富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「キリストの昇天」 マタイによる福音書28章16~20節

2019-05-30 23:31:49 | キリスト教

            ↑ ジョン・シングルトン・コプリー(アメリカ、ボストン出身)      「キリストの昇天」1775年作

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

      日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

    復活節第7主日  2019年6月2(日)     午後5時~5時50分

年間標語 「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により、力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                          礼 拝 順 序

                                                司会 田中 恵子 姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 287(ナザレの村里)

交読詩編  103(わたしの魂よ、主をたたえよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書28章16~20節(新p.60)

説  教   「キリストの昇天」     辺見宗邦牧師

祈 祷                                

讃美歌(21) 337(たたえよ、この日)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

                                次週礼拝 6月9日(日)聖霊降臨日  午後5時~5時50分 

                                聖 書 使徒言行録2章1~11節

                                説教題   「聖霊の賜物」 

                                讃美歌(21) 475 343 24 交読詩編146

              本日の聖書 マタイによる福音書28章16~20節

 28:16さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。 17そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。 18イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

                    本日の説教

 復活したイエスが天に昇っていく<昇天>の場面を記しているのはルカによる福音書24:50~53と、福音書記者ルカが書いた使徒言行録1:9です。使徒言行録1:3には、復活したイエスが弟子たちに<四十日間にわたって現れた>後、昇天したと記されています。このルカの記述から、イエスが復活したイースターの日から数えて四十日目の木曜日を、昇天日と定めているのです、今年の教会暦では、5月30日(木)が昇天日です。日本の新教の教会では平日に礼拝を守ることが困難なので、次の週の日曜日ににあたる今日、昇天を記念して礼拝を守る教会が多いのです。その次の日曜日は復活日から50日目(使徒言行録2・1)の聖霊降臨日(ペンテコステ)になります。

    昇天した場所については、ルカは、「救いの宣教はエルサレムから始まらなければならない」とする観点から、イエスが復活して現れた場所も、昇天した場所も都エルサレム地域に限定しています(ルカ24:49)。昇天の場所とされている所は、エルサレム神殿の西にあるオリーブ山の頂上で、現在、昇天の塔と昇天教会が建っているところとされています。

   

7がオリーブ山の山頂で、ロシア正教の高い塔と昇天のチャペルとが建っています。1.ライオン門(ステパノ門) 2.ステパノ教会 3.ゲッセマネの教会(万国民教会) 4.マグダラのマリア教会 5.涙の教会 6.主の祈りの教会 7.昇天のチャペル 8.ラザロ教会 9.ラザロの墓 11.オリーブ山展望台 12.ベテファゲ修道院 13.ヘロデ門 14.糞門

  

   ロシア正教会の昇天の塔と、手前が昇天のチャペル(主イエスの昇天記念堂)

 オリーブ山の頂上には紀元4世紀に、イエスが昇天されたときの足跡が残っている岩を覆うようにたてられたものと、1870年代に建てられた高い塔をもつロシア正教のチャペルがあります。

 【ルカ福音書以外の、他の福音書は昇天についてどのように扱っているのでしょう。マタイによる福音書では、復活したイエスが現れた場所も、宣教を命じた所も、イエスが福音を説き始めたガリラヤの地となっています。昇天については記していませんが弟子たちに宣教を命じた後、、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という言葉が、昇天を暗示しています。

 マルコによる福音書では、イエスが復活後に弟子たちに現れたことは記していませんが、ガリラヤで弟子たちとの会うことが、14:28、16:7が天使たちによって語られています。マルコ福音書ではイエスの昇天は記していませんが、長い付録16:19~20の中で、「天に上げられ、神の右の座に着かれた」という言葉があります。

   ヨハネ福音書では、マタイとルカの記事を合わせるように、宣教命令の場面はエルサレム、、ペトロと他の六人の使徒たちへに復活したイエスが現れるのはガリラヤになっています(ヨハネ21章)。昇天については記していませんが、12:32の「わたしは地上から<上げられるとき>」という言葉で、復活と昇天をひとつにして表現しています。】

  「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」(マタイ28:16、17)

   イエスの葬られた墓を詣でた女たちは、天使から、復活したイエスは弟子たちとガリラヤで会うと弟子たちに告げました。この言葉を受けて弟子たちはガリラヤの指定させた山に行き、そこで復活したイエスに会いました。<十一人の弟子>とは、ユダが死んだので(27:5)、十二人の弟子の一人が欠けたことになっています。<ガリラヤ>は、マタイ4:15では、ガリラヤから広く異邦世界への福音伝道が展開すると語られ、イエスが「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って伝道を始めたのもガリラヤの地です。マタイは、復活したイエスが弟子たちに会われる所を、ガリラヤの山としていますが、山は神が顕現する場所です。十一人の弟子たちが、復活したイエスに会うように指示されたガリラヤの山は、山上の説教がなされた山と推定されていますが確証はありません。

   イエスに会い、<ひれ伏し>て礼拝しつつも、疑った者もいました。マタイにはイエスが復活した体を示すことによって弟子たちの疑いを取り去っ記事はありません。弟子たちがイエスを本当に信じることができたのは、ペンテコステの日に聖霊が注がれて以降の ことです。

