↑ 「(キリストへの)大いなる転向」フィリピ3:1-11 これこそが(永遠の命に)生きることだ!
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日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
降誕節第10主日 2022年2月27日(日) 午後5時~5時50分
年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)
聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」 (エフェソ3・16-17)
礼 拝 順 序
司会 邉見順子姉
前 奏 奏楽 田中恵子姉
讃美歌(21) 56(主よ、いのちのパンをさき)
交読詩編 17(主よ、正しい訴えを聞き)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳) フィリピの信徒への手紙3章1~11節(新p.328)
説 教 「キリストを信じるとは(キリストへの大いなる転向)」
祈 祷
讃美歌(21) 456(わが魂を愛するイェスよ)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
祝 祷
後 奏
〇オンラインで礼拝に参加できます。
申し込み先:Eメール munekuni-hemmi@vesta.ocn.ne.jp
受難節 3月2日(水)~4月16日(土)
次週礼拝 3月6日(日) 午後5時~5時50分
聖書 ローマの信徒への手紙5章1~11節
説教題 「信仰によって義とされて」
讃美歌(21) 498 535 27 交読詩編 22
本日の聖書
3:1では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。 2あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。 3彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。 4とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。 5わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、 6熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。 7しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。 8そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、 9キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。10わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、 11何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
本日の説教
「では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。」(3章1節a)
「では」は、「それでは、終わりに、最後に」の意味で、手紙の結びを導入することばです(フィリピ4:8、Ⅱコリント13:11参照)。3章1節aは、2章のしめくくりの文なのです。「主において(主にあって)喜びなさい」とは、主との交わりを深め、主に信頼し、主に服し、主と共に生きるときに実現される喜びの体験を深めなさい、という勧めのことばです。仮りに不幸な出来事に遭遇しても、なおかつそれに打ち勝って喜ぶ喜びが、ここでは語られています。そのことは、4章4節で「主にあっていつも喜びなさい」という勧めによって明白です。そのことが、主に信頼し、主の支配に服するとき、人間にとって可能となるのです。
「同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです」(3章1節b)
3章1節bから始まる文章は、するどい警告と論戦的な性格を帯びてきます。「同じことをもう一度書く」とは、この手紙とは別に、以前にフィリピの教会に対して書いた、2節以下と同じような内容の手紙について語っていると思われます。もう一度書くことは、わたしにはめんどうなことでもなく、あなたがたの信仰生活にとって有益なことなのです、語りかけます。
パウロは、敵対者たちが、割礼のない異邦人キリスト教徒を侮辱して犬と呼んだことを、彼らに当てはめて、彼らこそ割礼の本来的な意味をわきまえない犬であると侮辱し、「あの犬どもに注意しなさい」とフィリピの信徒たちを警告します。彼らはよこしまな働き手たち(巡回伝道者たち)だから気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい、警告します。
