富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「わたしには何も欠けることがない」 詩篇23篇1~6節

2013-12-30 20:54:35 | 礼拝説教

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380  FAX:022-358-1403

              日本キリスト教 富 谷 教 会

年間標語「何事も祈って歩む、一年を送ろう」                                  聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」フィリピ4:6

                     週     報 

降誕節第一主日 (年末礼拝)   2013年12月29日(日) 5時~5時50分 

                 礼     

前 奏           奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)   6(つくりぬしを賛美します)

交読詩編   98(新しき歌を主に向かて歌え) 

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書    詩篇23篇1~6節

説 教 「わたしには何も欠けることがない」   辺見宗邦牧師

聖餐式   78(わが主よ、ここに集い)

賛美歌(21)459(かいぬしわが主よ)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)   27(父・子・聖霊の)

祝 祷

後 奏

              次週礼拝 2014年1月5日(日) 年始礼拝  午後5時~5時50分

                聖書  詩篇23篇 

                説教  「 神のなさる、お・も・て・な・し」

                交読詩編 96 讃美歌 368 459 27

          本日の聖書 詩篇23篇     1賛歌。ダビデの詩。

   主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。2主はわたしを青草の原に休ませ   憩いの水のほとりに伴い 3魂を生き返らせてくださる。 主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。4死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。 あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。5わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。    わたしの頭に香油を注ぎ わたしの杯を溢れさせてくださる。命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。

                      本日の説教

  詩篇90篇12節に、「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。」という祈りがあります。かぎられた人生をどう生きるかが問われています。

 私たちの周囲には次のような生き方があると思います。限られた人生だから、飲んで食べて楽しもう、という快楽主義の生き方です。そして、頼りになるのはお金だ、財産だ、という金持ちになろうとする生き方です。いずれも自分中心の生き方です。このような生き方は、限りない貪欲にとらわれ、憎しみと争いに満ちた、惨めな虚無の人生を生み出し、人を滅亡と破滅に陥れます。

 シンガー・ソングライターの宇多田ヒカルの母、歌手の藤圭子さんが、8月22日マンションから飛び降りて命を絶ちました。このニュースは日本中を驚かせました。何度も結婚・離婚を繰り返し、海外の高級ホテルに長期滞在し、ギャンブルで何億という金を浪費し、贅沢の限りを尽くしたようです。関係者との間での愛憎問題や金銭トラブルがあり、家族の間でも絶縁状態であったようです。娘の宇多田ヒカルさんは、「とても長い間、精神の病に苦しめられていました」と母の病気を明らかにしました。藤圭子さんは享年62歳でした。藤圭子さんは幸せな人生を送ったのでしょうか。私たち人間は、単なる自分の欲望を満たしたり、自己実現のためにいのちが与えられているのではないことを知るべきです。

 詩篇23篇1節に、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」とあります。この詩篇は、1~4節の「羊飼いなる神」と、5~6節の「客をもてなす主人としての神」との二部からなります。今日は第一部の「羊飼いなる神」について学びたいと思います。

 共同訳聖書では、「主は羊飼い」という言葉で始まっています。日本聖書協会訳では、「主はわたしの牧者」という言葉になっています。ヘブライ語の原語も、「羊飼い」に「私の」という接尾語がついています。「主はわたしの羊飼い」の訳の方が、私と主との間の親密感が、より強い表現になります。

   エジプトから脱出したイスラエルの民について、「神は、ご自分の民を、羊の群れのように連れ出し、家畜の群れのように荒野の中を連れて行かれた。」(詩篇78:52)とあります。羊はその存在のすべてを羊飼いに負っています。羊は羊飼いから離れては生存と防衛の保障はありません。また、羊飼いも羊の存在なしにはあり得ません。両者は密接なかかわりをもっています。「主は私の羊飼い」だとすることは、自分がまさに弱い羊であること、羊飼いなしには決して生きられないことを十分に認めている驚くべき告白なのです。

  神を羊飼いと呼んだのは、ダビデが最初ではありません。族長ヤコブが147歳で死ぬ前に、人生を振り返った時に、「わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ。」(創世記48:15)と述懐しています。ヤコブは羊飼いとして、ハランの叔父ラバンのもとで、20年間働き、昼は暑さ、夜は寒さに悩まされる過酷な仕事であった(創世記31:38~40)、とのべたほど苦労をしました。

  ダビデは少年時代、父エッサイの羊飼いとして仕えました。この経験を通して、ダビデは羊の弱さを知り、羊飼いの役割や配慮を学びました。彼は、羊を守るためにライオンや熊と戦ったと言っています(サムエル17:34-36)。そして羊のことをよく知っていました。このような羊飼いの経験を通して、神を、「私の羊飼い」として例えるほかなかったのです。
 1)「羊飼い」の「飼う、牧する(ラーアーרָעָה)」という動詞は、食物を与える、必要なものを与える、羊の世話をするといった意味があります。羊は暑さに弱いので、羊に水を与えるのは羊飼いの大切な仕事でした。

 主イエスは、「わたしは良い牧者である。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じある。(ヨハネ10:14,15)」と述べて、羊飼いと羊の関係を、父なる神と御子のゆぎない関係にたとえています。

2)「わたしは乏しくない」という言葉には、乏しさ、不足を意味するハーサル(חְסָר)という動詞が使われています。モーセが40年にわたる荒野の生活を振り返って、「あなたの神、主は、あなたの手の業を祝福し、この広大な荒れ野の旅路を守り、この四十年の間、あなたの神、主はあなたと共におられたので、あなたは何一つ不足しなかった。(申命記2:7)」と告白しています。

