富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「神の民の誕生」ローマの信徒への手紙10章5~17節

2024-05-28 22:43:55 | キリスト教

 ↑ 「主の名を呼び求める者はだれでも救われるのです。」ローマの信徒への手紙10章13節

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380                        FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

聖霊降臨節3主日 2024年6月2日(日)午後3時~3時50分

       礼 拝 順 序                

前 奏                辺見トモ子姉

司 会                邉見 順子姉

讃美歌(21)  219(夕日落ちて)

交読詩篇     29:1-11(神の子らよ、主に帰せよ)

主の祈り     93-5、A

使徒信条     93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ローマの信徒への手紙10章5~17節(新p.288)

説 教      「神の民の誕生」  辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21)  517(神の民よ)

献 金

感謝祈祷

頌 栄(21)   27(父・子・聖霊の)

    

 オン・ラインで礼拝に参加希望の方は、090-3365-3019(牧師携帯)へ申し込み下さい。歓迎いたします。

            次週礼拝 6月9日(日)午後3時~3時50分

            聖 書  ヨハネの第一の手紙2章22-29節

            説教題   「信仰の道」

            讃美歌(21)227 458 27 交読詩篇 16:7~11

 本日の聖書 ローマの信徒への手紙10章1節~17節

 1兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。2わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。3なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。4キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。

 5モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。6しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。7また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。8では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。9口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。10実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。11聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。12ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。13「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。

 14ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。15遣わされないで、どうして宣(の)べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。16しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。17実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。

 本日の説教

 異邦人に福音を伝えるために、キリストの使徒とされたパウロは、「この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがた(ローマの信徒たち)もいるのです」(1章6節)と言って挨拶を述べています。

 10章1節ではパウロは、<兄弟たち>と、同胞であるローマの信徒たちに呼びかけています。ローマの信徒たちの多数はユダヤ人です(2:17)。パウロは彼ら(他のユダヤ人たち)が救われることを心から願い、彼らのために神に祈っていると伝えます。

 パウロは、ユダヤ人たちが<熱心に神に仕えている>ことを認めています。しかし、その熱心さは<正しい認識に基づくものではない>と言っています。この<神への熱心さ>は、ユダヤ教とその律法への熱心です。パウロ自身もかつて律法に熱心でした(ガラテヤ1:12、フィリピ3:6)。

 なぜなら、彼らは<神の義を知らず>、神の義を正しく理解し、それにふさわしくうやまう態度をとらなかった、というのです。<自分の義を求めようとして>、<自分の義>を建てることに熱心であって、<神の義>に従わなかったからです。<自分の義>とは、人間が自分のした働きと功績によって、神に要求するメリット(わけまえ、報酬、手柄)としての義を獲得しようとすることであり、神に自分を正しい者として認めさせようとすることです。

 しかし人は律法を行う力がないこと、従って律法によっては義とされることは不可能なことを、パウロは7章で、自分の経験を通して述べています。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼり(の罪)を知らなかったでしょうと述べ、善をなそうという意志はあっても、それを実行できない罪があることを語っています。

 主イエスは、律法を守っていると自負しているユダヤ人に、山上の説教で「殺すな」という命令については、<腹を立てるな>、<ばか者>と言う者は火の地獄に投げ込まれると教え、「姦淫するな」という命令については、みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである、もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさいと教え、律法の戒めを完全に実行することの不可能なことを教えています。

 キリストは、「信じる者すべてに義をもたらすために」、<律法の目標>となられました(10:4)。キリストを信じる信仰の道が開かれた今は、律法的努力は不必要となりました。キリストは律法に終止符を打たれたのです。

 「モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。」(10章5節)

 パウロは、レビ記18章5節の「わたしの掟と法を守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる」のことばを、<掟を守る人は掟によって生き>る、として引用しています。レビ記の言葉は、ユダヤ人の一般的な律法理解であり、律法の要求を満たすことによって神の救いを獲得することが目指されています。パウロは、この言葉に律法の要求が簡潔に示されていると理解して、このことばを<律法による義>についての聖書の証明としています。人間は律法を完全に行うことはできません。

 <しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。では、何と言われているのだろうか。『御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。』これはわたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。>(6~8節)

 6節から8節にかけては、申命記30章11~14節の引用です。ユダヤ人が、神の言葉がいかに身近なものであって、それを実行することがいかに容易であるかを語る格言として親しんでいたものです。申命記には、「あなたは…それを行うことができる」(申命記30:13)と結論していることをパウロは全く無視して、律法のわざによらず、ただ信仰によって義とされるという<信仰による義(信仰義認)>の聖書証明としています。パウロにとって、この旧約聖書の神の言葉は、キリストによって文字通り完全に実現したと認識したのです。

