富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「私たちを救う神の愛(アガペー)」 ヨハネの手紙一、4章7-12節

2021-05-29 10:24:58 | キリスト教

  「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」ヨハネ一、4:10

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

聖霊降臨節第2主日  2021年5月30日(日)       午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                              礼 拝 順 序

                 司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  13(みつかいとともに)

交読詩編  103(わたしの魂よ、主をたたえよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヨハネの手紙一、4章7-12節(新p.445)

説  教 「私たちを救う神の愛(アガペー)」辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                       

讃美歌(21) 481(救いの主イェスの)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇 オンラインでどなたでも礼拝に参加できます。ズーム設定担当は、斎藤美保姉です。 

                   次週礼拝 6月6日(日)午後5時~5時50分    

                   聖 書 フィリピの信徒への手紙2章1~5節

                   説教題 「へりくだった心をもちなさい」

                   讃美歌(21) 497 543 27 交読詩編 90  

本日の聖書 

4:7愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。 8愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。 9神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。 10わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。 11愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。 12いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。

本日の説教

ヨハネの手紙一には、「神は愛(アガペー)」であるという言葉があります。新約では「愛」をギリシア語のアガペ-で表しています。愛(アガペー)はキリストによって示された自己否定的な他者本位の純粋な愛です。

新約聖書の神の本質である愛は旧約聖書にも随所に記されているのですが、一般的には旧約聖書は義の神、裁きの神というように受けとられていることが多いのですが、それは大きな誤りです。旧約聖書の神も新約聖書の神も同じ神です。旧約聖書では、神が世界を造り、さらに交わりの相手として人間を創造したことにあります。またいかに歩むべきか分からない人間を、また主の民を導き、その罪を赦し清めつつ、導いていかれる神であります。出エジプト記34:6には、「主は憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみ(へセド)とまことに満ち、罪と背きと過ちを赦す方」とあります。詩篇103篇も、「主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみ(へセド)は大きい。・・・主はわたしたちを罪に応じてあしらわれれることなく、わたしたちの悪に従って報いられることもない」と告げています。旧約では愛を「慈しみ(へセド)」というヘブライ語で表しています。慈しみ(へセド)は神の不変の愛のしるしです。

 そしてこのように愛によって導く神は、人々を最終的に神の国に導くために、まったくそれまでの方法とは異なる道を新たに導入して下さいました。それが、イザヤ書の53章にある「主の僕による苦難と死」の預言です。そこにはいかなる方法をもってしても、人間を救い出そうとされる神の愛があります。神の愛に応えることなく背き続ける人間に対してさえも滅ぼしてしまうことをせず、全くあらたな道を備えて下さったのです。

 そしてこの愛が実際に歴史のなかで現れたのが、イエス・キリストであり、その十字架による罪のあがないであり、復活でした。このようにして旧約聖書における神の愛は、はじめはイスラエル民族に示されたのですが、そのまま新約聖書のキリストにおいて世界のすべての民への愛へとなっていくのです。このことも、「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(創世記12:3)と神はアブラハムに約束されていました。

 神様は愛なる方であり、神様の愛は、神の独り子イエス・キリストを世にお遣わしになり、わたしたちが罪と死の束縛と支配から解放されて生きるようにしてくださるために、わたしたちの罪を償ういけにえとしてくださいました。ここに神の愛があります。(ヨハネ一、4:10)

キリストは「敵を愛しなさい」(マタイ5:44)と教え、自分を十字架につける人々のために、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と言われました。この主イエスにならって、最初の殉教の死を遂げたのは、初代教会の執事として選ばれたスティファノでした。彼は石打ちの刑で殺されるとき、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んで眠りにつきました。

 サウロ(ギリシヤ名パウロ)は、ステファノの処刑に立ち合いました。この敵をも赦すキリスト教徒、ステファノの愛を目撃したことが、後の彼の回心に大きな影響を及ぼしたことは言うまでもありません。彼はシリアのダマスコに逃れたキリスト教徒を追って、ダマスコに近づいたとき、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼び掛けるイエスの声を聞きました。神はこのサウロを捕らえ、キリスト教の宣教者として召されたのです。

使徒となったパウロは、「あなたがたは神に愛されているのですから、・・・互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」(コロサイ3:13)と勧めています。

神の愛は、愛されるにふさわしくないような、神を神としない不遜な罪ある者をも、差別なく愛し、命を犠牲にしてまでも、罪を赦し、救おうとする愛です。神がこのようにわたしたちを愛されたのだから、わたしたちも互いにあいすべきです。

親子の愛、兄弟の愛、友情、男女の愛、夫婦の愛があります。しかし、その愛は完全な愛ではありません。その愛は自己中心的だからです。主イエス・キリストの十字架による神様の愛を知った時、完全な本当の愛を知ることができます。

人を赦すということは、大変むずかしいものです。その例話が、佐藤泰生氏の書いた「ナルドの壺」という説教集の「愛のゆるし」という題にあります。その例話を紹介します。

1967年(昭和42年)頃のこと、東北のある温泉町で、美人コンテストが行われ、Kという女性が第一位に選ばれました。ところが第二位となった友だちから、大変ねたまれ憎まれて、美しい顔に硫酸をかけられ、大やけどをしてしまいました

