はエルサレム神殿とは別にゲリジム山に神殿を建てて礼拝をしました。イスラエル王国は、紀元前紀元前721年、アッシリア帝国の攻撃によって滅亡し、サマリアには外国人が流入し、雑婚が行われ、異教の影響を受けました。かつてのイスラエル王国の領土はサマリア(地方)と呼ばれ、部族民はサマリア人と呼ばれるようになりました。

南のユダ王国もバビロニア帝国に滅ぼされ(紀元前586年)、民の主だった多くの者は、三回にわたって連行され、捕囚地バビロンで過ごしました。ペルシヤ帝国のキュロス二世がバビロニヤを征服し、捕囚のユダヤ人をエルサレムに帰しました(紀元前539年)。47年ほど続いた抑留から解放され故国に戻ったユダヤ人は、エルサレム神殿の再建にとりかかりました。この再建に、サマリア人が援助しなかったこともユダヤ人とサマリア人の対立を深めました。新約の時代に入っても、不和は解消されず、ユダヤ人たちはサマリア人を混血の異端者として蔑み、交際を断ち、サマリアを通ることも避けていました。

  David Teniers the younger「Good Samaritan」 コートールドギャラリー(ロンドン)

このサマリア人は、ユダヤ人が、強盗に襲われて半死状態で倒れているのを見ました。普段互いに交際も断っているユダヤです。ふつうなら関係ないと言って通り過ぎたでしょう。同族であるユダヤ人の祭司やレビ人でさえ、かかわりをきらって通り過ぎた後のことです。だが、このサマリア人は、このユダヤ人のそばに来ると、その人を見て憐れに思い、ろばから降り近寄りました。そして傷に油とぶどう酒を注いで消毒し、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋まで連れて行き、その晩介抱しました。翌日になると、デナリオン銀貨二枚(労働者二日分の賃金)を取り出し、宿屋の主人に渡して、「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」と言い、後を託しました。

 

レンブラント 1630年製作(Wallace Collection , London ) 「宿屋の主人に託すサマリア人」

たとえを語り終えたイエスは、「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と最後の問を発しました。律法学者は、「その人を助けた人です」と答えました。そこでイエスは、「あなたも行って、同じようにしなさい」と言われました。

律法学者は、隣人の範囲を狭め、隣人愛の律法を自分たちが守りやすいものにして、自己満足をしたいのです。それに対して主イエスは、どれだけの人があなたの隣人であるかということが問題ではなく、あなたが愛の心を持ち、あなたが助けることのできるすべての人々の隣人であることが、「隣人を愛する」ことだと教えられたのでです。

隣人を特定し、人を枠づけて愛する律法学者やファリサイ派の人々は、自由な愛を持たず、律法解釈で決められた範囲内での愛で満足しようとします。

多くの人は、ヒューマニズム(人間尊重)にもとずく人類愛を尊重します。1978年から毎年8月下旬の土曜から日曜にかけて生放送されている「愛は地球を救う」というチャリティー番組もそうです。地球規模の人々を愛するすばらしい標語です。この活動が、「愛は隣人を救う」という日常的な活動となれば、もっとすばらしいと思います。ロシアの作家ドストエフスキーは「人類全体を愛すれば愛するほど、個々の人間に対する愛が薄らぐのだ」(「カラマーゾフの兄弟」より)と語り、人類愛が具体的に生きている人間から離れ、一般的な人間を考え、抽象化し、観念化することを戒めています。

帰途を急いでいたサマリア人は、自分たちを嫌い、蔑視しているユダヤ人であるにもかかわらず、自分の目の前にいるこの傷ついた旅人がどうなるかを案じ、自分の旅程を変更してまで、この人の「隣人」となり、自分のお金まで使って助けたのです。はたして、このたとえに出てくるような、サマリア人はこの世にいるのでしょうか。そこで気付くのは、この「善きサマリア人」とは、主イエス御自身ではないか、ということです。主イエスは、自己本位に生きている私たちを責めず、神の愛をもって私たちの世界に来て下さり、罪と死に苦しんでいる私たちを救ってくださった救い主です。この主イエスに救われた感謝と喜びが、私たちを神を愛し、隣人を愛する者にしてくださり、それを行う力をも与えてくださるのではないでしょうか。

