富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

すべての人に対する教会の働き 使徒言行録11章1~18節

2023-06-29 13:23:43 | キリスト教

   ↑ ペトロ、エルサレムの教会に報告する。

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

聖霊降臨節第6主日 2023年7月2(日)  午後5時~5時50分

                            礼 拝 順 序                    

                 司会 齋藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)   6(つくりぬしを賛美します)

交読詩編     22:25-32(主は貧しい人の苦しみを)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)   使徒言行録11章1~18節(新p.234)

説  教   「すべての人に対する教会の働き」辺見宗邦牧師                                          

祈 り

讃美歌(21) 464(ほめたたえよう)

献 金  

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オン・ラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019

 (辺見牧師)に、申し込み下さい。

           次週礼拝 7月9日(日)  午後5時~5時50分

           聖 書  ヨハネによる福音書3章1-15節

           説教題 「人は、新たに生まれなければ」

           讃美歌(21) 67 475 27 交読詩編 27    

  本日の聖書 使徒言行録11章1~18節

11:1さて、使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした。 2ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、 3「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と言った。 4そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた。 5「わたしがヤッファの町にいて祈っていると、我を忘れたようになって幻を見ました。大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、天からわたしのところまで下りて来たのです。 6その中をよく見ると、地上の獣、野獣、這うもの、空の鳥などが入っていました。 7そして、『ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい』と言う声を聞きましたが、 8わたしは言いました。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は口にしたことがありません。』 9すると、『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない』と、再び天から声が返って来ました。 10こういうことが三度あって、また全部の物が天に引き上げられてしまいました。 11そのとき、カイサリアからわたしのところに差し向けられた。三人の人が、わたしたちのいた家に到着しました。 12すると、“霊”がわたしに、『ためらわないで一緒に行きなさい』と言われました。ここにいる六人の兄弟も一緒に来て、わたしたちはその人の家に入ったのです。 13彼は、自分の家に天使が立っているのを見たこと、また、その天使が、こう告げたことを話してくれました。『ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。 11:14あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる。』 11:15わたしが話しだすと、聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです。 11:16そのとき、わたしは、『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました。 11:17こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」 11:18この言葉を聞いて人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した。 

 本日の説教

 先週は、使徒言行録8章に記されている、フィリポがエチオピアの宦官に福音を伝え、洗礼を授けたお話しをいたしました。。

 9章には、ダマスコに向かったサウロ(ギリシヤ名パウロ)が回心して、ダマスコで福音を告げ知らせたことが記されています。

   9章32節以下には、ペトロが再びフィリポの伝道した後を訪ね、その働きを一層強めるため、海岸沿いの地域を巡回したことが記されています。ペトロはエルサレムの北西40キロにあるリダに行きました。すでに教会はフィリッポの宣教によって設立されており、そこには<聖なる者たち(信者の意)>がいました。ペトロはアイネアという八年前から床についていた中風の人を癒しました。このことがリダとシャロン地方の人々の注目を集めました。

    ペトロはしばらくの間、ヤッファの革なめし職人のシモンの家に滞在しました。「皮なめし」という職業は、動物の死体にさわるので、ユダヤ人の間では汚れた職業とされていました。その家にペトロが滞在したのは神の不思議な導きによるものでした。この家に滞在したことが、ペトロがカイサリアの百人隊長コルネリウスへ福音を伝えることになるのです。

 10章には、シモンの家に滞在したペトロが、翌日この家の屋上に祈るために上がったとき、幻を見たことが記されています。その幻はどんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないことを示す幻でした。

 ペトロはカイサリアに駐屯している「イタリア隊」という部隊の百人隊長に招かれたのです。カイサリアはヤッファから北へ50キロの所にあります。カイサリアは、パレスチナ一帯を治めるローマ総督とその軍隊が駐留しており、ローマへの通じる拠点となっていた都市です。

 カイサリアはすでにフィリポによって伝道がなされた地でした。コルネリオは神を畏れる正しい人で、絶えず神に祈り、民に多くの施しをしていたので、すべてのユダヤ人に評判の良い異邦人でした。

