富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「あなたの若さは、鷲のように新たになる」詩編103篇1~6節

2023-05-31 21:31:53 | キリスト教

     主はあなたの一生を良いものに満ち足らせ、

  あなたの若さは、鷲のように新たになる。」詩編103:5

 〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

聖霊降臨節第2主日 2023年6月4(日)  午後5時~5時50分

礼 拝 順 序                    

                   司会 邉見 順子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 403(聞けよ、愛と真理の)

交読詩編     38(主よ、怒ってわたしを責めないでください)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)   詩編103篇1~6節(旧p.939)

説  教  「主は鷲のような若さを新たにする」辺見宗邦牧師                                          

讃美歌(21) 481(救いの主イェスの)

献 金  

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オン・ラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019

 (辺見牧師)に、申し込み下さい。

                                次週礼拝 6月11日(日)  午後5時~5時50分

                                聖 書 使徒言行録2章37~47節

                                説教題  「教会の一致と交わり」 

                                讃美歌(21) 149 448 27 交読詩編 133:1-3   

本日の聖書 詩編103篇1~6節

103:1【ダビデの詩。】わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって聖なる御名をたたえよ。

2わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。 

3主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、

4命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け、

5長らえる限り良いものに満ち足らせ、鷲のような若さを新たにしてくださる。 

6主はすべて虐げられている人のために、恵みの御業と裁きを行われる。

本日の説教

 詩編103編は、作者自身が経験した罪の赦しと、重い病気からの回復による神に対する深い感謝から、転じてイスラエルに対する神の憐れみを回顧して、神の慈しみの広大にして永遠に変わらないことを述べ、全宇宙こぞって神を讃美すべきことを訴えています。

 この詩は、「わたしの魂よ、主をたたえよ」で始まり、終わっています。詩人は「わたしの魂よ」、わたしの内にあるものすべてよ、と自らに賛美を呼びかけます。そして「主の御計らい」を何ひとつ、「忘れてはなならい」と語りかけます。「主の御計らい」とは、恵みとしての神の御業です。この魂への訴えは、私たちが神の恵みを忘れがちだからです。

    詩は主から受けた恵みを思い起させます。それは、罪を赦してくださり、病を癒しくださり、死の恐怖から命を贖い出してくださることであり、主の慈しみと憐れみを与えられることであり、生きている間良いもの(生活に必要な物資)で満ち足らせ、御霊をそそいで鷲のような若さを新たにしてくださることです。鷲の長命、飛行する姿の力強さ、毎年新しい毛に生えかわり、若さを回復しつづけると考えられたことが、鷲の比喩の背景にあります。

  14節から讃美は、イスラエルを超えて、全人類を創造し、慈しまれる主への讃美に移っていきます。土の塵にすぎない人間に、神は「命の息」を吹きこまれ、人は生きる者になった。塵に過ぎない私たちを、しかし主は御心に留めておられ、わたしたちに慈しみが注がれていることを彼らは述べます。15-16節の「人の生涯は草のよう。……生えていた所を知る者もなくなる。」の背景には、イザヤ40・7-8の「草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、私たちの神の言葉はとこしえに立つ」という言葉があります。「神の言葉」の永遠性に対する被造物の無常が歌われています。「神の言葉」は具体的には、イスラエルの救いと繁栄の約束を指します。熱風の前に乾いて枯れる「草」や「野の花」のように、人間ははかないものですが、しかし神の慈しみの永久であることを述べています。神の御子がはかない人間と同じ者になられ、人間の姿で現れてくださったことは、最大の救いです。

 人の生涯は、はかないものですが、しかし神の恵みの御業は、主の契約を守る人に、神が求めておられることを心に留めて行う人に及ぶことが約束されています。主の贖いによって、彼らは罪を犯さないようにされているがゆえに、恵みが満ち溢れるのです。

 鷲の比喩は、イザヤ書40章にもあります。

 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(30-31節)

 若者(年若い者)」と「勇士(血気盛んな者)」が対比されており、人間の力を信じ、主の支えなしに歩もうとする若者も弱り、かつ疲れ、勇士も疲れはてて、つまずき倒れます。しかし、今や新たな歩みが提起されます。「主に望みを置く人」は、神の現在の働きを信じ、来るべき救いを待ち望む者のことです。つまり、神に信頼と望みをおいて生きる者は、神から力を頂くのです。それは自分の所有してい力とは違って、全く新しい力なのです。「主に望みをおく」こと、待ち望むことは神の民、特に「残りの者」の伝統的な姿勢です。

