富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「キリストを信じるとはーキリストへの大いなる転向」

2022-02-26 11:21:03 | キリスト教

     「(キリストへの)大いなる転向」フィリピ3:1-11           これこそが(永遠の命に)生きることだ! 

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

降誕節第10主日     2022年2月27日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」                     (エフェソ3・16-17)

                            礼 拝 順 序                    

                  司会 邉見順子姉

前 奏               奏楽 田中恵子姉

讃美歌(21)  56(主よ、いのちのパンをさき)

交読詩編   17(主よ、正しい訴えを聞き)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳) フィリピの信徒への手紙3章1~11節(新p.328)

説  教     「キリストを信じるとは(キリストへの大いなる転向)」

祈 祷                                           

讃美歌(21) 456(わが魂を愛するイェスよ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オンラインで礼拝に参加できます。

申し込み先:Eメール munekuni-hemmi@vesta.ocn.ne.jp

               受難節 3月2日(水)~4月16日(土)

               次週礼拝 3月6日(日)  午後5時~5時50分

               聖書  ローマの信徒への手紙5章1~11節

               説教題  「信仰によって義とされて」

               讃美歌(21) 498 535 27 交読詩編 22

本日の聖書

 3:1では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。 2あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。 3彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。 4とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。 5わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、 6熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。 7しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。 8そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、 9キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。10わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、 11何とかして死者の中からの復活に達したいのです。

本日の説教

 「では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。」(3章1節a)

「では」は、「それでは、終わりに、最後に」の意味で、手紙の結びを導入することばです(フィリピ4:8、Ⅱコリント13:11参照)。3章1節aは、2章のしめくくりの文なのです。「主において(主にあって)喜びなさい」とは、主との交わりを深め、主に信頼し、主に服し、主と共に生きるときに実現される喜びの体験を深めなさい、という勧めのことばです。仮りに不幸な出来事に遭遇しても、なおかつそれに打ち勝って喜ぶ喜びが、ここでは語られています。そのことは、4章4節で「主にあっていつも喜びなさい」という勧めによって明白です。そのことが、主に信頼し、主の支配に服するとき、人間にとって可能となるのです。

「同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです」(3章1節b)

3章1節bから始まる文章は、するどい警告と論戦的な性格を帯びてきます。「同じことをもう一度書く」とは、この手紙とは別に、以前にフィリピの教会に対して書いた、2節以下と同じような内容の手紙について語っていると思われます。もう一度書くことは、わたしにはめんどうなことでもなく、あなたがたの信仰生活にとって有益なことなのです、語りかけます。

パウロは、敵対者たちが、割礼のない異邦人キリスト教徒を侮辱して犬と呼んだことを、彼らに当てはめて、彼らこそ割礼の本来的な意味をわきまえない犬であると侮辱し、「あの犬どもに注意しなさい」とフィリピの信徒たちを警告します。彼らはよこしまな働き手たち(巡回伝道者たち)だから気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい、警告します。

彼らは律法を守ることに救いの保証があると主張し、福音を脅かし、人をだます悪い働き人にほかなりません。彼らは割礼の真意を理解しない者達であり、からだに切り傷を持った霊的に欠けのある者達です。

「彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。」(3章節)

「神の霊によって礼拝し」の「神の霊」とは、神が信じる者に与える霊(聖霊)を意味します。「肉」とは、人間の所有物や自己に内在するものを指します。自己の宗教的熱心やユダヤ人としての宗教的特権であり、自己を誇ることにつながります。

 「キリスト・イエスを誇り」は、キリスト・イエスを根拠として誇ることを意味します。キリストを頼りにする生き方は、世の人には弱さを意味します。だがパウロは、弱さにとどまり、肉に頼らず、一切をキリストから恵みとして受けると語り、すべての人間的誇りにとどめを指します。

 「わたしたちこそ真の割礼を受けた者です」の「割礼」は、もちろん「肉の割礼」ではなく、精神化された「心の割礼」(ローマ2:28-29)を意味します。肉の割礼の精神化はすでにエレミヤ書4:4や、エゼキエル44:7でも預言されていました。

「とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。」(3章4節a)

わたしたちは、肉に頼らないと主張するのは、自分が肉を誇れないからではなく、肉を誇れる立場にあり、頼ることも出来ます。

「だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはより以上そうできる。」(3章4節b)

肉に頼れると思う人とは、敵対者たちを指しています。パウロは、ユダヤ主義的傾向を強く持った敵対者たちを念頭に、彼が受けた特権と、かつての宗教的熱心を語り、自分がいかなるユダヤ人にも追い越されない高い肉の誇りを持っていることを明らかにします。

 「1」わたしは生まれて八日目に割礼を受け、2)イスラエルの民に属し、3)ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。4)律法に関してはファリサイ派の一員」(3章5節)

 始めの三つは、彼が自分の努力なしにうけた宗教的特権です。後の三つは、かつての彼の信仰的熱心に関するものです。「わたしは八日目に割礼を受けた者」は、パウロが律法に従って、生後八日目に割礼を受けたこと、すなわち異邦人からの改宗者でないことをあげます。

