富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「アラブ民族の祖先イシュマエル」 創世記25章7-18節

2013-09-29 22:34:01 | 礼拝説教

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

 日本キリスト教 富 谷 教 会

聖霊降臨節第十九主日   2013年9月29日(日)

礼 拝 順 序  

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 579(主を仰ぎ見れば)

交読詩編   67(神がわたしたちを憐れみ、祝福し) 

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書  創世記25章7-18節

説 教「アラブ民族の祖先イシュマエル」辺見宗邦牧師

讃美歌(21) 494(ガリラヤの風)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷

後 奏

次週礼拝 2013年10月6日(日) 午後5時~5時50分

聖書  創世記24章9―27節

説教  「ヨセフの嫁リベカ」

交読詩編 72  讃美歌 404 464 27

本日の聖書 創世記25章718

  7アブラハムの生涯は百七十五年であった。 8アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。 9息子イサクとイシュマエルは、マクペラの洞穴に彼を葬った。その洞穴はマムレの前の、ヘト人ツォハルの子エフロンの畑の中にあったが、 10その畑は、アブラハムがヘトの人々から買い取ったものである。そこに、アブラハムは妻サラと共に葬られた。

  11アブラハムが死んだ後、神は息子のイサクを祝福された。イサクは、ベエル・ラハイ・ロイの近くに住んだ。 12サラの女奴隷であったエジプト人ハガルが、アブラハムとの間に産んだ息子イシュマエルの系図は次のとおりである。 13イシュマエルの息子たちの名前は、生まれた順に挙げれば、長男がネバヨト、次はケダル、アドベエル、ミブサム、 14ミシュマ、ドマ、マサ、 15ハダド、テマ、エトル、ナフィシュ、ケデマである。 16以上がイシュマエルの息子たちで、村落や宿営地に従って付けられた名前である。彼らはそれぞれの部族の十二人の首長であった。 17イシュマエルの生涯は百三十七年であった。彼は息を引き取り、死んで先祖の列に加えられた。 18イシュマエルの子孫は、エジプトに近いシュルに接したハビラからアシュル方面に向かう道筋に沿って宿営し、互いに敵対しつつ生活していた。

本日の説教

 本日の聖書の個所、創世記25章9節に、アブラハムの息子イサクとイシュマエルが、父アブラハム死んだとき、ヘブロンにあるマクベラの洞穴に彼を葬った、とあります。イサクとイシュマエルはアブラハムを父とする異母兄弟です。イサクはユダヤ人の祖であり、イシュマエルはアラブ人の祖です。アブラハムが、両民族の始祖なのです。

  アブラハムがカナン地方に向けて、ハランを出発したときは75歳でした(12:4)。神は、アブラハムに「わたしはあなたを大いなる国民にし、祝福する(12:2)」と言われました。アブラハムは主の言葉に従って旅立ったのです。その後もアブラハムには子供が与えられなかったので、ダマスコから連れてきた僕エリエゼルに跡を継がせようとしていました。しかし、神は「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ(15:4)」と言われ、アブラハムを外に連れ出して星を見させ、「あなたの子孫はこのようになる」と約束されました。アブラハムは主を信じました。その後、主はアブラハムと契約を結ばれました(15:18)。

  アブラハムがカナン地方に住んでから、10年後のことです。アブラハムの妻サラには、子供が生まれなかたので、ハガルというエジプト人の女奴隷を夫の側女(そばめ)としました。身ごもったハガルが正妻サラを見下すようになり、その態度に怒ったサラもまたハガルにつらく当たりました。耐えかねてハガルは逃げ出しましたが、砂漠で天使に出会い、サラのもとへ戻るように告げられ、生まれてくる子孫の繁栄を約束されました。彼女は男の子イシュマエル(16:11)を産みました。ハガルはイシュマエルを産んだとき、アブラハムは86歳でした(16:16)。神は、それ以後13年間、アブラハムに現れませんでした。

  アブラハムが99歳のとき、再び主なる神がアブラハムに現れ、「あなたは多くの国民の父とする」、「あなたとあなたの子孫との間に契約を立てる」と言われ、守るべき契約として割礼を命じました。この時、アブラムからアブラハムという名が与えられました。サラには男の子が生まれることを約束し、サライの名をサラと変えられました。サラは来年男の子を産む、その子をイサクと名付けなさいと、神はアブラハムに命じました。

イシュマエルのことについては、神は次のように約束されました。「必ず、わたしは彼を祝福し、大いに子供を増やし繁栄させる。彼は十二人の首長の父となろう。わたしは彼を大いなる国民とする。」(17:20)息子イシュマエルが割礼を受けたのは13歳の時でした。

アブラハムが100歳のとき、サラは男の子を産みました。アブラハムはサラが産んだ自分の子をイサクと名付けました。イサクとイシュマエルの年の差は、14歳でした。イサクが乳離れしてから、イシュマエルがイサクをからかっているのを見て、サラはアブラハムに、あの女ハガルとあの子イシュマエルを追い出してくださいと訴えました。このことはアブラハムを非常に苦しめました。その子も自分の子だったからです。

神から、「あの女の息子も一つの国民の父とするから、サラの言うことに聞き従いなさい」と言われ、アブラハムは、神の加護を信じて、ハガルと子供を追放しました。ハガルは立ち去り、ベエル・シェバの荒れ野をさまよいました。皮袋の水が無くなったとき、ハガルが死ぬ覚悟をし、子供を寝かせて、離れて座り、声を上げて泣きました。そのとき、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言いま

した。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする。」(21:17,18)神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけ、子供に飲ませました。ハガルとイシュマエルを神は顧みてくださり、慈しんでくださっておられるのです。

 神がその子と共におられたので、その子は成長し、荒れ野に住んで弓を射る者となりました。彼がパナンの荒れ野(シナイ半島中部)に住んでいたとき、母は彼のために妻をエジプトの国から迎えました(21:21)。イシュマエルの子孫は、「エジプトの東」つまりシナイ半島全域、さらにアラビア北部を通ってアッシリアに至るまでの範囲をさすらいました。 

 アブラハムは<多くの日を重ね老人になり>(24:1)、息子イサクの嫁を故郷のメソポタミアのハランにいる親族から探して連れてくるように僕(しもべ)に命じました。僕とは、15章2節に出てくるエリエゼルと思われます。僕が、イサクの嫁となるリベカを連れてきました。イサクがネゲブ地方に住んでいた頃のことです。イサクはリベカを妻としました。イサクが結婚したのは40歳の時でした(25:20)。イサクが60歳のときにエサウとヤコブの双子が生まれました(25:26)。アブラハムが160歳の時になって孫が与えられたのです。

  創世記25章のはじめに、アブラハムの再婚のことがしるされています。エトラを側女(そばめ)としました。アブラハムはおそらくベテルで死んだと思われます。死ぬ前にアブラハムが最後にしたことは、イサクに全財産を与えるとともに、そばめたちの子らには贈り物を与えて、イサクから遠ざけ、醜い相続財産の争いを避けたことでした。「自分が生きている間に、東の方、ケデム地方へ移住させた(25:6)」とあります。<ケデム地方>とは、シリア砂漠地方のことです。

  アブラハムの享年は、175歳でした。「アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた」とあります。アブラハムは祈りによってすべての悩みを神に語りかけ、祈りによって導きを受け、神を信じる信仰によって支えられ、さすらいの人生を歩んだのです。アブラハムは、信仰によって「他国に宿るようにして約束の地に住み、幕屋に住みました。神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです(ヘブライ11:9,10)。アブラハムは、神より「わたしの愛する友アブラハム」(イザヤ41:8)と呼ばれ、パウロは「信仰の父(ローマ4:12」と呼んでいます。

