富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「主の来臨の希望」イザヤ書52章1~10節

2023-11-28 20:56:31 | キリスト教

    ↑ 「第二イザヤ書:神の大いなる日の先駆者」ウェスレー博物館、ロンドン           (第二イザヤが巻物を膝にのせている。)英国人フランク・O・ソールズベリー(1874-1962)による油彩画、1930年頃の作品

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380・       FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

降誕節第一主日(アドベント)2023年12月3日(日)   午後2時~2時50分

                   司会 邉見 順子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  17(聖なる主の美しさと)

交読詩編    47(すべての民よ、手を打ち鳴らせ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)イザヤ書52章1~10節(旧p.1148)

説教題      「主の来臨の希望」  辺見宗邦牧師

祈 祷                                           

讃美歌(21) 231(久しく待ちにし)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                                           〇オン・ラインで礼拝に参加できます。

                                       090-3365-3019(ヘンミ)まで連絡下さい。

                           次週礼拝  12月10日(日)午後2時~2時50分    

                            聖 書   列王記上22章1~17節

                            説教題  「旧約における神の言(ことば)」

                            讃美歌(21) 268 236 27 交読詩篇 47

   本日の聖書 イザヤ書52章1~10節

 1奮い立て、奮い立て、力をまとえ、シオンよ。輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ。無割礼の汚れた者が、あなたの中に攻め込むことは再び起こらない。2立ち上がって塵を払え、捕らわれのエルサレム。首の縄目を解け、捕らわれの娘シオンよ。3主はこう言われる。「ただ同然で売られたあなたたちは、銀によらずに買い戻される」と。

 4主なる神はこう言われる。初め、わたしの民はエジプトに下り、そこに宿った。また、アッシリア人は故なくこの民を搾取した。5そして今、ここで起こっていることは何か、と主は言われる。わたしの民はただ同然で奪い去られ、支配者たちはわめき、わたしの名は常に、そして絶え間なく侮られている、と主は言われる。6それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るであろう。それゆえその日には、わたしが神であることを、「見よ、ここにいる」と言う者であることを知るようになる。

 7いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、と、シオンに向かって呼ばわる。8その声に、あなたの見張りは声をあげ、皆共に、喜び歌う。彼らは目の当たりに見る、主がシオンに帰られるのを。 9歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。10主は聖なる御腕の力を、国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人が、わたしたちの神の救いを仰ぐ。

   本日の説教

   イザヤ書は66章までありますが、歴史的背景や思想などの違いから、一人の預言者の書ではなく、三人の預言者の書とされています。1章から39章までは、預言者イザヤの書、40章から55章までは、無名の預言者なので、第二イザヤの書、56章から66章までは、第三イザヤの書として区別しています。今日の聖書の箇所52章は、第二イザヤの書になります。

   最初のイザヤは、紀元前8世紀後半、南ユダ王国の首都エルサレムで活動した預言者です。第二イザヤは、イザヤから200年後、イスラエルの民がバビロンに捕らわれていた捕囚の末期から、捕囚解放、そして祖国のエルサレムに帰るまでの、紀元前6世紀中頃に活動した預言者です。

   第三イザヤは、第二イザヤの弟子であったと考えられ、ユダヤ人の祖国帰還と第二神殿再建(B.C.515年)直後まで、パレスチナで活動した預言者です。

   イザヤ書全体を通して共通しているのは、神を聖なる神としてとらえ、ヤハウェのことを「イスラエルの聖なる方(神)」と呼んでいることです。また、広い世界的視野の観点から神の言葉を語っていることです。  

 聖書時代年表(第一イザヤから、第三イザヤまで)

イザヤ預言者) 739~700活動 サマリア陥落 

            北イスラエル王国滅亡721

       ユダ王国アッシリヤの属領となる701  

エレミヤ(預言者) 召命627~586頃 

        バビロニヤ時代626~539 

        エルサレム陥落597 ユダ王国滅亡586

  第一回捕囚597、第二回捕囚586、第三回捕囚583

    バビロン捕囚期597~538(59年間~48年間)   

第二イザヤ(イザヤ書40~55)546~538 

   ペルシャ時代539~332  バビロンを征服539

 捕囚民第一回(第一陣)帰還538、(第二陣)帰還522

第三イザヤ(イザヤ書56~66)539~441 

  ユダヤ人の祖国帰還と第二神建完成(B.C.515年)直後まで、

 パレスチナで活動した預言者です。】

 イスラエルの民がバビロンへ捕らえ移されたのは、バビロニア帝国の攻撃によって、エルサレムが前597年に陥落し、イスラエルの南ユダ王国が、紀元前586年に滅亡したからです。王や住民の重立った者たちが、三度にわたって、バビロニア帝国の首都バビロンへ捕え移されました。これがバビロン捕囚です。

     第一回目の捕囚の時から58年後の紀元前539年、ぺルシア王、キュロスがバビロンを攻撃し、占領しました。翌年に、「キュロスの勅令」の発布により(エズラ記1:2-4参照)、捕囚の民はエルサレムへ帰還することが許されました。

   バビロン捕囚は、度重なる預言者の悔い改めの勧告にも耳を傾けず、神への背信の罪を繰り返すユダ王国の民に対して下された神の審判でした。神と契約を結んだ、選ばれた民でありながら、国を失い、異教の地で半世紀近くもユダの民は苦難をなめました。彼らの苦しみは、単に政治的な屈辱や絶望、あるいは経済的な貧困や不安だけではなく、主なる神・ヤハウェが異教の神に負けてしまったのではないのかという失望や、自分達は神に見捨てられたのではないのかという疑惑がつのり、神に選ばれた民としての意識は失われ、将来への希望を失いかけたことでした。イスラエル人の荒れはてた心の苦しみを、第二イザヤは捕囚民の中で、自分もその苦しみを深く味わいながら、唯一の神が共にいてくださること、主なる神は必ずイスラエルをあがないたもうことを力強く語り、希望と平安をもって生きることをすすめました。

    第二イザヤは、おそらく捕囚の地で生まれた第二世代の人であり、祭儀と深く関係していた人物と推測されます。預言者として活動したのは、捕囚時代の末期です。紀元前546年から538年にかけて、8年間活動しました。

