富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「キリストの僕として生きる」 ガラテヤの信徒への手紙1章1~10節

2018-08-31 01:22:39 | キリスト教

    ↑  新共同訳新約聖書注解Ⅱの巻末地図(「アンキラ」は、現在のトルコの首都「アンカラ」です。)

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

               日本キリスト教 富 谷 教 会   週 報

 年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

     聖霊降臨節第16主日  2018年9月2日(日)  午後5時~5時50分 

     礼 拝 順 序

                司会 田中 恵子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 194(神さまはそのひとり子を)

交読詩編  116(わたしは主を愛する)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)ガラテヤの信徒への手紙1章1~10節(p.342)

説  教  「キリストの僕として生きる」  辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 536(み恵みを受けた今は)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

               次週礼拝 9月9日(日) 午後5時~5時50分

              聖 書  2コリントの信徒への手紙9章6~15節

              説教題  「奉仕する共同体」

              讃美歌(21)  512 24 交読詩編119篇73~80節

  本日の聖書 ガラテヤの信徒への手紙1章1~10節

1:1人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、 2ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。 3わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。 4キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。 5わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。 6キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。 7ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。 8しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。 9わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。 10こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。

    本日の説教

 「ガラテヤの信徒」へ宛てて書かれた手紙は、使徒パウロが書いた手紙です。わずか六章からなる短いものですが、その内容はきわめて重要な手紙であり、パウロの四大書簡(ローマ、コリント一、二、ガラテヤ書)の一つに数えられています。この手紙の中心主題は、「信仰義認」-人は信仰によって神に義(正しい者)とされるのであって、行いによるのではない、という福音の根本真理を、特に律法主義者との対決において明らかにするのです。

「ガラテヤ」という地名は、ガラテヤ人が住み着いた地域、現在のトルコ共和国の内陸中央部にある首都アンカラを中心とする周辺一帯を指す北部地方と、ローマ帝国の植民地とされた地域、従来のガラテヤ人定住地(北部地方)にフリギヤ、ピシディア、リカオニアといった南部地方を合わせた広い地域を指す場合とがあります。

パウロが第一回の伝道旅行で訪れたのは、ピシディア州のアンティオキア(使徒言行録13:14)や、リカオニア州のイコニオン、リストラ、デルべの町々(同14:1~23)など、南部地方でした。パウロは第二回伝道旅行の際にも、デルベにもリストラにも行きました(16:1)。「ガラテヤの信徒への手紙」は、これらのローマ属州ガラテヤの南部地方の住民とする説が「南ガラテヤ説」です。この節によると、第一回伝道旅行後のエルサレム使徒会議(紀元48年頃)の直前もしくは直後にシリアのアンティオキアで、あるいは同地からエルサレム上京の途上において執筆されたと推定されています。

      キリスト教大辞典の巻末地図  

 その一方、パウロが本来のガラテヤ人定住地を訪れた可能性があります。パウロが第二回伝道旅行で訪れたのは、デルべやリストラから、「フリギア・ガラテヤ地方を通って行た」(16:6)とあり、第三伝道旅行でも18章23節に「パウロは…ガラテヤやフリギアの地方を次々と巡回し」とあり、フリギアとガラテヤが併記されています。この場合のガラテヤは地方のガラテヤ(北部地方のガラテヤ)を指すと考えられるのです。学者の間では便宜上これを「北ガラテヤ説」と呼んでいます。この説によると、手紙は第三回伝道旅行中、おそらくエフェソに二年間滞在していた時(使徒言行録19章10節:紀元53~56年頃)に書かれたと推定されています。二つの説は、どちらとも決定しがたいが、今日の学会では「北ガラテヤ説」が有力視されているようです。

 この手紙を書いた執筆の動機は、パウロがガラテヤの諸教会を立ち去った後にやって来たユダヤ人キリスト者に惑わされて、信徒たちが「真の福音」から離れて、ほかの福音に移っていく重大な事態が生じたからです(ガラテヤ1・6)。ユダヤ人キリスト者の教師たちは異邦人キリスト者に律法、ことに割礼の遵守を迫りました。彼らは教会を乱し、パウロの使徒職を疑問視し、パウロとパウロの教えを排除しようとしました。パウロにとって、彼らのそのような言動を放っておくことはできません。彼らの教えは福音が与える「律法からの自由」を失い、キリストの十字架の死によって成し遂げられた救いの業を無意味にし、「キリストの福音」そのものをユダヤ教に換えてしまうことに他ならないからです。パウロは正しい福音信仰をまもるために、かれらをはげしい口調でいましめる手紙を書いたのです。

「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。」(1:1-2)

 手紙の発信者に<使徒とされたパウロ>とありますが、<人々からでもなく、人を通してでもなく>という説明が加えられています。この異常な書き出しは、彼の使徒職と、その説く福音の正当性を疑った者たちが、ガラテヤ地方の諸教会にいたことを推定させます。パウロは自分の使徒職と福音が、人々の力でもなく、人の権威でもなく、ただ神とキリストから受けているという確信を述べています。この確信は、ダマスコ途上での回心の出来事から始まる神の恵みによって与えられた使徒職です。復活されたキリストが天上からパウロに「現れた」のです。パウロは「主イエスを見た」と言い表します(コリント一、9:1、15:8)。神が「御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」(ガラテヤ1:16)と言っています。<キリストを死者の中から復活させた父である神>という表現はキリストの復活を当然の事実とみなしています。<ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から>という共同発信者への言及は、これから述べようとするのは、単に自分一人の主張ではないということを暗示しています。<ガラテヤ地方の諸教会へ>は、この手紙が複数の教会で回し読みされる手紙であることを示しています。

 「わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」(1:3)

 受信者のために神とキリストからの「恵みと平和」を求める祝祷の言葉です。パウロのガラテヤ地方のキリスト者に対する暖かい思いやりと深い愛をしのぶことができます。

 「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。」(1:4) 

 キリストの十字架の贖いの死は、神の救いの計画によるもであり、<この悪の世からわたしたちを救い出そう>とするキリストの救いの業であったことが示されています。

 「わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。」(1:5)

 神に対する賛美の祈りとなっています。<アーメン>は、アラム語・ヘブライ語の音訳で、「まことに、確かに(そうであるように)」の意味があり、祈りの末尾に添えられるものです。

 「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。」(1:6)

 書き出しの挨拶もそこそこに、すぐ受信者を非難することばが語られます。<キリストの恵みへ招いてくださった方>とは、「人々を選んでキリスト者とさせてくれた神」のことです。<こんなに早く>は、ここでは時間的なことよりも、「簡単に、たやすく」の意を示しています。<ほかの福音に乗り換えようとしている>は、党派や学派の所属変更を意味し、ガラテヤのキリスト者の間に反パウロの党派的な転向の動きのあったことが暗示されています。<わたしはあきれ果てています>は、パウロの批判・懐疑の意味がこめられています。ガラテヤの人たちの律法への心変わりは、神に対する背信行為であり、パウロにとってあきれ果ててしまう思いもよらない出来事でした。