  「息子イサクとイシュマエルは、マクペラの洞穴に彼を葬った」(25:9)とあります。イシュマエルが親の葬儀に参列したのです。イシュマエルが母ハガル共に追放され、エジプトに近いパナンの荒れ野(シナイ半島中部)の遠い地から、カナンのヘブロンの地まで馳せ参じて来たのです。これはイシュマエルが、父を憎んでいなかったことを表しています。もう二度と会うはずのなかった、イシュマエル(89歳)、とイサク(75歳)の二人が仲良く父を葬ったのです。ここには、決して和解出来そうになかった兄弟がアブラハムの死に際して和解させられたという事実が記されています。アブラハムの長子とされず、奴隷の子として遠ざけられていたイシュマエルもまた、多くの子供たちを得、137歳の長寿を得て、神の祝福に与っています。イシュマエルとその家族たちは、神様の広い慈しみから締め出されてはいないのです。

   現在、イスラエル国(ユダヤ人)とパレスチ自治政府(パレスチナ人)との間で、パレスチナの領土をめぐって対立しています。第一次世界大戦後、ユダヤ人のパレスチナ国家建設(シオニズム)運動が起りました。イスラエルという国は、1948年に国連の決議によって建国を認められたユダヤ教徒の国です。パレスチナ人とはイスラエル建国以前、パレスチナに住んでいたアラブ人を指す名称です。イスラエルは、先住民のパレスチナ人を追い出して国を建設したのです。「シオニストたちは、2000前以上前ここは聖なるユダヤの土地だった」とヘブロンに帰還すること熱望しました。ヘブロンはエルサレム同様彼らにとって重要な聖地でした。

  ヘブロンはパレスチナの自治区内にあります。このヘブロンにユダヤ人の入植がはじまって以来、アブラハムの墓を巡り、パレスチナ人とユダヤ人の両民族は血で血を洗う抗争を繰り返してきました。アブラハムの墓は、パレスチナ人にはアブラハム・モスクと呼ばれ、ユダヤ人にはマクペラの洞穴と言われ、両者にとって聖地です。この墓はヘブロンの旧市街にあります。1997年、ここを占領したイスラエル軍は、パレスチナ人とユダヤ人の居住区の境界を定め、アブラハムの墓に、新たにユダヤ人専用礼拝所を設け、パレスチナ・サイドとユダヤ・サイドの二つに分割し、互いに顔を合わせないようにしたのです。

 ヘブロンの旧市街には、パレスチナ人は約3万500人に対し、ユダヤ人500人と、ユダヤ人を守るイスラエル兵4000人が駐屯しているのです。イスラエルは周辺のアラブ諸国とも対立しています。ユダヤ民族とアラブ民族の両方の民族は、アブラハムを父祖とする子孫であるのに互いに敵対関係にあるのです。

 アラブ人は、アラビア語を話し、イスラム教を信じています。イスラム教は7世紀に現れたムハンマド(マホメット)を預言者とする宗教です。イスラム教の聖地、メッカのカーバ神殿は、アブラハムとイシュマエルが造ったとされています。

 そもそもアブラハム一族とその子孫イスラエルの民が神に選民として選ばれたのは、「地上の氏族すべて祝福に入る」(創世記12:3)ための祝福の源になるためでした。神は、救い主であるイエス・キリストがその民から生まれるようにイスラエルの民を選ばれたのです。世界の民はすべて神の祝福に入るべき民族です。この世界は、神の栄光を現すために互いに平和的な共存が求められているのです。

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「愛する者サラの死と墓」創世記23章1-20節

2013-09-21 13:19:37 | 礼拝説教

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

 日本キリスト教 富 谷 教 会

聖霊降臨節第十八主日   2013年9月22日(日)

讃美歌(21) 433(あるがままわれを)

交読詩編   16(神よ、守ってください) 

聖 書  創世記23章1-20節

説 教 「愛する者の死と埋葬」 辺見宗邦牧師

讃美歌(21) 382(力に満ちたる)

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

本日の聖書 創世記23120

  1サラの生涯は百二十七年であった。これがサラの生きた年数である。 2サラは、カナン地方のキルヤト・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは、サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ。 3アブラハムは遺体の傍らから立ち上がり、ヘトの人々に頼んだ。 4「わたしは、あなたがたのところに一時滞在する寄留者ですが、あなたがたが所有する墓地を譲ってくださいませんか。亡くなった妻を葬ってやりたいのです。」 5ヘトの人々はアブラハムに答えた。「どうか、 6御主人、お聞きください。あなたは、わたしどもの中で神に選ばれた方です。どうぞ、わたしどもの最も良い墓地を選んで、亡くなられた方を葬ってください。わたしどもの中には墓地の提供を拒んで、亡くなられた方を葬らせない者など、一人もいません。」 7アブラハムは改めて国の民であるヘトの人々に挨拶をし、 8頼んだ。「もし、亡くなった妻を葬ることをお許しいただけるなら、ぜひ、わたしの願いを聞いてください。ツォハルの子、エフロンにお願いして、 9あの方の畑の端にあるマクペラの洞穴を譲っていただきたいのです。十分な銀をお支払いしますから、皆様方の間に墓地を所有させてください。」 10エフロンはそのとき、ヘトの人々の間に座っていた。ヘトの人エフロンは、町の門の広場に集まって来たすべてのヘトの人々が聞いているところで、アブラハムに答えた。 11「どうか、御主人、お聞きください。あの畑は差し上げます。あそこにある洞穴も差し上げます。わたしの一族が立ち会っているところで、あなたに差し上げますから、早速、亡くなられた方を葬ってください。」 12アブラハムは国の民の前で挨拶をし、 13国の民の聞いているところで、エフロンに頼んだ。「わたしの願いを聞き入れてくださるなら、どうか、畑の代金を払わせてください。どうぞ、受け取ってください。そうすれば、亡くなった妻をあそこに葬ってやれます。」 14エフロンはアブラハムに答えた。「どうか、 15御主人、お聞きください。あの土地は銀四百シェケルのものです。それがあなたとわたしの間で、どれほどのことでしょう。早速、亡くなられた方を葬ってください。」 16アブラハムはこのエフロンの言葉を聞き入れ、エフロンがヘトの人々が聞いているところで言った値段、銀四百シェケルを商人の通用銀の重さで量り、エフロンに渡した。 17こうして、マムレの前のマクペラにあるエフロンの畑は、土地とそこの洞穴と、その周囲の境界内に生えている木を含め、 18町の門の広場に来ていたすべてのヘトの人々の立ち会いのもとに、アブラハムの所有となった。 19その後アブラハムは、カナン地方のヘブロンにあるマムレの前のマクペラの畑の洞穴に妻のサラを葬った。 20その畑とそこの洞穴は、こうして、ヘトの人々からアブラハムが買い取り、墓地として所有することになった。

 本日の説教

 創世記23章には、アブラハムが亡くなった妻サラを埋葬するための土地をヘト人エフロンから購入する物語が書かれています。紀元前13世紀頃の話しです。1節にサラが127歳で亡くなったとあります。この時、アブラハムは137歳です。アブラハムは長年苦楽を共にした妻に先立たれたのです。アブラハムとサラは異母兄弟(創世記20:12)だったので、サラは生まれてからずっとアブラハムと一緒でした。二人の年の差は十歳でした(創世記17:17)。二人は、カルデヤ地方のウルに住んでいたころに結婚し、父テラ一族の移住に伴い、故国を離れてハランの地に住みました。しばらくしてから、アブラハムは七十五歳のとき、神の召命に応えて、二人は父と別れ、カナン地方に移住しました。シケム、ベテル、エジプト、ヘブロン、ゲラル、ベエル・シェバ、再びヘブロンと寄留の旅を続けました。

