富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「人はうわべで判断し、神は心を見る。―ダビデ王の選び」 サムエル記上16章1~13節

2017-11-23 01:21:26 | キリスト教

               ↑  サムエル、ダビデに油を注ぐ

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

    日本キリスト教 富 谷 教 会   週 報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句 「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

     降誕前第6主日  2017年11月26日(日) 午後5時~5時50分

     礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  83(聖なるかな)

交読詩編   89、1節~30節(主の慈しみを)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳) サムエル記上16章1~13節 (p.旧453)

説  教 「主はダビデを王として選ぶー神は心を見て選ぶ」 辺見宗邦牧師

祈 祷         

讃美歌    16(われらの主こそは) 

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏  

                                 次週礼拝 12月3日(日)午後5時~5時50分

                                   聖書  イザヤ書51章4~11節  

                                   説教題    「主の来臨の希望」

                                   讃美歌(21)16 235 24 交読詩編82篇 

本日の聖書 サムエル記上16章1~13節

 1主はサムエルに言われた。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」2サムエルは言った。「どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。」主は言われた。「若い雌牛を引いて行き、『主にいけにえをささげるために来ました』と言い、3いけにえをささげるときになったら、エッサイを招きなさい。なすべきことは、そのときわたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい。」4サムエルは主が命じられたとおりにした。彼がベツレヘムに着くと、町の長老は不安げに出迎えて、尋ねた。「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか。」5「平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来てください。」サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招いた。6彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。7しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」8エッサイはアビナダブを呼び、サムエルの前を通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」9エッサイは次に、シャンマを通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」10エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。「主はこれらの者をお選びにならない。」11サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは言った。「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」12エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」13サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。

     本日の説教

 古代イスラエルの歴史を記す出エジプト記は、指導者モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民が、四十年もの長い年月シナイ半島の荒れ野を彷徨し、途中、モーセがシナイ半島の南端のホレブの山(シナイ山)で、神より十戒を授かったこと、モーセがヨルダン川東部のモアブの地にあるネボ山から約束の地カナンを眺めながら息をひきとり、 モアブの地に葬られたことを記しています。紀元前1280年頃の時代です。

 ヨシュア記は、モーセに代わってヨシュアがイスラエルの指導者となり、民と共にヨルダン川を渡り、カナンの町々を占領したこと、征服した土地を各部族へ分割したこと、ヨシュアがシケムに各部族の長老たちを集め、イスラエルの神を自分たちの神とする契約を結び、十二の部族に分かれながら、同じ神を信じる部族連合体を形成したことが記されています。紀元前1220年頃のことです。

 士師記は、カナン定着期のイスラエルの指導者ヨシュアの死の直後から、イスラエルの王政が誕生するまでの間、非常時に部族を指揮した士師たちの活動した歴史を記します。この時代は、紀元前1120年頃から1020年頃までの100年間です。

 サムエル記上は、士師時代から王国成立へと移行する時代の転換期に、イスラエルを指導した最後の士師・預言者サムエルの出生と、彼がサウル、続いてダビデに油をそそいで王に任命した彼の活動を記しています。ダビデ王の即位によりイスラエル統一王国が確立しました。サムエル記上は、紀元前1100年頃から1000年までの約百年の歴史です。サムエル記下は、ダビデ王即位後の40年間を出来事を記しています。

 サムエル記上の1章から7章までは、サムエルの奇跡的な誕生から、成長して預言者となり、イスラエルの霊的指導者になるまでのことが記されています。これと平行して、ペリシテ人の軍事的脅威が強まり、イスラエルは大きな打撃を受け、一時は神の箱さえ奪われたことが語られています。

 8章から12章までは、イスラエルの民がサムエルに王政の導入を要求し、サムエルは神の御心に従って、ベニヤミン族のサウルをイスラエルの初代の王に選ぶまでのことが記されています。

 13章から15章までは、王となったサウルのペリシテ人との戦いと祭儀的な問題の関するサムエルとの衝突が記されています。

 そして、いよいよ今日の聖書の箇所16章になります。

 「主はサムエルに言われた。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」(16・1)

 預言者サムエルは、「サウルを退ける」と神が言われ、自分が油を注いで王としたサウル王が神に捨てられたことを悲しみました。サウル王は、「罪を犯したアマレク人を」滅ぼし尽くせと神に言われたのに、アガク王生け捕りにし、羊や牛など上等なものは惜しんで、滅ぼし尽くさず、主の命令に背いたので、神はサウルを王位から退けたのです。「サムエルは死ぬ日まで、再びサウルに会おうとせず、サウルのことを嘆いた(15・35)とあります。主は新しい王となる者がベツレヘムのエッサイの息子たちにいることをサムエルに語り、角の容器に油を入れて出かけ、その者に油をそそいで王に任命しなさい、と命じました。注ぐ油は、王となう者に与えられる主の御霊を象徴しています。

 「サムエルは言った。『どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。』主は言われた。『若い雌牛を引いて行き、<主にいけにえをささげるために来ました>と言い、いけにえをささげるときになったら、エッサイを招きなさい。なすべきことは、そのときわたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい。』」(16・2~3)

 サウル王以外の者を王とすることは、サウロの怒りを招くことになります。サムエルのいるラマから、エッサイのいるベツレヘムへ行くためには、サウロ王の住んでいるギブァを通らなければなりません。サムエルはサウルを恐れて神の命令に反論しました。<どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう>。神はサムエルに、若い雄牛を引いて旅をし、神に<いけにえ>ささげるために来ました、とサウロに伝えるようという大義名分をサムエルに与えました。そして、いけにえをささげるときになったら、エッサイを招いて、息子たちを呼びなさい。その時、主が告げる者に油を注ぐようにと、主なる神はサムエルに命じました。

 「サムエルは主が命じられたとおりにした。彼がベツレヘムに着くと、町の長老は不安げに出迎えて、尋ねた。『おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか。』『平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来てください。』サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招いた。」(16・4~5)

 ベツレヘムの長老たちは不安げにサムエルを出迎え、彼の来訪が<平和なことのため>であるかどうかを確認しました。高名な預言者の突然の訪問に彼らに当惑と不安を引き起こしました。サムエルは彼らを安心させ、この長老たちをも会食に招きました。サムエルはエッサイとその息子たちを、神聖な儀式に出席させるため、身を清めさせ、会食に招きました。