 6節の心の中で「だれが天に上るか」と言ってはならない>という勧めは、キリストがこの世に来たことによって、神と人、天と地との間に神の側からの橋がかけられました。人間の側から神への橋渡しをしようとするような<天に上る>試みは、不可能であり、また無用なのです。自分の力で<キリストを引き降ろ>すようなことはすべきではありません。自分の業によって義を得ようとする律法主義者の誤りを、申命記30:12の引用文でパウロは正したのです。

 7節の、また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。これはキリストを死人の中から引き上げることになります」という勧めも、申命記30:13の言葉を引用して「死にて葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり」たもうたキリストの救いの働きを無意味にするような、自分の業に頼ろうとする者の誤りを戒めています。

 8節の「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これも申命記30:14の引用の言葉です。この<御言葉>とは、律法の戒めではなく、パウロが宣べ伝えている<信仰の言葉>であるとパウロは理解したのです。

 キリストは旧約においてすでに、契約の主、恵みの言葉として、その民の近くにおられたが、今やすでに世に来られて救いの働きを完成された方として、宣教の言葉を通して出会われる近くにおられる方です。これにこたえるのが信仰です。

 パウロは、律法を最大の関心事とする旧約聖書から、一方では律法の領域、他方では信仰の領域についての全く逆方向の証言を導き出すことに矛盾を感じてはいません。パウロは旧約聖書がその根本においてキリスト証言であることを示そうとしているのです。イスラエルは、この旧約聖書の根本性質を洞察できなかったために、キリストの救いを拒否してしまったのです。

 「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」(9節)

 <口でイエスは主であると公に言い表し>とあるのは、原始教会における最も根本的な信仰告白です。この告白によって人々はキリスト者とされました。<心で・・・信じるなら>とあります。<心で>とは私の全人格、私の存在全体をもってと言う意味です。

 「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」(10節)

 信仰とは、イエス・キリストにおいて示されている神の義を正しく洞察し、これを全存在をもって受け入れることです。私たちは心からアーメンと言い表わして救われるのです。その時、キリストは、しっかり私たちの心の内に入り、住みたもうのです。

 「聖書にも、『信じる者は、だれも失望することがない』と書いてあります。」(11節) 

 11節では、イザヤ書の28:16にある「信ずる者は慌てることはない」という言葉を用いて、主を信じる者はだれも失望することがない、と言っています。

 「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。」(12節)

 そして、12節で、「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。」と語っています。旧約聖書の神の呼び名であった<主>を、今やキリストを意味する<主>として用いることによって、神の民が拡大されました。

 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。」(13節)

 13節では、さらに、ヨエル書3:5を引用し、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」としています。 

 「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。」(14節)

 14節以下では、伝道者について語っています。

 「遣わされないで、どうして宣(の)べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。」(15節)

 伝道とは人間が自らの小さな知恵や力でする業ではなく、神から遣わされ者の業です。だから説教を通して、イエス・キリストが臨在してくださるのです。イザヤ52:7の「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを告げ、救いを告げ、あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。」のメシア証言は、教会の宣教、パウロをも含む使徒たちの宣教を指している、とします。

 「しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、『だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか』と言っています。」(16節)

 16節で、イスラエルがメシアを拒否しとことを、<すべての人が福音に従ったのではありません>と語ります。すべての者へと開かれている福音が、「すべての者が信じたわけではない」ということは、福音の側にではなく、受け取る側に問題があることになります。イザヤは、「だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」(イザヤ53:1)と言っています。「わたしたちから聞いたこと」とは教会の使信を意味しています。

 「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(17節)

 これは、ガラテヤ人への手紙3章2節に、「あなたがたが霊を受けたのは、律法を行ったからですか、それとも、福音を聞いて信じたからですか」とあるように、律法の業に対して信仰は聞くことであることを対立させ、信仰はキリストの言葉を聞くことによって始まることを強調しています。

 福音を聞いて、<主イエス>を信じ、告白する者は、ユダヤ人も異邦人も区別なく、すべてがなんのいさおし(功績や手柄)がなくても、神の御前に立つことのできる資格の義(正しさ)を認め、その人を全く罪のない者とみなしてくださり、神の救いにあずからせてくださるのです。

 旧約聖書の律法はユダヤ人と異邦人を区別し、分離しました。しかしパウロは旧約聖書の言葉を引用し、旧約聖書はキリストを証しする書であることを説いたのです。主イエスを信じる信仰には、ユダヤ人とギリシャ人との差別はありません。ここに信仰の世界性があります。ここに、新たな神の民が誕生したのです。主イエスは万民の主であり、呼び求める者に、はかり知り得ない富、すなわち恵みと生命と救いとが充満している豊かな富にあずからせてくださるのです。異邦人に福音を伝えるために、キリストの使徒とされたパウロは、<この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがた(ローマの信徒たち)もいるのです」(1章6節)と言って挨拶を述べています。

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「信仰の戦い」テモテへの第一の手紙6章11~16節

2024-05-23 01:05:24 | キリスト教

   ↑ 「しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。」テモテ一、6章11節

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

聖霊降臨節第2主日 2024年5月26日(日)午後3時~3時50分

        礼 拝 順 序                

前 奏                辺見トモ子姉

司 会                辺見宗邦牧師

讃美歌(21)  197(ああ主のひとみ)