。彼女の得意、幸福は一瞬に消えて、絶望と怒りとが、Kさんの心に渦巻き、自分の一生をだいなしにした友だちを、殺して自分も死のうと、幾度も思いつめたそうです。Kさんは、整形治療のため上京し、教会の隣りにある病院に入院しました。この病院に教会員で看護婦をしている人の導きで、Kさんは聖書を読むようになり、教会の夕拝にも来るようになりました。一年余りの入院期間に、洗礼を志願するまでになりました。

 教会では、牧師さんが受洗の決心などについてKさんに尋ねました。「あなたは、洗礼を受けてイエスさまのお弟子になろうとしていますが、イエスさまが十字架の上で自分を殺す人々をゆるし、神さまにゆるしをお願いし、祈りをなさったように、あなたは友だちをゆるせますか。自分の顔に硫酸を賭けて、顔に大やけどを負わせ、明るい人生をこわしてしまったあなたの友だちを、心からゆるせますか。ゆるせるなら洗礼を授けましょう。どうですか、ゆるせますか」と尋ねました。Kさんは、顔をゆがめ、一分、二分、三分と沈黙していましたが、やがて、身体を震わせながら、「心からゆるします」と、はっきり答えました。自分の前途を全くダメにした友人を、いっそ殺して自分も死のうと、何回も考えたという彼女は、イエスによる十字架の赦しを信じ、その導きによって、友人を赦すことができたのです。主イエスの十字架を仰いで、自分の罪をゆるされたものこそ、他人の罪や欠点をゆるすことのできるものとなるのです。

Kさんは、牧師さんから洗礼を受けてまもなく、郷里の温泉町に帰って行きました。元の美しい顔に返ることはむずかしく、ある程度、なおったところで、郷里に帰ったのです。友人を心からゆるすことのできたKさんは、心は以前より美しくなり、平安をかち得たのです。郷里に帰ったKさんから、その後、牧師さんのもとに手紙が来ました。それによると、「私は友だちをゆるすことができて、本当にうれしい。信仰のおかげです。信仰に入った今になって、よく考えてみると、硫酸をかけられたことは、自分も悪かった。ミス〇〇に選ばれて得意になり、その態度が友だちを刺激したことを思うと、友だちに対して、本当にすまない思う」という内容であったということです。Kさんは、顔の美しさを失ったが、実に心の美しさと愛とを、神さまからいただくことができたのでした。以上が例話です。

    

神の愛、キリストの愛を豊かにうけて、他の人をも愛しましょう。わたしたちの人生の目的は神を愛し、人を愛すことです。「愛を追い求めなさい」(コリント一、14:1)と、真実の愛を神に願い求めることが勧められています。真実の愛は神から出るものなのです。この愛を受けて、わたしたちも互いに愛し合いましょう。「わたしたちが互いに愛し合うならば」、神はわたしたちの共同体の内にとどまってくださり、神が宿ってくださり、神の愛が完成されるのです。

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「聖霊降臨日のペトロの説教」 使徒言行録2章14~26節

2021-05-22 23:58:23 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

聖霊降臨節第1主日(ペンテコステ礼拝)  2021年5月23日(日)   午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。(エフェソ3・16-17)

        礼 拝 順 序

                 司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 343(聖霊よ、降りて)

交読詩編  100(全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)使徒言行録2章14~26節(新p.215)

説  教  「聖霊降臨日のペトロの説教」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                    

讃美歌(21) 342(神の霊よ、今くだり)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇 ズームで名古屋の辺見貴広兄が礼拝に参加します。ズーム設定担当は、斎藤美保姉です。  

 

                    次週礼拝 5月30日(日)午後5時~5時50分    

                    聖 書 ヨハネの手紙一、4章7-12節

                    説教題  「ゆるしの愛」

                    讃美歌(21) 13 481 27 交読詩編 103  

   本日の聖書  

2:14すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。 15今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。 16そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。

17『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。 わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。 19上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。 20主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。 21主の名を呼び求める者は皆、救われる。』

22イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。 23このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。 24しかし、神はこのイエスを

死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。 25ダビデは、イエスについてこう言っています。

『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。 だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。 あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。 28あなたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』

29兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。 30ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。 31そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました。

 32神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。 33それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。 34ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。 35わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで。」』 36だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

37人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロと他の使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。 38すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 39この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」 40ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。

本日の説教 

主イエスは、ユダヤ教の<過越祭の>安息日の翌日(日曜日)に復活されました。この復活日(イースター)から数えて五十日目がユダヤ教のペンテコステ(五旬祭)(レビ記23:15-16)」の日です。<五旬祭>はギリシア語の第五十を意味する「ペンテコステ」に由来するユダヤ教の「七週祭」のことで、<小麦の収穫の初穂>を神にささげる日でした。

この五旬祭(ペンテコステ)の日に、復活の主が約束された聖霊降臨が起こりました。このことから、<ペンテコステ(第五十)>という語は、キリスト教の<聖霊降臨日>を意味するようになりました。

 弟子たちは、主イエスが約束された聖霊を受けるため、エルサム市内に家に集まっていました。五旬祭の日になり、一同が一つになって集まっていると、突然聖霊が降り、一同は聖霊に満たされ、聖霊が語らせままに、他国の言葉で話しだしました。おそらく異言だったと思われます。