   ペトロは幻で異邦人を差別しないように示されていたので、このイタリア人隊長の招きに応じ、翌日ヤッファの信徒たちも何人か連れて行きました。ペトロはコルネリウスの家で福音を告げました。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」と話し始め、イエス・キリストの死と復活を告げ、死者と生者との審判者として立てられたイエス・キリストは、「すべての人の主」となられた方なので、「この方を信じる者はだれでも……罪の赦しが受けられる」と語りました。語っている最中に、御言葉を聞いていた異邦人たち一同の上に聖霊が注がれました。聖霊はコルネリウスとその親族・友人に降ったのです。異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを聞いたぺトロの同行者たち(割礼を受けているユダヤ人の信者たち)は、異邦人にも聖霊が注がれた神の行為に大いに驚きました。そこでペトロは、「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と、連れてきた信者に語り、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、コルネリウスたちに命じました。それから、ペトロはコルネリウスたちに、なお<数日>滞在してくださいと乞われました。

 ここまでが、今日の聖書の個所の11章の前に書かれている記事です。

 エルサレムにいる使徒たちとユダヤにいる信者たちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にしました。ペトロがエルサレムに帰って来たとき、割礼を受けている者たちはペトロを非難しました。「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と言いました。彼らは割礼を入信の条件とし、神殿礼拝を重んじるユダヤ教の影響を受けているキリスト者たちです。異邦人と食事を共にすることを禁じる律法はありませんが、エズラやネヘミヤの時代に汚れた異民族との結婚を禁じたことから(エズラ記9・12旧p.736)、異邦人との親しい交際は、民族の伝統や習慣に背くことになっていたのです。イエスの時代、ユダヤ人はサマリア人と交際しませんでした。そこで、ペトロはヤッファの町で起こった事の次第を順序正しく説明し始めました。

  【ペトロの説明は10章を要約した反復ですが、たんなる繰り返しではなく、異なった表現があります。次の1~6の言葉です。

 ヤッファの町でペトロが祈っていると、夢心地になって<幻を見ました>。大きな布のようなものが…1<わたしのところまで下りて来たのです>。自分自身に対して示された直接的な神の啓示として語っています。布の中には、三種の動物ではなく、2<野獣>を加えた四種になっています。<ぺトロよ、身を起し、屠って食べなさい>という声を聞いたので、<主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は口にしたことがありません>と断ると、<神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない>と、再び天から声が返って来ました。こういうことが三度もあって、<また全部の物が天に引き上がられてしまいました>。

 <神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない>という神の宣言は、ユダヤ教の食物規定(申命記14・3~21旧p.303~304、レビ記11章旧p.177~178)を無効とし、異邦人との交際や彼らとの会食を認めるものです。こういうことが三度もあったことは、ペトロは三度も食べることを断り続けたからです。

 そのとき、カイサリアからペトロのところに差し向けられた三人の人が3<わたしたちのいた家に>到着しました。<わたしたち>とは、ヤッファの六人の兄弟を含めた表現です。すると、“霊(聖霊)”がペトロに、<ためらわないで一緒に行きなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだと言いました。<三人>とは、二人の家内奴隷と、信仰心のあつい当番兵でした(10・7)。4<ここにいる六人の兄弟も一緒に来て、わたしたちはその人の家に入ったのです。>とペトロは続けて話し始めました。<六人の兄弟>とは、ペトロと一緒にカイサリアに出かけたヤッファの信者たちで、この場面ではコルネリウスの家での出来事の証人となっています。

 ペトロを招いたカイサリアのコルネリウスは、自分の家に天使が立っているのを見たこと、また、その天使が次のように告げたことをペトロに話してくれました。<ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれると天使が告げたのです。

  ペトロが福音を、5話しだすと、聖霊がペンテコステの日に自分たちの上に降ったように、彼らの上にも降ったこと、そのとき、ペトロは、6<ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受けると言われた主の言葉を思い出し>、<こうして、主イエス・キリストを信じるようになった自分たちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら自分のような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか>と語って洗礼を授けた事の次第を説明しました。

 カイサリアにおける異邦人への聖霊降臨が起きた時、ペトロは、<あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける>というイエスの言葉を思い出し、異邦人への聖霊降臨を神の業と解し、<神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか>と言う言葉で、異邦人にバプテスマを授けた自分の行動を正当づけたのです。異邦人への洗礼を教会に受け入れたのは、あくまで神のご意志に従ってなされたと弁明したのです。】

