ワルシャワ国立博物館(ポーランド) |
説教集 新約聖書の部
マタイによる福音書
1 「東方の占星術の学者たち」 マタイによる福音書2章1~12節 2019/12/28
「東方の占星術の学者たちの礼拝」マタイによる福音書2章1~12節 2018/12/29
「東方の学者たちの来訪」 マタイよる福音書2章1~12節 2017/12/29
「星に導かれた東方の学者たち」 マタイによる福音書2章1~12節 2015/12/27
「東方の学者たちの来訪とヘロデ大王」 マタイによる福音書2章1-18節 2014/12/22
2 「聖家族のエジプト避難」 マタイによる福音書2章13~23節 2016/12/31
「ヘロデ王と神のみ旨に従ったヨセフ」 マタイによる福音書2章13-23節 2017/01/04
3 「イエスの洗礼」 マタイによる福音書3章13~17節 2017/01/04
4 「荒れ野の誘惑」 マタイによる福音書4章1~11節 2017/03/03
「人は神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」 マタイによる福音書4章1~11節 2016/02/13
5 「最初の弟子たち―人間をとる漁師」 マタイによる福音書4章18~25節 2017/01/14
6 「山上の説教―八つの幸いの教え」 マタイによる福音書5章1~12節、17節 2017/02/12
7 「八つの祝福と、地の塩・世の光である信徒」 マタイによる福音書5章17-26節 2019/11/10
8 「律法の完成と隣人との和解」 マタイによる福音書5章17節-26節 2019/11/16
9 「姦淫、離婚、誓いについて」 マタイによる福音書5章27-37節 2019/11/22
10 「あなたの敵を愛しなさい。」 マタイによる福音書5章38-48節 2020/1/11
11 「施しと祈りについてのイエスの教え」 マタイによる福音書6章1~8節 2017/05/21
12 「『主の祈り』とその他の祈り」 マタイによる福音書6章1-18節 2020/1/16
13 「明日のことまで思い悩むな」マタイによる福音書6章19-34節 2020/03/26 2020/1/23
14「求めなさい。そうすれば、与えられる。」 マタイによる福音書7章1-12節 2020/1/31
15「主イエスの言葉を聞いて行う者」マタイによる福音書7章24-29節 2020/2/9
16「悪と戦うキリスト、聖霊によって悪霊を追い出す」 マタイによる福音書12章22~32節 2017/03/12
17「たとえで語るキリスト-種蒔きのたとえ」 マタイによる福音書13章10~17節 2017/02/04
18 「奇跡を行うキリストー湖上を歩く」 マタイによる福音書14章22~36節 2017/02/26
19 「心身の病(やまい)をいやすキリスト」 マタイによる福音書15章21~31節 017/02/19
20 「主の変貌―栄光に輝くキリスト」 マタイによる福音書17章1~13節 2017/03/25
21 「フィリポ・カイサリアでの信仰告白と受難の予告」マタイによる福音書16章13~28節 2017/03/19
22 「十字架の勝利(偉くなりたい者は仕える人に)。」 マタイによる福音書20章20~28節 2017/04/02
23 「新しい神殿」 マタイによる福音書21章12~16節 2017/01/29
24「タラントンのたとえが主張するもの」マタイによる福音書25章14-30節 2020/2/14
25 「十字架への道」 マタイによる福音書27章32~56節 2017/04/09
26 「キリストの復活」 マタイによる福音書28章1~10節 2017/04/16
27 「主の復活顕現」 マタイによる福音書28章11~20節 2017/04/23
28 「キリストの昇天」 マタイによる福音書28章16~20節 2019/05/30
「キリストの昇天の意義」 マタイによる福音書28章16-20節 2015/05/16
マルコによる福音書
1 「イエスの洗礼」 マルコによる福音書1章1~11節 2018/01/14
2 「荒れ野の誘惑と神の国の宣教」 マルコによる福音書1章12~15節 2018/02/16
3 「イエスの最初の弟子たち」 マルコによる福音書1章14~20節 2018/01/20
4 「癒すキリスト」 マルコによる福音書2章1~12節 2018/01/31
5 「悪(霊)と戦うキリスト」 マルコによる福音書3章20~30節 2018/02/23
6 「教えるキリスト」 マルコによる福音書4章1~9節 2018/01/28
7 「奇跡を行うキリスト:突風と湖を静める」 マルコによる福音書4章35~41節 2018/02/10
8 「受難の予告とイエスに従う者」 マルコによる福音書8章27~33節 2018/03/02
9 「高山右近の信仰に学ぶ」 マルコによる福音書8章36-38節 2014/05/18
10 「主の変容とその意義」 マルコによる福音書9章2~10節 2018/03/07
11 「十字架の勝利」 マルコによる福音書10章32~45節 2018/03/18
12 「十字架への道」 マルコによる福音書14章32-42節 2018/03/24
13 「イエスの十字架上の最後の言葉」 マルコによる福音書15章25-37節 2014/04/13
14 「キリストの復活」 マルコによる福音書16章1-8節 2018/03/30
「イエスの復活」 マルコによる福音書16章1-11節 2014/04/21
ルカによる福音書
1 「洗礼のヨハネの父、ザカリアの賛歌」 ルカによる福音書1章67-79節 2014/11/30
2 「受胎告知とマリアの賛歌」 ルカによる福音書1章47-55節 2014/11/30
3 「世を救うキリストの降誕」養老施設でのクリスマス・ミニ礼拝と聖餐式 ルカ2章1-20節 2019/12/25
「世を救うキリストの降誕」 ルカによる福音書2章1~20節 2019/12/20
「クリスマスー世の罪を取り除く神の小羊の誕生」 ルカによる福音書2章1~20節 2018/12/14
「キリストの降誕」 ルカによる福音書2章1~20節 2017/12/24
「キリストの降誕」 ルカによる福音書2章1~20節 2016/12/24
「キリストの降誕」ルカによる福音書2章1~20節 2015/12/19
「真の救い主の誕生」 ルカによる福音書2章1-55節 2014/12/14
「救い主の誕生」 ルカによる福音書2章1-20節 2013/12/24
4 「シメオンの讃歌」 ルカによる福音書2章22-38節 2014/12/28
5 「イエスの洗礼」 ルカによる福音書3章15~22節 2019/01/03
「洗礼のヨハネの出現とイエスの洗礼」 ルカによる福音書3章1-22節 2015/01/18
6 「神殿での少年イエス」 ルカによる福音書2章41~52節 2018/01/06
7 「荒れ野の誘惑」 ルカによる福音書4章1-13節 2019/03/04
「イエスの荒れ野の誘惑」 ルカによる福音書4章1-13節 2015/02/22
8 「宣教の開始ーナザレの会堂で教えるイエス」 ルカによる4章16~30節 2019/01/16
「イエスの宣教開始とナザレの人々の反応」 ルカによる福音書4章14-30節 2015/01/25
9 「最初の弟子たちの召命」 ルカによる福音書5章1~11節 2019/01/12
10 「病を癒すキリスト」 ルカによる福音書5章12-26節 2019/02/21
「イエスの病気の癒しと罪の赦し」 ルカによる福音書5章12-26節 2015/02/01