エルサレムには、当時の世界各地出身の信心深いユダヤ人たちが住んでいましたが、この物音に大勢の人々が集まってきました。

  当時、エルサレムに住んでいた外国出身のユダヤ人の故郷

そしてだれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、驚き、怪しみました。「この人たち、皆ガリラヤの人ではないか」。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」と、人々は皆とまどい、「いったい、これはどいうことなのか」と互いに言いました。しかし、このような不思議な熱狂的様子を、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」とあざける者もいました。

 

この奇跡に驚いている民衆に向かって、ペトロは他の十一人の使徒と共に立って、声を張り上げて話し始めました。ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち」とペトロは呼び掛け、「知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください」と語りかけました。

ペトロは、「今は朝の九時ですから、この人たちは酒に酔っているのではありません」と話し出しました。聖霊の働きによって弟子たちが、外国の言葉で語った現象を、ペトロは預言者ヨエルによって語られていた預言が実現したのだと語りました。

ヨエルが活動したのは、紀元前450年から400年頃と思われています。ヨエルは旧約聖書の預言者の中では、年代的には最後の預言者です。ヨエル書3章1~5には「神の霊の降臨」が生じ、人々が神の言葉、すなわち、福音を聞いて救われる恵みの時代がくると預言されています。

ペトロは、ヨエルの預言を語り聞かせます。「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。」<わたしの霊>とは、神の息であり、神の力です。ここでは神が人の命を支え、歴史の中で力強い業を行い、救いを与えることが預言されています。

旧約聖書の伝統の中では、神の霊は、神の特別な選びと好意を受けた者だけ注がれるものでした。例えば王や士師、預言者でした。ところが、預言者ヨエルは、「あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ」と、「神の霊」が全ての人に対して注がれると預言したのです。

「すべての人」とは、イスラエルの民のすべての人です。「息子や娘」、すなわち、男女の性別にかかわりなく、聖霊は与えられて、人は預言をする。また、「奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ」とあり、社会の階級や立場にかかわりなく、社会の最下層の男の奴隷、女の奴隷にも、神は聖霊を与える、と預言したのです。

ペトロは、ヨエルの世の終わりの預言を、「上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。」と語り聞かせました。

世の終わりの最後の審判が来るとき、その前兆(しるし)が、天にも地にも、自然界に異変、災害が現われる。しかし主の名を呼び求める者は、救われると、ヨエルの預言を悔い改めの勧告に結びつけます。

ペトロは、「イスラエルの人たち」(22節)と再度の呼びかけをし、ユダヤ人を告発します。「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。……このイエスを、……あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです」(2:22b… 23)と告発します。「律法をしらい者たち」とは、ローマ帝国の総督ピラトやその兵卒たちを指しています。このことは神が予知されていたことが起きたのです。

ペトロは、「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。ダビデはイエスについてこう言っています」(2:24~25a)。

ペトロはこう言って、詩編16篇8~11節を引用し、ダビデ王が言った言葉で、イエスの復活を証明しました。この詩編の言葉は、主イエス・キリストの復活が神様のご計画の中に既にあったことなのだと、ペトロは説明したのです。

「兄弟たち」(29節)、とペトロは三度目の親しい呼びかけをしました。ペトロは詩篇16編10節の「彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない」を再び引用して、キリストの復活を証明しました。

イエスの復活を詩編の言葉で証明したペトロは「わたしたちは、イエスの復活と昇天の証人です」と宣言しました。さらにペトロは神の右の座に上げられたイエスの昇天を、詩編110・1を引用し、「主(神)は、わたしの主(キリスト)に神の右の座に着くようにお告げになった」と証明しました。

 ペトロは、今度は「イスラエルの全家(ぜんか)は」と言い、「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」と語りました。「イスラエルの全家」とはイスラエルの全(すべ)ての家のことで、国外に滞在するユダヤ人を含めたユダヤ人をも対象として語りかけたのです。そして、神はあなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神の右に上げられ、主(世を支配する主)とし、メシア(救い主)とされたのです、と宣言しました。

 ペトロの説教は、ユダヤ人に対して、キリストの十字架と復活、昇天、聖霊降臨を、聖書の預言の成就であると説き、自分たちは主の復活の証人であることを述べ、イエスは神の右に座す支配者であり、救い主(キリスト)であると宣言したのです。

 「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(2・36)は、ペトロの説教の要約です。ペトロはこの説教で、「あなたがたはこのイエスを殺してしまったのです」(23節)、「あなたがたが殺したイエス(36節)」と、二度もイエスの殺害の責任をユダヤ人に帰しています。神の民であると自負するユダヤ人が神の子を拒否し、直接手を下さないまでもイエスを十字架に追いやった責任と罪に気付き、悔い改めるように迫っています。

しかし、ペトロの説教はユダヤの罪を告発しただけではありませんでした。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」という言葉には、イスラエルの人々の罪を用いて救いのみ業を達成して下さった神様の恵みが示されています。罪が指摘されていると同時に、その救いと赦し、人間の罪に対する神様の恵みの勝利が宣言されているのです。神様の恵みが、人間の罪と死に既に打ち勝ち、それを滅ぼしてしまっていることを、ペトロの説教は告げているのです。

ペトロの説教を聞いた人々は心を打たれ、ペトロと他の使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言いました。

ペトロは、彼らに向かって、「悔い改めなさい。イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」と言って、聖霊はイスラエルの人々に限定されない、すべての人に与えられるものであると言いました。