 主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。」「鷲のように翼を張って」とは、鷲は力の象徴であり、翼さをのばすと三メートル近くのもなるという鷲の勇姿、その飛ぶ様は自由さを表します。「鷲の翼」は神の力の象徴です。人間の力に頼らず、根源的力である神に信頼する信仰者のダイナミックな姿が表徴されているのです。その神の力をいただいた者は,「走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」というのです。

 ちなみに、東北楽天の球団名の「ゴ-ルデン・イ―グルス」は、空の覇者と言われる犬鷲のことです。頭部の黄色が特徴です。

 

  第二イザヤの預言40章は、この最後の段落(27~31節)において、人間が人間の力に寄り頼むことの空しさ、はかなさを語り、人間を造り、この宇宙を造った創造者なる神に寄り頼むことによってのみ、神からの大きな力に満たされることを預言したのです。この預言は今日のわたしたちにとっても真理なのです。自力では自己を救うことは出来ないのです。宗教改革者ルターも、自力による努力を断念し、心から天を仰ぎ、神の憐れみに依り頼み、「主に望みを」おいた時に、天地を創造し、統治しておられる神の力が臨んだのです。キリストによる愛と平安を与えられ、何をもおそれない強い人に造り変えられたのです。来世への確かな希望を与えられ、愛の人に造り変えられるのです。これこそ今日の世界の人々を救う神の力なのです。「走っても疲れない」精神力、「鷲のような」若々しさ、誰もが望む人間らしい誇りと生き甲斐をも、「主に望みをおく人」は与えられるのです。

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「聖霊の賜物」使徒言行録2章1~11節

2023-05-25 18:51:34 | キリスト教

    ↑ 「ペンテコステ」(聖霊降臨日)エル・グレコ(ギリシャ人)の作品(1596-1600年)、プラド美術館(スペイン)所蔵。 私的解説:使徒言行録1章による絵で、マテッアを含む12使徒と婦人たち2人(マグダラのマリアとヨハナ?)の14人が、イエスの母マリアを囲んでいる絵のように思われます。

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

聖霊降臨節第主日(ペンテコステ) 2023年5月28(日)  午後5時~5時50分

                          礼 拝 順 序                    

                司会 辺見宗邦牧師

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 342(神の霊よ、今降り)

交読詩編    146(ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)   使徒言行録2章1~11節(新p.214)

説  教       「聖霊の賜物」    辺見宗邦牧師                                          

讃美歌(21) 343(御霊よ、降りて)

献 金  

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オン・ラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019

 (辺見牧師)に、申し込み下さい。

        次週礼拝 6月4日(日)  午後5時~5時50分

        聖 書 詩編103篇1~6節

        説教題  「主は鷲のように若さを新たにしてくださる」 

        讃美歌(21)403 481 27 交読詩編 38   

 本日の聖書 使徒言行録2章1~11節

 2:1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 2突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 4すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。 5さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、 6この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。 7人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。 8どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。 9わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、 10フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、 11ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」

  本日の説教

 教会暦では、今日が聖霊降臨日(ペンテコステ)の日です。「ペンテコステ」とは、ギリシャ語の「50」という意味です。この聖霊降臨は、ユダヤ教の五旬祭の日に起こりました。

 五旬祭は、レビ記23章15~21節に基づくイスラエルの七週祭(シャブオット)の別名です。七週祭は、過越祭(すぎこしさい)の安息日の翌日(イースターの日曜日)、祭司が大麦の初穂を携え,奉納物とする日から数え初めて、七週間を経た翌日、即ち五十日目に、祝われた祭りです。

 七週祭は、「刈り入れの祭り」(出23:16)とも呼ばれ、新しく穫れた小麦粉で作ったパンを神に献げ、小麦の収穫を感謝する祭りでした。この日は、ギリシャ語が共通語として使われた時代に、ペンテコステ(五旬祭)という別名で呼ばれました。

 五旬祭は、後期ユダヤ教時代(B.C.5~3世紀)になると、モーセがシナイ山で律法を授かったことを記念する日とされ、ユダヤ教の三大祝祭(過越祭、五旬祭、仮庵祭)の一つとして大切に守られていました。今日は、五旬祭は農耕的特徴を失ってしまい、契約記念の祭りとして祝われています。

 キリストの復活を祝うイ―スターの日から五十日目に当たる五旬祭の日に、イエスの弟子たちに聖霊が降ったことから、この「聖霊降臨日」の日を、教会も「ペンテコステ」という名前で呼んでいます。

 使徒言行録1章3~5節によると、四十日にわたって弟子たちに現れた復活のイエスは、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた父の約束されたもの(聖霊)を待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」(使徒言行録1:4-5)と命じていました。オリーブ山で昇天するときも、イエスは使徒たちに、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサエムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒言行録1:8)と言われました。