   「イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。』」(マタイ28:18~20)

  イエスは疑う弟子たちに近寄ってきて、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と宣言されました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」という言葉は、マタイ福音書の中でも最も重要な言葉となっています。イエスは以前に、「すべてのことは、父からわたしに任されています」(11:27)と言われたことがあります。ここでは<天と地の一切の権能を授かっている>と宣言しています。復活によって主イエスは天地を支配する主となったのです。かつて悪魔は、荒れ野の誘惑で、悪魔にひれ伏すなら全世界の支配権を与えようと提案したことがあったが(マタイ4:8)、イエスはこれをきっぱりと拒否し、神のみに仕えることを選びました。その結果は十字架への道を歩むことになりましたが、十字架の死を通過することによって、復活して天地の支配権を、全能の父から委ねられたのです。メシアとしてのイエスは、死と復活を通して詩編110:1に預言されているように「神の右の座」に上げられたのです。こうして現在はイエスが天地を支配する時となったのです。しかし、それは決して、主イエスが、世界の人間の生活のあらゆる面において、直接に主となることではありません。主イエスが、十字架と復活によって、罪に勝ち、死を滅ぼしたことにより、神の支配が始まっているということです。

   イエスのもとへ行った弟子たちは、このイエスのもとから出発して全世界へ宣教するよう命じられました。この宣教命令の目標とするところは、「すべての民」であり、「すべての異邦人」です。生前のイエスの時代には、福音はイスラエルの民に限られて語られましたが、イスラエルが福音を拒否した今、異邦人へ伝えられる時代になりました。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」の言葉で、弟子たちがイエスの働きの継承者となって、世界に福音を伝える使命を与えられたのです。

  マタイの宣教命令は、異邦人たちを「わたしの弟子にしなさい」という命令です。弟子とはイエスの教えを聞き、信じ、イエスを主と仰いで歩む人のことです。

「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」なさいと命じています。<父と子と聖霊>という三位一体の言葉は新約聖書中ここにしかありません(似たような言葉は、コリント二、13:13にもあります)。すでに、イエスの洗礼記事(マタイ3:16-17)で、神と子と聖霊の三つのことが語られています。「父と子と聖霊の名によって洗礼を授ける」とは、三位一体の神の主権に服すと同時に、三位一体の神との交わりに入るのです。父と子と聖霊の中に浸され、御子が聖霊を与えるものとして働き、神自らがそこに働いて、救いを保証するのです。洗礼を受けることは、直ちに、キリストの体である教会につらなることであります。

  「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と命じています。「命じておいたこと」とは、イエスが語られたすべての教えが含まれます。「守る」とは、それを実行することです。それは主によって生きることであり、主と共に生活することなのです。主が共におられなければ、主の教えによって歩むことはできません。 

   「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:17)

   ルカによる福音書では、イエスについての最後の言葉は、「彼は、祝福しながら彼らを離れて、天に引き上げられた」(ルカ24:51)とあるように、イエスと弟子たちが離れてしまうことを語っています。ところがマタイではそれと対照的に、最後の言葉は、イエスがこれからも、いつも共にいることを約束しています。マタイによればイエスは常に信仰者と共にいるので、昇天という形で離れ去ることを語っていません。イエスがなおもインマヌエル、すなわち「神は我々と共におられる」お方であるということを思い起させます。マタイ1:23で、インマヌエル預言の成就が、天使によって語られる場面では、誕生するイエスにおいて「神」が共にいるのですが、ここでは「イエス」が我々と共にいるのです。つまり神は、神の新しい民を導き、また保護するということの責任をまさにイエスに委任されたのです。

 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」この約束は、前後の言葉から、福音を伝える弟子たちに向けられていますが、伝道者だけに限定されたものではなく、教会全体とそれを構成するすべての会衆のためのものでもあります。ここで約束されている「共にいる」という臨在は、イエスの権能を教会に委ねて、世界の宣教を命じているのです。主イエスは、「世の終わりまで、いつも」教会と共におられるのです。「世の終わり」、それは単なる終末ではなく、地上における神の国の完成であり、救いの完成です。キリストは世の救いのために伝道する者と常に共にいてくださり、伝道する者の業を助けると約束されているのです。神の国は、すでにキリストがこの世に来られた時から、近づき、始まっているのです。

   使徒信条では、「天に昇り神の右に座したまえり」と、天に上ったキリストが神の右の座につくということが告白されています。天とは見えざる神のおられるところです。神の右の座とは、神に一番近い場所を意味します。

 1.昇天とは天への帰還を意味します。永遠の昔から父なる神と共におられた主イエスが、罪と死に支配されている人間を救うため、人間となってこの世に来られ、罪と死に打ち勝ち、全てのわざを成し遂げられて、再び、元おられた所に上げられ、帰えられたということです。

 2.「天に昇り、神の右の座に」つかれたとは、全能の父より委任されて主イエスは天地を支配されていることを意味します(マタイ28:18)。また主は教会の頭として全教会に君臨されます。今も主キリストは生きて働き、人を救い、守り、教会と世界を導いておられるのです。