ペトロが告げ知らせた福音は、ダビデ王の時代から、およそ一千年もの間イスラエルの民が待望してきた、イスラエルの民を救うメシアが、神の右に座し、世を支配する主となられたという知らせです。神がイスラエルの始祖アブラハムに誓われた「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」という約束が実現したのです。実に、紀元前二千年も前にアブラハムに誓われた、全人類を救う神の御計画が実現したのです。

今から二千年前に弟子たちや初期教会を導いた聖霊が、同じように現代のわたしたちにも与えられるのです。聖霊は、キリストが今も生きておられる方であることを示し、キリストの力と栄光を示すものでもあります。聖霊は罪から清める力でもあり、愛の賜物でもあります。この聖霊を祈り求めましょう。そして、神の偉大な救いを世に告げ知らせようではありませんか。

      

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「戸の外に立つキリスト」 ヨハネの黙示録3章14-21

2021-05-16 00:31:41 | キリスト教

↑ ウィリアム・ホルマン・ハントの「世の光」 所蔵:セント・ポール大聖堂(ロンドン)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

復活節第5主日  2021年5月16日(日)    午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。(エフェソ3・16-17)

                       礼 拝 順 序

                 司会 斎藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 149(わがたまたたえよ)

交読詩編  103(わたしの魂よ、主をたたえよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヨハネの黙示録3章14-21(新p.456)

説  教 「戸の外に立つキリスト」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                    

聖餐式    56(主よ、いのちのパンをさき)

讃美歌(21) 430(とびらの外に)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                                           次週礼拝 5月23日(日)聖霊降臨日礼拝 午後5時~5時50分    

                                           聖 書 使徒言行録2章14~26節

                                           説教題  「聖霊降臨日のペトロの説教」

                                          讃美歌(21) 343 342 27 交読詩編 51  

本日の聖書  

3:14ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。『アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。 15「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。 16熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。 17あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。 18そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。 19わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。 20見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。 21勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。 22耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。」』」

本日の説教 

 第一世紀の終わり頃、ローマ帝国の属州であったアジア州(トルコ)の諸教会は、紀元95年頃、ドミティアヌステ帝の時に行われたキリスト教の迫害によって、殉教者が出始めました。教会内部でも偽りの使徒により内部分裂の危機にさらされていました。福音宣教のためにパトモスの島に流刑の身となっていた預言者ヨハネは、キリストの再臨と勝利、この世の終末と神の国の完成を告げて、殉教の危機にさらされている諸教会と信徒を激励し、忍耐をもって信仰を守り抜かせるために、書いたのが黙示録です。

黙示録の1章から3章までの構成は、次のようになっています。

1章 初めの言葉 七つの教会へのあいさつ ヨハネへの啓示が示された顛末(天上におられるキリストの姿)

2章-3章 七つの教会へのメッセージ(エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキア)

  4章から22章までは、聖霊に満たされた預言者ヨハネの幻視による壮大な終末の描写です。

今日の聖書の箇所は、ラオディキアの教会へのメッセジです。

  「ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。『アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。』」(3:14)

ラオディキアの町は商業・織物の盛んな町であり、目薬で有名な医学校がありました。発信人の「アーメン」である方は、天上のキリストの姿を表現するヨハネの独自な表現です。「アーメンである方」は<真実な方>と同じ意味です。イエス・キリストは神のみ旨を証した真実な方であり、キリストは万物の創造に関与している聖なる方です。その方が次のように言われます。

「『わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。』」(3:15)

経済的に裕福であったラオディキアの町の教会は、その信仰が<なまぬるい>ものでした。彼らの信仰は熱することも、冷たく反対することもなく無関心に近かった。外面的・物質的豊かさの中で、内面的・霊的に、悲惨で貧しい実情であるのに気づかなかった。ここには宗教的な迫害も経済的な圧迫も記されていません。彼らは<目の見えない者、裸の者である>と言われます。当時、眼科の医学を誇ったこの町、織物業で知られた町は、衣類に事欠かないのに、教会の信者に対して、このようなたとえが用いられています。むしろ、<冷たいか熱いか、どちらかであってほしい>。

「『熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。』」(3:16-18)

<火で精錬された金>を買うとは、<試練によって本物を証明され>た信仰のことです。<白い衣>は勝利者、キリストに従う信者の衣です(黙示録7:9)。目薬で知られた町の教会で、信者は<目に塗る薬を買>わねばなりません。<体のともし火は目である><あなたの中にある光〔キリスト〔〕>(マタイ6:22-23)を求めよ、と勧告します。

「『わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。』」(3:19)

わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする>は、ヘブライ12:5-7に、「わが子よ。主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい」とあります。

「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」(3:20)

キリストは神と共に王座におられます(黙示録5:1)。しかし、キリストはラオディキアの信者に悔い改めを求めて<戸口に立って>います。そしてキリストはすぐ来られます。時が迫っている方(黙示録1:3,3:11)でもあります。預言者ヨハネののキリスト像は、この場面でも、時間の前後関係、過去・現在・未来の順序を越えて描かれます。

以上の勧告に、祝福に満ちた約束が伴っています。キリストが外で叩いているのは、明らかに内側からしか開けられない戸です。心の戸を開ける者に、キリストは「入って来られます」。<共に食事をする>が、ここに二度も繰り返されています。キリストと共に食事するということは、神の国に入ることです(ルカ14:15-24)。特に終末のキリストの婚宴に招かれるという描写が、その祝福を美しく描いています(黙示録19:9)。

「勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。」(3:21)

わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じようにのことばは、七つの教会に宛てた手紙の最後にあって、次の四―五章の幻視へと橋渡しをします。五章に掲げられた最後の賛美は、<王座に座っておられる方と小羊とに>ささげられています(5:13)。これは預言者ヨハネの独特なキリスト像です。さらに、キリストが神と共有する座に<勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせようとあります。

キリストと共に食し、キリストと王座を共有するであろうという、この箇所は、ルカ22:29-30に近い。そこには、<わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがあは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる>とあります。最もなまぬるいラオディキアにある教会が、<悔い改めよ>と勧告されます。そして彼らがキリストの声を聞き入れるとき、キリストと食事の席を共にする祝福が約束されています。

英国の宗教画家ウィリアム・ホルマン・ハントが描いた名作に、「世の光」という絵があります。「私は世の光である。私の教えに従う者は、闇の中を歩く事は無く、人生の光を得るであろう。」(ヨハネによる福音書8:12)この聖書に書かれたキリストの言葉にインスピレーションを得て、ウィリアム・ホルマン・ハント(William Holman Hunt、1827-1910年)が描いた絵が、「世の光(The Light of the World)」です。

絵の額の下の部分には、聖書からの引用、「見るがよい、私は戸口に立ち、ノックをする。もし誰かが、私の声を聞き、その扉を開けるなら、私は、その者のもとへ行き、共に食事をするであろう。(ヨハネの黙示録3:20)が記されています。この絵は、この聖句をテーマにして描いたものです。
 ハントは、「世の光」を、計3枚描いていますが、一番最初の「世の光」を完成させたのは、彼がまだ若い頃の1853年。現在、この最初の物は、オックスフォード大学のキーブル・カレッジ(Keble College)にあります。これが彼の出世作品となります。「世の光」の、2つめのヴァージョンは、少々小さめで、最初のものと、ほぼ同時期に描き始め、1856年に完成。高さ125.5cm、横幅59.8cm。こちらは、現在、マンチェスター市立美術館(Manchester Art Gallery)に所蔵されています。

この絵の3つめは、他の2つより大きいヴァージョンです。最初の2枚の絵から、約50年も経った、1904年に完成。ハントの人生の締めくくりの期に描いています。この絵は、イギリスの社会改革運動家として知られるチャールズ・ブース(Charles Booth)が購入し、1905年から1907年に渡る2年間の間、この「世の光」は、カナダ、南アフリカ、ニュージーランド、オーストラリアの都市や町を回るというワールドツアーに出るのです。大成功のツアーが終わっての帰国後、絵はロンドンのセント・ポール大聖堂に寄贈され、現在もセント・ポールの北側袖廊にて、見ることができます。

    

この絵は、明け方、ランプを下げたキリストが、長いこと開かれることなく、つたの絡まった扉を叩こうとしている、イエス・キリストの姿が描かれています。復活のキリストの顔は、光り輝いています。作品中の扉には取っ手がなく、中からしか開けられない構造になっています。これは「頑なに閉じた心」を象徴していると言えます。そしてキリストが歩いている道は雑草でいっぱいです。心のドアはまだ開かれていないことを象徴しています。

キリストが持っている7面のランプは、黙示録に書かれている7つの教会を意味しています。地面にころがっている赤いリンゴは、アダムとイブが住んでいた、人間の楽園、エデンの園から追放された原因のリンゴです。人間の原罪を表しています。主は戸が開かれるのを待っています。主のために心の戸を開くとき、主は私たちの内に来られ、私たちは光を世の人々の前に輝かすものとなるのだとハントの絵は語りかけています。あなたも心を開いてこの救い主イエス・キリストを心に迎えませんか? あなたを愛し、あなたの罪を赦してくださる方を心に迎えるとき、あなたの心に喜びと感謝、豊かな恵みと祝福が与えられるからです。 

 

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「ヤコブとヨハネの母の願い」 マタイによる福音書20章20~28節

2021-05-08 03:00:50 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

復活節第4主日(母の日)  2021年5月9日(日)       午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

                        礼 拝 順 序

                 司会 齋藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 214(わが魂(たま)のひかり)

交読詩編   95(主に向かって喜び歌おう)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書20章20~28節(新p.39)

説  教 「ヤコブとヨハネの母の願い」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                    

讃美歌(21) 484(主われを愛す)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                                                            次週礼拝  5月16日(日)午後5時~5時50分    

                                                            聖 書 ヨハネの黙示録3章14-21

                                                            説教題  「戸の外に立つキリスト」

                                                            讃美歌(21) 149 56 430 27 交読詩編 103  

     本日の聖書  

20:20そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。 21イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」 22イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、 23イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」 24ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。 25そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。 26しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 27いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。28人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」

         本日の説教 

ガリラヤ湖畔の漁師ゼベダイの息子たちの名は、ヤコブとヨハネです(マタイ4:21)。ゼベダイの妻については、マタイ27:56によると、イエスが十字架で息を引き取られたのを見守っていた三人の女性のうちの一人がゼベダイの子等の母とあり、マルコ15:40にはサロメと記されています。サロメの名は、イエスに油を塗りに行くために香料を買った三人の女性の一人としても記されています(マルコ16:1)。ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネの母はサロメです。マタイによる福音書にはサロメという名は記されていません。

