富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「神に近くあることを幸いとする」詩篇73編16~28節

2023-01-31 15:36:40 | キリスト教

↑ 書:栢沼(かえぬま)将夫 埼玉県北秋津キリスト教会員「聖書一言メッセージ2」掲載

 〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

降誕節第7主日  2023年2月5日(日)  午後5時~5時50分

                            礼 拝 順 序                    

                                                              司会 齋藤 美保姉                

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  57(ガリラヤの風かおる丘で)

交読詩編     73(神はイスラエルに対して)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)   詩篇73編16~28節(旧p.908)

説  教   「神に近くあることを幸いとする」辺見宗邦牧師

祈 祷                                                  

讃美歌(21) 531(主イェスこそわが望み)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オン・ラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019

 (辺見牧師)に、申し込み下さい。

           次週礼拝 2月12日(日)  午後5時~5時50分

           聖 書 創世記22章1~14節

           説教題 「主の山に、備えあり」  

           讃美歌(21) 356 227 27 交読詩編 103

本日の聖書 詩篇73編16~28節

 73:16わたしの目に労苦と映ることの意味を知りたいと思い計り、17ついに、わたしは神の聖所を訪れ、彼らの行く末を見分けた。
 18あなたが滑りやすい道を彼らに対して備え、彼らを迷いに落とされるのを、19彼らを一瞬のうちに荒廃に落とし、災難によって滅ぼし尽くされるのを。
 20わが主よ、あなたが目覚め、眠りから覚めた人が夢を侮るように、彼らの偶像を侮られるのを。21わたしは心が騒ぎ、はらわたの裂ける思いがする。
 22わたしは愚かで知識がなく、あなたに対して獣のようにふるまっていた。
 23あなたがわたしの右の手を取ってくださるので、常にわたしは御もとにとどまることができる。
 24あなたは御計らいに従ってわたしを導き、後には栄光のうちにわたしを取られるであろう。25地上であなたを愛していなければ、天で誰がわたしを助けてくれようか。26わたしの肉もわたしの心も朽ちるであろうが、神はとこしえにわたしの心の岩。わたしに与えられた分。
 27見よ、あなたを遠ざかる者は滅びる。お下から迷い去る者をあなたは立たれる。
 28わたしは、神に近くあることを幸いとし、主なる神に避けどころを置く。わたしは御業をことごとく語り伝えよう。

本日の説教

 詩編73篇は、ねたみ、ひがみからの解放ということを歌っています。この詩は、1節で神の恵み深さを述べて始まり、28節で閉じられます。

 「神はイスラエルに対して、心の清い人に対して、恵み深い。」(1節)

 「それなのにわたしは、あやうく足を滑らせ、一歩一歩を踏み誤りそうになっていた。」(2節)と、言っています。しかし幸いなことに、ぎりぎりのところで踏みとどまることが出来たのです。それは、「神は、「心の清い人に対して、恵み深い」ことを知ったからです。

 詩人のうらやみは、悪者が繁栄している現実を見ることから生じました。悪者の繁栄ぶりについては、4節~12節に記されます。

「死ぬまで彼らは苦しみを知らず、からだも肥えている。だれにもある労苦すら彼らにはない。だれもがかかる病も彼らには触れない、傲慢は首飾りとなり、不法は衣となって彼らを包む。、目は脂肪の中から見まわし、心には悪だくみが溢れる。彼らは侮り、災いをもたらそうと定め、高く構え、暴力を振るおうと定める。口を天に置き、舌は地を行く。(4~9節)

 10節の「民がここに戻っても、水を見つけることはできないであろう」は難解な節で、直訳すると、「それゆえ、その民は、ここに帰り、豊かな水は、彼らによって飲み干された」です。「それゆえ、彼らは民の間で大いに受け、人々は彼らの言葉を水のように呑み干す」という意味になります。

「そして彼らは言う。『神が何を知っていようか。いと高き神にどのような知識があろうか。』見よ、これが神に逆らう者。とこしえに安穏で、財をなしていく。」(11~12節)
 「わたしは心を清く保ち、手を洗って潔白を示したが、むなしかった。日ごと、わたしは病に打たれ
朝ごとに懲らしめを受ける。『彼らのように語ろう』と望んだなら見よ、あなたの子らの代を裏切ることになっていたであろう。」(13節~15節)

 13節で述べられる「むなしさ」は、神に仕えるしもべが、しばしばこの世にあって抱く真実な苦悩です。この世の現実にとらわれ過ぎ、目先のことがらにとらわれ過ぎた者は、神と永遠の命を見失い、後の世代に対して神を証するという大切な使命を果たせなくなってしまう。この反省がなされた時、労苦と感じられた思いに新しい展望が開け始めます。