  「サラは、カナン地方のキルヤト・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ」とあります。<キルヤト・アルバ>とは、ヘブロンの別名です。<アルバ>は四を表すことから、「四つの町」を意味し、ヘブロンに隣接するアネル、エシコル、マムレの町々を含めて「四つの町」と呼んだのだと思われています。サラが死んだ場所は、ヘブロンの北4.5キロにある、アブラハムが住んでいたマムレの樫の木の天幕だと思われます。

 アブラハムは、サラの死を悼み、<サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ>とあります。自分の胸を打ちたたくというのは、ユダヤにおける極限の悲しみを表す行為です。心の中に広がる悲しみを和らげるために、外側から叩いて外に移す行為です。サラの死を嘆き悲しんだアブラハムの心中を察するには余りあります。神に示された地へ、行く先を知らずして、共に旅立った信仰の伴侶でした。カナンの地で、多くの困難と試練を乗り越え、波乱に富んだ生涯を共にした妻でした。

  サラは完全無欠な女性ではなかったが、「神に望みを託した聖なる婦人」であり、「アブラハムを主人と呼んで、彼に服従した(Iペテロ3:6)」、柔和でしとやかな気立ての婦人だったと讃えられています。サラの死を、深く嘆き悲しんだアブラハムに共感を覚えざるをえません。しかし、アブラハムはいつまでも悲嘆にくれてはいませんでした。亡くなった妻をねんごろに葬るために、墓地を得ようと、遺体の傍らから立ち上がったのです。アブラハムは先住民のヘトの人々に行って頼みました。 アブラハムは、「わたしはあなたがたのところに一時滞在する寄留者ですが」と言って、墓地を譲ってくださいと頼んだのです。アブラハムは土地を所有していないのです。だからこそサラを埋葬する土地を手にいれたいのです。

  ヘトの人々の答えは、「どうぞ、わたしどもの最も良い墓地を選んで、亡くなった方を葬ってください」と言っています。ヘトの人々は、自分達の墓地の使用権は与えるが、アブラハムが要求した墓地の所有権を与えようとはしていないのです。 そこで、アブラハムは、「ぜひ、わたしの願いを聞いてください」と言って、<ツォハルの子、エフロンの畑の端にあるマクベラの洞穴(ほらあな)>を譲ってくださいと頼みました。十分な銀を支払うので、墓地を所有させて欲しいと願ったのです。<マクベラ>は二重という意味で、洞穴がひょうたんのように中がくびれた二つの部屋になっているので、<マクベラの洞穴>と言われていました。

 その場に居合わせていたエフロンは、「あの畑は差し上げます。あそこにある洞穴も差し上げます」と答えています。これは無償で提供するという意味ではないのです。アブラハムが洞穴を買いたいというので、「よろしいでしょう。畑も一緒にどうぞ。」と言っているのです。このことは、次の会話で明らかになります。

 「畑も」と言われたことは、アブラハムにとって意外なことでした。でもすぐ、エフロンが畑も売りたいのだと気付き、「どうか、畑の代金を払わせてください。受け取ってください。」と申し出ました。エフロンは、「あの土地は銀四百シェケルのものです。」と売値の金額を提示しました。<銀四百シェケル>は法外な値段なのです。一シェケルは、11.4グラムです。銀400シェケルは、銀4キログラム以上になるのです。ダビデは麦打ち場と牛を銀50シェケルで買い取っています(サムエル24:24)。エレミヤはアナトテにある畑を銀17シェケルで買い取っています(エレミヤ32:9)。エフロンは、「それがあなたとわたしの間で、どれほどのことでしょう。」と言っています。これは、「あなたとわたしにとって、こんな金など問題ではないでしょう。」と言って薦めているのです。

 アブラハムは、相手の言い値で、値引きもせずに土地を購入しました。へたに値引きを求めて、破談になってしまうことを避けたかったのか、あるいはむしろ、エフロンのつけた値段をそのまま受け入れることにより、彼に対してまったく借りのない関係にしようと思ったのでしょう。アブラハムは何としても、この墓地を手に入れたかったのです。

 「その後アブラハムは、ヘブロンにあるマムレの前のマクベラの畑の洞穴に妻サラを葬った」とあります。

  ヘブロンは、エルサレムの南38キロの地点にあります。ダビデがイスラエル全土を統一するまで、ここを拠点として7年半の間治めた地です。

  アブラハムは、アモリ人の族長マムレと同盟を結び、彼の所有する地にある樫の木の傍らに、住んでいました(14:13)。この<マムレ>の地は、アブラハムとサライが天幕を張って長い間住んだ思い出の土地です(13:18)。また、イサクの誕生を告げる三人の神の使いを迎えた地でもあります(18:1)。その<マムレ>のすぐ近くに、墓地を所有することになったのです。

  

「マムレの樫の木」を守るロシア正教会の修道院。

 

 マムレにある「マムレの樫の木」。日本の楢(なら)の木に近い。

  現在ヘブロンには、16万7千人のパレスチナ人[アラブ系人]と、中心部の入植者区域には、およそ500人のユダヤ人と警備にあたる軍隊が駐屯しています。ヘブロンにある<マクベラの洞穴>は、「アブラハム・モスク」と呼ばれていて、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教の三つの宗教の重要な聖地になっています。

        

      上の図はヨルダン川西岸パレスチナ自治区。

     破線(----)は、イスラエル領とパレスチナ自治区の境界線。ヘブロン(Hebron)はパレスチナ自治区の下の方、A印のところです。

   左は、ヘブロンのマクベラの洞穴のあるアブラハム・モスク。

                                             アブラハムの墓                                                 洞窟へ通じる入口

アブラハムが墓地を購入したのは、サラのためでしたが、同時にこれを契機に、アブラハムにカナンを与える言われた神の約束を信じたアブラハムの信仰の証しでした。それゆえ、サラの死を契機に、墓地のための土地を取得することにこだわったのです。彼がカナンの地で得た最初のものは墓地でした。アブラハムは子孫が、神の約束を信じて生きるようにと願って、墓を求めました。その後、この墓に、アブラハムも葬られ、息子のイサクとその妻、イサクの息子ヤコブとその妻リベカ、そして、エジプトで死んだ、ヤコブの息子ヨセフが葬られました。

  アブラハムにとって、「受け継ぐ地」はカナン(パレスチナ)の地でしたが、それは神を信頼する者たちに与えられる御国を指し示していました。今や、カナンという地上の限られた地域ではなく、天地万物の相続者であるキリスト(エフェソ1:10)と共同の相続人(ローマ8:17)とされ、天の御国を受け継ぐ者とされたのです。地上の土地をめぐって、その取得のために争う必要はなくなったのです。

  信仰者にとって墓は、肉体の死を超えた彼方で、なお神様が恵みの力によって導き、新しい命を与えて下さる、その復活を信じて待ち望む希望の印としての意味を持つのです。「生きるにも死ぬにも、自分たちの身によってキリストが公然とあがめられるように切に願い、希望しています(フィリピ1:20)」とパウロが語ったように、朽ちる体の葬られる墓もまた、神の栄光をあらわす所となるのです。     