 イエス様が漁師のヤコブとヨハネの兄弟を弟子にするため呼んだとき、二人は父と雇人を舟に残して、イエスに従いました(マルコ1:19)。父ゼベダイは舟や網を持ち、雇人もかかえている裕福な漁師だったと思われます。

 二人の息子がイエス様に従うようになってから、母親サロメは、イエス様の教えについて息子たちから聞いており、エルサレムに向かうイエスの一行の中にサロメも同行していたと思われます。サロメはイエス様に尊敬を好意を抱いて、一行に奉仕していたと思われます。

 ペトロが、イエス様に、「わたたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」と問うたときに、イエス様は、「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルに十二部族を治めることになる」(マタイ19:27-28)、と答えられました。この話も、サロメは息子たちから聞いていたのかも知れません。弟子たちは、イエス様が言われた「栄光の座につく時」と言われた真の意味をまだ理解できず、イスラエルの民がローマ帝国の支配から独立し、その栄光を地上に回復する時と、あやまって考えていました。

イエス様が高い山に登り、その姿が太陽のように輝いたとき、イエスが連れて行った弟子は、ペトロと、それにヤコブとヨセフの兄弟の三人でした(マタイ17:1)。ゲッセマネの祈りのときもこの三人です。この三人は重要な場面では、イエス様の近くにいました。二人の息子を特別に目をかけてくださることを知っていたサロメは、母親として息子たちの将来のことを、イエス様にお願いしておきたいと思いました。

 イエス様が十字架を覚悟してエルサレムへ上っていく途中のことです。ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとしました。マルコによる福音書では。母親は出て来ません(マルコ10:35-45)。

 栄光の座に座る王に仕えることになった息子たちに、大それた望みをサロメはいだくようになったのは自然の成り行きです。愚かな親の望みは、子供たちにも影響を及ぼします。二人の息子を持つ母親の切なる願いが、このサロメのひれ伏した姿に感じられます。

 そこで、イエス様が、「何が望みか」と言われると、彼女は「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」と頼みました。母も本人たちも望んだものは地位でした。

イエスがメシア的王として君臨するとき、王い次ぐ重要な地位を二人の息子に与えるという約束を求めました。それはきわめて世俗的な虚栄心によるものでした。子供の立身出世のために頼みに来た母親の姿がここにあります。

これに対してイエスは、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と、彼らの覚悟のほどを確かめました。

<杯>は十字架につけられて流される血を象徴する最後の晩餐での杯を思い起させます。また。「この杯をわたしから取りのけて下さい」(マルコ14:36)と祈ったゲッセマネでの祈りにあるように死に至るほどの苦しみを意味します。この比喩的表現によってイエスは、彼の進む道が栄光と権威に飾られた力で支配する道でなく、苦しみに満ちたものであることを教えます。師の歩む道がそうであるから、彼に従う者の道もまた同様であることを覚悟しなければなりません。しかしそれは愛の労苦であり、キリストと共にする労苦なので、喜びと感謝をもってすることができる労苦なのです。

ヤコブとヨセフの二人は、深い意味も考えないままに、「できます」と返事すると、イエスは、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる」と言われました。弟子たちもイエスのために命を捧げるようになることを言われたのでしょう。しかし、神の国での地位は弟子たちの受ける苦難と交換条件として約束できるものでないことを説きます。わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、「わたしの父によって定められた人々に許されるのだ」と言われました。

ほかの十人の弟子たちは、ヤコブとヨセフの母が、イエスに特別に頼んだこを聞いて、腹を立てました。十人の弟子たちも、ヤコブやヨハネ、その母親と同じように、王国での高い地位を望んでいたからです。

そこで、イエス様は一同を呼び寄せて、「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」と言われ、「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」と言われました。本当の意味で偉い人は、仕える精神を持っている人です。

これはいつか聖霊によって、弟子たちの中に起こる奇跡を主イエスは予告し、静かにさとされたのです。そしてサロメも息子たちも、本当に求めるべきものは地位ではなく、愛に富む品性であり、望むべきものは権力ではなく、人の僕となり仕える事であることを、学んだのではないでしょうか。

イエス様の御言葉を聞いたサロメは、その後、イエス様の説教しておられる場所に自ら出かけて行き、他の婦人たちと共にイエスに仕えるようになり、やがて、イエスが十字架上の死を遂げられる時に見守り、香料を携えて埋葬の準備をした婦人たちのうちにまじっていました。彼女たちは、主イエスの復活を天使から知らされた最初の婦人たちでした。彼女の二人の息子は使徒たちの中で常に名誉ある地位を保ち続けました。

ヤコブは、キリストのために、使徒たちの中で、最初の殉教の死をとげる使徒にまで高められました(使徒言行録12:2)。

ヨハネは「愛の使徒」と呼ばれるほどの柔和な性質に変えられ、主に仕えて長い生涯を送り、迫害を受けてパトモス島に流され、神の黙示を見るために召されるという特別な光栄に与るようになりました。