   この言葉を聞いて反対者たちは平静をとり戻し、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美しました。異邦人もまた聖霊を受けて受洗し、神の救いに与ることができる事を、エルサレム教会が初めて正式に承認したのです。

 この物語は、福音を前進させていくのは神の働きであることを示しています。神はペトロに三度も天から下りてくる幻を見せ、「神が清めた物を、清くないなどと言ってはならない」と声をかけられ、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないことを示し、コルネリウスから迎えの者が来たときは、霊が、「ためらわないで、一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ」と告げています。

  一方、コルネリウスも、幻で神の天使(輝く服を着た人)が現れ、<コルネリウス>と呼びかけ、ヤッファへ人を送って、ペトロを呼びなさいと告げられたので、ペトロを迎えたのであり、<今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです>という、ペトロの語る福音を聞く心の準備を、神は整えられたのです。このようにすべてが神の奇跡的な介入によるものでした。そして、このヨーロッパから来た異邦人の集まりの上に、聖霊が降ったのです。神は異邦人をも、ユダヤ人と区別なさらず、悔い改めさせ、罪と死に打ち勝つ聖霊を与え、永遠の命に生きる希望を与え、神を賛美する者としてくださったのです。

 「ペテロの言葉を聞いた人々は静まり、『それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださたのだ』と言って神を賛美した」(11:18)と記しています。

    先週の礼拝では、エチオピアの宦官個人に対する教会の働きでしたが、今日はローマの百人隊長コルネリウスの家に集まった親類や親しい友人たちに対する教会の働きです。教会はすべての人に福音を伝える使命を与えられています。私たちも聖霊の恵みを受けていることに感謝し、この救いの恵みを伝えるキリストの使者とての使命を果たしたいものです。

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「エチオピアの宦官に福音を伝える」使徒言行録8章26~38節

2023-06-22 17:39:38 | キリスト教

  ↑ 「宦官の洗礼」 レンブラント画、1626年、 カタリナ・コンベント博物館(ユトレヒト)所蔵

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

聖霊降臨節第5主日 2023年6月25(日)  午後5時~5時50分

    礼 拝 順 序                    

                司会 邉見 順子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 402(いともとうとき)

交読詩編     23(主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)  使徒言行録8章26~38節(新p.228)

説  教  「エチオピアの宦官に福音を伝える」辺見宗邦牧師                                          

祈 り

讃美歌(21) 200(小さいひつじが)

献 金  

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オン・ラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019

 (辺見牧師)に、申し込み下さい。

           次週礼拝 7月2日(日)  午後5時~5時50分

           聖 書  使徒言行録11章1~18節

           説教題 「すべての人に対する教会の働き」

           讃美歌(21) 6 464 27 交読詩編 22:25-32    

  本日の聖書 使徒言行録8章26~38節

8:26さて、主の天使はフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と言った。そこは寂しい道である。27フィリポはすぐ出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、28帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。29すると、“霊”がフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言った。30フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、「読んでいることがお分かりになりますか」と言った。31宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。32彼が朗読していた聖書の個所はこれである。「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、口を開かない。33卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。」34宦官はフィリポに言った。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか。」35そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。36道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」

37フィリポが、「真心から信じておられるなら、差し支えありません」と言うと、宦官は、「イエス・キリストは神の子であると信じます」と答えた。38そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。39彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。40フィリポはアゾトに姿を現した。そして、すべての町を巡りながら福音を告げ知らせ、カイサリアまで行った。 

  本日の説教

 使徒言行録6章には、霊と知恵に満ちた評判の良い人たち七人が、使徒たちの補助者として選ばれたことを記しています。その中に、信仰と聖霊に満ちている人ステファノとフィリポがいます。

 6章8節から、7章60節までは、海外出身のユダヤ人たちによる扇動によるステファノの逮捕と大祭司に対する長い説教、それを聞いた人々の怒りによるステファノの殉教について記しています。ステファノは教会の最初の殉教者です。