 「彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。しかし、主はサムエルに言われた。『容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。』エッサイはアビナダブを呼び、サムエルの前を通らせた。サムエルは言った。『この者をも主はお選びにならない。』エッサイは次に、シャンマを通らせた。サムエルは言った。『この者をも主はお選びにならない。』エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。『主はこれらの者をお選びにならない。』」(16・6~10)

 エッサイの息子たちが集まると、サムエルは<エリアブ>の美しく立派な男に強い印象を受け、彼こそ油を注ぐのにふさわしい人物だと判断しました。しかし神は、彼を退けました。<容姿や背の高さに目を向けるな>と戒めました。<人は目に映ることを見るが、主は心によって見る>と言われました。サムエルはエッサイの七人の息子を年齢順に試みたが、そのだれをも<主はお選びには>なりませんでした。

 「サムエルはエッサイに尋ねた。『あなたの息子はこれだけですか。』『末の子が残っていますが、今、羊の番をしています』とエッサイが答えると、サムエルは言った。『人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。』」(16・11)

 サムエルは、他に<末の子が残って>いることを察知しました。こうしてついに、<羊の番>をしていた<ダビデ>が呼ばれてきました。ダビデは少年で、まだ未成年でした。エッサイがダビデを呼んでいなかったのは、この集まりが祭儀的会食のためのものと聞かされていたからでした。

 「エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。『立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。』」(16・12)

 末の子であるダビデが連れて来られました。彼は、美貌で<姿も立派>でした。<心>で選ばれた者は、必ずしも姿が悪いということにはなりません。神の決定はダビデに下りました。エッサイの子たち八人のうち、兄たち七人ではなく、最年少のダビデを、神はイスラエルの王になる者として選び、王とする任職のしるしの油をダビデの頭に注ぐように命じました。

 「サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。」(16・13)

 サムエルは神の言葉に従い、彼に油を注ぎました。この日以来、彼の上に主の霊が激しく降るようになりました。これは、かつてサウルに与えられた恵みでした。この神の恵みは、王として神に仕え、また人に仕えるために与えられました。しかし、ダビデがイスラエルの王として即位するのは、この十年後のことになります。ダビデの即位は、サムエル記下5章1節以下に記されています。

 主なる神は、祭司サムエルに、「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と言われました。「心によって見る」とは、外面的なことによるのではなく、その人の心を見るということです。人間は目に映るところ、外面的なことで人を判断してしまいます。しかし主は、その人の心を見ます。容姿、背の高さ、年齢ではありません。家柄、財産、学歴、職種でもなければ、性格、能力、経験でもありません。それらのものは表面に過ぎません。主はその人の心を見、その人を憐れみ、愛するゆえに選ばれのです。神の一方的な、自由な選びです。年下の弟、未成年のダビデが兄たちを追い抜いて、王として選ばれたのは、神の愛と選びの自由さと、神の摂理の不思議さを表しています。

 アブラハムは、主の御声に従う者として祝福されました。主はアブラハムを選び、恵みによって主の御声に従う者として、アブラハムを育てていったので、アブラハムは主の約束を信じ、主に御声に従ったのです。主がアブラハムに夜空の星を見るように言ったのも、彼に神の偉大さを伝えるためでした。

 神がイスラエルの民を神の民として選んだ理由モーセは民に語っています。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのはあなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちはどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主に愛のゆえに、、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守るゆえ」であると語っています(申命記7・7-8)。<ただ、あなたに対する主の愛のゆえに>とあります。

 主は、ダビデが、その心において正しく、正直であり、神様を信じる信仰を深く持っているからダビデを選んだのではありません。ただ、ダビデの心を見て、主が愛されたからなのです。神の選びは、ただ神の御心によるのであり、人の側には選ばれる条件も権利もないのです。

 使徒パウロも次のように言っています。「神は、その力を働かせてわたしに恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました。この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました。」(エフェソ3・7-8)「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」(コリント一、15・9-10)

 私達の場合の救いも同じです。「兄弟たちよ、あなたがたが召されたときのことを、思い起してみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけではありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ」たのです」(コリント一、1・26-30)、とあります。私達が無に等しい存在だから、神は私達を救い、神の栄光を現すために選んでくださったのです。

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「主なる神の救いの約束」出エジプト記6章2~13節

2017-11-18 23:16:33 | キリスト教

           ↑ 「わたしはあなたたちの神、主である」出エジプト記6章7節

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

     日本キリスト教 富 谷 教 会   週 報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句 「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

    降誕前第7主日  2017年11月19日(日)    午後5時~5時50分

   礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 461(みめぐみゆたけき)

交読詩編   77(神に向かってわたしは声をあげ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳)  出エジプト記6章2~13節 (p.旧101)

説  教    「救いの約束」      辺見宗邦牧師

祈 祷         

讃美歌   392(主の強い御腕よ) 

聖餐式    78(わが主よ、ここに集い)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏  

           次週礼拝 11月26日(日)午後5時~5時50分

           聖書 サムエル記上16章1~13節  

           説教題    「王の職務」

           讃美歌(21)16 96 24 交読詩編89篇 

   本日の聖書 出エジプト記6章2~13節

 2神はモーセに仰せになった。「わたしは主である。3わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主というわたしの名を知らせなかった。4わたしはまた、彼らと契約を立て、彼らが寄留していた寄留地であるカナンの土地を与えると約束した。5わたしはまた、エジプト人の奴隷となっているイスラエルの人々のうめき声を聞き、わたしの契約を思い起こした。6それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う。7そして、わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であり、あなたたちをエジプトの重労働の下から導き出すことを知る。8わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると手を上げて誓った土地にあなたたちを導き入れ、その地をあなたたちの所有として与える。わたしは主である。」9モーセは、そのとおりイスラエルの人々に語ったが、彼らは厳しい重労働のため意欲を失って、モーセの言うことを聞こうとはしなかった。10主はモーセに仰せになった。11「エジプトの王ファラオのもとに行って、イスラエルの人々を国から去らせるように説得しなさい。」12モーセは主に訴えた。「御覧のとおり、イスラエルの人々でさえわたしに聞こうとしないのに、どうしてファラオが唇に割礼のないわたしの言うことを聞くでしょうか。」13主はモーセとアロンに語って、イスラエルの人々とエジプトの王ファラオにかかわる命令を与えられた。それは、イスラエルの人々をエジプトの国から導き出せというものであった。