 3.主の昇天は私たちに聖霊がつかわされるために必要なことでした(ヨハネ16:7)。聖霊により、父なる神と御子キリストがわたしたちのところに来て共に住んでくださるのです(ヨハネ14:23)。聖霊の力を受けて教会はこの世にあって宣教の使命を果していくのです。

 4.主イエスは、また、「神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださる(ローマ人への手紙8:34)」方です。私たちを罪ありと訴える者から弁護して下さり、また私たちの祈りを天の父に取り次いでくださるのです(ヨハネ16:23)。

 5.キリストの昇天は、わたしたちのために住む場所を天に用意するためでした。私たちのために天への入口が開かれたのです。私たちもいずれその時が来たならば、天の主の御許に迎えられるのです。

 6.キリストの昇天後、天を見つめていた弟子たちのそばに天の御使いが現れて、彼らにキリストが再びこの地上に来られることを約束します(使徒1:10~11)。それは地上における神の国(神の支配)の完成であり、救いの完成を意味するのです。

 主が共にいまし、共に働いてくださっていると言うことほど、力強いことはありません。主が共にいますことを信じて、自らの信仰生活と教会の成長のために共に励もうではありませんか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「百人隊長の驚くべき信仰」 ルカによる福音書7章1~10節

2019-05-26 01:14:34 | キリスト教

             

    ↑ イエス、百人隊長の僕を癒す

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

      日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

    復活節第5主日  2019年5月26(日)   午後5時~5時50分

年間標語 「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により、力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                               礼 拝 順 序

                                                司会 田中 恵子 姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 355(主をほめよ わが心)

交読詩編   34(どのようなときも、わたしは主をたたえ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)ルカによる福音書7章1~10節(新p.114)

説  教   「百人隊長の驚くべき信仰」  辺見宗邦牧師

祈 祷                                

讃美歌(21) 402(いともとうとき)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

                                        次週礼拝 6月2日(日) 午後5時~5時50分 

                                        聖 書 マタイによる福音書28章16~20節

                                        説教題   「キリストの昇天」 

                                        讃美歌(21) 287 337 24 交読詩編105

                本日の聖書 ルカによる福音書7章1~10節

 7:1イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。 2ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。 3イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。 4長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。 5わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」 6そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。 7ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。 8わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」 9イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」 10使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。

                     本日の説教

 「イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。」(7:1)

 イエスは、祈るために山に行き、朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けました(ルカ6:12-13)。イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになりました。大勢の弟子とおびただしい民衆が、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていました。イエスは目を上げ弟子たちを見て言われました。ルカ6章20節から始まるイエスの教えは、6章49節までとの続きます。これを、マタイの「山上の説教」に対して、ルカの場合は「平地(山麓(さんろく))の説教」と呼んでいます。

 「これらの言葉」とは、「平地の説教」のことで、このあとガリラヤ湖の北岸の町カファルナウムに、イエスは入られました。

 「ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。」(7:2)

 「百人隊長(百卒長)」には、百人の部下がいます。おそらく彼は、ガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパスか、ユダヤの総督であり、ポンティオ・ピラトに仕える隊長と思われます。この百人隊長は、5節の言葉からも異邦人であることは明らかです。この百人隊長は、身分の高い人物です。彼は自分の僕(部下)が重い病気で死にかかって」いるのを心配しました。

 「イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。」(7:3)

イエスのことを聞いた百人隊長は、イエスが神の権威を持った方であり、彼の僕を治せるということを、確固とした信仰によって信じたのです。<ユダヤ人の長老たち>は、ユダヤ教の共同体の指導者たちです。異邦人の百人隊長は、彼らをイエスのもとに使いにやって、病気の部下を助けに来てくださるように頼みました。

 「長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。『あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。』」(7:4-5)

   長老たちは、イエスのもとに来て熱心に願いました。百人隊長はイエス様に願いをかなえてもらうのにふさわしい人です。彼はユダヤ人を愛しており、自らユダヤ人のためにユダヤ教の会堂を建ててくれたのです、と報告しました。

  「そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。」(7:6)

   「そこで」とありますが、「願いをかなえて」やるにふさわしい人物だから、出かけられのではありません。ただ異邦人の病気の部下を癒してやりたいために出かけられたのです。イエス様は平地の説教の中で、「いと高き方は、恩を知らない者にも、悪人にも情け深い」(6:35)と言われています。イエスは長老たちと出かけられました。ところが、その百人隊長の家からそれほど遠くない所まで来たとき、百人隊長は、おそらくは異邦人である友達を使いにやって言わせました。「主よ、家まで足をお運びになる必要はありません。わたしはあなたを自分の家にお迎えできるような価値ある人物ではありません。」と使いの友人に言わせました。異邦人である自分の家にユダヤ人である神の権威を持つイエス様を迎え入れて汚れを与えることをおそれたのです。イエス様を迎えるにふさわしい価値ある人間ではないという、まことに謙遜な謙虚な言葉です。

 「ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」(7:7)