 イエスの昇天後、使徒たちはすぐに、最後の晩餐が行われた家と思われる、彼らが泊まっていた家の上の部屋に集まりました(使徒言行録1:13)。十一使徒は、婦人たちや、イエスの母、兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていました。ペトロは、ユダに代わる人を選ぶことを、百二十人ほどの人々が集まっているところで提案し、二人の候補者を立てて、くじを引き、マティアを使徒に選びました(使徒言行録1・15)。このようにして、最初の教会は五十日間、主イエスが約束された聖霊の到来を待っていました。

 五旬祭の日に、<一同>が一つになって集まっていました。彼らが泊まっていた家の上の部屋と思われます。聖霊降臨という大きな出来事は、三つの超自然的なしるしを伴っておきました。

 その第一は、<突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に>響きました。<風>は霊の降臨を表現しています。

 その第二は、<炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上に>とどまりました。火の<炎>は、汚れを除く神の働きを示し、聖霊を指します。炎のような<舌>は、言葉を表しています。聖霊は「言葉」の賜物を伴って臨んだのです。

 第三のしるしは、言葉の賜物は<一人一人の上にとどまり>、一同は聖霊に満たされました。聖霊は、<一人一人>に個別的に与えられ、<一同>は聖霊に満たされた、とあるように、個々人は別々の言葉を語りつつ、同じ聖霊を与える主を語るのです。宣教は多様であっても、全体の益のためになされるのです。

 すると一同は、御霊の語らせるままに語る者となり、<ほかの国々の言葉で>話しだしました。他の国々の人たちの<故郷の言葉>で話し出したのです(2:6、8、10)。彼らは<神の偉大な業>について語ったのです。エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいました。国外に離散していた人々で、現在は祖国に帰った人たちです。また、エルサレム巡礼に来て、一時的に滞在していた人もいました。ユダヤ教に改宗した異邦人もいました。エルサレムに住むこのような大勢の人が、この聖霊降臨の出来事の物音に集まって来ました。そしてだれもかれもが、自分たちが生まれた故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまいました。自分たちの外国の生まれ故郷の言葉を、ガリラヤ出身の使徒たちが話すのを聞いて驚いたのです。聖霊の賜物は異なった言葉で語るという奇跡的な賜物でした。離散のユダヤ人の出身地の地名が、ユダヤを中心にして東方から15の地域があげられます。

 

 1パルティア、2メディア、3エラムは、ローマ帝国外の東方諸地方です。4メソポタミア、ユダヤ(パレスチナ北西部を指す)、そして北西へ、5カパドキア、6ポントス、7アジア、8フリギア、9パンフィリアは地中北東部の諸地方です。またそこから地中海東南部へ、10エジプト、11キレネ、12リビアと円を描くように記され、そこから一転して北上し、遠く離れた13ローマがあげられます。14クレタ、15アラビアから来た者とは、西方の海洋民と東方の内陸民です。離散のユダヤ人の出身地の地名が、ユダヤを中心にして東方から15地域あげられています。

 これら15の地域のことばで、キリストの弟子たちが、神の偉大な業を語っているのを聞いて驚いたのです。神の偉大な業の具体的な問題は、14節以下のペトロの説教において明らかになります。

 当時、国外へ離散していたユダヤ人の数は4~5百万人です。エルサレムを含むパレスチナに住むユダヤ人の数はわずか50万人ほどでした。ユダヤを含むシリア地方とメソポタミアの共通語は、その当時はアラム語(ヘブライ語とは方言程度の差)でした。ローマ帝国の支配する地中海沿岸の地域の共通語はギリシア語(コイネー)でした。またローマはラテン語でした。聖霊降臨の時、使徒たちはこれらの共通語であるアラム語やギリシア語、またラテン語で話したのではなく、十五の地域の、それぞれの言葉で語ったと言うのです。この出来事は、全世界の人々がやがて、自分たちの国語で、イエスの福音を聞く日が来ることを、象徴する出来事でした。

 聖霊降臨で起こった霊の注ぎは、個人の内面にかかわる聖化としてではなく、教会が福音をたずさえて「民衆の場へ出て行く」力であり、教会に民衆を引き付ける力でした。臆病だった弟子たちに、語るための力が与えられ、言葉の賜物、異なった言語で語るという賜物が与えられたのです。それぞれの地域の人々に理解できるように話す言葉、通じる言葉が与えられたのです。主イエスが昇天の時、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録1:8)と告げたことが起こったのです。

 この日、ペトロの説教の後、三千人ほどの人が洗礼を受け、仲間に加わりました。「五旬祭」は収穫の感謝として初穂を献げる祭りです。この日、教会に「三千人ほど」の初穂が与えられたのです。