    本日の説教

 旧約聖書の創世記は、世界と人類の始まりを物語る原初時代の歴史から始まり、十二章からはイスラエルの祖先たち、アブラハムとその息子イサク、孫のヤコブの物語を含む族長時代の歴史が語られています。

 創世記の編集資料は、1章1節~2章4節で用いられている祭司資料【略記号P】(神名エロヒーム)、2章b~4章26で用いられているヤハウェ資料【略記号J】(神名ヤハウェ)、20章から23章で用いられているエロヒスト資料【略記号E】(神名はエロヒームを用い、祭司的な関心がうすい)から構成されています。

 旧約聖書の二番目の書である出エジプト記からは、創世記の族長物語が大家族の歴史物語であったのに対し、民族の歴史の叙述になっています。ヤコブの時代から四百三十年(出エジプト記12・40)を経た紀元前1280年頃、エジプト王ラメセス二世の時代に、指導者モーセによって、イスラエルの民が寄留していたエジプトを脱出して、四十年間シナイ半島の砂漠地帯を旅し、ついに神が与えると約束したカナンの地(現在パレスチナ)にたどり着く物語が記されています。

  出エジプト記1章では、ヤコブ一家が、エジプトの宰相になったいた息子ヨセフを頼って、エジプトに移り住んだことから書き始められています。エジプトに寄留したヤコブの家族は全部で七十人でした。それが、ヨセフもその兄弟たちも死んだあと、イスラエルの人々の数は驚異的に増え、ますます強くなって国中に溢れました。二十歳以上の登録された者だけでも、その総数が六十万人以上でした(出38・26)。

  そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が現れ、イスラエル人の増加を恐れました。イスラエル人の力を抑えるために、エジプト王ファラオはイスラエルの人々に強制的に重労働を課して虐待しました。その状況の中で、2章では、モーセの数奇な誕生物語と、成人してから、ミディアンの地への逃亡と結婚を記し、3章から4章にかけて、神の山ホレブ(シナイ山)でのモーセの召命が記されています。5章では、モーセとアロンが、イスラエルの神、主(ヤーウェ、ヤッハウェ)が、「わたしの民を去らせて、荒れ野で、わたしのために祭りを行わせてください」と、神の言葉をファラオに伝えたが、ファラオは「わたしは主(ヤーウェ)など知らない」と言って、イスラエルを去らせようとはせず、さらにきびしい労働を課すようになったことが記されています。

1章から5章までの資料は、P、J、E 資料の外に、JとEを一つにしたイェホウィスト資料【略記号JE】が用いられています。

 3章15節に、神がヤハウェ(ヤーウェ)という名をモーセに伝える場面があります。ところが、6章3節でも、神はモーセにヤハウェ(ヤーウェ)という名を始めて語る場面があります。この重複は、異なる資料が用いられているためです。

3章15節の方は、JとEを編集者【略記号RJE】が一つにまとめて記しています。一方、6章3節の方は、祭司資料(P)による召命記事です。2章25節に接続し、6章2節から7章7節まで続きます。

 「神はモーセに仰せになった。『わたしは主である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主というわたしの名を、知らせなかった。』」(6・2~3)

 ヘブライ語の原典では、神名に次のような語が用いられています。「神(エロヒーム)はモーセに仰せになった。『わたしは主(ヤハウェ)である。わたしはアブラハム、イサク、ヤコブに全能の神(シャダイ・エル)として現れたが、主(ヤハウェ)というわたしの名を知らせなかった。』

 祭司資料は、創世時代の神名はエロヒームだけでした。次に神は族長たちにエール・シャダイとして顕現し(創世記17・1、35・11)、族長たちもこの名を呼びます。物語文の中にはエロヒームが使われています。それに対し、ここでヤハウェという名が神の自己紹介で導入されてからは、物語文でも一貫してヤハウェが使われるようになります。

 ここでは、モーセの召命の場所については明言されていませんが、前後の関係からエジプトにおいてであることが分かります(6・28に<エジプトの国で>とあります)。

このように祭司資料は、召命の地がミディアンであることも、モ―セがミディアン人の女性と結婚したことも伝えていません。モーセは独身のままです。祭司資料では、自分の民族の宗教の独自性を脅かすような記述を避けたと推察されます。

 「わたしはまた、彼らと契約を立て、彼らが寄留していた寄留地であるカナンの土地を与えると約束した。わたしはまた、エジプト人の奴隷となっているイスラエルの人々のうめき声を聞き、わたしの契約を思い起こした」(6・4~5)

 神が、エジプトで奴隷とされ、重労働に苦しんでいるイスラエルの人々のうめき声を聞いて、彼らの先祖たち、アブラハム、イサク、ヤコブと結んだご自身の契約を思い起こして下さったこと、契約の内容は、土地を与えることでした。寄留するとは、異郷に滞在することであり、寄留者はそこで市民として権利を持たず、その土地の人々の客人に対する保護に頼って生活することです。

 「それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う。」(6・6)

 神は今やイスラエルの民を奴隷の身分から救い出し、先祖たちに与えると約束しておられた地カナンへと導き入れようとしておられることが語られています。神は「わたしはヤーウェである」と自己を宣言します。普通名詞としての「神」ではなく、固有名詞としての神の名、「ヤーウェ(ヤッハウェ)」と言う新しい名をモーセに告げます。このヤーウェがイスラエルの民を、「エジプトの地から導き出す」、「奴隷の身分から救う」、「あなたがたを贖う」、「わたしの民とする」、「あなたたちの神となる」、「誓った土地を…与える」と告げます。ヤハウェは、これからなそうとすることをエジプト人に言えとモーセにの命じます。

 【エジプトで<奴隷>であったというのは、申命記の立場であり、祭司資料の理解では、<こき使われている>、<賦役労働>、<重労働の身分≫と訳すのが良いようです。ここでは、それからの解放が告げられます。<腕を伸ばし>は、「強い手をもって」と言う表現です。<贖う>は、エジプトからの救出の意味です。

 「そして、わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であり、あなたたちをエジプトの重労働の下から導き出すことを知る。」(6・7)

