富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「受胎告知とマリアの賛歌」 

2014-11-30 22:42:50 | 聖書

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本キリスト教 富谷教会 週報

年間標語『主はわたしの羊飼い、わたしには何も欠けることがない。』

聖句「神は神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ロマ8:28)

 待降節第2主日     2014年12月7日(日)   5時~5時50分 

礼   拝    

前 奏           奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)    4(世にあるかぎりの)

交読詩編      30(主よ、あなたをあがめます)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

聖 書  ルカによる福音書1章47~55節       

説 教  「受胎告知とマリアの賛歌」   辺見宗邦牧師

讃美歌(21) 175(わが心は)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)     24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

 

                       次週礼拝 12月14日(日)夕礼拝 午後5時~5時50分  待降節第3主日

                       聖 書 ルカによる福音書2章1~7節   説教  「ベツレヘムでのイエスの誕生」

クリスマス茶会 12月13日(土)に開催します。23回目になります。47名の参加者を予定しています。12時から30分ほどの礼拝をいたします。ご加祈ください。

本日の聖書 ルカによる福音書1章67節~79節

 26六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。27ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。28天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」29マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。30すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。31あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。32その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。33彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」34マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」35天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。36あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。37神にできないことは何一つない。」38マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

39そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。40そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。41マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、42声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。43わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。44あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。45主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

46そこで、マリアは言った。

47「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。48身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、49力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、50その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。 01:51主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、52権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、53飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。54その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、55わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」56マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

本日の説教 

 天使ガブリエルは、エルサレム神殿の聖所で、祭司ザカリアに現れ、神の恵みと力によって、妻のエリサベトが男の子を産むことを告げ、その子をヨハネと名付けなさい、と告げました。その後、妻のエリサベトは身ごもって、五か月の間、ひきこもって過ごしました。

 <六か月目に>天使<ガブリエル>は、神から<マリア>のところに遣わされました。天使ガブリエルが聖書に登場するのは、旧約聖書のダニエル書に二回だけと、ルカ福音書の二回です。神の前に立つ最高位の天使であり、おもに神の御計画や言葉を伝える役目を担う天使です。

 <マリア>という名は、ヘブライ語では「ミリアム」で、モーセの姉妹ミリアムに由来する名です。ユダヤ人女性の名としてもっとも多く用いられており、ごくありふれた名でした

マリアはイスラエルのガリラヤ地方の南にある<ナザレ>という小さな町に住んでいました。エルサレムからは100キロも離れた所です。「ナザレから何かよいものが出るだろうか」と蔑(さげす)まれるような、重要視されない土地です。

マリアは<ヨセフ>という人の<いいなずけ>になっている年若い<おとめ>でした。婚約は、たいてい家族同士のあいだで、女性がほんの少女の頃に取決められていました。

マリアは結婚前の生娘(きむすめ)でした。当時は、十四、五歳位で結婚したようです。

ヨセフは<ダビデ家>に属する、ダビデ王の血筋にあたる人でです。生まれてくる男の子がダビデの家系に連らなることを表しています。ユダヤ教では、来たるべきメシアはダビデの子孫から出ると広く信じられていました。

ヨセフの職業は大工です。後にイエスは、人々から「この人は大工の子ではないか」(マタイ13:54)と言われています。マリアについて、ここでは、エリサベトが親類だと言う他は何も語られていません。エリサべトはヨハネを産む母となる人ですが、アロン家の娘です。アロン家の娘ということは、最初の大祭司であったモーセの兄アロンの血筋の家柄です(ヘブライ5:4)。エリサべトも夫の祭司ザカリアも、<神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった>と記されているのに、マリアについては器量の良い、美しい、健康な人であったとも記されていません。しかし、この後、マリアは神に愛され(30節)、思慮深く(29節)、従順で(38節)、信仰深い(45節)、神をあがめ(47節)、ユダヤ教の律法と信仰に忠実である(2章22~51節)ことが分かります。しかし、彼女の特質がどんなものであれ、神が彼女を選んだ理由として挙げることはできません。

天使は彼女に「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と呼び掛けます。普通の挨拶ではなく、喜びのあいさつです。天使の挨拶の最初の<おめでとう>は、「喜びなさい」と言う意味の言葉です。マリアは「恵まれた方」と呼びかけられています。「恵み」は神の無条件で一方的な好意の働きによるものです。マリアはこの神の恵みによって選ばれて、神の救いの御業の大役を果たすことになります。それで天使は、マリアに「恵まれた方」と呼びかけたのです。 この大役を果たすことができるように、「主が共にいてくださる」ことを告げ、心強い主の助けがあることを伝えたのです。モーセの場合にも(出エジプト記4:12)、ヨシュアの場合にも(ヨシュア記1:5)、また復活したイエスが使徒たちを派遣する時にも(マタイ28:20)、神は使命を果たす者に、「あなたと共にいる」と約束し、励ましています。

  マリアは、突然の天使の出現と、この天使の言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何を意味するのか分からず、考えこみました。すると、天使は言いました。

マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。

天使の出現に畏怖を覚えているマリアに、天使は、「恐れることはない」と言って語りかけ、「あなたは神から恵みをいただいたのだから」と、その理由を述べます。天使はまず男の子の出産を予告します。そして天使はマリアに「その子をイエスと名付けなさい」と生まれてくる子の名前を指示します。ユダヤ教の社会では子に名を付けるのは父親の権利です。マタイによる福音書では、ヨセフにイエスと名付けるように指示が与えられています(マタイ1:20)。ルカによる福音書では、ヨセフが、イエスの誕生にも、イエスの命名にも除外されることによって、イエスはイスラエルの民のメシアであるという枠にはとらわれない、万民の救済者であることを表しています。

イエスという名については、マタイ(1:21)は「この子は自分の民を罪から救うからである」と、その命名の意義を説明しています。「イエス」(ヘブライ語では《イェーシューアー》)は、モーセの後継者ヨシュアに由来する名で、「ヤハウェは救いである」という意味の名です。

「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」(1:32~ 33)

その子の役割が語られます。マリアから生まれる子は「いと高き方の子」と呼ばれるようになることが予告されます。実際にイエスがこのように呼ばれるようになるのは復活以後の教会においてでした。復活後、イエスは「神の子」とか「いと高き方の子」と呼ばれるようになります。   

マリアから生まれてくる子に「ダビデの王座」を与えるのは「神である主」です。「ヤコブの家」という表現は、ユダヤ人がイスラエルの民を指すのに用いる独特の表現です。「彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」 と告げられます。 

マリアは天使に言いました。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」。(1:34)

天使の告知に対するマリアの驚きと不審の思いは、「あなたは身ごもって男の子を産む」という告知だけに対しております。その子がどのように偉大な人物になるかを告げられる部分(32~33節)は、うわの空で聞いていたのだと思います。天使は答えました。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」(1:35)

マリアのとまどいに対して天使は、マリアの懐妊は聖霊の働きによるものであると答えます。「いと高き方の力があなたを包む」と言う表現は、神の現臨とその力を示しています。「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」(1:・36~37)

マリアにはエリサベトの懐妊の事実がしるしとして与えられます。天使ガブリエルは、エリサベト懐妊の事実を指し示して、「神にできないことは何一つない」ことのしるしとします。

  「神にできないことは何一つない」という言葉は、アブラハムの妻サラに、天使が語った言葉でもあります。八十九歳のサラが、年をとった自分に子供がうまれるはずがないと思って、ひそかに笑ったときに天使が「主に不可能なことがあろうか」と言っています。(創世記18:14)サラのこの天使の言葉を信じて,90歳でイサクを産みました。「信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。」(ヘブライ11:11)