 ぺンテコステは、教会誕生の日とか、教会設立の日としてよく言われます。それは間違っているとは言わないものの正確な表現ではありません。ペンテコステの物語は、ルカ福音書24章にあるイエスの復活顕現の文脈で読まれなければなりません。エマオでは、二人の弟子にイエスはぱんを裂くとき、復活したイエスであることを分からせ、エルサレムでは、疑う弟子たちに手足を見せ、「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開かれ」ました(ルカ24:45)。

 四十日にわたって、復活の主は弟子たちに現れ、「わたしは父が約束されたものをあなたがたに送る」と約束し、「高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」と命じました(使徒言行録1:3~4)。その後、天に上げられるときには、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そしてエルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒言行録1:8)と語って昇天しました。弟子たちは、主に言われたように、エルサレムにとどまり、泊まっていた家の二階に集まり、心を合わせて熱心に祈り、聖霊が降ることを待ちました。

 キリストの昇天とぺンテコステの聖霊降臨は共に、復活祭の奇跡のさらに詳細な説明なのです。ということは、教会の誕生日はペンテコステ以上に主の復活にあるとする方がもっと正確です(現代聖書注解「使徒言行録」W.H.ウィリモン,p58)。五旬祭は、教会形成の物語りです。霊の力強い働きの起源を詳しく語ることによって、どのようにして教会が存在するようになったのか、そして、どのようにしてかつては臆病であった弟子たちが、彼らの言葉でキリストの真理を宣べ伝えることができるようになったかという真実を説明するのです。

 ペンテコステは、「教会の誕生」というよりも、「宣教する教会の誕生」を伝える物語です。わたしたちも、隣人にも福音を伝える者とされましょう。先に救われ、キリストの愛を知ったわたしたちは、自己愛の延長としての愛ではなく、イエス様によって示された赦しを伴う献身的な愛を証しし、

 このイエス様の愛を受けるとき「あなたも、あなたの家族も救われる」と、宣べ伝えましょう。聖霊はわたしたちに、聞く価値のあることを語らせてくださる力であり、聞く人に希望といのちと力を与えます。聖霊はイエスの十字架と復活を証言する力であり、教会を全世界へと押し出す原動力です。

 

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「キリストの昇天」マタイによる福音書28章16~20節

2023-05-20 23:59:47 | キリスト教

  ↑ シモン・チェコヴィチ(ポーランドの画家)の「キリストと弟子」(マタイ28:7)                1758年の作

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

復活節第7主日 2023年5月21(日)  午後5時~5時50分

                            礼 拝 順 序                    

                 司会 齋藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 287(ナザレの村里)

交読詩編    103(わたしの魂よ、主をたたえよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)  マタイによる福音書28章16~20節(新p.60)

説  教       「キリストの昇天」  辺見宗邦牧師                                          

聖餐式    72(まごころもて)

讃美歌(21) 337(たたえよ、この日)

献 金  

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オン・ラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019

 (辺見牧師)に、申し込み下さい。

         次週礼拝 5月28日(日)  午後5時~5時50分

         聖 書 使徒言行録2章1~11節

         説教題  「聖霊の賜物」 

         讃美歌(21)342 343 27 交読詩編 146   

本日の聖書 マタイによる福音書28章16~20節

 28:16さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。 17そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。 18イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

本日の説教

 復活したイエスが天に昇っていく<昇天>の場面は、マタイ福音書とヨハネ福音書にはなく、マルコ福音書では、「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた」(マルコ16:19)と記しているだけです。

 よりくわしく記しているのがルカによる福音書24:50~53と、福音書記者ルカが書いた使徒言行録1:9です。使徒言行録1:3は、復活したイエスが弟子たちに<四十日間にわたって現れた>後、昇天したと記しています。このルカの記述から、イエスが復活したイースターの日から数えて四十日目の木曜日を、昇天日と定めています。今年の教会暦では、5月18日(木)が昇天日です。日本の新教の教会では平日に礼拝を守ることが困難なので、次の週の日曜日ににあたる今日、昇天を記念して礼拝を守る教会が多いのです。その次の日曜日は復活日から50日目(使徒言行録2:1)の聖霊降臨日(ペンテコステ)になります。

 昇天した場所については、ルカは、「イエスは、そこから彼らをベタニヤの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏して拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」(ルカ24:50-53)と記しています。

 ルカは、イエスが復活して現れた場所も、昇天した場所も都エルサレム地域に限定しています(ルカ24:49)。昇天の場所とされている所は、エルサレム神殿の西にあるオリーブ山の頂上で、現在、昇天の塔と昇天教会が建っているところとされています。

  