 ネヘミヤも荒野の40年を振り返って、「四十年間、あなたが支えられたので、彼らは荒れ野いあっても不足することなく、着物は朽ち果てず、足もはれることがなかった。(ネヘミヤ記9:21、申命記8:4)」と告白しています。

 旧約の民は、荒野の経験を通して乏しさを知り尽くした民です。彼らは乏しさを知らなかったわけでもなく、苦しみと無縁だったのでもありません。それにもかかわらず、「何一つ不足しなかった」と言っているのです。彼らは乏しさと苦しさに練磨され、鍛え上げられた末に、にじみ出た経験による言葉です。それは彼らのために先だって歩まれた主なる神がおられるので、「乏しさ」が「あふれる豊かさ」となることを経験したのです。

 主なる神の愛のゆえに、またその主なる神への信頼のゆえに、渇きの砂漠をさすらった日々が「憩いの水のほとり」に伴われた日々として記憶され、飢えにさらされ牧草を求めた年月が「青草の原」に導かれた年月として慕わしく想起され、続く未来への確かな支えとなったのです。

  新約では使徒パウロがより積極的な表現で、「満足している」ことを告白し、、「満ち足りること」を知るように薦めています。彼は「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです(フィリピ4:11)」と述べ、愛弟子のテモテにも「信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。食べる物と着る物があれば、わたしたちは満足すべきです。」(Ⅰテモテ6:6-8)と教えています。ここに信仰の奥義があります。貪欲(むさぼり)の根源は不満です。必要以上のものを欲しがることです。その欲望は霊的な力を損ない、もう一つの神、すなわち偶像になってしまうほどです。貪欲は偶像礼拝にほかなりません(コロサイ3:5、エペソ5:5)。不満でいっぱいの心はその人自身を滅ぼすだけでなく、神との関係をも打ち壊します。また他の人との関係をも損ねてしまいます。

「主はわたしの羊飼い、わたしには何も欠けることがない」とあるように、「満ち足りる心」をもたらすのは、羊飼いであられる主なる神様です。

 「わたしの羊飼い」である主は、わたしを青草の原に伏させて休ませる」方です。良い羊飼いとかかわることで、私たちに必要な休息が与えられるのです。主なる神は、わたしを水ぎわに伴っていこわせてくださる」方です。静かな、穏やかな、心の落ち着く、しかも気持ちのよい水辺に、私を導かれる方です。

 主は、「魂を生き返らせる」神です。「魂」と訳された原語は、へブル語で「ネフェシュ」です。この言葉のもともとの意味は「喉」です。「喉」は食べ物や飲み物、声や息をする通り道であり、人間が生きる上で重要な部分です。そこから、魂(ネフェシュ)は「渇き」「渇望」を持った人間存在全体を表わします。

 「神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。」(詩篇42:2,3)とあるように、神によって満たされなければ真に生きることのできない、そのような存在こそ「魂」なのです。「生き返らせる」とは、魂の内からの復活を経験させるということです。「命を得させ、豊かに得させるため…羊のために命を捨てた(ヨハネ10:10-11)」神がいますのです。

  主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる」方です。「御名にふさわしく」、「御名のために」とは、主がひとたび選んだ者に対して、ご自身の名誉にかけて、どこまでも全責任を負うということなのです。「正しい道、義の道」とは、神とのかかわりの道、いのちへと至る道です。主は、ご自身の御名にかけて、私を、正しい道へと導かれる方です。それゆえ、私たちに必要なことは、神の導きに従順であり謙虚であることです。

  「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。主よ、あなたがわたしと共にいてくださる(共に歩んでくださる)」。この告白は、「わたしはあなたと共にいる(創世記28:15)」と言われる主なる神の約束に基づいています。「死の陰の谷」とは、原語では「暗闇の谷間」です。それは、先が読めない、出口が見えない状況、だれも助けることのできない孤独の世界、まさに死の淵にある状況を意味します。しかしそんな状況にあっても、主の臨在によって、恐れないと告白しています。

  「あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。」「鞭(むち)」と訳されている語は、羊を危険から守る棍棒のことです。「鞭」は羊をうつ道具であるより、羊を襲う獣と闘い、これを追い払う道具です。それは守りのための力の棒であり、「杖(つえ)」は羊を導くための用いるものです。「あなたの鞭」「あなたの杖」とは、羊に襲いかかる外敵と命懸けで戦う羊飼いが持っているものです。この二つの道具で、羊のために守り導く神が描かれています。それらが私を励まし、力づけるのです。羊のために命を懸けてくださる羊飼いがいます。その方が「わたしの羊飼い」として「わたしと共にいてくださる」が故に安心であると、この詩編は歌っているのです。

  表面的には何不自由なく暮らしていても、真実に自分を愛してくださる方と出会い、その方の言葉を聴き、そしてその方を愛して生きることがないとすれば、それは不毛の大地を独りさ迷う羊や鹿と同じです。

 私たちは、ここに歌われているように、豊かに養い、導き給う主である神様を礼拝しています。この主なる神が私たちの羊飼いであるならば、「何も欠けることはない」ことに感謝し、新年を迎えたいと思います

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「救い主の誕生」 ルカによる福音書2章1~20節

2013-12-24 00:32:36 | 礼拝説教

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380

  日本キリスト教 富 谷 教 会                    FAX:022-358-1403

 年間標語 「何事も祈って歩む、一年を送ろう」  聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感     謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」フィリピ4:6