    今日の聖書の箇所52章には、「主は王となられる」という小見出しが記されています。<主>とは、全能の神のことです。

 「奮い立て、奮い立て、力をまとえ、シオンよ。輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ。無割礼の汚れた者が、あなたの中に攻め込むことは再び起こらない。立ち上がって塵を払え、捕らわれのエルサレム。首の縄目を解け、捕らわれの娘シオンよ。主はこう言われる。『ただ同然で売られたあなたたちは、銀によらずに買い戻される』と。」(52:1~3)

   <シオン>とは、イスラエルのエルサレム地方の歴史的な地名です。転じて、イスラエル全体を指しています。ここではシオンは<娘>として登場します。

   <無割礼の汚れた者>とは、ここではアッシリヤやバビロニアの異邦人を指していています。娘シオンに<立ち上がって塵を払え>と、汚された娘シオンを神が励ますのです。<銀によらずに買い戻される>とはただ同然で売られたあなたたちを、神は代償金を払うことなしに買い戻し、あなたがたを救うということです。

  「主なる神はこう言われる。初め、わたしの民はエジプトに下り、そこに宿った。また、アッシリア人は故なくこの民を搾取した。そして今、ここで起こっていることは何か、と主は言われる。わたしの民はただ同然で奪い去られ、支配者たちはわめき、わたしの名は常に、そして絶え間なく侮られている、と主は言われる。それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るであろう。それゆえその日には、わたしが神であることを、『見よ、ここにいる』と言う者であることを知るようになる。」(52:4~6)

   <初め、わたしの民はエジプトに下り(紀元前1650年)、そこに宿った。>とは、イスラエルの民がエジプトに420年間ほど移住して寄留していたことを指しています。エジプトでの寄留、アッシリアによる搾取(これは、紀元前721年、イスラエル北王国がアッシリア帝国によって滅ぼされ、民が奪われ、暴虐が行われたことを指しています。)を回顧した後、(それから135年後にユダ王国が破滅しました。)バビロン捕囚期のシオンを思い致します。そこでは異教の国の支配者たちがわめき、吠え、主なる神は蹂躙された。そのことに主は耐え得ない。それゆえにシオンへの救いを現す。<見よ、ここにいる>と語る主が、自らその存在を表明します。

  「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、と、シオンに向かって呼ばわる。その声に、あなたの見張りは声をあげ、皆共に、喜び歌う。彼らは目の当たりに見る、主がシオンに帰られのを。歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。主は聖なる御腕の力を、国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人が、わたしたちの神の救いを仰ぐ。」(52:7~10)

   預言者はここでは<良い知らせ>を伝える福音伝達者とされています。良い知らせ、福音とは<平和>と<救い>を告げる≪恵みの良い知らせ≫であり、信仰はこれを聞くことによって始まります。彼はシオンに向かって「あなたの神は王となられた」と叫びます。預言者は主の帰還を賛美し、その栄光を歌います。これは主なる神の即位を意味し、今より後主の永遠の王国が建設されることを言います。そのような福音を伝える者の足は<なんと美しいことか>という感動で始まります。主はすでに王者としてエルサレムに来たりつつあるので、オリブ山に上った先ぶれの伝令が、王なる神の到着を伝えます。預言者は一足先に帰って、行列をシオンの城門で出迎える見張り人の役に代わります。<見張り>は、向かいのオリーブ山に現れた伝令の叫びを聞き、歓声を上げます。彼の歓声にエルサレムの民は和して<喜び歌う>のです。そして実際に彼らは主(神)の帰られるのを<目の当たりに見る>のです。これは、捕囚民がエルサレム神殿の祭儀に用いる<主の祭具を担>ってエルサレムに戻って来ることを象徴しているのでしょう。

   何のために神は王としてエルサレムに帰り来るのか、それは、主が<その民を慰め>、この都を<贖う>ためです。それゆえ<エルサレムの廃墟>も<歓声を上げ、共に喜び歌う>べきです。<主はその民を慰め、エルサレムを贖われた>、<主は聖なる御腕の力を、国々の民の目にあらわされ>た。過去形に訳されていますが、これは「預言的完了形」と呼ばれるもので、未来のことを必ず実現すべきものと確信していい表す、ヘブライ語の特徴ある表現です。<御腕>とは、神の力と支配の象徴です。それゆえ、<地の果て>までが主の救いを見るのです。

    現代においても、戦禍のために国外に逃れ、いつ祖国に平和がくるのか、祖国に帰れる日はいつ来るだろうか、という思いで苦難の日々を過ごしている民は大勢います。特にロシヤによるウクライナ侵攻、シリア・アラブ共和国の内乱、ガザ地区へのイスラエルの攻撃は、現在も深刻化し、多く避難民となっている現状です。日本でも、大津波の被害や原発の放射能汚染で荒廃した故郷に戻ることができない人々が、今日も大勢います。

   主イエスは、ナザレの会堂で、預言者イザヤの巻物が渡されたとき、「主(父なる神)がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人々に解放を…告げ、主の恵みを告げるためである(イザヤ書51章18-19節)」と言われ、「この聖書のことばは、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話されました(ルカ4・16~21)。

   <今日、・・・実現した>とは、 神の国はここに来ている、ということです。今は神の恵みの時である。神の約束が成就され、神の目的が実現する終末の時が、来たのだ。貧しい者や不当な扱いを受けていた者、抑圧されていた者のための変化が、今日現れるのだと、主イエスは宣言したのです。

   主イエスは、罪と死に捕らわれているわたしたちを開放し、救うためにこの世に来られた神の独り子です。わたしたちを罪と死の支配から解放し、わたしたちに聖霊を与えて神との交わりを回復してくださり、永遠の命に生きる道を開いてくださいました。この神の愛を受けて生きるとき、人々も互に兄弟姉妹として愛し合う関係が生まれます。そこにこそ真の平和の道が開かれるのです。

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「ユダ王国の回復の預言」エレミヤ書23章1~6節

2023-11-20 21:47:48 | キリスト教

 ↑ エレミヤ 涙の預言者「わたし(主)は、あなたを、鉄の柱青銅の城壁とする(エレミヤ1:18)」

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

降誕前第5主日(収穫感謝日)2023年11月26日(日)  午後5時~5時50分

                        礼 拝 順 序                  

                 司会 邉見 順子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)    17(聖なる主の美しさと)