11 「断食についての問答―新しい時代の到来」 ルカによる福音書5章33~39節 2019/02/02
12 「安息日の主」 ルカによる福音書6章1~11節 2019/02/07
13 「百人隊長の驚くべき信仰」 ルカによる福音書7章1~10節 2019/05/26
14 「教えるキリストー種を蒔く人のたとえ」 ルカによる福音書8章4-15節 2019/02/12
『種を蒔く人のたとえ』 ルカによる福音書8章1-15節 2015/02/08
15 「五千人に食べ物を与えたイエスの奇跡」 ルカによる福音書9章1-17節 2015/02/15
16 「受難の予告」 ルカによる福音書9章18-27節 2019/03/20
「メシアの受難の予告とイエスに従うこと」 ルカによる福音書9章18-27節 2015/03/07
17 「奇跡を行うキリスト」 ルカによる福音書9章10-17節 2019/02/27
18 「イエスの姿が変わる」 ルカによる福音書9章28-36節 2019/03/26
「山上で神の栄光に輝くイエス」 ルカによる福音書9章28-36節 2015/03/15
19「『善きサマリア人』のたとえ」ルカによる福音書10章25-37節 2020/2/19
20 「悪と戦うキリスト」 ルカによる福音書11章14-26節 2019/03/11
「神の指による悪霊追放と神の国の到来」 ルカによる福音書11章14-26節 2015/03/01
21「『愚かな金持』のたとえ」ルカによる福音書12章1-21節 2020/2/28
22「『放蕩息子』のたとえ(二人の息子の父の愛)」ルカによる福音書15章11-32節 2020/3/14
23「『金持ちとラザロ』のたとえ」 ルカによる福音書16章19-31節 2020/3/20
24「『ファリサイ派の人と徴税人』のたとえ」ルカによる福音書18章10-14節 2020/3/6
25「十字架の勝利」 ルカによる福音書20章9~19節 2019/04/03
26「ぶどう園と農夫のたとえ」 ルカによる福音書20章9-19節 2015/03/22
27 「貧しいやもめの献金」 ルカによる21章1~4節 2019/01/25
28「十字架への道―オリーブ山で祈る」 ルカによる福音書22章39~53節 2019/04/12
「ゲッセマネの祈り」 ルカによる福音書22章39-46節 2015/03/29
29 「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」 ルカによる福音書23章39-43節 2014/05/25
30 「キリストの復活」 ルカによる福音書24章1-12節 2019/10/10 04/18
「キリストの復活」 ルカによる福音書24章1-12節 2015/04/04
31 「「エマオ途上での主の顕現」 ルカによる福音書24章13~35節 2019/04/27
「エマオへの道でのイエスの顕現」 ルカによる福音書24章13-35節 2015/04/12
32 「弟子たちに現れた復活のイエス」 ルカによる福音書24章36~43節 2019/05/05
「弟子たちに現れた復活のイエス」 ルカによる福音書24章36-49節 2015/04/19
33 「キリストの昇天」 ルカによる福音書24章44~53節 2017/05/27
ヨハネによる福音書
1 「世に遣わされた神の子イエス」 ヨハネによる福音書1章14~18節 2016/01/03
2 「世の罪を取り除く神の子羊」 ヨハネによる福音書1章29~34節 2016/01/10
3 「最初の弟子たちの信仰告白」 ヨハネによる福音書1章35~51節 2016/01/13
4 「病気で苦しむ人を癒すキリスト」ヨハネによる福音書5章1~18節 2016/01/27
5 「奇跡を行うキリスト」ヨハネによる福音書6章1~15節 2016/02/06
6 「わたしは命のパンである 」 ヨハネによる福音書6章34-51節 2015/04/26
7 「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか」 ヨハネによる福音書6章60~71節 2016/02/26
8 「わたしのことばにとどまるならば、わたしの弟子である」ヨハネによる福音書8章21~362016/01/24
9 「心の目を開くイエス」 ヨハネによる福音書9章1~7節、35~41節 2016/02/21
10 「真の良い羊飼い」 ヨハネによる福音書10章7~18節 2018/04/16
11 「復活と命の主イエス」 ヨハネによる福音書11章17~27節 2017/05/07
12 「イエスに香油を注いだマリアの信仰」 ヨハネによる福音書12章1~8節 2016/03/06
13 「自分の命を失う者と永遠の命に至る人」 ヨハネによる福音書12章20~28節 2016/03/13
14 「キリストの新しい愛の掟」 ヨハネによる福音書13章31~38節 2018/04/24
15 「道であり、真理であり、命である」ヨハネによる福音書14章1~17節 2016/05/22
16 「聖霊の賜物」 ヨハネによる福音書14章15節~27節 2016/05/15
17 「わたしはまことのぶどうの木」 ヨハネによる福音書15章1~11節 2018/04/28
18 「新しい愛の戒め」 ヨハネによる福音書15章12~17節 2019/05/26
「新しいイエスの戒めー互いに愛し合いなさい」 ヨハネによる福音書15章12-17節2015/05/03
19 「世の苦難に打ち勝つ勝利」 ヨハネによる福音書16章25節~33節 2016/04/30
20 「父のみもとへ行く。聖霊をおくる。」 ヨハネによる福音書16章12~24節 2018/05/05
21 「十字架への道」 ヨハネによる福音書18章1-14節 2016/03/20
22 「マグダラのマリアに現れた復活のイエス」 ヨハネによる福音書20章1~18節 2019/04/18
23 「復活顕現」 ヨハネによる福音書20章19~31節 2018/04/05
「トマスに現れた復活のイエス」 ヨハネによる福音書20章19~31節 2016/04/03
24 「ガリラヤ湖畔で弟子たちに朝食を与えた復活の主」ヨハネによる福音書21章1~14 2016/04/09
25 「主イエスとの愛による永遠の結合関係」 ヨハネによる福音書21章15~25節2016/05/07 『あなたはこの人たち以上にわたしを愛しているか』 ヨハネによる福音書21章15~25 2016/04/17
使徒言行録
1 「キリストの昇天と、私たちが天国に行くことについて」 使徒言行録1章1-13節 2014/06/01
2 「聖霊の賜物ー宣教する教会の誕生」 使徒言行録2章1~11節 2019/06/05
「聖霊の賜物」 使徒言行録2章1~11節 2018/05/20
「聖霊の賜物」 使徒言行録2章1~11節 2017/06/03
「聖霊降臨による教会創設と世界宣教」 使徒言行録2章1-11節 2015/05/24
「聖霊降臨日の出来事と私たちが聖霊に満たされるには」 使徒言行録2章1-13節 2014/06/08
3 「五旬祭のペトロの説教」 使徒言行録2章14~36節 2019/06/13
「ペトロのペンテコステ説教」 使徒言行録2章14-36節 2015/05/28
4 「教会の一致と交わり」 使徒言行録2章37~47節 2019/06/23
「邪悪な時代から救われなさい」 使徒言行録2章37-47節 2015/06/07
5「ヨエルの預言『神の霊の降臨』と、ぺトロの聖霊降臨日の説教」 ヨエル書3章1-2節 2014/08/03