 「ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。」(1:7)

 前節でパウロは律法主義者たちの教えを<ほかの福音>と言ったけれども、それではパウロの宣べ伝えた福音のほかに別の福音があるように誤解されかねません。それを恐れて、誤解の予知のないように<ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではな>いと、きっぱり否定します。<ある人々>とは、律法とか割礼を重んじるユダヤ化主義者のことです。この人たちが<福音>の名のもとに説く教えは、福音どころではなく、人々を<惑わし>、<キリストの福音>を覆そうとしていると警告します。

 「しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。」(1:8)

 パウロは自分自身や<天使>を持ち出してさえ「異なる福音」の存在の可能性を否定します。自分が宣べ伝えた福音の真実性、唯一性、絶対性に対するパウロの確信は、<呪われるがよい>という言葉で表されています。<呪われる>とは、神との交わりを断たれることで、地獄に落ちることを意味します。この激しい怒りの言葉は、パウロの個人的感情による怒りではく、福音の真理を守るために罪と戦う、主キリストへの忠誠心から出た聖なる怒りです。

 「わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。」(1:9)

 前節の8節と重なる内容です。<今また、繰り返して言う>と、事柄の重大性が強調されています。パウロの宣べ伝えた福音は、神の啓示(1:12)によるものであり、それ故、この福音に反することを宣べ伝えるなら、たといパウロ自身であっても神の呪いをまぬがれることはできません。<呪われるがよい>という最も忌むべき呪いの言葉をあえて口にするほど、パウロの憤りのことばであり、異端者たちを断罪することばです。

「こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。」(1:10)

 敵対者たちは、律法遵守の不用を説くパウロの福音を、人々の<ご機嫌取り>と非難していたと思われます。それに対し、パウロは<今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか>と疑問を投げかけることによって、その非難が全く意味のない、馬鹿げたものであるとの印象を与えようとしています。パウロははっきりと<もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません>と宣言します。パウロは常に使徒として召された自分を<キリストの僕>であると自覚していました。キリスト・イエスの僕としてのみ、自分は存在し、生きていると言う自覚です。<僕(しもべ)>という語は、原語では「奴隷」という意味の語です。パウロが自分を<キリストの僕>と呼ぶ時、彼は心からキリストの御心を行い、キリストの仕える者、キリストへの絶対的依存と服従を表明したのです。パウロは「キリストの奴隷」であることを誇りとしていました。それと同時に、「異邦人に福音を告げ知らせるために」(ガラテヤ1:16)、神とキリストによって召されて使徒となった者であることを明らかにしています。

  パウロは、「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」(ローマ14:9)と言っています。わたしたちキリスト者は、すべて主の者であり、主に仕える者です。主イエス・キリストの僕として生きることこそ私たちの救いであり喜びなのです。なぜなら人生の終わりの死も滅びではなく、キリストと共に復活の命、永遠の命を生きる者とされているからです。この救いの喜びの福音を人々に伝える使命をわたしたちは与えられているのです。 

 

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「最高の道である愛」 1コリント12章27~13章13節

2018-08-24 02:08:50 | キリスト教

↑ マザー・テレサからいただい手紙。「すべては御祈りすることから始まります。愛を神様に求めることがなければ、わたしたちは愛の心を持つことが出来ません。」と書いてあります。

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

     日本キリスト教 富 谷 教 会   週 報

 年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

     聖霊降臨節第15主日  2018年8月26日(日)     午後5時~5時50分 

        礼 拝 順 序

                司会 田中 恵子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 464(ほめたたえよう)

交読詩編   62(わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳) Ⅰコリント12章27~13章13節(p.316)

説  教      「最高の道である愛」      辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 545(まことの神)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

               次週礼拝 9月2日(日) 午後5時~5時50分

              聖 書  ガラテヤの信徒への手紙1章1~10節

              説教題  「生涯のささげもの」

              讃美歌(21) 194 536 24 交読詩編119篇73~80節

     本日の聖書 1コリント12章27~13章13節

 12:27あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。28神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者なのです。29皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。30皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。31あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。

 そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。13:1たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。2たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。3全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。

 4愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。5礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。6不義を喜ばず、真実を喜ぶ。7すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。8愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、9わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。10完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。11幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。12わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、鏡と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。13それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

           本日の説教

 コリント(現在名はコリントス)というギリシアの都市は、アテネ(現在はギリシアの首都)から西南約78キロにあるペロポネソス半島にある都市で、アドリア海とエーゲ海の二つの海に面し、それぞれに港を持つ、通航の要衝であり、商業都市として重要でした。

 

 紀元前46年にユリウス・カエサルによって、長い間廃墟になていた古代都市コリントは、ローマの植民地として再建され、ローマ領土アカイア州(北部を除いた現在のギリシ全土)の首都でした。この地は多種多様な人々が行き交う自由の空気の支配する文化的中心地でもありました。コリントはギリシャ最大の港町で、六十万人の人口を持つ大都市でした。

 パウロがこの地を訪れたのは第二回宣教旅行の時で、紀元49年から51年にかけて一年六か月にわたり滞在し、宣教と教会形成にあたりました。パウロはコリントの教会から離れた後も、人づてに、あるいは手紙で多くの情報を得ていました。パウロが去った後も教会は成長し、活動的でした。しかし、もはや放置しておけないような問題がこの教会を襲いました。

 それは、教会内部で起こった分争(1~4章)、道徳上の乱れや、教会内で起こった良くない噂、スキャンダルです(5~6章)、キリスト教徒の自由の誤った用い方(8~10章)、教会の集会における混乱(11~14章)、復活理解の正しくない理解(15章)など問題です。問題を引き起こしたのは、熱狂主義者たちで、彼らの主張は「自分たちは完全な者だ」とか「霊あるいは知識を所有している」とか「すべてのことは許されている」という信仰理解を持つ人たちでした。

 おそらくこの手紙は、第三回宣教旅行中、約三年にわたって滞在したエフェソ(小アジア南西部、現在のトルコ)から、54年春頃に出されました。

 有名な13章の「愛の賛歌」は、12章31節の「あなたがたは、もっと大きな賜物である愛を受けるように熱心に努めなさい」、という勧めと、14章1節の「愛を追い求めなさい、霊的賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」という勧めのことばとの間に置かれています。13章の愛の教えを

 パウロが書いたのは、教会内で起こっている分裂や種々の問題の原因は、教会の信徒たちに最も大切な愛が欠けていたからです。主イエスは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15:12)と言われました。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました」(ヨハネ一、3:16)とあるように、パウロは主イエスの十字架と復活によって、私たちを救う神の愛、真実の愛を知りました。このキリストの愛をもって私たちが互いに愛し合うように、愛の教え・「愛の賛歌」を書き送ったのです。