一体わたしたちは、子供たちのため、また自分自身のために、ひれ伏して何を求めようとしているのでしょう。

 「聖書の女性物語」(昭和47年再刷)を書いた中田徳子氏は、その著作の「母の願い・子の想い」の中で、「母の願い、母の想いは、そのまま子の願い、子の想いになっていく」例話として、母ヘロデヤと娘サロメをあげています。美しい舞をヘロデ(アンティパス)王の前で踊ったサロメが、その褒美として、「なんでも欲しいものをあげる」と王に言われたとき、母ヘロデヤに聞き、「バプテスマのヨハネの首を」求めました。ヨハネは、ヘロデ王と前夫を捨てて妻となったへロデヤの結婚を非難していた預言者です。義人ヨハネを抹殺したいと思っていた母の想いが娘の想いとなり、獄中にいたヨハネの首は切られ、盆にのせてサロメに与えられ、サロメはそれを母に渡しました(マルコ6:17-29)。

 娘サロメに舞を習わせたのは、母の願いからでした。練習の結果であるその美しい舞も、母の傲慢なおもいが娘サロメに影響し、預言者を死にいたらせる罪の原因となりました。

著者は、つぎのように述べています。「私は、息をのむような思いで、自分自身を反省しました。私の想いが、私の願いが、私の大切な子供の想いに影響し、その人生の経路に否応なしに決定づけていく。・・・自分の心の一番深い処にある願望をどこにおいているか。私は深く反省せずにはいられませんでした。」(聖書の女性物語p.14) 

良い地位、安定した生活、人の上に立つこと、それらは大きな魅力です。しかし、それを得ることを人生の目的とするとき、いつしか、他者に対する愛の欠けた自己中心の生き方になってしまいます。それが人と人との間の不信感や不和を生むことになり、愛し合う幸福を遠ざけてしまうエゴイストになってしまいます。

今、盛んになっているボランティア活動は、正に、仕える者とならなければできることではありません。行方不明の児童を発見し、助けた手柄によりス―パーボランティアと言われている大分県の尾畑春夫さん(81歳)が緑樹褒賞を受けたことは大変喜ばしことであり、奉仕の大切さを思い起させます。

イエス様に出会い、イエス様の「互いに仕える者になりなさい」という御言葉を聞くとき、聖霊の働きによって、次第にわたしたちは、自己中心の者から、神と、人に仕える愛の人とされます。そのための労苦もいつのまにか、イエス様の共にある平安と永遠の命に生きる喜びと感謝になっていることに気づくのではないでしょうか。

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「洗礼の意義」 ローマの信徒への手紙6章3~14節

2021-05-02 22:00:06 | キリスト教

                        「キリストの洗礼」 ベロッキオとレオナルド・ダ・ヴィンチの合作 1475年

          所蔵: ウフィツィ美術館、フィレンツェ、イタリア 

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会

週    報

復活節第4主日    2021年5月2日(日)      午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

                     礼 拝 順 序

 

                 司会 齋藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 204(よろこびの日よ)

交読詩編  115(わたしたちではなく、主よ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ローマの信徒への手紙6章3~14節(新p.280)

説  教      「洗礼の意義」   辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                    

讃美歌(21)  67(貴きイェス)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

 礼拝に続いて、「グレイス・タイム」があります。

                                                                     次週礼拝  5月9日(日)午後5時~5時50分    

                                                                     聖 書 列王記上3章16-28

                                                                    説教題  「母の愛」

                                                                    讃美歌(21) 214 459 27 交読詩編 95  

本日の聖書 ローマの信徒への手紙6章3~14節 

6:3それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。 4わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。 5もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。 6わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。 7死んだ者は、罪から解放されています。 8わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。 9そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。 10キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。 11このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。 12従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。 13また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。     

                           本日の説教 

バプテスマ(洗礼)とは、主イエスを信じた者が、キリスト教徒になるために、教会が執行する礼典です。バプテスマはギリシア語で、<バプティゾー(〔水に〕浸す)>という意味の動詞からきた名詞です。

キリスト教のバプテスマに道を開いたのは、イエスにバプテスマをほどこしたバプテスマのヨハネです。ヨハネのバプテスマは、悔い改めのバプテスマと呼ばれました。それは、「悔い改めよ。天の国は近づいた。」と言い、迫ってきている神の怒りに対して要求された。彼がはたした最も重要な意義は彼が強調した来るべき救い主であるイエスに対して、洗礼がなされたことです。これによって<水のバプテスマ>は<霊のバプテスマ>となり、<悔い改めのバプテスマ>は<罪のゆるしを得させる>ものとなりました。

     

                     「キリストの洗礼」 Joachim Patinir

イエス・キリストはヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けました。ヨハネの<水の洗礼>は、霊によってもたらされる洗礼への準備段階としての罪からの悔い改めの洗礼です。神の子であられる主イエスはただ一人、悔い改める必要のない、罪のない方であられます。その主イエスがどうして洗礼を受けたのでしょうか。マタイによる福音書では、ヨハネが、「わたしこそあなたから洗礼を受けるべきなのに」と言って、主イエスに洗礼を受けることを思いとどまらせようとしています。イエスが受けた洗礼は、この世に対して救い主が公に現れたことを宣言したものであり、イエスは民衆の罪を負って十字架に架かったように、ここでも民衆の罪を一身に負って、ヨハネの洗礼を受けられたものと思われます。なぜなら、このときイエスは、「これはわたしの愛する子」という神の声を聞き、メシヤとしての召命を受け、彼はその使命を、その生涯とくに十字架の死と復活によって成就したからです。