後に、イエス御自身が、神の国に入ることの難しさを教えられたとき、「人間にはできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」(マルコ10:27)と言われています。男を知らない生娘が懐胎するというようなことはありえない、それは不可能であると常識はこれを拒否しますが、聖書は無から有を創り出した全能の神を伝えているのです。「神にできないことは何一つない」という信仰は、全能の神を信じるのです。

  マリアは「神にできないことは何一つない」という天使の宣言にうながされて、「あなたは男の子を産む」という告知を謙虚に受け入れ、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言って、ひれ伏しました。

このマリアの言葉は信仰の本質を見事に言い表しています。信仰とは、わたしたちの経験やそれに基づく見通しといったものを放棄し、神様の御手に自分を委ねて、神のみ業に仕えていくのです。
 ガブリエルが神の使いとして伝えた神の言葉をマリアが受け入れたことで、ガブリエルの使命ははたされました。そこで、天使ガブリエルはマリアのところから去って行きます。

 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。」(1:39~40)

 <そのころ>というのは、「その後間もなく」ということです。マリアは天使のお告げで親戚のエリサベトが懐妊してもう六か月にもなっていることを知って、エリサベトに会いたくなり、<急いで>彼女のところに向かいます。共通の経験が二人を引き寄せるのです。マリアはユダヤの山地にある「ユダの町」に行きました。「山里」は山が連なる地域を指し、パレスチナのいたるところにあります。エルサレムに住む祭司は少数で、大多数の祭司は周辺の「ユダヤの山地」に点在する町とか村に住み、神殿での務めの期間だけエルサレムに上り、務めが終わると「自分の家に」帰りました。アビヤの組の祭司ザカリアもそのような祭司の一人でした。

 マリアの住むガリラヤのナザレから、「ユダの町」まで1歩いて四、五日はかかる道を歩いたことになります。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどりました。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言いました。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています」。(1:41~42)
 エリサベトはマリアとマリアの胎内の子を祝福します。

エリサベトはマリアを「わたしの主のお母さま」と呼んで、マリアを敬い、その訪問を感謝しました。エリサベトは聖霊によって、マリアから生まれる子が自分の<主>となることを知ったのです。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と言って、エリサベトは、神のなさることを信じ受け入れたマリアを祝福しました。

そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」。(1:46~47) このマリアの賛歌は、ラテン語訳の聖書では、冒頭が「あがめます<マグニフィカート>」で始まるので、この賛歌は「マグニフィカート」と呼ばれています。

マリアは、エリサベトの祝福に応えて、魂の奥底から自分にこの大きな恵みの業をなしてくださった神を賛美します。

 マリアの賛歌は神を自分の救い主であり、イスラエルの救い主として誉め讃える賛歌です。

 「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう。力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。」。いやしい自分にこのような大きな恵みを与えてくださった神への賛美し、 「わたしは主の奴隷です」と言い表して、主の前にひれ伏したマリアの心の低さ、謙虚さこそ神を讃えるものにふさわしいのです。「力ある方」すなわち神が、マリアに目を留め、救い主キリストの母となるという大きな業をなされたから、今から後、「世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう。」と、「力ある方」を賛美します。

 「その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。」 主を畏れ、敬い、信じるすべての者に主の憐れみと愛は注がれるのです。

その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません。わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。

神は、御自身の僕として選ばれたイスラエルの民を、その民がどのように神から離れ罪を犯しても、捨てることなく、憐れみにより無条件に受け入れて、イスラエルの民をご自分に属する民として高く上げてくださる、とマリアは歌います。神はアブラハムを初めとする先祖たちに約束されたことを、どのような状況においても守られます。イスラエルを選ばれた神は、イスラエルを見捨てることなく、「とこしえに」イスラエルをご自分の民として憐れみをもって扱われる、とマリアは神を賛美します。

マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰りました。

キリストを救い主と信じるわたしたちは、御霊のイエスを心の内に頂く者とされています。<力ある方である神>がわたしたちも<偉大なことを>なさったくださったことの感謝し、マリアと共に、主なる神をあがめ、救い主イエスを与えられていることを、ほめたたえましょう。

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「洗礼のヨハネの父、ザカリアの賛歌」

2014-11-30 22:34:58 | 聖書

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本キリスト教 富谷教会 週報 

待降節第1主日     2014年11月30日(日)   5時~5時50分 

礼   拝    

前 奏           奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(旧)   95(わが心は、あまつ神を)

交読詩編     145(わたしの王、神よ)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

聖 書  ルカによる福音書1章67~79節       

説 教 「洗礼のヨハネの父、ザカリアの賛歌」   辺見宗邦牧師

讃美歌(旧)  97(朝日は昇りて)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)     24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

 本日の聖書 ルカによる福音書1章67節~79節

 67父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。68「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、69我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。 01:70昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。71それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い。72主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。73これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、74敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、75生涯、主の御前に清く正しく。 76幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、77主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。78これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、79暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」

今日からクリスマスを迎えためのアドヴェント(待降節)に入ります。イエス・キリストの降誕を記念するクリスマス前の四週間を「アドヴェント」(待降節)と呼んでいます。

アドヴェントは、ラテン語の<アドヴェントゥス「接近する」>という語から出来た英語です。<待降節>と言う意味の他に、<出現>、<到来>という意味があります。

アドヴェントは、神の救いの出来事を待ち望み、心備えをする時期です。古くは信仰者が祈りと悔い改めと断食という形を含む、深く自分自身を顧る禁欲と節制の時とされてきました。やがてこの期節は、むしろ喜びと楽しさにあふれて、主の降誕を想起する時となり、それと同時に、再びやって来られる「再臨のキリスト」、「神の国」を待望する時となっていきました。こうしたいろいろな意味を持ったアドヴェントは、私たちが自らの信仰と生活を振り返る機会であります。

主イエス・キリストは、ある時突然この世に降ってきた救世主というわけではなく、長い時間を積み重ねた神の救いの計画という歴史の中で私たちのもとにやって来られた方でした。実は、旧約聖書の時代から、ユダヤ教の時代から、やがてメシアが来るという預言があり、神の約束がありました。そして、そうした神の計画、救いの歴史を書き留めてきたものが、旧約聖書に含まれる数々の文書です。

旧約聖書の創世記は、ユダヤ人がバビロンの捕囚地で編纂され、書かれたものです。天地創造の信仰によれば、この世界と人間は、本来、神が「良きもの」としてお造りになったものですが、人間が神の与えてくださった自由を自分勝手に濫用し、さらに自分の行った行為に責任を負うことを拒んだ結果、神に背き、罪を犯す者となったと理解しました。ユダヤ人が祖国を追われ、バビロンに捕らわれているのも、自分たちの罪に対する神の裁きとしてとらえたのです。すべての人間が神を見失い、自己中心的に生きている罪の状態から、救われなければならいと考えたのです。

旧約聖書は救い主キリスト・イエスの降誕を待望する書でした。救い主キリストの降誕を預言したのは預言者イザヤでした。イザヤは紀元前8世紀末、約40年間(B.C.739~700年)、南王国ユダで活動した預言者です。イザヤ書7章では、マタイ1章23節に引用されている有名な「インマヌエルの預言」が語られています。「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。(その名は「神わらと共にいます」と名付けられる)」(イザヤ書7章14節)

旧約聖書の最後の預言者マラキ(B.C.465年頃)は、「わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。」(3:20)と預言しました。<義の太陽>こそ、我々を救うためにこの世に来られたイエス・キリストです。その<義の太陽>が来る前に、道を備える使者を神が送ると予言したのです。

「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者。見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。」(3:1)

マラキはイスラエルの罪を告発しつつ、真に救いをもたらす方の来臨を待望しました。

「見よ、わたしは大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって、この地を撃つことがないように」(マラキ3:23,24)と預言しました。再来の預言者エリヤとは<洗礼のヨハネ>のことです。