 「(わたしは)イスラエル民族、ベニヤミン族の出身」は、パウロがイスラエル民族の出であること、イスラエルの十二部族の中でも最初の王サウルを出した名門であるベニヤミン族の出であることを明らかにします。「ヘブライ人の中のヘブライ人」は、パウロが言語および生活様式全般において、ユダヤ人の正統を受け継ぐものであることを示します。パウロはキリキアのタルソ(現在のトルコのタルソス)を故郷とし、ヘレニズム的環境(ギリシヤ)で育ったが、家庭はユダヤ人の正統的伝統を重視し、会堂で教育を受け、へブル語を自由に語ることが出来ました。

 「律法に関してはファリサイ派の一員」は、パウロの宗教的熱心を示します。ファリサイ派は、モーセの律法と口承された諸規定をもっとも厳格に遵守する宗団でした。

「5)熱心さの点では教会の迫害者、6)律法の義については非のうちどころのない者でした。」(3章6節)

「熱心さの点では教会の迫害者」は、律法への熱心は、律法によらない救いを宣べ伝えた教会と対立することから、教会への迫害者として先頭い立って働きました。「律法の義については非のうちどころのない者でした」は、律法を守ることによって神との正しい関係すなわち救いを実現することにパウロは全力を傾注しました。パウロは律法遵守において実際に非の打ちどころがなかったことを意味します。

 以上、パウロは敵対者たちに対して、割礼問題からはじまり、律法問題に行き着いて、述べています。敵対者たちの主張も、主にこの二点に集中していました。

 「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。」(3章7節)

次にパウロは、キリストへの転向と、その後の「死人からの復活」を目指す彼の生き方を語ります。

「しかし、わたしにとって有利であった」ものとは、具体的にはパウロが語った「肉の誇り」、すなわち宗教的特権と宗教的熱心を指します。これらはパウロの救いのために不可欠であり、パウロのとって最も価値あるものでした。これらの有利であったものを、「キリストのゆえに損失と見なすようになった」というのです。この価値の転倒は、ダマスコ(シリアの首都)郊外でのキリストの出会いによる回心の出来事以来のパウロの立場が述べられています。

「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。」(3章8節a)

ここではパウロの現在の確信が述べられています。さらに、「わたしたちにとって有利であったこれらのこと」が、「他の一切」と書き変えられています。「主キリスト・イエスを知ること」とは、恵みにより生けるキリストとの交わりに入れられていることをキリストとの出会いに基づて信じていることに他なりません。キリストを知ることのあまりのすばらしさに、パウロは他の一切を損失とみています。

「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」(3章8節b)

「失った」は、原語では「失わさせられた」です。これはパウロがキリストの啓示を経験し、キリストの恵みによって生き方を決定されたということを表しています。パウロはすべてを失ったことを、「塵あくた」とみなしています。「塵あくた」とみなしているのは現在の確信を表しますが、それは将来、終末時にキリストを得るためであると、救いの完成を将来に期待する点において、敵対者たちの立場と異にしています。敵対者たちは、現在すでに救いが完成していることを主張し、それを誇りました。

「キリストの内にいる者」とは、キリストとの連帯、キリストとの共存が語られています。キリストとの共生は、パウロにとって、その完成は将来のことであるが、現在すでに与えられている恵みなのです。

「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」(3章9節)

「義」とは、ユダヤ教では、律法の業によって実現される神との正しい関係です。「律法から生じる自分の義」とは、律法を行うことによって実現する義です。しかし、律法を行い、それによって義を実現するのは、「わたし」ですから、この義は、「わたし」がつくり出す「自分の義」、「わたしの義」に他なりません。

 「キリストへの信仰による義」とは、キリストの十字架と復活による出来事を、神の恵みによる救いの行為と信じることにより、神との正しい関係を与えられることを意味します。

 「神が与える義」とは、神がキリストによる人間の救いの出来事によって、人間に、神との正しい関係を恵みとして与えることを意味します。

 「律法を行うことによる自分の義は、キリストの救いの出来事によってあらわされた神の義、すなわち神の御意志による、キリストの贖いによる、恵みとしての救いに対する反抗であり、これは、結局は自己を神格化することになります。そこではキリストは排除され、神が恵みにより、キリストの出来事によって回復した「わたし」との関係は完全に破棄されるほかありません。

ところで、キリストへの信仰によって救われるとはどういうことなのか、そのことが次の10節から11節にかけて説明されています。

「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(3章10-11節)

「キリスト」を知ることは、具体的に「キリストの復活の力」を知ることです。復活の力は、キリストを復活させた神の力です。その「力」を「知る」とは、滅びるべき人間でありながら、その神の力の働きにあずかることをゆるされることに他なりません。反対者たちは、自分たちはすでにそれにあずかっているとしました。パウロはそれを将来に期待します。パウロはキリスト者の生を、目標への途上にあるものとして捉えます。

 第二に、「その苦しみにあずかって」は、キリストの復活は、その苦難・死と切り離すことはできません。復活の神の力は、まさにキリストの弱さにおいて働きました。それに対応してパウロは自分もキリストの苦難にあずかることによって、その復活にあずかることを期待します。「彼の苦難にあずかること」は、実際には宣教のための迫害をうけることで反対者たちは、「キリストを知る」ものは、現在すでに復活の力にあずかるとしました。その際、死の問題は、彼らが洗礼を受けるに際しすでに味わってしまったものとして、彼らの生にとっては、それはもはや直接には関係のない事柄でした。これに対し、パウロは、「キリストを知る」ことは、キリストの苦難と死にあずかることなしには、現実となりえないと主張しました。それは実生活の中で具体的に形をとるべき事柄として理解されています。