教会の洗礼(バプテスマ)は、水によって、父・子・聖霊である神への信仰を表す儀式(礼典)です。主イエスは「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(ヨハネ3:5)、と言われています。洗礼は教会が勝手に作り出したものではなく、その根拠は、主イエスが「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けよ」(マタイ28:19)、と弟子たちに言われたお言葉に基ずくものです。復活されたイエスは、「信じて洗礼を受ける者は救われる」(マルコ16:16)と言っています。主イエスの言葉を受けて、ペトロは、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と語りました(使徒言行録2:38)。

罪とは何でしょうか。キリスト教でいう「罪」とは、法律違反の罪、犯罪のことではありません。罪は、ギリシア語で「ハマルティア」と言い、「的外れ」という意味です。人間が創造主である神の意志から離れた結果、正常な状態から外れていることを罪というのです。その結果、神を崇めず、自己を誇り、神をも隣人をも自己のために利用しようとする不純な自己愛、神の意志に反する貪欲(むさぼり)、自己中心に生きようとする罪をわたしたちは宿すものとなったのです。

パウロは、キリストに出会う前、ユダヤ人として律法の学びと遵守には、誰にも負けないという誇りを持ち、神の前に自分は義しいという自覚を持っていました。十字架刑に処せられて死んだイエスを救い主と信ずるキリスト教徒を容認できず、迫害していました。しかし天から彼に語りかける活けるイエスに出会い、その徹底的な恵みにふれたとき、彼は自分の罪の深さを知ったのです。いや、自分の罪を知らされたのです。彼のこれまでの律法に対する熱心さは、神と人に対する傲慢、誇り、思い上がり、自己正当化、自己満足、自己追及であったこと、彼は自己中心の醜さを思い知らされたのです。

罪はあらゆる悪と悲惨の源であり、神の裁きを招いてわたしたちを滅びに至らせます。人は皆罪の中に生れた者であり、自己の力をもってはこれから逃れれることはできません。この罪の問題の背後には、私たち人間を支配する、罪の力、闇の力、悪魔の力が潜んでいます。それを解決することができるのは神の力、聖霊の力だけなのです。洗礼を受ける際には、自分が罪人であることを認め、また主イエスが私の罪の犠牲となった十字架について下さった、との信仰が大切です。

聖霊が最初に与えられたのは、ペンテコステ(聖霊降臨日)のときですが、またこのときはじめて教会でバプテスマが執行されました。水によるバプテスマは、それを受ける者が聖霊によって<キリストと共に死に>、また、キリストの復活に結びつき、キリストと共に<新しい命に生きる>(ローマ6:4)恵みを、体の感覚を通して受けるのです。

新しい命に生きる私は、罪を赦された私であり、天国を目指して歩む私、聖霊を内に宿す私、深い喜びと平安の中にある私、神と人への愛をもって生きる者とされた私です。

また洗礼によって、わたしたちは、「ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと」、キリストの体なる教会へと結ばれ、「皆一つの体となる」(Ⅰコリント12:13)のです。そして教会の肢体ととされたわたしたちは、霊の食物である聖餐を通してキリストの血と体にあずかるのです(Ⅰコリント10:16)。

「わたしは心の中で信じていればそれで良い」という人がいるかもしれません。しかし、イエス・キリストに救われ、このキリストを信じて生きていくことは心の内側のことに留まらないのです。洗礼の恵みは見えるかたちでわたしたしに臨み、わたしたちに働くからです。「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う」(マタイ10:32-3、ルカ12:8-9)と主イエスは言われています。人々の前でイエスを「救い主」と、信仰告白をすることが求められているのです。洗礼は教会生活の中で繰り返し行われることはなく、一度限りです。それは、キリストの十字架の出来事が一回限りで、しかもそれによって完全な救いが達成されていると信じるからです。

バプテスト教会のように全身水の中に入って受けるかたちもあり(浸礼)、頭に洗礼の水が注がれるかたちもあります(滴礼)。いずれにしても、「父と子と聖霊の名によって」授けられた洗礼は教派を超えておおむね相互に認め合っています。事情があった他の教会に移る場合にも洗礼をやり直すことは基本的にありません。

幼児洗礼は、信仰の家庭に生れた新しい命が、神の祝福とキリストの恵みに支配されていることを信じ、やがて本人が自分の意思で信仰を告白することをその家庭は祈り求めながら、その養育の責任を担うのです。幼児洗礼を受けた人は、自分の意思で信仰を告白する式を受け、聖餐の交わりに加わることが期待されています。

洗礼は単なる儀式ではなく礼典です。説教は「見えない神のことば」ですが、洗礼や聖餐は「見える神のことば」と言われています。見えるかたちで、感覚にまで訴えて、イエス・キリストと結ばれる洗礼と聖餐を(聖)礼典と言います。

礼典は、信仰と結びついて、見えるかたちで神の恵みを示します。信仰をもってこの礼典にあずかる者は、聖霊によって、もろもろの罪を赦され、キリストと一体とされて、キリストの勝ち取られた罪と死に対する勝利や復活の命にあずかるのです。バプテスマは、イエスの死と復活が信仰者の中で具体化することであり、終末を待ち望むことでもあります。それが洗礼や聖餐の意義なのです。

 

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