   富谷教会の墓には、「栄光、神に(のみ)あれ」と刻んだ1.8メートルの大理石の横石が置かれています。

       

     

 

 

 

  

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「パウロのローマ到着と伝道」 徒言行録28章11-31節

2013-09-18 15:36:19 | 礼拝説教

聖霊降臨節第十七主日   2013年9月15日(日)

讃美歌(21) 528(あなたの道を)

交読詩編   33(主に従う人よ、主によって喜び歌え) 

聖 書  使徒言行録28章11-31節

説 教 「パウロのローマ到着と伝道」  辺見宗邦牧師

讃美歌(21) 456(わが魂を愛するイェスよ)

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

本日の聖書 使徒言行録281131

 28:11三か月後、わたしたちは、この島で冬を越していたアレクサンドリアの船に乗って出航した。ディオスクロイを船印とする船であった。 28:12わたしたちは、シラクサに寄港して三日間そこに滞在し、 28:13ここから海岸沿いに進み、レギオンに着いた。一日たつと、南風が吹いて来たので、二日でプテオリに入港した。 28:14わたしたちはそこで兄弟たちを見つけ、請われるままに七日間滞在した。こうして、わたしたちはローマに着いた。 28:15ローマからは、兄弟たちがわたしたちのことを聞き伝えて、アピイフォルムとトレス・タベルネまで迎えに来てくれた。パウロは彼らを見て、神に感謝し、勇気づけられた。 28:16わたしたちがローマに入ったとき、パウロは番兵を一人つけられたが、自分だけで住むことを許された。

 28:17三日の後、パウロはおもだったユダヤ人たちを招いた。彼らが集まって来たとき、こう言った。「兄弟たち、わたしは、民に対しても先祖の慣習に対しても、背くようなことは何一つしていないのに、エルサレムで囚人としてローマ人の手に引き渡されてしまいました。 28:18ローマ人はわたしを取り調べたのですが、死刑に相当する理由が何も無かったので、釈放しようと思ったのです。 28:19しかし、ユダヤ人たちが反対したので、わたしは皇帝に上訴せざるをえませんでした。これは、決して同胞を告発するためではありません。 28:20だからこそ、お会いして話し合いたいと、あなたがたにお願いしたのです。イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖でつながれているのです。」 28:21すると、ユダヤ人たちが言った。「私どもは、あなたのことについてユダヤから何の書面も受け取ってはおりませんし、また、ここに来た兄弟のだれ一人として、あなたについて何か悪いことを報告したことも、話したこともありませんでした。 28:22あなたの考えておられることを、直接お聞きしたい。この分派については、至るところで反対があることを耳にしているのです。」

 28:23そこで、ユダヤ人たちは日を決めて、大勢でパウロの宿舎にやって来た。パウロは、朝から晩まで説明を続けた。神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用して、イエスについて説得しようとしたのである。 28:24ある者はパウロの言うことを受け入れたが、他の者は信じようとはしなかった。 28:25彼らが互いに意見が一致しないまま、立ち去ろうとしたとき、パウロはひと言次のように言った。「聖霊は、預言者イザヤを通して、実に正しくあなたがたの先祖に、 28:26語られました。

『この民のところへ行って言え。 あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、

見るには見るが、決して認めない。 28:27この民の心は鈍り、耳は遠くなり、

目は閉じてしまった。 こうして、彼らは目で見ることなく、 耳で聞くことなく、心で理解せず、立ち帰らない。

わたしは彼らをいやさない。』28:28だから、このことを知っていただきたい。この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです。」 28:29パウロがこのようなことを語ったところ、ユダヤ人たちは大いに論じ合いながら帰って行った。

28:30パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、 28:31全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。

 本日の説教

  パウロがロ-マ行きたいとの希望を最初に語ったのは、第三回の伝道旅行中、エフェソにおいてでした。使徒言行録19章21節によれば、パウロはエルサレムに行った後、ローマにもぜひ行きたいという願いを述べています。「わたしはそこへ行った後、ローマも見なくてはならない」と言っています。

 その後、ギリシアのコリントに行き、三か月滞在(20章3節)していたときに、「ローマの信徒への手紙」を書き送ったとされています。その手紙には、ロ-マに行くことが何度も妨げられてきたと述べています(ローマ1:13、15:22)。どうしてパウロがそんなにローマに行こうとしたのか、その理由が「ローマの信徒への手紙1章13~15節に記されています。第一は、「霊の賜物を分け与えて、力になりたい」。第二に、「互いの持っている信仰によって、励まし合いたい」。第三に、「あなたがたのところでも何か実りを得たい」、ということです。そして、第四に、「ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです(1章15節)」と述べています。

 このパウロの希望はどのようにして実現されたのでしょうか。パウロは、第三伝道旅行の後、迫害と死を覚悟して、マケドニアで集めた献金を届けるためと、また、エルサレムのユダヤ人教会とパウロが伝道した異邦人教会との融和をはかるために、エルサレムに行きました。その覚悟の思いをエフェソの長老たちと、ミレトスで別れるときに述べています。「今、わたしは、霊に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるのか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証するという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません(使徒言行録20章22~24節)」パウロは、このエルサレム行きを終えたのちに、ローマに行くことを望んでいたのです。

 パウロはエルサレムで、同胞ユダヤ人たちから信仰問題で訴えられ、殺されそうになりました。しかし、投獄されていたパウロに主が現れ、そばに立って言われました。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ロ-マでも証しをしなければならない(23章11節)」、とパウロを励ましたのです。

  パウロが裁判を控訴したため、首都ローマでの裁判を受けることになり、パウロは囚人として護送される旅となって、パウロのローマへの旅が実現していくのです。それは思いがけない仕方で、ローマに行くことになったのです。その船旅の途中で、パウロたち一行は暴風に襲われ、人々は、助かる望みも全く消え失せようとしていたとき、天使がパウロのそばに立って、「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ(27:24)。」と言って励ましたのです。

  嵐の海を十四日間も漂流し、やっとも思いで上陸したのがマルタ島でした。マルタ島でパウロにからみついた蛇がなんの危害もくわえなかったのは、福音を宣べ伝える者に対する主イエスの約束(ルカ10:19)の実現であり、パウロが潔白であることの証明でした。地元の住民は、予想した正義の女神による制裁が、パウロになかったので、「この人は神様だ」と言い出す始末でした。パウロほか一行は、この島で3ヵ月を過ごし、冬を越しました。島の長官のプブリウスという人がパウロたちを家に招き、親切にもてなしてくれました。パウロがプブリウスの父親を始め、多くの島民の病を癒したので、島民の尊敬を一身に集めるようになりました。

 カストルとポルックス

   翌年の二、三月頃、囚人を護送する百人隊長が、この島で冬を過ごしていたアレクサンドリアの船を見つけて交渉し、パウロたち一行をこの船に乗せて出航しました。その船の船首には木彫りのディオスクロイ(ゼウスの息子たちの意)の二神像が船印として飾られていました。この二神像とはギリシア神話のゼウスとレダとの間に生まれた双子カストルとポルックスです。古代・中世ではカストルとポルックスは嵐をしずめる航海の守り神として船首の飾りになっていました。