彼らは律法を守ることに救いの保証があると主張し、福音を脅かし、人をだます悪い働き人にほかなりません。彼らは割礼の真意を理解しない者達であり、からだに切り傷を持った霊的に欠けのある者達です。
「彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。」(3章節)
「神の霊によって礼拝し」の「神の霊」とは、神が信じる者に与える霊(聖霊)を意味します。「肉」とは、人間の所有物や自己に内在するものを指します。自己の宗教的熱心やユダヤ人としての宗教的特権であり、自己を誇ることにつながります。
「キリスト・イエスを誇り」は、キリスト・イエスを根拠として誇ることを意味します。キリストを頼りにする生き方は、世の人には弱さを意味します。だがパウロは、弱さにとどまり、肉に頼らず、一切をキリストから恵みとして受けると語り、すべての人間的誇りにとどめを指します。
「わたしたちこそ真の割礼を受けた者です」の「割礼」は、もちろん「肉の割礼」ではなく、精神化された「心の割礼」(ローマ2:28-29)を意味します。肉の割礼の精神化はすでにエレミヤ書4:4や、エゼキエル44:7でも預言されていました。
「とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。」(3章4節a)
わたしたちは、肉に頼らないと主張するのは、自分が肉を誇れないからではなく、肉を誇れる立場にあり、頼ることも出来ます。
「だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはより以上そうできる。」(3章4節b)
肉に頼れると思う人とは、敵対者たちを指しています。パウロは、ユダヤ主義的傾向を強く持った敵対者たちを念頭に、彼が受けた特権と、かつての宗教的熱心を語り、自分がいかなるユダヤ人にも追い越されない高い肉の誇りを持っていることを明らかにします。
「1」わたしは生まれて八日目に割礼を受け、2)イスラエルの民に属し、3)ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。4)律法に関してはファリサイ派の一員」(3章5節)
始めの三つは、彼が自分の努力なしにうけた宗教的特権です。後の三つは、かつての彼の信仰的熱心に関するものです。「わたしは八日目に割礼を受けた者」は、パウロが律法に従って、生後八日目に割礼を受けたこと、すなわち異邦人からの改宗者でないことをあげます。
「(わたしは)イスラエル民族、ベニヤミン族の出身」は、パウロがイスラエル民族の出であること、イスラエルの十二部族の中でも最初の王サウルを出した名門であるベニヤミン族の出であることを明らかにします。「ヘブライ人の中のヘブライ人」は、パウロが言語および生活様式全般において、ユダヤ人の正統を受け継ぐものであることを示します。パウロはキリキアのタルソ(現在のトルコのタルソス)を故郷とし、ヘレニズム的環境(ギリシヤ)で育ったが、家庭はユダヤ人の正統的伝統を重視し、会堂で教育を受け、へブル語を自由に語ることが出来ました。
「律法に関してはファリサイ派の一員」は、パウロの宗教的熱心を示します。ファリサイ派は、モーセの律法と口承された諸規定をもっとも厳格に遵守する宗団でした。
「5)熱心さの点では教会の迫害者、6)律法の義については非のうちどころのない者でした。」(3章6節)
「熱心さの点では教会の迫害者」は、律法への熱心は、律法によらない救いを宣べ伝えた教会と対立することから、教会への迫害者として先頭い立って働きました。「律法の義については非のうちどころのない者でした」は、律法を守ることによって神との正しい関係すなわち救いを実現することにパウロは全力を傾注しました。パウロは律法遵守において実際に非の打ちどころがなかったことを意味します。
以上、パウロは敵対者たちに対して、割礼問題からはじまり、律法問題に行き着いて、述べています。敵対者たちの主張も、主にこの二点に集中していました。
「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。」(3章7節)
次にパウロは、キリストへの転向と、その後の「死人からの復活」を目指す彼の生き方を語ります。
「しかし、わたしにとって有利であった」ものとは、具体的にはパウロが語った「肉の誇り」、すなわち宗教的特権と宗教的熱心を指します。これらはパウロの救いのために不可欠であり、パウロのとって最も価値あるものでした。これらの有利であったものを、「キリストのゆえに損失と見なすようになった」というのです。この価値の転倒は、ダマスコ(シリアの首都)郊外でのキリストの出会いによる回心の出来事以来のパウロの立場が述べられています。
「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。」(3章8節a)
ここではパウロの現在の確信が述べられています。さらに、「わたしたちにとって有利であったこれらのこと」が、「他の一切」と書き変えられています。「主キリスト・イエスを知ること」とは、恵みにより生けるキリストとの交わりに入れられていることをキリストとの出会いに基づて信じていることに他なりません。キリストを知ることのあまりのすばらしさに、パウロは他の一切を損失とみています。