6 「人間を救うのは、この人以外にない。」 使徒言行録4章1~12節 2019/06/29
「わたしたちが救われるべき名」 使徒言行録4章1-12節 2015/06/14
「ヨエルの預言『神の霊の降臨』と、ぺトロの聖霊降臨日の説教」 ヨエル書3章1-2節 2014/08/03
7 「宣教する教会」 使徒言行録4章13~31節 2018/06/03
8 「主にある共同生活」 使徒言行録4章32節~37節 2017/07/08
9 「キリストの苦しみにあずかる喜び」 使徒言行録5章27~42節 2018/10/06
10 「フィリポ、エチオピアの高官に福音を伝える 」 使徒言行録8章26-38節 2015/06/21
11 「宣教への派遣」 使徒言行録9章26節~31節 2017/08/12
12 「ペトロによる、しるしと不思議な業」使徒言行録9章32~43節 2016/06/24
13 「異邦人にも聖霊が降る」 使徒言行録11章1-18節 2015/06/28
14 「アンティオキア教会の誕生」 使徒言行録11章19~26節 2013/06/16
15 「教会の祈りと天使による牢からの脱出 」 使徒言行録12章1-19節 2013/07/02
16 「宣教への派遣」 使徒言行録13章1-12節 2018/06/18「宣教への派遣」
17 「罪の赦しの福音」 使徒言行録13章13-26節 2013/07/09
18 「すべての人に対する教会の宣教」 使徒言行録13章44~52節 2018/08/15
19 「偶像を離れて、生ける神に立ち帰る 」 使徒言行録14章8-20節 2013/0
20 「エルサレムの使徒会議」 使徒言行録15章1-21節 2013/07/23
21 「神の摂理による伝道」 使徒言行録15章36-16章5節 2013/07/28
22 「悪霊追放」 使徒言行録16章16~24節 2018/06/10
「人生の揺るがない土台と自由」 使徒言行録16章11-40節 2013/08/04
23 「偶像崇拝との対決 」 使徒言行録17章13-31節 2013/08/11
24 「悔改めの使信:十字架を欠いたアレオパゴスの説教」使徒言行録17章22~34節 2017/06/18
25 「わたしが共にいる。恐れるな、語り続けよ。」 使徒言行録18章1-17節 2013/08/18
26 「生活の刷新」 使徒言行録19章11節~20節 2017/07/23
27 「貪欲は偶像礼拝にほかならない 」 使徒言行録19章23-40節 2013/08/25
28 「パウロ、青年を生き返らせる」 使徒言行録20章1-12節 2015/07/04
29 「苦難の共同体」 使徒言行録20章17節~35節 2017/08/17
30 「復活の希望」 使徒言行録24章10~21節 2016/07/03
31 「パウロへのイエスの顕現」 使徒言行録26章12-23節 2013/09/01
32 「パウロのローマへの旅」 使徒言行録27章13-38節 2013/09/06
33 「破局からの救い」 使徒言行録27章33~44節 2016/07/10
34 「パウロのローマ到着と伝道 」 使徒言行録28章11-31節 2013/09/18
ローマ の信徒への手紙
1 「霊に従う生活」 ローマの信徒への手紙7章1節~6節 2016/08/14
2 「希望による忍耐」 ローマの信徒への手紙8章18-25節 2017/09/02
3 「神の子とする霊」 ローマの信徒への手紙8章12~17節 2018/05/27
「神の霊に従って歩む者」 ローマの信徒への手紙8章12~14節
4 「聖書の神は語られる神、沈黙し続けない」 ローマの信徒への手紙8章31~39節 2018/05/08
5 「異邦人の救い」 ローマの信徒への手紙9章19~29節 2017/07/26
6 「新たな神の民の誕生」 ローマの信徒への手紙10章1節~17節 2016/05/29
7 「神の救いのご計画の深い富と知恵」 ローマの信徒への手紙11章28~36節 2016/09/17
8 「神の賜物である愛に生きる生活」 ローマの信徒への手紙12章9~21節 2019/08/14
「偽りのない愛」 ローマの信徒への手紙12章9-21節 2015/08/12
9 「教会内の強い者と弱い者の交わり」 ローマの信徒への手紙14章1~9節 2019/09/04
「正しい服従」<福音のためなら、わたしはどんなことでもします> 2015/08/23
コリントの信徒への手紙一
1 「教会の一致の勧め」 コリントの信徒への手紙一、1章10~17節 2017/09/1 6
2 「神のために力を合わせて働く」 コリントの信徒への手紙一、2章10節~3章9節 2016/08/06
3 「試練から逃れる道」 コリントの信徒への手紙一、10章13節 2019/05/11
4 「主の晩餐とは」 コリントの信徒への手紙一、11章23~39節 2016/07/21
5 「キリストの体である教会」 コリントの信徒への手紙一、12章14~26節 2018/07/21
6 「最高の道である愛」 1コリント12章27~13章13節 2018/08/24
7 「世を救うキリストの愛」 1コリント13章4~8、13節 2018/09/17
8 「もし、キリストが復活しなかったのなら。」 コリントの信徒への手紙一、15章1-20節 2014/04/28
9 「もし、死者が復活しないとしたら」 コリントの信徒への手紙一、15章30-34節 2014/05/04
10 「究極の希望-死者の復活」 コリントの信徒への手紙一、15章35-52節 2017/09/08
コリントの信徒への手紙二
1 「左右の手にある義の武器」 コリントの信徒への手紙二、6章1~10節 2018/07/16
2 「永遠の住み家」 コリントの信徒への手紙二、5章1~10節 2016/09/25
3 「和解の福音」 コリントの信徒への手紙二、5章14~6章2節 2017/08/02
4 「神の恵みに応える献金」 2コリントの信徒への手紙9章6~15節 2018/09/08
「神の恵みによる慈善の業(献金)」 コリントの信徒への手紙二、8章1~15節 2017/07/02
5 「神の恵みに応える献金」 2コリントの信徒への手紙9章6-15節 2018/09/08
「神の恵みによる慈善の業(献金)」 2コリントの信徒への手紙8章1-15節 2017/07/02
6 「パウロの伝道者としての誇り」 コリントの信徒への手紙二、11章7~15節 2019/09/10
「弱さの中で発揮される神の力」 コリントの信徒への手紙二、11章7~15節 2015/08/30
ガラテヤの信徒への手紙
1 「キリストの僕として生きる」 ガラテヤの信徒への手紙1章1~10節 2018/08/31
2 「愛に生きるキリスト者の自由」 ガラテヤの信徒への手紙5章1~11節 2018/07/01
3 「霊の導きに従って歩もう」 ガラテヤの信徒への手紙5章13節~25節 2016/05/01
4 「聖霊に導かれる信仰生活」 ガラテヤの信徒への手紙5章16-26節 2015/05/10
5 「キリスト者の愛の実践」 ガラテヤの信徒への手紙6章1~10節 2019/07/27
「互いに重荷を担いなさい」 ガラテヤの信徒への手紙6章1~10節 2015/07/12
6 「十字架の他に誇るものなし」 ガラテヤの信徒への手紙6章14~18節 2019/09/16
「十字架の他に誇るものなし」ガラテヤの信徒への手紙、6章11~18節 2015/09/06
エフェソの信徒への手紙
1 「神(キリスト)の計り知れない富」 エフェソの信徒への手紙1章3~14節 2017/06/11