  週     報 

待降節第四主日(クリスマス礼拝)  2013年12月22日(日)   5時~5時50分 

礼     

                      司会 永井 慎一兄    

前奏                   奏楽  辺見トモ子姉

讃美歌(21) 265(天なる神には)

交読詩編   98(新しき歌を主に向かて歌え) 

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書  ルカによる福音書2章1~20節

祈 祷

説 教   「救い主の誕生」  辺見宗邦牧師

賛美歌(21)263(あら野のはてに)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)   27(父・子・聖霊の)

祝 祷

後 奏

 

 次週礼拝(年末礼拝) 2013年12月29日(日)午後5時~5時50分

 

     聖書  詩篇90篇 

     説教  「限られた生涯を過ごす知恵の心」

     交読詩編 90 讃美歌 6 78 366   27

   ご案内   本日、礼拝後別室で愛餐会があります。

本日の聖書 ルカによる福音書2章1~20節

  1そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。 2これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。 3人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。 4ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。 5身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。 6ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、 7初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

 8その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。9すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。10天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 12あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」 13すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。 14「いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。」 15天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。 16そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。 17その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。 18聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。 19しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。 20羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

  本日の説教

 ルカによる福音書は、イエスの誕生を記すのに、「皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である」と記しています。アウグストゥスの皇帝として治世は、紀元前27年から紀元後14年の間です。しかし、彼の治世中に、彼の支配する世界の住民登録はありませんでした。キリニウスのシリア総督時の住民登録は、紀元後7年で、ガリラヤ以外のユダのみでした。ルカの記録は正確ではありません。イエスの誕生を、この政治の世界に取り入れたのは、イエスは、この現実の歴史の中に、そしてすべての人・世界のために生まれたということを表現するためであったと思われます。この皇帝アウグストゥスは「全世界の救い主」と称され、人々から「アウグストゥスの平和」とも言われましたが、彼の治世下で生まれたイエスこそが真の平和の救い主であること示すことにあったと思われます。この住民登録は詩篇87・6「主は諸国の民を数え、書き記される、この都で生まれた者、と」の実現とも考えられるのです。

  「ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った」とあります。ダビデ(B.C.1105~965)はイエスより1000年程前のイスラエル統一王国の王となった人です。このダビデの子孫から救い主が誕生すると神は約束しておられました(イザヤ95,11:1-5)。ヨセフはダビデの子孫にあたる人です。ユダヤのベツレヘムはメシアが生まれるとされるダビデ王の故里です。そこにヨセフは住民登録をするために上って行きました。「身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するため」でした。マリアが身ごもったのは聖霊によるものであると、すでにルカ1・35に記されています。生まれてくるイエスとヨセフとの間には、直接親子としての血縁関係がありません。しかし、<ダビデの子>であるヨセフがイエスをわが子として受け入れ、その名を親として命名すると、法的な親権者となり、イエスもダビデの子孫となり、<ダビデの子>として生まれることになるのです。

 彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせました。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからです。イエスはこの世のかたすみに、歓迎されないように誕生しました。

  その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていました。ベツレヘムには「羊飼いの野」といわれる所があります。

              ベツレヘムの「羊飼いの野」(建物のない地域) 

そこが羊飼いたちが天使から御子キリストの誕生を告げられた所だと言われています。主イエスの誕生を最初に知らされたのは、羊飼いでした。羊飼いというのは、当時、決して皆から尊敬を集めるような職業の人達ではありませんでしたファリサイ人からは、救いの外に置かれていると考えられていた人達なのです。それは、主イエスの救いが、全ての民に、民全体に与えられるものであることの「しるし」なのでしょう。

 主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れました。天使は「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」と告がたのです。

 すると、天使と天の大軍が「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」と神様を賛美しました。クリスマスの喜びは、神様の永遠の救いの御業が成就することを知らされた天使たちは、大いに喜んだのです。この「いと高きところには栄光、神にあれ」というのは、ラテン語では「グロリア、インエクセルシス、デオ」となります。主イエスの御降誕は、天地を造られた神様の御業、アダムとエバが罪を犯して以来の、最後の決定的な救いの御業がついにここから始まったことを天使たちは知って神様を賛美したのです。

 「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」が、あなたがたへのしるしである、と告げられたのです。この飼い葉桶のしるしは、最後の十字架につながります。飼い葉桶で眠る御子は、十字架の上で死なれる御子だということなのです。

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クリスマス茶会(第二十二回) 会記と礼拝メッセージ「神様のなさる最高のお・も・て・な・し」

2013-12-23 23:30:52 | 礼拝説教

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380                                

                                           FAX:022-358-1403 

      第二十二回 クリスマス茶会  富谷教会・茶席松風亭に於いて   辺見宗邦・辺見宗友 社中一同

       会    記 

     礼拝室「キリストの降誕」J.B.M.ピエール 作(複製画)  床 降誕セット イタリー・フォンタ二―ニ社イタリア製

     待合床「神に栄光、人に平和」富田石舟筆

        濃 茶 席(天心庵)

   床 「神は、その独り子をお与えになったほどに 世を愛された」(ヨハネ三・十五)  慶香筆

    花     季のもの

    花 入   青磁      川瀬忍造

    香 合   聖書    今岡三四郎造    

    釜     十字釜     美之助造

      炉 縁  神代欅     宗栄造

    水 指   十字文現川俵型(鵬雲斎箱)

    茶 入   釣鐘 古瀬戸  

      仕 服   宝づくし小石たたみ緞子

    茶 杓   高山右近作(写し) 瓢阿作

    茶 盌   聖水碗 岩手県東和町大籠教会所持

      蓋 置  青竹

      建 水   曲   

    御 茶   青葉の昔     大正園詰

    菓 子   聖樹    玉澤総本店製

    菓子器   染付け十字形   青華造

     