 「それで、わたしの方から伺うのさえふさわしくないと思い、使いの者に頼みました。一言癒しのことばを言ってください。そして、わたしの部下を癒してください。」長老たちはイエスに異邦人の隊長のことをお願いするとき、会堂を建ててくれたとか、ユダヤ人を愛してくれているとか、願いをかなえてくださるにに相応しい方だと言って、イエスを動かそうとしました。イエスは何も言われずに隊長の家に向いました。しかし、百人隊長は、少しも自分のしたことなどを語っていません。ただイエスの前に神の憐れみを懇願しています。彼は、イエスの言葉には神としての力があると信じているのです。彼の頼みは、自分のためではなく、部下のためなのです。

 「わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」(7:8)

 この<わたしも>は、「イエス自身も父な神の権威の下にあるが、わたしも上官の権威の下に置かれている。自分に与えられている権威によって、わたしも部下に対して命令できるように」ということです。わたしの下にいる兵隊の一人に「行け」と言えば彼は行き、「来い」と言えが彼は来ます。また部下に「これをしろ」と言えば、彼はそのとおりにします。」彼は軍隊の百人隊長に与えられている権威の下に、命令する力を知っていたのです。百人隊長の言葉は、イエスの「元気になれ」という言葉の力を信じたのです。

 「イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」(7:9)

 イエスはこれを聞いて、信仰の民イスラエルには見られないような信仰に感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われました。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と驚き褒められました。

 「使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。」(7:10)

 百人隊長はイエスに使者を通して頼むだけであり、百人隊長自らがイエスの前に現れることもなく、使者たちが隊長の家に戻ると、死にかかっていた病人は元気になり、癒されていました。癒された部下は自分の信仰によってではなく、隊長の信仰により、主イエスの言葉によって癒されました。とりなしの祈りと願いによって、部下は癒されたのです。

   この癒しは、平地の説教をするイエスの言葉の権威を具体的に表すだけでなく、貧しい人たち(ルカ6:20-21)に対する神の国が現実になっていることを示しています。しかもその貧しい人はここでは異邦人の病人でした。主イエスによってもたらされた神の国は異邦人の世界にまで及んでいくのです。

  聖霊降臨後、 宣教による福音を異邦人の世界にもたらす時がきます。この百人隊長の驚くべき信仰は、使徒言行録におけるコルネリウスという百人隊長の改心の先がけとなっています。両方とも、信仰心あつく、神を畏れる(使徒言行録10:1)だけでなく、異邦人なのにユダヤ人のために会堂を建て、コルネリウスは<ユダヤの民に多くの施しを>します。コルネリウスもペトロのもとへ使者を遣わしています。シモン・ペトロは異邦人の家に行くことを迷いつつ、聖霊によって後押しされて、百人隊長の家に入り、教え、洗礼を授け、異邦人と共にパンを裂くのです。ルカによる福音書のキリストの言葉による隊長の僕の癒しは、使徒言行録10章の物語では、ペトロに使徒としての権威を与えたのです。

 並列記事は、マタイ8章5-13にありますが、マタイの方では、百人隊長が自らイエスのもとに来て頼んでいます。マルコによる福音書7章10節には、シリア・フェニキアの女(異邦人)の強い信仰によって彼女の娘がイエスのもとに連れて来られなくとも、イエスの言葉によって治った奇跡が記されています。

 百人隊長はイエスに会いに来ませんでした。この物語の百人隊長は、やがて来るべき全ての信仰者を先取りした存在として重要です。現代のわたしたちは、イエスを見てはいないが、イエスの言葉は生きて働く力をもつのだと信じています。主は、百人隊長のような驚くべき信仰を私たちにも求めておられるのです。主を呼び求め、主を迎え入れるにはふさわしくない汚れた心に、主がお住まいくださるということは、なんとすばらしい、ありがたいことでしょう。主をほめたたえましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「新しい愛の戒め」 ヨハネによる福音書15章12~17節

2019-05-26 00:54:22 | キリスト教

             ↑ ルーベンス 「弟子の足を洗うキリスト」1632 ディジョン美術館.

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

        日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

     復活節第4主日  2019年5月19(日)     午後5時~5時50分

年間標語 「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体

          を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により、力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住

           まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるよ

            うに。」(エフェソ3・16-17)

                               礼 拝 順 序

                                                司会 田中 恵子 姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)   56(主よ、いのちのパンをさき)

交読詩編   27(主はわたしの光、わたしの救い)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書15章12~17節(新p.199)

説  教   「新しい愛の戒め」      辺見宗邦牧師

祈 祷                                

讃美歌(21) 512(主よ、捧げます)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

                                          次週礼拝 5月26(日) 午後5時~5時50分 

                                           聖 書 ルカによる福音書7章1~10節

                                           説教題   「信仰に報いる主」 

                                           讃美歌(21)  408 24 交読詩編 34

                          本日の聖書 

 15:12わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。 13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 14わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 15もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 16あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。 17互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

                   本日の説教

 

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

 

日本福音教団 富 谷 教 会

週    報

 復活節第4主日         2019年5月19(日)   