交読詩編         17(主よ、正しい訴えを聞き)

主の祈り   93-5

使徒信条   93-4

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)   エレミヤ書23章1~6節 (旧p.1218)

説教題    「ユダ王国の回復の預言」 辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 214(わが魂のひかり)

献 金  

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父、子、聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オン・ラインで礼拝に参加できます。 090-3365-3019に

 連絡下さい。

お知らせ 次週12月3日(日)から礼拝時刻は、午後2時~2時50分    になります。

         次週礼拝 12 月3日(日)  午後2時~2時50分

         聖 書  イザヤ書52章1~10節

         説教題  「主の来臨の希望」

         讃美歌(21) 17 231  27 詩編 47:1~17  

 本日の聖書  エレミヤ書23章1~6節

 1「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と主は言われる。 2それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。

  「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」と主は言われる。

   3「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。4 彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる。

 5 見よ、このような日が来る、と主は言われる。

    わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。

  王は治め、栄え
  この国に正義と恵みの業を行う。 

 6 彼の代にユダは救われ
  イスラエルは安らかに住む。

  彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。

   本日の説教

 先週は「モーセの誕生とエジプト脱出」という題の説教でした。モーセは紀元前1280頃の人物です。今日はエレミヤの預言について学びます。

    エレミヤは紀元前650年頃に生まれたとされている、イスラエルのユダ王国で活躍した預言者です。モーセからエレミヤの時代までの間には、およそ630年の時が過ぎています。その間、次のような時代が経過しました。

 40年間の出エジプト時代、50年間のカナン進入時代、180年間の士師時代、サウル王、ダビデ王、ソロモン王と98年続いた統一王国時代、そして統一王国は、紀元前922年に、北と南の二つに分裂しました。 

 北のイスラエル王国は198年続きましたが、アッシリア帝国に攻められ、紀元前721年に滅亡しました。南のユダ王国はアッシリアの属国として存続しました。

 エレミヤが生まれたのは、バビロニア帝国が世界制覇を成し遂げたバビロニア時代(前626~539年)です。エレミヤが53歳頃の紀元前597年に、エルサレムは陥落し、ヨヤキン王は重要人物らと共に、バビロンに連行されました。

 エルサレムではゼデキヤが王として任命されたのですが、バビロニヤに反逆したので、エルサレムは包囲され、陥落し、336続いたユダ王国は、紀元前586年に滅亡しました。エレミヤの最晩年64歳の頃です。王とその家族、側近たちは処刑され、民はバビロンへ連行されました。この時代は、イスラエルの長い歴史の中で、最も激しく危険な、悲劇的な時代だったのです。

 エレミヤの出身地はエルサレムの北東4.5キロの地点にあるベニヤミン族に属するアナトテです。アナトテはレビ人の町の一つです。ベニヤミン族は、北イスラエル王国に属する部族でしたが、エルサレムに近かったのでアッシリアの占領を免れました。

 北王国の滅亡期の預言者はホセアや、イザヤですが、南王国の滅亡期の預言者はエレミヤです。エレミヤが預言者として召されたのはヨシヤ王の時代の治世13年(紀元前627年)、彼が22、3歳の頃です。

 【 <時代年表は紀元前

  1 モーセ 1280頃、40年間の出エジプト時代

   50年間のカナン進入時代

   180年間の士師時代

  2 サウロ王  98年間の統一王国時代(1020~922)

  3 ダビデ王           

  4 ソロモン王           

  王国分裂時代 

   北のイスラエル王国(922~721、198年続く) 

    アッシリア帝国に滅ぼされる。

   南王国ユダ(922~586)、336年続く)

    バビロニヤ帝国に滅ぼされる。

 5 エレミヤ(650頃~586年)バビロニヤ時代(626~539)】

 エレミヤの預言活動は、バビロニアの占領に抵抗したグループによって、エジプトへ連行されるまで(紀元前585年頃)、およそ42年間続きました。

 エレミヤは召命体験を、彼が46歳の頃に、弟子バルクに命じて記述させ、これをユダのすべての人に語らせました(36:1~10)。召命の記事は、エレミヤ記1章の4~19節に記されています。

 エレミヤの召命は、神の御言葉を真実に選民イスラエルの滅亡期に身をもって語ることでした。エレミヤは、主の言葉を、文字通り命がけで伝えた預言者です。彼はどんなに烈しい言葉であっても妥協なく語らざるを得なかったのです。

 エレミヤはエルサレム神殿で、「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない」(7:4)と厳しく非難し、このまま形ばかりの礼拝を続けるなら、エルサレムは滅亡するであろうと預言したので、人々の反感をかい、迫害されます(26:8)。エレミヤの生涯のうちで、最も苦悩に満ちた時期でした。

 「エレミヤの告白」が、20章7b~8節にあります。わたしは一日中、笑い者にされ、人が皆、わたしを嘲ります。わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり『不法だ、暴力だ』と叫ばずにはいられません。主の言葉のゆえに、わたしは一日中恥とそしりを受けねばなりません。」

 神に対する嘆きの訴えです。エルサレムの滅亡が近づき、国の危機を預言する真の預言者エレミヤと、泰平を預言する、宗教的に最高の地位にあり、大きな権力を握っていた偽りの預言者の対立がいよいよ激しくなった時の告白です。エレミヤは、神の都の平安をみだす危険人物とされ、その宮を冒涜する反逆者として打たれ、捕らえられ、足かせをもってつながれました(20:2)。エレミヤは「涙の預言者」と呼ばれていますが、それは彼の味わった苦悩の深さを示す表現です。

 エレミヤ記1章1~3節には、エレミヤが活躍した時の王の名が3人記されています。しかし治世の短い王は略されています。1.ヨシヤ王(治世31年)、[ヨアハズ(治世3か月)]、2.ヨヤキム(治世11年)、[ヨヤキン(治世3か月)]、3.ゼデキヤ(治世11年)です。  

 今日の聖書の箇所23章は、バビロン捕囚期中の回復の預言です。第一は、1~4節で、牧者と羊の比喩を用いて、災いの叫びと悪しき牧者に対する叱責と威嚇のことばとが、民の「残り」のための救済の預言と結びつけて語られています。
 第二は、5~6節で、メシアの約束が語られています。この予言は、バビロニア帝国によってエルサレムが陥落し、イエスラエルの国家は滅び、民は敵地バビロンに捕らわれていった後の預言です。