         薄 茶 席(瑞祥軒)

  床 「一方に思いぞはてぬ春をまつ 心におしき年のくれかな」 二品法親王守覚 詠む  松浦鎮信公筆

    花     季のもの

    花 入   十字文コンプラ瓶 波佐見焼

    香 合   南鐐薬筥    トルコ製

    釜     真形松竹梅地紋 多茂津造

      炉 縁 面三友(松竹梅)蒔絵拭漆

      棚     八千代棚 

    水 指   十字型白  丹波 祥公造

    薄 器   IHS螺鈿葡萄蒔絵吹雪 雅峯造

    茶 杓   銘「インマヌエル」 (神は我々と共におられる)宗邦作

    茶 盌  エルサレムクルス紋聖杯 巌三造

       蓋 置  政宗の王金のブローチ型  東斉造

       建 水  高取       碧山造

    御 茶  青松の白     大正園詰

    菓 子  クリスマス  森の香本舗製

    菓子器  桐箔絵干菓子盆   近左造

 

         礼拝の時間 午前12時~12時30分 

前 奏            奏楽 上村真喜子姉   

讃美歌    98(あめにはさかえ)

主の祈り 

「天にまします我らの父よ、願わくは、御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。 御心の天になるごとく、

地にもなさせたまえ。 われらの日用の糧を、今日も与えたまえ。 われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ。われらを試みに会わせず、悪より救い出(いだ)したまえ。国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。」

聖 書 マタイによる福音書1章18―25節

「18イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。 19夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。20このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 21マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 22このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

23「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。 24ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、 25男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

クリスマスのメッセージ  「神様のなさる最高のお・も・て・な・し 辺見宗邦牧師

讃美歌   114(あめなる神には)                 

祝 祷

後 奏 

    ミニ演奏の部 12時30~40分

演奏曲目  バッハ作曲カンタータ第147番  「主よ、人の望みの喜びよ」

演奏者  上村真喜子姉

賛美歌 「もろびとこぞりて」 「きよしこのよる}

歌唱者 谷後義則牧師・喜久栄夫姉夫妻、川津智美姉

紹介  谷後先生は、大衡村にある拡大宣教学院総務として、また併設している東北中央教会の牧師として、平成元年の創立のときから活躍されています。愛媛県今治市のご出身です。奥様は、広島県呉市のご出身す。上村姉と川津姉は、拡大宣教学院の神学生です。今回のクリスマス茶会のために、ご奉仕くださいます。

   クリスマスのメッセージ 

  9月8日の深夜、アルゼンチンのブエノスアイレスで、7年後の2020年夏季オリンピックの開催地を決める、国際オリンピック委員会総会が開かれました。東京招致の最終プレゼンテーション(提示)のとき、フリーアナウンサーの滝川クリステルさんが、流暢なフランス語で、「東京は皆様をユニークにお迎えします。日本語でそれを『おもてなし』という一語で表現できます。」とスピーチしました。日本語で「オ・モ・テ・ナ・シ」と独特のゼスチャーを交えて表現したのは印象的でした。そしてその未明に東京開催が決定しました。

 日本のおもてなしの精神は、世界に誇れる文化です。その最たるものは、茶の湯のもてなしだと、私は思います。(茶の湯はもてなしに重きをおいた表現です。茶道は稽古や修行を表す表現です。)それは特に「茶事」に表われています。懐石料理をお出ししたあと、濃茶、薄茶を飲んでいだだく、四時間半ほどの間、客を招く亭主は、心をこめたもてなしをするのです。千利休は、亭主と客の心得を、百首の和歌(利休道歌)で教えています。茶事に招かれる客は、至福の時を過ごすのです。これ以上のもてなしはないのではないかと、私は思います。ところが、それ以上の「おもてなし」がることをお話ししたいと思います。それは神様がわたしたちにしてくださる「もてなし」です。

  紀元前1000年程前、イスラエル統一王国を築いたダビデ王は、「主は羊飼い」で始まる詩篇23篇で次のように詠っています。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。・・死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。・・わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの盃を溢れさせてくださる」と詠っています。

 神様がわたしと共にいてくださるなら、わたしには何も不足することがない。足りている。神様はどんなときにも、食事を備えてもてなしてくださる、と神様のもてなしに感謝しています。

 イエス様が話された、有名な「放蕩息子のたとえ」で、父から財産を分けてもらった弟息子が、それをお金の換え、遠い国に行って、放蕩の限りを尽くし、ついに、無一文になり、食べるにも困り、父のもとに帰り、息子と呼ばれる資格がないから雇い人にしてもらおうと、帰っていきます。一方、故郷の父は、弟息子のことを心配しない日はなく、帰ってくるのを待ちわびています。息子を姿を遠くに見つけて父親は走り寄り、首を抱き、接吻し、使用人たちに、「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」と言って、祝宴を開きました。この放蕩息子を迎えた父のもてなし、このたとえは神様の私たちに対する愛を表現しています。神は最高のもてなしで放蕩息子を迎えるのです。

 イエス様は、十字架に架けられる前の晩、使徒たちと最後の晩餐をなさいました。食卓に着く前、イエス様は上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまき、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗ったのです。食卓についてから、イエス様は、盃を取り上げて感謝の祈りを唱えてから、「互いに回して飲みなさい」とぶどう酒の入った盃を渡しました。それから、パンを取り、それを裂いて、与えました。イエス様は、「これはわたしの体である。これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」と言われました。この場面にも、イエス様のもてなしが表われています。これを記念として再現するのが教会のミサであり、聖餐式です。この聖晩餐に招かれことは、わたしたちにとって、イエス様からの最高のもてなしを受ける時です。利休は、宣教師が行うミサの儀式を見て感動し、濃茶の回し飲みを考案したと言われています。