交読詩篇     37:23-30(主は人の一歩一歩を定め)

主の祈り     93-5、A

使徒信条     93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)テモテへの第一の手紙6章11~16節(新p.389)

説 教      「信仰の戦い」   辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21)  535(正義の主イェスに)

献 金

感謝祈祷

頌 栄(21)   27(父・子・聖霊の)

         次週礼拝 6月2日(日)午後3時~3時50分

         聖 書  ローマの信徒への手紙10章5-17節

         説教題   「神の民の誕生」

         讃美歌(21)219 69 27 交読詩篇 29:1~11 

本日の聖書 テモテへの第一の手紙6章11~16節

 6:11しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。 12信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。 13万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。 14わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。 15神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、 16唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。

 本日の説教

 この手紙の著者は、「パウロ」(1:1)とあります。(最近ではパウロ以後のパウロの信仰の遺産を十分に継承した彼の弟子か、あるいは後継者によって書かれたと言われています。)この手紙の書かれた目的は、「神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたい」(3章15節)とあります。「神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です」とあります。この手紙はエフェソを含む小アジアで成立したと推定されています。

 テモテはパウロの弟子であり、パウロの伝道旅行の同行者であり、また宣教の同労者です。パウロはテモテを、「わたしの愛する子で、主において忠実な者であり、至るところのすべての教会でわたしが教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれてたわたしの生き方を、あなたがたに思い起させることでしよう」(コリント一、4:17)と紹介しています。テモテは宣教と指導の務めを託されてパウロのもとから諸教会に派遣されています。

 テモテの手紙一の冒頭でパウロはテモテに偽預言者や偽の教理に騙されないようにと警告します。しかし手紙の大部分は教職者としての行動がどうあるべきなのかについて書かれています。パウロはテモテにどう礼拝すべきなのか(2章)、また教会の為に成熟した指導者達を送り出す為にはどうすればいいかを指導します(3章)。この手紙には個人的な生活習慣、偽教師達についての注意、罪に陥ってしまった教会員や、身寄りのないやもめや、長老や奴隷達に対する教会の配慮についての教えが書かれています。手紙全体を通してパウロはテモテに堅く立ち、耐え忍び、召しに従って歩み続けるようにと励まします。

 4章では、背教を予告し、キリスト・イエスの立派な奉仕者になりなさいと勧めます。5章では、教会の人々に対して教職者はどのよう接すべきか、細かい指示を与えています。

 6章1~10節では、信心は、満ち足りることを知る者には大きな利得の道です、と教えます。なぜなら、私たちは、何も持たずに世に生れ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から脱落し、さまざまの精神的苦痛(幻滅、良心の呵責(かしゃく)、死後の不安など)ひどい苦しみに悩まされている者たちがいると、と警告しています。

 しかし、金持ちになったり、有名になったりすることは決して悪いことではありません。クリスチャンには、自分に与えられている富や才能を正しく管理する使命が与えられています。自分の使命に忠実な人は、結果的に、裕福になったり、有名になったりする確率が高くなります。しかし、金持ちになったり、有名になったりすることを人生の目標にするのは、間違っています。クリスチャンの目標は、愛に生きることであり、神の栄光を表わすことです。成功した人は、それを神のご計画のために用い、天に宝を積むべきなのです。

 「しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。」(6:11)

  11-16節には、「神の人」は旧約聖書では神の僕、神の使者を指しますが(ヨシュア記14:6)、ここでは教職者を指します(テモテ二、3:17に<神に仕える人>とあります)。あなたは<これらのこと>を避けなさい。<これらのこと>とは、金銭に対する誤った態度からくる危険を避けなさい、ということだけでなく、この手紙で警告されたすべてのことを指しています。実りのない、つまらない口論を避けなさい。できるだけ、人々を傷つける貪欲で、わけのわからない話をして災いの元をつくる人々との間に距離を置くように、と勧めています。

 次に、<追い求めなさい>と勧めます。神自身の性質を正確に反映する特質である、<正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい>と勧めています。六つの徳目があげていますが、これらは聖霊が結ばせてくださる実です。

 「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。」(6:12)

 <信仰の戦い>は異端との戦いとも一般的にこの世の悪との戦いとも取れます。信仰の戦いを立派に戦い抜きなさい、と勧めます。同時に、パウロは、テモテに、<永遠の命を手に入れなさい。命を得るため、あなたは神から召され、<多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです>と記しています。この表明をしたのは、洗礼と按手礼の両方を指しています。このことは多くの証人の面前でなされたテモテの信仰告白を指しています。その召命に忠実でありなさい、とパウロは勧めています。

 「万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。」(6:13)