2 「異邦人の救い」 エフェソの信徒への手紙2章11~22節 2016/06/19
3 「キリストを心に宿す者」エフェソの信徒への手紙3章14~21節 2016/09/11
4 「新しい人」 エフェソの信徒への手紙4章17~32節 2018/08/12
5 「愛によって歩む、聖なる者とは」 エフェソの信徒への手紙5章1~5節 2017/09/29
6 「新しい人間」 エフェソの信徒への手紙5章11~20節 2016/08/20
7 「夫と妻の務め、親と子の務め」 エフェソの信徒への手紙5章21~6章4節 2018/08/05
フィリピの信徒への手紙
1 「キリストの日に備えて」フィリピの信徒への手紙1章1~11節 2015/10/11
2 「キリストにある生」 フィリピの信徒への手紙、1章12~30節 2016/10/02
3 「世の光としての使命」 フィリピの信徒への手紙2章12~18節 2017/06/24
4 「天国に市民権を持つ者」 フィリピの信徒への手紙3章7~21節 2016/10/16
「何とかして死者の中からの復活に達したいのです」 フィリピの信徒への手紙3章10-15 2014/05/11
5 「女性の働き」 フィリピの信徒への手紙4章1~3節 2019/08/04
「女性たちの働き」 フィリピの信徒への手紙4章1節~3節 2015/07/17
コロサイの信徒への手紙
1 「キリストに仕える喜びと苦難」 コロサイの信徒への手紙1章21~29 2018/09/23
2 「新しい命・悪徳に勝つには」 コロサイの使徒への手紙3章1~11節 2017/04/30
3 「赦しの愛に生きる新しい人間」 コロサイの信徒への手紙、3章12~17節 2019/09/28
「すべてを主イエスの名によって行い、神に感謝しなさい」3章12~17節 2015/09/12
4 「主にある家族の関係」 コロサイの信徒への手紙3章18節~4章1節 2017/08/26
テサロニケの信徒への手紙一
1 「主の来臨の希望と忍耐」 テサロニケの信徒への手紙一、1章1~10節 2019/08/23
テサロニケの信徒への手紙二
1 「主の来臨に備える」 テサロニケの信徒への手紙二、1章1-10節 2015/08/13
2 「働きたくない者は、食べてはならない。」テサロニケの信徒への手紙二、3章6~13節 2017/10/05
テモテへの手紙一
1 「教会における祈り」 テモテへの手紙一、2章1節~10節 2017/07/14
2 「真理の柱である、生ける神の教会」 テモテへの手紙一、3章14~16節 2018/07/08
3 「世の富」 テモテへの手紙一、6章1~12節 2019/10/06
「富にではなく、神に望みを置くように」 2015/09/20
テモテへの手紙二
1 キリスト者の走るべき道のりとは」 テモテへの手紙二、4章7~8節 2018/06/25
テトスへの手紙
フィレモンへの手紙
1 「奴隷をも愛する兄弟とする福音」フィレモンへの手紙1~25節 2015/10/04
ヘブライ人への手紙
1 「大祭司イエスの執り成し」 ヘブライ人への手紙4章14~16 2018/09/29
「大祭司イエスによる永遠の救いの完成」 ヘブライ人への手紙4章14-16 2018/09/14
2 「キリストによる永遠の贖罪」 ヘブライ人への手紙9章11~22節 2016/10/07
2 「信仰による生涯」 ヘブライ人への手紙11章23~29節 2018/10/12
3 「信仰による生涯」 ヘブライ人への手紙11章17~22、29~31節 2017/10/13
4 「天国に市民権を持つ者」 ヘブライ人への手紙11章32-12章2節 2019/10/18
「信仰の完成者イエスを仰ぎ見つつ走ろう」ヘブライ人への手紙11章32~12章2節 2015/10/17
5 「主に従い、信仰のコースを走りきる」 ヘブライの信徒への手紙12章1~13節 2018/07/29
6 「天のエルサレムを目指して」 ヘブライ人への手紙12章18~29節 2016/06/11
ヤコブの手紙
1 「信仰者の実行による証し」 ヤコブの手紙1章19~27節 2019/08/29
「御言葉の実践」 ヤコブの手紙1章19~27節 2015/08/15
2 「金持ちと貧者」 ヤコブの手紙2章1-9節 2019/10/10
「分け隔てをしない真実の愛」ヤコブへの手紙2章1~9節 2015/09/27
3 「隣人愛について」 ヤコブの手紙2章8~13節 2017/09/23
ペトロの手紙一
1 「上に立つ人々に対して」ペトロの手紙一、2章11~25節 2016/09/04
2 「苦難の中にあるキリスト者を励ます」 ペトロの第一の手紙3章13~22節 2019/08/11
「苦難の中の喜び」 ペトロの手紙一、3章13-22節 2015/07/26
ペトロの手紙二
ヨハネの手紙一
1 「世に打ち勝つ信仰」 ヨハネの手紙一、5章1~5節 2016/07/29
2 「天国に市民権を持つ者」 ヨハネ黙示録7章1-4、9-12節 2018/10/19
「天国の礼拝に迎えられるキリスト教徒」 ヨハネの黙示録7章9~17節 2017/10/20
3 「信仰の道」 ヨハネ第一の手紙2章18~29節 2016/06/05
4 「神の愛」 ヨハネによる手紙一、4章7~21節 2018/03/19
5 「神に属する者」 ヨハネの第一の手紙5章10~21節 2016/08/27
ヨハネの手紙二
ヨハネの手紙三
ユダの手紙
ヨハネの黙示録
1 「天国の礼拝に迎えられたキリスト教徒」 ヨハネの黙示録7章9-17節 2017/10/20
↑「ある金持ちとラザロ」のステンドグラス Washington DC's National Cathedral
981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403
日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
受難節第4主日 2020年3月22日(日) 午後5時~5時50分
年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)
聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)
礼 拝 順 序
司会 斎藤 美保姉
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 298(ああ主は誰(た)がため)
交読詩編 16(神よ、守ってください)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)ルカによる福音書16章19~31節(新p.141)
説 教 「『金持ちとラザロ』のたとえ」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 521(とらえたまえ、われらを)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 3月29日(日) 午後5時~5時50分
聖 書 マタイによる福音書22章1~14節
説教題 「『婚宴』のたとえ」
讃美歌(21) 6 474 詩篇 90
本日の聖書 ルカによる福音書16章19~31節
