
↑ レンブラント(オランダ 1606~1669) 「悲嘆にくれる預言者エレミヤ」1630年 油彩板 58.3x46.6cm アムステルダム国立美術館 (かすかに、エルサレムが燃える火と逃げ出している人の姿が、左奥に描かれています。エレミヤは大きな柱に寄りかかり、足元に絨毯が見えます。エレミヤの傍らに見える金属製のものは、神殿から持ち出した聖杯なのでしょうか?二本の紐がついたものは、預言を記した巻物でしょうか?)
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日本キリスト教 富谷教会 週報
聖霊降臨節第十主日 2014年8月10日(日) 5時~5時50分
礼 拝
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(旧) 12(めぐみゆたけき主を)
交読詩編 21(主よ、王はあなたの御力を喜び祝い)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
聖 書 エレミヤ書1章1~19節
説 教 「神の真実」を説いた涙の預言者 辺見宗邦牧師
賛美歌(21)556(神の賜物を)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 8月17日(日)夕礼拝 午後5時~5時50分
説教題 「エゼキエルの召命」
聖 書 エゼキエル書2章1~3章11節
交読詩篇 86 讃美歌(21) 492 529 24
本日の聖書 エレミヤ書1章1~19節
1エレミヤの言葉。彼はベニヤミンの地のアナトトの祭司ヒルキヤの子であった。2主の言葉が彼に臨んだのは、ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第十三年のことであり、3更にユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの時代にも臨み、ユダの王、ヨシヤの子ゼデキヤの治世の第十一年の終わり、すなわち、その年の五月に、エルサレムの住民が捕囚となるまで続いた。
4主の言葉がわたしに臨んだ。 5「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」 6わたしは言った。「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」 7しかし、主はわたしに言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。 8彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」と主は言われた。
9主は手を伸ばして、わたしの口に触れ主はわたしに言われた。「見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける。 10見よ、今日、あなたに諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために。」
11主の言葉がわたしに臨んだ。「エレミヤよ、何が見えるか。」わたしは答えた。「アーモンド(シャーケード)の枝が見えます。」 12主はわたしに言われた。「あなたの見るとおりだ。わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと見張っている(ショーケード)。」 13主の言葉が再びわたしに臨んで言われた。「何が見えるか。」わたしは答えた。「煮えたぎる鍋が見えます。北からこちらへ傾いています。」
14主はわたしに言われた。北から災いが襲いかかる、この地に住む者すべてに。 15北のすべての民とすべての国にわたしは今、呼びかける、と主は言われる。彼らはやって来て、エルサレムの門の前に都をとりまく城壁とユダのすべての町に向かって、それぞれ王座を据える。 16わたしは、わが民の甚だしい悪に対して裁きを告げる。彼らはわたしを捨て、他の神々に香をたき手で造ったものの前にひれ伏した。 17あなたは腰に帯を締め、立って、彼らに語れ。わたしが命じることをすべて。彼らの前におののくな、わたし自身があなたを彼らの前でおののかせることがないように。 18わたしは今日、あなたをこの国全土に向けて、堅固な町とし、鉄の柱、青銅の城壁として、ユダの王やその高官たち、その祭司や国の民に立ち向かわせる。 19彼らはあなたに戦いを挑むが、勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、救い出すと主は言われた。
本日の説教
イザヤ(B.C.739年)がエルサレムに現れてから112年後に、エレミヤが現れました。北イスラエル王国が滅亡(B.C.722年)してから95年後のことです。エレミヤの出身地はベニヤミン族の相続地の中にあるレビの町アナトトです。アナトトはエルサレムの北東4.5キロにある小村です。エレミヤが活動した期間は、南ユダ王国のヨシヤ王の治世の第13年から、ヨアハズ、ヨヤキム、ヨヤキンを経て、ユダ王国最後の王ゼデキヤの治世の第11年に、エルサレムの住民が捕囚となるまでとされています。エレミヤの活動期間は、紀元627年から紀元587年までの40年間です。この時代の歴史は、列王記下22:1~25:26、歴代誌下34:1~36:21に記されています。