  午後5時~5時50分

年間標語 「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて

働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」

(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により、力をもって、あなたがたの心の内に

キリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと

立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

 

礼 拝 順 序

司会 田中 恵子 姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  56(主よ、いのちのパンをさき)

交読詩編   27(主はわたしの光、わたしの救い)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書15章12~17節(新p.199)

説  教   「新しい愛の戒め」      辺見宗邦牧師

祈 祷

聖餐式    78(わが主よ、ここに集い)                                

讃美歌(21) 512(主よ、捧げます)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

次週礼拝 5月26(日) 午後5時~5時50分 

聖 書 ルカによる福音書7章1~10節

説教題   「信仰に報いる主」 

讃美歌(21)  408 24 交読詩編 34

本日の聖書 

 15:12わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。 13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 14わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 15もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 16あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。 17互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

                     本日の説教

 ヨハネによる福音書13章では、過越の食事の前日に夕食の席に着く前に、イエスが<弟子たちの足を洗う>、「洗足」の記事があります(1節~11節)。ヨハネによる福音書によると、イエスは翌日、すなわち過越の祭りの日に十字架に架かっています。この点共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)の記事と一日ずれています。教会歴では、洗足は受難週の木曜日の最後の晩餐の席で行われたものとしています。

   イエスは、逮捕と受難の直前に、あとに残される弟子たちを愛して、奉仕の模範を示します。そして、21節以下に最後の晩餐の場面が描かれます。夕食中に、<ユダの裏切りの予告>があり、ユダが出ていきます。

   13章31節~35節では、ユダが出て行くと、イエスは、地上に残される弟子たちに、新しい掟を与えます。

  「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13・34~35)

 「新しい戒め」とは、⑴「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛した」という、父なる神とイエスとの関係に基ずく愛であり、⑵「わたしの戒め」として与えられている「イエスの戒め」です。⑶弟子たちの足を洗うという行為を通して示された愛であり、⑷神に背きつづける人間の罪のために十字架で死んでくださったことによって示された愛です。⑷更にそれはイエスに始まる共同体における兄弟愛です。それはイエスの弟子であることを証する愛です。

     このあと、ペトロとの会話の中で、ペトロの離反を予告します。

    14章から16章までは別れの説教です。17章は後に残る弟子たちのためのとりなしの祈りです。今日の聖書の箇所は別れの説教中の言葉です。

   イエスは再び、愛の掟を弟子たちに命じます。イエスがこの掟に大きな重要性をおいたことは、イエスがこの掟について同じ夜にさらに二度繰り返したことによってわかります。

  「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15・12~13)

    イエス・キリストは私たちに互いに愛し合うように命じられました。イエスが私たちを愛されたと同様に愛しなさい、と命じています。隣人愛は、イエスの愛を知った者、主に従おうとする者がまず兄弟を愛するということから展開され実現されると言えます。ここに<互いに愛し合う>兄弟愛の交わり、<隣人への愛>も現実化されていくのです。

   13節の<友のために自分の命を捨てる>と言うこの言葉は、キリスト教以外の古代世界においても、他者のために死ぬことは愛の最高のしるしでした。しかし、福音記者は、<友のために自分の命を捨てること>という言葉によって、一般的に最大の愛について語っているのではなく、間接的にイエスの十字架の贖いの死を指し示す言葉として用いています。

  「自分の命を捨てる」とは、自爆テロのような自己放棄への奨めではありません。善良な市民をも無差別に殺生しようとする行為には、憎しみはあっても愛はありません。それは、イスラム教のアッラーの神に名のもとになされる自暴自棄的な自殺行為でしかありません。

    イエスの求める愛は、自己愛の延長としてではなく、価値のない者、背く者に注がれる「神の愛」を証しし、その愛にこたえて、「互いに愛し合う」ことを求めるものです。自分の健康に留意し、自分の成長を計り、自分に収入を確保するなど、自分を守る生活を放棄するのではなく、そのすべてを通して神に仕え、人に仕え、愛し合うことが求められているのです。

  「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」(ヨハネ15・14~15)

 旧約聖書ではアブラハムが、神から選ばれたという理由で「神の友」と呼ばれています(イザヤ書41・8)。ここでは、イエスと弟子たちの愛による一体性から、弟子がイエスの<友>と呼ばれるのです。

    続いて、弟子たちがなぜイエスの友と呼ばれるのか、その根拠が示されます。イエスと弟子たちは、もはや、主人と僕(奴隷)の関係ではありません。僕は、主人の意図も行動も知らないが、弟子たちはそのことを知っています。特に、ここでは、聖霊に導かれて、イエスの人格と言葉と業のすべてを知り、イエスの愛を共同体内に体現している弟子たちは、イエスと一体であり、その意味で、イエスの友なのです。

  「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」 (ヨハネ15・16~17)