 福岡市のNGO(非政府組織)「ペシャワール会」(「ペシャワ―ル」はパキスタンの州都の名)の現地代表として、長年パキスタンとアフガニスタンで、現地住民の人道支援と復興に力を尽くしてきた中村哲医師(73歳)が昨年の12月4日、現地で何者かに銃撃され死亡しました。中村さんは、医師として最初はハンセン氏病の治療に当たり、その後2000年の大干ばつ時の赤痢患者急増をきっかけに、清潔な飲料水の確保にも取りかかり、彼らの生活改善のために農業用水路の建設に励み、灌漑(かんがい)用水事業の進行を確認のため車で移動中に銃弾に倒れました。クリスチャンの中村哲さんは、神を愛し、アフガニスタン人の真の隣人となった方でした。中村さんは、息子さんに、「口先ではなく、行動で示せ」と普段よく言われていたそうです。ペシャワール会の村上優会長は、「中村先生の精神・魂は今でも私たちの心の中に強く大きく存在しています。先生の意志を共有し、継続してご支援いただけるようお願いいたします」とお別れ会に集まった五千人もの支援者に呼び掛けました。中村医師の隣人愛とその思いが継続されることは、大変喜ばしいことです。

 

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「タラントンのたとえが主張するもの」 マタイによる福音書25章14~30節

2020-02-14 00:58:59 | キリスト教

       ↑「タラントンのたとえ」のステンドグラスはロンドンの聖エディス教会のために19世紀末に、クレイトンとベルによって製作されました。

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

               日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

          降誕節第8主日   2020年2月16日(日)      午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                                                   礼 拝 順 序

                                                          司会 千田 開作兄

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(旧) 525(めぐみふかき主のほか)

交読詩編   86(主よ、わたしに耳を傾け、答えてください)                    

主の祈り    93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書25章14~30節(新p.49)

説  教  「タラントンのたとえが主張するもの」 辺見宗邦牧師

祈 祷                

聖餐式    72(まごころもて)

讃美歌(旧) 273B(わがたましいを愛するイェスよ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                                                      次週礼拝 2月23日(日) 午後5時~5時50分  

                                                      聖 書 ルカによる福音書10章30~37節

                                                      説教題   「善(よ)いサマリア人」

                                                      讃美歌(21) 204 430 交読詩編 84    

                       本日の聖書 

 25:14「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。 15それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、 16五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。 17同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。 18しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。 19さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。 20まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』 21主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』 22次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』 23主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』 24ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、 25恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』 26主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。 27それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。 28さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。 29だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。 30この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」

                          本日の説教

今日の「タラントンのたとえ」は、「タラントのたとえ」として教会でよく読まれいる箇所の一つです。この「タラント」は英語の「才能、能力」を意味するタレント「talent」の語源になっています。日本では、テレビタレント等、芸能人を指す和製英語になっています。タラントン(=タラント)は、ギリシヤでも用いられた通貨の単位です。

このたとえ話では、ある人が彼の僕たちを呼んで長旅に出発するときに、それぞれの能力に応じて財産を委託しました。マタイによる福音書ではそのお金で何をすべきなのかは、それぞれの人にまかされています。ルカによる福音書では、「わしが帰ってくるまで、これで商売をしなさい」と命じています(ルカ19・13)。そして、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けました。一タラントンは、およそ六千デナリオンに相当します。一デナリオンは日雇い労働者の一日分の賃金に当たりますから、一タラントンは六千日分、すなわち、十六年間の賃金に相当する大きな金額です。二タラントンは三十二年間、五タラントは八十年間の賃金に相当します。

この金額の大きさは、神が私たちに委託された賜物が、どれだけ貴重なものであるかを示しています。三人の僕は「それぞれの力に応じて」異なった金額が与えられていますが、これは異なった特別な賜物を象徴しています。最も少ししか能力を持たない人でさえも、大きな金額を与えられているのは、重大な責任が与えられており、それこそ彼が感謝して受けるべき名誉なことなのです。

旅行に出かける「ある人」は、ルカによる福音書の「ミナのたとえ」では、「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために」(ルカ19・12)とあります。当時、ユダヤの統治を許可してもらうためにローマに請願に行ったヘロデ大王の子アケラオを反映したもので、「ある人」とは、「天の国」の王である主イエスを指しています。この主人の旅はイエスが地上の使命を終えて天のみ座に戻られることであり、「帰って来て」は主イエスの再臨を指し、最後の審判の時を表しています。「僕たち」は天の国・「神の国」の民です。

第一番目の五タラントン預かった僕は「出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけ」ました。どのようにして二倍にしたのかは記していません。おそらく「商売した」とは賜物を用いての奉仕を指すものと思われます。