 <万物に命をお与えになる神>という言葉で最初の創造と、新しい創造(救済)の神を指します。そして、ポンティオ・ピラトの前で<立派な宣言によって証しをなさった>は、イエスが神の子であるという証しをして自ら死を引き受けられたことです(マルコ15:2)。この神とイエス・キリストの御前で厳かに教会の職務は引き受けられなければなりません。

 「わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。」(6:14)

 <再び来られるときまで>は、キリストの再臨を指します。パウロは、手紙の終わりに近いこの段落で、勧告を最後の審判の文脈に置くことにより、あたかも「万物に命をお与えになる神の御前」(13節)にいるように、その勧告には激しさを加えています。テモテは、厳かにおちどなく、非難されないように、この掟を守>るようにと勧めています。どんな掟でしょうか。その従うべき命令は彼の最初の信仰告白に付随したものです。洗礼式あるいは任職式の際に与えられた信仰と生活の教え全体を指します。

 「神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。」(6:15-16)

 キリストの再臨は、神によって<定められた時に>実現します。パウロは神をほめたたえます。

 頌栄に現れる神の一連の称号は、<祝福に満ちた唯一の主権者>、<王の王、主の主>、<唯一の不死の存在>、<近寄り難い光の中に住まわれる方>、<だれ一人見たことがなく、見ることのできない方>です。神は唯一であることが強調され、他の神的権威(異教の神々、皇帝など)に対して神の絶対的卓越性が主張されています。この神に<誉れと永遠の支配がありますように、アーメン>と賛美します。

 11節の「追い求めなさい」という表現や、12節の「信仰の戦いを立派に戦い抜き」、「永遠の命を手に入れなさい」という一連の表現は、いずれも努力や自力を説いているように聞こえ、「信仰により、恵みにより救われる」ことを力説するパウロの教えとは相反するのではないかとの疑念が生じます。しかし、恵みがすべてに先行すことは言うまでもありません。人は、受けた恵みに自由に応答すべきですが、自由な応答さえも恵みの影響下にあることも認めるべきです。善い行いは、恵みによって生きている者が、必然的に結ぶ実なのです。

 自分の力に頼るのでなく、キリストに心を向け、弱いときは力をくださいと祈り、知恵が足りないときは知恵をくださいと祈り、愛と忍耐が足りないときは愛と忍耐をくださいと祈り、悪魔の誘惑を覚えているときはお守りくださいと祈り、主のみこころを成し遂げたときは、「すべては恵みです」と告白できる者となりましょう。救いはキリストによる恵みであり、救われた後もキリストによる恵みに生きるのです。

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「聖霊の賜物」使徒言行録2章1-11節

2024-05-14 23:20:08 | キリスト教

↑ スペインの画家エル・グレコの作品「ペンテコステ(聖霊降臨)」  1596-1600年に制作 プラド美術館蔵(スペイン・マドリード)

(説明:中央の女性は、イエスの母マリア、その右の顔だけの女性はマグダラのマリア、母マリアの左に立っている黄色の衣服の人はペトロか?その右に顔だけ見える女性はクロパの妻マリアか?(男性はマティアが加わった12の弟子達+バルサバの13人)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

     日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

聖霊降臨節第1主日 2024年5月19日(日)午後3時~3時50分

       礼 拝 順 序                

前 奏                辺見トモ子姉

司 会                辺見宗邦牧師

讃美歌(21) 343(聖霊よ、降りて)

交読詩篇    104:24-30(主よ、御業はいかにおびただしいことか)

主の祈り     93-5、A

使徒信条     93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)使徒言行録2章1-11節(新p.214)

説 教      「聖霊の賜物」   辺見宗邦牧師

祈 祷

聖餐式

讃美歌(21)  348(神の息よ)

献 金

感謝祈祷

頌 栄(21)   27(父・子・聖霊の)

          次週礼拝 5月26日(日)午後3時~3時50分

          聖 書  テモテへの第一の手紙6章11~16節

          説教題   「真理の霊」

          讃美歌(21) 360 27 交読詩篇 37:23~30 

 本日の聖書 使徒言行録2章1-11節

 2:1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 2突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 4すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。 5さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、 6この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。 7人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。 8どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。 9わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、 10フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、 11ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」

 本日の説教

 聖霊の降臨は「五旬祭の日」に起こったと2章1節にあります。「五旬祭」と訳されているのは「ペンテコステ」という言葉です。英語の聖書も、日本語に訳すと、「ペンテコステの日が来て」となっています。旧約聖書にも「五旬祭」という言葉はありません。「七週祭」という言葉が用いられています。「ペンテコステ」は「五十日」という意味のギリシア語です。何から数えて五十日かというと、イースターからです。その日に、主イエスの約束が成就し、弟子たちに聖霊が降ったのです。その日はユダヤ教の過越祭の第二日から七週後、すなわち五十日目の七週祭に当たります(申命記16:9-10、レビ記23:15-22)。ちなみに、過越祭、仮庵祭、七週祭はユダヤ教の三大祝祭日です。