   主イエスが弟子たちを使徒として任命し使命を与えています。主が選び任命し遣わされるゆえに、弟子たちは出かけて行って実を結ぶべきであり、実を結ぶことが約束されています。選びの主体は、常に、イエスの側にあるのであり、そこに、イエスの神的主権が示されています。<実を結ぶ>と言う比喩的表現で世界への伝道が述べられています。明らかに、ここでは、弟子たちの伝道の業と礼拝が言及されています。「たがいに愛し合いなさい」(12節)という<わたしの掟>は最後にもう一度繰り返され、「これがわたしの命令である」と結ばれます。

 しかし、わたしたちは、互いに愛し合うことができるでしょうか。主イエスの言葉を実行することは、人間に可能なのでしょうか。本来利己的、自己中心的な人間が、キリストのような献身的、自己犠牲的な愛を実践することは出来ません。では、どうしてそれが可能となるのでしょうか。それは人間の力では出来ないことが、「わたしがあなたがたを愛したように」というキリストの愛の事実に支えられ、励まされ、促され、愛を実践できない自分の罪を告白しつつ、出来る自分へと変えられることを祈ることによって、キリストへの信仰により、聖霊の働きにより、心の内にキリストを住まわせていただき、新しい人に造り変えられて、できるようになっていくのです。

 「わたし自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです。しかし、…神は、…わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かない注いでくださいました。」(テトス3:5-6)聖霊によって新しい人に造り変えられるのです。

  「御父が、その霊により、力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかり立つ者として」(エフェソ3:16-17)くださるのです。

   私たちは出かけて行って実を結ぶことを求められているのです。互いに愛し合う交わりを形作るということです。それは具体的に、夫婦、親子、友人、同僚、地域の人たちとの関係を、「互いに愛し合う」交わりにしていく責任が私共にはあるということです。そのために私共は選ばれたからです。すべての必要なものを父なる神が与えてくださることを信じるゆえに、私たちは祈りつつ、遣わされていくのです。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「試練から逃れる道」 コリントの信徒への手紙一、10章13節

2019-05-11 12:22:36 | キリスト教

             ↑ 「主はわたしの羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」詩篇23篇1節

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

      日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

          復活節第4主日   2019年5月12(日)   午後0時30分~1時20分 

    (仙台青葉荘教会壮年会との合同礼拝)  

                              礼 拝 順 序

                                                司会 三輪大(ひろし) 兄

前 奏              奏楽   辺見トモ子    姉

讃美歌(21) 204(よろこびの日よ)

交読詩編   63(神よ、あなたはわたしの神)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)コリントの信徒への手紙一、10章13節(新p.312)

説  教      「試練から逃れる道」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                

讃美歌(21) 493(いつくしみ深い)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

   合同礼拝 日本キリスト教団仙台青葉荘教会の壮年会の皆様は毎年5月第二主日の昼頃から、富谷教会支援のために、富谷教会で合同礼拝をしてくださいます。弁当も用意して下さいます。昼食後は、茶室で抹茶の接待をし、懇談の時を過ごします。終了は2時30分頃の予定です。

                                           次週礼拝 5月19日(日) 午後5時~5時50分 

                                           聖 書 ヨハネによる福音書15章12~17節

                                           説教題   「キリストによる愛の命令」 

                                           讃美歌(21) 56 393 24 交読詩編 119

 

           本日の聖書 コリントの信徒への手紙一、10章13節

 「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」

          本日の説教

  2月12日火曜日に、高校三年生、18歳の競泳選手の池江璃香子さんが、自身のツイッターで、体調不良のためオーストラリアから緊急帰国し検査を受けた結果、「白血病」という診断が出たことを公表し、「私自身、未だに信じられず、混乱している状況です。」と語ったことから、日本全国に衝撃が走りました。

   翌日、彼女はツイッターを更新し、「私は、神様は乗り越えられない試練は与えない、自分に乗り越えられない壁はないと思っています。」と、完治を目指し、戦っていく決意を表明しました。彼女の言葉が、多くの人に勇気と感銘を与えました。

   池江さんは、自分の言った言葉が、聖書の言葉と関係していると知らずに言われたのかも知れません。彼女の言った言葉は、ドラマや映画でも使われているようです。

   聖書の言葉は、次のように記されています。

  「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に逢わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださます。」(コリントの信徒への手紙10章13節)

  池江さんは、「神は耐えられないような試練に遭わせることはなさらない」を「神様は乗り越えられない試練は与えない」と池江さんは言っています。

 抗がん剤治療は、半年くらい続くようです。池江さんの次のツイートは3月6日でした。「思ってたより、数十倍、数百倍、数千倍しんどいです。三日間以上ご飯も食べれてない日が続いてます。でも負けたくない」とツイートしています。

  池江さんは、3月13日以来、途絶えていたツイターを、5月8日(水)に、今度はホームぺージに代えて、自筆の文を添えて発表しました。一部分を披露すると、「現在、治療は順調に進んでいます。…正直、心が折れそうな時もありますが、たくさんの言葉にはげまされ、最後まで頑張りたい…どんな時も1人でない事を忘れません。…引き続き温かく見守っていただけたら嬉しいです。」

   多く方々が、池江さんの完治の早いことを願い、激励の言葉を寄せています。

 池江さんは、「神は試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださる」ことを知っているでしょうか。今日の聖書の箇所を「フランシスコ聖書研究所の「原文校訂による口語訳聖書」では、次のように訳しています。