 「その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(3章11節)

「キリストの死と同じさまにされて」は、「彼の苦難にあずかること」を徹底、強化したことばです。これは、現在すでに完全に復活の力にあずかっているとし、キリストの苦難と死にあずかることに無関心であった敵対者たちに対して語っています。

「何とかして死者の中からの復活に達したいのです」の「なんとかして」は、復活にまだあずかっていないばかりか、将来においても決して自動的にあずかれるものではないことを、この「なんとかして(どうにかして)」という言葉で暗示しました。「死人の中から」は、単純に、復活に死が先行することを明らかにすう言葉です。「復活に達したい」は、パウロはこの目的地に自分の力で到達できるとしているのではありません。「彼の死と同じさまにされる」という、人間の無力の極限においてこの目標にあずかることを、彼は望んでいるのです。

 キリストを信じるとは、キリストを信じる信仰によって、神との正しい関係を恵みとして与えられ、生けるキリストとの交わりに入れられ、聖霊によって主を礼拝し、主に仕え、主を信頼し、主にあっていつも喜ぶ者とされます。さらに死者の中からの復活を目指して歩む者とされます。キリストと共に生きることのすばらしさは、すべてのものを失っても、それらは塵あくたに等しいものとなります。このような信仰生活を送りたいものです。

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「キリストに倣って」 フィリピの信徒への手紙2章1~5節

2022-02-20 15:44:11 | キリスト教

      「イエス・キリストにもある、この思いをあなたがたも抱くように」    フィリピ2:5

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    

週    報

降誕節第9主日 2022年2月20日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を

成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわ

せ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」                         (エフェソ3・16-17)

                            礼 拝 順 序                    

                  司会 邉見順子姉

前 奏               

讃美歌(21)  13(みつかいとともに)

交読詩編  147(ハレルヤ。わたしたちの神をほめ歌うのは)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳) フィリピの信徒への手紙2章1~5節(新p.328)

説  教      「キリストに倣って」

祈 祷                                            

聖餐式    72(まごころもて)

讃美歌(21) 507(主に従うことは)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                                       〇オンラインで礼拝に参加できます。

                                          申し込み先:Eメール munekuni-hemmi@vesta.ocn.ne.jp

                                          次週礼拝 2月27日(日)  午後5時~5時50分

                                          聖書  フィリピの信徒への手紙3章1~11節

                                         説教題  「キリストを信じるとは」

                                         讃美歌(21) 56 456 27 交読詩編 17   

本日の聖書

 2:1そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、 2同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。 3何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、 4めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。 5互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。

本日の説教

フィリピの現在は、ギリシャ共和国の北東部、東マケドニア地方にある、フィリッポイという町(Filippoi)です。北はすぐブルガリア共和国との国境です。

パウロは、三回にわたって海外への大きな伝道旅行をしていますが、二回目のときに初めて、小アジア(現在のトルコ)から、エーゲ海を渡って、ヨーロッパに行きました。ヨーロッパでの最初の伝道の地がフィリピでした。フィリピは、パウロが訪れた時は、マケドニア東部最大のローマの植民都市で、東西交通の要所でした。マケドニヤ王国のアレキサンダー大王の父親フィリッポス二世が、自分の名にちなんでフィリッピ(ピリピ)命名した町です。

パウロから福音を聞いて最初に信徒となったのは、リディアという紫布を商う女性の商人でした。彼女は家族や使用人と共に洗礼を受けました。彼女の家が最初の集会所となりました。(使徒言行録16・11~15)このようにして、使徒パウロから福音を伝えられてフィリピの教会は、以後、パウロと親密な関係を保ちました。しかし残念なことに、教会内部に信徒間の不一致があることがパウロに伝わりました

4章からなるこの短い手紙で、<喜び>という言葉が16回も用いられ、手紙の内容も<イエス・キリストにある喜び>で満ちているところから、「喜びの書簡(手紙)」とも呼ばれています。おそらくパウロは、エフェソの獄中から、この手紙を書き送りました。

パウロは1章27~30節で、フィリピの教会の人々が、外部の反対者たちに屈しないで、「一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦う」ようにと勧告します。「キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」のですと、この世での苦難は救いにあずかる者への、神からの賜物であることを教えています。

「あなたがたは、わたしと同じ戦いを戦っているのです」と、同じ「福音の信仰のための」戦いであることを説き、また同じ「キリストのための苦しみ」であることを伝え励まします。

そして2章1節以下では、これをうけて、「あなたがたに幾らかでも、1)キリストによる励まし、2)愛の慰め、3)霊による交わり、4)それに慈しみや憐れみの心があるなら」と、語り出します。「幾らかでも・・・あるなら」は、仮定的表現ではなく、「いくらかでも与えられているなら」を意味します。神により礼拝において信仰者に与えらている祝福です。

