富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

第22回イースター茶会、会記と礼拝、講話「利休時代の切支丹茶人について」

2014-04-28 21:10:48 | キリシタン茶人に関する講話

                    ↑ 伊達政宗のお茶へ招く書状   佐藤瑛二氏所蔵

     

 

 〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380  FAX:022-358-1403 

  平成二十六年四月二十六日(土)   於 富谷教会・松風亭                                                                                                                                                                      

 第二十二回 イ―スター茶会    参加者42名

          会     記        辺 見 宗 邦、  辺 見 宗 友  社中一同

   礼拝室 「平安」                           石舟筆 

   待合床 「春入千林処々鶯」                   明道筆

         濃 茶 席(天心庵)

    床     淡々斎御筆「松風隔世塵」   

      花      金蘭、黒もじ

      花 入   青磁花入                    川瀬忍造

      香 合   聖書                       三四郎造

      釜     十字釜                      美之助造

        炉 縁   真       

       水 指   十字文現川俵型(鵬雲斎箱)         

       茶 入   高取耳付                      八山造

        仕 服   山岳華紋錦

       茶 杓   高山右近作写 「御坊へ 花十(クルス)」  瓢阿作

       茶 盌   聖碗 岩手県東和町大籠教会隠れキリシタン所持

        替   黒楽                      長楽造

        蓋 置   竹                         左京造

        建 水   曲        

       御 茶    青葉の昔                   大正園詰

       菓 子    春の野                  玉澤総本店製

       菓子器    染付け十字形                  青華造

 

          薄 茶 席(瑞祥軒)

     床       伊達政宗筆 今大路玄鑑親清宛(お茶へ招く書状)

       脇棚    キリスト磔刑像(隠れキリシタン所持)

        花       花いかだ、しらねあおい

        花 入     利休所持写音曲蒔絵 剛山箱書     宗泰造

        香 合 イースター・エッグ(花と蝶絵) ケーヴァーウオ―ル製       

        釜         富士裾野透木釜               浄清造

           炉 縁   布摺繋ぎ七宝                表完造

        水 指   溜塗獅子狩紋義山(ギャアマン)入リ     昭峰造   

           長 板

        薄 器      塩釜蒔絵棗                 徳司造

        茶 杓       銘 「春風」                 怡雲作

        茶 盌      古萩  銘「わかば」

         替       ヴァリニャーノ印章入り           巌三造

         蓋 置     政宗所持黄金のブローチ         東斎造

         建 水     草花絵                     万象造

        御 茶      青松の白                  大正園詰

        菓 子     三色団子                玉沢総本店製

        菓子器     古伊万里染付色絵深鉢 

 

          礼拝の部 午前12時~12時30分 

                    前 奏            奏楽 小林ゆう子姉     

                    讃美歌(21) 355(主をほめよ、わが心)

                  主の祈り 

                  聖 書(共同訳) 新約聖書 コリントの信徒への手紙一、15章3~8,14、20節

                    イースターのメッセージ  「もし、キリストが復活しなかったのなら」  辺見宗邦牧師

                   讃美歌(21) 327(すべての民よ、よろこべ)                 

                   祝 祷                平井孝次郎牧師

                   後 奏   

 

     茶会(午前の部) 午前10時~11時30分、茶会(午後の部) 午後1時30~3時

   食事の時間 12時40~1時20分

     展示棚 踏絵の色々 江戸時代(キリシタン禁制時代)の紙踏絵、板踏絵、真鍮踏絵、銅踏絵を展示。

   

 講話休時代のキリシタン茶人について」  辺見 宗邦

    利休は、戦国時代から安土桃山時代にかけて生きた茶人で、武野紹鴎から始まった「わび茶」を大成しま        した。静けさの中にも活動力を潜めた「わび茶」は、戦国の世に下剋上の気風を求めた人々や武士に支持されました。利休は58歳の時、信長の茶頭となり、続いて70歳まで、秀吉に茶頭として仕えました。茶の湯は武士の嗜みであり、教養であり、社交としても重んじられました。