  「あなた方を襲った試練は、何一つとして人間に耐えられないようなものではありませんでした。神は信頼に値する方です。絶えられないような試練にあなた方を遭わせるようなことはなさらず、むしろ、耐えることができるように、試練とともに抜け出る道をも用意してくださるのです」と訳しています。

  「試練に耐えられるよう、逃れる道」とは、「耐えることが出来るように、試練から抜け出る道」を用意してくださるということです。

   試練と共に逃れる道をも備えて下さる神様のことを、「神は真実な方です」と言い表しています。聖書の神様は、御自分の言葉、約束をどこまでも固く守り、実行される真実な方です。

   紀元前1950頃に、イスラエル族長アブラハムに、神は「あなたは多くの国民の父となる」と契約を結びました(創世記17:4)。神はアブラハムを祝福の源として、全世界の民を救う約束をされました。紀元前1280年頃には、神はシナイ山でモーセを通してイスラエルの民と契約を結ばれ、民が神との契約を守るならば、神はイスラエルの民を祭司の王国とし、他のすべての民族を神に導く仲介者とすることを約束されました(出エジプト記19:5-6)。民はしばしば契約を破りましたが、神は契約を破ることはありませんでした。

   そのことが、神様の独り子イエス・キリストにおいて、鮮やかに示されました。神様は私たちを救うという約束を果たすために、ご自分の独り子を十字架につけてくださり、その死と復活によって、私たち人間を罪と死の支配から救ってくださったのです。キリストは天上に あって、父なる神と共に世を支配しておられます。

   私たちはさまざまな困難や誘惑、試練にとり囲まれたままであってそれから解き放たれるものではないが、しかしわたしたちのために執り成しの祈りを祈ってくださる主イエスが私たちと共におられ、聖霊として側にいて下さるのです。

 主イエスはわたしたちを生きるための重荷から解放してくださるために、わたしたちがそれに耐えるように助けて下さる。主イエスがわたしたちと共に歩み給うという仕方で神はわたしたちに逃れるための道を備えてくださるのです。

 主イエスは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)と呼び掛けています。

 わたしたちは、まさに八方ふさがりとしか思えないような試練に取り囲まれることがあります。それを突破して行くことが出来るのは、神が真実でありたもうこと、この神が逃れる道を備え給うという確信です。どんなことがあろうとも、真実であられる神様は、きっと私たちを最後まで責任を持って導いて下さるはずです。どんなものも、「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを 引き離すことはできないのです。」(ローマ8:39)

   私たちは聖書の神を知る時に、たとえ人生の不幸を味わうことがあっても、その不幸の意味を知らされます。それが恵みであるということを知らされるのです。それは、聖書の神は、私たち人間を愛しておられる方だからです。聖書の神は、不幸の中に、あなたにとっての恵みを示しておられます。

 神戸市に住んでいる27歳の保田広輝さんという青年は、筋ジストロフィーという生まれつきの進行性の難病を抱えています。「明日を夢見て 神様と筋ジストロフィーと共に生きる」と検索すると、彼のブログを見ることができます。彼は自分の余命は8年と言っています。電動車椅子と人工呼吸器を24時間使用しながら生活しています。以前自分のことを不幸だと思っていたそうです。何度も神様の存在を疑い、怒りや恨みをぶつけたこともあった、と言っています。この方が特に慰められた御言葉が、今日の聖書の言葉だと語っています。

 「神様が背後にいて下さって、難病の人生という任務を全うしなさいと神様が任命してくださったからこそ、困難な人生にチャレンジしていけるのです。どれほど苦しい日々でも、信仰と希望と愛があれば、最後までいきていくことができる」と語っています。

  彼は自分の余命は8年と言っています。電動車椅子と人工呼吸器を24時間使用しながら生活しています。以前自分のことを不幸だと思っていたそうです。何度も神様の存在を疑い、怒りや恨みをぶつけたこともあった、と言っています。この方が特に慰められた御言葉が、今日の聖書の言葉だと語っています。

 「神様が背後にいて下さって、難病の人生という任務を全うしなさいと神様が任命してくださったからこそ、困難な人生にチャレンジしていけるのです。どれほど苦しい日々でも、信仰と希望と愛があれば、最後までいきていくことができる」と語っています。

 使徒パウロは、「キリストの力は弱さの中でこそ十分に発揮される(コリント二,12:9)」と言っています。自分の強さを誇るのでなく、自分の弱さを認めるときに、キリストの力がわたしたちの内に宿り、強くされ、神の恵みがあふれるのです。

 真実な神は、「耐えられない試練に遭わせません。試練に耐えられるように逃れる道を備えてくださるのです。」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「弟子たちに現れた復活のイエス」 ルカによる福音書24章36~43節

2019-05-05 10:52:38 | キリスト教

        ↑ レンブラント(オランダの画家)「聖トマスの懐疑」1634年 プーシキン美術館 モスクワ (弟子たちが13人画面に描かれています。ユダを除く11人の弟子と、エマオから戻った二人の弟子を表しているようです)