   ここからが、今日の聖書の個所にあたります。 マルタ島を出航した船は、イオニア海を北上してシチリア島南東部にあるシラクサ港に寄り、3日停泊し、イタリア半島の南西の突端の港町レギオン(現在のレッジオ・ディ・カラプリア)に着きました。それから1日おいて、南風が吹いてきたのに乗じて出航し、2日目にプテオリ(現在のポッツオリ)に着きました。このプテオリで、初めて信者の兄弟たちに出会い、請われて一週間留まりました。そこから彼らと別れ、ローマ兵に引率されてローマをめざしました。ローマまでは200キロの道のりで、歩いて五、六日の行程です。プテオリからアッピア街道に出て、アピイフォルムを通り、トレス・タベルネに着きました。この二つの町まで、プテオリの「兄弟たち」から伝え聞いたのか、ローマ在住の兄弟たちが出迎えてくれました。パウロは彼らを見て、神に感謝し、勇気づけられました。こうして、パウロはついにローマに入り、最後の旅を終えたのです。パウロのロ-マ到着は紀元61年の春頃と推定されています。

    パウロはローマで「番兵を一人つけられたが、自分だけで住むことを許され」ました。比較的自由な軟禁状態に置かれたものと思われます。囚人の身分でありながら寛大な処遇を受けたのです。三日後、パウロはさっそくローマ在住のおもだったユダヤ人たちを招いて、自分が護送されてローマに来たのかを釈明しました。

   「自分はユダヤの民に対しても、ユダヤ教の律法に対しても、背くようなことは何一つしていないのに、ユダヤ人たちが、自分をエルサレムで囚人としてローマ人の手に引き渡しました。ローマ人が自分を取り調べた結果、釈放しようとしたのに、ユダヤ人たちが反対したので、自分は皇帝に上訴せざるを得なかったのです。イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖でつながれているのです」とパウロは語りました。イスラエルの希望とは、キリストの復活と、彼がメシア(救世主)であることを信じることにかかっていることを訴えたのです。

   ローマのユダヤ人たちは、日を決めて、大勢でパウロの宿舎にやってきました。当時ローマには、三万人ものユダヤ人がいたといわれています。パウロは、朝から晩まで、モーセの律法や預言者の書を引用して、イエスについて説得しようとしました。「ある者はパウロの言うことを受け入れ」たが、ほかの者は信じようとしませんでした。パウロは神の救いの計画は、ユダヤ人が捨てられ、異邦人へ向けられるのだと、パウロは宣言し、異邦人伝道へと目を向けたのです。

    パウロは、自費で借りた家に満2年間住んで、訪ねて来る人々を歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宜(の)べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けました。

    パウロが住んでいたといわれる場所に建てられた、サン・パウロ・アラレゴラ教会が、ティベレ川右岸にあります。この教会の壁には、「イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖につながれているのです」(使徒言行録28:20)「神の言葉はつながれていません」(テモテ二、2:9)という聖句がかかげられています。

 

 パウロが2年間住んで伝道した家に建てられた教会

 パウロは、ローマを訪ねた後、イスパニア(スペイン)に行きたいと希望していました。ポルトガル王国が誕生したのは、1143年になってからなので、イスパニアは、当時のヨーロッパの最西端の地域でした。「何年も前からあなたがたのところに行きたいと切望していたので、イスパニアに行くとき、訪ねたいと思います。」「あなたがたのところを経てイスパニアに行きます。」(ローマ15:24、30)とローマの信徒に手紙を送っています。パウロは一回目の牢獄から出所した後、スペインに出向き、その後ローマで再度牢獄に入れられた、とする説があります。 おそらくパウロは、紀元64年、ネロ皇帝の迫害に殉教したと思われています。パウロのあとを追ってローマに現われたペテロの刑死もこのときであったとされています。

  パウロの処刑された場所は、ローマ南西の城門を出て四キロあまり行った、ラウレンティーナ街道のそばであったといわれています。トラピスト修道院の庭園のなかに、パウロの殉教の場所として小聖堂が建っています。

 パウロが処刑された場所に建つトレ・ファンターネ(三つの泉の意)小聖堂

 パウロの遺骸は、弟子たちによって、ティベレ川河口の町、オスティアの街道ぞいに埋葬されました。記念としてサン・パウロ・フォーリ・レ・ムラ教会(城壁外の聖パウロ教会の意)が建てられています。

 サン・パウロ・フォーリ・レ・ムラ教会の中庭に立つパウロ像は、左手に聖書を抱え、右手は剣を持っています。

  パウロ像は剣(つるぎ)を持っています。この剣は、<霊の剣>であり、<神のことばの剣>です(エフェソ6:17)。パウロが、悪魔の策略に対抗して立つために、いつも身につけていたものです。

   使徒言行録は、パウロがローマで、「神の国を宜(の)べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」、で終わっています。パウロはその後どのようになったのか、上訴審はどうなったのか、イスパニアに行ったのか、最後はどのような死を迎えたのかについては、一切語っていません。それは、使徒言行録は、「使徒たちを通して働いた聖霊の活動の記録」であり、使徒言行録の1章8節で、主イエスが言われた、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と言われたことが、ローマまで至ったことの記録だからだと思われます。パウロの後も福音は世界に述べ伝えられてきました。そして今日も続けられています。わたしたちは使徒言行録の新しい一ページを書き足しているのです。「わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります」とパウロが述べてように、わたしたちも、救いにあずかった恵みに応え、キリストの証人として果たすべき責任が与えられているのです。

  

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「パウロのローマへの船旅」 使徒言行録27章13-38節

2013-09-06 19:42:07 | 礼拝説教

  

           新共同訳聖書付録 聖書地図9 パウロのローマへの旅 (手書き書き入れ・筆者)   

 〒981-3302 宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403  

 日本キリスト教 富 谷 教 会

聖霊降臨節第十六主日   2013年9月8日(日)

讃美歌(21)  17(聖なる主の美しさと)

交読詩編  107:23~32節(彼らは、海に船を出し) 

聖 書  使徒言行録27章1-38節

説 教 「パウロのローマへの船旅」 ―望みがなくなるような状況での確かな望みー 辺見宗邦牧師

讃美歌(21) 474(わが身の望みは)

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

本日の聖書 使徒言行録2713-38

 1わたしたちがイタリアへ向かって船出することに決まったとき、パウロと他の数名の囚人は、皇帝直属部隊の百人隊長ユリウスという者に引き渡された。 2わたしたちは、アジア州沿岸の各地に寄港することになっている、アドラミティオン港の船に乗って出港した。テサロニケ出身のマケドニア人アリスタルコも一緒であった。 3翌日シドンに着いたが、ユリウスはパウロを親切に扱い、友人たちのところへ行ってもてなしを受けることを許してくれた。 4そこから船出したが、向かい風のためキプロス島の陰を航行し、 5キリキア州とパンフィリア州の沖を過ぎて、リキア州のミラに着いた。 6ここで百人隊長は、イタリアに行くアレクサンドリアの船を見つけて、わたしたちをそれに乗り込ませた。 7幾日もの間、船足ははかどらず、ようやくクニドス港に近づいた。ところが、風に行く手を阻まれたので、サルモネ岬を回ってクレタ島の陰を航行し、 8ようやく島の岸に沿って進み、ラサヤの町に近い「良い港」と呼ばれる所に着いた。

  9かなりの時がたって、既に断食日も過ぎていたので、航海はもう危険であった。それで、パウロは人々に忠告した。 10「皆さん、わたしの見るところでは、この航海は積み荷や船体ばかりでなく、わたしたち自身にも危険と多大の損失をもたらすことになります。」 11しかし、百人隊長は、パウロの言ったことよりも、船長や船主の方を信用した。 12この港は冬を越すのに適していなかった。それで、大多数の者の意見により、ここから船出し、できるならばクレタ島で南西と北西に面しているフェニクス港に行き、そこで冬を過ごすことになった