  利休の時代にキリスト教が伝来しました。キリスト教を最初に伝えたザビエルが、都・京都を訪ねる途中、大阪・堺の商人であり、茶人でもあった日比谷了慶の家に滞在したとき、了慶の屋敷から500㍍ほどの所に住んでいた利休は28歳でした。利休の時代とキリスト教の伝来と普及の時期とが重なります。利休の後妻も娘もキリシタンでした。

   ザビエルの布教開始から3年後の天文21年(1553年)から、利休の死の29年後の元和6年(1620年)までの、 67年間にキリシタンになった大名は87人(そのうち洗礼名が分かるのは66人)に及びました。

    利休時代のキリシタン茶人として、利休七哲(蒲生氏郷、高山右近、細川忠興、芝山監物、瀬田掃部、牧村利貞、古田織部)の内、高山右近、蒲生氏郷、牧村利貞の三人は明らかにキリシタンであり、古田織部はキリシタンの良き理解者であり、細川忠興の妻(ガラシャ)も信徒でした。瀬田掃部も右近に導かれて信徒となったと言われています。

    伊達政宗は、茶の湯に親しみ、千利休、古田織部に学んで、当代一流の数寄者となっています。キリスト教布教を奨励擁護したが、迫害者に転じた大名とされています。フランシスコ会宣教師ソテロと支倉常常長をスペイン王とローマ法王に遣わし、スペイン領のメキシコとの通商と、宣教師の派遣と宣教を求めた政宗は、徳川幕府の切支丹禁制の圧力にやむなく屈したのです。政宗は享年満68歳。死の前年に詠んだといわれる漢詩「馬上少年過ぐ」は、次のように最晩年の心境を詠っています。

 読み下し 「馬上少年過ぐ、時平(たいらか)にして、白髪多し。残躯(ざんく)天の許す所、楽しまずんば、是いかん。四十年前小壮の時、功名聊(いささ)か復(ま)た自ら私(ひそかに)に期す。老来(ろうらい)識(し)らず、干戈(かんか)の事。只(ただ)春風に桃李(とうり)の巵(さかずき)を抱く。」

 口語訳 [馬に乗って駆け巡った少年時代は過ぎた。今は戦(いくさ)は無くなり、平和になった。私は白髪になった。残された私の命は天が与えてくれるものである。楽しまないでどうするのだ。四十年前の若く勢いがあった頃は、功名を立てることに、口にこそ出さなかったが、ひそかに自信があった。しかし、年を取った今は、戦いのことなどすっかり忘れてしまった。今はただ、春風に吹かれながら、桃と李(すもも)の花の下で酒を楽しむばかりである。]

    NHKの日曜日テレビ番組で放映さえている軍師黒田官兵衛ですが、官兵衛は通称で、名は黒田孝高は天文15年(1546年)に、播磨(兵庫)の黒田職隆(もとたか)の子として生まれています。官兵衛は軍師として勇名を馳せ、茶人としても名を成しました。姫路(兵庫県伊丹市)に拠点を構え、織田信長方の羽柴秀吉との関係を深めました。本能寺の変後の天正13年、小西行長(熊本県宇土[肥後]の切支丹大名)の働きかけにより、高山右近と蒲生氏郷に導かれてキリシタンとなりました。孝高(官兵衛)と、その息子の長政と孝高の弟・直之も、キリシタン大名の名簿にその名が加えられています。九州出兵後には豊前国(福岡と大分にまたがる)12万石の大名として中津城(大分県)を整備しました。官兵衛は引退してから如水として知られています。