 「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と主は言われる。それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。」(23:1、2節)

 ここで言っている牧者たちとは、支配者たちであり、ユダの王たちのことです。牧者である彼らはかえって狼の如く、神の羊の群れを散らします。この牧者たちは、国を滅ぼし、バビロンへの捕囚に導いたからです。

 【ユダの王たちとは、22章10節以下にその名が記されています。宗教改革を行ったヨシヤ王の悲運について述べたあと、22章11節には、ヨシヤの子シャルム(=ヨアハズの幼名)18節には、ヨシヤの子ヨヤキム、34節では、ヨヤキムの子コンヤ(エコンヤの表記もあるヨヤキン)の三人の王の名があげられ、彼らが申命記に記されたような神の律法を守らなかったことを厳しく批判し、ユダの王であった者たちに対する罰を告げています。 

 <正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人の血を流してはならない(22:3)>。これが律法の要約です。ヨヤキムは、<不当な利益を求め、無実の人の血を流し、虐げて圧制を行っている>とエレミヤに批判されています。】

 「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる。」(23:3、4節)

 エレミヤの預言は、バビロニアによってイスラエルが滅亡し、国を失ったのを境にして、その調子が一変します。エレミヤは、真実の預言者として、ただ祖国の災いと滅亡を預言するだけでなく、救済と回復とを予告します。

 <群れの残った羊とは、ここでは捕囚として散らされた民のことです。神が自ら牧者として、散らされた民を集め、もとの牧場であるユダの地に帰らせ、新しい牧者を立てると言います。

 「見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う。彼(ダビデ)の代にユダは救われイスラエルは安らかに住む。彼の名は、『主は我らの救い』と呼ばれる。」(23:5,6節)

 <ダビデ>の名は、新約聖書の良い羊飼いとしてのイエスを表しています。バビロンで召命を受けたエゼキエルの書34章にも「イスラエルの牧者」についての長い回復の預言が見られます。

 <枝>とは、メシアを象徴する言葉です。一度切り倒されたダビデの木の株から一つの若枝が生じるとして、イザヤ書の4:2、11:1などの預言と対応しています。

 「その日には、イスラエルの生き残った者にとって、主の若枝は麗しさとなり、栄光となる。この地の結んだ実は誇りとなり、輝きとなる。」(イザヤ4:2)

 エレミヤ書のこの箇所は詩文であり、本来の預言としての格調を持っています。この王は、詩編72:2~4で歌われているような王の理想を実行します。<王は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う。>彼は神の意志を行うので、<主は我らの救い>と呼ばれます。エレミヤもまた新しい理想的な新しい王がダビデの家に生まれることを期待したのです。

 イザヤと共に、エレミヤも「最大の預言者」と言われています。エレミヤは祖国の罪に対する神の審判だけを叫んだ滅亡の預言者ではありません。彼は次のように預言しています。エレミヤ書31章27,28節では新し時代と到来を告げ、<わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる(31章33節)>という新しい契約が結ばれます。

 エレミヤの最後は明らかではありませんが、エジプトで石で打たれて殉教したと言われています。彼の預言者生活は、主が共にいてくださった(1章19b)、闘争と緊張の連続でした。

 マリアの受胎告知の場面で、主の使いはマリアに言います「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」(ルカ1:31)。このイエスとはヘブル語イェシュアで、「主は救い」を意味しています。エレミヤの待望した「主はわれらの救い」こそイエス・キリストなのだ、イエスはダビデの若枝としてお生まれになった、イスラエルに救いが来たとルカは信仰を告白しています。

 来週、12月3日(日)は、待降節(アドベント)を迎えます。私たちと共にいてくださる救い主イエス・キリストの降誕を感謝いたしましょう。

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「モーセの出生とエジプト脱出」出エジプト記2章1~10節

2023-11-16 17:14:32 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

降誕前第6主日 2023年11月19日(日)  午後5時~5時50分                         

                            礼 拝 順 序                  

                 司会 邉見 順子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  16(われらの主こそは)

交読詩編    105:37-45(主は金銀を持たせて民を導き)

主の祈り   93-5

使徒信条   93-4

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)   出エジプト記2章1~10節 (旧p.95)

説教題  「モーセの出生とエジプト脱出」 辺見宗邦牧師

祈 祷

聖餐式    72(まごころもて)                                        

讃美歌(21) 504(主よ、御手もて)

献 金  

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父、子、聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇 お知らせ。12月3日(日)にから、夕拝開始時刻は午後2時になります。

      

      次週礼拝 11 月26日(日)  午後5時~5時50分

      聖 書  エレミヤ書23章1~6節

      説教題  「救済と回復の預言」

      讃美歌(21) 17 214  27 詩編 17:1~12  

本日の聖書  出エジプト記2章1~10節

 1レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。 2彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた。3しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた。

   4その子の姉が遠くに立って、どうなることかと様子を見ていると、5そこへ、ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りて来た。その間侍女たちは川岸を行き来していた。王女は、葦の茂みの間に籠を見つけたので、仕え女をやって取って来させた。6開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた。王女はふびんに思い、「これは、きっと、ヘブライ人の子です」と言った。7そのとき、その子の姉がファラオの王女に申し出た。「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」

  8「そうしておくれ」と、王女が頼んだので、娘は早速その子の母を連れて来た。9王女が、「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当てはわたしが出しますから」と言ったので、母親はその子を引き取って乳を飲ませ、10その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行った。その子はこうして、王女の子となった。王女は彼をモーセと名付けて言った。「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから。」

             本日の説教

    創世記の族長物語(アブラハム・イサク・ヤコブ)が大家族の歴史物語であったのに対し、出エジプト記からは民族の歴史の叙述になります。この橋渡しをしたのがヨセフ物語です。ヨセフはヤコブの息子です。

 ヨセフは兄達に奴隷として売られてエジプトへ行きますが、ファラオ(エジプト王)の夢を解いたことから出世し、エジプトの宰相になります。

 カナンの地が激しい飢饉に襲われたとき、ヨセフの父ヤコブと兄弟たち十一人の一族が、ヨセフを頼ってエジプトに移住し、ヨセフの庇護のもと、ゴシェンの地に定住しました。そこでヤコブは死に、ヨセフも長寿を全うして死にます。創世記はヨセフ物語(37章~50章)で終わります。