  13ときに、南風が静かに吹いて来たので、人々は望みどおりに事が運ぶと考えて錨を上げ、クレタ島の岸に沿って進んだ。 14しかし、間もなく「エウラキロン」と呼ばれる暴風が、島の方から吹き降ろして来た。 15船はそれに巻き込まれ、風に逆らって進むことができなかったので、わたしたちは流されるにまかせた。 16やがて、カウダという小島の陰に来たので、やっとのことで小舟をしっかりと引き寄せることができた。 17小舟を船に引き上げてから、船体には綱を巻きつけ、シルティスの浅瀬に乗り上げるのを恐れて海錨を降ろし、流されるにまかせた。 18しかし、ひどい暴風に悩まされたので、翌日には人々は積み荷を海に捨て始め、 19三日目には自分たちの手で船具を投げ捨ててしまった。 20幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消えうせようとしていた。 21人々は長い間、食事をとっていなかった。そのとき、パウロは彼らの中に立って言った。「皆さん、わたしの言ったとおりに、クレタ島から船出していなければ、こんな危険や損失を避けられたにちがいありません。 22しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。 23わたしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、 24こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』 25ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。 26わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。」 27十四日目の夜になったとき、わたしたちはアドリア海を漂流していた。真夜中ごろ船員たちは、どこかの陸地に近づいているように感じた。 28そこで、水の深さを測ってみると、二十オルギィアあることが分かった。もう少し進んでまた測ってみると、十五オルギィアであった。 29船が暗礁に乗り上げることを恐れて、船員たちは船尾から錨を四つ投げ込み、夜の明けるのを待ちわびた。 30ところが、船員たちは船から逃げ出そうとし、船首から錨を降ろす振りをして小舟を海に降ろしたので、 31パウロは百人隊長と兵士たちに、「あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助からない」と言った。 32そこで、兵士たちは綱を断ち切って、小舟を流れるにまかせた。 33夜が明けかけたころ、パウロは一同に食事をするように勧めた。「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。 34だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」 35こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。 36そこで、一同も元気づいて食事をした。 37船にいたわたしたちは、全部で二百七十六人であった。 38十分に食べてから、穀物を海に投げ捨てて船を軽くした。

本日の説教

  総督フェストゥスやヘロデ・アグリッパ二世の目には、パウロはまったくの無罪で、釈放に価すると思われましたが、パウロ自身が皇帝に上訴(控訴)したために、やむを得ずフェストゥスは、パウロを他の数名の囚人と共に裁判を受けさせるため、イタリアへ護送することにしたのです。パウロの長い間の願いは、文化と政治との中心である世界の首都ローマにおいて、キリストの福音を証しすることと、ローマにいるキリスト者たちと、信仰による交わりをすることでした(ローマ1:13)。 

   パウロの身柄は、百人隊長ユリウスに預けられ、カイサリアからアドラミティオン港所属の船で出航しました。ユリウスは、<皇帝直轄部隊>の百卒長とありますが、シリアの補助部隊・歩兵隊に所属していました。アドラミティオン港は、ミシア地方のトロアスの南東のアソスに近い海港都市(現在のトルコの西海岸にあるエドレミトのこと)の港です。テサロニケ出身のマケドニア人アリスタルコも同行しました。パウロのロ-マ行きは船の旅でした。このロ-マへの旅は西暦60年頃の秋と推定されています。船は、翌日130キロ北のフェニキアの首都シドンに寄港しました。パウロは好意的な百人隊長の許可をもらい、弟子たち(21:3~6)のところへ行ってもてなしを受けました。船はシドンから船出しましたが、向かい風のため、キプロス島の北に出て、キリキア州とパンフィリア州の沿岸に沿って西に進み、リキア州のミラに着きました。ここで百人隊長はローマ行きのアレクサンドリアの船が停泊しているのを見つけて、一行をそれに乗り換えさせました。38節に穀物を積んでいたとあるので、貨物船であったと推察されます。ミラを出航したが、北西の風に悩まされ、数日後、小アジアの南端にある港町クニドスに近づいたが、風にはばまれ近づけなかった。船は、北東の風にあおられて南に流され、クレタ島の東端サルモネ岬(岬アクラ・シデロスのこと)を迂回し、島の南岸にあるラサヤという町の近くの<良き港(カロイ・リメネス)>(現在のカリリメネスか?)に着きました。

   かなりの時がたっていて、<断食日>を過ぎていたので、海は荒れるので航海は危険でした。<断食日>はユダヤ教の「贖罪日」のための断食(レビ記23:26)で、太陽暦では九月末から十月初めにあたります。パウロはこの季節の航海を避けるように警告したが、百人隊長は、パウロより船長や船主を信用し、<良き港>は冬を過ごすのに適していなかったので、クレタ島から80キロ西にあるフェニクス港(現在のルートロか?)で冬を過ごすことに決めました。

   ときに南風が静かに吹いて来たので、人々は望みどおりに事が運ぶと考えて錨を上げ、クレタ島の岸に沿って」進みました(27章13節)。しかし、間もなく、島の海抜二千メートルを越す山々から吹き下ろす「エウラキロン」という北東から吹く暴風で、船は南西に流がされるままになりました。やがて、フェニクスの南四十キロの<カウダ(現在のガウドス)>という島かげに入ったとき、彼らは小舟を引き上げ、綱で船を船首から船尾まで縛りあげ、シルティス(リビアのシルト湾のこと)の浅瀬に乗り上がるのを恐れ、海(かい)錨(びょう)(防流錨(いかり))を降ろしたまま流れにまかせました。しかし、ひどい暴風に悩まされたので、翌日、人々は積み荷を海に捨て、三日目には船具も捨てました。幾日もの間、太陽も星も見えず、自分たちの位置も進路も確認できないまま、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消えうせようとしていました。
   その中でパウロは、次のように言って人々を励ましました。「元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。私が仕え、礼拝している神からの天使が昨夜私のそばに立って、こう言われました『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ』。ですから皆さん、元気を出しなさい。私は神を信じています。私に告げられたことは、そのとおりになります。わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです」。

   船は十四日間、アドリア海を漂流しました。真夜中ごろ船員たちは陸地が近いと推測し、水深を測ると、一度目は<二十オルギィア(36メートル)>、二度目は<十五オルギィア(27メートル)>でした。船が暗礁に乗り上がることを恐れて、船員たちは錨を船尾から四つ投げ込み、見えない岸にぶつからないようにしました。船員は夜明けを待って、船首から錨を降ろすふりをして、小舟を降ろし、船から逃亡しようとしました。パウロは百人隊長と兵士たちに、「あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助からない」と言ったので、兵士たちは小舟をつないでいた綱を断ち切って、小舟を流し、船員たちの逃亡を阻止しました。

   夜が明けたころ、パウロは一同に食事をするように勧めました。「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません(ルカ21:18)。」こう言って、パウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。そこで一同も元気づいて食事をしました。乗船者は全部で二百七十六人いました。食後、彼らが満腹した後、船にいた者たちは、座礁を防ぐため、穀物を海に投げ捨てて、船体を軽くしました。