 ルカによる福音書は、イエス・キリストの先駆者となった洗礼のヨハネの父ザカリアと母エリサベトの事を伝えます。

 ユダヤの王ヘロデの時代のことです。このヘロデはヘロデ大王と呼ばれ、イスラエルのㇾビ族が統治したハスモン朝を破って、ローマとの協調関係を構築しました。ローマのオクタヴィアヌス帝に奉仕したことの対する報償により紀元前40年にユダヤの王に任命されました。実際の治世は前37年に始まり、死によって前4年まで続きました。イスラエルの南のイドマヤ(エドムのギリシャ語読み)出身の王です。

この王の時代、祭司ザカリアという人が神殿で祭司として働いていた時、神の言葉を受け、その言葉どおりに誕生したのが、イエス・キリストの先駆者となったバプテスマのヨハネです。

 当時、エルサレムにあった神殿では、大勢の祭司たちが、毎日神への供え物や祈りを献げる仕事にたずさわっていました。祭司の総数は18000名ほどいたと言われています。これらの祭司たちは全部で24の部族に分かれており、各部族が半年ごとに、一週間ずつ神殿での奉仕にあたっていました。ザカリアは<アビヤ組>という部族に属していました。一つの組には750人前後の祭司がいたことになります。祭司たちの奉仕で、最も大事な職務は、「聖所で香を焚く役目」でした。エルサレム神殿では、毎日二回、早朝と午後にこの仕事が行われ、その時には聖所の中に、祭司の一人だけが入ることを許され、特別に調合された香を焚いて、それを神に献げました。その間、聖所の外では、民衆が祈りつつ、聖所に入った祭司からの祝福を待ちました。香を焚く役目にあたる祭司は、すべてのイスラエルの民に代わって神に祝福を祈り求める重要な任務がありました。」この役目はくじ引きによって決められ、一度くじに当たれば、二度とくじを引く機会は与えられませんでした。

 ザカリアはこのくじに当たって、聖所に入り、香をたいていたときです。主の天使ガブリエルが現れ、「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」(ルカ1:13~17)と告げたのです。

 ザカリアの妻エリサべトは不妊で、二人には子供がなく、二人とも年をとっていました。ザカリアは、天使に、「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」と問いました。すると天使は、「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」(1:19~20)と答えました。この時以来、ザカリアは身ぶりで示すだけで、口が利けなくなりました。その後、エリサべトは身ごもりました。エリサべトは、「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」と言って、子を妊娠できたことを神に感謝しました。

 さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産みました(1:57)。八日目に、その子の割礼を施すためにやって来た人たちは、父の名を取ってザカリアと名付けようとしました。すると、母は「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言ったのです。人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、父親に「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねました。父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚きました。すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めました。

 ザカリアは聖霊に満たされ、預言しました。べネディクトゥス(ラテン語の「ほめたたえよ」の意味)と呼ばれている賛歌です。

「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い。主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく。」(1:68~75)

 神がヨハネを送ったからではなく、「我らのために救いの角(神の力を指す)を、僕ダビデの家」から起こしたから、つまりイエスを送ったから、神をほめた他よ、と歌っているのです。そして、かつてイスラエル民族がエジプトから救い出され事件を思い出しながら、現在に至るまでの神の救いを歌っています。

 76節から77節は、洗礼者ヨハネの使命について預言します。

「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」(1:76~77)

 預言の歌のこの部分は、マラキ書3:1~2、23~24、イザヤ書9:1、42:7から、かなりの部分を引用しています。高い所からあけぼのの光が我らを訪れる」は、救い主の出現を美しく描写しています。

 「幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人人の前に現れるまで荒れ野にいた。」(1:80)

この部分は、ヨハネの成長に関するものです。ヨハネの物語が、三章で再開するとき、彼は神の国の接近を告げるために登場します。その間私たちは待たなければなりません。

祭司ザカリアもエリサべトも神の救いの計画とその歴史に登場する人物です。神の大きな御業、驚くべき御業、救いの御業を喜び歌いましょう。

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「祈りと神の助けによる目標実現」(ネヘミヤ記)

2014-11-23 20:06:00 | 聖書

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本キリスト教 富谷教会 週報

年間標語『主はわたしの羊飼い、わたしには何も欠けることがない。』

聖句「神は神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ロマ8:28)

 降誕前第5主日     2014年11月23日(日)  5時~5時50分 

礼   拝    

前 奏           奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  132(涸れた谷間に野の鹿が)

交読詩編      31(主よ、御もとに身を寄せます)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

聖 書   ネヘミヤ記1章1節~11節

説 教 「祈りと神の助けによる目標実現    辺見宗邦牧師

賛美歌(21) 517(神の民よ)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)     24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

                     次週礼拝 11月30日(日)夕礼拝 午後5時~5時50分 

                        待降節第1主日

                             聖 書 ルカによる福音書1章1~25、57~29節

                             説教  「洗礼者ヨハネの誕生」

                             交読詩篇 145 讃美歌(旧) 95 97 

本日の聖書 ネヘミヤ記1章1節~11節

  1ハカルヤの子、ネヘミヤの記録。第二十年のキスレウの月、わたしが首都スサにいたときのことである。2兄弟の一人ハナニが幾人かの人と連れ立ってユダから来たので、わたしは捕囚を免れて残っているユダの人々について、またエルサレムについて彼らに尋ねた。3彼らはこう答えた。「捕囚の生き残りで、この州に残っている人々は、大きな不幸の中にあって、恥辱を受けています。エルサレムの城壁は打ち破られ、城門は焼け落ちたままです。」                                                                                                     4これを聞いて、わたしは座り込んで泣き、幾日も嘆き、食を断ち、天にいます神に祈りをささげた。5わたしはこう祈った。                                                                                               「おお、天にいます神、主よ、偉大にして畏るべき神よ、主を愛し、主の戒めを守る者に対しては、契約を守り、慈しみを注いでくださる神よ。6耳を傾け、目を開き、あなたの僕の祈りをお聞きください。あなたの僕であるイスラエルの人々のために、今わたしは昼も夜も祈り、イスラエルの人々の罪を告白します。わたしたちはあなたに罪を犯しました。わたしも、わたしの父の家も罪を犯しました。7あなたに反抗し、あなたの僕モーセにお与えになった戒めと掟と法を守りませんでした。                                                                                                                           8どうか、あなたの僕モーセにこう戒められたことを思い起こしてください。『もしも背くならば、お前たちを諸国の民の中に散らす。9もしもわたしに立ち帰り、わたしの戒めを守り、それを行うならば、天の果てまで追いやられている者があろうとも、わたしは彼らを集め、わたしの名を住まわせるために選んだ場所に連れて来る。』10彼らはあなたの僕、あなたの民です。あなたが大いなる力と強い御手をもって贖われた者です。

11おお、わが主よ、あなたの僕の祈りとあなたの僕たちの祈りに、どうか耳を傾けてください。わたしたちは心からあなたの御名を畏れ敬っています。どうか今日、わたしの願いをかなえ、この人の憐れみを受けることができるようにしてください。」

この時、わたしは献酌官として王に仕えていた。

本日の説教

 ネヘミヤ記第1章は、<わたし>と語るネヘミヤがペルシャの首都スサにいた時のことです。<ネヘミヤ>は「主が慰める」と言う意味があります。1章11節の最後に記されているように、ネヘミヤは、異国にいた残留ユダヤ人ですが、ぺルシャ王の献酌官として仕えていました。献酌官というのは、宮殿で、王が食事をするとき、そばにいて、ぶどう酒を王に注ぐ仕事をする人のことです。バビロンは現在のイラクの首都バグダットの南東およそ50キロにあり、スサは現在のイランの首都テヘランの南にあり、バビロンの東350キロほどの地点にありますネヘミヤはペルシャ王に仕えるためにスサにいたのです。