その後、かなり日がたってから僕たちの主人は帰ってきて、報告を求め、清算を始めました。

第一番目と第二番目の僕は、その元金を二倍に増やしたのでほめられました。主人と一緒に喜んでくれ」という暖かい称賛と招待の言葉によって、その忠実な労働が報われています。「喜んでくれ」は天の国に入る喜びであり、天の国で主イエスと共に食卓につくようにと招待を受けるのです。このたとえの強調点は最後の清算の場面であり、第三番目の僕に焦点が合わされています。重点は、不忠実な僕と主人との会話です。僕は、主人を非難することによって、自分の委託されたタラントンで何もできなかったことを正当化します。

  

    「タラントンのたとえ」のステンド・グラス カトリック宇和島聖ドミニコ教会

 第三の僕は、彼の主人を厳格で強欲な人で、つまり正当な分けまえをはるかに越えたものを求めるような狡猾な人であるとみているのです。そして失敗して金を損失すれば厳しい処罰が待ち受けていることをこの僕は恐れたのです。主人から割り当てられた財産は、彼にとって特権や名誉ではなくて、恐ろしいばかりの責任なのです。そのタラントンを地中に埋めておくことで、彼は主人ために財産を保存しておいたのです。当時の人々は、お金(銀貨)や宝物を地中に隠すことは最も安全な保管方法だと考えていたからです。明らかに用心深く行動したことによって主人からほめられることを期待しているのです。そして主人から預かった金をそっくり返還します。

主人はこの時、第三の僕を「怠け者の悪い僕だ」と叱ります。地中に隠しておくくらいなら、その僕はわずかでも利息が生まれるように「銀行に預けておくべきであった。その苦労ぐらいはしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに」と言い、「さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ」と言われ、「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」と言われました。神は一度にすべての使命を賜物を与えらえないで、様子を見ながら少しづつ増し加えられ、徐々に豊かになるのです。反対に、あまり多くのものを持っていない人は、その人の手にしているものまで取り上げられ、徐々に失っていくという霊的な生活の原則を明らかにして、たとえ話を締めくくります。

この主人と第三の僕の対話から、僕は主人に対する愛を持っていないことが明らかになります。彼は、実際にはただ自分自身にしか興味がなく、その結果、奉仕ではなて安全だけが、彼の目標となっています。主人が、それほど多くの金額を彼に委託したことへの感謝の念は、いささかも存在していません。金を隠したことは、彼に対する主人の信頼を裏切る行為でした。主人への尊敬は、その権力を不承不承認めることに限らられています。

この僕は、他を批判するだけで細かい律法を守ることに汲々としたファリサイ派の人々を表しているともとれます。彼は律法を細かすぎるほどによく守って、個人として、神の前に、安定した立場を求めます。彼は利己的排他的行動でイスラエルの宗教を実りなきものにするのです。

 この怠惰な僕はイスラエルの指導者、特に律法学者たちを象徴しているとも解されます。神の言葉(律法)は彼らに委託されました。その委託されたタラントンをどのように用いたかを問われた時がきます。ところが彼らはこれをしまいこみ、ひとりじめにし、そして実は怠惰でしかありませんでした。ここではまぎれもなく主のご委託に対して不忠実であった僕に対して、「この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」と厳しい審判がなされることが語られています。

 主イエス・キリストにおいて神の国の到来を知らされ、キリストの十字架と復活を通して神の国の福音を明白に示された主の僕であるキリスト者にとっても、このたとえは厳しい警告を与えています。「それぞれの力」、能力に応じてという語句が示すのは、再臨を待ち望キリスト者が、神が委託された賜物を十分利用するようにと決断を迫るものです。また、第三番目の僕から学ぶべきことは、神の信頼に応え、神の愛にむくいるために、他者に忠実にまた倦むことなく奉仕することの中で示すべきであるということを教えています。

このたとえでは「タラントン」はお金以上のもの、神の国の民に与えられる賜物で、主に霊的な働きに関わるものや、人格にかかわる霊的な恵みです。

「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」(ペトロ一,4・10)とあります。

「一人一人に霊の働きが現われのは、全体の益となるためです」(コリント一,12・7)として、知恵の言葉、信仰、病気を癒す力、奇跡を行う力、預言する力、霊を見分ける力、異言を語る力、異言を解釈する力の九つがあげられています。更に異なった賜物として「預言、奉仕、教え、勧め、寄付、指導、慈善」(ローマ12・6-8)の七つの賜物があげられています。そしてなによりも大切なものとして聖霊の実である「愛」を追い求めなさいと勧められています(コリント一,13・1、14・1、ガラテヤ5・22)。