 7がオリーブ山の山頂で、ロシア正教の高い塔と昇天のチャペルとが建っています。

  ロシア正教会の昇天の塔と、手前が昇天のチャペル(主イエスの昇天記念堂)。

 オリーブ山の頂上には紀元4世紀に、イエスが昇天されたときの足跡が残っている岩を覆うように1870年代に建てられた高い塔とロシア正教のチャペルがあります。

 「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」(マタイ28:16、17)

   イエスの葬られた墓を詣でた女たちは、天使から、復活したイエスは弟子たちとガリラヤで会うと弟子たちに告げました。この言葉を受けて弟子たちはガリラヤの指定させた山に行き、そこで復活したイエスに会いました。<十一人の弟子>とは、ユダが死んだので(マタイ27:5)、十二人の弟子の一人が欠けたことになっています。<ガリラヤ>は、マタイ4:15では、ガリラヤから広く異邦世界への福音伝道が展開すると語られ、イエスが「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って伝道を始めたのもガリラヤの地です。マタイは、復活したイエスが弟子たちに会われる所を、ガリラヤの山としています。山は神が顕現する場所です。十一人の弟子たちが、復活したイエスに会うように指示されたガリラヤの山は、山上の説教がなされた山と推定されていますが確証はありません。

   弟子たちはイエスに会い、<ひれ伏し>て礼拝しつつも、疑った者もいました。マタイにはイエスが復活した体を示すことによって弟子たちの疑いを取り去った記事はありません。弟子たちがイエスを本当に信じることができたのは、ペンテコステの日に聖霊が注がれて以降のことです。

   「イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。』」(マタイ28:18~20)

 イエスは疑う弟子たちに近寄ってきて、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と宣言されました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」という言葉は、マタイ福音書の中でも最も重要な言葉となっています。イエスは以前に、「すべてのことは、父からわたしに任されています」(マタイ11:27)と言われたことがあります。ここでは<天と地の一切の権能を授かっている>と宣言しています。復活によって主イエスは天地を支配する主となったのです。

 メシアとしてのイエスは、死と復活を通して詩編110:1に預言されているように「神の右の座」に上げられたのです。「わが主に賜った主の御言葉。 『わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。』」(詩篇110:1)こうして現在はイエスが天地を支配する時となりました。しかし、それは決して、主イエスが、世界の人間の生活のあらゆる面において、直接に主となることではありません。主イエスが、十字架と復活によって、罪に勝ち、死を滅ぼしたことにより、神の支配が始まっているということです。

 イエスのもとへ行った弟子たちは、このイエスのもとから出発して全世界へ宣教するよう命じられました。この宣教命令の目標とするところは、「すべての民」であり、「すべての異邦人」です。生前のイエスの時代には、福音はイスラエルの民に限られて語られましたが、イスラエルが福音を拒否した今、異邦人へ伝えられる時代になりました。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」の言葉で、弟子たちがイエスの働きの継承者となって、世界に福音を伝える使命を与えられたのです。

  マタイの宣教命令は、異邦人たちを「わたしの弟子にしなさい」という命令です。弟子とはイエスの教えを聞き、信じ、イエスを主と仰いで歩む人のことです。「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」なさいと命じています。<父と子と聖霊>という三位一体の言葉は新約聖書中ここにしかありません(似たような言葉は、コリント二、13:13にもあります)。すでに、イエスの洗礼記事(マタイ3:16-17)で、神と子と聖霊の三つのことが語られています。「父と子と聖霊の名によって洗礼を授ける」とは、三位一体の神の主権に服すと同時に、三位一体の神との交わりに入ることです。父と子と聖霊の中に浸され、御子が聖霊を与えるものとして働き、神自らがそこに働いて、救いを保証するのです。洗礼を受けることは、直ちに、キリストの体である教会につらなることであります。

  主イエスは、「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と命じています。「命じておいたこと」とは、イエスが語られたすべての教えが含まれます。「守る」とは、それを実行することです。それは主によって生きることであり、主と共に生活することなのです。主が共におられなければ、主の教えによって歩むことはできません。 

  「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:17)

ルカによる福音書では、イエスについての最後の言葉は、「彼は、祝福しながら彼らを離れて、天に引き上げられた」(ルカ24:51)とあるように、イエスと弟子たちが離れてしまうことを語っています。ところがマタイではそれと対照的に、最後の言葉は、イエスがこれからも、いつも共にいることを約束しています。マタイによればイエスは常に信仰者と共にいるので、昇天という形で離れ去ることを語っていません。イエスがなおもインマヌエル、すなわち「神は我々と共におられる」方であるということを思い起させます。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」この約束は、前後の言葉から、福音を伝える弟子たちに向けられていますが、伝道者だけに限定されたものではなく、教会全体とそれを構成するすべての会衆のためのものでもあります。主イエスは、「世の終わりまで、いつも」教会と共におられるのです。「世の終わり」、それは単なる終末ではなく、地上における神の国の完成の時であり、救いの完成の時です。キリストは世の救いのために伝道する者と常に共にいてくださり、伝道する者の業を助けると約束されているのです。神の国は、すでにキリストがこの世に来られた時から、近づき、始まっています。