 第二十年のキスレウの月>は、2章1節によると、アルタクセルクセス1世(B.C.465~424年)の治世であり、紀元前445年の11月~12月になります。兄弟の一人ハナニ>とは、祖国ユダの同胞の一人です。<ハナニ>と数人の連れが、ネヘミヤのもとにやってきたのです。

 ネヘミヤは、捕囚地よりユダに帰って住んでいる人たちのことや、エルサレムの事情について尋ねました。

彼らはこう答えました。この州に残っている人々は、大きな不幸の中にあって、恥辱を受けています。エルサレムの城壁は打ち破られ、城門は焼け落ちたままです。」

ユダはペルシャ帝国の支配下にある一つの州です。ユダの人々は貧しく、少数であり、圧迫され、不幸の中にあり、エルサレムの城壁も城門も破壊されているので、周囲の民から<恥辱を受けています>という訴えを、ネヘミヤは聞き、衝撃を受けます。

 [この時に至るまでのユダの民の歴史を振り返ってみましょう。紀元前586年にエルサレムは陥落し、神殿は炎上し、バビロニヤ帝国によってユダ王国は滅ぼされました。指導者たちはバビロンに捕囚となりました。およそ50年後(正確に言うと48年後)のB.C.539年、バビロニヤはぺルシャ帝国に滅ぼされ、ペルシャ王キュロスはユダ捕囚民の帰還と神殿再建を許しました。神殿はB.C.515年に再建され、完成しましたが、当時のエルサレムは社会的不正や宗教的堕落がはびこり、破壊された城壁も放置されたままであり、国の復興は進んでいませんでした。ペルシャ帝国はギリシャとの度重なる戦争の敗北やエジプトでの叛乱等、支配領域内は不安定でした。パレスチナの安定のために、ユダ再建に好意的でした。しかし、現地の先住民であるサマリヤ人たちや周囲の民は帰還民を敵視し、エルサレム復興を阻害しました。]

 同胞から祖国の荒廃と窮状を聞いたネヘミヤは、<座り込んで泣き、幾日も嘆き、食を断ち、天にいます神に祈りをささげ>ました。                                 「おお、天にいます神、主よ、偉大にして畏るべき神よ、主を愛し、主の戒めを守る者に対しては、契約を守り、慈しみを注いでくださる神よ。耳を傾け、目を開き、あなたの僕の祈りをお聞きください。あなたの僕であるイスラエルの人々のために、今私は昼も夜も祈り、イスラエルの人々の罪を告白します。私たちはあなたに罪を犯しました。私も、私の父の家も罪を犯しました。あなたに反抗し、あなたの僕モーセにお与えになった戒めと掟と法を守りませんでした。」(1:5~7)
 ネヘミヤは「おお、天にいます神、主よ」と呼びかけます。偉大にして畏るべき神よ慈しみを注いでくださる神よと語りかけます。耳を傾け、目を開き、あなたの僕の祈りをお聞きください。」と、祈りが神に聞き届けられることを求めます。ネヘミヤは、民の代表者として、イスラエルの人々にために、昼夜を問わず、執り成しの祈りをささげ、イスラエルが犯した罪を告白し、神の赦しと憐れみを求めて祈ります。罪を犯したことに関しては、自分も民の一人にか数えています。

 7節では、神がモ―セに命じた律法を民が守らなかった罪が告白され、8、9節では、神がモーセに命じた言葉、背くなら罰があり、立ち帰るならば救われるという言葉を神が思い起こしてくださるようにと、神のあわれみにすがっています。

 祈りの結びも、おお、わが主よ」と呼びかけ、「あなたの僕の祈りとあなたの僕たちの祈りに、どうか耳を傾けてください。」と嘆願しています。「わたしたちは心からあなたの御名を畏れ敬っています」と神への心からなる畏敬を表明します。「この人の憐れみを受けることができるようにしてください」<この人>とは、アルタクセルクセス王のことです。ネヘミヤはアルタクセルクセス王の同情が得られて、エルサレムの城壁を再建できるようにしてくださいと神に祈ったのです。

 このネヘミヤの祈りは不思議な形で実現します。ネヘミヤが王にぶどう酒を差し上げていた時です。王はネヘミヤの暗い表情に気付きます。王は尋ねました。「『暗い表情をしているが、どうかしたのか。病気ではあるまい。何か心に悩みがあるにちがいない。』わたしは非常に恐縮して、王に答えた。『王がとこしえに生き長らえられますように。わたしがどうして暗い表情をせずにおれましょう。先祖の墓のある町が荒廃し、城門は火で焼かれたままなのです。』すると王は、『何を望んでいるのか』と言った。わたしは天にいます神に祈って、王に答えた。『もしも僕がお心に適い、王にお差し支えがなければ、わたしをユダに、先祖の墓のある町にお遣わしください。町を再建したいのでございます。』 王は傍らに座っている王妃と共に、『旅にはどれほどの時を要するのか。いつ帰れるのか』と尋ねた。わたしの派遣について王が好意的であったので、どれほどの期間が必要なのかを説明し、更に、わたしは王に言った。『もしもお心に適いますなら、わたしがユダに行き着くまで、わたしを通過させるようにと、ユーフラテス西方の長官たちにあてた書状をいただきとうございます。また、神殿のある都の城門に梁を置くために、町を取り巻く城壁のためとわたしが入る家のために木材をわたしに与えるように、と王の森林管理者アサフにあてた書状もいただきとうございます。』神の御手がわたしを守ってくださったので、王はわたしの願いをかなえてくれた。(2:2~8)
 ネヘミヤは王にエルサレムの窮状を訴えました。「わたしは天にいます神に祈って、王に答えた」とあります。これは、神の助けを、心の中でとっさに、祈ったことを表しています。そして、城壁再建と、ユダに着くまでの長官宛ての通行許可証と城壁と自分の家を建てるための木材入手の森林管理者宛の許可証の発行を申し出ました。神の恵みにより、その願いがかなえられました。王はネヘミヤを守る、将校と騎兵を派遣してくれたので、ネヘミヤは無事にエルサレムに着きました。

ユダの地の長官に任命されたネヘミヤは、三日後、数名の者と共に、エルサレムの城壁一周して調査し、羊の門、魚の門、谷の門、糞の門、泉の門、貯水池、水の門、馬の門、城壁は区分して、補強する者を割り当てました。

           

ところが、<ホロニ人サンバラトとアンモン人の僕トビヤとアラブ人ゲシュムが城壁と城門の再建に憤慨し、仲間のサマリヤの兵士の前でユダの人々に何ができるかと嘲笑いました。 <ホロニ人>とは、エルサレム北西のベト・ホロン、あるいはモアブのホロナイム出身の者と思われます。<サンバラト>はユダヤ人と思われます。<トビヤ>はユダヤ人の混血者です。城壁の再建を始め、その高さの半部まで築いたとき、彼らとアラブ人、アンモン人、アシュドドの市民は大いに怒り、皆で共謀してエルサレムに攻め上り、混乱に陥れようと奇襲攻撃を企てました。

<アラブ人>は、アラビア半島のアラビア人たち、<アンモン人>は、ヨルダン川東側一帯に住んでいた人々、<アシュドト>は、イスラエルの西隣のペリシテ地方のアシュドトという大きな町の人々です。 ネヘミヤたちは神に祈り、昼夜彼らから身を守るために警戒しました。敵の奇襲作戦を事前に知ってくいとめ、工事は厳戒態勢の中で行われました。修復工事に携わった人々の居住地域は、およそエルサレム近郊30キロ以内の場所と思われます。将校たちはユダの家全体の背後に控えて守り、城壁を築く者は、一方の手で作業をし、もう一方の手には投げ槍を取り、敵がいつ襲ってきても対応できるようにしていました。城壁内で服を脱がずに夜を過ごしました。