「わたしの目に労苦と映ることの意味を知りたいと思い計り、ついに、わたしは神の聖所を訪れ、彼らの行く末を見分けた。」(16~17節)

 詩人は、「労苦と映ることの意味を知りたいと思い、神の聖所を訪れることによって、悪しき人々の行く末と最後を見分けることが出来ました。

 「あなたが滑りやすい道を彼らに対して備え、彼らを迷いに落とされるのを、彼らを一瞬のうちに荒廃に落とし、災難によって滅ぼし尽くされるのを。」(18~19節)

 悪人がよりどころとする一時的な繁栄は、永続性のない偽りの安全です。

「わが主よ、あなたが目覚め、眠りから覚めた人が夢を侮るように、彼らの偶像を侮られるのを。」(20節)

 主が、彼らの偶像を侮られるのを、詩人は知ります。

 「わたしは心が騒ぎ、はらわたの裂ける思いがする。わたしは愚かで知識がなく、あなたに対して獣のようにふるまっていた。」(21~22節)

 自分が、浅はかな人間の知恵で、神の御計画を全部知ろうとした愚かさが分かったことで、はらわたの裂ける思いの反省をします。

 「あなたがわたしの右の手を取ってくださるので、常にわたしは御もとにとどまることができる。あなたは御計らいに従ってわたしを導き、後には栄光のうちにわたしを取られるであろう。」(23~24節)

 神が共におり、私を捕らえてくださっていることを悟りました、と告白しています。

 「地上であなたを愛していなければ、天で誰がわたしを助けてくれようか。」(25節)

 彼は本当の祝福を悟りました。神以外の宝はない、慕うものは神ご自身、神以外のものは何も望みませんという心境です。このように悟ることが出来た詩人は、ねたみ、ひがみから解放され、勝利の歩みが出来るようになったのです。

 「わたしの肉もわたしの心も朽ちるであろうが、神はとこしえにわたしの心の岩。わたしに与えられた分。」(26節)

 申命記10:9に記されているレビ族への約束を思わせます。キリスト者にとっては、「キリストの内にある神の義をいただく」(フィリピ3:89)という告白に通じます。

 「見よ、あなたを遠ざかる者は滅びる。御もとから迷い去る者をあなたは断たれる。」(27節)

 悪人の結末を述べる18節以下が再確認されます。究極の悲劇は「神から遠ざかる」ことです。

「わたしは、神に近くあることを幸いとし、主なる神に避けどころを置く。わたしは御業をことごとく語り伝えよう。」(28節)

 絶えることのない幸いは「神の近くにある」ことです。「神に近くある」とは、現実的には、神礼拝の群れの一員としての場を与えられ、神を証しする使命に生きることです。

 クリスチャンの幸福は、同じ信仰に立つ人々と一緒に「神の近くにいること」です。主こそ「心の岩」、人生の土台です(詩篇73:26)。その主を中心とした教会の公同の交わりには、個人的な神との交わり(デボ―ション)では得られない、慰めと励ましがあることを覚えましょう。私たちは、その群れの中にあって、永遠を先取りできるのです。

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「正しい献金と神殿崩壊の預言」

2023-01-24 17:06:24 | キリスト教

  「貧しいやもめの献金」William Artaud (ウィリアム アルトー)   

 1763~1823、英国人、マックリン聖書のために描いた絵画彫刻(1800年)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

降誕節第6主日 2023年1月29日(日)  午後5時~5時50分

                            礼 拝 順 序                      前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  17(聖なる主の美しさと)

交読詩編     48(大いなる主)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳) ルカによる福音書21章1~9節(新p.151)

説  教  「正しい献金と神殿崩壊の預言」  辺見宗邦牧師

祈 祷                                                  

讃美歌(21) 390(主は教会の基となり)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オン・ラインで礼拝に参加できます。                090-3365-3019(辺見牧師)に、申し込み下さい。

          次週礼拝 2月5日(日)  午後5時~5時50分

          聖 書 ルカによる福音書8章4~15節

          説教題  「教えるキリスト」 

          讃美歌(21) 57 536 27 交読詩編 147

本日の聖書

 21:1イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。2そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、3言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。4あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」5ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。6「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」7そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」8イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現われ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。9戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」