 ここでの「知る」とは、ただ知識として知るのではなく、体験的に相手の人格を深く知ることを意味しています。人生の歩みのすべてを通して、主なる神はご自身を明らかにしてくださいます。ヤハウェはイスラエルの神であり、イスラエルは彼の民である、ヤハウェとイスラエルが契約関係にあることを神は明らかにしています。

 「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると手を上げて誓った土地にあなたたちを導き入れ、その地をあなたたちの所有として与える。わたしは主である。」(6・8)

 神はアブラハム、イサク、ヤコブに、カナン人の地を与えるという約束をされました。今、それを実行に移そうと言われています。

 「モーセは、そのとおりイスラエルの人々に語ったが、彼らは厳しい重労働のため意欲を失って、モーセの言うことを聞こうとはしなかった。」(6・9)

 モーセがヤハウェの命じたとおり、イスラエルの人にヤハウェのことばを伝えたが、彼らは耳を傾けませんでした。苦難にうちひしがれてしまうと、たとえ輝かしい救いが語りかけられても、その約束を受けいれることができないのです。

 「主(ヤハウェ)はモーセに仰せになった。『エジプトの王ファラオのもとに行って、イスラエルの人々を国から去らせるように説得しなさい。』」(6・10~11)

 ヤハウェは、モーセにファラオのもとに行き、語れと新たに命じます。5章1~2節の場合のように、ファラオとエジプト人にはヤハウェという名は知らされていません。

「モーセは主に訴えた。『御覧のとおり、イスラエルの人々でさえわたしに聞こうとしないのに、どうしてファラオが唇に割礼のないわたしの言うことを聞くでしょうか。』」(6・12)

 モーセはイスラエル人に対する場合とは違って、ここでは異議を申したてます。<唇に割礼のない>とは、口下手を意味します。

 「主はモーセとアロンに語って、イスラエルの人々とエジプトの王ファラオにかかわる命令を与えられた。それは、イスラエルの人々をエジプトの国から導き出せというものであった。」(6・13)

 ヤハウェはモーセの異議を聞き入れて、アロン(モーセの兄)をモーセの代弁者に定めまました。

 出エジプト記6章には5回 も、「わたしが主(ヤハウェ)である」という、神の自己宣言の固有名詞の言葉が用いられています。日本語の聖書では、この「ヤーウェ」を「主」と翻訳しています。

 2節「神はモーセに仰せになった。『わたしは主である。』。

 6節「わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたがたを導き出し、奴隷の身分から救い出す。」

 7節「わたしはあなたたちの神となる。あなたたちはこうして、わたしがあなたあなたたしの神、主であり……」

 8節「わたしは、アブラハム……に誓った土地にあなたたを導き入れ、…与える。わたしは主である。」

 29節「わたしは主である。わたしがあなたに語ることをすべて、エジプトの王、ファラオに語りなさい。」

 ヤハウェという名は、ここでは続く父祖の契約との関係で2,6,7,8節に繰り返されています。ヤハウェなる神が、契約を守り行われる力強い方として示されているのです。ヤハウェは、全能の神であるだけではなく、父祖たちとの契約に忠実な方であり、その御力をもって神の民を助け出される方なのです。また、イスラエルの民はこのような経験を通して、神がヤハウェ、すなわち契約を守り行われる神であることを知るようになるのです。神は、「わたしは主である」というお言葉を繰り返すことによって、御自分が生ける神であることそを示し、モーセを励まし、力づけ、勇気づけようとされています。神の御名を知り、神と深い関係にあることの恩恵は、測り知れません。固有名詞のヤハウェで、「わたしは主である」というお方がイスラエルを奴隷から解放されたように、その罪から解放するために、神の御子キリストをこの世に送り、御子の十字架と復活によって、わたしたちを罪と死の重荷から解放し、神の国に導き入れてくださるのです。

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「神の民の選びとアブラハムの信仰」 創世記15章1~18a節

2017-11-11 23:05:59 | キリスト教

             ↑  天を仰いで、星を見上げるアブラハム

 981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

  日本キリスト教 富 谷 教 会    週 報   

 年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

 聖句 「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

  降誕前第8主日 2017年11月12日(日) 午後5時~5時50分

   礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 402(いともとうとき)

交読詩編  105、1節~6節(主に感謝をささげて御名を呼べ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳)   創世記15章1~18a節(p.19)

説  教   「神の民の選びとアブラハムの信仰」 辺見宗邦牧師

祈 祷         

讃美歌   433(あるがままわれを) 

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏  

            次週礼拝 11月19日(日)   午後5時~5時50分

            聖書   出エジプト記

            説教    「救いの約束」

            讃美歌(21) 392 24 交読詩編77篇 

 本日の聖書 創世記15章1~18a節

 1これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」2アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」3アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」4見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」5主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」6アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。7主は言われた。「わたしはあなたをカルデアのウルから導き出した主である。わたしはあなたにこの土地を与え、それを継がせる。」8アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。この土地をわたしが継ぐことを、何によって知ることができましょうか。」9主は言われた。「三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とをわたしのもとに持って来なさい。」10アブラムはそれらのものをみな持って来て、真っ二つに切り裂き、それぞれを互いに向かい合わせて置いた。ただ、鳥は切り裂かなかった。11禿鷹がこれらの死体をねらって降りて来ると、アブラムは追い払った。12日が沈みかけたころ、アブラムは深い眠りに襲われた。すると、恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ。13主はアブラムに言われた。「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。14しかしわたしは、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く。その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう。15あなた自身は、長寿を全うして葬られ、安らかに先祖のもとに行く。16ここに戻って来るのは、四代目の者たちである。それまでは、アモリ人の罪が極みに達しないからである。」17日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。18その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。」

 本日の説教

 創世記は天地創造の「神話」の部分から始まりますが、11章26節以下になると、イスラエルの最初の族長となるアブラハム(旧名はアブラム)の名が登場し、族長時代の「歴史」が始まります。この時代は、歴史的事実の裏付けはありますが、全体としては、歴史というよりも、歴史的伝説であり、史的説話です。