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

                    日本福音教団 富 谷 教 会   週 報

 復活節第3主日  2019年5月5日(日)   午後5時~5時50分 

         礼 拝 順 序

                 司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 204(よろこびの日よ)

交読詩編   16(神よ、守ってください)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)ルカによる福音書24章36~43節(新p.161)

説  教 「弟子たちに現れた復活のイエス」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                

讃美歌(21) 325(キリスト・イェスは)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

             次週礼拝 5月12日(日) 12時30分~1時20分

             仙台青葉荘教会壮年会との合同礼拝

             礼拝後、昼食・呈茶と懇親会(2時30分頃まで)

   本日の聖書 ルカによる福音書24章36~43節

 36こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。37彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。38そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。39わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」40こう言って、イエスは手と足をお見せになった。41彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。42そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、43イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

    本日の説教

 先週の礼拝では、エルサレムからエマオに向かって歩いていた二人の弟子に、復活したイエスが現れた話しをいたしました。泊まるために入った家で、一緒の食事の席についたとき、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになったイエスの御姿を見て、二人の目が開け、イエスだと分かりました。主イエスの復活を信じた二人の弟子は、直ちに夕食の席からエルサレムに戻って、他の弟子たちの所に行ってみると、十一人の弟子たちとその仲間たちが集まっていました。そして、「本当に主は復活して、シモン・ペトロに現れた」と話していました。エマオから戻った二人も道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かったことを皆に話しました。ここからが今日の聖書の個所です。

  彼らがエマオで復活のイエスと出会った話をしていると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。

  復活のイエスの出現は時間と空間の制限を超えたものでした。イエスがどこからどのようにして入ってこられたか分からず、しかも突然彼らの真ん中に現れたので、「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思いこんだ」のです。彼らはイエスの肉体を持たぬ亡霊つまり幽霊を見たと思たのです(マタイ14・26参照)。

  そこで、イエスは言われました。「なぜ、うろたえているのか。」とたしなめられました。弟子たちが<うろたえた>のは、思いがけない出来事に出会って、慌てふためいたからです。「どうしてお前たちの心にそのような考えが起るのか」と、イエスは弟子たちをとがめました。弟子たちの目の前には、復活の主がお立ちになったのに、それがあまりにも自分たちの常識、分別というものを超えていたので、弟子たちは素直にイエスだと認めることができなかったのです。

 「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」、こう言って、イエスは手と足をお見せになりました。

  イエスは自分の手足を弟子たちに観察させ、それがイエス自身であることを了解するように弟子たちに求めたのです。また、イエスのは自分のからだを弟子たちに触れさせ、復活のイエスには亡霊にはない肉体が具わっていることを弟子たちに確認するように訴えたのです。

 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われました。そこで、弟子たちは焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らと共に食べました。イエスが自分の体にさわるようにと言ったり、皆がいる前で魚を食べたりして見せたことは、「霊には肉も骨もないが、私にはこのように手や足がある。つまり肉体があるのだ」と言っておられるのです。そのことを彼らにはっきりと分からせるために、40節で「こう言って、イエスは手と足をお見せになった」のです。そして41、42節には、弟子たちがなお信じられず、不思議がっているので、主イエスがそこにあった焼き魚を一切れ食べてみせたことが語られています。

  それは、主イエスの復活は、霊のみにおける事柄ではなくて、肉体の復活だったのだ、ということです。キリストの復活が不死の魂という一般的な概念には適合しない、他にはないやり方で神はイエスを復活をさせたということなのです。。復活の主は手足に釘の傷痕があることを示したのは、復活のキリストが十字架で死んだイエスであるということです。復活の主は、十字架にかけられた、同一人のまさしくわたしだ、と言われたのです。

  復活のイエスの顕現の目的は、イエスは単なる霊的な存在ではなく、霊的な体を持って復活されたことを示しています。神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら救われるのです(ローマ10・9)。イエス・キリストは霊において復活して弟子たちの前に現れた、ということならば、受け入れやすいことです。しかしそのような復活理解は人間の常識や知識の範囲を超えることができません。人間を超えた神様の力が働く余地はそこにはありません。

   主の昇天後に生きる私たちは、聖霊の働きによって、この目で見ることなしに主イエスを信じ、復活して今も生きておられる主イエスと共に歩んでいきます。神の教会を迫害していたパウロも、主の昇天後に、「サウロ、サウロ」と天から呼び掛ける主に出会いました。そして、「最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」(コリント一、15:5)と、キリストの復活を証言しています。

   主イエスの弟子たちは、復活の主イエスに出会い、信じられない程の大きな喜びを知りました。この肉体の死によって終わらない命へと招かれていることを知りました。しかし、それは自分一人の中にとどめておくような喜びではありませんでした。罪と死にたいする主イエスの勝利は、地の果てにまで宣べ伝えねばなりません。全ての人々をそこに招き、罪を悔い改めさせ、神の国へ迎え入れていただく喜びです。彼らも、私たちもこの福音を伝える証人となるために、復活の主イエスとの出会いを与えられているのです。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする