↑ 「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」ヨハネ一、4:10
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日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
聖霊降臨節第2主日 2021年5月30日(日) 午後5時~5時50分
年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)
聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)
礼 拝 順 序
司会 田中 恵子姉
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 13(みつかいとともに)
交読詩編 103(わたしの魂よ、主をたたえよ)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)ヨハネの手紙一、4章7-12節(新p.445)
説 教 「私たちを救う神の愛(アガペー)」辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 481(救いの主イェスの)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
祝 祷
後 奏
〇 オンラインでどなたでも礼拝に参加できます。ズーム設定担当は、斎藤美保姉です。
次週礼拝 6月6日(日)午後5時~5時50分
聖 書 フィリピの信徒への手紙2章1~5節
説教題 「へりくだった心をもちなさい」
讃美歌(21) 497 543 27 交読詩編 90
本日の聖書
4:7愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。 8愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。 9神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。 10わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。 11愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。 12いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。
本日の説教
ヨハネの手紙一には、「神は愛(アガペー)」であるという言葉があります。新約では「愛」をギリシア語のアガペ-で表しています。愛(アガペー)はキリストによって示された自己否定的な他者本位の純粋な愛です。
新約聖書の神の本質である愛は旧約聖書にも随所に記されているのですが、一般的には旧約聖書は義の神、裁きの神というように受けとられていることが多いのですが、それは大きな誤りです。旧約聖書の神も新約聖書の神も同じ神です。旧約聖書では、神が世界を造り、さらに交わりの相手として人間を創造したことにあります。またいかに歩むべきか分からない人間を、また主の民を導き、その罪を赦し清めつつ、導いていかれる神であります。出エジプト記34:6には、「主は憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみ(へセド)とまことに満ち、罪と背きと過ちを赦す方」とあります。詩篇103篇も、「主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみ(へセド)は大きい。・・・主はわたしたちを罪に応じてあしらわれれることなく、わたしたちの悪に従って報いられることもない」と告げています。旧約では愛を「慈しみ(へセド)」というヘブライ語で表しています。慈しみ(へセド)は神の不変の愛のしるしです。
そしてこのように愛によって導く神は、人々を最終的に神の国に導くために、まったくそれまでの方法とは異なる道を新たに導入して下さいました。それが、イザヤ書の53章にある「主の僕による苦難と死」の預言です。そこにはいかなる方法をもってしても、人間を救い出そうとされる神の愛があります。神の愛に応えることなく背き続ける人間に対してさえも滅ぼしてしまうことをせず、全くあらたな道を備えて下さったのです。
そしてこの愛が実際に歴史のなかで現れたのが、イエス・キリストであり、その十字架による罪のあがないであり、復活でした。このようにして旧約聖書における神の愛は、はじめはイスラエル民族に示されたのですが、そのまま新約聖書のキリストにおいて世界のすべての民への愛へとなっていくのです。このことも、「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(創世記12:3)と神はアブラハムに約束されていました。
神様は愛なる方であり、神様の愛は、神の独り子イエス・キリストを世にお遣わしになり、わたしたちが罪と死の束縛と支配から解放されて生きるようにしてくださるために、わたしたちの罪を償ういけにえとしてくださいました。ここに神の愛があります。(ヨハネ一、4:10)