 8章には、その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、12使徒たちの他は皆、ユダヤとサマリア地方に散っていったことが記されています。フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えました。汚れた霊に取りつかれた多くの人たちや、多くの中風患者や足の不自由な人もフィリポに癒してもらいました。

 8章9節から25節までは、福音を聞いた多くの人達が洗礼を受けたこと、魔術を使うシモンも洗礼受けたことが記されています。サマリアの人々は主イエスの名による洗礼を受けただけで、まだ聖霊を受けていないことを知ったペトロとヨハネが、サマリヤに行き、人々の上に手を置くと彼らは聖霊を受けました。金で聖霊を得ようとしたシモンの改心を記しています。

 そして、今日の聖書の個所に入ります。神の御使いはフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と命じました。<ガザ>はエルサレムの南西にある地中海に面した町です。(現代のパレスチナ人の自治区のガザです。)エルサレムからガザに向かう道はさびしい、荒れ果てた道でした。どうしてそんなところに行けと天使は命じたのでしょうか。それは、たった一人の旅の途中のエチオピアの宦官を救うためです。この宦官はエチオピアから遠いエルサレムまで神の恵みを求めて礼拝に来て、礼拝を終えて帰る途中でした。彼はエチオピアの女王カンダケの宦官で、女王の全財産の管理をしている高官でした。

 <エチオピア>は現代のエチオピアのことではなく、エジプトのナイル川上流の流域、現代のスーダンにあった、メロエを首都とするヌビア王国のことです。ヌビア人は一時期クシュ王国を建国し、古代エジプトを支配し、エジプト第25王朝、別名ヌビア王朝を起した人達です。古代ギリシア人やローマ人は黒人のヌビア人を「日に焼けた顔を持つ人」という意味で「エチオピア人」と呼びました。

(ちなみに、現代のエチオピアは、スーダンの南にあります。ヴェルディのオペラ<アイーダ>は、ヌビアの王女の名前で、エジプトの将軍との恋愛を題材にした歌劇です。)

 <カンダケ>は、ヌビア王国の王妃や皇太后の称号です。<宦官>は女王に仕える役人です。女王に仕えるために男性の機能を切除した人で、王宮の大切な働きを委ねられた高官です。旧約聖書の申命記には、宦官や去勢された者はイスラエルの会衆に加わることはできないとされています(申命記23・2、旧p.316)。しかし、後の時代に現れたイザヤは、宦官は最初の救われる異邦人として預言しているのです。次のように預言しています。

 「主のもとに集って来た異邦人は言うな。主は御自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな、見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。なぜなら、主はこう言われる。宦官が、わたしの安息日を常に守り、わたしの望むことを選び、わたしの契約を固く守るなら、わたしは彼らのために、とこしえの名を与え、息子、娘を持つにまさる記念の名を、わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない。」(イザヤ書56章3~5節、旧p.1153)

  このエチオピアの宦官は、ユダヤ教に強く心をひかれた神を敬う人でした。それで、はるばる千数百キロ以上もあるエルサレム神殿まで巡礼の旅に出たのでしたが、しかし、救いの確信が得られないまま帰途についたようです。宦官は、恐らく高価な代価を払ってイザヤ書の写本を買い求めたのか、馬車に乗ってその預言者イザヤの書を朗読していました。神はこの宦官をお見捨てにはなさいませんでした。その熱心な求めに応えられるのです。聖霊がフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言いました。フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、「読んでいることがお分かりになりますか」と尋ねました。宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼みました。宦官は次のような聖書の言葉を朗読していました。

 「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、口を開かない。卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。」これは、宦官の救いが書かれている預言56章より前のイザヤ書53章7,8節の言葉です。主の僕の苦難と死が書かれている書です。宦官はフィリポに、「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか」と言いました。イザヤ書の書かれている苦難を受け、殺される<彼>とは、だれのことを言っているのかという質問でした。イザヤ書53章には、<彼>という言葉が何度も出てきます。「わたしたちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。」(イザヤ53・6)このようにして「彼」という言葉が何度も出てきます。この「彼」とは一体誰なのか。宦官の最大の疑問はそこにありました。