本日の説教

ルカによる福音書21章1-4節の「やもめの献金」と、5-9節の「神殿崩壊の予告」は、19章28節のエルサレム入場から始まる主イエスの受難と復活の記事に先立つ記事です。イエスの三年近い公生涯の最後という観点からこの記事を読むことが求められます。

 主イエスは、エルサレムの神殿の「賽銭箱」の置かれている広場で、金持ちたちが賽銭箱にたくさん献金を入れるのを見ておられました。おそらく自由献金用の「賽銭箱」の近くに「座って」(マルコ12・41)、見ておられたようです。  

 神殿の婦人の庭の周りは柱廊で囲まれ、壁を背にして十三個のトランペット形の献金箱が置かれていました。それぞれの箱には、献金の使途のラベルが記されていました。箱のそばに祭司が立っていて、献金者は、自分の献金の使途と金額とを告げました。十三番目の箱は自由献金用の箱でした。       

 

 一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚を入れました。「レプトン」は、「レプタ」の複数形です。レプトン銅貨は当時パレスチナに流通していたギリシヤ銅貨の中で最小のものでした。マルコ福音書の方では、レプトン銅貨二枚を、一クァドランスと説明しています(マルコ12・42)。クァドランスはローマの青銅貨で、一デナリオンの64分の1に相当します(共同訳聖書巻末付録「度量衡および通貨」参照)。一デナリオンはローマの銀貨で一日の賃金に当たります。日本の貨幣に換算すると、一日の労務者の賃金を10000円とすると、その64分の1は、156円です。貧しいやもめは、156円しか持っていなかったことになります。

 イエスは、このやもめに目をとめ、弟子たちを呼び寄せて言われました。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から自分の持っている生活費を全部入れたからである」と言われました。

 イエスは、やもめが生活費の全部を入れたことを、貧しいやもめのみすぼらしい姿から見抜かれたのか、超能力によるものかは記されていません。この「生活費」という言葉は、原文のギリシャ語では「ビオス」という言葉です。「生活費」という原語は、「生命」をも意味する語です。彼女は彼女の「生命」をささげているのです。「生活費の全部」を入れたら、生活するのに困らないだろうかという疑問をもつかも知れませんが、主イエスは献金についての心の在り方を教えているのです。献金は、神の恵みへの感謝であり、更には自分自身を献げるという信仰の証しなのです。

 主イエスは金額を問題にしているのではありません。彼女は神により頼み、神は完全に守り給うと確信して、すべてを神に献げつくしたと、主イエスは言われているのです。神が求められるのは、献げ物ではなく、彼女の神に対する愛であり、神により頼む純粋な人の心であり、信仰です。

 主イエスは山上の説教で、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのもので」ある」(マタイ5・3)と教えられました。この貧しいやもめは、「心の貧しい人」でした。「心の貧しい人」とは、「神に全く依り頼んでいる人」のことです。すべては神様の恵みによって生かされていることを自覚し、自らを貧しい者であるかのように見做している人」です。富んでいても、すべては神様からの預かりものとして、神様の御心に従う人です。「心の貧しい人々」は、神の国に将来参加するというだけでなく、その至福を現在受けているからこそ「幸い」なのです。

 この「貧しいやもめの献金」の物語は、神への献げ物が大きいほど神に喜ばれるという当時のユダヤ人の考えを是正する教えでした。献金する金額ではなく、その日の生活費を全部ささげたかどうかとかという問題でもありません。献金する心を神は求めておられるのです。何よりも大切なことは、富に頼るのではなく、神にすべてを委ね、全くより頼んで生きることです。

 使徒パウロはローマの信徒への手紙12章1節で、「こういうわけで、兄弟たち神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる、聖いなる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」と、勧めています。自分の体を献げること、自分の生命をささげることが霊的な礼拝であると教えています。

 献金については、コリントの信徒への手紙二、9章6節-15節で、1.いやいや惜しみながらではなく、気前よく、喜んで。2.強制されてでもなく、自発的に。3.他人との比較ではなく、自分のきめたとおりに行うように、と教えています。神から与えられているお金を、神のみこころにかなうように、生活のためにも有効に用いなければなりません。神は生活費のすべてを献げることを求めているのではありません。献金はわたしたたちの命をささげる献身のしるしです。献金は神の恵みに対する感謝から、神への愛、隣人への愛、教会の宣教のために用いられるものであり、神への栄光のためなのです。

 主イエスは不信仰な律法学者や祭司たち、イスラエルの民の反抗と迫害の中にあって、孤独でした。すべてを献げる信仰深いこの貧しいやもめの姿に、どんなにか慰められたことでしょう。彼女の神に対する真実と愛とを見られて、どんなにか力づけられたことでしょう。主イエスも、父なる神を信じて、十字架の上ですべてを献げられるのです。

