富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「神と格闘するヤコブ」 創世記32章23 ~33節

2013-10-27 23:03:33 | 礼拝説教

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403  日本キリスト教 富 谷 教 会

年間標語「何事も祈って歩む、一年を送ろう」

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」フィリピ4:6

 週  報 

聖霊降臨節第二十三主日  2013年10月27日(日)  5時~5時50分 

礼 拝 順 序  

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 492(み神をたたえる心こそは)

交読詩編   62() 

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書  創世記32章23   ~33節

説 教 「神と格闘するヤコブ」  辺見宗邦牧師

讃美歌(21) 457(神はわが力)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷

後 奏

 次週礼拝 2013年11月3日(日)午後5時~5時50分

聖書  創世記35章1-15節

説教  「再びベテルに上るヤコブ」

交読詩編 46 讃美歌529 457  27

本日の聖書 創世記3223~33

 32:23その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。 32:24皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、 32:25ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。 32:26ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。 32:27「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」 32:28「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、 32:29その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」 32:30「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。 32:31ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。 32:32ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。 32:33こういうわけで、イスラエルの人々は今でも腿の関節の上にある腰の筋を食べない。かの人がヤコブの腿の関節、つまり腰の筋のところを打ったからである。

本日の説教 「神と格闘するヤコブ」  辺見宗邦牧師

 先週の礼拝では、ヤコブが住み慣れたベエル・シェバから、パダン・アラム(アラム人の住む平地)のハランに住む、母の実家の兄、ヤコブにとって伯父にあたるラバンのもとに、出立し、途中荒野の中で夜を迎え、石を枕にして寝たときに、神様が現れ、ヤコブを祝福することを約束してくださったのです。『わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない』」(28章13~15節)

 翌朝、ヤコブは枕にしていた石を記念碑として立て、その場所をベテル(神の家)と名付けたお話しをいたしました。

 父イサクが、祖父アブラハムから受け継いだ神様の祝福を、長男のエサウが受けるべきであったのを、ヤコブが母の策略もあって、父をだまして、自分のものに横取りしてしまったことにより、兄エサウを怒らせ、自分の命を狙われるようになり、母の故郷に、表向きは嫁探しの目的で、亡命したのです。

 ヤコブはこのハランで20年間、叔父であるラバンの家に留まりました。そしてラバンの二人の娘、レアとラケルを妻にし、また二人の側女(そばめ)も妻とし、十一人の息子たちと多くの家畜を持つ者となりました。夢の中で、ヤコブに神のお告げがあり、「ヤコブよ、・・ラバンのあなたに対する仕打ちは、すべてわたしには分かっている。わたしはベテルの神である。かつてあなたは、そこに記念碑を立てて油を注ぎ、わたしに誓願を立てたではないか。さあ、今すぐこの土地を出て、あなたの故郷に帰りなさい(21:11-13)」と言われました。

 ヤコブは、妻たちラケルとレアの同意もあり、すべての財産を持って逃げ出し、川を渡りギレアドの山地へ向かいました。ヤコブが逃げたことを、三日目に知ったラバンは、一族を率いて七日の道のりを追いかけて行き、ギレアドヤコブに追いつきました。ラバンはヤコブになぜ、こっそり逃げ出したりして、わたしをだましたのか」と問いました。それに対してヤコブは次のように答えています。

 「この二十年間というもの、わたしはあなたの家で過ごしましたが、そのうち十四年はあなたの二人の娘のため、六年はあなたの家畜の群れのために働きました。しかも、あなたはわたしの報酬を十回も変えました」(31:41)と訴えています。ヤコブはラバンの娘たちを大事にすることを誓い和解が成立し、ラバンは自分の家へ帰って行きました。

 ヤコブが旅を続けていると、神の御使いたちが現れて、ヤコブを力づけました。ヤコブは彼らを見て、「ここは神の陣営だ」と言い、その場所をマハナイム(二組の陣営)と名付けました。ヤコブを守る神の陣営とヤコブの陣営と二つになって前進できるという勇気を与えられたのです。ヤコブは兄エサウがヤコブに対してどのような思いを抱いているのか気がかりでした。はたして20年の歳月によって忘れてくれているのでしょうか。ヤコブはそのことを確かめるために、あらかじめ、セイル地方、すなわちエドムの野にいる兄エサウのもとに使いの者を遣わし、こう言うように命じました。『あなたの僕ヤコブはこう申しております。わたしはラバンのもとに滞在し今日に至りましたが、牛、ろば、羊、男女の奴隷を所有するようになりました。そこで、使いの者を御主人様のもとに送って御報告し、御機嫌をお伺いいたします。』」。

 しかし使いの者が帰って来てもたらした知らせはヤコブにとって最悪なものでした。ヤコブが帰ってきたことを報告し、兄の機嫌を伺いました。使いの者が帰って来て、「兄上様の方でも、あなたを迎えるため、四百人のお供を連れてこちらへおいでになる途中でございます」とヤコブに報告したのです。

 この「迎える」は「歓迎する」という意味ではなくて、むしろ「迎え撃つ」という意味です。エサウのヤコブに対する憎しみは、20年経った今も少しも和らいではいないのです。ヤコブは非常に恐れ、思い悩みました。ヤコブは連れてきた人々と家畜を二組に分けました。エサウが攻撃を仕掛けても、どちらかの組みが助かるようにしました。そして祈りました。

 「わたしの父アブラハムの神、わたしの父イサクの神、主よ、あなたはわたしにこう言われました。『あなたは生まれ故郷に帰りなさい。わたしはあなたに幸いを与える』と。わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。かつてわたしは、一本の杖を頼りにこのヨルダン川を渡りましたが、今は二組の陣営を持つまでになりました。どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかも知れません。」(32:10-13)。その夜、ヤコブはそこに野宿して自分の持ち物の家畜の中から兄エサウへの贈り物を選びました。五つの動物の群れに分け、それを召し使いたちの手に渡し、一番目から順に、それぞれ距離をおいて、エサウに贈り物として届ける作戦を立てました。贈り物を先に行かせて兄をなだめ、その後で顔を合わせれば、恐らく快く迎えてくえるだろうと思ったのです。

 その夜、ヤコブ自身は野営地にとどまり、その夜ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡りました。皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、ヤコブは独り後に残りました。