 そこで、フィリポは聖書のこの個所から説きおこして、<彼>とは、十字架に架かって殺されたイエスことであり、イエスは神から遣わされて世の来られた神の子であり、神によって復活させられ、天に上り、神の右に座し、天地を支配する方となられたイエス・キリストである。このキリストによって、信じる者は一切の罪を赦され、神の子とされ、救われるという福音を、フィリポは告げ知らせました。イエス誕生の約五百年も前に、イザヤは、苦難のしもべとしてのキリストを預言していたことを告げたのです。

  フィリポの説教を聴いて、宦官は、「彼」が私のために十字架に架かり、「彼」が受けた懲らしめによって、私の罪が赦され、救われることが分かったのです。それは聖霊による恵みによって起こった出来事でした。だれも聖霊によらなければイエスを主と告白することは出来ないからです(コリント一12・3新p.315)。

 宦官はイエス・キリストを信じる思いが与えられ、洗礼へと導かれました。道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来ました。宦官は、「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか」と言いました。37節が欠けています。†(短剣符)は別の写本にあることを示しています。使徒言行録の最後のページ(p.272)に、37節の言葉があります。【フィリポが、「真心から信じておられるなら、差し支えありません」と言うと、宦官は、「イエス・キリストは神の子であると信じます」と答えた。】とあります。

 宦官は車を止めさせました。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けました。彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去りました。宦官はもはやフィリポの姿を見ることは出来なかったが、喜びにあふれて旅を続けました。フィリポはアゾトに姿を現し、町々を巡りながら福音を宣べ伝え、カイサリアまで行きました。

 このエチオピア人の入信では、まず<主の天使>が、フィリポに、ガザに行けと命じたところから始まっています。そして、<霊>がフィリポに追いかけて、あの馬車と一緒に行け、と命じています。フィリポが宦官に洗礼を授け、水の中から上がると、<主の霊>がフィリポを連れ去りました。神が主体になっています。これは、この異邦人の救いが人間の業によるのではなく、神の業、神の計画だったことが示されています。神は救いを求める者を、お見捨てになりません。必ず救ってくださる方なのです。わたしたちも、この神によって救われたのです。神の救いを求めている人々は大勢いるはずです。その方々のために、わたしたちもフィリポのように役立つ使命を与えられています。

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「人間を救うのは、この人以外にはない」使徒言行録4章1~12節

2023-06-15 23:34:55 | キリスト教

    左に立っている二人はペトロとヨハネ。右に立っているのは            祭司カイアファか?

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

   聖霊降臨節第4主日 2023年6月18(日)  午後5時~5時50分

                            礼 拝 順 序                    

                   司会 邉見 順子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 155(山べにむかいて)

交読詩編     62(わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)  使徒言行録4章1~12節(新p.219)

説  教  「人間を救うのは、この人以外にはない」辺見宗邦牧師                                          

祈 り

聖餐式    78(わが主よ、ここに集い)

讃美歌(21) 566(むくいを望まで)

献 金  

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オン・ラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019

 (辺見牧師)に、申し込み下さい。

                                次週礼拝 6月25日(日)  午後5時~5時50分

                               聖 書  使徒言行録8章26~38節

                              説教題 「個人(エチオピアの宦官)に対する教会の働き」

                              讃美歌(21) 402 200 27 交読詩編 23    

   本日の聖書 

    4:1ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た。 2二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち、 3二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。既に日暮れだったからである。 4しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった。 

   5次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。 6大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。 7そして、使徒たちを真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問した。 8そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、 9今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、 10あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。 11この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。 12ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」

  本日の説教

  使徒言行録一章には、主イエスの復活と昇天が書かれ、二章には聖霊が弟子たちの上に降ったことが書かれており、ペトロの説教と民衆の悔い改めと、初代の教会の生活が記されていました。