このタラントンのたとえは、神から与えられた可能性、 豊かさ、富を最大限に生かすことが求められています。神を信頼して、失敗を恐れず、与えらえた賜物を活かして、神と隣人のために、また、また、主のからだである教会のために働くことなのです。

 

 

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「主イエスの言葉を聞いて行う者」

2020-02-09 20:55:43 | キリスト教

          ↑ 山上の説教の山は、ガリラヤ湖の北岸の町、カファルナウムの北西にある「祝福の山」とされています。湖面から125メートルの小高い山には1938年に建てられた美しい八角堂のフランシスコ会教会があります。山の下に広がる斜面の先に、ガリラヤ湖の美しい景色を見渡すことができます。 

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

        日本福音教団 富 谷 教 会     週   報

            降誕節第7主日  2020年2月9日(日)         午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                                          礼 拝 順 序

                                                          司会 千田 開作兄

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 206(七日の旅路)

交読詩編   19(天は神の栄光を物語り)                    

主の祈り    93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書7章24~29節(新p.12)

説  教  「主イエスの言葉を行う者」 辺見宗邦牧師

祈 祷                

讃美歌(21) 459(飼い主わが主よ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                     次週礼拝 2月16日(日) 午後5時~5時50分  

                     聖 書 マタイによる福音書25章14~30節

                     説教題   「タラントのたとえ」

                     讃美歌(21) 539(旧) 290 交読詩編 32    

      本日の聖書 マタイによる福音書7章24~29節

 7:24「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。 25雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。 26わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。 27雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」 28イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。 29彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。

            本日の説教

 マタイ五章から始まる山上の説教は、これまで、①「山上の説教ー八つの幸いの教え」5章1~12節、②「八つの祝福と、地の塩・世の光である信徒」5章1~16節、③「律法の完成と隣人との和解」5章17~26節、④「姦淫、離婚、誓いについて」5章27~37節、⑤「あなたの敵を愛しなさい。」5章38~48節、⑥「『主の祈り』とその他の祈り」6章1~18節、⑦「明日のことまで思い悩むな」6章19-34節、⑧「求めなさい。そうすれば、与えられる。」7章1-23節、そして、今日の⑨「イエスの言葉を行う者」7章24~29節で終わることになります。

 これまでこの山上の説教は、その内容があまりにも高遠であり、その要求があまりにもきびしいために、これを一つの理想と考え、必ずしもそこまで至らなくても、それに至るように努力すればよいというように考える人々がおりました。また、この山上の説教を実行不可能と解し、その不可能であることを自覚して、キリストの十字架の救いに寄り頼むようにさせることだと考える人々もいました。

しかし、主イエスは、山上の説教を終えるにあたって、家を建築するときの土台のたとえを語って、主の教えに聞き従い、実行することを決断するようにせまります。

「わたしのこれらの言葉」とは、五章から始まる山上の説教全体を意味します。それらは従来の律法をしのぐ教えであり、何よりも隣人愛の教えです。「聞いて行う」とは、「わたしの天の父の御心を行う」(マタイ7・21)ことです。したがって「これらの言葉」とは、神の言葉がイエスの言葉として特徴づけられています。神の言葉はイエス・キリストを通して、決定的な形で私たちに語られるのです。「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終わりの時には、御子によって、わたしたちに語られたのです」(ヘブライ1・1)。

イエスの言葉を聞いて行う者は皆、「岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」と言われ、イエスの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」と二種類の人間を例にあげます。岩の上に建てた家を、ルカ福音書では、「地面を深く堀り下げ、岩の上に土台を置いて」(ルカ6・48)建てた家と記しています。二つの家は、土台以外には同じ家の建て方をしています。岩の上に建てた家は、「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても」、倒れませんでした。他方、軟弱な砂の上に建てた家は、「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると」、倒れて、その倒れ方がひどかったというのです。「その倒れ方はひどかった」とは、救助不可能であることを示しています。この危機を意識し、それに備えて人はそれぞれ現在の生を見直し、イエスの言葉を聞いて行う人になりなさい、と主イエスは勧めているのです。地上には不意の襲う暴風や豪雨や洪水といった自然災害があります。私たちの信仰生活にも不意に襲う誘惑、疾病、貧困、迫害、苦難など、襲って来て信仰を大きくゆさぶります。それに打ち勝つことが出来るのは、土台の岩となるイエス・キリストであり、その主の教えを聞いて行う人だと、言うのです。砂の上に家を建てた人は、イエスの教えを聞くだけで、行わない人です。主の教え以外のものに頼っている人です。