16:19「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。 20この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、 21その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。 22やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。 23そして、金持ちは陰府(よみ)でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。 24そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』 25しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。 26そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』 27金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。 28わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』 29しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』 30金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』 31アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」
本日の説教
ある金持ちがいました。「金持ち」はいつも高価な紫の美しい上衣や、やわらかい麻布の下着を着て、「毎日ぜいたくに遊び暮らして」いました。一方、これとは対照的に、この金持ちの門前の路上に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわっていました。金持ちの食卓から落ちた食物のくずにありつき、腹を満たしたいものだと思っていました。彼の体は膿の出ている腫物だらけで、その腫物をのら犬がやって来てなめていました。彼は犬を払い除ける気力もなく、痩せこけ、目はくぼみ、彼の顔は金持ちの家へと向けられていました。「ラザロ」という名は、エルアザルの短縮形で、「神は助ける」という意味の名です。神に依り頼む外に何も頼るものがない乞食でした。やがて、この金持もラザロも共に死にます。しかし金持の方は葬式が執り行われ、葬られました。
しかし彼らの立場は逆転します。ラザロは天使たちによって、アブラハムのふところに連れて行かれました。アブラハムはユダヤ人の始祖で、信仰の父と仰がれた人です。ラザロはおそらく哀れな死を遂げたのでしょう。しかし今は至福に満たされています。一方、金持ちは盛大な葬式が執り行われのでしょう。この世では誰の目にも幸福そうに見えていたこの金持ちは、ラザロとの場合とは逆に、今は陰府(よみ)におかれています。陰府は死者の行く薄暗い地下の世界とされており、金持ちは炎の拷問を受けてもだえ苦しんでいます。
金持ちは目を上げると、アブラハムとアブラハムのふところにいるラザロとが、はるかかなたに見えました。原典には宴席はありません。共同訳聖書の説明なのでしょう。生存中の時の二人の立場とは全く逆の姿がそこにあります。そこで金持ちだった男は、大声で「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます」と叫びました。<アブラハム>を<父>と叫びます。同じ民族の者であり、血縁関係上の父であることを訴えて、救いを叫び求めています。金持ちは、ラザロの名を生前に聞いて知っていたのでしょう。今はラザロとは全く違う立場にあるのに、この場におよんでも、ラザロを召し使い扱いして、陰府まで呼ぼうとしています。灼熱の陰府の中で渇き苦しみ、のどを潤す冷たい水をラザロに運ばせるようアブラハムに頼んだのです。
しかし、アブラハムは「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。」と言いました。
<父よ>呼ばれたのに答えて、アブラハムは金持ちを<子よ>と呼んでいます。彼との血のつながりを認めます。だがそれは救いに何の役にも立ちません。アブラハムは彼に、<生きている間に良いものをもらっていた>ことを思い出させます。「良いもの」とは、富や財産、健康、幸せなどを指します。それらはすべて神の恵みによるものであり、金持ちの所有と生活は神によって支えられているのに、金持ちはそれを忘れ、自分の努力ですべて解決できると自負し、その「良いもの」を自分の快楽のためにだけに用いて生きていたことを思い出させるためです。「富んでいるあなたがたは、不幸である。あなたがたはもう慰めを受けている」(ルカ6:24)と主は言われています。金持ちは、今、もだえ苦しむのです。
ラザロが天国に送られたことについて、特に理由は何も記されていません。アブラハムはラザロについて「(生前)悪いものをもらっていたが、今は、ここで彼は慰められている」とだけ答えています。ラザロが天上の喜びのうちにあるのは、地上で悪い物を受けていたため、ラザロの名が示すように、神の助けだけを望みとして生きていたからでしょう。「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである」(ルカ6:20)とイエスが言われたように、ラザロは「神に全く依り頼んでいる人」だったので、今、神の憐れみを受け、アブラハムのいる天に迎えられたのです。
アブラハムはつづけて金持ちだった男に「そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない」と言われました。越えられない淵が天と陰府の間にあるので、ラザロを金持ちの苦しむ陰府に遣わすという頼みはどうにもならないと断ったのです。
そこで金持ちは「父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。」と頼みました。金持ちの頼みは、天から陰府に行くことが出来なければ、せめて現世の自分の父親のところへラザロを遣わしてくださいと頼んだのです。そうすれば兄弟たちは、自分と同じような目に会わないですむと言ったのです。この金持は五人の兄弟たちを引き合いに出していますが、彼の関心は兄弟たちにあったのではなく、自分が地上にいる間、適切な警告を受けていなかったため、今、陰府にいることを訴えているのです。
しかし、アブラハムは「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。」と言われました。このたとえでは、<モ―セと預言者>とは、貧しい人々、自分より弱い人々へのあわれみとやさしさを求める聖書のことばと思われます(ルカ4:18、イザヤ58:6-7)。言いかえれば、聖書の中には、人々がどのように生きなければならないかという事について、十分な案内があり、それ以上のものは必要ではないということです。
金持ちは「いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。」と言いました。それにたいして、アブラハムは「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返って行く者があっても、彼らはその言うことを聞き入れはしないだろう。」と語られました。
金持ちに欠けていたのは生前の改心です。彼は聖書にある神の要求や警告を知っていたにも関わらず、真面目に考えず、おそらく「死んでしまえば万事おしまいだ。さあ、おもしろおかしく暮らそう。改心などは不必要だ。貧乏人は静かに飢え死すればよい。これが運命なのだ。」(コヘレトの言葉2:1-10参照)という考えを抱いていたように思われます。