「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」(3章8節b)
「失った」は、原語では「失わさせられた」です。これはパウロがキリストの啓示を経験し、キリストの恵みによって生き方を決定されたということを表しています。パウロはすべてを失ったことを、「塵あくた」とみなしています。「塵あくた」とみなしているのは現在の確信を表しますが、それは将来、終末時にキリストを得るためであると、救いの完成を将来に期待する点において、敵対者たちの立場と異にしています。敵対者たちは、現在すでに救いが完成していることを主張し、それを誇りました。
「キリストの内にいる者」とは、キリストとの連帯、キリストとの共存が語られています。キリストとの共生は、パウロにとって、その完成は将来のことであるが、現在すでに与えられている恵みなのです。
「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」(3章9節)
「義」とは、ユダヤ教では、律法の業によって実現される神との正しい関係です。「律法から生じる自分の義」とは、律法を行うことによって実現する義です。しかし、律法を行い、それによって義を実現するのは、「わたし」ですから、この義は、「わたし」がつくり出す「自分の義」、「わたしの義」に他なりません。
「キリストへの信仰による義」とは、キリストの十字架と復活による出来事を、神の恵みによる救いの行為と信じることにより、神との正しい関係を与えられることを意味します。
「神が与える義」とは、神がキリストによる人間の救いの出来事によって、人間に、神との正しい関係を恵みとして与えることを意味します。
「律法を行うことによる自分の義は、キリストの救いの出来事によってあらわされた神の義、すなわち神の御意志による、キリストの贖いによる、恵みとしての救いに対する反抗であり、これは、結局は自己を神格化することになります。そこではキリストは排除され、神が恵みにより、キリストの出来事によって回復した「わたし」との関係は完全に破棄されるほかありません。
ところで、キリストへの信仰によって救われるとはどういうことなのか、そのことが次の10節から11節にかけて説明されています。
「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(3章10-11節)
「キリスト」を知ることは、具体的に「キリストの復活の力」を知ることです。復活の力は、キリストを復活させた神の力です。その「力」を「知る」とは、滅びるべき人間でありながら、その神の力の働きにあずかることをゆるされることに他なりません。反対者たちは、自分たちはすでにそれにあずかっているとしました。パウロはそれを将来に期待します。パウロはキリスト者の生を、目標への途上にあるものとして捉えます。
第二に、「その苦しみにあずかって」は、キリストの復活は、その苦難・死と切り離すことはできません。復活の神の力は、まさにキリストの弱さにおいて働きました。それに対応してパウロは自分もキリストの苦難にあずかることによって、その復活にあずかることを期待します。「彼の苦難にあずかること」は、実際には宣教のための迫害をうけることで反対者たちは、「キリストを知る」ものは、現在すでに復活の力にあずかるとしました。その際、死の問題は、彼らが洗礼を受けるに際しすでに味わってしまったものとして、彼らの生にとっては、それはもはや直接には関係のない事柄でした。これに対し、パウロは、「キリストを知る」ことは、キリストの苦難と死にあずかることなしには、現実となりえないと主張しました。それは実生活の中で具体的に形をとるべき事柄として理解されています。
「その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(3章11節)
「キリストの死と同じさまにされて」は、「彼の苦難にあずかること」を徹底、強化したことばです。これは、現在すでに完全に復活の力にあずかっているとし、キリストの苦難と死にあずかることに無関心であった敵対者たちに対して語っています。
「何とかして死者の中からの復活に達したいのです」の「なんとかして」は、復活にまだあずかっていないばかりか、将来においても決して自動的にあずかれるものではないことを、この「なんとかして(どうにかして)」という言葉で暗示しました。「死人の中から」は、単純に、復活に死が先行することを明らかにすう言葉です。「復活に達したい」は、パウロはこの目的地に自分の力で到達できるとしているのではありません。「彼の死と同じさまにされる」という、人間の無力の極限においてこの目標にあずかることを、彼は望んでいるのです。
キリストを信じるとは、キリストを信じる信仰によって、神との正しい関係を恵みとして与えられ、生けるキリストとの交わりに入れられ、聖霊によって主を礼拝し、主に仕え、主を信頼し、主にあっていつも喜ぶ者とされます。さらに死者の中からの復活を目指して歩む者とされます。キリストと共に生きることのすばらしさは、すべてのものを失っても、それらは塵あくたに等しいものとなります。このような信仰生活を送りたいものです。