 エジプトに移住したイスラエルの人達は、ヨセフの時代は祭司並みの特権階級でした。しかし、ヨセフの死後になると、イスラエル人は被抑圧階級となり、エジプト人から迫害を受けるようになります。

   創世記と出エジプト記の間には、実に四百年という時が過ぎていました。エジプトに移住した時のイスラエル人の数は七十人(創世記46:27、出エジプト1:5)でしたが、イスラエル人はおびただしく数を増し、強くなって国中にあふれました。【イスラエル人がエジプトにいた期間は四百三十年(出エジプト12:40)、エジプトを去る時は、壮年男子だけでおよそ六十万人(同12:27)でした。妻子を合わせると百万人位になります。百万人を連れてのエジプト脱出は、常識では考えられません、誇張した人数かもしれません。】

   エジプトにいるイスラエル人は、外国人労働者として厳しい労働を課せられ、奴隷という身分ではないが、激しい労働に従事させられました。イスラエル人はファラオ(エジプト王)のために貯蔵の町、ピトムとラメセスを建てました。エジプトのラメセス二世(紀元前1290~1224年)の頃でした。

   ラメセス二世は権力を誇示するために、エジプト各地に記念物を造営しています。アブ・シンベル神殿に残された高さ20mもの座像4基もその一つです。

   出エジプト記1章は、イスラエル人のエジプトでの公の事業のために、一定期間課せられ重労働の苦しみと、増加したへブライ人の勢力を弱めるために、ファラオがヘブライ人の助産婦に男児殺しを命じたことが記されています。ヘブライ人の助産婦がこの命令に従わないので、その後、ファラオは全国民にヘブライ人の「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め」と命じました。

  <ヘブライ人>とは、イスラエル人の古代名です。<ヘブライ>は<イブリー>に由来し、「越えゆく」「渡り歩く」の意があり、ヘブライ人は、「(ユーフラテス川の向こうから)渡って来た者」を意味し、川を渡ってきた遊牧民族をさしたものです。旧約聖書ではイスラエル人を外国人(エジプト人など)と対比させるときに用いられています。ちなみに、イスラエルという民族名は、ヤコブが神から与えられたものです(創世記32:29)。

 ここから、出エジプト記2章に入ります。イスラエルのレビ族の夫婦に一人の男の子が生まれました。6章20節(民数記26:59)によると、アムラムとその妻ヨケベドの夫婦です。母はその子がかわいかったのを見て3ケ月の間エジプト人の目から隠していました。しかし、隠しきれなくなり、その赤子をパピルス(ナイル河畔に生える水草)で編んだ籠を用意し、アスファルトとピッチ(黒色で粘弾性のある樹脂)で防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置きました。

   籠は、ヘブライ語では<テヴァーハ>ですが、ノアの箱舟の「箱舟」と同じ語です。神の保護を約束された容器を意味します。聖書はモーセがノアと同じように特別の守りと導きがあったことを暗示しています。

   その子の姉がどうなるかと様子を、遠くに立って見ていると、そこへ、水浴びをしようと川に下りてきたファラオの王女がその籠を見つけたので、仕え女をやって取って来させました。開けてみると男の赤ん坊がおり、泣いていました。

  王女はふびんに思い、「これは、きっと、ヘブライ人の子です」と言いました。そのとき、その子の姉が走り寄って「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りしょうか」と言いました。「そうしておくれ」と王女が頼んだので、娘は早速その子の母を連れて来ました。

   王女が、「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当てはわたしが出しますから」と言ったので、母親はその子を引き取って乳を飲ませ、その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行きました。その子はこうして、王女の子となりました。王女は彼をモーセ、へブル語ではモ―シエ(מֹשֶׁה) と名付けて、水の中からわたしが「引き上げた」のですからと言いました。「引き上げる」は「引き出す」マーシャー(מָשָׁה))という語です。

  この「引き出す」という語から名を与えられた「モーセ」という名は、彼が将来果たすべき使命が予言された名でもありました。モーセはイスラエル民族を引き出し、約束の地カナンへ導いていくことになります。

この「モーセ」という名は、彼が将来果たすべき使命が予言された名でもありました。モーセはイスラエル民族を引き出し、約束の地カナンへ導いていくことになります。

   モーセの両親がモーセを隠したのは信仰によるものであるとヘブライ人への手紙11:22で語っています。「信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。」両親が完全に防水したパピルスの籠に赤子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間においたときも、神の守りと助けを信じて手放したと思われます。両親がこの子の運命を神様に委ねたのです。姉がどうなるかと遠くから見守っていたのは、母の言いつけに従ったのでないかと思われます。また赤子の弟のことを心配し思いやる行為の表れでした。この姉はミリアム(民数記26:59)です。神様に委ねた子が、再び神様によって母に託されたのです。こうしてその子は実母のもとに戻り、大きくなるまで実母に育てられ、イスラエル人としの自覚を持つことになります。

   王女は赤ん坊が父親の下した殺害命令の対象であることを十分知りながら、自分の子供として養う決意をしました。これは、父ファラオにそむく大きな罪を犯すことに他なりません。それどころか、エジプト王女は継母としてこの少年を「モーセ」と名付け、王室に養子として迎えたことを公式に表明したのです。

 仕方なく捨てられた捨て子が不思議にもファラオの王女に助けられ、守られるこのモーセの誕生物語には、神は直接現れてはいませんが、たとえ目には見えなくとも、神の御手の導きがあったことを思わせられます。

 「主は高い天から御手を遣わしてわたしをとらえ、大水の中から引き上げてくださる。敵は力があり、わたしを憎む者は勝ち誇っているが、なお、主はわたしを救い出される」(詩編18:17,18)とあります。

 このことばは、モーセの出生のとき救われた神の御手にも通じることばです。

 このモーセこそ、やがて強制労働の苦しみの中にいたイスラエルの民をエジプトの地から救い出す偉大な民族的、宗教的指導者となるのです。モーセを生み出し、世に送り出すために、母の必死な努力、姉の気転、王女の勇気と不憫に思い養子として育てた慈愛、この三人の女性の働きがあったこと、更にまた神の御手と導きがあったことを忘れてはなりません。後に、モーセはホレブの山(シナイ山)で主なる神の声を聞きます。