使徒言行録1章3~5節によると、四十日にわたって弟子たちに現れた復活のイエスは、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた父の約束されたもの(聖霊)を待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」(使徒言行録1:4-5)と命じていました。オリーブ山で昇天するときも、イエスは使徒たちに、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサエムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土、また、地の果てに至るまで、わたしの証人と

なる」(使徒言行録1:8)と言われました。

イエスの昇天後、使徒たちはすぐに、最後の晩餐が行われた家と思われる、彼らが泊まっていた家の上の部屋に集まりました(使徒言行録1:13)。十一使徒は、婦人たちや、イエスの母、兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていました。

  ペトロは、ユダに代わる人を選ぶことを、百二十人ほどの人々が集まっているところで提案し、二人の候補者を立てて、くじを引き、マティアを使徒に選びました(使徒言行録1:15)。このようにして、最初の教会は五十日間、主イエスが約束された聖霊の到来を待っていました。

ペンテコステの日に、<一同>が一つになって集まっていました。彼らが泊まっていた家の上の部屋と思われます。聖霊降臨という大きな出来事は、三つの超自然的なしるしを伴っておきました。

 その第一は、<突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に>響きました。<風>は、聖霊の活動を表現し、<天からの音>は神の直接的な働きを示しています。

 その第二は、<炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上に>とどまりました。<炎>は、汚れを除く神の働きを示し、神の臨在を示す表現です。炎のような<舌>は、言葉を表しています。聖霊は「言葉」の賜物を伴って臨んだのです。

 第三のしるしは、言葉の賜物が<一人一人の上にとどまり>、<一人一人>に個別的に与えられました。

 すると一同は、聖霊に満たされ、御霊の語らせるままに、<ほかの国々の言葉で>話しだしました。他の国々の人たちの<故郷の言葉>で話し出したのです。

 エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいました。国外に離散していた人々で、現在は祖国に帰った人たちです。また、エルサレム巡礼に来て、一時的に滞在していた人もいました。ユダヤ教に改宗した異邦人もいました。エルサレムに住むこのような大勢の人が、この聖霊降臨の出来事の物音に集まって来ました。だれもかれもが、自分たちが生まれた故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまいました。自分たちの外国の生まれ故郷の言葉を、ガリラヤ出身の使徒たちが話すのを聞いて驚いたのです。聖霊の賜物は異なった言葉で語るという奇跡的な賜物でした。離散のユダヤ人の出身地の地名が、ユダヤを中心にして東方からあげられています。

 15の地域のことばで、キリストの弟子たちが、神の偉大な業を語っているのを聞いて驚いたのです。

 当時、国外へ離散していたユダヤ人の数は4~5百万人です。エルサレムを含むパレスチナに住むユダヤ人の数はわずか50万人ほどでした。ユダヤを含むシリア地方とメソポタミアの共通語は、その当時はアラム語(ヘブライ語とは方言程度の差)でした。ローマ帝国の支配する地中海沿岸の地域の共通語はギリシア語(コイネー)でした。またローマはラテン語でした。聖霊降臨の時、使徒たちはこれらの共通語であるアラム語やギリシア語、またラテン語で話したのではなく、十五の地域の、それぞれの言葉で語ったと言うのです。この出来事は、全世界の人々がやがて、自分たちの国語で、イエスの福音を聞く日が来ることを、象徴する出来事でした。

 聖霊降臨で起こった霊の注ぎは、個人の内面にかかわる聖化としてではなく、教会が福音をたずさえて「民衆の場へ出て行く」力であり、教会に民衆を引き付ける力でした。臆病だった弟子たちに、語るための力が与えられ、言葉の賜物、異なった言語で語るという賜物が与えられたのです。それぞれの地域の人々に理解できるように話す言葉、通じる言葉が与えられたのです。主イエスが昇天の時、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒言行録1:8)と告げたことが起こったのです。

 この日、ペトロの説教の後、三千人ほどの人が洗礼を受け、仲間に加わりました。ぺンテコステは、「教会誕生の日」と言われます。しかし教会誕生のための弟子たちの集まりと祈りの準備がありました。

 使徒言行録1:3以下によると、四十日にわたって、復活の主は弟子たちに現れ、「エルサレムを離れず。・・・父の約束されたものを待ちなさい」と命じました。その後、天に上げられるときには、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そしてエルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒言行録1:8)と語って昇天しました。弟子たちは、主に言われたように、エルサレムにとどまり、泊まっていた家の二階に集まり、心を合わせて熱心に祈り、聖霊が降ることを待ちました。ここに教会の誕生のための備えがあったのです。

