↑ 伊達政宗のお茶へ招く書状 佐藤瑛二氏所蔵
〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403
平成二十六年四月二十六日(土) 於 富谷教会・松風亭
第二十二回 イ―スター茶会 参加者42名
会 記 辺 見 宗 邦、 辺 見 宗 友 社中一同
礼拝室 「平安」 石舟筆
待合床 「春入千林処々鶯」 明道筆
濃 茶 席(天心庵)
床 淡々斎御筆「松風隔世塵」
花 金蘭、黒もじ
花 入 青磁花入 川瀬忍造
香 合 聖書 三四郎造
釜 十字釜 美之助造
炉 縁 真
水 指 十字文現川俵型(鵬雲斎箱)
茶 入 高取耳付 八山造
仕 服 山岳華紋錦
茶 杓 高山右近作写 「御坊へ 花十(クルス)」 瓢阿作
茶 盌 聖碗 岩手県東和町大籠教会(隠れキリシタン)所持
替 黒楽 長楽造
蓋 置 竹 左京造
建 水 曲
御 茶 青葉の昔 大正園詰
菓 子 春の野 玉澤総本店製
菓子器 染付け十字形 青華造
薄 茶 席(瑞祥軒)
床 伊達政宗筆 今大路玄鑑親清宛(お茶へ招く書状)
脇棚 キリスト磔刑像(隠れキリシタン所持)
花 花いかだ、しらねあおい
花 入 利休所持写音曲蒔絵 剛山箱書 宗泰造
香 合 イースター・エッグ(花と蝶絵) ケーヴァーウオ―ル製
釜 富士裾野透木釜 浄清造
炉 縁 布摺繋ぎ七宝 表完造
水 指 溜塗獅子狩紋義山(ギャアマン)入リ 昭峰造
長 板
薄 器 塩釜蒔絵棗 徳司造
茶 杓 銘 「春風」 怡雲作
茶 盌 古萩 銘「わかば」
替 ヴァリニャーノ印章入り 巌三造
蓋 置 政宗所持黄金のブローチ 東斎造
建 水 草花絵 万象造
御 茶 青松の白 大正園詰
菓 子 三色団子 玉沢総本店製
菓子器 古伊万里染付色絵深鉢
礼拝の部 午前12時~12時30分
前 奏 奏楽 小林ゆう子姉
讃美歌(21) 355(主をほめよ、わが心)
主の祈り
聖 書(共同訳) 新約聖書 コリントの信徒への手紙一、15章3~8,14、20節
イースターのメッセージ 「もし、キリストが復活しなかったのなら」 辺見宗邦牧師
讃美歌(21) 327(すべての民よ、よろこべ)
祝 祷 平井孝次郎牧師
後 奏
茶会(午前の部) 午前10時~11時30分、茶会(午後の部) 午後1時30~3時
食事の時間 12時40~1時20分
展示棚 踏絵の色々 江戸時代(キリシタン禁制時代)の紙踏絵、板踏絵、真鍮踏絵、銅踏絵を展示。
講話「利休時代のキリシタン茶人について」 辺見 宗邦
利休は、戦国時代から安土桃山時代にかけて生きた茶人で、武野紹鴎から始まった「わび茶」を大成しま した。静けさの中にも活動力を潜めた「わび茶」は、戦国の世に下剋上の気風を求めた人々や武士に支持されました。利休は58歳の時、信長の茶頭となり、続いて70歳まで、秀吉に茶頭として仕えました。茶の湯は武士の嗜みであり、教養であり、社交としても重んじられました。
利休の時代にキリスト教が伝来しました。キリスト教を最初に伝えたザビエルが、都・京都を訪ねる途中、大阪・堺の商人であり、茶人でもあった日比谷了慶の家に滞在したとき、了慶の屋敷から500㍍ほどの所に住んでいた利休は28歳でした。利休の時代とキリスト教の伝来と普及の時期とが重なります。利休の後妻も娘もキリシタンでした。
ザビエルの布教開始から3年後の天文21年(1553年)から、利休の死の29年後の元和6年(1620年)までの、 67年間にキリシタンになった大名は87人(そのうち洗礼名が分かるのは66人)に及びました。