ユダの最後の王となったゼデキヤに、バビロンに降伏すべきだと予言するエレミヤ危険人物と見做し、投獄しました。ゼデキヤはアンモンと共謀してバビロンに反乱を起すが、遂にバビロンによってエルサレムは包囲され、陥落しました。エルサレム神殿は略奪され、745人が捕囚としてバビロンへ移送されました。エレミヤはラマで釈放され、ユダの地の総督とされたミツパにいるゲダルヤに保護されました。バビロン帝国の占領に反抗したユダ王族の一人であるイシュマエルのグループによってゲダルヤは暗殺され、数人のバビロンの駐留兵は殺されました(B.C.585年頃)。ゲダルヤに仕えていたヨハナンと数名の者は、バビロンからの報復を恐れ、エジプトへの逃亡を計画しました。ユダの地に残って国を再建すべきだとするエレミヤの言葉は受け入れられず、エレミヤはエジプトの地中海沿岸の町タフパンヘスへ連行されました(エレミヤ書39:11~43:7)。エレミヤはエジプトの地で殉教の死を遂げたと言われています。
エレミヤ書1章4節以下は、エレミヤの召命に記事です。 「主の言葉がわたしに臨んだ。『わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。』
わたしは言った。『ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。』
しかし、主はわたしに言われた。『若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す。』」(エレミヤ書1:4~8)
神の言葉は圧倒的な権威に満ちてエレミヤに臨みました。神はエレミヤを母の胎内に造る前から知り、母の胎から生まれ出る以前に聖別し、「諸国民の預言者として立た」と告げました。
この神の呼びかけに対し、エレミヤは、わたしは語る言葉を知らず、若者に過ぎませんと言って抵抗しました。20歳代の青年が、与えられた任務に堪えられないと思い、たじろぐのは当然です。しかし、神は、若者にすぎないと言ってはならない。だれのところへでも行って、命じることをすべて語れと言われました。彼らを恐れず、エレミヤを使命に向かわせたのは、「わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」という神の励ましの言葉でした。
「主は手を伸ばして、わたしの口に触れ主はわたしに言われた。『見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける。見よ、今日、あなたに諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために。』」(イザヤ書1:9~10)
すると、神はエレミヤの口に直接手を触れてみ言葉を授け、預言者として任命しました。神はエレミヤに、諸国民、諸王国に対する権威をゆだねました。その職務は破壊と建設です。諸国民の運命を究極的に支配している神の言葉を、預言者は語らなければなりません。
エレミヤが伝えるべき預言を明らかにするために、神は回復と審判の二つの幻を見せます。
「主の言葉がわたしに臨んだ。『エレミヤよ、何が見えるか。』 /わたしは答えた。『アーモンド(シャーケード)の枝が見えます。』 /主はわたしに言われた。『あなたの見るとおりだ。わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと見張っている(ショーケード)。』主の言葉が再びわたしに臨んで言われた。『何が見えるか。』 /わたしは答えた。『煮えたぎる鍋が見えます。北からこちらへ傾いています。』 /主はわたしに言われた。北から災いが襲いかかる、この地に住む者すべてに。北のすべての民とすべての国にわたしは今、呼びかける、と主は言われる。彼らはやって来て、エルサレムの門の前に都をとりまく城壁とユダのすべての町に向かって、それぞれ王座を据える。わたしは、わが民の甚だしい悪に対して裁きを告げる。彼らはわたしを捨て、他の神々に香をたき手で造ったものの前にひれ伏した。」(エレミヤ書1:11~16)
エレミヤが召命のときに見た最初の幻は、アーモンドです。アーモンドは、春いちばんに花を咲かせる木です。これはヘブライ語の語呂合わせが関係しています。 アーモンドの花
アーモンド(シャーケード)は、神が「見張っている」(ショーケード)ことを心に留めよという意味だったのです。これは回復の幻です。神は「わたしの言葉を成し遂げようと見張っている」と言われます。神の関心は、神の民を滅ぼすことが真意ではなく、ユダ王国を回復させるために注意深く見張っている、というのです(31:28、44:27参照)。
第二の幻は、煮えたぎる鍋です。これは審判の幻です。それが北からエレミヤの方に傾いています。この幻は北から災いが襲いかかることを意味します。騎馬民族のスキタイ人の来襲を指しています。神の呼びかけによって、北の国々は、エルサレムとユダの町々を襲撃するというのです。それはユダの民の悪と偶像崇拝に対する神の裁きのためである、と神はエレミヤに告げたのです。
「あなたは腰に帯を締め、立って、彼らに語れ。わたしが命じることをすべて。彼らの前におののくな、わたし自身があなたを彼らの前でおののかせることがないように。わたしは今日、あなたをこの国全土に向けて、堅固な町とし、鉄の柱、青銅の城壁として、ユダの王やその高官たち、その祭司や国の民に立ち向かわせる。彼らはあなたに戦いを挑むが、勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、救い出すと主は言われた。」(エレミヤ書1:17~19)