    孝高は1585年大阪で洗礼を受けており、洗礼名はシメオンです。かれは受洗後の二年間、禁教令の発布までは、多数の人物を教会へみちびきました。官兵衛の夫人はキリシタンになることを最後まで拒んだといわれています。1587年の禁教令のとき、官兵衛は信仰を守りました。天正17年(1589年)、44歳で隠居。高山右近が追放されたので、官兵衛は教会の弁護者の役目を果たし、1590年のヴァリニャーノの使節のとき、秀吉のもとに取り次ぎをしました。黒田如水は最後まで信仰を守り続けました。秀吉からは疎まれたと言われています。死去する少し前、鍋島勝茂を伴って伏見の古田織部邸にて茶に与っています。孝高は、神屋宗湛の日記には九回も登場している茶人です。

    慶長9年(1604)年、享年58歳、伏見で死亡しました。自分の遺体を博多の教会に葬るように遺言し、その教会のため遺産を残しました。宣教師の追放後、官兵衛の墓は崇福寺(福岡県博多区にある黒田家の墓所)に移されました。その後、遺骨は大徳寺塔頭龍光院の納められました。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 「もし、キリストが復活しなかったのなら。」コリントの信徒への手紙一、15章1~20節

2014-04-28 13:58:53 | 礼拝説教

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本キリスト教 富 谷 教 会 

       週     報   復活節節第二主日  2014年4月27日(日)  午後5時~5時50分 

礼    拝 

前 奏           奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 204(よろこびの日よ)

交読詩編   16(神よ、守ってください) 

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書  コリントの信徒への手紙一、15章1~20節

説 教 もし、キリストが復活しなかったのなら辺見宗邦牧師

賛美歌(21)517(神の民よ)

聖餐式    78(わが主よ、ここに集い)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)    24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

  本日の聖書 コリントの信徒への手紙一、15章1~20節

  1兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。2どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまでしょう。3最も大切なこことしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、4葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、5ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。6次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時現れました。そのうち何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。7次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、8そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。

14 キリストが復活しなかったのなら。わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。……

20 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。

         本日の説教

 イエスは十字架への道を進む途中、弟子たちに、御自分の受難と復活について、三度も予告していました。「今、わたしたちはエルサレムへ上っていく。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」(マルコ10:33,34)

   十字架への道を進むことは、できればこの苦しみの時をさけたいとの思いがありました。イエスはゲッセマネの園で、「この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈りました。「この杯」とは、人々の罪の贖いとして、十字架に掛けられることです。イエスは、父なる神が、自分が死んだのちに、よみがえらせてくださることを信じていましたが、十字架上で死ぬ瞬間は、人々の罪を一身に負い、神の裁きとしての死をうけなければなりません。

 イエスが十字架につけられたのは、午前9時頃でした。昼の12時になると、全地は暗くなり、それが3時まで続きました。イエスの十字架上の最後の言葉は「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という、絶望の叫びでした。

  もし、イエスが死んで終わりであるなら、天は閉じられたままであり、神とイエスとの間の交わりは絶たれたままです。もし、父なる神がイエスを死人の中から復活させてくださらないなら、イエスは悲劇を演じた人で終わってしまします。

  もし、神がイエスの叫びに答え、最後まで神の御心に従順であった御子を復活させてくださらないなら、この世には神はいないことになります。神に対する信仰も無駄であるし、教会の存在が無意味になります。

  キリストは死んで三日目に復活されました。一番最初に、天使からイエスが復活したことを聞かされたのは、イエスに救われ、イエスを慕って、イエスと弟子たちの身のまわりを世話するために、ガリラヤがついてきた婦人たちでした。この婦人たちの中のマグダラ出身のマリアと数名の婦人たちは、イエスの十字架の死と、アリマタヤ出身の議員のヨセフがイエスの亡骸を墓に納めるのを見届けました。

 翌日は安息日だったので、その次の日の朝早く、この婦人たちは、イエスが葬られた墓に行きました。そこで、天使からイエスが復活したことを告げられ、このことを弟子たちに伝えるように言われ、弟子たちの所へ行く途中で、復活されたイエスが彼女たちに現れました。婦人たちは弟子たちにイエスが復活したことを伝えましたが、弟子たちは信じようとはしませんでした。しかし、復活された主が弟子たちのところにも現れたので、弟子たちんも信じました。