 ペンテコステは、「宣教する教会の誕生」を伝える物語です。わたしたちも、隣人にも福音を伝える者とされましょう。先に救われ、キリストの愛を知ったわたしたちは、自己愛の延長としての愛ではなく、イエス様によって示された赦しを伴う献身的な愛を証しし、「あなたも、あなたの家族も、主を信じれば救われる」(使徒16:31)と信じ、宣べ伝えましょう。聖霊はわたしたちに、聞く価値のあることを語らせてくださる力であり、聞く人に希望といのちと力を与えます。聖霊はイエスの十字架と復活を証言する力であり、教会を全世界へと押し出す原動力です。私たちも、この聖霊の力を受けてイエス様の証人となり、人々の救いに尽くしましょう。

 

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「キリストが栄光を受ける時」ヨハネによる福音書7章32-39節

2024-05-11 11:29:46 | キリスト教

 ↑「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」ヨハネ7:37-38 

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

復活節第7主日 2024年5月12日(日)午後3時~3時50分

                          礼 拝 順 序                

前 奏                辺見トモ子姉

司 会                邉見 順子姉

讃美歌(21)  528(あなたの道を)

交読詩篇      8(主よ、わたしたちの主よ)

主の祈り     93-5、A

使徒信条     93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書7章32-39節(新p.179)

説 教  「キリストが栄光を受ける時」 辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21)   337(たたえよ、この日)

献 金

感謝祈祷

頌 栄(21)    27(父・子・聖霊の)

                                       次週礼拝 5月19日(日)午後3時~3時50分

                                       聖 書  使徒言行録2章1~11節

                                      説教題   「聖霊の賜物」

                                      讃美歌(21) 346 27 交読詩篇 104:24~30 

      本日の聖書 ヨハネによる福音書7章32-39節

    7:32ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。 33そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。 34あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」 35すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。 36『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」 

   37祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」 39イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている‛霊’について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、霊がまだ降っていなかったからである。

   本日の説教

 「ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。」(7:32)

 主イエスは当時のユダヤ人の宗教的指導者だったファリサイ派の権威に従わず、安息日にも癒しを行っていましたし、神をご自分の父と呼んで、つまり自分は神の子であると言っていました。ファリサイ派にとって、人間が自分を神の子だと言うのは神を冒涜することに他なりません。ですから彼らは、イエスは神に背く教えを語って人々を惑わしているから生かしておけない、と思ったのです。

  だが群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるし(奇跡)をなさるだろうか」と言っていました(7:31)。

 ファリサイ派の人々は、群衆がキリストをたたえるのを聞きました。そこで祭司長たちとファリサイ派の官憲は、すてておけなくなり、イエスを捕らえるために下役たち(神殿警備員)を遣わしました。

 「そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。」(7:33)

 すると、イエスは迫り来る自分の最後について語ります。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった天の父なる方のもとへ帰る。

 「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」(7:34)

  イエスは父なる神に遣わされて、天からこの世に来られた。そして、地上での使命を果たして、父なる神の許へと帰っていかれる。主イエスの十字架の死は、ファリサイ派や祭司長たちの思いによって起るのではなくて、父なる神のご計画によって実現する。その時が来るまでは、ファリサイ派や祭司長たちがどんなに腹を立ててイエスを捕えようとしても、そのことは実現しない。「あなたがたは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所、天の父なる方のもとへ来ることが出来ない。」

 「すると、ユダヤ人たちが互いに言った。『わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。』」(7:35)

 イエスが言われたのはもちろん、イエスを遣わした父なる神のもと、天へ帰るということを言っているのですが、このことを知らない人々は、イエスの言葉に戸惑うばかりです。そこで彼らは次のように推測しました。イエスはエルサレム=ユダヤから出て、ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行ってギリシア人に教えるのではなかろうかと。この場合ギリシア人は直接にはユダヤ人以外の異邦人を指しています。

 「『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」(7:36)

    36節は、イエスの言われた34節の言葉をユダヤ人たちが、どういう意味なのか理解できないと言っています。弟子たちは始めはイエスがどこから来て、どこへ行かれるのか知らなかったが(14:5)、後に知るようになります(14:4、16:5)。彼らが知るのはみ霊を与えられた後、つまり、イエスの時が来た後で知るようになります(7:3739)。これに反してユダヤ人たちはイエスがどこから来たかを知っていると主張するが(6:42,7:27-29)、本当は知らないのです(7:35)。

 「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」(7:37)

 「祭り」は仮庵(かりいお)の祭りのことで、規定はレビ記23章34-43節に記されています。祭りは7月の15日から始まり、終わりの日は、七日目のことと見なされます。七日間、仮庵(仮の小屋)に住み、農作物を主に捧げて祝う収穫感謝の祭りで、「刈り入れの祭り」とも呼ばれていました。主がイスラエルの人々をエジプトから導き出したとき、彼らを天幕(仮庵)に住まわせたことを代々の人々に知らせるためです。ユダヤ人にとって仮庵の祭りは、三大祭り(過越しの祭り、七週の祭りがある)の一つの最大の祭りです。

 イエスは立ち上がって大声で言われました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」「渇いている人」という言い方は、荒れ野で神の与えた生きた水が渇きをいやしたという事(出エジプト記17:6)と関連して言われています。