 添付した地図に、ヨルダン川の支流で、東から西へと流れているヤボク川があります。その川に北岸に「ペヌエル」という地名があります。そこが「ヤボクの渡し」です。ヤコブはこの川を北から南へと渡ったのではなく、南から北へ渡ったのです。何故なら、ヤコブはヤボク川を渡ってから独り残り、そこで神の使いと格闘し、そこを「ペヌエル」と名付けているからです。また、ヤボク川を渡る前の名付けたマハナイムも、ヤボク川の南に位置しているからです。このあとヤコブ一行が向かうスコト(33:17)もヤボク川の北にあります。恐らくギレアド地方からヤボク川の上流の方を渡って南下し、マハナイムに至り、そこから北上するかたちで、ヤボク川を渡り、スコトに向かったものと推察されるのです。日本聖書協会発行「聖書新共同訳」準拠聖書地図バイブルアトラス、図37に、紀元前3千紀始めにまでさかのぼることのできる幹線交通路の地図によると、なんとマハナイムからヤボク川に向かう道路が書かれているではありませんか。ヤコブのたどった道を、添付の地図に太い赤線で示しました。

 以下のフランシスコ会聖書研究所も同じ見解を述べています。

[フランシスコ会聖書研究所、創世記3(フランシスコ会訳32章でも同じような見解を述べています。本章の地理的説明はいろいろあるとしたうえで、次のように述べています。「まずガルエドとミツパ(31:47 49)が、ヤボク川の北ではなく南であり,ヤコブがすでにその上流を渡っていることにし、そしてマハナイムがヤッボク川の南方にあってペヌエルが北岸ということにしている。このほうが適当と思われる。この見解によれば、ヤコブがふたたび川を渡って北岸にもどり、次に西に進んでスッコト(ヤッボク川の北方でヨルダン川に近い)、シェケムに向かったことになる(33:17-19)。ヤコブとエサウの実際の会合はヤッボク川の北方、ヨルダン川の近くで行われたのかもしれない(11節)。]

 ヤコブは、兄エサウの襲撃に備えて、夜中に妻や子供たちを連れて、安全な場所に導くために川をわたらせてから、何故独り後に残ったのでしょうか。神の加護を祈り求めるためであったと思います。ヤコブはマハナイムの出来事のあと、神に、「どうか、兄エサウの手から救ってください」と祈りました。しかしまだ神の答えを聞いていませんでした。まだ不安が消えていなかったのです。

 「そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した」とあります。「何者かが」とありますが、ホセア書12章4、5節に次のような説明があります。「ヤコブは・・力を尽くして神と争った。神の使いと争って勝ち、泣いて恵みを乞うた」とあります。「何者か」は「神の使い」であり、「神」であると説明しています。ヤコブもこの格闘のあとで「わたしは顔と顔とを合わせて神を見た」と言っているので、「何者か」は神ご自身だったことが分かります。

 恐れからの救いを求めるヤコブに対して、助けを与えるために「神の使い」を遣わされました。ヤコブに平安を与えるために、ヤコブの自己中心な我(が)をくだかなければなりません。賛美歌21の529番の歌詞に、「我が剣(つるぎ)(やいば)をくだきたまえ、さらばわが仇に打ち勝つをえん」とあるように、傲慢な自分が砕かれることによって、最大の仇である自分自身に勝ち、神の恵みにあずかることができるのです。「神の使い」は、ヤコブに恵みを与えるために、自分の計略に頼ろうとする傲慢なヤコブを砕こうとしてヤコブと格闘したのです。

「ところが、その人ヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿(もも)の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた」とあります。

神の力は、人間が謙虚になり、弱いところに働きます。しかし、ヤコブの自我があまりにも強く、しがみついてくるので、そのままではヤコブをどうすることもできないことを、神の使いは「勝てない」とみたのです。

「腿の関節」とは「股関節(太ももの付け根)」のことです。 身体的に人間を支えている重要な部分です。その部分打つことによって関節がはずれると、自分の力では戦うことができず、弱い者にされたことを意味します。ヤコブがここで経験したものは祈りの格闘でした。ヤコブの祈りに神が答えられ、自分の計略や力に頼るヤコブの腿の関節を外して、ヤコブを無力な者にされ、自分ではなく、神に頼る者にされたのです。

 「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」

 腿の関節をはずされて弱くされたヤコブは、今度は「その人」に、「祝福してくださるまでは離しません」としがみつきます。ヤコブはなんとか祝福を得ようとしてしがみついているのです。

 「ある人」はヤコブに言います。「お前の名は何というのか。」その問いにヤコブは、自分を「ヤコブ」と答えたのです。生まれから今日まで、「人を押しのける者」として、自己中心的な本性をもつ罪深い者、今腿の関節がはずれ、弱い者とされ、神に頼るほかない自分をさらけだして、「ヤコブ」ですと答えたのです。

 その人は、「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ」と宣言されたのです。

 ヤコブという名前は、出生のとき、兄の<かかと「アケブ」>をつかんでいたことから、「かかと」という意味のことばの原語「アケブ」にちなんで「ヤコブ」と命名されました。また、創世記27章36節では、兄の足を<引っ張り「アーカブ」>欺いたことからも、「ヤコブ」の名前が説明されています。ヤコブは、名が示すように「人を出し抜き、人を押しのける」者でした。しかし、今「お前の名はもうヤコブではない」と言われ、古い罪の自分を脱して新しい名が与えられたのです。

「これからはイスラエルと呼ばれる。」ヤコブの個人名がイスラエル」となります。この名は後に神の民の名となります。

 「イスラエルיִשְׂרָאֵל」という語は、יִ(イ:あなたは)、שְׂרָ(スラー:争った)、אֵל(エル:神に)という三つ語からなっています。「あなたは神と争った」という意味になります。このשְׂרָ(スラー)が、色々な言葉に翻訳されています。「神が支配した」とする解釈もあるのです。

 創世記32章29節では、その変化した語のתשָׂרִ֧י(サリータ)を「闘った」と訳しています。ホセア書12章4節ではיָּשַׂר(ヤーサール)という語が、「彼は争った」と訳しています。これらの語根は、  で、「やり抜く」「争う」という意味です。この語は、ホセア書12章5節で使われていて、שָׂרָה(サーラー)「争った」と訳されています。これらのことから、「יִשְׂרָאֵל(イスラエル)」は、「神と争う(神と争った)」という意味である、と結論することができます。

 「イスラエル」の意味について、いろいろな聖書が以下のように述べています。

①   岩波訳 「神は闘う」

②   フランシスコ会訳 「神と争う」。「神は聞く」を意味する「イシュマエル」の場合と同じと解釈する。

③   中沢訳「神に挑む」。原語を「サラー・エロヒム」に由来する民間語源的説明によるとしています。つまり、「おまえは神と人に勝負を挑んで勝ったから」と訳す。

④   関根訳(中沢訳と似ています) 「君は神と人とに戦を挑(サーラー)んで勝ったからだ」。「サーラー」שָׂרָהは、争う、戦う、もがく、あがく、といった意味である。

⑤   新改訳 「あなたは神と戦い、人と戦って勝った」

⑥   新共同訳 「お前は神と人と闘って勝った」

 以上①~⑥は、日本バプテスト連盟篠崎キリスト教会「旧約聖書の学び」から転写。

 ヤコブは古い罪の自分を脱して、イスラエル「神と争う者」という新しい名が与えられました。「争う」という言葉は、必死になって、神と取り組み、祈り求めることを言っているのです。