 城壁を再建し、あとは城門に扉を付けるだけということを耳にしたサンバラトとゲシュムは、ネヘミヤの暗殺を企てたり、執拗な脅迫を続けました。城壁は五十二日かかって、エルルの月(8月~9月)の二十五日に完成しました。

5章はネヘミヤがユダヤ人内部での社会的不正(抵当と同胞を売る奴隷の問題)の解消をはかり、民に重荷を負わせることを好まず、十二年間、ネヘミヤと配下の者たちは、長官の給与を一度も受け取らなかったことが記されています。長官は自分自身のために民から合法的に税を取ることができたが、ネヘミヤたちは前任者たちのように民から搾り取ることをしませんでした。ネヘミヤのエルサレム滞在期間は12年間でした。一旦は王のもとに行き、やがて王の許しを得て、B.C,432年、再びエルサレムに帰りました(13:6、7)。

8章には、書記官であり、祭司であるエズラがモーセの律法の朗読し、民が主を礼拝したことが記されています。                                  【エズラ記では、この時より13年前に、祭司エズラがバビロンからユダに帰国して、祖国の復興に取り組んだことになっていますが、ネヘミヤの方が先に帰国し、エズラの帰国は、アルタクセルクセス1世の第7年(エズラ記7:7)ではなく、27年(B.C.438年)とする説があります。また、エズラの帰還と律法の布告は、アルタクセルクセス<2世>の398年のことではないかという説もあります。〔新共同訳『旧約聖書注解』(Ⅱ)の年表613頁、和田幹男]

最後の13章4節から31節までは、エルサレムに再び戻ったネヘミヤの改革(1.神殿に関係する部屋と人。2.安息日の遵守。3.異民族との結婚の禁止。)が記されています。

ネヘミヤの改革はまず祈りから始まりました(1:5-11)。その後も繰り返し祈りの言葉がネヘミヤ記に記されています(3:36-37,5:19,6:14,13:14)。ネヘミヤの改革は祈りなしでは出来ませんでした。ネヘミヤの改革の最後も祈りで締めくくられています。

「私の神よ、祭司職を汚し、祭司とレビ人の契約を汚した者のことを覚えていてください。私はすべての異民族から彼らを清め、祭司とレビ人に守るべき務めを定め、それぞれその任務に就かせました。また定められた時に薪を奉納し、初物を捧げるように定めました。私の神よ、私を御心に留め、お恵みください。」(ネヘミヤ13:29-31)
 ネヘミヤ書を通し、ネヘミヤの信仰と、ネヘミヤが祈りの人であったことを学びたいと思います。ネヘミヤのエルサレむ城壁の再建と復興は、反対勢力の執拗な妨害に阻まれながらも、ネヘミヤの祈りと神の助け、神の恵みによって成し遂げられました。説教題を「祈りと神の助けによる目標実現」としましたが、私たちも、何事にも絶えず祈り、神に助けられ、導かれて、それぞれが与えられた目標実現に向かって進んでいきたいと思います。(私にとっては大きな目標は、現在の単立の<家の教会>から、教団認可となる教会を目指し、教会が存続していくことを願っています。)

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「婚姻による偶像崇拝の罪」(エズラ記)

2014-11-16 21:11:19 | 聖書

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12                                TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本キリスト教 富谷教会 週報

年間標語『主はわたしの羊飼い、わたしには何も欠けることがない。』

聖句「神は神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者ちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ロマ8:28)

 降誕前第七主日     2014年11月16日(日) 時~5時50分

礼   拝    

前 奏           奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)   16(われらの主こそは)

交読詩編     115(わたしたちではなく、主よ)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

聖 書   エズラ記7章1~10節

説 教  「婚姻による偶像崇拝の罪    辺見宗邦牧師

賛美歌(21) 403(聞けよ、愛と真理の)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)     24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

   本日の聖書 エズラ記エズラ記7章1節~10節)

  「これらの事があって後、ペルシアの王アルタクセルクセスの治世に、エズラがバビロンから上って来た。エズラの祖先は、父がセラヤ、祖父がアザルヤ、更にヒルキヤ、シャルム、ツァドク、アヒトブ、アマルヤ、アザルヤ、メラヨト、ゼラフヤ、ウジ、ブキ、アビシュア、ピネハス、エルアザル、そして祭司長アロンとさかのぼる。エズラは、イスラエルの神なる主が授けられたモーセの律法に詳しい書記官であり、その神なる主の御手の加護を受けて、求めるものをすべて王から与えられていた。アルタクセルクセス王の第七年に、イスラエルの人々、祭司、レビ人、詠唱者、門衛、神殿の使用人から成る一団がエルサレムに上り、同王の第七年の第五の月にエルサレムに到着した。彼らは第一の月の一日をバビロン出発の日とし、神の慈しみ深い御手の加護を受けて、第五の月の一日にエルサレムに到着した。エズラは主の律法を研究して実行し、イスラエルに掟と法を教えることに専念した。」

     本日の説教

 エズラ記は、「歴代誌」の続編として書かれた古代ユダヤ民族の歴史を記しています。エズラ記とネヘミヤ記は元来一巻の書物であったものが二巻に分けられたものです。紀元前4世紀末頃の歴代誌家が編集したと考えられています。

エズラ書の<エズラ>という名は、バビロン捕囚からの解放後、エルサレムに派遣された律法の書記官の名です。エズラ書は、律法によってユダヤ民族をまとめなおそうとしたエズラという人物の名に由来しています。エズラの名前は、エズラ書7章に入って初めて出てきます。

 エズラ記1章から6章は、バビロンから解放され、エルサレムに帰還したイスラエルの民が総督ゼルバべルと大祭司の子ヨシアを中心に神殿を再建した出来事を伝えています(前538-515年)。

  エズラ記7章1節の「これらの事があって後」というのは、神殿再建(B.C.515年)の後ということであり、7章以降は、神殿再建から58年を経たB.C.457年にエズラがエルサレムへ帰還したことが記されています。

「ペルシアの王アルタクセルクセスの治世」は、アルタクセルクセス1世(B.C.464~424年)と思われます。エズラの系図はアロンにつながる正統な祭司であることを示しています。アロンはモーセの兄で、イスラエルの最初の大祭司です。エズラはモーセの律法に詳しい書記官であることが言われています。エズラはユダヤ人ですが、ペルシア帝国全体の書記官に任命されているのです。

バビロンを出発した日が、エズラ記8:31によれば<第一の月の一日(ニサンの月)>の十二日です。エルサレムに到着した日は、<第五の月の一日(アブの月)>(7月~8月)です。旅は三か月と十八日(百八日)かかったことになります。

彼は主の律法を研究し、実行し、教えることに専念したと、彼の働きが強調されています。彼が捕囚地でイスラエルの民と宗教の中心的人物となって活動していたのです。エズラは、イエス様の時代の律法学者や、祭司とは違い、律法を教えるだけでなく、自ら律法を実行していた人です。<エズラ>は「主は助ける」あるいは「主が助ける者」の意味があります。

8章には、エズラと共に、バビロンからエルサレムに帰った男子が1500名いることが記されています。家族を含めれば3000人~4000人の大集団の人々になります。そして、旅の始めの祈りと、エルサレムに到着したことが記されています。