キリストは「敵を愛しなさい」(マタイ5:44)と教え、自分を十字架につける人々のために、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と言われました。この主イエスにならって、最初の殉教の死を遂げたのは、初代教会の執事として選ばれたスティファノでした。彼は石打ちの刑で殺されるとき、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んで眠りにつきました。
サウロ(ギリシヤ名パウロ)は、ステファノの処刑に立ち合いました。この敵をも赦すキリスト教徒、ステファノの愛を目撃したことが、後の彼の回心に大きな影響を及ぼしたことは言うまでもありません。彼はシリアのダマスコに逃れたキリスト教徒を追って、ダマスコに近づいたとき、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼び掛けるイエスの声を聞きました。神はこのサウロを捕らえ、キリスト教の宣教者として召されたのです。
使徒となったパウロは、「あなたがたは神に愛されているのですから、・・・互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」(コロサイ3:13)と勧めています。
神の愛は、愛されるにふさわしくないような、神を神としない不遜な罪ある者をも、差別なく愛し、命を犠牲にしてまでも、罪を赦し、救おうとする愛です。神がこのようにわたしたちを愛されたのだから、わたしたちも互いにあいすべきです。
親子の愛、兄弟の愛、友情、男女の愛、夫婦の愛があります。しかし、その愛は完全な愛ではありません。その愛は自己中心的だからです。主イエス・キリストの十字架による神様の愛を知った時、完全な本当の愛を知ることができます。
人を赦すということは、大変むずかしいものです。その例話が、佐藤泰生氏の書いた「ナルドの壺」という説教集の「愛のゆるし」という題にあります。その例話を紹介します。
1967年(昭和42年)頃のこと、東北のある温泉町で、美人コンテストが行われ、Kという女性が第一位に選ばれました。ところが第二位となった友だちから、大変ねたまれ憎まれて、美しい顔に硫酸をかけられ、大やけどをしてしまいました
。彼女の得意、幸福は一瞬に消えて、絶望と怒りとが、Kさんの心に渦巻き、自分の一生をだいなしにした友だちを、殺して自分も死のうと、幾度も思いつめたそうです。Kさんは、整形治療のため上京し、教会の隣りにある病院に入院しました。この病院に教会員で看護婦をしている人の導きで、Kさんは聖書を読むようになり、教会の夕拝にも来るようになりました。一年余りの入院期間に、洗礼を志願するまでになりました。
教会では、牧師さんが受洗の決心などについてKさんに尋ねました。「あなたは、洗礼を受けてイエスさまのお弟子になろうとしていますが、イエスさまが十字架の上で自分を殺す人々をゆるし、神さまにゆるしをお願いし、祈りをなさったように、あなたは友だちをゆるせますか。自分の顔に硫酸を賭けて、顔に大やけどを負わせ、明るい人生をこわしてしまったあなたの友だちを、心からゆるせますか。ゆるせるなら洗礼を授けましょう。どうですか、ゆるせますか」と尋ねました。Kさんは、顔をゆがめ、一分、二分、三分と沈黙していましたが、やがて、身体を震わせながら、「心からゆるします」と、はっきり答えました。自分の前途を全くダメにした友人を、いっそ殺して自分も死のうと、何回も考えたという彼女は、イエスによる十字架の赦しを信じ、その導きによって、友人を赦すことができたのです。主イエスの十字架を仰いで、自分の罪をゆるされたものこそ、他人の罪や欠点をゆるすことのできるものとなるのです。
Kさんは、牧師さんから洗礼を受けてまもなく、郷里の温泉町に帰って行きました。元の美しい顔に返ることはむずかしく、ある程度、なおったところで、郷里に帰ったのです。友人を心からゆるすことのできたKさんは、心は以前より美しくなり、平安をかち得たのです。郷里に帰ったKさんから、その後、牧師さんのもとに手紙が来ました。それによると、「私は友だちをゆるすことができて、本当にうれしい。信仰のおかげです。信仰に入った今になって、よく考えてみると、硫酸をかけられたことは、自分も悪かった。ミス〇〇に選ばれて得意になり、その態度が友だちを刺激したことを思うと、友だちに対して、本当にすまない思う」という内容であったということです。Kさんは、顔の美しさを失ったが、実に心の美しさと愛とを、神さまからいただくことができたのでした。以上が例話です。
神の愛、キリストの愛を豊かにうけて、他の人をも愛しましょう。わたしたちの人生の目的は神を愛し、人を愛すことです。「愛を追い求めなさい」(コリント一、14:1)と、真実の愛を神に願い求めることが勧められています。真実の愛は神から出るものなのです。この愛を受けて、わたしたちも互いに愛し合いましょう。「わたしたちが互いに愛し合うならば」、神はわたしたちの共同体の内にとどまってくださり、神が宿ってくださり、神の愛が完成されるのです。