 「お前は神と人と闘って勝ったからだ。」

神に勝つというのは、どういうことでしょうか。ヤコブは必死になって神様の祝福を求めました。そして神様は、そのヤコブに祝福を与えるために、負けることをいとわれなかったのです。そして祝福を与えることによって勝利を手にする神様なのです。ヤコブの罪を赦し、祝福して下さり、新しいヤコブ、すなわちイスラエルとして生きるようにしてくださったのです。

それでは、「人」とも闘って勝った、ということはどいうことなのでしょう。ヤコブは兄と争い、伯父ラバンと争い、欲しいものを自分のものにしてきました。その結果は、ラバンに追跡され、今兄エサウの襲撃を恐れ、不安になり、救いをもとめて神の前に立っているのです。「人」にも勝ったとは、そのようなヤコブを神は祝福し、ラバンとの和解を与えられたように、エサウとの和解もあたえられる、ということではないでしょうか。ヤコブは祈りの末に神の祝福を与えられて、人(兄)をも恐れない者に変えられました。これが「人にも闘って勝った」ということなのではないでしょうか。

 「どうかあなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福しました。神がその名をここで告げなかったのは、神と人間は、対等と関係ではないことを知らせるためだったと思われます。

 ヤコブは、『わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている』と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けました。「ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った」とあります。夜が過ぎ、ヤコブの上に太陽が昇ったのです。朝日がヤコブを照らします。ヤコブは腿を痛めて足を引きずりました。しかし、その痛めた足は神様との生ける交わりの証しでありました。

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「石を枕にして寝たヤコブに現れた神」創世記28章1 -22節 

2013-10-23 21:10:38 | 礼拝説教

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

 日本キリスト教 富 谷 教 会

年間標語「何事も祈って歩む、一年を送ろう」

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」フィリピ4:6

 週  報 

聖霊降臨節第二十二主日  2013年10月20日(日)  5時~5時50分 

礼 拝 順 序  

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 214(わが魂のひかり)

交読詩編  139(主よ、あなたはわたしを究(きわ)め) 

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書  創世記28章1   -22節

説 教 「石を枕にして寝たヤコブに現れた神」 辺見宗邦牧師

讃美歌(21) 434(主よ、みもとに)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷

後 奏

次週礼拝 2013年10月27日(日)午後5時~5時50分

聖書  創世記32章23-33節

説教  「神の使いとの格闘」

交読詩編 62 讃美歌 492 453 27

本日の聖書 創世記28章1-22節

 1イサクはヤコブを呼び寄せて祝福して、命じた。「お前はカナンの娘の中から妻を迎えてはいけない。 2ここをたって、パダン・アラムのベトエルおじいさんの家に行き、そこでラバン伯父さんの娘の中から結婚相手を見つけなさい。 3どうか、全能の神がお前を祝福して繁栄させ、お前を増やして多くの民の群れとしてくださるように。 4どうか、アブラハムの祝福がお前とその子孫に及び、神がアブラハムに与えられた土地、お前が寄留しているこの土地を受け継ぐことができるように。」

 5ヤコブはイサクに送り出されて、パダン・アラムのラバンの所へ旅立った。ラバンはアラム人ベトエルの息子で、ヤコブとエサウの母リベカの兄であった。

 6エサウは、イサクがヤコブを祝福し、パダン・アラムへ送り出し、そこから妻を迎えさせようとしたこと、しかも彼を祝福したとき、「カナンの娘の中から妻を迎えてはいけない」と命じたこと、 7そして、ヤコブが父と母の命令に従ってパダン・アラムへ旅立ったことなどを知った。 8エサウは、カナンの娘たちが父イサクの気に入らないことを知って、 9イシュマエルのところへ行き、既にいる妻のほかにもう一人、アブラハムの息子イシュマエルの娘で、ネバヨトの妹に当たるマハラトを妻とした。

 10ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。 11とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。 12すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。 13見よ、主が傍らに立って言われた。

 「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。 14あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。 15見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」

 16ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」 17そして、恐れおののいて言った。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」

 18ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、 19その場所をベテル(神の家)と名付けた。ちなみに、その町の名はかつてルズと呼ばれていた。20ヤコブはまた、誓願を立てて言った。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、 21無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、 22わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」

 本日の説教

 エサウとヤコブの誕生は、創世記25章19節以下に記されていますが、二人は双子の兄弟でした。先に生まれた子は赤かったのでエサウと名付けられ、後から生まれた子は、兄のかかと(アケブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けられました。この二人は性格の違う兄弟でした。その違いは25章27節に語られています。エサウは「巧みな狩人で野の人」だったのに対して、ヤコブは「穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした」とあります。ヤコブは、兄のかかとをつかんで生まれてきたように、人を押しのける狡猾な人だったようです。父イサクはエサウを愛しました。狩りの獲物が好物だったからでした。母リベカはヤコブを愛しました。親の偏愛を受けて二人は育ちました。

 この双子の兄弟の内、どちらが父イサクの跡取りとなるかが、彼らの家の問題でした。父は、兄のエサウを跡取りしようと考えていました。しかし、25章の終わりに語られているように、ヤコブは、腹のすいたエサウから、一杯の煮物と引き替えに、長男としての権利を自分のものにしました。しかし、誰が跡取りとなるかは、父イサクが誰に祝福を与えるかにかかっていました。27章には、老い先短いことを意識したイサクが、エサウに祝福を与えようとしたことが語られています。ところが、ヤコブを気に入っていた母リベカが、イサクの目がかすんでよく見えないのをいいことに、ヤコブにエサウの着物を着せ、エサウになりすまさせて、父イサクの祝福を代わって受けさせてしまったのです。ヤコブはこうして、長男としての権利を奪っただけでなく、エサウに与えられるはずだった祝福をも奪い取ってしまったのです。この出来事によってエサウとヤコブの間の確執が深刻になりました。27章41節にこうあります。「エサウは、父がヤコブを祝福したことを根に持って、ヤコブを憎むようになった。そして、心の中で言った。『父の喪の日も遠くない。そのときがきたら、必ず弟のヤコブを殺してやる』」。エサウはヤコブに殺意を抱くようになったのです。それを察知したリベカは、ヤコブを守るために彼をハランへと旅立たせることにするのです。その口実は、ハランにいるリベカの兄ラバンの娘を嫁に迎えるためということでした。リベカは夫に、ヤコブを嫁取りのために旅立たせようと提案しました。リベカは、「わたしは、ヘト人の娘たちのことで、生きているのが嫌になりました。もしヤコブまでも、この土地の娘の中からあんなヘト人の娘をめとったら、わたしは生きているかいがありません(27:46)」と夫に告げました。ヘト人とはアブラハムに墓地と畑を、法外な値段で売った人たちです。偶像崇拝と不品行で有名な宗教を信仰する民です。エサウがヘト人の娘を妻として迎えたため、彼女たちが、イサクとリベカにとって悩みの種となっていました(26:34,35)。リベカは、アブラハムの神、ナホルの神への信仰のもとで育ったヤコブの伯父ラバンの娘とヤコブを結婚させようとしたのです。 