 12章では、教会の中における霊の賜物の意味が語られ、その多様な働きが示されます。12章27節で、パウロは、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」と述べます。教会をキリストの体にたとえ、教会の一人一人は、その一つの体を形づくる部分なので、神から与えられる霊の賜物(能力)や役割が違っても、上下、優劣の区別をしないで、協力するようと教えました。28節では、「神は、教会の中にいろいろな人をお立になりました」と語り、第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者たちをあげています。けれども、そのような賜物よりも「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」と、パウロは勧め、「わたしはあなたがたに最高の道を教えます」と言って、13章以下の愛について教えるのです。これは、教会に属するすべての人が求めるべき愛なのです。

 パウロは、「もし愛がなければ」、どんなすばらしいことを実現しても、その人の生涯は無益だ、と断言します。コリントの教会の人々が誇っていた霊の賜物も、愛がなければすべて無に等しいと断言するのです。愛が伴うことによって、すべての霊の賜物は正しく用いられるのです。

 13章4~7節で、パウロは愛を擬人化して、愛がは何をし、何をしないかを詳細に述べて愛を讃えます。最初に挙げた愛の二つの徳目は、「忍耐強い」と「情け深い」ことです。この二つの愛の特色は神の属性です。に「神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことを知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのか」(ローマ2:4)とあります。

 <忍耐強い、情け深い>とは、人の言動に依って受けた害に対して、怒ることなく、あやまちを責めず、優しいおもいやりと好意的な態度で接し、相手が自分の悪いことに気づくことを根気よく待つという寛大さを意味しています。

 ちょとしたささいなことが、愛が欠けているために、過大視されてゆるしにくいものになってしまうことがあります。このような場合は、神がキリストを通して私たちに示された深い愛を思うべきです。神の忍耐と慈愛は、神のさばきに価いする者に対して怒りをもってのぞむのを控え、満ちあふれる慈愛を注ぐのです。このキリストの忍耐と愛に満たされて、キリストの愛の心をもって、人々に接するのです。「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても(不満をいだくことがあっても)、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。…愛を身につけなさい」(コロサイ3:13)とパウロは勧めています。神の赦しと愛を体験している者として、私たちはこの神の慈愛に応えて人々に情け深い者となりましょう。

 <ねたみ>は、他人に対してどこまでも自己中心的な関心をよせます。<ねたみ>は、人の心の奥底に潜む最も醜い罪です。<ねたみ>は自分よりすぐれたり、恵まれたりしている者に対して、うらやみ、くやしがり、憎らしく感じます。人をうらやむねたみは、分裂と争いに引き起こしてしまいます。コリントの教会内で起きた党派争いの原因も「ねたみ」でした。<ねたみ>は他人を傷つけ、自分の霊性と人格を低下させます。

 どのようにしたなら、ねたみに対して打ち勝つことができるのでしょう。神の愛、キリストの愛が、ねたみに打ち勝つのです。キリストの愛は自己放棄的な愛です。キリストは、御自身を捨てられてすべてを私たちのために与え尽くされました。私たちが、もしこの与え尽くす愛に満ちあふれているなら、ねたみは私たちの心に入る余地はありあせん。なぜなら、ねたみは自分よりすぐれたり、恵まれたりしている人からものを奪おうとする心が働くことに対して、愛は与えようとしては働くからです。愛は人をねたまないのです。「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」(ローマ12:10)というパウロのすすめを実践するなら、<ねたみ>の心は消えて行きます。「ねたみ」に打ち勝つのはキリストの愛であり、聖霊の働きによるのです。

 <自慢しない>は、実際以上に自己を良く見せようとしないことをいいます。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」(フィリピ2:3)なさいと、パウロは勧めています。

 <高ぶらない>は、自分よりも社会的位置の低い者に対して、差別し見下す態度をいいます。高慢は罪の根源であり罪の本質です。高慢(高ぶり)は、自我から生まれる心のおごりです。高慢が、ねたみと共に、コリントの教会の分裂の原因でした。

 高慢に打ち勝つ道は、神の御前に罪を赦された者として、自分を低くすることです。そのとき、聖なる愛が心に満ち、高慢の心は、取り払われるのです。パウロは「罪人の頭である」という自覚を持っていました。

 <礼を失せず>は、実際は恥ずべき行い、ふさわしくない振る舞いをしないことです。相手を重んじ、礼儀に反しない行動をすることです。

 <自分の利益を求め>ないは、「自分の益ではなく多くの人の益を求め>(10:33)るということです。利己主義でないことです。パウロは「だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」(10:24)と勧めています。

 <いらだち>は、感情的に激して怒りやすくなることです。自分の意に反するものの存在とか、中傷、悪口などによって感情が高ぶり、腹を立てて、興奮して気が荒くなることです。<いらだたない>は、急にかっとなって心の平安を失うようにならないことです。いらだちは短気の特徴です。人間の罪に対して主イエスは怒られましたが、個人的に悪口を言われたり、ののしられたりしたことに対しては怒られませんでした。

 <恨みを抱く>とは、自分に加えられた損害を数え挙げて他人を恨むことです。<恨みを抱かない>とは、人の悪を心の中にとどめず、執念深く考えず、赦し忘れることです。

 <不義を喜ばない>とは、神の正義を喜び、不義と邪悪を排してすべてのことに耐えぬく生き方です。主イエスの不正を喜ばない態度は、私たちの不義をあがなうために、身代わりとなって十字架の処刑を受けて死んで下さったことによって、最もよく表れています。

 <愛は真実を喜ぶ>とありますが、<真実>は原語ではアレセイア(真理)と言う意味の語です。「真理に歩んでいる人がいるのを知って、大変うれしく思いました」(ヨハネの手紙三、4)とあります。キリストの教えに従って、愛に歩むことが、真理に歩むことです。<愛は真実を喜ぶ>とは、愛を擬人化していますが、愛は私たちが愛に歩むこと、すなわち、真理に歩むことを喜ぶのです。

 愛は、「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」とあります。徹底的に自分を捨て、他人のために生きる姿がえがかれています。ここにはキリストの示す愛がえがかれています。

 さらにパウロは、愛の永続性を述べます。「愛は決して滅びない」。愛は永久に持続します。終末はまだ来ていないが、神が直接支配する終末には、預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れます。コリントの教会の一部の人々が自分たちを既に終末時の完成者とみなしていたのに対し、パウロはここで、終末はまだ来ていない、彼らの思い込みは間違いであると論争的に語っています。パウロは、特に預言を取り出して、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だからです、と言います。<完全なもの>が来たときには、部分的なものは廃れてしまうのは必然だと語ります。

 コリントの教会の一部の人々のように、不完全なものを完全なものと思い込み、それを誇るようなことは、ことがらをはっきり分かっていない<幼児>なのだと批判します。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていたが、成人した今は、幼子のことを棄てたように、教会の現在の霊的賜物も終末には忘れられるのです。

 最後に一つの類比がパウロの要点を強調します。霊的賜物によって与えらえる知識は、鏡に映っている像のように不明瞭です。神がモーセにしたように、神が<顔と顔とを合わせて>私たちと話す「時は来る」と断言します。神の国が完成する「その時」に、神が私たちを現在すでに完全に知っているのと同じように、私たちが完全に神を知ることになります。私たちは、「今は神を知っている、いや、むしろ神から知られている」(ガラテヤ4:9)のです。