使徒信条では、「天に昇り神の右に座したまえり」と、天に上ったキリストが神の右の座についたことを告白しています。天とは見えざる神のおられるところです。神の右の座とは、神に一番近い場所を意味します。

主の昇天は私たちに聖霊がつかわされるために必要なことでした(ヨハネ16:7)。聖霊により、父なる神と御子キリストがわたしたちのところに来て共に住んでくださるのです(ヨハネ14:23)。聖霊の力を受けて教会はこの世にあって宣教の使命を果していくのです。

主イエスは、また、「神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださる(ローマ人への手紙8:34)」方です。私たちを罪ありと訴える者から弁護して下さり、また私たちの祈りを天の父に取り次いでくださるのです(ヨハネ16:23)。

キリストの昇天は、わたしたちのために住む場所を天に用意するためでした。私たちのために天への入口が開かれたのです。私たちもいずれその時が来たならば、天の主の御許に迎えられるのです。

キリストの昇天のとき、天を見つめていた弟子たちのそばに天の御使いが現れて、彼らにキリストが再びこの地上に来られることを約束しました(使徒1:10-11)。それは地上における神の国(神の支配)の完成であり、救いの完成を意味しています。主が共にいまし、共に働いてくださっていると言うことほど、力強いことはありません。主が共にいますことを信じて、自らの信仰生活と教会の成長のために共に励もうではありませんか。 

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「信仰に報いる主イエス」ルカによる福音書7章1~10節

2023-05-13 13:52:06 | キリスト教

  ↑ 「イエスと百卒長」(並列記事、マタイ8章5-13による絵画)

パオロ・ヴェロネーゼ 1571年頃、キャンバスに油彩、192 x 297 cプラド美術館、マドリード(スペイン)

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

復活節第6主日 2023年5月14日(日)  午後5時~5時50分

                            礼 拝 順 序                    

                 司会 邉見 順子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 355(主をほめよ わが心)

交読詩編     34(どのようときも、わたしは主をたたえ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)  ルカによる福音書7章1~10節(新p.114)

説  教     「信仰に報いる主イエス」 辺見宗邦牧師                                          

讃美歌(21) 402(いともとうとき)

献 金  

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オン・ラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019(辺見牧師)に、  申し込み下さい。

        次週礼拝 5月21日(日)  午後5時~5時50分

        聖 書 マタイによる福音書28章16~20節

        説教題  「キリストの昇天」 

        讃美歌(21) 287 72 336 27 交読詩編 105:12-24  

本日の聖書 ルカによる福音書7章1~10節

 7:1イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。 2ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。 3イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。 4長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。 5わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」 6そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。 7ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。 8わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」 9イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」 10使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。

 本日の説教

「イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。」(7:1)

 イエスは、祈るために山に行き、朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けました(ルカ6:12-13)。イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになりました。大勢の弟子とおびただしい民衆が、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていました。イエスは目を上げ弟子たちを見て言われました。ルカ6章20節から始まるイエスの教えは、6章49節までと続きます。これを、マタイの「山上の説教」に対して、ルカの場合は「平地の説教」と呼んでいます。

 「これらの言葉」とは、「平地の説教」のことで、このあとガリラヤ湖の北岸の町カファルナウムに、イエスは入られました。(7:)

 「ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。」(7:2)

 「百人隊長[百卒長]」には、百人の部下がいます。おそらく彼は、ガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパスか、ユダヤの総督である、ポンティオ・ピラトに仕える隊長と思われます。この百人隊長は、5節の言葉からも異邦人であることは明らかです。この百人隊長は、身分の高い人物です。彼は自分の僕(部下)が重い病気で死にかかっているのを心配しました。

 「イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。」(7:3)

イエスのことを聞いた百人隊長は、イエスが神の権威を持った方であり、彼の僕を治せるということを、確固とした信仰によって信じたのです。<ユダヤ人の長老たち>は、ユダヤ教の共同体の指導者たちです。異邦人の百人隊長は、彼らをイエスのもとに使いにやって、病気の部下を助けに来てくださるように頼みました。

 「長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。『あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。』」(7:4-5)

   長老たちは、イエスのもとに来て熱心に願いました。百人隊長はイエス様に願いをかなえてもらうのにふさわしい人です。彼はユダヤ人を愛しており、自らユダヤ人のためにユダヤ教の会堂を建ててくれたのです、と報告しました。

  「そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。」(7:6)

