〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403
日本キリスト教 富 谷 教 会
年間標語「何事も祈って歩む、一年を送ろう」 聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」フィリピ4:6
週 報
降誕節第一主日 (年末礼拝) 2013年12月29日(日) 5時~5時50分
礼 拝
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 6(つくりぬしを賛美します)
交読詩編 98(新しき歌を主に向かて歌え)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
聖 書 詩篇23篇1~6節
説 教 「わたしには何も欠けることがない」 辺見宗邦牧師
聖餐式 78(わが主よ、ここに集い)
賛美歌(21)459(かいぬしわが主よ)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 2014年1月5日(日) 年始礼拝 午後5時~5時50分
聖書 詩篇23篇
説教 「 神のなさる、お・も・て・な・し」
交読詩編 96 讃美歌 368 459 27
本日の聖書 詩篇23篇 1賛歌。ダビデの詩。
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。2主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 3魂を生き返らせてくださる。 主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。4死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。 あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。5わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。 わたしの頭に香油を注ぎ わたしの杯を溢れさせてくださる。6命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。
本日の説教
詩篇90篇12節に、「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。」という祈りがあります。かぎられた人生をどう生きるかが問われています。
私たちの周囲には次のような生き方があると思います。限られた人生だから、飲んで食べて楽しもう、という快楽主義の生き方です。そして、頼りになるのはお金だ、財産だ、という金持ちになろうとする生き方です。いずれも自分中心の生き方です。このような生き方は、限りない貪欲にとらわれ、憎しみと争いに満ちた、惨めな虚無の人生を生み出し、人を滅亡と破滅に陥れます。
シンガー・ソングライターの宇多田ヒカルの母、歌手の藤圭子さんが、8月22日マンションから飛び降りて命を絶ちました。このニュースは日本中を驚かせました。何度も結婚・離婚を繰り返し、海外の高級ホテルに長期滞在し、ギャンブルで何億という金を浪費し、贅沢の限りを尽くしたようです。関係者との間での愛憎問題や金銭トラブルがあり、家族の間でも絶縁状態であったようです。娘の宇多田ヒカルさんは、「とても長い間、精神の病に苦しめられていました」と母の病気を明らかにしました。藤圭子さんは享年62歳でした。藤圭子さんは幸せな人生を送ったのでしょうか。私たち人間は、単なる自分の欲望を満たしたり、自己実現のためにいのちが与えられているのではないことを知るべきです。
詩篇23篇1節に、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」とあります。この詩篇は、1~4節の「羊飼いなる神」と、5~6節の「客をもてなす主人としての神」との二部からなります。今日は第一部の「羊飼いなる神」について学びたいと思います。
共同訳聖書では、「主は羊飼い」という言葉で始まっています。日本聖書協会訳では、「主はわたしの牧者」という言葉になっています。ヘブライ語の原語も、「羊飼い」に「私の」という接尾語がついています。「主はわたしの羊飼い」の訳の方が、私と主との間の親密感が、より強い表現になります。
エジプトから脱出したイスラエルの民について、「神は、ご自分の民を、羊の群れのように連れ出し、家畜の群れのように荒野の中を連れて行かれた。」(詩篇78:52)とあります。羊はその存在のすべてを羊飼いに負っています。羊は羊飼いから離れては生存と防衛の保障はありません。また、羊飼いも羊の存在なしにはあり得ません。両者は密接なかかわりをもっています。「主は私の羊飼い」だとすることは、自分がまさに弱い羊であること、羊飼いなしには決して生きられないことを十分に認めている驚くべき告白なのです。
神を羊飼いと呼んだのは、ダビデが最初ではありません。族長ヤコブが147歳で死ぬ前に、人生を振り返った時に、「わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ。」(創世記48:15)と述懐しています。ヤコブは羊飼いとして、ハランの叔父ラバンのもとで、20年間働き、昼は暑さ、夜は寒さに悩まされる過酷な仕事であった(創世記31:38~40)、とのべたほど苦労をしました。
ダビデは少年時代、父エッサイの羊飼いとして仕えました。この経験を通して、ダビデは羊の弱さを知り、羊飼いの役割や配慮を学びました。彼は、羊を守るためにライオンや熊と戦ったと言っています(サムエル17:34-36)。そして羊のことをよく知っていました。このような羊飼いの経験を通して、神を、「私の羊飼い」として例えるほかなかったのです。
1)「羊飼い」の「飼う、牧する(ラーアーרָעָה)」という動詞は、食物を与える、必要なものを与える、羊の世話をするといった意味があります。羊は暑さに弱いので、羊に水を与えるのは羊飼いの大切な仕事でした。