豪雨と暴風によって表されているもう一つの重要なことは、私たちすべてに最後に訪れる死です。私たちは死に直面しなければなりません。この死に対する備えが出来ていなければなりません。主イエスのみを土台としている人は、ただ主の憐れみにより頼む心の貧しい者です。主イェスは天国はあなたがたのものであると祝福し、私たちを天国に迎えて下さるのです。臨終の時も私たちと共にいてくださって、私たちを支え、栄光の御国へと迎えてくださるのです。キリストによって示された神の愛から、死も黄泉の力も私たちを引き離すことは出来ないのです(ロ-マ書8・29)。

山上の説教は「幸いである」という八つの祝福のことばで始まっています。イエスはまず、御国の民に与えられている祝福を解き明かされました。真の幸せを与えるのは神なのです。主はまず八つの祝福の中で、ご自分の民・神の民がどのようになるかを述べたのです。人間が自己の力に頼り、自己満足に留まって、自らの真実の姿、罪に目を向けようとしない所には、真実の幸福は存在しないことを明確にし、真実の幸福は神との正しい関係の中で与えられことを明らかにしたのです。

「心の貧しい人々」、「悲しむ人々」、「柔和な人々」、「義に飢え渇く人々」、「憐れみ深い人々」、「心の清い人々」、「平和を実現する人々」、「義のために迫害される人々」の気質は、人の生まれつきの傾向と呼ばれるもののことを言っているのではありません。この一つ一つは、神の民とされた者たちに注がれる恵みの聖霊の働きによって、作り出される気質なのです。感謝すべきことは、キリストの救いの恵みにあずかって神の子とされたすべての者が、このようなすべての気質を与えられ、神の祝福を与えられるのです。

生まれつきのままで立派なキリスト者のように見える人たちがいますが、キリスト者とは本質的な違いがあります。その求めるものにおいて明らかに異なっているのです。世の人は、富か、金か、身分か、地位か、名声か、自己の誇りを求めています。キリスト者は、何よりもまず、神の国と神の義、すなわち神との正しい関係を求める者たちです。

山上の説教は、聖霊を受けている神の民の生き方を示しました。生まれながらの人が、自分で自分を神との正しい関係に入れようと努力する姿を描写したのではありません。主は聖霊の賜物を私たちに与えて、この山上の説教の生き方に一致できる民となることを描写したのです。それは私たちが罪がないとか、完全であるとかという意味ではありません。自分の足りなさを自覚しつつ、聖霊に満たされことを祈り求め、義に飢え渇き、神の数々の約束が自分の日常生活の中に実現されていくという祝福された経験を与えられつつ、主の御言葉を聞いて行うことに努めるのです。

「イエスがこれらの言葉を語り終えられると」、と山上の説教は締めくくらえます。そして再び群衆に言及します。群衆はその教えに非常に驚きました。彼らが驚いたのは、イエスが自らの権威に基づいて教えたからでした。当時民衆から見れば、律法学者も権威をもって語ったが、律法学者は聖書の権威に依存した権威でした。これに対してイエスは、「あなたがたが聞いているとおり、昔の人は・・・と命じられている。しかし、わたしは言っておく」と、自らの言葉をそれ以上のものとして教えられました。「わたしの言葉を聞いて行う者は」と、主イエスは神の権威をもって語られたのです。

主イエスは何のために世に来られたのか。何のためにこの説教を語られたのか。山上の説教は何を告げているのか。主イエスはこの説教の中で、人間の努力や生まれながらの能力では神の栄光を受けられなくなっており、どんなに努力しても、それによって自分を神の前に立つのにふさわしい者とすることは出来ないと言っています。私たちすべてに、新しい性質が、新しいいのちが必要であると言っているのです。この新しいいのちを私たちに与えるために主は来られたのです。主は、神の民としてなすべき教えを実行可能とするために来られたのです。山上の説教は、主イエスが「わたしの言葉を聞いて行う者は」と言われたように、主イエスのことばが神のことばなのです。この主イエスの十字架の贖いの死と復活による恵みにあずからせていただくことによって、人間は自己義認や罪への絶望から解放され、聖霊を与えられ、神の恵みに対する感謝の応答として、御心に従って生きようとする決意を与えられるのです。

 

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