「わたしはアハワ川のほとりで断食を呼びかけ、神の前に身をかがめ、わたしたちのため、幼い子らのため、また持ち物のために旅の無事を祈ることにした。わたしは旅の間敵から守ってもらうために、歩兵や騎兵を王に求めることを恥とした。『わたしたちの神を尋ね求める者には、恵み溢れるその御手が差し伸べられ、神を見捨てる者には必ず激しい怒りが下ります』と王に言っていたからである。そのためにわたしたちは断食してわたしたちの神に祈り、祈りは聞き入れられた。(8:21~23)

エズラはアハワ川のほとりで、断食を呼びかけ、旅の無事を祈ります。<アハワ川>はバビロン郊外の灌漑用の運河です。バビロンからエルサレムに向かう当時の旅は今と比べ物にならない程、大変であり危険なことでした。三か月半以上もかかる長旅です。ここで断食と祈願がなされます。これは霊的な旅の準備でもあります。断食は、ここでは旅の危険から神の保護を求めるためでした。王からの護衛を拒否したのは「神の手」の守護があるという信仰心によるものでした。エズラは人間の護衛よりも、神の加護があることを固く信じていたのです。

<アハワ川>からエルサレムに向かって一行は出発しました。「道中待ち伏せる敵の攻撃も、神の御手に守られて、免れることができた」(8:31)と記しています。捕らわれの地から帰って来た捕囚の子らは、イスラエルの神に焼き尽くす献げ物をささげました。

約四か月後、エズラは、長たちからユダの人々が異教徒との結婚によってひき起された偶像礼拝の罪を聞きました。

「イスラエルの民も、祭司も、レビ人も、この地の住民から離れようとはしません。カナン人、ヘト人、ペリジ人、エブス人、アンモン人、モアブ人、エジプト人、アモリ人と同様に行うその住民の忌まわしい行いに従って、彼らは、自分のためにも息子たちのためにもこの地の住民の娘を嫁にし、聖なる種族はこの地の住民と混じり合うようになりました。しかも、長たる者、官職にある者がこの悪事にまず手を染めたのです。」(9:1~2)

このことを聞いたエズラは、「衣とマントを裂き、髪の毛とひげをむしり、ぼう然として」座り込みました。 夕べの献げ物のときになって、かがめていた身を起こし、裂けた衣とマントをつけたままひざまずき、主に向かって手を広げ、 祈り始めた。

「わが神よ、御前に恥じ入るあまり、わたしは顔を上げることができません。わたしたちの罪悪は積み重なって身の丈を越え、罪科は大きく天にまで達しています。先祖の時代から今日まで、わたしたちは大きな罪科の中にあります。その罪悪のために、わたしたちは王も祭司もこの地の王の支配下に置かれ、剣にかけられ、捕らわれ人となり、略奪され、辱められてきました。今日、御覧のとおりです。」……「まことに、わたしたちは奴隷にされています。しかし、わたしたちの神はわたしたちを奴隷のまま捨て去ることなく、ペルシアの諸王がわたしたちに対して好意を抱くようにし、生きる力を与えてくださいました。こうして、ユダとエルサレムでわたしたちの神の神殿を再建し、廃虚を復興し、城壁を得るようにしてくださいました。わたしたちの神よ、こうした御恩をいただきながら、今何を申し上げればよいのでしょうか。わたしたちは御命令に背いてしまったのです。御命令は、あなたの僕、預言者たちによってこう伝えられました。『これから入って所有する地は、その地の住民の汚れによって汚された地である。そこは、その端から端まで彼らの忌まわしい行いによって汚れに満たされている。それゆえ、あなたたちの娘を彼らの息子に嫁がせたり、彼らの娘をあなたたちの息子の嫁にしたりしてはならない。あなたたちが強くなり、この地の良い実を食べ、それを永久に子孫の所有とすることを望むならば、彼らと同盟を結ぼうとしてはならない。また、それによる繁栄を決して求めてはならない』と。」(9:6~7、10~12)

異民族との結婚は、古代イスラエルでは必ずしも禁じられたことではありませんでした。しかし一般的な慣習ではありませんでした。外国人との結婚によって異教の神々に仕える危険性はしばしば警告されていました。異民族との結婚はイスラエルの宗教の純粋性を損なう危険があるとして、申命記では強い調子で禁じています。

 カナンを青の線で示しています。カナン先住民は、北から<ギルガシ人><カナン人><ぺリジ人><エブス(イエブス)人><アモリ人><へト(ヘテ)人>,そして<ヒビ人>の七民族。<ヒビ人>はシケム周辺に居住。カナン周辺諸国の民族がアンモン人(ヨルダン川の東地域)、モアブ人(死海の東地域)、エジプト人です。                カナンの先住民族の宗教はバアル神が祭られ、礼拝の終わりには宗教的売春行為があった事が指摘されてます。人間を生贄に捧げる風習もありました。               

「あなたが行って所有する土地に、あなたの神、主があなたを導き入れ、多くの民、すなわちあなたにまさる数と力を持つ七つの民、ヘト人、ギルガシ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人をあなたの前から追い払い・・・彼らを必ず滅ぼし尽くさねばならない。彼らと協定を結んではならず、彼らを憐れんではならない。彼らと縁組みをし、あなたの娘をその息子に嫁がせたり、娘をあなたの息子の嫁に迎えたりしてはならない。あなたの息子を引き離して私に背かせ、彼らはついに他の神々に仕えるようになり、主の怒りがあなたたちに対して燃え、主はあなたを速やかに滅ぼされるからである」。(申命記7:1-4)

バビロンで申命記を含む律法を学び、それをエルサレムに布告するために帰国したエズラにとって、雑婚は神の前に恥ずべき罪でした。イスラエルは聖別された民とされ、他民族との結婚を禁じられていました。それは他民族との婚姻を通じて偶像崇拝等の悪習が入り込むことを防止するためでした。この律法の順守こそユダヤ民族を生き残らせた力でした。割礼も異民族ヘの同化を防ぐために捕囚時代に普及した習慣でした。だからエズラは神の前に悔い改めてひれ伏したのです。彼は宗教の純粋性を守るために、種族の純血主義を唱えたのです。

「エズラは神殿の前で祈り、涙ながらに罪を告白し、身を伏せていた。イスラエル人が彼のもとに集まり、男、女、子供から成る非常に大きな会衆ができた。この人々も激しく泣いていた。エラムの一族のエヒエルの子シェカンヤはエズラに言った『私たちは神に背き、この地の民の中から、異民族の嫁を迎え入れました。しかしながら、今でもイスラエルには希望があります。今、私の主の勧めと、神の御命令を畏れ敬う方々の勧めに従って私たちは神と契約を結び、その嫁と嫁の産んだ子をすべて離縁いたします。律法に従って行われますように・・・あなたにはなすべきことがあります。協力いたしますから、断固として行動してください。』」。(10:1~4)
 祭司エズラは立ち上がり、彼らに言った。「あなたたちは神に背いた。異民族の嫁を迎え入れて、イスラエルに新たな罪科を加えた。今、先祖の神なる主の前で罪を告白し、主の御旨を行い、この地の民からも、異民族の嫁からも離れなさい。」会衆はこぞって大声で答えた。「必ずお言葉どおりにいたします。」

捕囚期、および帰還後の国家形成期においては、同族婚により民族維持を願うのはやむを得なかったのかも知れません。特に、マラキやエズラの時代、社会的経済的な利得のために、土地の異邦の娘たちと結婚する者が多かったことが背景にあります。しかし、この姿勢がやがて異邦人蔑視、排斥へとつながっていくのです。イエスの時代、当時のユダヤ人が汚れているとして交わりを禁じていたサマリア人に対して、イエスはその差別を取り払う開放的な姿勢を示しました。