 「だれでも」という言葉が重要です。主イエスは誰にでも、タダで、生きた水を飲ませて下さるのです。この水を飲むのに、特別な資格など必要ありません。品行方正な、きちんとした生活をしている清く正しい人でなければこの水を飲ませてもらえない、などということはないのです。渇いている人ならだれでも、主イエスのもとに来て、生きた水を飲むことができます。この水を求めて主イエスのところに来るなら、主イエスが恵みによって生きた水を与えて下さるのです。

「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(7:38)

 これは、4章14節でイエスがサマリアの女に対して、「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言われた言葉と同じように理解することが可能です。また、6章35節でイエスが「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と言われました。イエス御自身が命のパンであると同時に命の水であり、命の水を与える方です。このイエスを信じる者は、その人の内から命の水が流れ出るようになるというのです。この場合<聖書に書いてあるとおり>というのは、ゼカリヤ書14章8節の「その日、エルサレムから命の水が湧き出で・・流れ続ける」の神殿の回復に際し、命の水が流れ出ることと関係しています。

 「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている‛霊’について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、霊がまだ降っていなかったからである。」(7:39)

 これは、福音書記者ヨハネの付け加えた説明です。38節で主が「わたしを信じる者は、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」という約束は、「主イエスを信じる人々が受けようとしている聖霊について」のことを言われたのである、と説明しています。

 その聖霊はいつ与えられるのでしょうか。「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、霊がまだ降っていなかったからである」ということです。主イエスが栄光を受ける時とは、いつなのでしょう。17章1節にその時が来たことが語られています。「イエスは天を仰いで言われた。『父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすようになるために、子に栄光を与えてください』」。18章からイエスの受難が語られます。イエスが栄光を受ける時は十字架につけられて殺され、復活する時です。20章22節では、復活のされたイエスが弟子たちを派遣するにあたって、息を吹きかけ<聖霊を受けなさい>と言われています。

 十字架の死と復活によって栄光を受けられた主イエスが、聖霊を私たちに注ぎ、与えてくださるのです。私たちは聖霊によって主イエスのもとへ導かれ、信仰を与えられ、教会に連なる者とされています。

 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(7:37)と主イエスは大声で私たちに呼びかけています。

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「苦難に打ち勝つ勝利」ヨハネによる福音書16章25-33節

2024-05-02 23:49:20 | キリスト教

  ↑ これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

復活節第6主日 2024年5月5日(日)午後3時~3時50分

      礼 拝 順 序                

前 奏                辺見トモ子姉

司 会                邉見 順子姉

讃美歌(21)  531(主イェスこそわが望み)

交読詩篇     46(神はわたしたちの避けどころ)

主の祈り     93-5、A

使徒信条     93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書16章25-33節(新p.201)

説 教    「苦難に打ち勝つ勝利」 辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21)   481(救いの主イエスの)

献 金

感謝祈祷

頌 栄(21)    27(父・子・聖霊の)

         次週礼拝 5月12日(日)午後3時~3時50分

         聖 書  ヨハネによる福音書7章32-39節

         説教題   「キリストの昇天」

         讃美歌(21)528 336 27 交読詩篇 46 

  本日の聖書 ヨハネによる福音書16章25-33節 

 25「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。26その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。27父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。28わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」29弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。30あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」31イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。32だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。33これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

 本日の説教

 ヨハネによる福音書では、弟子たちとの最後の食事が13章1節から始まります。別れの説教は、13章31節から始まり、14章1節から31節まで本格的に展開されます。そして15章1節から16章33節まで第二の別れの説教が語られます。イエスがこの地上を去って、天に帰るに際してのこの説教の中心主題は、地上に残される弟子たちの不安を取り除くことにありました。

 今日の聖書の箇所、16章25節以下は、第二の別れの説教の最後の部分にあたります。「わたしはこれらのことを、たとえをもちいて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時がくる。」(16:25)

 今やイエスは地上の生涯を終え、弟子たちと別れを告げるに当たって、これまでの「別れの説教」が、たとえを用いたものだったが、もはやたとえによらないで、はっきり天上の父について知らせる時が来るとイエスは弟子たちに語りかけます。

 「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。」(16:26-27a)

 その日には、あなたがた(弟子たち)は、わたし(イエス)の名によって祈り願うことになる。わたしがあなたがたのために父なる神にとりなし、父に願って上げる、とは言わない。父なる神御自身があなたたちを愛されるので、わたしが神と弟子たちの間に立って、とりなしをする必要はなくなる。このことは、イエスの名によって願うことが不要になる、ということではなく、神の愛があなたがたに直接に向けられ、確実であるかを示しています。神の愛はキリストのとりなしがあってあなたがたに向けられるのではない。この神のうちにあふれるあなたがたのへの愛を伝えるためにイエスはこの世に来られたのです。

 「父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。」(16: 27)