 ヤコブは父イサクをも騙したが、父はこれを赦し、祝福して送り出しました。こうしてヤコブは、ベエル・シェバの父の家かパダン・アラムのラバンの所へ旅立ちました。パダン・アラムはアラム人(古代シリヤ北部に住む民族)の平地の意味で、ベエル・シェバから800キロもある、徒歩で一か月を要する遠い地です。今日のシリヤの国境を越えたトルコの地です。ラバンはアラム人ベトエルの息子で、ヤコブとエサウの母リベカの兄です。この旅は、兄エサウの憎しみ、殺意を逃れての逃亡の旅です。 

 ベエル・シェバを立ったヤコブは、後にベテルと呼ばれる場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜の過ごすことにしました。ベエル・シェバはパレスチナ南部の町であり、ヤコブの父イサクがそこに井戸を掘り当てて家族と共に住んでいた所です。この町の名前の起原が26章33節にあります。ヤコブにとってここは父の家、故郷なのです。しかし今ヤコブはその故郷を離れて、シリアのはるか北方、ユーフラテス川の上流にあるハランへと旅をしているのです。これまでの生活は、家督相続の争い、兄弟との不和、人間的な争いに満ちていました。表向きは嫁探しの旅ですが、実は逃亡の旅でした。人里離れた誰もいない夜空の下で、石を枕にして寝るヤコブの姿は哀れです。このヤコブの姿は、人間関係における破れと挫折に苦しむ人間の姿です。この時のヤコブの心境はどのようなものだったでしょうか。その心境について、次のようなことがあげられます。

 第一に、孤独になっている時です。愛する家族から離れ、一人で自分の生涯を切り開いていかなければならない状況に置かれたヤコブは、石を枕として寝ながら、身にしみて孤独を感じたことでしょう。

 第二に、自分の失敗や過ちに直面している時です。神様の祝福を求めるあまりに、兄の心を踏みにじるようなことをしたヤコブは、石を枕にしながら自分のしでかしたあやまちを反省したに違いありません。

 第三に、将来に対して不安を覚えている時です。自分の生涯がこれからどのようになるのか、何とも言えない不安を覚えたのではないでしょうか。

 私たちも、生涯の中で、このような経験をすることがあります。しかし、神様はそのような中で特別な恵みを備えておられるのです。そのような最も落ち込んだ時、神様が特別な恵みを与えてくださるのです。

 ヤコブは夢をみました。それは夢という手段を用いて、神様がヤコブと出会われたという出来事でした。神様は、石を枕として寝たヤコブに、どのような恵を与えられたでしょうか。

 第一に、彼は天の幻を示されました。「先端が天にまで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりして」いました。ヤコブがここで見た夢は、古代メソポタミヤ地方での神殿であるジグラッドの階段のようなものです。ジグラッドと言うのは、高さは20メートルにも達する巨大な建造物で、その上に神殿があります。その階段を天使が上り下りしているのをヤコブは夢で見たのではないかと思われます。前の口語訳聖書ではこの「階段」は「はしご」となっていました。「ヤコブのはしご」という言葉がここから生まれました。旧賛美歌320番「主よみもとに近づかん」の3節では「かよう梯(ばし)(梯子)の上より」とあり、賛美歌21に434番では、「天よりとどくかけはし(架け橋)」とあります。この階段は地上から天に上っていく階段ではなく、神の住む天から地に下ろされた階段です。この階段は、天と地とをつなぐものです。神様の世界と人間の世界とをつなぐ架け橋がここにある、ということを、ヤコブはこの夢において体験しました。ヤコブはこの夢で、自分がいるこの場所が神様の御臨在される所であることを知らされたのです。

 ヤコブは、アブラハム・イサクと続いた神様の祝福を、父から受けながら、約束の地を負われた身でした。ヤコブはもう自分には神様の祝福はもうないのではないかとさえ思ったことでしょう。しかし、そのようなヤコブに対して、神様は夢を見せ、語りかけてくださったのです。

 ヨハネによる福音書1章51節に語られています。「更に言われた。『はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる』」。「神の天使たちが昇り降りするのを見る」、これはまさにヤコブがあの夢で見たことです。「人の子の上に」とあります。「人の子」とは主イエス・キリストのことです。ヤコブが見たあの階段は、主イエスを指し示しているのです。主イエスが天と地の、神様と私たちの間の架け橋です。

 第二に、ヤコブは主なる神のご臨在と神が語りかけてくださったみ声を聞きました。「見よ、主が傍らに立って言われた。『わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。』」神様からも見放されているという思いがあったヤコブに神が現れ、語りかけて下さったのです。そして、カナンの土地を与えるという約束を神様からいただいたのです。「あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。また、あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなって世界に広まり、地上の氏族はすべてあなたとあなたの子孫とによって祝福に入る。」
 第三に、神が共にいて下さり、守って下さるという約束を与えてくださったのです。「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこに行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの地へ連れ帰る。」

 ヤコブは眠りから覚めて言いました。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」ヤコブの見た夢は正夢でした。神は、夢をとおして、ヤコブに語りかけてくださったのです。神からも人からも遠く離れていると思っていた野外のヤコブに、神が現れてくださったのです。

 ヤコブは朝早く起きると、自分がまくらにした石を立てて、油を注いで聖別しました。その所の名をベテル(「神の家」の意)と名付けました。神がこれからもヤコブと共にいてくださるなら、この地を礼拝の場所とし、必ず収入の十分の一をささげると約束し、請願を立てたのです。

 ヤコブにとって、体を横たえたルズの荒野は、「神の家」「天の門」となりました。私たちにも、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」ということがあります。私はそれを、入院中の病室で経験しました。その経験については、このブログの記事、「証し『神の力は弱さのなかで発揮される』」で公開発表しています。

主イエスがこの地上にこられて救いのみ業を完成してくださったことにより、地上のすべての場所がベテルとなりました。神は地上のどこにでも偏在され、支配されておられるのです。私たちが神から最も遠く離れたとこに置かれていると思えるような所、最も落ち込み気落ちしているときにも、私たちが最も弱い、貧しい状態にあるときにも、主イエスは共にいてくださり、力を与え、祝福してくださるのです。