聖書の神は全ての民族の神であり、他民族の娘との結婚を否定していません。イエス・キリストの系図に出ているラハブはカナン人であり、ルツはモアブ人の女性です。

聖書は偶像礼拝を禁じます。<偶像>とは真の神ではない、人間の「手で造られた神」です。偶像を拝むのは、私たちの中にあるさまざまな欲望や、自分の誇りや名誉を満足させようとする思いがあるからです。<自然な欲望>は、困難な人生を生きる力として、神が与えるものです。しかし<貪欲>は飽くことを知らないむさぼりです。<貪欲>に取り憑かれた人は、貪欲の奴隷になります。<貪欲>の対象となる一般的なものは<富>です。<富>こそが自分の人生の安全を保証してくれると信じるので、安心のために<富>にすがろうとするのです。パウロは、「地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない(コロサイ3:5)」と言っています。「悪い欲望」に生きていること自体が偶像礼拝なのです。この「悪い欲望」、罪の力から解放され、自由にされるには、主イエスによりたのみ、聖霊の力によって強くされなければなりません。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、罪の支配する闇の力、悪の霊に対する戦いなのです(エフェス6:12)。

 

 

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 「義の太陽は昇る」 (マラキ書)

2014-11-09 16:13:12 | 聖書

        ↑<義の太陽>のイメージに使われたオリエントで礼拝された太陽神。は光線を翼のように広げた円盤によって表され、その翼の先には手がついており、その手が礼拝者に命と保護を与えました。

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本キリスト教 富谷教会 週報

降誕前第八主日      2014年11月9日(日)   5時~5時50分                     礼   拝                                                                                   前 奏                  奏楽 辺見トモ子姉                                          讃美歌(21)  214(わが魂(たま)のひかり)                                             交読詩編       63(神よ、あなたはわたしの神)                                            主の祈り    93-5、A                                                        使徒信条    93-4、A                                                         聖 書   マラキ書3章19~24節                                                        説 教   「義の太陽は昇る      辺見宗邦牧師                                             賛美歌(21) 410(昇れよ、義の太陽)                                                献 金                                                             感謝祈祷                                                                     頌 栄(21)     24(たたえよ、主の民)                                                 祝 祷                                                                 後 奏

                         次週礼拝 11月16日(日)夕礼拝 午後5時~5時50分                                                       

               説教題  「エズラの祈り」 

                           聖 書  エズラ記 9章6節~15節

                           交読詩篇 115 讃美歌(21) 16、403、24

本日の聖書 マラキ書3章19~24節

 19:見よ、その日が来る。炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は、すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。
20:しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように、躍り出て跳び回る。
21:わたしが備えているその日に、あなたたちは神に逆らう者を踏みつける。彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる。
22:わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため、ホレブで掟と定めを命じておいた。
23:見よ、わたしは、大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
24:彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって、この地を撃つことがないように。

本日の説教

 マラキ書1章1節には次の様な表題が書かれています。

「託宣。マラキによってイスラエルに臨んだ主の言葉。」

マラキ[ヘブライ語では、マルアーキー]>は「私の使者」を意味する言葉です。マラキ書3章1節の、<見よ、わたしは使者マルアーキー]を送る>から、この書の呼び名を<マラキ[マルアーキー]>と呼んだようです。

「マラキ書」は、神の託宣を受けて、神の使者となった無名の預言者の書と思われています。しかし、便宜上、この人物を預言者マラキと呼ぶことにしましょう。

 マラキが神殿祭儀について多く語っており、神殿再建(紀元前515年)はすでに過去のこととされているので、マラキは捕囚前や捕囚中の預言者でないことは明らかです。マラキが指摘する祭儀の乱れは、エズラによる宗教改革(紀元前458年)以前の状態を反映しているので、マラキはそれ以前に活動していると考えられ、紀元前465年頃に活動したと推定されます。

 マラキ書の背景についてお話しいたします。バビロン捕囚が終わり、強制移住させられ、59~48年間も捕らわれていたユダヤ人は、バビロンを倒したペルシアの王によって解放され、エルサレムへ帰ることが許されました。彼らは、預言者ハガイやゼカリヤ(520~518)に励まされ、18年も中断状態になっていたエルサレム神殿を5年後に再建しました。預言者ハガイやゼカリヤは、神殿再建のあかつきには、イスラエルは栄光に満ち、土地も豊かな恵みをもたらすと約束しました。ハガイやゼカリヤより35年後のマラキの時代になっても、そのしるしは現れないばかりか、相変わらずペルシヤの支配に甘んじなければなりませんでした。そのような中で、神殿再建が民にもたらした熱狂的な興奮はすでにさめ、やり場のない失望だけが民の間に広がっていました。マラキ書は、このような時代に、イスラエルの民が神の愛、恵みに気づき主への恐れと感動を再び思い起こし、祭司や民の心を再び神ヘ立ち帰らせようとしたのです。

 マラキ書は、1章1節の表題の後、六つの託宣が語られます。六つの論争が、師がその弟子を教えるように問答形式を用いてじゅんじゅんと説いています。

1.イスラエルを選ぶ神の愛とその証拠(1:2~5)

わたしはあなたたちを愛してきたと、主は言われる。しかし、あなたたちは言う。どのように愛を示してくださったのか、と。(1:2)

  始めに神は民を<愛してきた>と主張するが、民は愛されていないと抗議します。これに対してマラキは神の誠実さを思い起こさせるために、族長時代のエサウとヤコブから始めて、エドムとイスラエルの将来までの歴史を振り返り、神への信仰を告白するように招きます。主は言われます、「エドムを見よ、彼らは国を滅ぼされ、放浪している。しかし、あなたがたは故郷エルサレムに住むことを許されているではないか」と。

あなたたちは、自分の目で見はっきりと言うべきである。主はイスラエルの境を越えて大いなる方である、と。」(1:5)

2.祭儀における無礼な態度(1:6~2:9) 

わたしの名を軽んずる祭司たちよ。あなたたちは言う。

我々はどのようにして御名を軽んじましたか、と。(1:6)

 父親と息子との間や、主人と奴隷との間に見られる関係から出発し、神は父として尊敬され、主人として畏敬されてしかるべきなのに、祭司はそれが欠けていると指摘します。祭儀のために不適当と見做される「汚れている」いけにえを祭司が差出ているからです。

 祭司の唇は知識を守り、人々は彼の口から教えを求める。彼こそ万軍の主の使者である。だが、あなたたちは道を踏みはずし、教えによって多くの人をつまずかせ、レビとの契約を破棄してしまったと、万軍の主は言われる。(2:7,8)

 最初、神がレビ族の祭司たちに礼拝することを教えた時、それはまさに生命と平安の契約でした。それは単に安息日毎の礼拝だけではなく、その生活全体が神を恐れ、神をあがめるものとなるようにという意図をもっていました。けれども、マラキの時代の祭司たちは人々を正しく教え導くのではなく、かえって、つまずかせ、神との約束を破るようにと教えていたのです。祭司の役割はいけにえではなく、教えることにある。こうして祭司は神と<共に歩み>、多くの人を罪から立ち帰らせる。だが現実の祭司は<道を踏みはずし>、<教えによって多くの人をつまずかせ>ている。こうして自分の方から契約を破棄している。

 3.若いときの妻に対する背信(2:10~16)

 あなたの若いときの妻を裏切ってはならない。わたしは離婚を憎むと、イスラエルの神、主は言われる」(2:15,16)

 捕囚から帰国した民は自分たちの土地が異邦人に占拠されているのを見て(捕囚から帰還した時、もう65年から76年も経っていた)、土地を取り戻す一つの方法として異邦人支配者たちとの婚姻関係を求め、ユダヤ人の妻を離別し、土地の娘たちと結婚する者が多かったことが背景にあります。民のある者たちが異教の女性たちと結婚し、その妻たちの信じる異教の神への偶像に心を傾けることによって、主への契約を破っている。また、長年連れ添った妻を離縁する理由が、社会的経済的な有利さを求めて異邦人女性と結婚することにあるなら、神が受け入れるはずがない、と言っています。マラキの時代は、夫が、自らお個人的利益のために妻を捨てているのです。妻を去らせる者は不法を外套のように羽織っていると告発します。