  クリスマスは、神様がわたしたちの救いのために御子を与えてくださったことを喜び感謝する祭りです。神の御子が人となって世に来られたのは、「神がわたしたちと共にいてくださる」を表しています。復活された主イエスは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と語っています。イエス様は、いつも私たちと共にいてくださいます。死ぬときも、死んだあとも、共にいてくださり、わたしたちを天国に導いてくださるのです。わたしたちと共にいてくださるために、御子をこの世に送ってくださった神は、わたしたちのために最高のもてなしをしてくださったのです。

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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インマヌエルの主

2013-12-13 19:21:19 | 礼拝説教

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本キリスト教 富 谷 教 会

年間標語「何事も祈って歩む、一年を送ろう」

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」フィリピ4:6

 週     報 

待降節第三主日     2013年12月15日(日)   5時~5時50分 

礼     

前 奏          奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 262(聞け、天使の声)

交読詩編  130(深い淵の底から) 

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書  マタイによる福音書1章18~25節

祈 祷

説 教 [インマヌエルの主」  辺見宗邦牧師

賛美歌(21)267(ああベツレヘムよ)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)   27(父・子・聖霊の)

祝 祷

後 奏

 次週礼拝 2013年12月22日(日)午後5時~5時50分

クリスマス礼拝

聖書  マタイによる福音書2章1~20 

説教  「救い主の誕生」

交読詩編 98 讃美歌265 267   27

予 告

礼拝後、6時~7時まで愛餐会があります。

  本日の聖書 マタイによる福音書1章18~24節

  18イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。 19夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。 20このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 21マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 22このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

   23「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。 その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

   24ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、 25男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

    本日の説教

   マタイによる福音書は、イエス・キリストの系図から書き始めています。アブラハムから始まり、ダビデ王を経て、リアの夫となるヨセフに至るまでの名前を記し、「このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」と記しています。イスラエルには、アブラハムの子孫から、そしてダビデの子孫から、キリスト(メシア=救い主)が誕生することが予言されていました。イエスの養父となるヨセフはそのダビデの子孫であることを、この系図は示しているのです。

   アブラハムはイエスより約2000年前のイスラエルの最初の族長です。文明が発祥したメソポタミア地方カルデアの古代都市ウル(現在のイラク南部)で、B.C.1920年頃、裕福な遊牧民の家に生まれたと考えられています。神様はアブラハムに、彼の子孫の一人によって全世界の人を祝福すると約束されていました(創世記12:3,18:18)。

   ダビデ(B.C.1105~965)はイエスより1000年程前のイスラエル統一王国の王となった人です。このダビデの子孫から救い主が誕生すると神は約束しておられました(イザヤ9:5,11:1-5)。

   イエスの誕生は、1000年も前のダビデの時から、さらに、さかのぼれば、2000年も前のアブラハムの時から、神によって約束され、予言されていた救い主としての誕生なのです。

   マタイによる福音書は、イエス・キリストの系図を記した後、イエス・キリストの誕生を、1章18節以下に記します。「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」

   新約時代のユダヤ人は一般に早婚で、イエスが生まれた時、マリアは16歳位であったと言われています。普通は結婚に先立って一年に及ぶ婚約の期間があり、婚約者はすでに夫、妻と呼ばれ、婚約は結婚と同様の法的義務を持つと解されていました。婚約中のマリアが不義で妊娠したのであれば、死罪に当たることになります。

   ヨセフは、律法に忠実な「正しい人」であり、愛の人であったので、すでに妊娠しているマリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに離縁しようと決心しました。悩み、苦しんだ末の決心だったと思われます。

   このように離縁することを考えていると、主の天使が夢に現れて、ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」と言いました。

  聖書では、しばしば、神は夢の中に現れて、語りかけます。主の天使は、このあと2章でも、三回もヨセフに「夢の中」に現われて「神のみ告げ」を語っています(2:13/2:19~20/2:21)。

  どうして、主の天使は、「ヨセフ(よ)」とではなく、「ダビデの子ヨセフ(よ)」と語りかけたのでしょうか。系図は「メシアと呼ばれるイエス」は、ダビデ王の子孫から生まれることをを強調していましたが、ヨセフとイエスとの間には、直接親子としての血縁関係がありません。しかし、<ダビデの子>であるヨセフがイエスをわが子として受け入れ、その名を親としてつけると、法的に親権者となり、イエスもダビデの子孫として<ダビデの子>として生まれることになるのです。主の使いがヨセフにわざわざ<ダビデの子>と呼びかけた理由は、ここにあります。

   「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」とヨセフは天使から伝えられました。マタイによる福音書では、マリアのことについては記されていませんが、ルカによる福音書によると、マリアは天使ガブリエルによって、あなたは聖霊によって身ごもり、男の子を産むと告げられました。マリアは何のことか判らず、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と言うと、そのマリアに対して天使ガブリエルは「神にできないことは何一つない。」と言って説得し、マリアはこれを受け入れています(ルカ1:26-38)。