主イエスは、「わたしは良い牧者である。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じある。(ヨハネ10:14,15)」と述べて、羊飼いと羊の関係を、父なる神と御子のゆぎない関係にたとえています。
2)「わたしは乏しくない」という言葉には、乏しさ、不足を意味するハーサル(חְסָר)という動詞が使われています。モーセが40年にわたる荒野の生活を振り返って、「あなたの神、主は、あなたの手の業を祝福し、この広大な荒れ野の旅路を守り、この四十年の間、あなたの神、主はあなたと共におられたので、あなたは何一つ不足しなかった。(申命記2:7)」と告白しています。
ネヘミヤも荒野の40年を振り返って、「四十年間、あなたが支えられたので、彼らは荒れ野いあっても不足することなく、着物は朽ち果てず、足もはれることがなかった。(ネヘミヤ記9:21、申命記8:4)」と告白しています。
旧約の民は、荒野の経験を通して乏しさを知り尽くした民です。彼らは乏しさを知らなかったわけでもなく、苦しみと無縁だったのでもありません。それにもかかわらず、「何一つ不足しなかった」と言っているのです。彼らは乏しさと苦しさに練磨され、鍛え上げられた末に、にじみ出た経験による言葉です。それは彼らのために先だって歩まれた主なる神がおられるので、「乏しさ」が「あふれる豊かさ」となることを経験したのです。
主なる神の愛のゆえに、またその主なる神への信頼のゆえに、渇きの砂漠をさすらった日々が「憩いの水のほとり」に伴われた日々として記憶され、飢えにさらされ牧草を求めた年月が「青草の原」に導かれた年月として慕わしく想起され、続く未来への確かな支えとなったのです。
新約では使徒パウロがより積極的な表現で、「満足している」ことを告白し、、「満ち足りること」を知るように薦めています。彼は「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです(フィリピ4:11)」と述べ、愛弟子のテモテにも「信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。食べる物と着る物があれば、わたしたちは満足すべきです。」(Ⅰテモテ6:6-8)と教えています。ここに信仰の奥義があります。貪欲(むさぼり)の根源は不満です。必要以上のものを欲しがることです。その欲望は霊的な力を損ない、もう一つの神、すなわち偶像になってしまうほどです。貪欲は偶像礼拝にほかなりません(コロサイ3:5、エペソ5:5)。不満でいっぱいの心はその人自身を滅ぼすだけでなく、神との関係をも打ち壊します。また他の人との関係をも損ねてしまいます。
「主はわたしの羊飼い、わたしには何も欠けることがない」とあるように、「満ち足りる心」をもたらすのは、羊飼いであられる主なる神様です。
「わたしの羊飼い」である主は、「わたしを青草の原に伏させて休ませる」方です。良い羊飼いとかかわることで、私たちに必要な休息が与えられるのです。主なる神は、わたしを「水ぎわに伴っていこわせてくださる」方です。静かな、穏やかな、心の落ち着く、しかも気持ちのよい水辺に、私を導かれる方です。
主は、「魂を生き返らせる」神です。「魂」と訳された原語は、へブル語で「ネフェシュ」です。この言葉のもともとの意味は「喉」です。「喉」は食べ物や飲み物、声や息をする通り道であり、人間が生きる上で重要な部分です。そこから、魂(ネフェシュ)は「渇き」「渇望」を持った人間存在全体を表わします。
「神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。」(詩篇42:2,3)とあるように、神によって満たされなければ真に生きることのできない、そのような存在こそ「魂」なのです。「生き返らせる」とは、魂の内からの復活を経験させるということです。「命を得させ、豊かに得させるため…羊のために命を捨てた(ヨハネ10:10-11)」神がいますのです。
「主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる」方です。「御名にふさわしく」、「御名のために」とは、主がひとたび選んだ者に対して、ご自身の名誉にかけて、どこまでも全責任を負うということなのです。「正しい道、義の道」とは、神とのかかわりの道、いのちへと至る道です。主は、ご自身の御名にかけて、私を、正しい道へと導かれる方です。それゆえ、私たちに必要なことは、神の導きに従順であり謙虚であることです。
「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。主よ、あなたがわたしと共にいてくださる(共に歩んでくださる)」。この告白は、「わたしはあなたと共にいる(創世記28:15)」と言われる主なる神の約束に基づいています。「死の陰の谷」とは、原語では「暗闇の谷間」です。それは、先が読めない、出口が見えない状況、だれも助けることのできない孤独の世界、まさに死の淵にある状況を意味します。しかしそんな状況にあっても、主の臨在によって、恐れないと告白しています。
「あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。」「鞭(むち)」と訳されている語は、羊を危険から守る棍棒のことです。「鞭」は羊をうつ道具であるより、羊を襲う獣と闘い、これを追い払う道具です。それは守りのための力の棒であり、「杖(つえ)」は羊を導くための用いるものです。「あなたの鞭」「あなたの杖」とは、羊に襲いかかる外敵と命懸けで戦う羊飼いが持っているものです。この二つの道具で、羊のために守り導く神が描かれています。それらが私を励まし、力づけるのです。羊のために命を懸けてくださる羊飼いがいます。その方が「わたしの羊飼い」として「わたしと共にいてくださる」が故に安心であると、この詩編は歌っているのです。
表面的には何不自由なく暮らしていても、真実に自分を愛してくださる方と出会い、その方の言葉を聴き、そしてその方を愛して生きることがないとすれば、それは不毛の大地を独りさ迷う羊や鹿と同じです。
私たちは、ここに歌われているように、豊かに養い、導き給う主である神様を礼拝しています。この主なる神が私たちの羊飼いであるならば、「何も欠けることはない」ことに感謝し、新年を迎えたいと思います。