 「キリストによる励まし」は、キリストの救いの出来事によって、神により祝福として与えられている「励まし」です。

 「愛の慰め」も、神の愛が与える慰めです。「霊の交わり」は、聖霊が与える聖霊と信徒の交わりです。

 「慈しみや憐れみ」は、キリストから来る愛による慈しみであり、思いやりのある同情、慈愛を意味します。

パウロは、フィリピの教会の人々に対し、彼らはキリストにおける励まし、愛の慰めを受け、また霊の賜物を受けているのだから、その現実にもとづいて、「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」と勧めます。「わたしの喜びを満たしてほしい」は、パウロがフィリピの教会の諸問題を「わがこと」としてとらえていたことを示しています。

 「同じ思いとなり」は、フィリピの教会が敵対者たちの働きにより一致をおびやかされていたからであり、教会の一致のために努力せよ、ということが勧められています。

 「同じ愛を抱き」は、フィリピの教会の人々が、神の愛を受けているという現実にもとづいてなされる勧告です。教会のメンバーは、神の愛を受けているということに応じて互いに愛によって一致への努力を払いなさい、ということです。「同じ」は。もちろん、愛の深さの程度ではなく、志が同じであることを表しています。「心を合わせ、思いを一つにして」は、先の「同じ思いとなり」の反復であり、ここでも一致が再強調されています。

「1)何事も利己心や、2)虚栄心からするのではなく、3)へりくだって、4)互いに相手を自分よりも優れた者と考え、5)めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」と勧告します。

「利己心」は、自分や自分たちの利益のみを追及する自己中心の姿勢や、生き方を指します。このような自己追及、我欲が支配するところでは、当然ながら愛は育たないし、「同じ思いを」抱く共同体の一致は形成されません。「利己心」とは、ここでは結局、福音の真理に従うことを否定する生き方、「地上のことを考える(フィリピ3:19)を意味します。

「虚栄心からするのではなく」は、現在すでに完全な者であることを誇り、すでに栄光を受けているという主張が虚栄心であり、その虚栄心は他の者を軽蔑することにつながって、教会の一致を損なうと警告します。栄光は、信仰者にとって、将来に約束されていることにすぎないのです。

「へりくだる」ことは、教会の他のメンバーを自分と同等の存在として認めるということだけでなく、さらに他人を自分よりすぐれた存在として尊敬するということにたつながります。キリストのへりくだりに倣って、自らを他に対して低くへりくだって、同じ思いをいだく(2節)ことに他なりません。

「互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい」は、この点を強調したことばです 。

 「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」の「自分のこと」とは、自分の利益ではなく、他人の利益をも追及せよという一般的勧告ではなく、自分の受けている賜物を過大評価したり、これに心を奪われることなく、他の人の受けている賜物をも注視せよ、というより限定された意味で用いられています。

高慢なことを戒め、へりくだること、謙虚、謙遜であるべきことを勧告したパウロは、「互いにこのことを心がけなさい」と勧めます。「このこと」とは、四節まで語られたことです。これまでは信仰者個人の問題ではなく、もっぱら共同体の一致が議論されたため、ここでもフィリピ教会の人々の相互のあるべき姿勢が特に指示されています。

「それはキリスト・イエスにもみられるものです」と述べ、6節から11節にかけての「キリスト賛歌」を引用し、8節の「キリストは、・・・・へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」とキリストのへりくだりと結びつけます。キリスト賛歌はパウロの作ではなく、当時の教団で歌われていた賛歌を引用したのです。

「それはキリスト・イエスにもみられるものです」とは、「キリスト・イエスの中にある思い(行動原理、精神、心情)があなたがたの思いでもあるように」との意味です。それはキリスト者のとるべき態度の「模範」としてキリストの態度を示しているのではありません。あなたがたは、キリスト・イエスの実現した救いの出来事にあずかっていて、そのキリストの思いをあなたがたも与えられているのだから、その現実にふさわしく、これまで述べてきた思いを、このキリストに倣って抱くべきである、ということになります。

キリスト者は、与えられているキリストの思いを持ち、「キリストに倣って」生きるべきことが示されました。パウロは、「キリスト賛歌のあと、フィリピの教会の人々に、「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神だからです」(2:12-13)と語っています。神に対する「恐れおののき」に基づき、共同体のかかわりで用いられている「恐れおののき」であり、教会のメンバー相互間の謙遜とへりくだりが指示されています。「自分(自分たち自身の)の救いを達成しなさい」も、ここでは、個々人の救いではなく、共同体の救いが考えられています。「達成するように努めなさい」も、単に自分たちの努力により救いを獲得せよ、という意味ではなく、キリストの救いの出来事にあずかっているものとして、そのことにふさわしく共同体を形

成せよという命令です。ここでは、明らかに共同体の努力が求められています。「なぜなら、あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神だからです。「自分たちの救いを達成するように努めなさい」と命じるのは、神のフィリピ教会の人々に対する働きこそが、かれらに一致の形成を目指すよき願いをおこさせ、かつそれを為し遂げることを可能とするからであると言明します。

 わたしたちは、とかく個人主義的な思いをいだきがちです。しかし「自分のことだけでなく」、互いに教会の一致と福音の信仰のために共に戦うことの大切さを今日のみことばはわたしたちに教えています。

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「栄光から栄光へと造り変えられていく。」コリントの信徒への手紙二、3章7-18節

2022-02-13 16:04:41 | 礼拝説教

        ↑ 直訳 「わたしたちは、造り変えられていきます。主の似姿に、栄光から栄光へと、それは主によるものです、聖霊であられる」(コリントⅡ3:18)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    