  三章には、弟子たちの中心であるペトロとヨハネが行った足の不自由な人を癒した業と、神殿での説教が記されています。

 ペトロとヨハネが午後三時の祈りの時に神殿に行ったとき、毎日、エルサレム神殿の「美しい門」の所に座って物乞いをしていた生まれつき足の不自由な男から施しを求められました。「美しい門」は、おそらく神殿東側の境内から婦人の庭に入る門のことと思われます。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言いました。キリストによって生かされている自分たちを見てもらいたかったのだとおもわれます。ペトロは、「金や銀はないが、持っているものをあげよう」と言って、「イエス・キリストの名」によって彼を癒したのです。施しを求めて座っていた男は躍り上がって立ち、歩き回り、神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行きました。イエス・キリストによる救いが、人間を自立させ、自由を与え、喜びをもって自らの人生を歩ませてくださることを、この奇跡は示しています。

  それを見た民衆は皆非常に驚き、「ソロモンの回廊」にいる彼らの方に集まってきました。これを見たペトロは、民衆に、「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか」と話し始めました。そしてイエスの十字架の死と復活を語り、わたしたちは、このことの証人です。イエスの名を信じる信仰がこの人を完全にいやしたのです、と語りました。イエスは預言者が予告していたメシアであることを告げ、罪を悔い改めて神に立ち帰りなさい、と訴えました。

  そして、本日の聖書の箇所、4章に入ります。ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、「祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々」たちが近づいてきました。二人が死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだちました。サドカイ派の人々は天使や復活を否定していました。彼らは二人を捕え、すでに日暮れだったので、翌日まで牢に入れました。二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数は五千人ほどになった、と記しています。

    翌日、最高法院(サンへドリン)の「議員、長老、律法学者たち」が集まりました。、それに「大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族」もエルサレムに集まりました。集まった場所は、大祭司(カイアファ)の邸宅とされています。

 【私市元宏(きさいちもとひろ)「最高法院の審議」バイブルワールドp.94によると、議会が開かれた場所は、神殿の南側のエルサレム市街との間に掛けられた橋の下にある宮殿の「切石の間」で行われた、とあります。】

   大祭司を頂とする支配階級は、ペトロとヨハネによる集まりを秩序を乱す者として罰するために集まったのです。この時、アンナスは大祭司を引退していましたたが、依然として実権を握っていました。大祭司はアンナスの娘婿のカイアファです。ヨハネとアレクサンドロはアンナスの息子たちです。他の大祭司一族も集まりました。議会を構成する議員は七十一名ですが、この日集まったのは、評議員の十数名です。

   律法学者たちの大部分はファリサイ派の人たちで、死人の復活を認める立場の人たちです。そこで尋問の内容が変わります。使徒たちは復活を語ったことによって捕えられたのに、彼らは、二人の使徒を真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と、癒しの奇跡の<力>の源を問うものでした。その場には、自分たち以上の権威は無いと高ぶり、ペトロやヨハネのような身分の低い者たちから出ている力を危ぶみ、非難している権力者の姿があります。

   そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言いました。「民の議員、また長老の方々、今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。」 

   ペトロとヨハネは、犯罪者のように権力者の前に引き出されたが、堂々と答弁します。足の不自由な男を癒し、善い行いをしたのに、何故自分たちを取り調べのか、と皮肉を込めた答弁から始まります。「その人がいやされたのは、あなたがたが十字架につけて殺したイエス」であり、「神により死者の中から復活したナザレの人、イエス・キリストの名によるものです」と答えたのです。

   更に続けてペトロは、「この方(イエス)こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」と語りました。「あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石」とは、メシア預言として知られている詩編118篇22節からの引用です。「隅の親石」は、建物を建てるとき土台となる最も重要な石です。神の家を建てる者たちであるあなたがたに軽蔑され捨てられたイエスは、神によって復活させられ、神の家の<礎(いしずえ)の石>にされたのです。この方以外には、だれによっても救いは与えられません。神はわたしたちを救うために、このイエス・キリスト以外のだれも救い主として与えていません。イエス・キリストこそ、神が与えた真の救い主です、と宣言して、ペトロは弁明を終えました。

  「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」この言葉は、ペトロの救いの体験によるものです。イエス・キリストが、神が人間を救うために、この世に送られた神の子であり、その教えや敵をも愛する愛、様々な癒しや奇跡によっても神の子であることが示されています。人間の罪を赦す十字架による全き贖いの死、罪と死の支配から解放し、わたしたちを神の子として、永遠の命を与えるための復活と昇天、父なる神と共に、世の支配者となられ、天上にあって、わたしたちの祈りを聞き、わたしたちに聖霊を送られて導き、いつも共にいて下さる方であり、この方以外には、救い主はこの世にいない、ということです。