このたとえ話しでは、アブラハムのいるところに、天使がラザロを連れて行ったとありますが、そこが「天」とも「天の国」とも言われていません。そこは義人の魂が行く「天(ウラノ-ン)英語のヘヴン」を指すと思われます。
このたとえでは、金持ちが死後に置かれた火の責め苦のある陰府(ハデス)が語られています。これは当時の神の裁きを予想したユダヤ人の一般的な考え方によるものですが、イエスはこの民衆の考え方を用いてたとえ話しを作り、聴衆に分かりやすく話したのです。この話しからイエスの来世観を読み取ることは出来ません。
聖書の来世観では、「陰府(ハデス)」は、死者が行く所であり、神から遠い絶縁された場所です。使徒信条には、御子は「陰府に下り」とあります。ペトロの手紙では「霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。・・キリストは天に上って神の右におられます」(ペトロ一、3:19、22)とあります。主イエスは陰府まで下って行って宣教されたので、陰府にいる人たちも救われる望みが与えられました。陰府は、最後の審判を受ける地獄(ゲヘナ)の灼熱の火による拷問はありません。
主イエスは十字架につけられた犯罪人の一人に、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園(パラデソー)にいる」(ルカ23:43)と言われました。イエス様によって救われた者は、神と引き離されることがないので、死後すぐ天に迎えられる望みをが与えられています。
聖書で死後の世界について語るのは、生きている世界だけでは言い表せない、人間の死を挟んで初めて表現できる現実、神の支配する霊の世界があるからです。イエスは「体の一部がなくなっても、全身が地獄(ゲヘナ)に投げ込まれない方がましである」(マタイ5:29)とか、「お前は、天(ウラノ-ン)に上げられるとでも思っているのか。陰府(ハデス)にまで落とされるのだ」(マタイ11:23)というように、現世での生き方について警告するのです。さらに、「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」と使徒信条にある終末については、黙示録にある神の楽園パラデソ」(黙示録2:7)や地獄(ゲヘナ)と言った、人の目には隠されている神の秘密を明らかにする預言がなされます。
日本人の多くが勝手に想像している「天国」は、すべての死者が行く世界で、苦しみのない良い所と思われています。神のいない漠然とした影のような天国を期待しています。聖書の「天の国」や「楽園」は、世界を統治する神や神の御子イエス・キリストがおられるところです。聖書の原語には、「天国」という文字はありません、「神の国」、「天の国」、「天」、「楽園」という言葉が用いられています。新共同訳聖書でも、誤解されやすい「天国」という訳語を避け、用いていません。
この「金持ちとラザロ」たとえが語られた状況は、イエスが弟子たちに「不正な管理人」のたとえを語られたとき、金に執着するファリサイの人々がこの話しを聞いて、イエスをあざ笑ったからです(16:14)。神と富とにかね仕えることは出来ないとイエスが言われたのに対し、彼らは富むことと神に仕えることとの両立を認めていたからです。彼らの考えは「貧富がこの世に存在することは、神の御心であって、私たち人間は、その状態を変えることに努める必要はない。富は神の愛のしるしであり、貧は神のさばきのしるしである」と自分たちの立場をまもるのに都合のよいように考えたのです。そして富への愛を正当化したのです。
聖書は「富」や「財産」を持つことについて、悪だとしたり、非難したりしていません。それどころか旧約聖書(特に申命記)では「富」や「財産」を得ることは神から与えられる良いもの、祝福とみなしています。しかし、だからこそ、それらの管理を託され、任されているものなのです。それを如何に用いていくか。そのことが問われているのです。ただ神にのみ仕え、隣人を自分と同じように愛すという最も大切な律法を、ファリサイ派の人々はないがしろにしています。ですから、自分の家の門前にいる隣人に目を向けようともしないのです。
このようなファリサイ派の人々に対して、イエスは「人に尊ばれるものは、神に忌み嫌われるものだ」と宣告し、そのことを説明するために「金持ちとラザロ」のたとえを語られたのです。慈善活動にしても、宗教活動にしても、それが人の尊敬や注目を集めるためになされるときには、それは神のためでも、人のためでもなく、自己自身のためになされていることに気付かないものです。それが人間です。自己中心的な罪から解放されるように、絶えず悔い改めなければなりません。
たとえで語られているアブラハムのふところにいるラザロに、父なる神のふところにいる神の子イエスを重ねて見ることができます。ファリサイ派の人々たちや律法学者たちによって、イエスは神の子を自称したとする不敬罪と、民衆を惑わしたとする騒乱罪の罪により、死刑を宣告され十字架につけられました。イエスの十字架の死は、父なる神が定めた、わたしたち人間の罪をあがなうための死でした。イェスは神の苦難の僕であり、自分を無にし、父なる神のみを助けとした方です。
復活されたイエスは<モーセとすべての預言者の書から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された>(ルカ24:27)とあります。もはや、自分が地上にいる間、適切な警告を受けていなかった、という言い訳けは通用しません。アブラハムの口を通して語られた主イエスの警告は私たちにも向けられています。生きている間に、心を入れかえ、神に帰ることが求められています。与えられている「良いもの」を主に感謝し、主の栄光のために、活かして用いる人生を送りましょう。
↑ ムリーリョ(1667-1670、スペインの画家)の「放蕩息子の帰還」ワシントンD.C ナショナル・ギャラリー)
981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403
日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
受難節第3主日 2020年3月15日(日)午後5時~5時50分
年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)
聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)
礼 拝 順 序
司会 千田 開作兄
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 441(信仰をもて)
交読詩編 67(神がわたしたちを憐れみ、祝福し)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)ルカによる福音書15章11~32節(新p.139)
説 教 「『放蕩息子』のたとえ」 辺見宗邦牧師
祈 祷
聖餐式 72(まごころもて)
讃美歌(21) 513(主は命を)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 3月22日(日) 午後5時~5時50分
聖 書 ルカによる福音書13章6~9節
説教題 「『実のならないいちじくの木』のたとえ」
讃美歌(21) 298 521 交読詩編 16
本日の聖書 ルカによる福音書15章11~32節