 「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫びを聞き、その痛みを知った。…わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルをエジプトから連れ出すのだ。」(3:7~10)神がすべての有様を見ておられたと言っています。

  「主は天から見渡し、人の子らをひとりひとり御覧になり御座を置かれた所から、地に住むすべての人に目を留められる。人の心をすべて造られた主は、彼らの業をことごとく見分けられる」(詩編33:13~15)とあります。

 出エジプト記に語られている大いなる脱出の出来事は、徹頭徹尾、神様ご自身のみ心による救いのみ業なのです。

私たちも、この世の様々な力に支配され、奴隷とされています。また私たちの心も、様々な思い、悪意や憎しみや妬みによって捕えられ、とりこにされています。生まれつきの私たちは皆、罪の奴隷となっています。その罪の支配から私たちを解放し、脱出させて下さるのが主イエス・キリストです。主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちは罪の奴隷状態から解放されたのです。私たちも、このキリストの救いのみ業のために用いられ、さらに多くの人々が主イエス・キリストによる神様の救いの御業にあずかり、恵みを与えられていくために主の救いの御業に仕える者とされましょう。 

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「神の民の選び(アブラハム)」創世記12章1~9節(旧p.15)

2023-11-07 21:10:00 | キリスト教

「アブラハムの召命」Hillary’Church,Wallasey,England 1859年のステンドウ・グラス

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

降誕前第7主日 2023年11月12日(日)  午後5時~5時50分

                 礼 拝 順 序                  

                 司会 邉見 順子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 507(主に従うことは)

交読詩編    105:1~15(主に感謝を捧げて御名を呼べ)

主の祈り   93-5

使徒信条   93-4

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)   創世記12章1~9節(旧p.15)

説教題  「神の民の選び(アブラハム)」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                        

讃美歌(21) 458(信仰こそ旅路を)

献 金  

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父、子、聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇お知らせ

 12月3日(日)礼拝時刻は、午後2時~2時50分になります。

                            次週礼拝 11 月19日(日)  午後5時~5時50分

                             聖 書  出エジプト記2章1~10節

                             説教題  「救いの約束(モーセ)」

                             讃美歌(21) 16 504 27 詩編 105:37~45  

本日の聖書  創世記12章1~9節

 1主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷の父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。2わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。3あなたを祝福する人をわたしは祝福しあなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」

  4アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。5アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った。6アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた。

  7主はアブラムに現れて、言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。」アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。

   8アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。 9アブラムは更に旅を続け、ネゲブ地方へ移った。

本日の説教

 創世記11章前半で創世記の第一部であるいわゆる神話の部分が終わって、12章から第二部の族長伝説に入ります。創世記11章26節から32節までのところには、アブラハムの父テラの系図を記し、アブラハム物語の導入部になっています。アブラハム(多くの人の父の意味)という名は神によって改名(17:8)されるまでは、アブラム(尊敬すべき父)という名でした。父の名はテラで、弟はナホルで、もう一人の弟の名はハランでした。ハランにはロトが生まれました。アブラハムの生まれ故郷はカルデアのウルです。

    アブラハムの妻の名はサラ(王女)は神によって改名(17:15)された名で、初めはサライ(私の王女)でした。アブラムとサライは、母違いの兄と妹です(20:12)アブラムの弟ナホルの妻の名はミルカでした。ミルカは弟ハランの娘です。ハランにはもう一人娘がいて、名はイスカでした。アブラムの妻サライは不妊の女で子供ができませんでした。

        

     銘形秀則氏の「牧師の書斎」からの転写

 テラは、息子アブラムと孫ロトと嫁のサライを連れてカルデアのウルを出発して、カナン地方に向かったが、ハランにとどまって二百五年の生涯を終えました。ウルはユーフラテス川下流沿岸の古代都市です。ハランは同じユーフラテス川上流の都市です。どちらの都市もメソポタミヤ文化の中心地の一つです。(地名のハランと、テラの息子のハランは、原語では綴り字が違います。息子のハランはウルで亡くなりました(創11:28)。ウルもハランもパレスチナにかけての「肥沃な弦月(三日月」」と言われた当時の移動のルートでした。

  

 【ヨシュア記24:2-3にはウルという地名は出ませんが、その地は「ユーフラテス川の向こう」にあり、そこでアブラハムの父テラとアブラハムは、異教の神々に仕えていたことが記されています。神はアブラムたちを、そのような異教的生活の地から連れ出して、約束の地へと導き出された、とあります。】

 創世記12章には、アブラハムの召命と移住が記されます。主はアブラムに、「あなたは生まれ故郷の父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい」と命じます。「生まれ故郷」は直訳すると、<あなたの地から、あなたの親族から>となります。ハランは生まれ故郷ではありません。<ハランから離れて>、ということです。<父の家から離れてわたしが示す地に行きなさい>と、神は目指す新しい共同体の成立する場へ向けての出発を強く促したのです。<ハラン>は、現在のトルコの東の方の町ウルファのことで、そこにはハランの遺跡があります。シリア国境に近い地です。

 「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。・・・地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」と、神からアブラムは罪と呪いに陥った人類を救うための仲介者としての使命が与えられます。それは世界史の中での選民イスラエルの位置と使命を明らかにした言葉です。それが書かれたのはソロモンの時代(紀元前10世紀)だと言われています。イスラエルの歴史はアブラハムから始まります。アブラハムはイスラエルの父と言われ、イスラエル民族の始祖とされます。

  「カナンへのアブラハムの出発」ヤーコポ・バッサーノ プラハ国立美術館 (ロバに乗っている少年がロト、その側にいる白い布で頭を覆うている女性がサライ、その後ろの赤い衣の男性がアブラム。右上の雲の中から見守っているのが神。)

 アブラムは妻のサライと甥のロトと共に、主の言葉に従って旅立ちました。紀元前1950年頃、エジプト第十二王朝(1991~1778)時代のことです。(ちなみにエジプト初期王朝は、紀元前3125ころから、首都メンフィスで始まっています。) 

    主はアブラムが向かう先を<わたしが示す地>としか言わなかったが、5節では、アブラムはそれをカナン地方であると理解しています。アブラムの父テラがアブラム、サラ、ロトを連れてカルデアのウルを出発して向かったのがカナン地方だったからです。15章7節で、主はアブラムに「わたしはあなたをカルデアのウルから導き出した主である」と言っています。