   翌朝、砂浜のある入り江を見つけました。しかし、砂浜にたどり着く前に座礁してしまい、泳いで陸地に向かい、何とか全員が画無事に上陸することが出来ました。その陸地はマルタ島でした。マルタ島は、シチリア島の南端から95キロ離れたところにある、日本の淡路島の半分ほどの島です。クレタ島からマルタ島までおよそ870キロの距離をパウロたちは漂流したことになります。現在マルタ島の北西に聖パウロ湾があり、その入り口に聖パウロ島という小島があります。ここがパウロとその一行が漂着したところだと伝えられています。

 

     マルタ島のパウロ一行が上陸したとされる聖ペテロ湾内のパウロ島

  船乗りはもちろん、船に乗っていたすべての者たちが、「ついに助かる望みは全く消えうせようとしていた」とあります。他の乗客や船乗りたちが恐怖に駆られ、不安におびえていたとき、望みが無くなってしまうようなときにも、パウロは、なお望みを失うことはありませんでした。パウロは嵐の中でも平静さを失わず、絶望する人々を励まし、ついには全員の命を助けたのです。パウロの安心の根拠になったのは、「海も主のもの、それを造られたのは主。(詩編95:5)」とあうように、海の風と波とは、神の御手のうちにあるという信頼です。そして、自分の命が神の使命を担っており、「私はいつも共にいる」という主の言葉によるものでした。

     パウロ島に立つパウロ像

         マルタ島の地図:St.Paul's Bayがパウロ一行の上陸した海岸

   実はパウロが遭難したのは、これが初めてではありませんでした。第三回伝道旅行の際、マケドニアから書き送ったコリント第二の手紙の中で、パウロは自分がこれまで受けてきた苦難がどのようなものであるかを述べています。「難船したことが三度、一昼夜海上を漂ったこともありました(11 章25 節)」と記しています。しかし、ローマへの船旅で遭遇した遭難は、14日間にも及ぶ想像を絶する苦難でした。

   私たちの人生にとっても、嵐が訪れるときがあります。それは、自然災害や、さまざまな人災によるものや、いろいろの事情による場合があります。そのような場合、不安が心を支配して、夜も眠れなくなってしまったり、食事も喉を通らない日を過ごします。これから先、どうしたら立ちふさがる問題を乗り越えて行くことが出来るのか分からず、悩まれた経験をされた方々や、現在もそのような状況に置かれている人々も多いと思います。

   パウロは、苦難の嵐と漂流の中にあっても、「わたしはあなたと共にいる」という主の約束を信じました。パウロの平安の根拠は、神の約束を信じたときに与えられる聖霊の働きによるものでした。パウロは確信をもって大丈夫だと友を励ますことができたのです。私たちにとっても重要なのは、どのような状況の中に置かれても、「思い煩うのはやめて、求めているものを神に打ち明け」(フィリピ4:6)、祈ることです。主が共にいてくださり、必ず道を開いてくださることを信じ、状況に左右されない不動の信仰に立つことです。

 

 

 

 

 

 

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「パウロへのイエスの顕現」 使徒言行録26章12~23節

2013-09-01 19:45:19 | 礼拝説教

     

    

日本キリスト教富谷教会

聖霊降臨節第十五主日   2013年9月1日(日)

讃美歌(21) 214(わが魂(たま)のひかり)

交読詩編   67(神がわたしたちを憐れみ) 

聖 書  使徒言行録26章12~23節

説 教 「パウロへのイエスの顕現と召命」 辺見宗邦牧師

讃美歌(21) 536(み恵みを受けた今は)

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

12「こうして、私は祭司長たちから権限を委任されて、ダマスコへ向かったのですが、 13その途中、真昼のことです。王よ、私は天からの光を見たのです。それは太陽より明るく輝いて、私とまた同行していた者との周りを照らしました。 14私たちが皆地に倒れたとき、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う』と、私にヘブライ語で語りかける声を聞きました。 15私が、『主よ、あなたはどなたですか』と申しますと、主は言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。 16起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。 17わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。 18それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。』」

19「アグリッパ王よ、こういう次第で、私は天から示されたことに背かず、 20ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと伝えました。 21そのためにユダヤ人たちは、神殿の境内にいた私を捕らえて殺そうとしたのです。 22ところで、私は神からの助けを今日までいただいて、固く立ち、小さな者にも大きな者にも証しをしてきましたが、預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べていません。 23つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです。」

 本日の説教

 先週の説教では、パウロの第三回伝道旅行中、エフェソで起きた女神アルテミスを祭る神殿にまつわる騒動(使徒言行録19章)について話しました。このあと、パウロの一行はマケドニアに向かい、この地方をめぐり歩きました。フィリピ、テサロニケ、ベレアの諸教会を訪ねたのです。そしてギリシアに行きました。ギリシアは、当時アカイア州と呼ばれており、パウロはコリントの教会を訪ねたのです。パウロはコリントから、ローマの信徒への手紙を書き、「今は、もうこの地方に働く場所がなく、その上、何年も前からあなたがたのところに行きたいと切望していたので、イスパニアに行くとき、訪ねたいと思います」(ローマ16:24)と書き送っています。

 コリントで三か月を過ごしたのち、パウロはマケドニア州を通って、エルサレムに帰ることにし、フィリピから船出して、トロアス、ミレトスを経由して、シリア州に向けて海路を進み、ティルスに着き、さらに航海を続けてカイサリアで上陸しました。エルサレムに行けば獄につながれるということが何度も聖霊によって示されていましたが、パウロは、マケドニア州とアカイア州で集めた献金を届けるためにも、エルサレムに行くことが神様の御旨にかなうことであると信じて、エルサレムにやって来ました。ここで、第三回の伝道旅行は終了するのです。

 エルサレムで七日過ぎようとしていたとき、エルサレムの神殿で、アジア州から来たユダヤ人たちに捕えられたのです。パウロが、ユダヤ人しか入れない所に異邦人を連れ込んだという誤解が元で、騒動になりました。ユダヤ人たちは、パウロを神殿の外に連れ出して殺そうとしましたが、ローマから派遣されていた守備隊の千人隊長が駆けつけ、パウロを保護したのです。(21章7節~36節)

パウロ、民衆に向かって弁明し、自分の回心を話す パウロは民衆に向かって話すことを許されたとき、語ったパウロの回心が,22章に記されています。しかし、かえって人々の反感を煽るような結果になってしまいました。(22章1節~24節)

パウロ、最高法院で取り調べを受ける パウロがローマ帝国の市民であることを知った千人隊長は、祭司長たちと最高法院の議員たちを招集して、パウロの弁明を聞きました。パウロは、復活を認めるファリサイ派と復活を認めないサドカイ派の議員がいることを知って、「わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです」と語ったので、最高法院はファリサイ派とサドカイ派の議員による論争の場となり、とてもパウロを調べて判決を出せるような状態ではなくなりました。そこで、パウロは再び兵営に連れて行かれることになったのです。(22章25節~23章10節)

 そしてその日、パウロは神様から御言葉を与えられたのです。「その夜、主はパウロのそばに立って言われた。『勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。』」と言われたのです。(23章11節)

パウロ、総督フェリクスの前で弁明する 翌朝、パウロ暗殺の陰謀を知った千人隊長は、カイサリアの総督フェリクスのもとへ、パウロを護送しました。フェリクスは、ヘロデの官邸にパウロを留置しま その五日後、大祭司アナニア下ってきて、弁護士を通じて総督にパウロを告発しました。パウロはフェリクスの前で弁明しました。フェリクスは判決を出さず、裁判を延期し、何と二年もの間、この総督フェリクスのもとで、パウロは監禁されることとなったのです。(23章12節~24章26節)