 長い人生の中では、病気であったり、家庭内のトラブルであったり、経済的な問題であったり、そのようなことは必ず起きるものです。しかし、主イエス・キリストの与える救いは、それらの出来事をもってしても、決して奪われることのない平安であり、喜びであり、希望なのです。そしてそれは、私だけに与えられるのではなく、私共が愛するあの人この人にも与えられるものなのです。何故なら、主イエス・キリストは、私共を一切の罪から救ってくださる、神の御子だからです。この方の御名にこそ、この方御自身にこそ、この方との交わりの中にこそ、私共すべての罪人の救いがあるのです。私共を救ってくださる名は、この名の他にはないのです。 

「人間を救うのは、この人以外にない。」この言葉をもって、信仰を強制したり、他の宗教を排斥するのは避けなければなりません。彼の断言は他の宗教と比較研究の結果、言っているのではありません。それは十字架と復活の主イエス・キリストによって生かされている聖霊による彼の信仰告白なのです。

 赦しと愛を教えられているキリスト教徒は、宗教的寛容の精神を世界に根付かせる責任を負っています。聖霊の働きを祈り求めつつ、「イエス・キリストの名」によって与えられる救いに生き、その御名を宣べ伝えていきましょう。

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「教会の一致と交わり」使徒言行録2章37~47節

2023-06-09 19:03:43 | キリスト教

 ↑ 「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。」 

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

聖霊降臨節第3主日 2023年6月11(日)  午後5時~5時50分

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

聖霊降臨節第3主日 2023年6月11(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                            礼 拝 順 序                    

                司会 齋藤 美保姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 149(わがたまたたえよ)

交読詩編    133:1-3(見よ、兄弟が共に座っている)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)  使徒言行録2章37~47節(新p.216)

説  教     「教会の一致と交わり」  辺見宗邦牧師                                          

讃美歌(21) 448(お招きに応えました)

献 金  

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

             〇オン・ラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019

           (辺見牧師)に、申し込み下さい。

                                  次週礼拝 6月18日(日)  午後5時~5時50分

                                 聖 書 使徒言行録4章5~12節

                                 説教題 「人間を救うのは、この人以外にない」 

                                 讃美歌(21)155 78 564 27 交読詩編 62    

  本日の聖書 

  2:37人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。 38すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 39この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」 40ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。 41ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。 42彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。 43すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。 44信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、 45財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。 46そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、 47神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。

   本日の説教

 使徒言行録二章は、聖霊降臨の奇跡について語り(1節―13節)、次に、聖霊を受けたペトロの説教について述べ(14節―41節)、その結果として生じた最初の教会の生活についての要約を記します(42節―47節)。

 今日の聖書の箇所は、ペトロの説教を聞いた聴衆の反応(37節―41節)から始まります。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(36節)というペトロの説教によって、聴衆は強く心を打たれ、罪の自覚が生じました。

 ペトロの説教は霊の力によるものでした。ペトロの説教を聞くやいなや民衆は悔い改めに導かれました。そして何をすればよいのかを知ろうとしました。するとペトロは、彼らに向かって、「悔い改めなさい。イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」と言い、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」(38節―40節)と勧めていました。

 聴衆の問いに対する答えとして、ペトロは二つのことを勧めています。その一つは「悔い改め」です。神に立ち返る悔い改めです。もう一つの勧めは「洗礼を受けなさい」です。「イエス・キリストの名に」よる洗礼です。重要な点は、「そうすれば、賜物として聖霊を受けます」という約束です。個人の内面聖化というよりも、「イエスの救いの証人となる」霊の力(使徒1:8)を意味しています。それは教会が福音をたずさえて「民衆の場へ出て行く」力です。

 「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」(39節)とペトロは言います。

 今やイエス・キリストにおいて、旧約の「約束」は実現し、ユダヤ人にも異邦人にもすべて信じる者にそれは与えられているのです。

 ペテロの説教は、「このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、『邪悪なこの時代から救われなさい』と勧めて」(40節)終わります。「邪悪なこの時代」とは、神の意図された秩序からはずれた不従順と反逆の時代を意味します。「救われなさい」は、神の終末的審判からの救いにあずかることができることを意味しています。