 主イエスがおられたエルサレム神殿で、ある人たちが、神殿の見事な石と、奉納物で飾られていることを話していました。このエルサレム神殿は、バビロンから戻って来たイスラエルの民が建て直した第二神殿を、さらに紀元前20年にヘロデ大王が完全改築に近い形で大拡張した神殿で、さらに立派に、豪華になっていました。この神殿は、イスラエルの人々の誇りでした。エルサレム神殿に来た人は皆、この神殿の立派さに驚き、目を見張ったのです。しかし主イエスは、この神殿に対して、「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」と言われました。この神殿は瓦礫の山になる日が来ると言われたのです。これを聞いた人々は驚いたに違いありません。そしてそれは、この主イエスの言葉から40年程後の紀元70年に、ローマ軍によるエルサレム陥落により、本当に起きたのです。世界中のユダヤ人が集まり祈りをささげている、現在のエルサレムにある「嘆きの壁」というのは、この神殿の唯一の残った物です。神殿はこの壁一つしか残さずに破壊し尽くされたのです。

  

   エルサレムの「嘆きの壁」

主イエスがエルサレム神殿の崩壊を告げたので、人々は、それは何時起きるのか、それが起きる時にはどんな徴があるのかと尋ねました。主イエスはエルサレム神殿の崩壊の時のことではなく、それをも含む、終末に至る歴史を告げられたのです。イエスは、惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、「私がそれだ」とか、「時が近づいた」とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである、と言われました。

 惑わす人とは、主イエスの名を名乗る者です。偽キリストです。自分がキリストの生まれ変わりだと言ったり、自分はイエス・キリスト以上の者であるという人が出て来るのです。そして更に、イエスは、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。」言われました。主イエスは、そういうものが起きたら終末が来ると言われたのではなくて、そういうことが起きても惑わされてはいけないと言われたのです。その様なことが起きても私達が惑わされることなく、信仰に堅く立ち続けることが出来るようにと語られたのです。
 そして、迫害についてです。たとえそのようなことが起こったとしても、うろたえるな、惑わされな、信仰に堅く立ちなさい。主の守りがある、永遠の命がある。目に見えるものを頼るな。そう言われたのです。「それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をすることはないと、心に決めなさい。」とあります。弾圧・迫害はある。しかし、その時には弁明する準備もいらない。語るべき言葉、知恵が与えられる。だから安心していなさい、と言われているのです。弾圧や迫害は、何も国家の手によって為されるとは限りません。家族、友人から受けることもある。キリスト者であるというだけで人々から憎まれることだって起きます。

 「しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」と主イエスは言われます。私達はこのことを信じて、忍耐しなければなりません。その先には、神の国があります。主イエスが忍耐をもって命をかち取れと言われた永遠の命があります。

それでは、「終わり」は何によってもたらされるのか、そのことは、この21章27節で語られています。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」「人の子」とは主イエス・キリストのことです。主イエスが大いなる力と栄光を帯びてもう一度来られる、そのことによってこの世界は終わる、と聖書は語っています。

この世界と私たちの目に見える現実には、なお罪が満ちており、苦しみや悲しみがあり、天災や人災による苦難があります。それらが私たちをともすれば脅えさせます。そのようなこの世界にあって、目に見えない主イエスのご支配、父なる神様のご支配を信じて生きていくのが信仰者です。主イエスの支配は、いつまでも見えないままではありません。救い主イエス・キリストがもう一度来て下さり、そのご支配が目に見える仕方で完成して下さる時が来るのです。神様がお造りになったこの世界は、この主イエスの再臨によって終わるのです。このことを信じて待ち望みつつ生きるなら、私たちは、崩壊の現実に直面する時にもそれが「終わり」ではないことを、それらは「まず」起るに決まっているが、その先に神様の救いの恵みの完成があることを見つめて生きることができるのです。そのことによって私たちは、脅えから解放されて、偽りの安心を語る者たちによって惑わされることなく、本当に見つめるべきことを見つめつつ生きることができるようになるのです。

聖書がその最後に告げているのは、イエス様がすぐに来られる、という約束です(ヨハネの黙示録21章20-21節)。私たちのために十字架にかかって死んで下さり、三日目に復活して天に昇られたイエス様がもう一度来られる。そのことによって、この世は終わり、神の国が完成するのです。その時、私たちの救いも完成するのです。このイエス様の約束を信じて、「アーメン、主イエスよ、来てください」と祈りながら生きるのが、私たちの信仰です。

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「ナザレの会堂で教えるイエス」ルカ4章16~30節

2023-01-17 16:38:22 | キリスト教

↑ヘルブラント・ファン・デン・エークハウト オランダの画家      「ナザレの会堂でのキリストの教え」1658の作品、所蔵:National Gallery of Ireland, Dublin(メシア・イエスに対する疑いと拒絶の態度が描かれています。イエスは故郷ナザレで受け入れられませんでした。)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

降誕節第5主日  2023年1月22日(日)  午後5時~5時50分

       礼 拝 順 序                    

                司会 斎藤 美保姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)   4(世にある限りの)

交読詩編    111(ハレルヤ。わたしは心を尽くして主に感謝をささげる)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳) ルカによる福音書4章16~30節(新p.107)

説  教   「イエスによる宣教の開始」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                                  

讃美歌(21) 518(主にありてぞ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オン・ラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019(辺見牧師)に、

申し込み下さい。

         次週礼拝 1月29日(日)  午後5時~5時50分

         聖 書 ルカによる福音書21章1~9節

         説教題  「新しい神殿」 

         讃美歌(21) 17 390 27 交読詩編 48

本日の聖書 ルカによる福音書4章16~30節

4:16イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。17預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。     18「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、 19主の恵みの年を告げるためである。」          20イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。 21そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。22皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」 23イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」24そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。25確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、26エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。27また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」 28これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、29総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。30しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

  本日の説教

イエスはナザレを出て、ヨルダン川に向かい、ヨハネから洗礼を受けました。そのあと、イエスはヨルダンの荒れ野に行き、そこで40日、悪魔の誘惑を受けました。「荒れ野」は、エリコの西の「ユダの荒野(あらの)(ワディケルト=乾燥した渓谷の意)」と推定されています。イエスは荒れ野で悪魔の誘惑に打ち勝たれました。 

                                            イエスは、「霊の力に満ちて」ガリラヤに戻り、公の宣教を開始しました。その評判は周りの地方一帯に広まりました。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられました。                                           ルカ福音書は、以上のように、4章14節-15節で、ガリラヤの宣教をまとめて報告し、ガリラヤ宣教の詳細は、4章31節以下に記し、最初にナザレでの宣教について記します。イエスが郷里でどのようにあしらわれたのか、その排斥を伝え、それによってイエスの地上の生涯を予表するためでした。

 【マタイによる福音書では、洗礼者ヨハネの逮捕を契機として(マタイ4:12)、ヨハネによる福音書では、サマリヤの女との出会いの後で(ヨハネ4:43)、イエスはガリラヤへ「退いた」と表現しています。ナザレで受け入れられない記事は、マタイ13:53~48、マルコ6:1~6に記されています。】

イエスはお育ちになった故郷のナザレに来て、いつものとおり安息日に礼拝をするためシナゴ―グと呼ばれる会堂に入りました。聖書を朗読しようとしてお立ちになりました。会堂の係りの者から預言者イザヤの巻物が渡されたので、お開きになり、イザヤ書61章1節のことばを見つけました。2節にある「神が報復する日」を省いて朗読されました。それはユダヤ人を喜ばせる他民族への神の報復の預言だからです。イエスは民族の差別をされないのです。

 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。(イザヤ書61:1)」

主イエスは、ナザレの会堂で、この神による解放を告げる言葉を読んだ後、巻物を巻いて係りの者に返し、席に座られました。会堂にいたすべての人の目がイエスに注がれました。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められました。これは、実に大胆で驚くべき宣言です。イザヤの預言は今日実現した。自分こそ、その神が遣わされたメシア(救い主)であるという宣言です。この宣言は私達の上に神の国は始まっていることを表します。もちろん、完成していません。だから、私共は御心が天になるごとく、地にもなさせ給えと祈りつつ、神の国の完成へと歩み続けているのです。

 イザヤ61章は、第三イザヤ(B.C.539~441)と呼ばれる預言者の書いた預言書(56章~66章)の中にあることばです。第三イザヤは、ユダヤ人の祖国帰還と第二神殿再建(B.C.515年)直後まで活動した預言者です。第三イザヤはバビロン捕囚からイスラエルが解放されることを、主によってモーセが定めたヨベルの年と関連させて預言しました。                                     ヨベル(雄羊の意)の年とは、五十年ごとに、「国中に雄羊の角笛を吹き鳴らして始まる、全住民に解放を宣言する年」です。すべての負債は取り消され、借金のかたのために奴隷になっていた者は解放され、所有物は最初の持ち主に戻る年です(レビ記25章10節)。バビロンからの解放もヨベルの年のようになるだろうと第三イザヤは預言したのです。貧しい者や不当な扱いを受けている者は救われ、囚人は釈放され、敵の圧迫によって打ちひしがれていた者は解放されるであろう。彼らは喜びつつ故郷に帰ることができるだろう。バビロンからの帰還は、すべての人が自由になる<主の恵みの年>となるだろう、と預言したのです。                                                  主イエスは、このヨベルの年、「主(神)の恵みの年」があなたがたが耳にした「今日」、実現したと告げたのです。それは、この言葉を読み、この言葉を語っている自分が、メシヤであり、主から油を注がれた者、主の霊がとどまる者であることを伝えています。

皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚きました。しかし、「この人は、ヨセフの子ではないか」、大工のせがれではないかと言って、イエスがメシアであることに疑問を抱き始め、イエスを信じようとはしませんでした。イエスはその心中を見抜いて、「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない」と言われました。                                                   イエスがカファルナウムで病気を癒し、悪霊を追い出す力ある業をなされたことを聞いている郷里の人々は、同郷人としてのイエスへの近しさから、このナザレでもイエスの行う奇跡を見たいし、見せてもらったら信じようという彼らの思いをイエスは見抜かれたのです。彼らがしるしを求めたのは、イエスを試そうとする疑いであり、不遜な罪であり、不信仰以外の何ものでもありませんでした(申命記6・16)。イエスはその不信仰を見抜かれ、彼らの要求を拒否されたのです。

さらにイエスは、「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。」と言われ、旧約の預言者エリヤ(列王記上17:8~14)も、エリシャ(列王記下5:1~17)も、神の恵みを非ユダヤ人に与えたことを話しました。                                    エリヤ(B.C.870~850年頃活動)は、北イスラエル王国の七番目の王アハブの時代に活躍した預言者です。アハブは北イスラエル王国の中でも最悪の王で、公然と異教の神バアル礼拝を行いました。列王記上21章に記されているナポトのぶどう畑を、アハブとイゼベルが偽証と殺人という不当な手段によって奪い取ったことに対する神の罰として、エリヤはアハブ王に神の裁きとして干ばつが続くことを予言しました。

 ヨルダン川の東にティシュベと、その下にケリトの川が記載されています。また、地図の左上の方に、サレプタの地名も載っています。エリヤがアハブ王と対決したイズレエルもイスラエル(王国)の名の上部に載っています。

エリヤがアハブと対決したのは、イズレエル平野の中心部にあるイズレエルの町でした(王上21・18)。エリヤは神に命じられてヨルダン川の東にある、郷里ティシュベに近いケリト川のほとりに身を隠しました。神がからすに命じて、朝に、夕に食事を運ばせて、エリヤを養いました。三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こり、ケリテ川の水が涸れると、エリヤは神に命じられて、シドンに近い、地中海に面するフェニキヤのサレプタに行き、そこに住む貧しいやもめに養われました。このやもめは、一握りの小麦粉とわずかの油が残っているだけで、それでパンを焼いて食べた後は、死ぬことを覚悟していました。「再び雨の降るときまで、壷の粉は尽きず、瓶(かめ)の油はなくならない」とイスラエルの神は言われると、エリヤは女に預言しました。そしてそのとおりになりました。この女の息子が病気になって死んでしまったとき、嘆き悲しむこのやもめのために、エリヤは神に祈って、その息子を生き返らせました。

イエスは、「イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた」と話しました。

エリヤの後継者エリシャ(B.C.855~800年頃活動)の時代、北イスラエル王国の北隣の国アラム(シリア)の軍司令官ナアマンの皮膚病をヨルダン川の水で癒した(列王記下5:1~14)のは、その一つです。アラム軍の司令官ナアマンは、アラム王に重んじられる勇士でしたが、重い皮膚病(ハンセン病)を患いました。妻の召使いをしていたイスラエル人の少女が、女主人に、「サマリアの預言者のところに行けば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょう」と言ったことから、ナンマンは王にそのことを伝え、王の承諾を得て出かけ、エリシャの家に来て、その入口に立ちました。エリシャは使いの者をやってこう言わせました。「ヨルダンの川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」

それを聞いて、ナアマンは、患者の自分を診ることもしないで、ヨルダン川で身を洗えという、エリシャの指示に憤慨しました。

しかし、ナアマンを家来たちがいさめたので、預言者の言葉どおりに下って行って、その通りにしました。すると、彼の体は完全に元に戻り、清らかになりました。エリシャは、治療が呪術によるのではなく、全能の神への信頼によることを明らかにしたのです。ナアマン一行は、ヨルダン川から引き上げてきて、「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。」と言って、イスラエルの神への信仰を告白しました。