 終末到来までの間、いつまでも存続し続けるのは信仰と希望と愛です。信仰は、神に向ける私たちの信頼です。私たちが、キリストによって救われ、神に愛されていることを信じるのです。希望は、罪に満ちたこの世が神によって正しい完全さで回復される神の国を望むことです。そして愛は、神との最終的な永遠の交わりです。恵みによって今私たちに与えられた兄弟姉妹たちとこの交わりを分かち合っています。

 愛が三つの中で最も大いなるのは、啓示の賜物と違い、また信仰と希望とも違い、永久に持続するからです。信仰と希望は、神から与えられた人間の特質です。「神は愛です」(ヨハネ一、4:16)とあるように、愛は神の本質です。私たち、キリスト者の愛は「神から出るのです」(同4:7)。神が永遠に生きておられるので、愛も永遠に存続するのです。信仰、希望、愛、この三つの中で最も偉大なものは愛なのです。愛を上位におくことによって、パウロは愛がすべてのものの基礎にあること、<最高の道>であることを説いています。

 今、キリストによって示された愛こそが私たちに必要であり、この愛を、この世も求めていることを知らなければなりません。この愛に欠けるために、多くの不幸な出来事が起こっているのです。私たちはキリストによって示された愛の足りないことを覚えて、愛を増し加えて下さいと祈りながら、キリストの愛に満たされて、世を救うキリストの愛の証し人とならなければなりません。

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「すべての人に対する教会の宣教」 使徒言行録13章44~52節

2018-08-15 22:41:39 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

  日本キリスト教 富 谷 教 会 週 報

年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

  聖霊降臨節第14主日  2018年8月19日(日)   午後5時~5時50分 

     礼 拝 順 序

                司会 佐藤 洋子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 227(主の真理は)

交読詩編   40(主にのみ、わたしは望みをおいていた)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳) 使徒言行録13章44~52節(p.240)

説  教 「すべての人に対する教会の宣教」辺見宗邦牧師

祈 祷

聖餐式    72(まごころもて)

讃美歌(21) 561(平和を求めて)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

              次週礼拝 8月26日(日) 午後5時~5時50分

              聖 書  1コリント12章27~13章13節

              説教題    「最高の道」

              讃美歌(21) 464 405 24 交読詩編62篇

   本日の聖書 使徒言行録13章44~52節

 13:44次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。45しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。46そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。 47主はわたしたちにこう命じておられるからです。/『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、/あなたが、地の果てにまでも/救いをもたらすために。』」/ 13:48異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。49こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。50ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。51それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。52他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。

            本日の説教

 使徒言行録の13章からは、使徒パウロのめざましい伝道活動が記録されます。古代アンティオキアは、古代シリア地方北部の主要都市です。現在はトルコ領のアンタキアです。このアンティオキアに異邦人の教会が設立しました(11章19-26節)。この教会にエルサレムの教会は全権を委任した代表としてバルナバを派遣しました。バルナバはサウロを捜しに、パウロの故郷タルソスへ行き、見つけてアンティオキアへ連れ帰りました(11章25-26節)。二人は丸一年の間そこの教会にいて、多くの人を教えました。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者(クリスチャン)と呼ばれるようになりました。アンティオキアの教会で礼拝中に聖霊の導きによって、外国伝道のために、バルナバとサウロ(パウロのユダヤ名)が選ばれ、教会から派遣されました。パウロ(ローマ名)の名が用いられるのは、13章9節からです。

 バルナバとパウロは、アンティオキアの南西25キロ、オロンテス河口から8キロ北にあるセレウキアの港町から船に乗り、まず、バルナバの故郷であるキプロス島に渡りました。二人は助手として、バルナバの従兄弟(いとこ)のヨハネ・マルコを連れていました。

 

  キプロス島((英語では「サイプラス」、ドイツ語では「ザイプル」)は、ローマの元老院の支配する島で、地方総督によって統治されまれていました。一行は島の東岸にあるギリシア都市サラミスで、最初に神の言葉を宣べ伝えました。サラミスから更に島全体を巡回してパフォスの町に着いたところ、ユダヤ人の魔術師バルイエス(救いの子の意)という偽預言者に出会いました。この男はパフォスに住む地方総督セルギウス・パウルスと交際していて、総督が神の言葉を聞こうとするのを妨害しました。パウロは聖霊に満たされてこの男の目を見えないようにしました。総督はこの出来事を見て、主の教えに驚き、信仰に入りました。

 パウロの一行は、パフォスから船出してパンフィリア州のペルゲへ渡りました。ペルゲで、ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰りました。パンフィリアは、パウロの故郷であるキリキア州のタルソスの西にある南岸の州です。ペルゲは、ケストロス川の河口から13キロ上流、しかも河岸から8キロも離れているので、船でペルゲに渡ることはできません。おそらく南西の海岸の港町アタリアに上陸し、15キロ内陸のペルゲに来たのかもしれません。

     

   タウルス(トロス)山脈は白線の内部。トルコ南部を地中海岸に並行して走る450㌔の大  山脈。標高3600メートル級の山々が並ぶ。山脈は海岸地域と内陸地域とを隔てている。

 パウロとバルナバはペルゲから、タウロス山脈の険しい危険な山道を上り、海抜千二百メートルの高原にあるピシディア州のアンティオキアの町まで160キロ道を歩き、たどり着きました。ピシディア州のアンティオキアは、シリアのアンティオキアと区別するために呼ばれた古代都市で、小アジアのフリギアとピシディアの境界にありました。「ピシディア近くのアンティオキア」と呼ばれ、ローマ時代にガラテア州の一地区に属し、ローマの植民地でした。またユダヤ人居留地もありました。

 安息日に、ユダヤ教の会堂に入ったパウロたちは、会堂長たちから会衆を励ます言葉を求められました。そこでパウロは次のような主旨の長い説教をするのです。説教はペトロの説教(3:12-26)とステファノの説教(7:1-53)の混合型で、明らかにルカの構成です。読者はステファノの説教を知っているので、族長とモーセ時代の詳細は省略されています。説教は、三部に分けられます。

 第一部(16b-25節)イスラエルの歴史における神の救いの御計画を明らかにしています。神はイスラエル先祖を神の民として選ばれたこと、エジプト滞在中にこの民を大いなるものとし、彼らをその地から導き出されたこと、そして、荒野で四十年の間、彼らの行いを耐え忍び、先祖たち(族長アブラハムたち)に約束されていたカナンの地に導かれたこと、さらに、カナンの地では七つの民(へト人、ギルガシ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人)を滅ぼし、その土地を彼らに相続させてくださったこと、これは、約四百五十年にわたることでした(エジプトに四百年、荒れ野に四十年、カナン征服までが十年、計四百五十年)。その後、預言者サムエルの時代まで、さばき人(士師)たちを任命し、イスラエルを治めさせ、人々が王を求めたので神は四十年の間(二十年の間とも言われている)、サウル王を与え、それからサウル王を退けて、神の心に適ったダビデを王の位につけました。神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルの救い主イエスを送られたこと、ヨハネが悔い改めのバプテスマを宣べ伝え、イエスを救い主(キリスト)としてイスラエルの人々に示したことです。