 こうして、ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に約三千人が信者に加えられたのは神の業でした(41節)。

 当時の洗礼は、全身を水に浸す仕方で行われたので、三千人の人がどこで洗礼を受けたのかを考えると、その人数には誇張があるように思われます。

 42節から49節までの箇所は、ペトロの言葉を受けて、イエス・キリストの名によってバプテスマをうけた者たちの生活を具体的に示しています。教会の人々が熱心にしていたことが四つあげられています。

 第一は、 彼らが、「使徒の教え」に熱心であったことです。使徒たちの教え、その語る福音、すなわち主イエスの十字架と復活の証言を聞くこと、それによって生じる信徒の新しい生き方を教えることでした。このような使徒たちの教えは、やがて新約聖書の文書となりました。

 第二は、信徒たち相互の交わりです。御言葉を聞き、救いにあずかる人たちは、その御言葉によって兄弟姉妹への交わりに押しだされるのです。この交わりは「聖霊の賜物」に共に与ることによって基礎づけられた信徒の交わりです。普通の人々がその財産を共有にしたのは、何か異常な、特別で重大なことがこれらの人々に起こったという具体的な証拠なのです。

 第三は、「パンを裂くこと」です。信徒たちは「パンを裂くこと」に従事しています。それは単なる会食ではなく、主にある者たちの交わりの食卓と聖餐に共にあずかることです。聖餐のパンと杯を分かちあうことは、主イエスの恵みに共にあずかり、主イエスとの交わりの中で、兄弟姉妹と共に生きることでした。食事を共にすることは、かつて人々を苦しめていた社会的な貧富による差別が打ち破られたという目に見える徴なのであり、一致と連帯と深い友情の現れなのです。彼らの喜びと真心からの共なる食事は、メシアの到来の時における溢れるばかりの喜びを示しています。

 第四は、「祈ること」です。信徒たちは祈ることに熱心でした。祈りにおいて、主イエスとの交わりに生きるのです。おそらくこの祈りは、ユダヤ教で定められた日々の祈りの時刻になされたのでしょう。彼らはイエス・キリストの名によるバプテスマを受けた集団として、「心を合わせて、ひたすら祈る」集団を形成していったものと思われます(1:14参照)。

 「すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。」(43節)

 43節には、このような教会の姿を見て、「すべての人に恐れが生じた」とあります。「すべての人」とは教会の周りにいる、一般の人々です。それは恐怖ではありません。畏敬の念のようなものです。それは「使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていた」からだとあります。

「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。」(44節)

彼らはメシア・イエスにあって一つであるという一体感から共同生活を行いました。彼らが共有した「すべての物」は、不動産と動産を意味します。動産は個人的な財産です。信者たちは個々の必要に応じてそれを分配していたと言っています。しかし使徒言行録では、このことは実際に維持されたとは記されていません。むしろアナニヤやサフィラのようにこれについていけない者が現れています(使徒言行録5:1-11)。それは強制力を伴った財産の共有性ではなく、あくまでも、信仰の喜びを共にする自発的な行為とみなされます。

「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」(45節―47節)

 最初の信者たちは神殿での礼拝を続けていました。彼らこそ真のイスラエルであるという主張を意味していました。その場所は「ソロモンの廊」とされています(3:11、5:12)。

 また彼ら自身の家々で彼らは共同の食事をし、共にパンをさきました。パン裂きは、主の晩餐を含む共同の食事と結合しています。彼らは喜びとまごころをもってこれに参加しました。信者たちは神を賛美していたので、民衆全体から好意をもたれていました。こうして主は救われる人々をに日々仲間に加え一つにされたのです。救われる人々を加えてくださり、一つにされたのは主イエスによるものでした。

 私たちも御言葉の教えをしっかり聞き、聖餐に共にあずかることを大切にし、互いに主イエス・キリストの恵みを分かち合い、支えあい、日々の生活でキリストの愛を証しし、周囲の人々から好意を寄せられる教会を形作っていきましょう。

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