 

週    報

降誕節第8主日 2022年2月13日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を

成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわ

せ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」                         (エフェソ3・16-17)

                            礼 拝 順 序                    

前 奏               

讃美歌(21) 484(主われを愛す)

交読詩編   84(万軍の主よ、あなたのいますところは)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)コリントの信徒への手紙二、3章7-18節(新p.328)

説  教      「神の栄光を表す」

祈 祷                                            

讃美歌(21) 518(主にありてぞ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オンラインで礼拝に参加できます。

申し込み先:Eメール munekuni-hemmi@vesta.ocn.ne.jp

                                               次週礼拝 2月20日(日)  午後5時~5時50分

                                               聖書  フィリピの信徒への手紙2章1~5節

                                              説教題  「キリストに倣って」

                                              讃美歌(21) 13 518 27 交読詩編 147   

本日の聖書

 3:7ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、 8霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。 9人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています。 10そして、かつて栄光を与えられたものも、この場合、はるかに優れた栄光のために、栄光が失われています。 11なぜなら、消え去るべきものが栄光を帯びていたのなら、永続するものは、なおさら、栄光に包まれているはずだからです。 12このような希望を抱いているので、わたしたちは確信に満ちあふれてふるまっており、 13モーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛けたようなことはしません。 14しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。 15このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。 16しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。 17ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。18わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。

本日の説教

モ―セがシナイ山で十(とお)の戒めからなる契約の言葉を記した二枚の石の板を手に持って山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知りませんでした。兄アロンとイスラエルの人々がモ―セを見ると、彼の顔の肌は光を放ていました。彼らは恐れて近づけなかったが、モーセが呼びかけると、アロンと共同体の代表者は全員が彼のもとに戻ってきたので、モーセは彼らに語りました。その後、イスラエルの人々が皆、近づいて来たので、彼はシナイ山で主が彼に語られたことをことごとく彼らに命じました。モーセはそれを語り終わったとき、自分の顔に覆いをかけました。

モーセは、主の御前に行って主と語るときはいつでも、出てくるまで覆いをはずしていました。彼は出て来ると、命じられたことをイスラエルの人々に語りました。イスラエルの人々がモーセの顔を見ると、モ―セの顔の肌は光を放っていました。モーセは、再び主と語るまで顔に覆いを掛けました(出エジプト記34章29~35)。

 なぜ、モーセは普段は顔に覆いを掛けたのでしょう。モーセの顔が神の栄光の輝きで輝いていたので、人々はモーセに近づくのを恐れていたからです。モーセは明らかにイスラエルのために覆いをしていました。それはモーセの背後に輝きに満ちている神がおられることを示すものでもありました。

神がモーセに契約として十戒を与えたのは、「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」(申命記5:10)と神が語ったように、民を幸いにするための戒めと掟でした。

だが、信仰の厚かったダビデ王もバト・シェバを妻としたことで、預言者ナタンによってその罪を指摘されたとき、「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」(詩篇51:12)と罪を悔い祈ったように、神の戒めを守ることはむずかしいことでした。ソロモン王も、晩年に外国生まれの妻たちのために他の神々の礼拝所を建てることを認め、共に参加したことにより、主なる神に背信の罪を犯しました。アッシリヤの侵略による北イスラエル王国の滅亡も、バビロニヤの侵略による南ユダ王国の滅亡も、王と民による神への不信の罪によるものでした。

 しかし神はイスラエルに対する憐れみのゆえにイスラエルとの契約を破棄することなく、その罪を赦されました。旧約の預言者エレミヤは、「主が、新しい契約を結ぶ日が来る」、主は律法を「彼らの心に記す」(エレミヤ書31:33)と預言しました。エゼキエルは、主が「彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける」。主は「彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。」彼らが主の「掟に従って歩み、法を守りおこなうためである」(エゼキエル書11:19-20)と預言しています。

 そもそも、神が契約を結ぶためにイスラエルを選ばれたのは、「他のどの民よりも数が多かったからでは」ありません。イスラエルは「他のどの民よりも貧弱であった。ただ主の愛のゆえに、先祖に誓われた誓いを守る」ためである、と主は語っています(申命記7:7-8)。

 パウロは旧約聖書が書かれた時代の後に発展したユダヤ教の伝統を用いて解釈します。律法は神から出ているのでそれ自体に輝きがあったが(ローマ7:12,13参照)、キリストによってもたらされたさらに優れた輝きによって、死と罪しかもたらさなくなりました。ユダヤ人パウロは律法が命を与えることを信じていたが(詩篇119篇参照)、キリスト者となったパウロはその結果が死であことを知っていました(ローマ8:2、ガラテヤ3:10-14,21、23)。そして律法はわたしたちがどこで過ちを犯したかを明らかにするが、何の希望も与えないので、死と共に人を罪に定める務めとなりました。

 パウロのようなキリストに仕える人を通してもたらされる霊の務めは、古い契約の最大の奉仕者であるモーセよりも輝き、古い契約のあらゆる奉仕者よりも優れた輝きを与えることができます。それは罪に定める務めから解き放つばかりでなく、義をも与えるのです。それは救ってくださる神との新しい関係(信仰による義認)に入るように、わたしたちを導きます。