 第二部(26-37節)イスラエルに拒絶されたイエスこそ救い主であることを証明しようとしています。エルサレムに住む人々や指導者たちは、なんら死に当たる理由が見出せなかったのに、ピラトに強要してイエスを殺したこと。しかし神は、イエスを死人の中から、よみがえらせたこと、よみがえったイエスは、弟子たちに、幾日ものあいだ現れたので、彼らは、イエスの証人になっていることです。このイエスの十字架のよみがえりとが、旧約の成就であることを立証するために詩篇2:7、イザヤ書55:3、そして「あなたは、あなたの聖なる者を、朽ち果てるままにしてはおかれない」(詩篇16:10)という言葉を引用しています。

  第三部(38-41節)聞く者たちに福音を信じる決断を促しています。「イエスによる罪のゆるしの福音」を、あらためて説き、「信じる者は皆、この方によって義とされるのです」、すなわち、イエスによって神との関係が正しくされることを語り、それを否定すると、どうなるかを、旧約聖書のハバクク書1:5の言葉を引用して、この演説を結んでいます。

 パウロとバルナバが会堂を出る時、人々は次の安息日にも、これと同じ話をしてくれるようにと、しきりに願いました。また大勢のユダヤ人やユダヤ教に改宗している異邦人たちがついて来たので、二人は、神の恵みにとどまっているようにと勧めました。ピシディア州のアンティオキアに教会が設立されるのです(13:52)。

 「次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。」(13:44)

 ユダヤ人だけでなく、異邦人(ローマ人やギリシア人)も町中の大勢の人が神も言葉を聞こうとして集まってきました。

 「しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。」(13:45)

 するとユダヤ人たちは、その群衆を見てねたましく思い、パウロの語ることに、口汚くののしって反対しました。それはパウロに対する中傷ではなく、イエスに対する呪いでした。

 「そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。『神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。』」(13:46)

 そこでパウロとバルナバは大胆に、「神の言葉は、まずあなたがたユダヤ人に語られなければならなかった。しかし、あなたがたはそれを拒んだ。そのことにより、あなたがたは「自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。」だから、わたしたちはこれから異邦人の方へ行く、と言いました。

 「『主はわたしたちにこう命じておられるからです。【わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、あなたが、地の果てにまでも救いをもたらすために。】』」(13:47)

 パウロたちは、伝道の方向拠点の典拠を、【わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、あなたが、地の果てにまでも救いをもたらすために。】というイザヤ書49:6の言葉に求めて引用しました。だからと言って、ユダヤ人を見限ったわけではありません。これ以後もパウロはユダヤ伝道によって異邦人が信者になっています。しかし、この事件が地の果てまでの異邦人伝道への決定的な契機になりました。

 「異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。」(13:48-49)

 この決定の言葉を聞いて異邦人たちは喜び、主の言葉を賛美しました。多くの入信する者が起こされ、キリストの復活の命にあずかる信者になりました。こうして福音はその地方全体に広まりました。

 「ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。」(13:50)

 ところが、福音に接して信者になるユダヤもありましたが、一方信じないユダヤ人たちは激怒し、上流階級に属する「神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を」扇動し、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から追い出しました。

 「それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。」(13:51)

  主イエスが弟子たちに、快く歓迎されなかった町を立ち去る時にするように言われたとおり(ルカ9:5、10:10-11)、二人は抵抗の徴として「足の塵を払い落とし」て、この町を後にします。しかし、パウロたちは第二の宣教旅行で再訪問します(15:30)。第三宣教旅行の時も、巡回して弟子たちを力づけました(18:23)。

 二人は、この町から東南へ130キロ離れたローマ道の幹線のにある要所、ガラテヤ州のイコニオン(現在のトルコのコンヤ)に行きました。イコニオンは、時代によってフリギア州や、リカオニア州に属していたが、パウロの時代はガラテヤ州に属していたローマの植民地で、そこにはユダヤ人の居留地もありました。

「他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。」(13:52)

 伝道者はこの町を去りましたが、彼らが残した弟子たちは、「喜びと聖霊に満たされて」いました。弟子たちの存在からアンティオキアで回心者のバプテスマと教会が形成されたことが推測できます。

  福音の宣教のみ言葉は、一方に「つまずき」、他方に「信仰」という対立を生み出します。ユダヤ人たちは反対し、退けました。異邦人たちは受け入れ、賛美告白しました。十字架のことばは、聞く者を「然り」と「否」に分ける力として働きます。キリスト・イエスによる罪の赦しの福音を退けるか、受け入れるか、人間はみなその選択と決断へと呼び出されるのです。パウロは神に言い逆らい、伝道を妨害する者に対しても、なお神の義とあわれみを信じて疑いませんでした。だから「ユダヤ人から異邦人へ」(13:46)という伝道の方向転換にもかかわらず、ユダヤ人の会堂とユダヤ人が伝道の対象から決して排除されることはなかったのです。むしろ、異邦人とユダヤ人の差別を廃し、キリストによる新しい創造、「地の果てまで」およぶ、すべての人のための一つの体なる教会こそがパウロの祈りでした(13:47)。神にはつまづいたユダヤ人を再び救うことがおできになるのです(ローマ11:22)。このことをわたしたちも信じて、福音を証し、宣べ伝えましょう。

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「新しい人」 エフェソの信徒への手紙4章17~32節

2018-08-12 15:26:27 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

          日本キリスト教 富 谷 教 会   週 報

 年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

  聖霊降臨節第13主日 2018年8月12日(日)    午後5時~5時50分 

     礼 拝 順 序

                司会 田中 恵子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 204(喜びの日よ)

交読詩編    8篇(主よ、わたしたちの主よ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)エフェソの信徒への手紙4章17~32節(p.356)

説  教     「新しい人」      辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 531(主イェスこそわが望み)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

              次週礼拝 8月19日(日) 午後5時~5時50分

              聖 書  使徒言行録13章44~52節

              説教題  「すべての人に対する教会の働き」

              讃美歌(21) 227 560 24 交読詩編8篇

   本日の聖書 エフェソの信徒への手紙4章17~32節

 4:17そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、18知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。 19そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。20しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。21キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。22だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、23心の底から新たにされて、24神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。

  25だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。26怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。27悪魔にすきを与えてはなりません。28盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。29悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。30神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。31無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。32互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。

      本日の説教

 「そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み」(4:17)

 4章1節以下では、教会の一致とその成長を中心に、実践的な勧告がなされましたが、著者は、25節以下の具体的な倫理生活を述べるに先立って、4章17節から24節ではキリスト者の一般的生活について、異邦人の生活との対比で語ります。