15:11また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。 12弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。 13何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。 14何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。 15それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。 16彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。 17そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。 18ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 19もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』 20そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 21息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』 22しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。 23それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。 24この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。 25ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。 26そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。 27僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』 28兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。 29しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。 30ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』 31すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。 32だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
本日の説教
この「放蕩息子のたとえ」は、イエスのすべてのたとえ(A・M・ハンター「イエスの譬えの意味」に索引には、59の譬えがあります。)の中でも、最も良く知られている物語です。「放蕩」とは飲酒や遊びにふけることを意味することばです。英語の題名は「The Parable of the Prodigal Son(浪費した息子のたとえ)」です。しかし、物語の主要内容は、父親が中心であり、「二人の息子の父の愛」です。このたとえは、父の愛と赦しと喜びについてのたとえなのです。
イエスがこの話をするいきさつは、徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄ってきたとき、ファリサイ派の人々や律法学者たちはイエスを、「この人は罪人たちを迎えて、食事までしている」と非難したので、それにイエスが応えるために、語られたのです。
イエスは、始めに「『見失った羊』のたとえ」を語り、「このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改めの必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」と言われました。次に「『無くした銀貨』のたとえ」を語り、「このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」と言われました。そして、最後に、『放蕩息子』のたとえ」を話されたのです。これは福音書記者ルカが、共通するイエスのたとえ話をまとめて編集したものと思われます。三つとも罪人の悔改めがもたらす大いなる喜びをテーマとしています。
たとえの筋はこうです。
ある人に二人の息子がいました。ある日次男が父に財産の分け前をもらいたいと言いました。ユダヤでは長男が二倍もらうことになっているので(申命記21:17)、次男は三分の一を要求したのかも知れません。遺産は、たいていの場合、父親の死に際して受け取られるものでした。なぜこのような申し出をしたのでしょう。弟は窮屈な父親もとを離れて自由に暮らしたいと思ったのでしょう。
父は別に反対もせず弟に財産を分けてやりました。親は一人前になっている息子の自由と独立を求める意志を認めたのです。兄は後でわかるように、そのまま父と一緒に暮らしました。弟は分けてもらった財産(主に土地と家畜)を売って金に換え、幾日もたたないうちに一切をかき集めて遠い国に飛び出しました。
遠い異邦の国で過ごすうちに、次第に気がゆるみ、誘惑のとりこになり、次第に自堕落な生活をするようになり、有り金全部を使い果し、落ちぶれました。親から与えられた財産を浪費することは、神からゆだねられたものをむだにする罪とされます。
その国にひどい飢饉がおこりました。困ってしまった彼はその土地の人にすがって、豚を飼う仕事をしました。豚はユダヤ人にとって汚れた動物と考えられ、豚を飼うことは禁じられていました(レビ記11:7)。まして豚の番をして、豚の食う長い鞘のついたいなご豆で腹を満たそうと思うほど食べ物に困ったことや、食べ物をくれる人はいなかったことは、ユダヤ人にとって人間以下の最低の恥でした。これは神から離れ去って者のみじめさを充分表しています。
次男は貧乏のどん底に落ち込んだ時、始めて正気にかえり、父親のことを思い出しました。「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。」こう思うと、悪い夢から覚めたように、自分の今までの愚かさと親に対する不幸がわかりました。今はもう、父のもとへ帰る他に手がありません。「ここをたち、父のところに行って、『お父さん、ごめんなさい。わたしは神様にも、お父さんにも罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。どうか雇い人の一人として家においてください』と言おう」と詫びる決心をしました。
父に対する罪は天の父にたいする罪でもあります。方向転換して父に戻ることは彼の改心の表れです。彼はそこをたち、父親のもとに行きました。ところが、まだ家から遠く離れていたのに、父親は息子を見つけ、変わり果てたその姿を見て憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻しました。おそらく、毎日のように息子の帰ってくるのを父親は待ちわびて、息子が帰って来る方の道を注視していたのでしょう。
レンブラント(オランダの画家)「放蕩息子の帰還」1667年作 エルミタージュ美術館(ロシア)右に立っているのは兄。母親や財産管理人の男が描かれている。