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「アブラハムの信仰」 創世記15章1 -6節

2013-10-14 18:06:16 | 礼拝説教

 〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 

  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

 日本キリスト教 富 谷 教 会

年間標語「何事も祈って歩む、一年を送ろう」

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、

感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」フィリピ4:6

 週  報 

聖霊降臨節第二十一主日  2013年10月13日(日)  5時~5時50分 

礼 拝 順 序  

                司会 永井 慎一兄

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 464(ほめたたえよう)

交読詩編   86(主よ、わたしに耳を傾け) 

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書  創世記15章1   -6節

説 教  「アブラハムの信仰」 辺見宗邦牧師

讃美歌(21) 227(主の真理(まこと)は)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷

後 奏

次週礼拝 2013年10月20日(日)午後5時~5時50分

聖書  創世記28章10-22節

説教  「ヤコブの夢」

交読詩編 139 讃美歌214  434 27

 

本日の聖書 創世記15章1-6節

1これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」 2アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」 3アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」 4見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」 5主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」 6アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

 

本日の説教

 15:1節に、「これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。『アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。』」とあります。

「これらの出来事」とは14章に記されている出来事です。アブラムはアブラハムの改名する前の名前です。14章に記されていることを簡略にお話しいたします。

14章の1節に出てくる、シンアルの王、エラサルの王、エラムの王、ゴイムの王の四人の王からなるメソポタミアの連合軍がパレスチナ(カナン)に攻めてきたのです。

この連合軍は、チグリス・ユーフラテス川流域からトルコに至る広大な諸国からなる連合軍でした。<シンアル>はバビロニアのことです。<エラム>はバビロニアの東に位置する国です。エラサルはユーフラテス東岸の町です。ゴイムはヒッタイトの国(現在のトルコ共和国)です。 

         赤線を引いた地名は、創世記14章に出てくる地名です。古代のパレスチナとカナンの地図です。

    当時、カナンの地は、エラムのケドルラオメル王に支配されていました。カナンの五つの都市の王たちが,

             赤線を引いた地名は、創世記14章、15章に出てくる地名です。

盟を結んで反乱を起こしました。カナンの五つの都市の王たちとは、ソドムの王、ゴモラの王、アドマの王、ツェポイムの王、ツォアルの王です。これらの王の都市は、死海を中心とする都市で、そのうち、ソドム・ゴモラ、ツォアルは死海の南端にある都市です。ソドムの王を中心とした五つの都市の王達はシディムの谷(死海の南)で同盟を結びました。カナンには中央政府がなく、これらの諸都市が王国であり、弱小国でした。

  圧倒的な勢力を誇るエラムの王ケドルラオメルの連合軍は、カナンの同盟軍を包囲するように、ヨルダン川の東側の諸都市を制圧しながら南下してきました。以下は彼らが制圧した諸都市の説明です。      

 

     有澤慎一牧師解説:聖書研究会資料(12)創世記12章1節~20節より転写。

[5節「アシュテロト・カルナイム」はガリラヤ湖の東35キロ、バシャンの王オグの首都です。

「ハム」はアンモン人の首都ラバテ・アンモンの古名です。「レファイム人」「ズジム人」はヨルダン東部に住んでいた巨人族です。バシャンの王オグはレファイムの生き残りです。(申命記3章11節)

「シャベ・キルヤタイム」はアルノン川の北18キロにあったモアブの町です。

「エミム人」は「恐ろしい人」という意味です。
6節の「フリ人」は死海の南「セイルの山地」に住む人々でエドム人に駆逐されます。

「エル・パラン」はアカバ湾頭のエイラトです。
7節の「エン・ミシュパト」はエイラトの北西の高地にあるカデシュ・バルネヤのことです。

「アマレク人」は出エジプト時代にカデシュ・バルネヤ付近に住んでいたイスラエルの強敵で(出エジプト記17章8節)、エサウの子孫の一族です。(創世記36章12節)

「ハツェツォン・タマル」は死海の西岸にあるエン・ゲディの古名です。タマルとは戦勝のしるしであるなつめやしのことです。

「アモリ人」は創世記15章21節のカナンの先住民のリストに載っています。]

   その同盟軍の鎮圧のために、エラムのケドルラオメル王を長とするメソポタミアの四人の王たちがカナンに攻めてきたのです。

 ケドルラオメルの連合軍は、アカバ湾に近いエル・パランまで進み、そこから転進して、シナイ半島北部のカデシュに向かい、ハツェフォン・タマルに住むアモリ人を撃ち、死海方面に北上したのです。そして、シディムの谷で、ソドムの同盟軍の五人の王と対戦しました。

この戦いで、ソドムの同盟軍は敗北し、ソドムとゴモラの王も、また残りの王も敗走しました。ソドムとゴモラの財産や食料はすべて奪い去られ、ソドムに住んでいたアブラハムの甥ロトも、財産もろとも連れ去られました。

 ひとりの逃亡者が、アブラムのところに来て、そのことを告げました。当時、アブラハムはヘブロンのアモリ人マムレの樫の木の傍らに住んでいました。この知らせを聞き、甥ロトを取り戻すために、自分の家で生まれたしもべと、よく訓練された者達三百十八人を引き連れてダンまで敵を追撃しました。彼らは夜、二手の分かれて敵を奇襲し、ダマスコの北のホバまで追跡しました。そしてアブラムはソドムとゴモラから奪われたすべてのものを取り戻しました。

戦いに勝利して帰還したアブラハムを、サレムの祭司でもある王メルキゼデクが、エルサレムの近い「王の谷」で迎えました。「サレム」とはエルサレムのことです。メルキゼデクはアブラムに「パンとぶどう酒」を持って来て、アブラハムを祝福しました。アブラハムは、返礼として戦利品の十分の一の贈り物をささげました。

ソドムの王もアブラハムを出迎え、こう言いました。「人はわたしにお返しください。しかし、財産はお取りください。」しかし、アブラハムは、「あなたの物は、たとえ糸一筋、靴ひも一本でも、決していただきません。『アブラムを裕福にしたのは、この私だ』とあなたに言われたくありません」と言って断りました。神さまからいただく祝福の方を大切にしたのです。

ここまでが、14章に記されていた出来事です。15章1節の「これらのことの後で」とは、以上のような出来事を指しています。

主なる神の啓示がアブラハムにありました。敵・連合軍の報復に対する恐れと不安の状態にあったアブラムに、神は「恐れるな、アブラハムよ。わたしはあなたの盾である」と言って、アブラハムを保護することを約束されました。主御自身が彼の盾となって彼を守ってくださるので、決して恐れることはないと言われたのです。

そして、「あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」と約束されました。ソドムの王からの報酬を断ったアブラハムへの慰めの言葉です。

アブラハムは、「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」と尋ねました。アブラハムの妻サラは不妊でした。たとえ報いが非常に大きくともそれを受け継ぐのは自分の子ではないとアブラハムは述べたのです。