利休時代のキリシタン茶人として、利休七哲(蒲生氏郷、高山右近、細川忠興、芝山監物、瀬田掃部、牧村利貞、古田織部)の内、高山右近、蒲生氏郷、牧村利貞の三人は明らかにキリシタンであり、古田織部はキリシタンの良き理解者であり、細川忠興の妻(ガラシャ)も信徒でした。瀬田掃部も右近に導かれて信徒となったと言われています。
伊達政宗は、茶の湯に親しみ、千利休、古田織部に学んで、当代一流の数寄者となっています。キリスト教布教を奨励擁護したが、迫害者に転じた大名とされています。フランシスコ会宣教師ソテロと支倉常常長をスペイン王とローマ法王に遣わし、スペイン領のメキシコとの通商と、宣教師の派遣と宣教を求めた政宗は、徳川幕府の切支丹禁制の圧力にやむなく屈したのです。政宗は享年満68歳。死の前年に詠んだといわれる漢詩「馬上少年過ぐ」は、次のように最晩年の心境を詠っています。
読み下し 「馬上少年過ぐ、時平(たいらか)にして、白髪多し。残躯(ざんく)天の許す所、楽しまずんば、是いかん。四十年前小壮の時、功名聊(いささ)か復(ま)た自ら私(ひそかに)に期す。老来(ろうらい)識(し)らず、干戈(かんか)の事。只(ただ)春風に桃李(とうり)の巵(さかずき)を抱く。」
口語訳 [馬に乗って駆け巡った少年時代は過ぎた。今は戦(いくさ)は無くなり、平和になった。私は白髪になった。残された私の命は天が与えてくれるものである。楽しまないでどうするのだ。四十年前の若く勢いがあった頃は、功名を立てることに、口にこそ出さなかったが、ひそかに自信があった。しかし、年を取った今は、戦いのことなどすっかり忘れてしまった。今はただ、春風に吹かれながら、桃と李(すもも)の花の下で酒を楽しむばかりである。]
NHKの日曜日テレビ番組で放映さえている軍師黒田官兵衛ですが、官兵衛は通称で、名は黒田孝高は天文15年(1546年)に、播磨(兵庫)の黒田職隆(もとたか)の子として生まれています。官兵衛は軍師として勇名を馳せ、茶人としても名を成しました。姫路(兵庫県伊丹市)に拠点を構え、織田信長方の羽柴秀吉との関係を深めました。本能寺の変後の天正13年、小西行長(熊本県宇土[肥後]の切支丹大名)の働きかけにより、高山右近と蒲生氏郷に導かれてキリシタンとなりました。孝高(官兵衛)と、その息子の長政と孝高の弟・直之も、キリシタン大名の名簿にその名が加えられています。九州出兵後には豊前国(福岡と大分にまたがる)12万石の大名として中津城(大分県)を整備しました。官兵衛は引退してから如水として知られています。
孝高は1585年大阪で洗礼を受けており、洗礼名はシメオンです。かれは受洗後の二年間、禁教令の発布までは、多数の人物を教会へみちびきました。官兵衛の夫人はキリシタンになることを最後まで拒んだといわれています。1587年の禁教令のとき、官兵衛は信仰を守りました。天正17年(1589年)、44歳で隠居。高山右近が追放されたので、官兵衛は教会の弁護者の役目を果たし、1590年のヴァリニャーノの使節のとき、秀吉のもとに取り次ぎをしました。黒田如水は最後まで信仰を守り続けました。秀吉からは疎まれたと言われています。死去する少し前、鍋島勝茂を伴って伏見の古田織部邸にて茶に与っています。孝高は、神屋宗湛の日記には九回も登場している茶人です。
慶長9年(1604)年、享年58歳、伏見で死亡しました。自分の遺体を博多の教会に葬るように遺言し、その教会のため遺産を残しました。宣教師の追放後、官兵衛の墓は崇福寺(福岡県博多区にある黒田家の墓所)に移されました。その後、遺骨は大徳寺塔頭龍光院の納められました。