   どうして、マリアの受胎に、ヨセフは父親として関与する事ができず、排除されたのでしょうか。それは、救い主の誕生は、聖霊による神の創造的な介入が必要だったからです。何故なら、普通に生まれてくる子はみな原罪を負って生まれてくるからです。「原罪」とは、人類の祖アダムと女(エバ)が、神に禁じられていた善悪を知る園の木の果実を取って食べた罪を犯したことにより、楽園を追われ、そしてその罪が全人類に及ぼした影響のことを言います(創世記3:1-19)。アダムとエバの犯した罪によって全人類に罪が入り、神との交わりを絶たれ、全ての人が死ぬべき存在となったのです。罪ある者が、罪の中にいる者を救うことは出来ません。この人類を救うことができる救い主となる資格は、「罪がない」と人でなければなりません。私たちを救うことが出来るのは、全く罪のない方、神の御子が、救い主となって、聖霊によって生まれて来る必要があったのです。人間の罪を、身代わりとなって贖い、人間を罪と死から救うことができるのは、アダムの罪の性質を受け継ぐ男女の間に生まれる人間ではなく、神の御子が聖霊によって、マリアの胎に宿り、人の子として生まれる必要があったのです。次の二つ聖句が、そのことを表しています。

    「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることを固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」(フィリピ2:6-7)

   「このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離れ、おろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。・・(神は)永遠に完全な者とされていおられる御子を大祭司としたのです(ヘブライ7:26-28)。」

    主の天使は告げます。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」「イエス」という名は、ユダヤにおいて紀元二世紀頃までごくありふれた名でした。「イエス」という名は、旧約聖書に登場するモーセの後継者ヨシュアのギリシャ語訳「イエスース」から来ています。<ヨシュア>は、ヘブライ語では、イェホーシュア> (יְהוֹשֻׁעַ)で、「主は救い」を意味します。

   福音書記者マタイは、イエスの名を更に強調し、「この子は自分の民を罪から救うからである。」と述べています。ここでいう罪とは、神様との関係が絶たれ、神の律法(戒め)を完全に実行できなくなっている、罪と死にとらわれた、神を神とせず、自己中心な生き方をしている人間です。

   「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」とあります。

   救い主がおとめから生まれるということが、イエスキリストが誕生する735年も前から、預言者イザヤによって預言されていたとマタイは記しました。このイザヤ書の句(イザヤ7:14)は預言者イザヤがユダ王国のアハズ王に語った言葉です。

  アハズ王(BC.735-716)の治世の第一年に、スリヤとエフライム(北王国イスラエルの別名)の連合軍が来襲したとき、アハズ王と国民は驚きうろたえました。当時アハズは20歳位の青年でした。祖国の一大危機に際して、イザヤはアハズ王を訪ね、主のみ旨(むね)を伝え激励したのです。同盟軍の圧迫を恐れて、アッスリヤに頼る政治的策略や、敵軍の包囲に備えての物資的施設を備えることよりも、主なる神に対する絶対的な信頼こそ一大危機に処する唯一の道であると、イザヤは説いたのです。それにもかかわらず、アハズはアッスリヤの援軍を求めました。それで、主に対するアハズの信仰を励ますために、イザヤは、神の約束が実現される一つの「しるし」を求めるように告げたのですが、アハズは体(てい)よくそれを断りました。それで、主なる神は、アハズの要求によらず、主みずからが、王たちに新たに一つのしるしを与えたのです。それが、「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエル(<イン>が共に、<マヌー>が我らと、<エル>が神です。)と呼ぶ。災いを退け、幸いを選ぶことを知るようになるまで、彼は凝乳と蜂蜜を食べ物とする。」という予言です。その予言は、その子が大きくなる前に、アラムもエフライムも崩れ落ち、諸国が荒廃する代わりに、ユダ王国には未曾有の繁栄が訪れるであろうという予言でした。<おとめ>は「年若い婦人」のことです。イザヤの予言では、<おとめ>とは、アハズ王の夫人であり、<男の子>とは、アハズ王の後を継ぐ、ヒゼキヤの誕生を指すとするのが有力な解釈になっています。 イザヤがアハズ王に対し、神はユダの国難に際してその国民とともにいまし、大能をもって彼らを救いたもうことを教えようとしたのです。

   この<インマヌエルの予言>を語ったイザヤは、明らかに、処女降誕を考えもしなければ、数百年後に生まれるメシアをも考えてもいませんでした(KKR新約聖書注解1/1マタイに福音書、p.140参照)。このインマヌエルの予言にある「若い女」を表すヘブライ語の<アルマー>を、七十人訳聖書では、ギリシャ語の「処女」を意味する<パルセノス>に翻訳したのです。これは新たに解釈によるものであり、原始キリスト教会の信仰によるものでした。しかし、救い主イエスの誕生を表すのには適切な表現となったのです。くすしくも、イエスの誕生によって、インマヌエルの予言が、完全に実現したのです。 

   「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた」とあります。

   マリアもヨセフも、「聖霊によって身ごもる」ということは、到底受け入れられない、お告げであったと思われます。しかし、神の御使いが現れ、聖なる神の顕現に接して、神のご威光を拝し、畏れに打たれとき、理性による理解を越えた出来事として、全能の神のなさることとしてを受け入れることができたのではないでしょうか。神を知るには、神の霊によらなければ誰も解りません。コリント信徒への第一の手紙2:10~16)」とあるように、神の霊を受けて、人は理性を超えた出来事の理解が得られるのです。

   ヨセフは夢の中で御使いを通して与えられた神のお告げを信じて、神の御言葉に従いました。

   イエス・キリストの誕生、それは預言者イザヤにおいて預言されたインマヌエル、「神、我らと共にいます」の成就でした。旧約聖書の時代、主なる神は、アブラハムイサクヤコブ、そしてモーセヨシュアとともにいてくださいました。多くの場合、彼らが困難や、窮地に陥ったとき、あるいは、不安を覚えているとき、「わたしは、あたなとともにいる。恐れるな。」と励まされました。