アブラハムは言葉をついで、「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくだいさいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」と語りました。自分の家の奴隷が相続人となると述べたのです。

アブラハムは、12:7節で、「わたしはあなたを大いなる国民とする」という神の言葉を受けて七十五歳のとき、旅立ったのです。そして、その後、13章16節でも、「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする」という約束を受けていたのに、まだ子が与えられていないことに対する神に対する非難が込められています。

  すると、主の言葉が彼にありました。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」「あなたから」という言葉は、原語で「あなたの腹から」と言う意味です。他人ではなく、あなたから生まれる者から子孫が与えられる、というのです。
 主なる神は、彼を外に連れ出して言われました。「天を仰いで、星を数えることが出来るなら、数えてみるがよい。」そして言われました。「あなたの子孫はこのようになる。」神は、言葉だけでなく、目に見える形でアブラムが神を信頼するように導かれたのです。

  晴れた夜空の天を仰ぎ、無数の星を見たアブラハムは、創造主なる神の偉大さと人間の無力さを覚えたことでしょう。こどもが与えられないという厳しい現実が続く中で、神の約束を信じられなくなっていたアブラムのために神は再び、「あなたの子孫はこのようになる」と約束の言葉を語ってくださったのです。数え切れないほどの星をつくられた神は、必ず約束を実現できる全能の神であることを覚え、アブラハムは主と主の言われた言葉を信じました。神はアブラハムのその信仰を義と認められました。義と認めるとは、全き者、罪なき者、正しい者と認めるということです。

  パウロはこのアブラムの記事を例にとり、信仰による義について次のように言いました。「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」(ローマ4:5)。神を仰ぎ、神の約束を受け入れたとき、その信仰が人間と神との正しい関係に導いたのです。アブラハムの実行力や賢さや信念を認めて、神は彼を義と認めたのではなく、神の約束の言葉に対する信仰を見て、神は彼を義とお認めになったのです。

   「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」  ヘブライ語の聖書原典には、次のようにしるされています。ヘブライ語は右から読みます

      וְהֶאֱמִן, בַּיהוָה; וַיַּחְשְׁבֶהָ לּוֹ,צְדָקה 

   次のように読みます。 ヴェ・へ、エーミン; バ・ヤーウェ ヴァ・ヤ‐フシュヴェ‐ハ ロウ、 ツエダカ 

 

     直訳すると、「そして彼は主を信じた。彼(主)は彼を義と認めた」となります。

   最初のוְהֶאֱמִן という語は、 וְ (そして)、הֶ (彼は)、אֱמִן (信じた)という三つの単語から成っています。

  アブラハムが「信じた」という場合のヘブライ語動詞の< אֱמִןエーミン>の語根は、「真実であった」という意味の動詞< אָמַןアーマン>です。私たちが祈りの終わりに唱える<アーメンאָמֵן>の語根も同じ<アーマン>です。

<アーメンאָמֵן>は、「本当に」、「真実に」という意味の副詞です。わたしたちが礼拝で、「ア―メン」と言うときは、

「本当に」「まことにそうです」「まことにそうでありますように」「然り」「そのとおり」という意味に用いられ、感動詞(間投詞)として用いられています。捧げる祈りや賛美歌が、「心からのものです」ということを表現します。

   私たちが神に祈りを捧げてアメーンと唱える時に、それは単に形式的な締めくくりの言葉ではなく、全能の神のご支配を信じ、神にすべてをゆだねることの表明として唱えるべきです。アーメンの言葉は、信仰の父とされたアブラハムの信仰を言い表す言葉であることを覚えたいものです。われらの救い主イエス・キリストと、父なる神を見上げて、共に歩んで行きたいと思います。

 

 

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「イサクの嫁選び」 創世記24章1-27節

2013-10-06 22:23:08 | 礼拝説教

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

  日本キリスト教 富 谷 教 会 

週  報  聖霊降臨節第二十主日   2013年10月6日(日)   5時~5時50分 

礼 拝 順 序  

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 404(あまつましみず)

交読詩編   72(神よ、あなたによる裁きを) 

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書  創世記24章1   -27節

説 教  「イサクの嫁選び」  辺見宗邦牧師

讃美歌(21) 464(ほめたたえよう)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷

後 奏

 次週礼拝 2013年10月13日(日)午後5時~5時50分

聖書  創世記15章1-7節

説教  「アブラハムの信仰、アーメンについて」

交読詩編 86  讃美歌 464 227 27

本日の聖書 創世記24章9-27節

1アブラハムは多くの日を重ね老人になり、主は何事においてもアブラハムに祝福をお与えになっていた。

2アブラハムは家の全財産を任せている年寄りの僕に言った。「手をわたしの腿の間に入れ、 3天の神、地の神である主にかけて誓いなさい。あなたはわたしの息子の嫁をわたしが今住んでいるカナンの娘から取るのではなく、 4わたしの一族のいる故郷へ行って、嫁を息子イサクのために連れて来るように。」

5僕は尋ねた。「もしかすると、その娘がわたしに従ってこの土地へ来たくないと言うかもしれません。その場合には、御子息をあなたの故郷にお連れしてよいでしょうか。」

6アブラハムは答えた。「決して、息子をあちらへ行かせてはならない。 7天の神である主は、わたしを父の家、生まれ故郷から連れ出し、『あなたの子孫にこの土地を与える』と言って、わたしに誓い、約束してくださった。その方がお前の行く手に御使いを遣わして、そこから息子に嫁を連れて来ることができるようにしてくださる。 8もし女がお前に従ってこちらへ

来たくないと言うならば、お前は、わたしに対するこの誓いを解かれる。ただわたしの息子をあちらへ行かせることだけはしてはならない。」

9そこで、僕は主人アブラハムの腿の間に手を入れ、このことを彼に誓った。 10僕は主人のらくだの中から十頭を選び、主人から預かった高価な贈り物を多く携え、アラム・ナハライムのナホルの町に向かって出発した。

11女たちが水くみに来る夕方、彼は、らくだを町外れの井戸の傍らに休ませて、 12祈った。「主人アブラハムの神、主よ。どうか、今日、わたしを顧みて、主人アブラハムに慈しみを示してください。 13わたしは今、御覧のように、泉の傍らに立っています。この町に住む人の娘たちが水をくみに来たとき、 14その一人に、『どうか、水がめを傾けて、飲ませてください』と頼んでみます。その娘が、『どうぞ、お飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう』と答えれば、彼女こそ、あなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになったものとさせてください。そのことによってわたしは、あなたが主人に慈しみを示されたのを知るでしょう。」