神はエレミヤに命じます。「あなたは腰に帯を締め、立って、彼らに語れ。わたしが命じることをすべて。彼らの前におののくな。」「腰に帯を締め」とは、通常、武装を意味します。気をひきしめて、敵を恐れず立ち向かえ、ということです。神はエレミヤを、<堅固な町><鉄の柱><青銅の城壁>として立ち向かわせると約束し、勝利と救助を保証しました。
「涙の預言者」
エレミヤが預言者として活動したのは、ユダ王国が衰退し、王国の滅亡とバビロン捕囚という破局に向かっていた時代です。エレミヤは、数十年にわたって警告者、勧告者として同胞の民に、神の裁きがまじかに迫っていることを語り、悔い改めの呼びかけをしなければなりませんでした。エレミヤはヨシュア王の宗教改革に協力しましたが、ヨシュア王の戦死後、ユダ王国はエジプトの支配を受け、王と民は政治的な不安の中にありました。しかし、エルサレム神殿があるかぎり大丈夫だという思いがありました。エレミヤは、「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉(偽りの預言者の言葉)に依り頼んではならならない。…お前たちはこのむなしい言葉に依り頼んでいるが、それは救う力を持たない。(エレミヤ書7:4~8)」 、と預言しました。エレミヤの言葉は、人々の反感を買い、迫害を受け(8:6)、エレミヤは深い苦悩と悲しみを味わいました。
「呪われよ、わたしの生まれた日は。母がわたしを産んだ日は祝福されてはならない。呪われよ、父に良い知らせをもたらしあなたに男の子が生まれたと言って大いに喜ばせた人は。……なぜ、わたしは母の胎から出て労苦と嘆きに遭い、生涯を恥の中に終わらねばならないのか。」(エレミヤ書20:14~18)
エレミヤは自分の誕生を呪うまでに苦しみ、二度とふたたび主の言葉を語るまいと決意するのですが、彼の心の中に、神の言葉が「燃える火」となって、彼は語らざるを得ませんでした(20:9)。エレミヤの苦しみは預言者として語らなければならない苦しみだけではなく、エルサレムの滅亡と背信の民の滅びを悲しみ、痛んでいました。エレミヤは「涙の預言者」と言われていますが、それは彼が味わった苦悩と悲嘆の深さを表す表現です。
「神の真実」
アモスが「神の義」を、ホセアが「神の愛」をイザヤが「神の聖」を強調しましたが、エレミヤは「神の真実」を強く訴えました。
「エルサレムの通りを巡り、よく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか。正義を行い、真実を求める者が。いれば、わたしはエルサレムを赦そう。 /主は生きておられる」と言って誓うからこそ、彼らの誓いは偽りの誓いとなるのだ。 /主よ、御目は真実を求めておられるではありませんか」(エレミヤ書5:1~3)
エルサレムに一人でも、「公義を行ない、真実を求める者」が見つかるならば、エルサレムを赦そうと主は語っています。ところが、だれ一人としてそのような者はいません。「主よ。あなたの目は真実に向けられていないのでしょうか。」と、エレミヤは神の真実を強調しています。エレミヤは長いイスラエルの歴史の中に神の真実が一貫しているのを見ています。民がどんなに神を裏切ったとしても、神は決して民を裏切ることがないという真実です。エレミヤによれば、人間が真実を貫くということはむずかしい。それは、人間性の弱さ、もろさのためであり、結局、人間は自分本位にしか物事を考えられないエゴイズムによるのです。人間の真実は、神の側の真実に支えられ、助けられて、はじめて、真実を求めようとする自己を見出すことができることをエレミヤは知ったのです。「わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみ(真実)を注ぐ。おとめイスラエルよ、再び、わたしはあなたを固く建てる。」(エレミヤ記31:3,4)神はイスラエルを不変の愛をもて愛し、真実をつくし、イスラエルを再建すると言われたのです。そこに、弱くもろい人間の救いの希望を見出ことができるのです。
「新しい契約」
「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」(エレミヤ記31:31~34)
エレミヤは、神と民との関係を、夫(主人)と妻との間の契約として述べています。ところがイスラエルは、この契約を破ってしまったので、神は新しい契約を結ぶ日が来る、と言われるのです。新しい契約は、まず第一に、律法が、イスラエル人の心の中に記され、外からの義務や強制によるのでなく、内からの意志によって律法に従う者となる。第二に、自分の神はだれかを他人に教えられるまでもなく、一人ひとりが平等に、しかも直接的に、主と向き合い、神を知るようになる。第三に、神の絶対的な恩寵によって、完全な「赦罪」が与えられる。ここに、神と民との新たな契約の関係が実現する。このエレミヤの「新しい契約」の預言は、イエス・キリストによって実現するのです。エレミヤは神に召された預言者としての活動に生命を捧げ、神の御子イエス・キリストによる救いを予言した偉大な預言者です。
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