イエスは、「イスラエルには、重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」と話しました。

このシドンのサレプタのやもめも、シリアの司令官ナアマンも、イスラエルの人々から見れば、ほんとうは救いから漏れていた異邦人です。イスラエルの人々は自分たちが救われるのは、アブラハムの子孫であり、神に選ばれた選民として当然だと思い込んでいました。主イエスはナザレの人々も同じような思い込みに生きていると言われたのです。イエスによる救いは、民族宗教の枠内に制限されるものではなく、それを超えるものであることをエリヤ、エリシャの例で示したのです。

神の救いの恵みは、どんな条件も特権も必要のない、神の憐れみによるものです。ただ信仰によって与えられるものであり、神の救いはすべての人のためのものです。神がアブラハムと結んだ契約(創世記22:18)によれば、神の恵みはすべての人々に及ぶものでした。それを知っているはずなのに、異邦人を汚れた民としているイスラエルの人々は、神の恵みが異邦人に及ぶことを是認することができないのです。それは彼らの狭い民族意識によるものであり、彼らの誤った誇りによるものでした。

イスラエルの人よりも、シドン地方のサレプタのやもめや、シリア人ナアマンの方が神の恵みを受けた、というイエスの発言を聞いたナザレの人たちは皆、激しい憤りと殺意に変わり、彼らは「イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそう」としました。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られました。このように、主イエスは、故郷のナザレでの宣教の開始ときから、十字架への道を歩むのです。イエスのナザレで受けた排斥は、やがて律法学者やファリサイ派の人達や、エルサレムの民衆によって排斥されることになり、主イエスは十字架と復活への道を歩むことになるのです。

罪のために死の運命を担わされている私たちを、罪から解放して神の子とし、永遠の命を与えるために、このような苦難の道を主イエスは歩まれたのです。私達の上にも神の国が始まっていることに感謝し、新しい年、2023年も、「主の恵みの年」として迎え、主をほめたたえ、神の国の完成を祈り求めつつ過ごしましょう。

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富谷教会の四季と茶室、茶会

2023-01-15 17:19:20 | キリスト教

  ↑ 富谷教会の礼拝室です。

  四季の写真

          早春

 

春                 

  

 

   秋                         

 

 

クリスマス茶会礼拝の部

 

   クリスマス茶会会記

  薄茶席の茶道具

 

   小間(四畳半)の茶室(濃茶席) 

広間(八畳)、茶室名の扁額「瑞祥軒」は、                       裏千家家元命名。

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「最初の弟子たち」ルカによる福音書5章1~11節

2023-01-11 20:36:07 | 礼拝説教

  ↑ Luca Giordano ルカ・ジョルダーノ、イタリアの画家 ( 1632–1705). The Calling of Saint Peter and Saint Andrew. 

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

降誕節第4主日  2023年1月15日(日)  午後5時~5時50分

                            礼 拝 順 序                    

                司会 斎藤 美保姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 402(いともとうとき)

交読詩編    101(慈しみと裁きをわたしは歌い)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳) ルカによる福音書5章1~11節(新p.109)

説  教      「最初の弟子たち」  辺見宗邦牧師

祈 祷                                                    

聖餐式    78(わが主よ、ここに集い)

讃美歌(21) 513(主は命を)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オン・ラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019                                (辺見牧師)に、申し込み下さい。

                                   次週礼拝 1月22日(日)  午後5時~5時50分

                                   聖 書 ルカによる福音書4章16~30節

                                   説教題  「宣教の開始」 

                                  讃美歌(21) 402 518 27 交読詩編 111

本日の聖書 ルカによる福音書5章1~11節

5:1イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。 2イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。 3そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。 4話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。 5シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。 6そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。 7そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。 8これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。 9とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。 10シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後あなたは人間をとる漁師になる。」 11そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

本日の説教

主イエスは、ヨルダン川で洗礼を受けたあと、荒れ野で、四十日間、悪魔の誘惑を受けられました。イエスは誘惑に勝利され、メシアとして働くための準備が整いました。悪魔は離れ去りました。イエスは霊の力に満ちてガリラヤに帰られました。諸教会で教え、皆から尊敬を受けられました。

主イエスは、育った故郷のナザレに来て、安息日に会堂に入り、イザヤ書の言葉を読みました。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」(イザヤ書61・1-2)