   族長ヤコブには、主なる神が、「わたしは、あなたの先祖アブラハムの神、イサクの神、主である」と言われ、「見よ、わたしはあなた共にある」と言われました(創世記28:15)。モーセに、出エジプトの使命を与えるときにも、「わたしは必ずあなたと共にいる(出エジプト記3:12)」と言って励され、後継者ヨシュアにも、「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる(ヨシュア記1:5)」と約束されました。イスラエルの人々が、自分たちの罪によって、異国の地に連れてこられ、悲しんでいたとき、神は、「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(イザヤ書 41:10)にはと語られました。

  復活者であるイエスの最後の言葉は、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)でした。ヘブライ人への手紙13:5にも、「神御自身、『わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない』と言われました」とあります。活ける神は常に「我らと共にいます神」でした。

  神は、現代に生きる私たちとも共にいてくださいます。罪のないキリストが、聖霊として、私たちのうちに来てくださいます。たとえ、私たちが気づいていなくとも。主が共にいてくださるなら、どんな困難も乗り越えることができるのです。徳島県阿南市の神召キリスト教会の樽山啓子牧師は、熊本県の実家におられた実父を亡くし、葬式を済まされた後、「いつも共におられる主」という説教題で次のように話されました。

   イエス様は父が天に召される時も一緒にいてくださったと信じることができます。詩篇23:4「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、わたしはわざわいを恐れません。あなたがわたしとともにおられますから。」とダビデは歌っています。イエス様はこの死という闇を打ち破って、3日目によみがえってくださいました。よみがえられたイエス様は今日も明日もわたしたちとともにいてくださるのです。変わりなく永遠にわたしたちとともにいてくださるのです。
 父は召されていなくなりました。しかし、イエス様はいつも(父と共に)一緒にいてくださいます。永遠にともにいてくださるイエス様の存在がどんなに尊い存在であるかをもう一度知ることができました。」と語っています。

  イエス様は、わたしたちが生きていいるときはもちろんのこと、わたしたちが死ぬ時も、死んだあとも、共にいてくださり、わたしたちを天国に導いてくださる方なのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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神がモーセに語った「神の御名」 出エジプト記3章1~15節

2013-12-08 22:00:56 | 礼拝説教

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403  

日本キリスト教 富 谷 教 会

年間標語「何事も祈って歩む、一年を送ろう」

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」フィリピ4:6

   週     報 

待降節第二主日      2013年12月8日(日)   5時~5時50分 

礼 拝 順 序  

前 奏                  奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 231(久しく待ちにし)

交読詩編   98(新しい歌を主に向かって歌え) 

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書  出エジプト記3章1~15節

説 教  「神がモーセに語った『神の御名』」辺見宗邦牧師

賛美歌(21)157(いざ語れ、主の民よ)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)   27(父・子・聖霊の)

祝 祷

後 奏

次週礼拝 2013年12月15日(日)午後5時~5時50分

聖書  マタイによる福音書1章18-24節 

説教  「インマヌエルの主 」

交読詩編 130  讃美歌262   267   27

 

予 告

 12月21日(土)クリスマス茶会

 12月22日(日)クリスマス礼拝と愛餐会

 

    本日の聖書 3章1~15節

1モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。 2そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。 3モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」

 4主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、 5神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」 6神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。

7主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。 8それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。

 9見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。 10今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」

11モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」 12神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」

13モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」

14神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」 15神は、更に続けてモーセに命じられた。

「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名これこそ、世々にわたしの呼び名。

      本日の説教

  先週の礼拝では、出エジプト記1章から2章10節までに記されている、赤ん坊のモーセがエジプトの王女に拾われ、実母を乳母(うば)として乳離れするまで育てられ、その後王女に引き取られ、宮殿で教育を受け育てられるまでのお話しをいたしました。

  今日の聖書の箇所は、3章1節からのモーセの召命のところです。その前に、2章11節から25節までに記されているあらすじをお話しいたします。

   成人したモーセは、同胞のヘブライ人が重労働に服しているのを見ました。モーセは、一人のエジプト人が、一人のヘブライ人を殴っているのを見て、そのエジプト人を殴り殺しました。このことを知ったファラオから殺されることを恐れたモーセは、エジプトからミディアンの地に逃亡しました。ミディアンというのは、アカバ湾の東、アラビヤ半島北西部を根拠地としていた遊牧民の名です。モーセはその人々の所に身を寄せました。「それはモーセが40歳の時の出来事(使徒言行録7:23)」でした。

  モーセはミデアンの地で、祭司レウエル(「神の友」とい意味)の保護を受けます。レウエルは、アブラハムの第二の妻ケトラから生まれたミデアンの子孫です。モーセは娘ツィポラを与えられて結婚し、子を持ちます。彼はその子をゲルショムと名付けました。彼が、「わたしは異国にいる寄留者(ゲール)だ」と言ったので、付けられた名です。

  「それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ(2:23)」とあります。

「長い年月」と書いてありますが、モーセの年齢は予測できます。死んだエジプト王とはラメセス二世と思われます。モーセの誕生は1280頃、セティ一世が王になって10年ほど過ぎたときです。そのあと、セティ一世は3年間王の地位にあり、ラメセス二世が後を継ぎました。その治世は67年間でした。そうすると、その時のモーセの年齢は、70歳頃となります。