15僕がまだ祈り終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せてやって来た。彼女は、アブラハムの兄弟ナホルとその妻ミルカの息子ベトエルの娘で、 16際立って美しく、男を知らない処女であった。彼女が泉に下りて行き、水がめに水を満たして上がって来ると、 17僕は駆け寄り、彼女に向かい合って語りかけた。「水がめの水を少し飲ませてください。」

18すると彼女は、「どうぞ、お飲みください」と答え、すぐに水がめを下ろして手に抱え、彼に飲ませた。 19彼が飲み終わると、彼女は、「らくだにも水をくんで来て、たっぷり飲ませてあげましょう」と言いながら、 20すぐにかめの水を水槽に空け、また水をくみに井戸に走って行った。こうして、彼女はすべてのらくだに水をくんでやった。 21その間、僕は主がこの旅の目的をかなえてくださるかどうかを知ろうとして、黙って彼女を見つめていた。

22らくだが水を飲み終わると、彼は重さ一ベカの金の鼻輪一つと十シェケルの金の腕輪二つを取り出しながら、 23「あなたは、どなたの娘さんですか。教えてください。お父さまの家にはわたしどもが泊めていただける場所があるでしょうか」と尋ねた。 24すると彼女は、「わたしは、ナホルとその妻ミルカの子ベトエルの娘です」と答え、 25更に続けて、「わたしどもの所にはわらも餌もたくさんあります。お泊まりになる場所もございます」と言った。

26彼はひざまずいて主を伏し拝み、 27「主人アブラハムの神、主はたたえられますように。主の慈しみとまことはわたしの主人を離れず、主はわたしの旅路を導き、主人の一族の家にたどりつかせてくださいました」と祈った。

    本日の説教

 創世記24章は、アブラハムの僕によるイサクの嫁探しの物語です。アブラハムは妻サラを失ってから三年後のことです。アブラハムはさらに年老いましたが、主なる神は何事においてもアブラハムを祝福していました。しかし、彼の心にかかっていたことは、息子のイサクのことでした。イサクがまだ結婚していないし、孫がまだありませんでした。アブラハムにとってこのことは重要なことでした。何故なら神は、あなたの子孫を天の星のように数えきれない程にするという約束をいただいていたからです。

アブラハムは家の中で、全財産を任せている、最も信頼のおける年寄りの僕(しもべ)を呼び、息子イサクの嫁を見つけてくるように命じたのです。この僕とは15章2節に出て来る、アブラハムが家督にしようと思っていたエリエゼルと思われています。 

     アブラハムとイサクの年齢の比較

     甲斐慎一郎著、創世記の聖徒たち、p.95より転写。

           アブラハムの家系図

          空知太栄光キリスト教会の「牧師の書斎」より転写。

  アブラハムは僕に対して二つのことを主なる神にかけて誓わせます。それは、イサクの嫁をカナンの娘の中から選ぶのではなく、アブラハムの一族のいる故郷から連れてくることでした。<一族のいる故郷>は直訳では、「わたしの地へ、わたしの親族へ」であり、親族とはナホルの一族ということになります。10節で僕はナホルの町に向かって出発しています。22章20-24節に「ナホルの子孫」についての記事があります。

僕は、娘がこの地の来たくないと拒絶した場合、イサクをあなたの故郷に連れていっていいのかと尋ねました。それに対して、アブラハムは、イサクを決してあちらに連れて行ってはならない、と言っています。

          

          ハランは赤丸Α記しのところ。(現在名はハッラーン)トルコ南西部

  アブラハムがイサクの結婚相手をカナンの地から得ようとしなかった理由は、異教の神を信じる者ではなく、アブラハムと同じ信仰をする者を求めたからです。アブラハムの父テラは、カナン地方いくことを目指してカルデアのウルからハランに移住しました(11:31)。15章7節によると、「わたしはあなたをカルデアのウルから導き出した主である」と神がアブラハムに語っています。父テラは、この神を信じ、ウルから出立し、カナンに移住したのです。アブラハムの弟ナホルと妻のミルカも、父の後を追って、ハランに移住しました。アブラハム一族は、主なる神を信じる民でした。

イサクを故郷の地へ連れていってはならない、というのは、主なる神様が、アブラハムをその故郷から旅立たせ、そしてこのカナンの地を「あなたの子孫に与える」と約束して下さったからです。この約束を信じて、その実現に希望を置いて歩むことが大切であり、再び故郷へ戻ることがあってはならないからです。そのためには、イサクはこのカナンの地に留まり、そこで家庭を持たなければならないのです。

主なる神が、<わたしの父の家から、親族の地>から連れ出し、この地を与えると約束された方であるから、その方が、お前の行く手に御使いを遣わしてくださるから、うまくいくであろうとアブラハムは語りました。そしてもし、この地へ女が来たくないと拒絶するならば、アブラハムと僕の間の誓いは解かれると語ったのです。

 僕は、十頭のらくだを選び、イサクの嫁となる娘と彼女の家族に与えるための高価な贈り物を携え、アラム・ナハライムの町に向かって出発しました。<アラム・ナハライム>は、「二つの川のアラム」という意味です。<アラム>とは、元来、高地と言う意味で、「古代シリア地方の北部」を指しています。<二つの川>とは、ユーフラテスとチグリスを指すともとれますが、ユーフラテス川の上流の一支流バリフ川とハボル川のことです。この二つの川に挟まれた地方に「ハラン」があります。<ナホルの町>は、ハランを意味しています。

            ハランは、シャンル・ウルファという町から48キロの所。       現在のトルコとシリアの国境の近くにある。現在は簡素な農村地帯。

  アブラハムの住むヘブロンからハランまでは、直線距離で800キロです。らくだが一日歩く距離は平均30キロといわれています。少なくと27日、凡そ一か月の旅です。ナホルの町までたどり着いたナホルは、町外れの井戸の傍らで、女たちが水くみに来る夕方、らくだを休ませて、祈りました。

「主人アブラハムの神、主よ。どうか、今日、わたしを顧みて、主人アブラハムに慈しみを示してください。わたしは今、御覧のように、泉の傍らに立っています。この町に住む人の娘たちが水をくみに来たとき、その一人に、『どうか、水がめを傾けて、飲ませてください』と頼んでみます。その娘が、『どうぞ、お飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう』と答えれば、彼女こそ、あなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになったものとさせてください。そのことによってわたしは、あなたが主人に慈しみを示されたのを知るでしょう。」

彼が神様に祈って求めたしるしは、自分と、10頭のらくだにも水を飲ませてくれる、ということです。それは、旅人とその連れている家畜に対する愛といたわりの行為です。そういう労をいとわずに奉仕する気持ちを持っている人を彼は見いだそうとしたのです。イサクの結婚相手は最終的には神様が選び与えて下さると信じて、そのみ心を求めて祈ったのです。