 「そこで」とありますが、「願いをかなえて」やるにふさわしい人物だから、出かけられのではありません。ただ異邦人の病気の部下を癒してやりたいために出かけられたのです。イエス様は平地の説教の中で、「いと高き方は、恩を知らない者にも、悪人にも情け深い」(6:35)と言われています。イエスは長老たちと出かけられました。ところが、その百人隊長の家からそれほど遠くない所まで来たとき、百人隊長は、おそらくは異邦人である友達を使いにやって言わせました。「主よ、家まで足をお運びになる必要はありません。わたしはあなたを自分の家にお迎えできるような価値ある人物ではありません。」と使いの友人に言わせました。異邦人である自分の家にユダヤ人である神の権威を持つイエス様を迎え入れて汚れを与えることをおそれたのです。イエス様を迎えるにふさわしい価値ある人間ではないという、まことに謙遜な謙虚な言葉です。

 「ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」(7:7)

 「それで、わたしの方から伺うのさえふさわしくないと思い、使いの者に頼みました。一言癒しのことばを言ってください。そして、わたしの部下を癒してください。」長老たちはイエスに異邦人の隊長のことをお願いするとき、会堂を建ててくれたとか、ユダヤ人を愛してくれているとか、願いをかなえてくださるに相応しい方だと言って、イエスを動かそうとしました。イエスは何も言われずに隊長の家に向いました。しかし、百人隊長は、少しも自分のしたことなどを語っていません。ただイエスの前に神の憐れみを懇願しています。彼は、イエスの言葉には神としての力があると信じているのです。彼の頼みは、自分のためではなく、部下のためなのです。

 「わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」(7:8)

 この<わたしも>は、「イエス自身も父な神の権威の下にあるが、わたしも上官の権威の下に置かれている。自分に与えられている権威によって、わたしも部下に対して命令できるように」ということです。わたしの下にいる兵隊の一人に「行け」と言えば彼は行き、「来い」と言えが彼は来ます。また部下に「これをしろ」と言えば、彼はそのとおりにします。」彼は軍隊の百人隊長に与えられている権威の下に、命  令する力を知っていたのです。百人隊長の言葉は、イエスの「元気になれ」という言葉の力を信じたのです。

 「イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」(7:9)

 イエスはこれを聞いて、信仰の民イスラエルには見られないような信仰に感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われました。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と驚き褒められました。

 「使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。」(7:10)

 百人隊長はイエスに使者を通して頼むだけであり、百人隊長自らがイエスの前に現れることもなく、使者たちが隊長の家に戻ると、死にかかっていた病人は元気になり、癒されていました。癒された部下は自分の信仰によってではなく、隊長の信仰により、主イエスの言葉によって癒されました。とりなしの祈りと願いによって、部下は癒されたのです。

   この癒しは、平地の説教をするイエスの言葉の権威を具体的に表すだけでなく、貧しい人たち(ルカ6:20-21)に対する神の国が現実になっていることを示しています。しかもその貧しい人はここでは異邦人の病人でした。主イエスによってもたらされた神の国は異邦人の世界にまで及んでいくのです。

  聖霊降臨後、 宣教による福音を異邦人の世界にもたらす時がきます。この百人隊長の驚くべき信仰は、使徒言行録におけるコルネリウスという百人隊長の改心の先がけとなっています。両方とも、信仰心あつく、神を畏れる(使徒言行録10:1)だけでなく、異邦人なのにユダヤ人のために会堂を建て、コルネリウスは<ユダヤの民に多くの施しを>します。コルネリウスもペトロのもとへ使者を遣わしています。シモン・ペトロは異邦人の家に行くことを迷いつつ、聖霊によって後押しされて、百人隊長の家に入り、教え、洗礼を授け、異邦人と共にパンを裂くのです。ルカによる福音書のキリストの言葉による隊長の僕の癒しは、使徒言行録10章の物語では、ペトロに使徒としての権威を与えたのです。

  並列記事は、マタイ8章5-13にありますが、マタイの方では、百人隊長が自らイエスのもとに来て頼んでいます。マルコによる福音書7章10節には、シリア・フェニキアの女(異邦人)の強い信仰によって彼女の娘がイエスのもとに連れて来られなくとも、イエスの言葉によって治った奇跡が記されています。

  百人隊長はイエスに会いに来ませんでした。しかし百人隊長のイエスに対する信仰の報いとして彼の部下が癒されたのです。この物語の百人隊長は、やがて来るべき全ての信仰者を先取りした存在として重要です。現代のわたしたちは、イエスを見てはいないが、イエスの言葉は生きて働く力をもつのだと信じています。主は、百人隊長のような驚くべき信仰を私たちにも求めておられるのです。主を呼び求め、主を迎え入れるにはふさわしくない汚れた心に、主がお住まいくださるということは、なんとすばらしい、ありがたいことでしょう。主をほめたたえましょう。