イエスは会堂にいる人々に、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言されました。

朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれました。群衆はイエスを捜し当て、自分たちから離れて行かないようにと、引き留めました。しかし、イエスは「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない」と言い、ユダヤの諸会堂に行って宣教されました。

   

イエスがゲネサレト(ガリラヤ湖西岸のカファルナウム周辺のゲネサレト平原に由来する名)湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せてきました。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になりました。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていました。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗って、岸から少し漕ぎ出すように頼み、腰を下ろして舟から群衆に教え始められました。

 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えました。

漁師のシモンにとっては、もう一度、沖に出て網を降ろして漁をすることは、これまでの経験から無駄骨を折ることになると思えたでしょう。しかし、「先生のお言葉ですから」と漕ぎ出して行きます。主が語られる言葉を信じて実行したのです。シモンは圧倒的に迫ってくるイエスの人格から出る言葉に信頼し服従し、疲れ切った体を鞭打って再び沖へ漕ぎ出し、網を下ろしてみたのです。すると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになりました。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼みました。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになりました。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」と言いました。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからです。シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様でした。

シモンは大漁に驚きました。シモンは大漁の前は、イエスを「先生(エピスタタ)」と呼んでいました。弟子たちによって呼ばれるある程度の信仰の呼びかけです。大漁の後は、シモンの名は急にシモン・ペトロという信仰者の団体の頭としての名に変わり、イエスの足もとに平伏します。そしてイエスを「主よ(キュリエ)」と呼んでいます。大漁によってイエスに神の力を見たため、思わずイエスを主と呼んだのでしょう。そして、同時に自分の罪に気付いたのでしょう。「わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言いました。

シモンは聖なる偉大な方の前に立ったとき、傍(かたわ)らにいることが自分に値しないことを感じて恐ろしくなったのです。自分にふさわしくないような神の恵みの体験は、シモンを罪の自覚と告白へと向かわせました。 

豊漁によるシモンの信仰告白と改心は、イエスの弟子となる主の招きとなります。イエスはシモンに、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言われました。シモンの罪の告白に対して、祝福の言葉が与えられたのです。「恐れることはない」のみことばは、罪の赦しのことばでもあります。「人間をとる漁師」の直訳は「人間を生け捕りする者」です。旧約用語では、人を生きたまま危険から救うという意味ですが、神の国に人々を導き入れる宣教を指すことばとして用いられています。「今から後」というルカの用語は、古い状態から新しい状態への決定的転換を意味する句です。従って彼らはこの招きを境にして、彼らの古い職業を表す舟とすべてを捨ててイエスに従ったのです。シモンに向けられた主イエスの言葉を、彼の仲間たちは自分たちにも向けられた言葉として聞きました。そこで彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従いました。

この最初の弟子の召命物語がここに記されているのは、イエスの人気と群衆の規模の拡大のために、主イエスにとって助け手が必要になったということを暗示しています。主イエスは、学者や身分の高い人たちではなく、単純な生活にいそしんでいた漁師たちを選ばれました。純真で、素朴で、実直な彼らは今は無学であるが、神の言葉による真理を受け入れ、成長するのです。彼らに選ばれる資格や素質があるから選ばれたのではありません。彼らは十字架につけられたイエスを見捨てました。復活のイエスによる召命によって彼らは真の弟子となることができたのです。召命は、あくまでも主イエスの恵みによる自由な選びによるものでした。弟子たちの信仰も献身も聖霊に導きによるものでした。

今日の聖書の箇所は、御言葉に従って歴史の中を歩む教会の現実がここに語り告げられています。漁師たちは舟からおりて網を洗っていました。夜通し働いたのに一匹も魚が取れず、疲れ切って網を洗っていました。沖へ漕ぎ出し、網を下して漁をしてみなさい、とのイエスの命令に応え、イエスへの信頼に生きるところに教会の現実があります。

キリスト者はみな神の民の一員として御言葉を伝える使命を与えられています。誰もが伝道者や牧師となる訳けではありませんが、しかし、人々を主キリストに導いていく働きを何らか担うのです。キリスト者はイエス・キリストのすばらしさを深く知り、主イエスを愛することへと、徐々に作り変えられていくのです。そしてキリストによって生かされている喜びを、この世の生活の中で証しし、人々をキリストへ導く、人間をとる漁師とされるのです。わたしたちは、経験や常識にこだわらず、主イエスの「お言葉」に従って、豊かな祝福があることを信じて、宣教活動を続けてまいりましょう。

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