 ユダヤ人としてのパウロは、律法以外に神に近づく道がありませんでした。そして律法によって命がもたらされると信じていました。キリスト者となったパウロは、律法をすべて新しい視点から理解したのです。

 パウロは,12-18節で、モーセの顔に掛けられた覆いに注意を向けます。出エジプト記34章29-35節によれば、モーセが臨在の幕屋で神と語り合っている時、あるいはそこから出て来てイスラエルの民に神が何を語ってくださったかを伝える時以外は、モ―セの顔に絶えず覆いがかけられていました。モーセは明らかにイスラエルの民のために覆いをしていました。モーセの顔が神の栄光(輝き)で輝いていたので、人々はモーセに近づくのを恐れていたからです。

だが、パウロはモーセの蔽いを違った方法で説明しています。モーセは神と語り合って幕屋から出てきた後に、その栄光が次第にその顔から消え去っていくのを人々に見られないために、モーセは顔に覆いをしていたと説明します。

パウロによれば、モーセの顔の上で消え去る輝きは、古い契約(モ―セの律法)が過ぎ去ることを意味しています。またユダヤの心に掛けられた覆いは、彼らが旧約聖書を正しく読むことに失敗したこと、すなわち旧約聖書の中にキリストを見出すことに失敗したこと、さらに重要なことは、キリストが宣べ伝えられた時にそれを受け入れなかった、パウロ自身の時代のユダヤ人の失敗を意味しています。パウロは回心の際に、自分の心から覆いが取り除かれるのを体験しました。だがその覆いがすべてのユダヤ人キリスト者から、とくにコリントでパウロに敵対している人々から十分に取り除かれていないことを恐れていました。彼らがあまりにも教えの中心に律法を置いていたからです。

 すべてのキリスト者は、死の恐怖と人を罪に定める恐怖から解き放たれて、永続する輝きを共にすることができるという希望を抱いています(7-11節)。希望によって大胆さが与えられ(12節)、モーセが臨在の幕屋で大胆にも覆いをしないで神と会見したように、「わたしたちは皆」(18節)、覆いをしないで主の栄光を見ます。しかも、モーセは幕屋から出て来た時に顔に覆いを掛けていたが、わたしたちは自分の命のうちにある神の栄光に覆いを掛けるべきではありません。主の栄光がわたしたちのうちに現れるようにすることによって、大胆にキリストを告白すべきです。

 16節の「しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます」は、出エジプト記34:34に基ずいています。「モーセは、主の御前に行って主と語るときはいつでも、出て来るまで覆いをはずしていた」とあります。そこでは「主」とは神を意味していました。パウロにとって、16節の「主」はキリストのことであり、17節の「ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります」の「主」は、キリストのことです。「主の霊」とは、旧約聖書でも新約聖書でも、聖霊を指す言葉としてしばしば用いられるので、「神の霊」を意味するので、神を指していると受け取る方がふさわしいのです。「主は霊である」とは、主と霊は一つであって、同じ存在であるということです。「自由がある」とは、聖霊の内住の結果として起こる自由です。神の子の栄光の自由です(ローマ6:14、7:4)。キリストがわたしたちに与える自由です(ガラテヤ5:1)。

自由であるキリスト者は古い契約から自由であり、律法を行うことによって義とされるのではなく、キリストによって義とされるのです。パウロはキリスト者の生活におけるキリストの働きと聖霊の働きを同一視しているが、両者が実際に同一である、と述べているのではありません。

 主に立ち返った人は、そこで、新しい希望、新しい自由、新しい大胆さを得ます。何にもまして、彼らは変えられるが、この変化は霊である主に由来します。

パウロの口から勝利に満ちた文章が続きます。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(19節)

わたしたちは皆、顔や心に掛かったどのような覆いも取り除かれて神の栄光を見ます。キリストが宣べ伝えられる時、聖霊の中にキリストを見い出す時、聖餐の中にキリストに出会う時、わたしたちはキリストのうちに神の栄光を見て、わたしたち自身も変えられて主の栄光を表す者とされます。年月が経てば経つほど、キリストや主の民と共に生きるわたしたちは、いっそうキリストの似姿に変えられていきます。ただ復活したキリストの力のみが、わたしたちのうちで真実で永続する変化を完成することができるのです。モーセと律法は、ユダや人に対してこのように行う力をもっていませんでした。わたしたちはキリストの似姿と栄光に遂に全くかえられるまで、キリストを通して栄光から栄光へと変えられていくのです。

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「ソロモン王の祈りと最後ー神殿とは?」 列王記上8章22-30節

2022-02-04 15:41:27 | キリスト教

                            

                                   神殿の設計図

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    

週    報

降誕節第7主日 2022年2月6日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を

成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわ

せ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」                         (エフェソ3・16-17)

                            礼 拝 順 序

                    

前 奏               司会 田中恵子姉

讃美歌(21)  13(みつかいとともに)

交読詩編  109:21-31(主よ、わたしの神よ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳  列王記上8章22-30節(旧p.541)