 パウロ、総督フェストゥスの前で皇帝に上訴する 二年たって、フェリクスの後任者フェストゥスが着任し、パウロを裁判にかけると、パウロは皇帝の法廷での裁判を受けたいと上訴しました。(25章1節~12節)

 パウロ、アグリッパ王の前に引き出され、弁明する 数日後、アグリッパ王が、カイサリアにいるフェストゥスに表敬訪問を来ました。このアグリッパ王というのはヘロデ大王の孫に当たるアグリッパ一世の息子で、アグリッパ二世のことです。フェストゥスはアグリッパに、パウロの告発者たちは混乱しており、「彼らがパウロと言い争っている問題は、彼ら自身の迷信に関することと、死んでしまったイエスとかいう者のことだ。しかし、パウロはこのイエスが生きていると主張している」と告げたのです。フェストゥスはパウロの明確な罪状を見出すことが出来ないでいました。アグリッパは、「わたしも、その男の言うことを聞いてみたい」と言いました。パウロは謁見室に呼び出され、アグリッパ王とフェストゥスの前で弁明することになりました。パウロは王に向かって、今、自分が訴えられた理由は、イスラエルの希望について訴えられているのだと説明しました。この<希望>とは、復活の希望のことです。ファリサイ派の人々は神に祝福された聖人が復活するということなら信じていたようです。しかしその復活の信仰がナザレのイエスが復活したということになると、ユダヤ人たちはたちまちつまずいてしまうのです。そこで、パウロは自分自身の復活の主との出会いの体験を語るのです。

 パウロは、「神が死者を復活させてくださるということを、あなたがたはなぜ信じ難いとお考えになるのでしょうか。実は私自信も、あのナザレの人イエスの名に大いに反対すべきだと考えていました」と述べます。以前はユダヤ教を擁護するための迫害者であったことを語りました。(25章13~26章11節)

 パウロ、自分の回心と召命を語る(26章12~18節)  ここからが、本日の聖書の個所です。彼はダマスコ途上、天からの啓示をうけて、はじめてイエスの復活についての確信が与えられたのです。<啓示>とは、人間の側からはどうしても知り得ないことを、神の側から示してくださることです。パウロはその回心について、神が自分を選んで、「御子をわたしに示した」(ガラテヤ1:16)と語っている。パウロがここで自分の回心を語るのは、イエスの復活信仰を彼がどのようにして持つようになったかと説明している証しなのです。ファリサイ派のユダヤ教徒として持っていた復活の希望が、どのようにしてイエスの復活と結びつけられていったかの証明です。

使徒言行録にはパウロの回心は三回記されています。最初の9章1~19節においては、第三者の立場からの報告の形をとり、パウロがキリスト者たちを縛り上げるためにダマスコへの途上で、復活の主イエスと出会いの出来事が記されておりました。他の二回は、パウロ自身の口から語られる形になっています。22章6~16節では、エルサレム神殿の外で、ローマの兵隊に保護され兵営に連れて行かれる途中、殺してしまえと叫ぶ群衆に対してパウロは自分の回心の出来事を語り、主イエスが自分を異邦人伝道へ遣わされたことを語りました。そしてこの26章では、同胞のユダヤ人にではなく、ロ-マ帝国の代表者に向けられています。このような三回の記述は、この出来事の重要性を強調しています。このため、表現は異なり、回心物語は次第に短くなっていきます。26章では、パウロの目が見えなくなったことや、アナニアの援助にも言及がありません。

 

ダマスカス郊外、南西およそ15キロのカウカブ(星の意)の丘にある「主イエスがパウロに現れた」と言う場所にある記念会堂

 「こうして、私は祭司長たちから権限を委任されて、ダマスコへ向かった。」キリスト教の信徒たちを捕縛する権限を得て、ダマスコに向かったのです。ダマスコは、現在のシリア首都のダマスカスです。

「その途中、真昼のことです。王よ、私は天からの光を見たのです。それは太陽より明るく輝いて、私とまた同行していた者との周りを照らしました。」ここでは、真昼の太陽よりも、ひときわ明るく輝く強い光の記述があります。光は彼だけでなく、同行者たちの周りを照らしたとなっています。この光は、神の臨在を表す光です。サウル(後のパウロ)が光で地に倒れたことは 、突然の神の介入がここで起こったことを示しています。

他のところでは彼だけ倒れたが、ここでは「私たちが皆地に倒れた」とあります。

「そのとき、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。』「私が、『主よ、あなたはどなたですか』と申しますと、主は言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。』」

今、自分の前に現れてくださった方は、復活のイエスだ。この方は神様だと悟ったに違いありません。イエスこそ、旧約聖書に預言されている、人の罪を負う苦難の僕であるとわかったのです。ここにパウロは、深い愛をもって呼びかけてくださる主イエスとの決定的な出会いを経験したのです。

パウロの聞いた声は、「とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う」という記述を除けば、前に記述と同じです。この表現は、牛を仕事に追いやる時にとげのあるむちを使った当時の農業生活かきたもので、「私に反対することは無意味で、不可能である」という格言です。パウロがキリストの力に抵抗できないことを示しています。「なぜ、わたしを迫害するのか」のキリストの問いは、復活のキリストと彼の弟子たちとの密接な関係を強調しています。主人に従う者を迫害することは、主人を迫害することなのです。パウロは、「主よ、あなたはどなたですか」と、自分が迫害している「わたし」が誰なのか知ろうとします。

 そしてここには、復活者イエスの派遣が語られています。

主は、パウロに、「起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。」(26章16節)と言われました。

 主がパウロに「現れた」のは、第一に、よみがえりのキリストに出会った証しをすること、第二に、キリストによって示されたことを伝えること、第三に、そうすることによって、人々がイエスを信じ、神のみもとに帰るようにするためでした。パウロの弁明は、いつも神に助けられて、その使命を忠実に果たしてきたという主張をもって終わります。パウロは、信仰深いイスラエルがいつも宣言してきたことのみを語ってきたのであり、無罪であり、死刑宣告には値しない問題であることを明らかにしたのです。パウロの弁明は、ただ自分の体験したことを語ったのではなく、何とかして王に救い主を迎え入れてもらいたいという気持ちがこめられていました。

パウロの回心は紀元33年頃(誕生が紀元10年頃)とすると、彼が20代前半頃と推定されます。それは主イエス(十字架の死は紀元30年頃)の死後3年後のことです。ダマスコ途上のパウロの身に起こった出来事は、一般に回心と言われていますが、パウロへの「主イエスの顕現」であり、召命でした。それ以後彼の四十年近い人生(パウロの殉教は60年頃)は、もっぱらこの神からの召命に応えるために用いられました。この主イエスの顕現により、復活と主との出会いを体験したパウロは、「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」(フィリピ3:8)と言っています。このような価値観の大転換を体験したことは、「回心」といってもよい衝撃的な出来事でした。パウロは「わたしは・・わたしたちの主イエスを見たではないか」(コリント一、9:1)と言っていますが、復活のイエスを肉眼で見たという幻視体験の意味ではなく、それは聖霊による霊的な体験であり、心のなかで起こった精神的な出来事を、肉眼で見たかのように表現したものと思われます。

私たちは、キリストの弟子たちが、昇天する前の復活の主を見ることが出来たように、主に出会うことはできません。しかし、パウロに主イエスが現れたように、主イエスの御臨在を経験することができるのです。必ずしも劇的な霊的体験でなくとも、活ける復活の主との霊的な交わりの恵みを覚え、復活の主を証ししていくことはできるのです。

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