   主の言葉は、アブラムにとって、驚くべき呼び掛けでした。父親(百四十五歳)や慣れ親しんだ親族、友人と別れ、まだ見たこともない、知らない土地へ旅立つのですから。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳でした。アブラムの行動の決断は、主への信頼によるものでした。アブラムは妻のサライ(六十五歳)と、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった幾人かの従者と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入りました。

 

 アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来ました。当時、その地方にはカナン人が住んでいました。<シケム>はカナン地方のほぼ中心に位置しています。シケムの聖所、モレの樫の木は一種の聖木で神が託宣を与える場でした。7節では主が、この場に顕現し、このカナン地方をアブラムの子孫に与えるとの約束をアブラムにします。

 そこは西方に開けた、肥沃な緑の平原です。アブラハムは彼に現れた主のために、そこに祭壇を築き、主の約束を感謝し受け入れました。しかし、すでにカナン人が住んでいたので、アブラハムはここに住むことが出来ませんでした。

 アブラハムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼びました。<主の御名を呼ぶ>とは神を礼拝したということです。神を礼拝するということこそが、祝福の人生そのものであり、そのために神はアブラハムを召してくださったのです。

 <ベテル>という地名は、ラバンの息子ヤコブが旅の途中、夢を見た地で、「神の家」という意味です。<西にベテル、東にアイ>は、13章の物語の舞台となるところです。<主の御名を呼んだ>とは祭儀を行ったということです。アブハムは更に旅を続け、ネゲブ地方へ移りました。ネゲブ地方はユダ山地の南側の地域のことです。

 ヘブライ人への手紙11章8節には、「信仰によって、アブラハムは、自分の財産として受け継ぐことになる土地に出ていくように召し出されると、これに服従し、行く先も知らずに出発したのです」と記しています。アブラハムは住み慣れた土地を離れ、親族と分かれて旅立ったのは大きな犠牲を払って神の言葉に信頼して行動したのであり、「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」(ヘブライ11:1)信仰によるものでした。アブラハムは、<信仰の父>と呼ばれるようになった人です。創世記25章10節まで、アブラハムの物語は続きます。

 「信仰によってアブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、…幕屋に住みました。…自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを言い表したのです。…実際は、更にまさった故郷、天の故郷を熱望していたのです。…神は彼らのために都を準備されていたからです」(ヘブライ11:9~16)。

 わたしたちにも、勇気をもって決断しなければならないことがあります。アブラハムの場合のように、人生の転機に立たされた時には、不安があっても、神のみこころを求め、神の導きを信じて従い、必ず神が守って下さるという神への信頼に立っことが、わたくしたちを勇気ある決断に導きます。

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「人間の堕落」創世記3章1~15節

2023-11-02 18:29:13 | キリスト教

 ↑ ルーベンス 『楽園のアダムとイブ』1615年制作 オランダ・マウリッツハイス美術館所蔵

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    

週    報

降誕前第8主日 2023年11月5日(日)  午後5時~5時50分

                          礼 拝 順 序                  

                 司会 邉見 順子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)   6(つくりぬしを賛美します)

交読詩編     51:1~11(神よ、わたしを憐れんでください)

主の祈り   93-5

使徒信条   93-4

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)     創世記3章1~15節

           「人間の堕落」  辺見宗邦牧師

祈 祷                                        

讃美歌(21) 530(主よ、こころみ)

献 金  

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父、子、聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オン・ラインで礼拝に参加できます。 090-3365-3019に

 連絡下さい。

        次週礼拝 11 月12日(日)  午後5時~5時50分

        聖 書  創世記12章1~9節

        説教題  「神の民の選び(アブラハム)」

        讃美歌(21) 507 458 27 詩編 105:1~15  

 本日の聖書  創世記3章1~15節

  3:1主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」 2女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。 3でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」 4蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。 5それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」 6女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆(そそのかし)していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。 7二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。 8その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、 9主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」 10彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」 11神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」 12アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」 13主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」 14主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前はあらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。 15お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。」

  本日の説教

 創世記2章4節bから、3章24節までの楽園の創造と喪失は、神の名が<ヤーウェ>というヘブライ語が用いられています。1章1節から2章4節aで用いられた神は<エロヒーム>というヘブライ語でした。<エロヒーム>は三位一体を表す複数形です。主は<ヤ-ウェ>というヘブライ語で、動詞の「ある、いる」に由来しています(出エジプト記3:14、20:2参照)。

   主(ヤ-ウェ)の言葉が出てくる<ヤーウェ>資料は、紀元前十世紀ころ、捕囚前のソロモン王朝時代に、南ユダ王国で成立したと言われています。紀元前十四世紀頃の古代神話「アダバの神話」の影響の元に成立し、イスラエルの記者により唯一神教に修正されています。

   2章4節bから25節までの2章では、主は人を「大地のちりで形作った」だけでなく、人の鼻に「いのちの息を吹き込むこと」で、人は「生きる者」、直訳は「命あるネフェシュ」になった、と表現しています。このネフェシュは単に霊魂といった意味ではなく、霊と肉の統一体としての人間存在を指しています。それは、人間は神によって生ける人格存在とされた、と告白しているのです。

   荒れ野のようなこの世界の中のエデン(喜びの意)に園を設けて、そこに住まわせてくださったことが語られていました。園の中央には、「命の木と善悪の知識の木を生えいでささせられ」(2:9)ました。エデンからは、チグリスやユ―フラテスが流れ出ていました。人は園を耕し、守るようにされました。

   神は「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」という一つの禁止を与えました。園の中央には、<命の木>もありましたが、永遠の命を与えられているアダムにとって、その木から食べることに魅力はなかったのでしょう。

   神は、「人は独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と言われ、「助け合って共に生きる相手」として、女を造られました。ここに世界の人が男女によって構成され、協力し合う関係の根拠があります。

   本日の聖書箇所である3章では、神の意志にそむく人間の罪と神の罰としてエデンの園から追放され、荒れ野のようなこの世に生きていかなければならなくなってしまったことが語られています。その罪とは、食べてはいけないと言われた禁断の木の実を食べてしまったことです。女が初めに禁断の木の実を食べたのは、蛇の誘惑によってです。