  40歳でエジプトから逃げたモーセにとって、すでに30年経過したいたことになります。

その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた」とあります。

  ここから、3章に入ります。モーセは、しゅうとであり、ミディアンの祭司であるエトロ(2章18節のレウエルのこと)の羊の群を飼っていました。あるとき、自分が住んでいたミデアンの地から百キロ以上も離れでた、シナイ半島の荒れ野の奥にある神の山ホレブに来ました。これはモーセが80歳の時の出来事です(出エジプト7章6節参照)。ホレブ山というのは、シナイ山の別の言い方です。シナイ山は、エジプトとアラビヤの間のシナイ半島の先端にある山で、海抜2500メートルほどの山です。砂漠地帯にある山としては高い山です。そのとき、柴が燃えているのに、燃え尽きない不思議な光景をみました。柴は、山や野に生えている小さな木々、雑木のことです。モーセは見ようと近づいたとき、神が柴の間から声をかけられました。「モーセよ、モーセよ」と名前を2回呼びました。これは、親しい呼びかけを表します。彼が、「はい」と答えると、神が言われました。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」これは、神の臨在するところは聖く、厳かであることを教えるためでした。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセに語られた神は、モーセの父と共にあり、モーセの先祖アブラハムと共にあり、イサクと共にあり、ヤコブと共にあった神であると語ったのです。モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆いました。

  主なる神は言われました。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見、また追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。そえゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、・・・へ導き上る。」「わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々を連れ出すのだ。」

  モーセは答えます。「私は何者でしょう。」 モーセはエジプトから逃亡した、異国にいる寄留者です。40年もの間一介の羊飼いとして暮らしてきたのです。年齢もすでに80歳です。当時最も権力を持つエジプトの王ファラオのもとから、イスラエル人を連れ出すとは、「私はいったい何者でしょう」と言って断りました。モーセがこの使命に逆らった理由が、4章10節以下にも記されています。「ああ、主よ。わたしは弁が立つ方ではありません。」自分は弁舌は巧みではありません。訥弁(とつべん)です。「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。」と言って、神から与えられた使命を回避しようとしています。

 「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」と神は応答されました。神がモーセと共にいてくださって、欠けたところを補い、支えてくださるといのです。

  モーセは神に尋ねました。イスラエルの人のところに行ったとき、「あなたを遣わした神の名は何か」と聞かれた場合、なんと言ったらよいのか、「あなたの名前を教えてください」と頼みました。当時のエジプトの民が信じた神々は、多神教でしたが、中心的な神は太陽神でラーという名前の神でした。また、カナンの先住民族たちの神は、バールという名前の神でした。また、バビロニヤ人の神は、マルドクという名前の神でした。

  神はモーセに「わたしはある、わたしはあるという者だ」と答えられました。

  神は、更に続けてモーセに命じました。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名これこそ、世々にわたしの呼び名。」 神は、このように言われて、モーセに召命を与えられたのです。

  「あなたの名は一体何か」というモーセの問いに、神は二つの自己紹介をしています。その一つは、「わたしはある。わたしはあるという者だ」は、口語訳聖書では、「わたしはあってある者」と訳されていました。「わたしはある」は、<わたしは存在する>ということであり、神の永遠性、超越性、不変性を表していると思われます。「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」(黙示録1:4)「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(へブライ13:8)に通じる言葉です。神は、すべての創造の源であり、初めから存在し、真のいのちを持たれ、すべての他の存在に依らないで、永遠に存在する方であることを示しています。

 もう一つの神の自己紹介は、「わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主」とあります。「これこそ、とこしえにわたしの名これこそ、世々にわたしの呼び名」と言っておられます。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と三人のイスラエルの族長の名が挙げていますが、この三人を通してご自分を啓示された神であり、地上の氏族すべてがあなたによって祝福に入る」(創世記12:4)と契約を結ばれた神であることを表しています。アブラハムを通して「全能の神」であることを啓示され、イサクを通して「すべての必要を満たす神」であることを示され、ヤコブを通して「きよめる神」であることを顕された神です。

  私たちが信じる聖書の神は、抽象的な、漠然とした神ではなく、何よりもまず、このように具体的に、イスラエルの歴史に現れた神であるということです。その神は、ただイスラエルの神であるだけではなく、全世界の人々の神であります。ここで注目しなければならないのは、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であるという言葉です。神はモーセに神の名「ヤハウェ」と名のられたのです。しかし、イスラエル人は、「みだりに神、主の名を唱えてはならない」との戒律により、その名が用いることはタブーとなったのです。

 主(ヤーウェ)と訳されている言葉は、「 יהוה 」という四つの文字(右から左の方へ読む)のヘブライ語です。(ローマ字で、JHWH[またはJHVH]と書き表されることもあります。)イスラエル人はこの文字を神聖文字として発音記号をつけなかったのです。その代わり、この神の名を表す文字を、普通名詞の「主、主人」を表す「アドナイיְהוָה」と読み変えたのです。この神の御名を表す神聖四文字の発音を、今日は、「エホバ(イェホワ) יְהֹוָה 」と読む人たちもいますが、「ヤハウェ(ヤハイエ)יַהְיֶה」と読む方がより本来の発音に近い、と言われています。

私たちには、「その名はインマヌエル(神は我々と共におられるの意味)と呼ばれる」、イエス・キリストという神の御子、が与えられています(マタイによる福音書1:23)またこの御子キリストによって、「アバ父よ」と呼べる、父なる神「ヤハウェ」が共におられることを感謝したいと思います。

 

 

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