僕がまだ祈り終わらないうちに、神は祈りに応えてくださいました。リベカが水がめを肩に載せてやって来ました。彼女は、アブラハムの兄弟ナホルとその妻ベトエルの娘で、美しい、心根のやさしい女性でした。「彼女が泉(井戸)に降りて行き、水がめに水を満たして上がって来ると、僕は駆け寄り、彼女に向かい合って語りかけました。」リベカの動作からすると、井戸は下ったところにあることがわかります。

僕は、「水がめの水を少し飲ませてください」と頼みました。すると、彼女は、「どうぞ、お飲みください」と答え、すぐに水がめを下して手に抱え、彼に飲ませました。彼が飲み終わると、彼女は、「らくだにも水をくんで来て、たっぷり飲ませてあげましょう」と言いながら、すぐにかめの水を水槽に空け、また水をくみに井戸に走って行きました。こうして、十頭のらくだに水をくんでやったのです。彼女の水汲みはたいへんな重労働でした。

その間、僕は神がこの旅の目的をかなえてくだるかどうかを知ろうと、リベカの一挙一動に目を凝らしました。
 らくだが水を飲み終わると、彼は重さ一ペカ(約5.7グラム)の金の鼻輪一つと十シュケル(114グラム)の金の腕輪二つを取り出しながら、「あなたは、どなたの娘さんですか。教えてください。お父さまの家にわたしども(彼と従者)が泊めていただける場所があるでしょうか」と尋ねました。

リベカは、ナホルとミルカの子ペトエルの娘であることを告げました。アブラハムの兄弟の孫だったのです。まさに、アブラハムが願っていた通りの人でした。更に続けて、「お泊りになる場所もございます」と答えました。

僕はリベカの素性を知り驚きました。僕はリベカの鼻に鼻輪を、腕に腕輪を着けました。

鼻輪と腕輪二つの金の重さは、合わせると、233.7グラムです。金の価格は現在1グラムが4500円です。233.7グラムの金の価格は、1051650円です。百万円以上になります。

彼はひざまずいて主を伏し拝み、 「主人アブラハムの神、主はたたえられますように。主の慈しみとまことはわたしの主人を離れず、主はわたしの旅路を導き、<わたしの主人の兄弟の家>にたどりつかせてくださいました」と感謝の祈りをささげました。

 リベカは走って行き、母の家の者に出来事を告げました。兄のラバンは、妹の話していることを聞き、その僕のところへ走って行き、僕と従者を迎え入れました。僕は出された食事に手をつける前に、自分がやって来た理由を語っていきます。

主なる神様が恵みによって彼をリベカのところに導いて下さったのです。しかしこの結婚は、リベカとその家族の了解なしには実現しません。彼が一人で、「この人こそイサクの嫁となるべき人だ」と思っているだけでは仕方がないのです。そこで彼はこう言います。「あなたがたが、今、わたしの主人に慈しみとまことを示してくださるおつもりならば、そうおっしゃってください。そうでなければ、そうとおっしゃってください。それによって、わたしは進退を決めたいと存じます」。リベカをイサクの嫁に下さるつもりがあるのかないのか、その返事を求めたのです。そして返事次第で、自分の進退を決めたいと申しで出たのです。

 兄ラバンと父ベトエルは、「このことは主の御意志ですから、わたしどもが善し悪しを申すことはできません。リベカはここにおります。どうぞお連れください。主がお決めになったとおり、御主人の御子息の妻になさってください」と答えました。ラバンとベトエルは、リベカをイサクに嫁がせることを承諾したのです。僕の話を聞いて彼らは、このことが主なる神様の導きによることであり、主がリベカをイサクと結婚させようとしておられることを確信したのです。

 アブラハムの僕はこの言葉を聞くと、地に伏して主を拝しました。僕と従者たちは酒宴のもてなしを受け、そこに泊まりました。次の日の朝、アブラハムの僕は、すぐに「主人のところへ帰らせてください」と言いました。リベカの母と兄は、十日程リベカを手元に置きたいと言います。娘を遠くに嫁にやる家としては当然のことです。しかし、僕はなお「わたしを帰らせて下さい」と頼みました。そこで彼らはリベカを呼んで、その口から返事をさせます。「お前はこの人と一緒に行きますか」という問いに、リベカは「はい、参ります」と答えました。彼女は勿論イサクのことを知りません。リベカは、自分の結婚を、主なる神がお決めになったこと、主のみ心として受け止め、それに従う信仰の決断をしたのです。

 彼らはリベカとその乳母をアブラハム一行と一緒に出立させました。リベカとイサクの出会いの場面が,62節以下に書かれています。僕は、自分が成し遂げたことをすべてイサクに報告しました。イサクもこの結婚が神によって整えられたことを受け入れて、リベカを妻に迎えました。

その信仰の決断の結果として起ったことが、最後の67節に語られています。「イサクは、母サラの天幕に彼女を案内した。彼はリベカを迎えて妻とした。イサクは、リベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得た」とあります。イサクがリベカを<母サラの天幕>に案内したのは、これはリベカが族長の母の地位についたことを意味しています。この短い文書には、イサクがリベカを愛し、リベカもイサクを愛し、お互いがお互いにとって慰めとなり支えとなるよい夫婦関係が、祝福された家庭が築かれていったことが伺えます。

 この創世記24章の「イサクの嫁選び」から、私たちが学ぶことは何でしょうか。これは、紀元前1950年頃の出来事です。今から四千年も前の話しです。現代に住む私たちにとって、血族結婚は避けるべきであり、また、親が決めた結婚も、時代遅れの感がいたします。しかし、学ぶべき点があります。

 彼らの結婚は、彼らの子孫として生まれてくださった主イエス・キリストにまで及ぶ、神様の恵みの出来事でした。アブラハムから始められた主なる神様の救いが実現するために必要な結婚でした。

 アブラハムも、僕も、リベカの家族も、リベカも、イサクも、皆、神の導き、神の御意志に従おうとしています。この姿勢こそ、学ぶべき姿です。

リベカとイサクの場合、主のみ心に従う信仰の決断による結婚が先にあり、その結果として、互いに愛し合う祝福された関係が与えられたのです。恋愛だろうと見合いだろうと、出会いのきっかけは何であろうと、結婚は神のみ旨によって成立したものであり、夫婦は神が合わせてくださったことを信じ、神様に従う信仰の決断とすることが大切だということです。たとえ相手が信仰者でなくても、その結婚を、主なる神様に従う信仰の決断において受け止めることが大切なのです。そうすればそこにも、神様に祝福された幸せな家庭が築かれていくことになるのです。
 アブラハムの僕は、神の導きと備えを信じ、絶えず祈りながら、ゆだねられた任務を果たしています。願いがかなうと神に感謝し、神をほめたたえています。これは結婚に限らず、すべての事をなすうえで、「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」(フィリピ4:6)とあるように、私たちのとるべき生き方です。

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