 17節では、異邦人と同じような誤った歩み、生き方をまったく捨てるようにという強い勧めがなされます。新共同訳聖書では、<……愚かな考えに従て歩み>(4:17)となっていますが、原語の本来の意味は「愚かな考え」というよりは、むしろ虚しさとか空虚さや中身のない精神状態を示しています。かつてエフェソの信徒が歩んでいた異邦人の生活は、<空虚>であり、霊的に<虚しい>歩みでした。

 「異邦人と同じように歩んではなりません」という勧告ですが、しかし、ここで著者は現実に出会う異邦人を直接的に拒否しているのではないことは、3章6節で、「異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となる」ことが語られていることからも明らかです。十戒のような律法を持たない異邦人に対するユダヤ人の当時の包括的な、差別的な捉え方をしていますが、異邦人のすべてが堕落した生活をしているのでもなく、ユダヤ人以上に立派な生き方をしている人々も大勢いるのです。ですから、キリスト者と教団が自らをそれ自体で異邦人よりもすぐれた、価値高い者とみなすのではなく、逆にキリストの救いの恵みにあずかっていない、異邦人を<異邦人>たらしめている根本の問題に目を向け、キリスト者の実践的な生き方を求めているのです。

 「知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。」(4:18)

 異邦人がむなしい心で歩いていることが、ここでは<暗さ><無知>として特徴づけられる精神の働きが、心の硬化によって「神の命」から遠く離れています。人間全体を活かす「神の命」から遠く離されてしまったのは、無知と心の硬化によるものです。

 「そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。」(4:19)

 そして、その極端な結末は無感覚になって<放縦な生活>に身を委ね、自分の衝動を満足させることに囚(とら)われています。神に直面しようとしない精神が、必然的にたどらざるを得ない退廃への道です。

 「しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。」(4:20-21)

 以上のような異邦人の、そして現代のわたしたちにとっても妥当する状態を、積極的に建て直し、正すためにはどこに戻らなければならないのかが示されます。それはキリストに戻ることです。このような異邦人の歩みに対して、「しかし、あなたがたはこのようにキリストを学んだのではなく……イエスのうちにある真理をそのまま学んだはずである。」著者は、宣教によるキリストのことばを聞き、洗礼教育で信仰指導を受けた彼らの経験に訴えていると思われます。

「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」(4:22-24)

 著者はキリスト者の倫理生活の基礎づけを、バプテスマのとの関連でおこないます。それは一言で言えば、<古い人>を脱ぎ捨て、<新しい人を身に着ける>の一言に要約されます。<古き人>とは、古いキリストなき自己であり、人間の生活を汚し誤らせる情熱によって朽ちて行く人です。<新しい人>は、真理に基づいた、神にかたどって造られた者です。「新たにされること」が「心の底から」とあります。神と人格的に交わる魂が、根源から全体的に新たにされることが必要なのです。古い人を脱ぎ捨て新しい人を着る決断は、自分の努力や精進によるものではなく、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(2コリント5:7)という告知を、喜びをもって受けとる信仰の決断によるのです。<新しい人>という言葉で、創世記1:26以下の人間創造物語をふまえた説明がなされています。新しい人されたキリスト者は、「真理に基づいた正しく清い生活」を送るようにと勧められています。

 「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。」(4:25)

 4:25節以下は、<だから>という接続詞によって先の勧めの部分と意識的に結びつけ、「新しい人」の日常生活における実践的な勧めになっています。その基礎づけを今度は聖霊によって導かれた生活として述べようとしています。

 キリスト者の「心のあり方」の第一に、真実を語るように、と述べられています。その理由づけは、「わたしたちは、互いに体の一部なのです」とあります。私たちは、キリストの体である教会に属する肢体なのです。「愛には偽りがあっては」なりません(ローマ12:9)。

「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。」(4:26-27)

 <怒ることがあっても、罪を犯してはなりません>というこの勧めは、主イエスの言葉を意識していたとも受け取れます(マタイ5:22、コロサイ3:8)。人間の怒りは、たとい正当なものであったとしても、神の怒りに常に場所を委ねたものでなければなりません。裁きは神がなさるのです。そうでないと、怒ることによって罪を犯すことになります。そのための目安が、「怒り」が翌日まで持ち越されてはならない、ということです。怒りが<悪魔にすきを与えてはなりません>の警告は、再び神に逆らう悪の力の影響を受けないようにということです。悪魔は機に乗じて不和の種をまき、問題をますます大きくするからです。

 「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。」(4:28)

  次いで、イエスを知らない古き人の性癖は盗みであり、すこしでも得をしたいという欲望ですが、「イエスにおける真実」(4:21)を表すものとして単に「盗まない」という消極的なものではなく、積極的に「困っている人々と分かち合う」ことを実践するように励ましています。

 「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。」(4:29)

 <悪い言葉(原語は「実のない言葉」)を口から出さないという勧めは、人の徳を高めるためという動機づけがなされています。キリスト者は御霊に導かれてそのために絶えず努力し、自らの言葉について常に反省する者でなければなりません。

「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。」(4:30)

 「贖いの日」とは、「わたしたちが神の国をつぐ」日(1:14)、「やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえる」日、即ち、終わりの日のことです。「聖霊により…保証されて」とは、キリスト者が「聖徒」の証印を押されてその品質を保証された者である、ということです。「神の聖霊を悲しませてはいけません」とは、キリスト者が罪を犯す時、悲しみ苦しむのは彼自身だけではなく、誰よりも第一に、神の御霊御自身なのです。親が子の非行や犯罪を悲しみ、苦しむように、御霊は嘆くのです。御霊はうめきながらわたしたちのために執成しの祈りをなさるのです。だから、「神の聖霊を悲しませてはいけない」のです。

 「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」(4:31-32)

  最後に、古き人」であるがゆえにおこる<無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなど>の悪い性癖を、<一切の悪意>と一緒に<捨て>ることを勧めています。自分の声を抑えることを学び、舌を制することを知り、一切の悪意を捨て去ることを務めることが御霊に導かれた者の生活です。そしてこれらに取って代わるものとして、親切、憐れみ、ゆるしの精神をあげています。そして<神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい>と語られています。

  滅びに向かっていた「古い人」を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、キリストに結ばれた「新しい人」としての自覚に立ち、愛に根ざした正しい清い生活を送り、救いの御業が多くの人々に及ぶように、福音を伝えていく使命をわたしたちは与えられています。わたしたちは御霊のバプテスマを受け、御霊の教えに導かれ、また御霊の宮とされました。それゆえ、御霊が喜ぶように、御霊の思うところに導かれ、御霊に従うと言うことが、キリスト者の生活です。人を幸せにするのは、キリストと共に生きることであり、聖霊の働きをいただいて愛に生きることであります。

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「夫と妻の務め、親と子の務め」 エフェソの信徒への手紙5章21~6章4節 

2018-08-05 00:08:10 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

      日本キリスト教 富 谷 教 会   週 報

 年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

    聖霊降臨節第12主日  2018年8月5日(日)      午後5時~5時50分 

     礼 拝 順 序

                司会 佐藤 洋子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 161(見よ、主の家族が)

交読詩編  127篇(主御自身が建ててくださるのでなければ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳) エフェソの信徒への手紙5章21~6章4節(p.358)

説  教   「夫と妻の務め、親と子の務め」    辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 556(神の賜物を)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

             次週礼拝 8月12日(日) 午後5時~5時50分

             聖書  エフェソの信徒への手紙4章17~32節

             説教題   「新しい人間」

             讃美歌(21) 204 531 24 交読詩編8篇

 本日の聖書 エフェソの信徒への手紙5章21~6章4節            

 5:21キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。 22妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。 23キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。 24また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。 25夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。 26キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、 27しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。 28そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。 29わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。 30わたしたちは、キリストの体の一部なのです。 31「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」 32この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。 33いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。

  6:1子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。 2「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。 3「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。 4父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。

     本日の説教

 

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

日本キリスト教 富 谷 教 会

週    報

 

年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、

霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和に

     あずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。

     いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

 

 聖霊降臨節第12主日        2018年8月5日(日)

午後5時~5時50分 

     礼 拝 順 序

                司会 佐藤 洋子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

 讃美歌(21) 161(見よ、主の家族が)

交読詩編  127篇(主御自身が建ててくださるのでなければ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳) エフェソの信徒への手紙5章21~6章4節(p.416)

説  教   「夫と妻、親と子の務め」   辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 556(神の賜物を)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

 

次週礼拝 8月12日(日) 午後5時~5時50分

聖書  エフェソの信徒への手紙4章17~32節

 説教題   「新しい人間」

 讃美歌(21) 204 531 24 交読詩編8篇

本日の聖書 エフェソの信徒への手紙5章21~6章4節            

 5:21キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。 22妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。 23キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。 24また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。 25夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。 26キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、 27しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。 28そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。 29わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。 30わたしたちは、キリストの体の一部なのです。 31「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」 32この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。 33いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。

 6:1子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。 2「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。 3「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です

。 4父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。

             本日の説教

 神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロ」(1:1)から、エフェソにいるキリスト・イエスを信ずる人たちへ宛てられた手紙です。「わたしはこの福音の使者として鎖につながれています」(6:20)と言っています。エフェソ書は、フィリピ書、コロサイ書、フィレモン書と共に、「獄中書簡」と呼ばれています。

 十八世紀終わり以来、この書簡が使徒パウロの書簡であるのか、その「真正性」をめぐる研究がなされました。文体や内容が他のパウロの書簡と違うからです。EKK新約聖書注解の「エペソ人への手紙(1981年出版、1998年翻訳本・教文館発行)」の注釈者は、エフェソ書の著者を使徒パウロの名を借りて、パウロの権威の下に書かれたものとし、小アジア教会(トルコ)の教師で、指導的地位にあり、周辺の諸教会も訪問しつつ指導した人物だろうと推定しています。この人物は自分をただパウロの伝統の伝承者、解釈者としてのみ理解し、未知の人に留まり、パウロの霊においてエフェソ書を著した、と述べています。この手紙は、パウロ以外の人の手になったとしても、パウロ思想は見事に継承されています。書かれた年代を一世紀の終わり頃から二世紀の始め頃と推定しています。

  内容は、1章~3章の終わりまでが教理的な教えの部分でです。人類に対する神のキリストを中心とする偉大なる救いの御計画(1・3~14)と、キリストによるその実現と、さらにキリストの教会(1・23等)の意義が示されています。救いがただ恩寵のみによること(2・5等)、「この世で希望もなく神もなかった」(2・12)救われる前の<古い人>と、

  救われた後の<新しい人>との対比、人間の敵意という「隔ての中垣」(2・14)がただキリストの十字架のみによって取り除かれるということ等が説かれています。3章は使徒パウロの異邦人伝道にかけた使命を語り、自己を紹介します。(1-13)、読者のための執り成しの祈り(14-19)と頌栄(20-21)をもって終わります。

 これらの基本的事実の確認を土台として、それに対する一般的なキリスト教の倫理が展開されています。4章以下がその実践的な教えです。特に教会の一致と愛による建設を教え、聖霊による生活をすすめています。

①  4章1~16節は、読者に教会の一員として、「霊による一致を保つように努めることを勧めます。「体は一つ、霊は一つです」と、一致のより所となる宗教的基礎を述べます。

②  4章17~24節で、「以前のような生き方、滅びに向かっていた古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身につけ、真理に基づいた正しい清い生活を送るようにしなければなりません」と勧めます。

③  4章25~32節では、その基礎づけを聖霊の面から行っています。「御霊に導かれた生活」について語ります。

④  そして次に,5章1~14節では、それを父なる神に愛されている者、すなわち神の子らの生活として、規定しています。

⑤   5章15~20節は、キリストにある教会の生活のための具体的な教えと移っていきます。愚かで分別のない者としてではなく、キリストにある知恵を持つように勧めます。

⑥  夫と妻(5・21~31)

⑦  親と子(6・1~4)

⑧   奴隷と主人(6・5~9)

⑨  信仰の戦いとその栄光に満ちた勝利について述べ、外敵に向かって神の武具を装って雄々しく戦うよう励まし(6・10~20)、全体を結んでいます。

 今日の聖書の箇所は、⑤の夫と妻、⑥の親と子についての教えです。

 「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」(5:21)

 5章15-20節は教会全体への語りかけでした。現在まだ悪の下に置かれ続けているので、キリスト者は主の教えに従って時をよく用いなさい。ほかの人々の営みは酒による酩酊によって特徴づけられるが、キリスト者は霊に満たされなさい。主に賛美と感謝の歌を歌い、恵みを思いつつイエス・キリストの名により父なる神にいつもすべてのことについて感謝をしなさい、と勧めました。霊に満たされた礼拝が、キリスト者の生活についていかに大切なものであるかが指摘されました。

 エフェソへの手紙の中心的な主題は、神の人間に対する和解の現実としての教会であり、またその教会の一致と成長です。その具体的な展開として、家族倫理の勧告がなされるのです。三つの家族倫理、「夫婦の務め」、「親子の務め」、「主従の務め」の勧告に当たって、「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」という一般的、倫理的勧告がなされます。ギリシア語原文の直訳は、「キリストに対する畏れをもって互いに従属しなさい。」です。このことばは本来妻に言われることでした。コロサイ書3:18に「妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい(原文「従属しなさい」)とあります。しかしエフェソの著者は教会のすべての人に広げ、家族倫理全体をまとめる勧告としました。

 「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。」(5:22)

 原文では、「妻は夫に主に対するように。」とだけ記されています。夫を優先する社会通念が底にあることは、否定できませんが、勧告に従って、ふさわしくふるまい、自由意志で従うことが求められます。

 「キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。」(5:23-24)