息子は、「お父さん、わたしは神様にも、またお父さんにも罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」言いました。そして「雇人の一人にしてください」と彼が言い出す前に、息子の無事を喜んだ父はそれを言わせないで、僕たちに、「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」と言いました。「一番良い服、指輪、履物」を与えたことは、元の息子の身分を認める破格の待遇をしたのです。さらに「肥えた子牛」を屠って御馳走にし、音楽や踊りのある宴会は、常識では考えられない途方もない歓迎をしたのです。父の喜びの大きさを表しています。悔い改めて戻ってきた者を受け入れる場合は、通常は、息子が家に入ることをまず許し、食べ物と水を与え、そまつな布袋の着物を着せ、息子は灰をまとって懺悔し、泣いて詫び、父の前にひれ伏すべきなのに、それがないばかりか、真逆の迎え方をしています。
そして祝宴を始めました。ところで、兄の方は畑仕事を終えて、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきたので驚き、下男の一人を呼んで、この大騒ぎはいったい何事かと尋ねました。下男は、「弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。」と答えました。
説明を聞いた兄は怒って、ふてくされて家に入ろうとしなかったので、父親が出て来て、兄をなだめました。しかし、兄は父親に、「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。」と言いました。
今まで忠実に親に仕えてきた自分に、一度もしてくれたこのないようなもてなしを弟は受けている。兄は弟の放蕩ぶりを暴きたてます。さらに父に向かって弟のことを「あなたのあの息子」と言います。あんなどら息子、自分の弟とも考えたくない、という気持ちでしょうか。
それに対して父親は、「子よ」と親愛の情をこめて呼び掛けます。「お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」とおだやかに語りかけます。父親は兄に、「お前の弟」と言って、「弟はわたしの子だが、お前の弟ではないか」と言う気持を訴えています。父は兄息子の抗議を非難するでもなく、弟の帰還を喜ばないのを叱るわけでもなく、「こんな嬉しいことを祝わずにおられようか」とひたすらに兄息子の気持ちを宥めようとします。
疑いもなく、この物語は、この物語を最初に聞いたファリサイ人と律法の専門家たちとに対する反対意見として述べられたものです。したがってこの放蕩息子のたとえを、父を神とみなし、弟をイエスが友となった徴税人や罪人とみなし、兄をイエスを批判した律法学者やファリサイ人とみなす解釈です。その場合、このたとえにおいては、神は、イエスの口により、悔い改める罪人に対する自由なゆるしを宣言し、他方、自己義認のファリサイ人を穏やかに非難しているとする解釈です。父と兄との問答は、一見すると父が兄の無理解な愛のない態度を叱ったり、たしなめたりしているようにみえるからです。ファリサイ人はいつも聖書のなかでは悪者扱いされているところから、この兄もみかけは正しい行いをしているように見えるが、実は父から遠く離れている人間で、弟のように悔い改めていないから弟よりも悪い人間のように見なしてしまう考えが多いようです。
しかし、そのような見方や考え方は誤っています。よく注意して読んでみると、父の態度は「なだめ」ているのです。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」と語りかける父の言葉からも、父の兄に対する信頼と愛とが語られています。「なだめる」(παρεκάλειパレカレイ)は「懇願する、請い求める」を意味することばです。怒って家には入ろうとしない兄に、父親が出て来て、中に入るように懇願したのです。
この物語の主題は、神に逆らった罪人を迎え入れる神のあわれみ深さです。登場する「父親」は神またはキリストを、「弟」(放蕩息子)は神に背を向けた罪びとを、「兄」は律法に忠実な人を指しています。「日頃正しく振舞い、父のためせっせと働く兄」が怒るのは普通の人間にとってはごく当たり前です。父の畑で働いて疲れて帰って来たとき、いきなり怠け者が戻って来て、それに祝宴などをするなら、だれでも怒ります。兄の態度は、父のような溺愛もはなはだしい、父の寛容を理解できない狭さであり、でたらめな生活をして戻って来る人間を受け入れない普通の人間の心の狭さです。だれでもならず者に対して厳しい判断をするものです。しかも一生懸命に励む宗教家ほど厳しいものです。
しかし、父は、一緒に喜ぶ理由を先に僕に言った「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」を繰り返し、「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ」と穏やかに語りかけます。「いなくなっていたのに見つかった」とは、「見失った羊」や「無くした銀貨」のたとえにあったように、「一人の罪人が悔い改めた」ことを意味しています。父は「死んでいたのに生き返った」ことと、「いなくなっていたのに見つかった」ことと、どちらを強調しているでしょうか。このたとえでは、「死」より悪い状態が「失われている」ことであり、「生き返った」ことより良い状態が「見出される」こととして語られています。
このような二人の息子に対する父の態度と愛は、とうてい普通の人間愛では考えられないものです。人間はどちらかというと、弟のような放蕩息子を溺愛してしまうか、まじめな律義者の兄しか愛せないかになってしまう偏愛になりがちです。この父親の愛こそ、イエスが私たちに示してくださった天の父の愛であり、イエス御自身の愛に他ならないのです。
父親は二人の息子をもっていただけではなく、二人を愛していたのであり、二人を出迎え(20節と28節)、二人に対して寛容でした。神の愛はどちらにもありました。弟を受け入れることは、兄を拒絶することではありませんでした。徴税人や罪人を愛することは、、ファリサイ人や律法の専門家への愛を否定することでは、決してないのです。このような愛が神の愛なのです。
私たちは時として弟の、あるいは兄のあやまりを侵すことのないようにしなければなりません。わたしたち人間は、イエス様による救いを受けていなかったときは、放蕩息子のように神から遠く離れて暮らしている存在でした。「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになった。あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ・・・無情、無慈悲です。」(ローマ書1:28~30)とあります。そうすると、このたとえに出てくる「放蕩息子」や「無慈悲な兄」は、私たち自身のことではないでしょうか。「放蕩」などしていないと思われ方もいるでしょうが、私たち人間は皆、生ける真の神を認めず、神から遠い国にさまよい出ているものであり、神から見れば、いなくなった存在なのです。神はこのような失われた魂を、一人でも多く見出そうとしておられるのです。そして一人の悔い改める罪人があれば、このたとえの父のように、わたしたちを迎えてくださり、天には大きな喜びがあるのです。
このイエスのたとえが強く人の心を捉える理由は、神の愛の深さと広さであり、さらに人生の生きた事実としてまず私たちの心に迫るからです。私たちを、息子として迎えて下さった愛なる神に感謝しましょう。また、私たちと共にいてくださって、すべてのよいものを与えてくださる神をほめたたえましょう。御神とともに、失われた魂が父なる神に見出されることを願い、喜びを共にいたしましょう。