説  教  「ソロモン王の祈りと最後―神殿とは?」辺見宗邦牧師

祈 祷                                                            

讃美歌(21) 355(主をほめよ、わが心)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

 〇オンラインで礼拝に参加できます。設定担当は、斎藤美保姉です。

申し込み先:Eメール munekuni-hemmi@vesta.ocn.ne.jp

                                                 次週礼拝 2月213日(日)  午後5時~5時50分

                                                 聖書 フィリピの信徒への手紙2章1~5節

                                                説教題 「キリストに倣って」

                                                讃美歌(21) 484 518 27 交読詩編 84   

本日の聖書

8:22ソロモンは、イスラエルの全会衆の前で、主の祭壇の前に立ち、両手を天に伸ばして、23祈った。「イスラエルの神、主よ、上は天、下は地のどこにもあなたに並ぶ神はありません。心を尽くして御前を歩むあなたの僕たちに対して契約を守り、慈しみを注がれる神よ、24あなたはその僕、わたしの父ダビデになさった約束を守り、御口をもって約束なさったことを今日このとおり御手をもって成し遂げてくださいました。25イスラエルの神、主よ、今後もあなたの僕ダビデに約束なさったことを守り続けてください。あなたはこう仰せになりました。『あなたがわたしの前を歩んだように、あなたの子孫もその道を守り、わたしの前を歩むなら、わたしはイスラエルの王座につく者を断たず、わたしの前から消し去ることはない』と。26イスラエルの神よ、あなたの僕、わたしの父ダビデになさった約束が、今後も確かに実現されますように。27神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。28わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。29そして、夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが、『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください。30僕とあなたの民イスラエルがこの所に向かって祈り求める願いを聞き届けてください。どうか、あなたのお住まいである天にいまして耳を傾け、聞き届けて、罪を赦してください。」

本日の説教

主なる神は父ダビデに約束されたとおり、息子ソロモンにエルサレム神殿建設を許されました(サムエル記下7章)。

ソロモンは神から与えれた知恵と政治力と財力をもって壮麗な神殿を七年もかけて建立し、祭司たちが契約の箱を至聖所に運び込むと、かつてシナイ山のふもとでモ―セが神の幕屋を建設して終わった時と同じように、そこには主の栄光の雲が満ちました(列王記上8:10)。紀元前957年に神殿は完成しました。
 ソロモンは、イスラエルの全会衆の前で、主の祭壇の前に立ち、両手を天に伸ばして、神殿を神に捧げる祈りを捧げました。この祈りは、列王記8章23節から53節まで続きます。聖書中最も長い祈りです。ほぼ同じ内容の祈りが、歴代誌下6章14節以下にも記されています。

 最初に、ソロモンは、1)この宇宙の「どこにもあなたに並ぶ神はありません」と主を賛美します。2)「主に心を尽くして御前を歩むしもべたちに対し、契約を守り、慈しみを注がれる神よ」と呼びかけます。そして、3)あなたはわたしの父に「約束なさったことを今日このとおり御手をもって成し遂げてくださいました」と神殿建設の完成を感謝しました(23-24節)。

4) 私の父ダビデに約束されたこと(2サムエル7:12-15)、内容を基にして「あなたがわたしの前に歩んだように、あなたの子孫がその道を守り、わたしの前に歩みさえするなら、あなたには、イスラエルの王座に就く者がわたしの前から断たれることはない」と言われたことを守ってくださいと嘆願しました(25-26節)。

 5)「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません」(27節)。

どんなに立派な、壮麗な神殿を建てたとしても、そこを神様の住まいにすることなどできません。まして自分が建てたこの神殿はなおさらのことです、と語りました。神様はこの世界の全てをお造りになった方です。ソロモンはまばゆいばかりの神殿を奉献し、そこに主の臨在の現われを見ながらも、主なる神がこの人間の手で作った神殿に住むような方ではないことを知っていました。

 6)「わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください」と祈ります(28節)。神殿は神が民の祈りを聞いて下さる「祈りの家」です。

 7)「夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが、『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です」と祈ります(29節)。「名をとどめる」というのは、具体的には、神様が、その住まいである天から、この神殿に常に目を注ぎ、耳を傾けている、ということです。

 8) 「どうか、あなたのお住まいである天にいまして耳を傾け、聞き届けて、罪を赦してください」(30節)と祈ります。神の僕であるソロモンと神の民イスラエルの罪の赦しを求めます。聖なる神の前に立つことのできる者はいません。

 神社や仏閣をお参りする多くの日本人が考えている神に対する考えと大きな違いがあることに気づかされるのではないでしょうか。まさに神様とは、ソロモンの祈りにあるような神様ではないでしょうか。

 この後も、七つの祈りが「あなたは天にいまして耳を傾けてください」という言葉が繰り返されて、なされます。

第一は、隣人との関係がうまくいかなくなり、うらみ、憎しみに支配されてしまい、この神殿で神様に祈るなら、神様は人間の目には見えない真実を知っておられる方なので、正しい裁きを行ってきださい、(31-32節)という祈りです。

第二は、イスラエルが神への罪を犯した結果として敵に敗北するようなときに、反省した彼らを助けて欲しいという願いです (33-34節)。

第三は、罪へのさばきとして雨が降らなくなった場合、立ち返った彼らの「罪を赦し……歩むべき正しい道を教え」てくださるようにとの願いです (35-36節)。

第四は、「疫病がはやったり……ばったが発生したり……敵がこの地で城門を封鎖したり、どんな災いや難病が生じたとき」という場合の願いです (37-40節)。この祈りは、罪を悔いて神様に立ち返り、憐れみを乞う祈りです。

第五は、「あなたの民に属さない異国人が遠い国から来て、この神殿に来て祈るなら、その異国人があなたに叫び求めることをすべてかなえてください」という祈りです (41-43節)。

第六は「あなたの民が敵に向かって戦いに出て行くとき、

あなたの遣わされる道にあって、あなたのお選びになった都、わたしが建てた神殿の方を向いて主 に祈るなら」(44-45節)、彼らを助けてください、という祈りです。

最後の第七の祈り(46-50節)は、最も長い祈りになっています。「もし彼らがあなたに向かって罪を犯し、ー罪を犯さない者は一人もいませんーあなたが怒って彼らを敵の手に渡し、敵地に捕虜として引いて行かれるときに、彼らが捕虜になっている地で自らを省み、あなたに立ち帰って憐れみを乞い、『私たちは罪を犯しました。不正を行い、悪に染まりました』と言い、神殿の方に向かってあなたに祈るなら」、

彼らのあなたに対する罪を赦してください、という嘆願です。ここには明確に、バビロン捕囚の出来事が意識されています。この列王記などが書かれた時代は、バビロン捕囚を経た、後の時代なのです。そのことがこのソロモンの神殿奉献の祈りに反映されています。

51-53節では、 彼ら(捕囚の民)は、あなたがエジプトから連れ出された大切な民だから、どうか、御目を開き、御耳を傾けて、彼らの願いを聞き届けてください、と祈って終わります。

ソロモンは祈り終えると、祭壇の前から立ち上がり、全会衆を大声で祝福しました。

 ソロモン王の治世は、40年です。若い時、ソロモンの夢枕に主が立ち、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われました。ソロモンは「正しい裁き、善と悪を判断できる知恵」を求めました。その願いを主はお喜びになり、「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命を求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた」と言われ、「あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える、・・・もしあなたが、父ダビデが歩んだように、わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう」と言われる夢をソロモンは見ました(列王上3:5-14)。

その賢明であったソロモン、「わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら」、「イスラエルの王座は続く」と言われ、富と栄光を与えられたソロモンが、堕落し、主に対する背信の罪を犯すようになります(列王記11章1-13節)。外国から多数の妻を迎えたことから、妻のために異教の神殿を建設し、人々の批判を招きました。徴税のために苛酷な労役まで課すようになりました。

かつてソロモンに夢で現れた主が、再びソロモンに現われ、「わたしのおきてを捨ててほかの神々を拝むなら、イスラエルの民を、彼らに与えた地から追い払う。また、わたしにささげられた神殿を投げ捨てる。イスラエルの民は、エジプトから連れ出していただいた神を捨て、ほかの神々を拝むようになった」と神が災いを下すことをソロモンに告げたのです(列王記下9:1-9)

主はその後二度も彼に現われ、他の神々に従ってはならないと戒められたが、ソロモンは主の戒めを守りませんでした(11章9-10)。ソロモンの死後、イスラエル王国は分裂し、衰退していくことになります。ソロモンに対する神の裁きを、他山の石としてわたしたちは自戒しなければなりません。

 【バビロニヤ軍によるエルサレム陥落と神殿滅亡は紀元前586年に起きました。前539年、バビロン捕囚から解放され、本国に帰還開始した民は、ゼルバベルの指導の下、前515年第二神殿を再建しました。前20年ヘロデ大王が神殿を修復により、壮麗な大神殿になりました。】

 主イエスがヘロデ大王が修復した神殿の境内に入って見たのは、売り買いをしている人々でした。主イエスはそのことへの怒りを露わにされました。主イエスは、イザヤ書56:7のことばをとりあげて、「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家とよばれるべきである。』ところが、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」と人々に教えて言われました(マルコ11:17)。犠牲は捧げられていましたが、本当の意味で神様のみ前にひれ伏す礼拝はなされず、むしろ人間の欲望に利用される、「強盗の巣」となってしまっていたのです。

その後、弟子の一人が、「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」と神殿を見て言ったとき、イエスは、「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩れずに他の石の上に残ることはない」と、神殿の崩壊を預言されました。

【その預言は、ローマに対するユダヤ人の反乱勃発(第一次ユダヤ戦争)により、紀元70年にエルサレムの陥落と神殿崩壊が現実となりました。】

使徒パウロは、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(コリント一3:16、6:19)、と言っています。建物としての神殿ではなく、礼拝に集まり、祈る人々が、聖霊を宿す神殿であり、またその一人一人の体も聖霊を宿す神の神殿なのです。人々の集まる建物としての神殿や教会堂は必要ですが、それ以上に大切なのは、主に集められ、礼拝し、祈り、神と交わる人々の群れ、集団、共同体が、真の意味の神殿なのです。その一人一人は自分の体で神の栄光を現わす使命を与えられているのです。

スペインのバルセロナに、建築家ガウディの未完成の「サクラダ・ファミリア」の大聖堂が建築途上にあります。すでにミサ礼拝も行われいます。「聖家族」を意味するこの建物には、キリストの塔やマリアの塔があります。見事なすばらしい聖堂です。バルセロナの市民がこの建物を誇る以上に、ここに集まる司祭と信徒のみなさんが、聖霊を宿す神殿である自覚を持ち、神の栄光を現わす聖徒の群れであることを誇りにしてもらいたいものです。

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