 時代に制約された思考は、「夫は妻の頭である」という文章に一層強くあらわれてます。この発言は、「男が女から出てきたのではなく、女が男から出て来たのだし、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだかです」とある創造の秩序(創世記2:21-23、1コリント11:8-9)によっています。しかし忠告は、妻は夫に、教会がキリストに対してするように、つまり自由意志から、喜んで彼の愛に応えて、従属すべきである、と言います。夫のふるまいも、彼はキリストの模範にしたがって妻に最高の愛、心配りを与え、扶養すべきであることが言われています。教会はキリストの愛を受け取る存在、感謝をもって受ける存在、そうしてキリストの愛に応える存在です。キリストがどんなふうに「頭」として教会の上にあるかをとおして、女性の尊厳を傷つける「従属」は排除されます。これによって、創造の秩序から取られた議論も気にする必要はなくなります。教会の頭であるキリストは、「自らその体の救い主である」と、教会ための愛の献身が強調されることによって、「頭」の一面的な「支配者的」理解は排除されます。教会がすべてを負う頭、救い主としてのキリストに従属するように、妻も「すべてにおいて」夫に従属するよう、強調して求めます。

 「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」(5:25)

 夫への忠告は、妻への場合よりずっと詳しく、教会のためのキリストの心配りの感動的な像が描かれます。キリストの教会に対する愛の献身を示し、そのように「妻を愛しなさい」と夫たちを訓戒しています。

 「キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし」(5:26)

 キリストの教会に対する献身の目的が示されます。それは教会を「清めて聖なるもの」とすることであり、神に仕えるために聖別することでした。キリストのために用意を整え、キリストへと導かれることを望む、輝くばかりに純粋で美しい花嫁の姿が浮かび上がります。キリストは教会をバプテスマの水の洗いによって清めたのです。根源的には清めはすでにキリストの十字架の死によって行われました。後のすべての「清め」は彼の死の力がさらに働き続けることによって行われます。洗礼はキリストの言葉によって初めて清めの力をも持つのです。清めの洗いのたとえは、キリストが教会をいかにすばらしく、美しくしようとしたかの描写へと移ります。

 「しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。」(5:27)

 キリストは教会を「栄光あるものとして」立て、あたかも自分のところへ導こうとします。キリストと教会を花婿と花嫁にたとえるイメージが付け加わっています。

 「そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。」(5:28)

 前節を受けて、「キリストがするように」、夫も妻を愛すべきです。夫が「自分自身の体のように」妻を愛することは、キリストと教会の関係に基礎づけられたように、夫婦の一体性を意味しています。「妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです」に、自己愛の展開として妻への愛を見るのでなく、かしらなるキリストと体なる教会との関係に見られるような、頭なる夫と体なる妻の関係を示し、夫と妻の二人は一体となっている結合を示し、エフェソ書の主題である一致が説かれているのです。

 「わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。」(5:29)

 体への愛は、自分の肉体を「養い、いたわる」こととして描かれます。夫は自分の肉体を養い、いたわり世話するという描写は、妻に向けられたものであり、夫は妻を同じ仕方で配慮すべきです。キリストが養い、世話する体とは教会です。

 「わたしたちは、キリストの体の一部なのです。(5:30)

 「わたしたちは」によって読者は自分自身がキリストの体の一部(肢体)であることを思い起します。キリストと教会の関係は、結婚における夫と妻の手本、模範であるのみならず、すべてのキリスト者が引き入れられている現実です。

 「『それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。』この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。」(5:31-32)

 31節は創世記2章24節の引用です。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」この聖句は神によって立てられた婚姻に関しての伝承を示しています。「この神秘は偉大です」と述べます。それはキリストと教会との分かちがたい交わりの神秘であり、それは夫と妻とが日々の分かち合う生活に当てはめています。

 「いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。」(5:33)

 原文直訳では「いずれにせよあなたがたもあなたがた各個人もそれぞれ妻を自分自身のように愛すべきです。そして妻は夫を敬うべきです。」と訳しています。「さて、とにかく」と言って、結婚の当事者双方が呼びかけられます。夫も、キリストが教会を愛するように、妻を自分自身のように愛しなさい(28節の繰り返し)、と勧めています。そして妻も夫を「畏れ」、畏敬をもって対すべきことが言われています。

 「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。」(6:1)

 コロサイ書3章21節にある、「子供たち、どんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです。」という家族倫理とほぼ一致します。「すべてのことにおいて」従うことを無条件に子供に要求しようとするのではなく、「主にある」服従を要求します。「それは正しいことです」は、著者がコロサイの「それは主にて喜ばれる」ということばから、一般的理由づけの文章として意図的に選んだと言えます。子供も完全に教会に属し、主の意志に従って行動を決定すべきです。理由づけの中で著者は「喜ばれる」の代わりに「正しい」と言いますが、それは神の戒めへの服従として言われているのです。

 「『父と母を敬いなさい。』これは約束を伴う最初の掟です。 『そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる』という約束です。」(6:2-3)

 出エジプト記20:12には、「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられた土地に長く生きることができる」とあります。この十戒の五番目の戒めは、約束の地カナンの所有と関わり、異邦人キリスト者の読者にとっては意味がありません。しかし著者は約束を強調して、こえは約束が付け加えられる「第一の戒め」である、と言います。これは神に関わる四つの戒め(第一戒から第四戒)の後に来る、人間に関する第一の、そして最も重要な、人間相互の交わりに秩序を当てる戒めであり、そえゆえに、「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という「慰めの約束」が付け加えられます。

「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭(さと)されるように、育てなさい。」(6:4)

  父親への忠告もコロサイ書3:21の家族倫理とほぼ一致します。「父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないから」とあります。原文直訳では、子供を「挑発して怒らせて」はならない、と訳しています。コロサイ書では「いらだたせて」は、原文直訳では「刺激する」という別のことばが用いられています。「いじけないように」という人間的な動機を、エフェソの著者は「主のしつけと教えにおいて教育しなさい」という肯定的な忠告に代えます。怒りを挑発するような、きついふまいを否定することによって、主のしつけと教えは決然とした中にも暖か味と穏やかさを含むからです。パウロは教会の父としてコリントの人を「愛する子供のように」正しく導こうとします。キリストの支配は、すべての必要な忠告と導きが、愛の霊によってなされるのです。「教育」と「(正しく)導くこと」は本来異なる響きを持ちます。前者は(きびしい)総合教育(しつけ)の意味で、後者は言葉による善導、大きな子供にふさわしい、柔軟なやり方を意味します。この二つは「主がなされるように」という条件が付いてより高い原則の下に置かれることになります。

  これらの家族倫理は、一般の人に対するものではなく、教会の信徒に求められたものです。神の恵みにより、信仰によって救われた者たちの倫理です。自己中心的な罪から解放されていない者たちにとっては、「キリストが教会のために命を捧げたように妻を愛す」ことは、到底できないことなのです。それができるようになるためには、キリストのよる罪の赦し恵み、神に愛されている自分を知ることです。神の赦しの恵み愛を豊かに受けることによって、他の人をも自分と同じように愛すことのできる愛、聖霊による愛をいただけるのです。夫婦は神の愛を土台として家庭を築き、神の愛、キリストの恵み、聖霊による神との交わりをいただくときに、主の平安に満たされた、平和な、愛に満ちた、幸せな家族となることができるのです。

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