  アブラハムはバビロニア南部、スメル地方の住民でした。父テラに率いられてカルデヤの古代都市ウルを去り、ユウフラテス川に沿って北西に進み、パダンアラムのハラン(今のトルコ東部にあるシャンルウルファの近く)という所に移住しました。父テラの死後、族長となったアブラハムは、「わたしが示す地に行きなさい」との神の声に従い、ハランをさり、カナン地方へ旅立ちました。アブラハムが75歳の時です。彼の行こうとしている地は、漠然とした希望の地で、目的地さえ示されていません。彼はシケム、ベテル、ネゲブ、エジプトへと移住し、再びネゲブ、ベテルへと旅をし、カナンに定住しました。

 アブラハムは紀元前1950頃の人と推定されています。アブラハム伝説は、創世記11章26節~25章10節までに記されています。現在パレスチナと呼ばれている地域(西は地中海、東はヨルダン川、南は死海、に囲まれた地域)は、当時カナン人が住んでいたので、「カナン」と呼ばれていました。その後、カナンの地中海沿岸にペリシテ人が西方から移住し、定住したことから、「ペリシテ人の地」を意味する「パレスチナ」と呼ばれるようになりました。

 神の民となる選びの召命を受けたのは、アブラハムがハランにいたときでした。主はアブラハムに、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように」と言われました。アブラム(この時はアブラム〈尊敬すべき父〉という名でした)は、主の言葉に従って旅立ったのです。

 アブラムが九十九歳になったとき、主は、彼にアブラハム(多くの民の父)と名乗るように命じ、彼を多くの国民の父とし、あとに続く彼の子孫の神となる契約を彼と彼の子孫との間に契約を結びました。その契約のしるしが男子の割礼でした。アブラハムが九十九歳のときでした(17・24)。

 三度目のアブラハムに対する神の民とする約束は、息子イサク誕生の予告を、主から受けた後、三人の主の使いを見送ったときです。「アブラハムは大いなる強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである」と主は言われました(18・18~19)。

 四度目は、アブラハムが主に命じられ、息子イサクを焼きつくすささげ物にしようとしたときです。主の御使いはアブラハムに、「主は言われる。あなたが…自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海べの砂のように増やそう。…地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に従ったからである」と言いました。

 なぜ、イスラエルの民が神の民として神に選ばれたのか、この疑問に答えたのがモーセでした。モーセは、「あなたは、あなたの神、主の聖なう民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の民とされた。主が心引かれたてあなたを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえ」であったと、民に語りました。神の選びは、神の自由な愛によるものでした。

 今日の聖書の箇所は、神の約束とアブラハムの信仰が主題になっています。

 「これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」(15・1~3)

 <これらのことの後>とは、前の章との関係から見ると、アブラハムが諸王を破って帰還し、ソドムの王の提供するこの世の財宝を拒絶した時に、主はアブラハムに臨んだのです。主は自分を恵み深い方として、「盾」となって守り、報いてくださる方として示されました。アブラハムがカナンの地に住んでから十年たたない頃のことです(16・3参照)。ということは、七十五歳でハランを発ったアブラハムはとうじ八十歳以上になています。カナンの最後の居住地ヘブロンにあるマムレの樫の木のところに住むようになってからです(13・18、14・13参照)。

 主は「あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」と言われたのです。しかしアブラハムには、まだ実子がありませんでした。シリアのダマスコ出身の僕エリエゼルを跡継ぎにしようとしていることを、アブラハムは主に告げました。エリエゼルは、忠実な家令で、異邦人ですが、アブラハムが息子イサクの嫁を探すときもエリエゼルに依頼しました(創世記24・2)。

 「見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」5主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」(15・4~5)

 主は、その者ではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ、と言われ、彼を外へ連れ出して、夜空を無数の星を見せ、あなたの子孫もこのようになる、と言われました。

 「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(15・6)

 アブラムは主のことばを信じました。自分のからだのことや人間的な考えで判断することをやめ、天地万物を創造された全能の神様を信じたのです。そして、神様の約束は必ず実現すると信じたのです。ヘブライ語原典では、この信じる([אֱמִ֖ן]エーミン)と言う言葉は、<アーメンאָמֵ֥ן>という語と同じ語源の言葉(אמן)を用いています。信じるとは、ある言葉にアーメンと言って肯定することです。主はそれを(その信じたこと)を、彼の義と認められました。<彼の義>の<義>とは、神との関係を表す言葉で、「義しい事」、「正しい状態にある事」を意味します。主は彼を正しい人(全く罪のない、義に満ちた人)とみなしてくださったのです。ユダヤ人は律法に忠実な態度の人を義人としましたが、ここではモーセによる律法公布以前のことなので、アブラハムは律法に関係なく、彼の従順な信仰が、神に正しい人と認められたのです。

 この重要な聖句は、使徒パウロによって「信仰によって義とされる」(ローマ4・3、ガラテヤ3・6)という言葉として用いられます。人は律法を完全に実行しようとするとき、潜在的にかかえている内在する罪のゆえに、善をなそうとする意志はあっても、悪がつきまとっていて、それを実行することはできません。人は律法の行いによっては神に正しい者とされることは不可能です。この生来の弱さのために、律法では正しい者とされなかった者の罪を取り除くために、神は御子をこの世に送られたのです。律法の行いによってではなく、イエス・キリストよる救いを、アーメンと言って受け入れ、信じる信仰によって、神は、わたしたちは罪を赦されるだけでなく、全く罪のない、義に満ちた者とみなしてくださるのです。そして、キリストの霊に従って歩むとき、律法の要求が満たされるのです。

 「主は言われた。『わたしはあなたをカルデアのウルから導き出した主である。わたしはあなたにこの土地を与え、それを継がせる。』」(15・7)

 子供が与えられることを信じたアブラハムに、主は、この地を彼の所有として与えることを再び約束されました。

「アブラムは尋ねた。『わが神、主よ。この土地をわたしが継ぐことを、何によって知ることができましょうか。』主は言われた。『三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とをわたしのもとに持って来なさい。』アブラムはそれらのものをみな持って来て、真っ二つに切り裂き、それぞれを互いに向かい合わせて置いた。ただ、鳥は切り裂かなかった。禿鷹がこれらの死体をねらって降りて来ると、アブラムは追い払った。」(15・8~11)

 アブラハムが、その地が自分の所有となる証拠を求めた時、主が彼に命じられたのが、ここに記されいる契約を結ぶための宗教的儀式です。<禿鷹>は、契約を無効にするかも知れないので、アブラムは追い払いました。

 「日が沈みかけたころ、アブラムは深い眠りに襲われた。すると、恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ。主はアブラムに言われた。「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。しかしわたしは、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く。その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう。あなた自身は、長寿を全うして葬られ、安らかに先祖のもとに行く。ここに戻って来るのは、四代目の者たちである。それまでは、アモリ人の罪が極みに達しないからである。」(15・12~16)

 <あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう>は、アブラハムの子孫がエジプトに滞在し、エジプト人に奴隷として仕え、苦しめられることを予告します。エジプト滞在の期間は、四百三十年(出エジプト記12・40~41)です。<脱出する>は、出エジプトの出来事を表しています。アブラハムの長寿と安らかな死は、創世記25・8節に記されています。<四代目の者たち>とは、一世代を100年として、四世代のことを指しています。出エジプト記6・16~20によって、レビの生涯130年、ケハトの生涯130年、アムラムの生涯137年とモーセまでの四代です。<アモリ人>は、パレスチナの先住民です。彼らが悪いので神に追放された記事は、申命記9・4~5に出てきます。

 「日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。『あなたの子孫にこの土地を与える。(エジプトの川から大河ユーフラテスまで、…与える。』)」(15・17~18)

 <煙を吐く炉と燃える松明>は、この二つは主の顕現と臨在の象徴です。主が裂かれた動物の間を通り過ぎました。契約を破った場合は、この動物のように裂かれ、呪われる運命を示しています。ここでは、主だけが一方的に契約を守ることを保証されました。神の無償の恵みが示されました。この契約は、その後のイスラエルの不信にもかかわらず、神は守られ、御子キリストの十字架の死と復活によって、不信心な者の罪を贖い、神と正しい関係をとりもどしてくださったのです。世界に新しいイスラエルとしての教会と神の民をつくられたのです。このようにして、アブラハムに約束された「あなたの子孫は星の数のようになる」という言葉と、「あなたにこの土地を継がせる」という約束が世界大のものになるのです。

 

 

  

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永眠者記念礼拝 「神は愛」ー安楽死を望まなくても

2017-11-11 11:26:31 | キリスト教

  ↑ べート―ベン、第九交響曲・合唱つき、「歓喜の歌」

      『ひざまずくか、諸人よ、 創造主を感じるか、世界よ』

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

     日本キリスト教 富 谷 教 会

 永眠者記念礼拝    2017年11月10日(金)

     午前11時30分~12時

礼 拝 順 序

前 奏          奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 382(力に満ちたる)

交読詩編   23(主は羊飼い)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

共同訳聖書 ヨハネの手紙一、4章7~14節(p.447)

説  教      「神は愛」      辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21)  459(飼い主わが主よ)

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏  

                                愛餐会 12時~午後1時、 礼拝後、茶室で、昼食をいた

           します。食事後、みやぎ霊園の富谷教会墓地へ移動します。

              

                   墓碑銘「愛は永遠」  

               

            富谷教会の墓石には、「栄光、神にあれ」とあります。

              墓前礼拝 1時40分~2時10分

              讃美歌 111(信じて仰ぎみる)

              聖 書 ヨハネの黙示録7章9~17節

              感 話 「神のみに栄光あれ(Soli Deo Gloria)」

                      

                    バッハの自筆楽譜のサイン、S.D.G

              祈 祷

              讃美歌 493(いつくしみ深い)

              頌 栄  29(天のみ民も)

              祝 祷

 聖 書 ヨハネの手紙一、4章7~14節

7愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。 8愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。 9神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。 10わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。 11愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。 12いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。 13神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。 14わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。

   説 教

 永眠者記念礼拝は、既に天に召された信仰者たちだけではなく、明確に信仰を現すことはなかったかもしれませんが、すでに亡くなった方々を思い起こす日であります。特に、肉親に対しては、命と愛の深い絆で結ばれているからです。単にそうした方々を懐かしむというだけでなく、その方々の生涯を通じて私たちに与えられた愛に感謝し、このような方々との共に過ごすことができた日々を与えてくださった神に感謝する礼拝であります。永眠者記念礼拝は、天に召された方々を覚えて、その方々と共に私たちは礼拝を捧げるのです。

 ところで、今年92歳になられた脚本家の橋田寿賀子さんの「安楽死で死なせてください」というショッキングな題名の本が、8月に出版されました。橋田さんは、「おしん」や「渡る世間は鬼ばかり」のドラマ脚本家として有名な方です。彼女の語った告白が社会に衝撃を与えています。9月26日には、NHKが「92歳の‘安楽死宣言’橋田寿賀子・生と死を語る」というタイトルの番組で、本人との談話がありました。「家族がいれば、子どもや孫の成長を見届けたがったり、できるだけ生きて欲しいと望まれることでしょう。けれども、私は、夫に先立たれ、子どももなく、親しい友人もいない。天涯孤独の身の上です」と言われまました。遠い親戚とは縁を切っているそうです。「私は心配する人がいない。(私を)心配される人もいない」と言われます。橋田さんは戦争一色の青春時代をすごし、親の愛情が重たくて、親元を離れて、堺市から上京し、日大に入学しました。25歳で松竹に入社し、TBSのプロデューサの岩崎氏と結婚するも、平成元年に肺がんの夫と死別しました。橋田さんは、これまでなんでも一人でやってきた、と言われます。御自分の性格として、人に迷惑をかけたくない、と言います。「人様に迷惑をかける前に死にたい。それが私の望みです」と彼女は言います。自殺ほう助が認められているスイスの民間団体「ディグニタス」への登録を考えているそうです。「自分が死を選べない不安で生きてるのも、年取ったらすごく重い……」と言っています。

 「天涯孤独」とは、広い世間に身寄りが一人もいないことを言います。橋田さんはご自分を天涯孤独の身だと言われますが、そのように思われるのも、それなりのこれまでの事情があったからだと思われます。それにしても、そのままでいて良いのでしょうか。聖書には、「(主よ)老いの日にも見放さず、わたしに力が尽きても捨て去らないでください。…わたしが老いて白髪になっても、神よ、どうか捨て去らないでください。…あなたが贖ってくださったこの魂は、あなたをほめ歌います。」(詩編71篇)という祈りのことばがあります。この世に来られた御子キリストは、霊なる神として、私たちと共におられる方です。死の苦しみも共に負ってくださるのです。耐えられない痛みや苦しみには鎮痛剤もあるでしょう。また早く死にたいと思うのであれば、神にそのことを願い求めることです。神はその祈りを聞き届けてくださるでしょう、みこころにかなえば。橋田さんは、知識人として神を信じることは、自尊心・プライドがゆるさないのでしょうか。神を信ぜず、神の愛を知らず、自立して生きようとする知識人の姿は恰好よく見えるが、死をもってすべて終わってしまいます。自己愛のみで、自分自身を絶対化していると神を知ることはりあません。

 人生は死をもって終わるものではありません。主イエスを信じる者の死は、天の御国への凱旋なのです(テモテ二、4・18)。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。……命ある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。」(詩編23篇4、6節)とあります。「生涯」だけでなく、「死後」も神のみもとに帰るのです。     

 今日の聖書には、「神は救い主として御子を世にお遣わしになりました。神は、行いによっては、神に正しい者とは認められない私たちのために、御子の十字架と復活によった罪を贖い、永遠の命に生きる者としてくださいました。ここの神の愛が示されました。」とあります。行いによってではなく、この救いを受け入れ、信じる者を、その信仰によって正しい者と認めてくださり、神の子としてくださり、聖霊に従って歩む者としてくださるのです。ここに神の愛が示されています。神の愛に生きる者は、隣人をも愛す者とされます。

 死ぬときは、「地上の残す愛する者たちをお守りください」と祈り、すべてを神の御手にゆだねます。そして、「主よ、みもとにまいります、わたしの霊をお受けください」と祈り、神に命を託すのです。天では、神とキリストに迎えられ、キリストと顔と顔とを合わせてお会いすることになるでしょ。愛する人たちとの再会があり、手と手をとり合って共に喜びに溢れるでしょう。そして天使たちと共に神を賛美する礼拝に加わるのです。

  ヨハネの黙示録7章9節以下には、天上の光景が描かれています。先に召された方々は、天上の礼拝に招かれています。天地万物の創造主なる神と救い主なる御子キリストを、天使たちと共に礼拝して、「アーメン。賛美、栄光が世々限りなくわたしたちの神にあるように、アーメン。」とほめたたえているのです。天に召された方々は、昼も夜も神に仕え、もはや死もなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もないのです。この福音を聞いて、永眠者の方々はその生涯を終えました。罪と死に勝利させてくださる十字架と復活の主と、御子を世に送って下さった父なる神の愛に感謝をささげたいと思います。また、召された方々が、平安と祝福とのうちにあることを信じて、み名をあがめたいと思います。

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「罪による堕落」 創世記4章1~16節(p.5)

2017-11-02 15:50:42 | キリスト教

            ティントレット(1519-94)「カインのアベル殺害」(1552ー1553年)149㎝×196㎝ 【アカデミア美術館所蔵 ヴェネツィア】 (画面の右下に、アベルが捧げた小羊が描かれています。)                  

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

     日本キリスト教 富 谷 教 会    週 報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句 「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

     降誕前第8主日  2017年11月5日(日)    午後5時~5時50分

                  礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉                                   

讃美歌(21) 449(千歳の岩よ)                                                           

交読詩編   51(神よ、わたしを憐れんでください)                               

主の祈り   93-5、A                                                                    

使徒信条   93-4、A                                                                    

聖 書(新共同訳)   創世記4章1~16節(p.5)                                    

説  教    「罪による堕落」     辺見宗邦牧師                                

祈 祷                                                                                

讃美歌   441(信仰をもて)                       

献 金                                   

感謝祈祷                                  

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)                   

祝 祷                                   

後 奏  

           次週礼拝 11月12日(日)   午後5時~5時50分

            聖書   創世記15章1~18a節

            説教    「神の民の選び」

            讃美歌(21)402 433 24 交読詩編105篇 

本日の聖書 創世記4章1~10節

 1さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。 2彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。3時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。4アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、5カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。6主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。7もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」8カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。9主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」10主は言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。12土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」13カインは主に言った。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。14今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」15主はカインに言われた。「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。16カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。

    本日の説教

 創世記1章1節から2章3節までの創造物語は、紀元前六世紀頃、バビロニアの捕囚地でイスラエルの祭司記者によって書かれた祭司資料によるものです。神の名はエロヒーム[אלִֹהיםエロヒーム:普通名詞]が用いられています。敗戦による亡国と捕囚の中で、イスラエルの人々は自分たちの罪と、神の全能と神の民としての恵みを知らされました。神は世界を支配する全能の唯一の神であり、天地万物は神の言葉によって造られたと信じました。人間は「神にかたどって」造られた存在であり、神に向き合い、神と霊的に交わり、神を賛美し、地を治める者であり、世界の歴史を支配し、導き、これを審き、かつ救うのは神であると告白したのです。

 2章4節bから25節までの2章の創造神話は、捕囚以前の紀元前九世紀、ソロモン王朝時代に、南ユダ王国で成立したものです。神の名は、神がモーセに語られたヤーウェ[יְהוָ֥הヤーウェ:固有名詞]が用いられています(出エジプト3・15の「主」はヤーウェです。聖書は「主」と表記しています)。祭司記者は、この資料を創世記に書き加えたのです。2章では、「主なる神」(原典は「ヤーウェ・エロヒーム」)は人間を土の塵で形づくり、その鼻に神の息を吹き入れ、生きた者としました。人間はもろい、朽ちるべきものですが、神の霊を与えられた特別な人格として造られたことが告白されています。神は人をエデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされました。また、人を孤独から助けるパートナーとして女を造られました。

 3章は、男と女が、取って食べてはいけないと神から禁止されていた木の実を、蛇にそそのかされて取って食べてしまい、エデンの園から追放されるという物語です。罪の本質は、神に背を向け、神に従うのではなく、自分が主人になり、神に成り代わろうとすることです。禁止を破ったのは、アダムと女の連帯責任であったのに、男は女に罪を着せ、女は蛇のせいにしました。一心同体として愛と信頼で結ばれていた夫婦が、自己防衛のためにその一体性を失ったのです。アダムとエバの二人は罰せられ、エデンの園から追放されます。神への背きの罪のために、人はいのちの源である神との親しい交わりを失い、死すべきものとなりました。人間同士もまた対立し、交わりを失う状態になりました。この物語では、アダムはすべての人間の代表であり、人間全体を象徴しています。アダムと女(エバ)が原罪を犯したから、その子孫であるわたしたち人間がすべて罪人であるというのではありません。アダムは歴史的先祖ではなく、人間が宿命的の持っている罪への傾向性を説明するための先祖なのです。人間は罪と死に支配されています。この場合の<死>とは、ただ身体が死ぬことではなく、霊的存在としての人間全体が命の起源である神から切り離されて死んでいる状態(身体の死はその結果)を言い表しています。罪はたんに状態にとどまるのではなく、人間は罪深いもので、罪のとりこになりやすく、行為・行動となってあらわれるのです。そして今日の4章はカインとアベルの悲劇的物語(ヤーウェ資料)になるのです。

 「さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。」(4・1~2)

 創世記4章は、エデンの園を追放されたアダムとエバは、神の祝福を得て、男の子カインを与えられました。カインとは「得る」という意味で、母エバ(「命」の意)はすべての命あるものの母となりました(3・20)。つづいて弟アベルが与えられました。アベルとは「息」という意味で、はかなく過ぎ去る運命を暗示しています。現実の人間関係は、もっとも基本である家族、この物語では兄弟において、すでに悲劇的な破れを含んでいることがあらわになります。兄のカインは土を耕す農夫となり、弟のアベルは羊を飼う者となりました。牧畜と農耕は古代社会の代表的な産業です。

 「時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。4アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、5カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。」(4・3~5)

 しばらくたって、二人は神にささげ物をしようとして、カインは地の産物の初物を持ってきました。アベルは羊の群れの中から肥えた羊の初子を持ってきました。ところが、神はカインのささげ物ではなく、アベルとアベルのささげ物に目を留められました。カインはアベルをねたみ、激しく怒って、神から顔をそむけ、顔を伏せました。

 「主はカインに言われた。『どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。7もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。』」(4・6~7)

 主は、なぜ憤るのか、正しいことをしているなら、堂々と顔を上げればよかろう。そうでないのなら、お前は罪のとりこになってしまう。お前はその罪を克服しなけらばならない、と警告しました。

 「カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。」(4・8)

 カインは自分が認められなかったことによる、やりきれない不満を制することが出来ず、主の警告もきかず、怒りのほこ先を神に祝福されたアベルに向けます。カインはアベルを野原へおびき出し、襲いかかって殺しました。聖書が記す人間最初の死は、兄が弟を殺すという悲劇として起こりました。すさまじい自己中心性による罪が、カインの殺意をかりたてたのです。

「主はカインに言われた。『お前の弟アベルは、どこにいるのか。』カインは答えた。『知りません。わたしは弟の番人でしょうか。』」。(4・9)

 「弟がどこにいるのか」との主の問いは、共に生きるべき兄弟とのかかわりの大切さを気付かせるためでした。カインは、わたしは弟の番人ではありません。知りません、とうそぶきました。

「主は言われた。『何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。12土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。』」。(4・10~12)

「何ということをしたのか」。罪を認めさせ、悔い改めを呼び起こさせようとする神の声です。お前の弟の血が復讐のためにのろいとなって土の中からわたしに向かって叫んでいる。今お前は土の呪いを受けている。土が口を開けて、お前が流した弟の血を飲んだからだ。土を耕しても、土はもはやお前のための作物の実りをもたらさなくなった、と神は宣告しました。カインは、その地で農業を営むことが許されず、神と交わりをたたれ、地上の孤独な放浪者として追放されるのです。罪に対する当然の刑罰は、つぐないであるとともに、罪人を新しく再起させるためのものでもあります。

「カインは主に言った。『わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。』」(4・13~14)

神の裁きの宣告をうけたカインは、自分の行った罪の重さを知りました。自分の犯した罪は重すぎて負い切れないことを知りました。また、自分が受けるであろう血の復讐を恐れました。

「主はカインに言われた。『いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。』主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。」(4・15)

 主は罪を犯したカインに対して保護を約束されます。「では、こうしよう。カインを殺す者はだれでも7倍の復讐を受けるであろう」。そして主は、カインが殺されることのないように彼に一つの「しるし」をつけました。この「しるし」がどういうものか分かりませんが、「焼き印」のような肉体的なしるしか、「皮の衣」の様な服装ともとれます。主は、血の復讐の連鎖を断ち切るための警告をされました。ここに罪人に対する神の愛が示さています。神はカインを見守ることを、言葉だけでなくしるしを付けるという行為のよっても明らかにしたのです。

 「カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。」(4・16)

  カインは主の前を去って、エデンの東、ノドの地に住みました。「ノド」とは、「さすらい」という意味です。カイン(「カイン」という名は、[鍛治」という意味もあります。)は妻を得て、エノクを産み、町を建てて、古代文明のいろいろな技術を生み出す先祖とみなされるようになりました。

 神がアベルのささげ物を顧み、カインのささげ物を顧みられなかったのは、神が人をかたより見るからではありません。「神は人を分け隔てなさいません(ローマ2・11)。アベルを顧みられたのは、神のめぐみであり、自由な選びでした。しかし、カインは自分が顧みられなかったことに不満をもちました。カインがアベルを殺したのは、カインのアベルに対する競争心と嫉妬心でした。どんな人間の心の奥にも、これが深く根ざしています。カインは、自分の満足のいくように神がなされなったことを憤りました。自分のささげ物が顧みられても、顧みられなくても、なお神へ顔を向け、仰ぐことが真実の礼拝でした。もし不満があるなら、神に対して堂々と異議をとなえるか、自分の罪を治めるべきでした。アベルを殺しても何の解決にもならないのに、アベルをねたみ、無き者としようとしました。これが人間のみにくさです。自分が神にほめられたいと願う向上心の中にも罪は入り込みます。アベルを抹殺するカインと、死んでなお血の呪いを叫ぶアベルのいるこの世は、恐ろしい人間世界です。自己を生かすために他者の血を求める世界の悲惨を救うものは、他者のために自己の血を流すこともいとわない神の子イエス・キリストの十字架のあがないの血です。カインの住んだノドは、地理的位置は不明です。カインも、アダムお同じように人類の代表です。追放したカインを、神は守りつづけられます。

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