 4.神の支配を疑う者に対する審判の日の到来 (2:17~3:5)

 あなたたちは、自分の語る言葉によって、主を疲れさせている。それなのに、あなたたちは言う。どのように疲れさせたのですか、と。あなたたちが悪を行う者はすべて、主の目に良しとされるとか、主は彼らを喜ばれるとか、裁きの神はどこにおられるのか、などと、言うことによってである。(2:17)

 民は神を煩わせ、疲れさせている。原因は<裁きの神はどこにおられるのか>と民がつぶやくことによってである。民がこのようにつぶやくのは、悪人が栄え、神に従う者が苦しむ現実を見ているからです。

 3章1節から神の答えが始まります。

「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者。見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。」(3:1)

 神の到来に先立って派遣され、神のために<道を備える>。彼の来る日は耐えがたい日になります。その目的は清めることです。先ず祭司たち(レビの子ら)、そして次のような民です。

「裁きのために、わたしはあなたたちに近づき、直ちに告発する。呪術を行う者、姦淫する者、偽って誓う者、雇い人の賃金を不正に奪う者、寡婦、孤児、寄留者を苦しめる者、わたしを畏れぬ者らを、と万軍の主は言われる。」(3:5)礼拝は形だけのものとなり呪術を行う者や、結婚の神聖さは破られ、寡婦や孤児、寄留者に対する配慮は失われ、賃金はごまかされていました。

 5.宗教的な義務を怠る者への悔い改めの勧告 (3:6~12)

「あなたたちは先祖の時代から、わたしの掟を離れ、それを守らなかった。立ち帰れ、わたしに。そうすれば、わたしもあなたたちに立ち帰ると、万軍の主は言われる。しかし、あなたたちは言う。どのように立ち帰ればよいのか、と。人は神を偽りうるか。あなたたちはわたしを偽っていながら、どのようにあなたを偽っていますか、と言う。それは、十分の一の献げ物と献納物においてである。」(3:6~8)

 神が罪を赦し、神の支配を現実のものとするためには、民が自分の罪を自覚する必要があります。しかし、罪の自覚を欠いている民は無邪気に<どのように立ち帰ればよいのか>と反問します。そこで神は罪の一例として十分の一の献げ物を取り上げます。<十分の一の献げ物>は、神を土地の与え手と認め、土地からの収穫物の十分の一を神殿に差し出すことです。マラキの時代、やはり十一献金がおろそかにされる中で、単にそれを規則としてと言うことではなく、神の恵みに対する応答として、またさらに豊かな祝福への道としてこのことが提示されています。真心のこもった献げ物を聖所にささげるなら、神は<天の窓>を開いて雨を<注ぎ>、干ばつを終わらせる。また、いなごの活動も終わらせ、実りを妨げていた原因を排除する、と伝えます。

 6.正しい者と神に逆らう者が明らかになる審判の日が近づきつつあること(3:13~21)

 「あなたたちは、わたしにひどい言葉を語っている、と主は言われる。ところが、あなたたちは言う。どんなことをあなたに言いましたか、と。あなたたちは言っている。『神に仕えることはむなしい。たとえ、その戒めを守っても、万軍の主の御前を、喪に服している人のように歩いても、何の益があろうか。むしろ、我々は高慢な者を幸いと呼ぼう。彼らは悪事を行っても栄え、神を試みても罰を免れているからだ。」(3:13~15)

 神殿は完成したが、国の独立は起こらず、飢饉やいなごの害で収穫は少なく、人々は神の愛を疑い始め、「主は本当におられるのか。私たちのことを気にしておられるのか」と問い始めていた。神に向けた民のつぶやきに対し、神は告発します。民は<どんなことをあなたに言いましたか>と反論します。神に仕えることによって密かに求めていたものは利己的な栄華なのでしょう。神に仕えても、それが得られないので、<むなしい>とつぶやきます。

 <主を畏れ敬う者>と<高慢な者>がいます。<高慢な者>は神の教えに目を留めず、その約束を信じようとはしない人のことです。神は彼を畏れ敬うものがつぶやくことがあても、彼を選んで自分のものとし、特別な宝とします。神がそうするのは彼らを憐れむからです。

 「見よ、その日が来る。炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は、すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように、躍り出て跳び回る。わたしが備えているその日に、あなたたちは神に逆らう者を踏みつける。彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる。」(3:19~21)

  神が備えた日に、正しい人と悪人とははっきり区別されます。悪人は完全に焼き尽くされる運命が描かれます。正しい人の上には、救いの勝利の<義の太陽>が昇ります。オリエントで礼拝された太陽神は、光線を翼のように広げた円盤によって表され、その翼の先には手がついており、その手が礼拝者に命と保護を与えました。ここではそのイメ-ジが借用されています。<翼>はこの光線のことであり、それによって神を畏れ敬う者はいやしを受けます。「義の太陽」とは救い主メシヤのことです。その方は闇のような時代にあって。私たちを癒し、力づけ、喜びで満たしてくださいます。高慢で悪事を行う者をじっと耐え忍んでいた正しい者は、牛舎に閉じ込められていた子牛のように、解放を喜びます。21節では神に逆らう者に対する、正しい者の勝利が語られます。

3章22節から24節は結びです。

わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため、ホレブで掟と定めを命じておいた。見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって、この地を撃つことがないように。(3:22~24)

<モ―セの教えを思い起こせ>とは、律法の規定だけでなく、モーセ五書に記された出来事をも指しています。編集者が、これらの言葉を21節の後に置いたのは、「主の日」の到来を待ち望む信仰のあり方を示すためです。かつて主がなされた救いの御業を思い起こし、来るべき主の日になされる救いの確かさを確信すること、その教えの御言葉に堅く立つ信仰こそが今求められている、というメッセージを伝えるためです。

3章1節では名指しされなかった使者が、ここでは<預言者エリヤ>とされています。彼は天に上った人物なので、神が遣わす使者に最もふさわしいからです。新約聖書では<洗礼のヨハネ>がエリヤの再来とされています。「あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。」(マタイ11:14)再来するエリヤの役割は父と子に和解をもたらすことです。ヘレニズム時代に、ヘレニズム文化を受容した若い世代と伝統的な価値観にとどまろうとする老人との間に深い溝を作り出しました。この溝は家庭の危機にとどまらず、共同体の基盤そのもを脅かしました。この世代間の深刻な亀裂と不和が、エリヤによって終わることを告げ、希望と慰めを語ったのです。

マラキ書は旧約聖書の最後の預言書です。預言者マラキは、「イスラエルを愛し」(1:2)、しかも「イスラエルの境を越えて大いなる方」(1:5)である神を民に語りました。根本的な課題は、祭司の堕落、神殿の軽視、さらに家庭における個人的な罪の問題でした。このように、イスラエルの罪を告発しつつ(3:5)、真に救いをもたらす方の来臨を待望(3:23)したのです。<神は本当に我々を愛しておられるのか?>。この疑問への答えが、裁きの日でもあると同時に<義の太陽が昇る>時でもあります。<義の太陽>こそ、我々を救うためにこの世に来られたイエス・キリストであり、再臨されるキリストです。キリスト者の生涯のすばらしさは、この終末に支えられ、生かされているからです。<我々皆>の唯一の父、<我々を創造された>唯一の父なる神、御子キリストと聖霊なる神が、国境を越えて信じられ、崇められる日を待ち望みたいと思います。

 

 

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