 

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「イエス・キリストに結ばれた神の子」ガラテヤ書3章23節~4章7節

2023-05-07 14:40:10 | キリスト教

         ↑ 「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに

     結ばれて神の子なのです。」(ガラテヤ3:26)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

復活節第5主日 2023年5月7日(日)  午後5時~5時50分

                            礼 拝 順 序                    

                   司会 斎藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)   6(つくりぬしを賛美します)

交読詩編    119:9-16(どのようにして、若者は)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)   ガラテヤ書3章23節~4章7節(新p.346)

説  教 「イエス・キリストに結ばれた神の子」 辺見宗邦牧師                                          

讃美歌(21) 289(みどりもふかき)

献 金  

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オン・ラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019

 (辺見牧師)に、申し込み下さい。

                            次週礼拝 5月14日(日)  午後5時~5時50分

                           聖 書 ルカによる福音書7章1~10節

                           説教題  「信仰に報いる主」 

                           讃美歌(21)355 402 27 交読詩編 34 

本日の聖書 ガラテヤ書3章23節~4章7節

 3:23信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。3:24 こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。3:25しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。 3:26あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。 3:27洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。 3:28そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。 3:29あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。 4:1つまり、こういうことです。相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わるところがなく、 4:2父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。 4:3同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。 4:4しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。 4:5それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。 4:6あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。 4:7ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。

本日の説教

 これまでパウロは容赦なく律法の不十分さをあばいてきました。パウロは、3章23節から29節までで、キリストが世に来られる以前、律法の下にいた人類の状態とキリストが世に来られた以後律法から解放された私たちの状態を比較して説明します。

 キリストに対する信仰が現れる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、律法の下に閉じ込められていたが、それはやがて示される信仰が与えられるためでした(3:23)。律法は、私たちをキリストへ導くための養育係と言えます。それは、私たちが「信仰によって義とされるため」です(3:24)。

 しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません(3:25)。私たちは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです(3:26)。洗礼を受けてキリストに結ばれた私たちは皆、キリストを着ているからです(3:27)。

 洗礼は、私たちが信仰によりキリストと一つにされた霊的現実を外的に表現する儀式です。この洗礼によってキリストと一つにされた者の集まりが教会です。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです(3:28)。クリスチャンはみな、一人の人(キリスト)と一つにされています。すべてのクリスチャンは一人のキリストのからだの一部なのです。

   私たちが、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、キリストと同じようにアブラハムの子孫であり、神の民であり、神の約束による相続人です(3:29)。

 4章1-7節は、3章23節から続く「今や、奴隷ではなく神の子である」という、イエス・キリストの到来によってもたらされた変化、奴隷から神の子への転換を語ってきたが、同じテーマを4章1-7節では未成年の相続人の扱いに関する当時の習慣を手がかりにして展開しています。

   パウロは、すべて信仰によるアブラハムの子孫は、神の祝福を相続できる神の子供であったが、実際にはキリストの来られる時まで神の約束された本来の祝福(義認、聖霊、永遠のいのち等)をうけられずにいたことを明らかにします。

 相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であってもその家の奴隷と何ら変わるところがなく、 父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいて、財産を得ていません(4:1-2)。

 私たち、クリスチャンもそれと同じように、「未成年であったとき」は、「信仰が現れる前」(3:23)、つまりキリスト以前には、「わたしたちも世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました」(4:3)。パウロは諸霊(ストイケイア)を、人間を隷属状態におく支配勢力と考えており、「律法」、「神でない神々」と密接に結びついています。迷信的な考え方、偶像礼拝的信仰という限られた意味だけでなく、人間がその支配に隷属するほかないような悪霊的勢力が考えられています。

 しかし、この悪霊の支配から人類を解放する、父なる神の定めの時が満ちて来ると、神は、その御子キリストを女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました(4:4)。

   それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした(4:5)。もう一つは、「わたしたちを神の子とするため」でした。わたしたちが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります(4:6)。「アッバ」は家庭で父親を呼ぶ庶民的アラム語です。初代の教会はこの「アッバ」を用いて祈りをしたのです。

    ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、諸霊や律法から解放されて、すでに「神の子」です。神の子であれば、未成年ではなく、神によって立てられた成人した相続人でもあるのです(4:7)、と結んでいます。だからクリスチャンは今、神の祝福を受け、義と認められ、神の子供とされ、聖霊を与えられ、永遠のいのちを受けることが出来るのです。このような神の子とされている自覚をもって、神の子らしく感謝して共に生きましょう。

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