 父なる神御自身が、あなたがたを愛しておられるのです。あなたがたが、わたし(イエス)を愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからです神が私たちを愛してくださる条件は、このイエス・キリストに対する私たちの愛と信仰です。

 「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」(16:28)

 イエスは、神と共にあった神の子ですが、父のもとから遣わされて世に来て、人間となられた。そして、受難と十字架によって<世を去って、父のもとに行き>、栄光を現すのです。

 「弟子たちは言った、今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。』」(16:29-30)

 弟子たちは、イエスの全知と神的起源に対する信仰を言い表します。彼らが信仰に至った理由は、人の心の奥底まで見抜くイエスの神的力を認めたからです。

 「イエスはお答えになった。『今ようやく、信じるようになったのか。』」(16:31)

 イエスは、「今ようやく、信じるようになったのか」とお答えになられました。弟子たちはしるしを見て信じたのではなく、イエスの言葉によって、イエスが神的存在であることを信じたのです。

 「『だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。』」(16: 32)

 だが弟子たちの告白した信仰には、実は彼らの生命がかけられていませんでした。イエスは弟子たちが、イエスの受難に際して、イエスを捨てて、散り散りになってしまうことを予告します。弟子たちの信仰が、人間的な頑張りや意気込みによるものであり、イエスと弟子たちとの間に、まだ本当に永続的結合関係ができていませんでした。この関係は復活のイエスとの出会いまで待たなければなりませんでした。

 弟子たちは、イエスを裏切り、捨てるという自分たちのどん底にまで至る挫折の中において、イエスは自分たちを支え給うという事実を、まだ知りませんでした。地上のイエスに向かって、すでに正しい信仰を告白したと信じた彼らは、実は自分の人間的な知識や判断によって、天上の真理を知り得るという自信を抱いていました。しかし、神の真理が本当に明らかに示されとき、それは実に私たちが人間的破綻を経験し、どん底から天を仰ぐとき、もはや信ずるという事自体、自分の側の決断によるものではなく、キリストの霊によって神から賜わる恩恵であることを知るのです。この厳粛な人生の事実を、イエスはよく見抜いておられたのです。

  イエスは、弟子たちの逃亡という状況を目の前にしても、孤独ではなく、<父が共にいてくださる>ことを宣言します。それは、まさに、受難に雄々しく立ち向かうキリストを示しています。

 「『これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。』」(16:33)

 私たちが人生の挫折によってあわてふためき、絶望に堕ちることなく、そのどん底において支えて下さるイエスを仰いで、魂の平安を得るために、これらのことを話したのだ、とイエスは語られます。しかし、この真理もまた、弟子たちにとって一つの謎です。なぜならば、聖霊によって、私たちの全存在が父なる神に固く結びつけられ、人間的挫折のどん底において、イエスの勝利に支えられる時に至るまで、この御言葉の真意は、やはり一つの謎でしかないからです。

 「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」この言葉は、四つの章にわたる「別れの説教」をしめくくるにふさわしい、感銘深い主イエスの言葉です。イエスは、やがて事実となるであろう弟子たちの挫折を予見しつつ、それにもかかわらず決して滅び去ることのない勝利の基盤を、はっきり示されました。

 そして、この言葉は、あとに残された弟子たちの心の中に、忘れることのできないものとして、深く刻み込まれました。やがてペトロはイエスを否み、他の弟子たちも共にイエスを捨て去ります。この挫折と背信の行為にかかわらず、復活のイエスは彼らをふたたび召し出し、そのすべての罪を赦して、新しい宣教に立たせてくださるのです。キリストの教会は、立派な信仰者の勇気と徳の上に建てられたのではなく、その基礎を築いた人々は、むしろ挫折し、面目を失墜した敗北者たちでした。イエスの勝利が、これらの敗北者たちを再び立ち上がらせ、イエスの御業が、彼らの弱さを支えたのです。

 主イエスは、「あなたがたには世で苦難がある」といたわるように言われます。私たちのすべての苦難、悩み、苦しみ、病、死を、イエスはことごとく知っておられます。主は人となって自らも同じような、もっとつらい体験をされたのです。

 イエスは私たちに、「しかし、勇気を出しなさい」と言われます。主は私たちと共に忍び、耐え、悩み、苦しみ、私たちの背負う重荷を共に背負ってくださるのです。弟子たちは、イエスの言葉によって、どのような状況に直面しても、平和を与えられ、勇気を出すことができる者とされます。

 こうしてイエスの別れの説教は、イエスの劇的な励ましと慰めの言葉によって閉じられます。イエスの勝利は、まだ私たちの勝利でないかも知れませんが、この勝利者イエスを信じることによって、イエスの勝利が私たちに与えられることが約束されています。主イエスが今も生きて、世に勝った主として私たちと共に歩んでくださる、このキリストと共にある生活、キリストに支えられる生活、キリストと共にいることを目指す生活こそが、私たちを支え、力づけ、世に勝つ道なのです

 「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」(ヨハネの手紙一5:4~5)

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