   蛇もまた神によって造られたものでした。腹で這い、動きまわる蛇の不気味さを古代人もきらい恐れました。古代エジプトやメソポタミヤでは蛇が知恵の象徴でした。野の生き物のうちで最も賢い「蛇」が女に「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と問いかけます。罪に陥ることは、人間の人格に働きかける不気味な力によってひき起こされることとして、蛇がその役をはたします。主イエスの荒れ野の誘惑のときは、誘惑するものは悪魔でした。この神話では蛇が悪魔の役割を果たしています。

   神は「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と、神は「すべての木の中の一つだけ」を禁止されました。それに対して蛇の女への問いかけは、神の禁止の範囲をことさらに拡大して、「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と語りかけたのです。すべての木に対して、食べてはならないとする神の禁止命令のように言って、不満をさそい出すように問いかけたのです。

   それに対して、女は、一応、神のことばを正しく再確認して、「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」と言います。<触れてもいけない>と神は言っていません。女は神の言葉を忠実に守ろうとするあまり、神の言葉を拡大解釈し、自分の言葉を付け加えています。神様の命じた禁止がよりきびしいものとして変わり、不満の思いが生じています。その不満をあおりたてるように、さらに蛇は言います。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」と、蛇はまるで神の手の内を知り尽くしているように語ります。人のために配慮して神が禁止したことに対して、神の善意を疑うように、蛇は語りかけたのです。「善悪を知る」とは、何が善で何が悪であるかということを決めるのは神であって、人間ではないということなのです。もし、人間が善悪を自分で全て決めることが出来るとすれば、それは人間が神になってしまうということを意味しているのです。そんなことになれば、人間は神様になるどころか悪魔になってしまい、命を失うことになる、と神は告げられたのです。人間には自由があります。しかし、その自由はこれを超えてはいけないという限界の中での自由です。

   神の禁止命令は人間を束縛し、不自由にする悪意あるものではないのかとの疑いを蛇は女にいだかせたのです。それで、女は神に従って生きるのではなく、自由になって、自分の思いに従って生きようと思いました。ここに人間の神様に対する背きの罪、不服従の罪があります。人が神から自由になって「神のように」なりたいと思う傲慢に、人間の罪の根源であります。罪の本質は、神に従うのではなく、神に背を向け、自分が主人になり、神様に成り代わろうとすることにあります。

   女がその木を見ると、いかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆(そそのか)していました。罪の誘惑は、いつも魅力的です。彼女はついに取って食べ、一緒にいた夫に渡したので、彼も食べました。最初の人間、男女が犯した罪とはこういうものでした。

    その結果、<目が開け>自分たちが裸であることに気づきました。楽園では、「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」のです。しかし今や何かが失われました。それまで裸だったのは、神に対しても、また夫婦の間でも、何も隠すことはなかったのです。しかし二人はイチジクの葉をつづり合わせ腰に巻きました。彼らは、神に対しても、また夫婦の間でも隠すとういうことが始まったのです。

   その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきたので、アダム(人)と女が、神の顔を避けて園の木の間に身を隠しました。神のいましめにそむいたため素直に神の前に立てないのです。罪の結果は明白でした。人と妻は神の顔を避けて存在するものとなったのです。罪を犯し、神様の顔を避けて身を隠すアダムに、神は「あたたはどこにいるのか」と呼びかけました。

   アダムは「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」と、答えました。「裸」も「恐れ」も、「隠れた」のもほんとうの動機ではありません。本当の動機は、神の命令を破ったからです。

  神は、「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか」と問いました。すると、アダムは「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」と言う表現で、自分の罪の責任を神と女の両方に転嫁します。神の言葉を無視した自分の罪を認めようとはしません。

  神は女に向かって、「何ということをしたのか」と言われました。女は「蛇がだましたので、食べてしまいました」と答えました。女は蛇に自分の罪を転嫁したのです。神への反逆は彼らの連帯責任であったはずなのに、男は女に罪を着せ、女は蛇のせいにしました。今まで一心同体として愛と信頼で結ばれていた夫婦が、自己防衛のためにその一体性を一瞬にして切り捨ててしまいます。その結果、蛇は呪われて、きらわれものとなり、女と蛇は恨(うら)み合う仲となりました。

 アダムは女をエバ(命)と名付けました(3:20)。アダムとエバの二人は罰せられ、楽園であったエデンから追放されます。神への背きの罪のために、人はいのちの源である神との親しい交わりを失い、死すべきものとなりました。罪に堕ちた結果は、このように、神との関係が破れて、信頼と交わりが失われ、人間同士もまた対立し、憎み合い。利用し合うようになっている状態になりました。

     神話の衣をまとった物語の主人公の<アダム>という名は、ヘブライ語では「人・人間」という意味の集合名詞で、現実の人類を代表しています。人間そのものの姿をアダムという「一人の人」に起こった出来事として物語っているのです。アダムはすべての人間の代表であり、人間全体の象徴として創世記に書かれているのです。パウロは<罪>とは、神に背を向かせる方向に働く霊的支配力のことだと言います。「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」(ローマ5:12)とあります。最初の人間アダムとその妻エバが犯した罪が、原罪となって、その後の人間全てに受け継がれています。<死>とは、ただ身体が死ぬことではなく、霊的存在としての人間全体が命の起源である神から切り離されて死んでいる状態(身体の死はその結果)であり、そのような死をもたらす支配力を言います。罪と死は一体として人間を支配する霊的力なのです。

   しかし神は、後にこのような人間を憐れみ、救うために御子をこの世に送り、わたしたちを、もう一度、神との交わりに呼び戻そうとされるのです。

   <実にアダムは、来るべき方を前もって表す者(5:14)>だったのです、とあるように、最初のアダムは、最後のアダム(1コリント15:45)となられた十字架の贖いによって救いをもたらすイエス・キリストを待ち望む者だったのです。神の恵みにより、<一人のイエス・キリストを通し>て、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。その恵みの賜物は罪とは比較にならないほど大きいのです。「最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。…わたしたちは、土からできた人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです(1コリント1:47~49)。わたしたちはキリストにあって、罪と死との支配から解放され、天に属するキリストの似姿に変えられつつ、その完成を目指して歩んでいるのです。

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