 キリストの復活について証言している今日の聖書の個所は、キリストによって使徒とされたパウロです。キリスト教徒を撲滅しようとしていた迫害者のパウロは、イエスの死(紀元30年頃)の後、紀元34~36頃、キリスト教徒を捕縛するために、シリヤのダマスコへ行きました。その郊外で、パウロは復活されたキリストに出会い、回心し、キリスト教徒になりました。キリストは復活してから40日間は大勢の弟子たちの現れましたが、その後天に昇られました。パウロの現れたイエスは天上におられる、復活された主イエスです。

 キリストが死人の中から復活したのは、神と私たちの間を遮り、隔てている私たちの罪を取り去り、神の裁きとしての死から救い、私たちと神との霊的交流を回復させてくださるためでし

 イエスが十字架上で死んだとき、イエスは人類の罪を背負い、その罪のさばきとしての死を神より受けたました。そのとき、イエスは絶望の叫びをあげました。このイエスの死と、イエスが復活し、昇天したあとの、ステパノの死と比較してみましょう。

 最初のエルサレム教会の役員に選ばれたステパノが石打ちの刑で殉教したときは、「ステパノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、『天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える』と言った。」とあります。主イエスが死から復活し、昇天されたからこそ、ステパノの場合は、天か開いており、聖霊を受けて、神との親しい交わりを与えられているのであり、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください。」と言って、眠りにつきました。

  このような死をステパノが遂げることができたのは、イエスが人類の罪のあがないを果たし、父なる神によって、死より復活させられ、昇天されたからこそであり、ここに主イエスが復活されていることが証明させています。

  しかし、主イエスの十字架と復活をしんじる信仰は、神から霊の目を開いていただかなければ、信じることのできない真理です。聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とはいえないのです。(コリント一、12:3)

  パウロが、最も大事なこととして語った福音は、キリストの十字架の死と復活についてであり、その復活の証人の名を挙げています。これを書いた動機が15章12節に書かれています。 「『キリストは死者の中から復活した。』と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。」と言っているように、「死者の復活」を認めない人たちがいたからです。

  死者の復活 というのは、主イエス・キリストの復活のことではありません。イエスの復活は疑う余地のない事実となっていました。問題は、主イエスの復活ではなくて、私たち自身の復活です。イエスは死者の中から復活したが、すでに眠った者たちや、自分たちが死んだ場合には、イエスとは違って、「死者からの復活」などはないと言っている人たちがいました。

  生きている間に、イエスの十字架と復活の恵みにあずかり、聖霊の恵みをいただき、永遠の命を継ぐ者とされていることを信じる者とされたことで十分ではないか。自分たちが、死んだあとの復活などは、必ずしも必要なことではないとする人たちです。

  パウロは、キリストの復活と私たちの復活とは切り離すことができないものであり、キリストが死人の中から復活したのは、わたしたちのも同じように「死人からの復活」のあずからせるためなのだ、と言っているのです。

 キリストの復活は、眠りについた人たちの初穂であり、私たち自身の復活の先駆けなのだ、と言っているのです。もし、わたしたちの「死人の復活」を否定するなら、「キリストの死人からの復活」をも否定することにつながるのだ、と教えているのです。キリストの復活において示された、約束されている私たちの復活に、神様が私たちに与えようとしておられる救いの完成があるのだ、ということです。

 キリストの復活だけを信じて、自分たちの死者からの復活を信じない、ということは、あってはならないことだ、とパウロは語っているのです。キリストの復活なしには、またキリストがわたしたちのために備えてくれた、わたしたちの復活がないならば、私たちの宣教も、信仰も、全ては無駄なことになると語っているのです。

 主イエス・キリストを信じ、その救いにあずかって生き、死んだ者が、この世の終わりに、キリストがもう一度来られる再臨の時に復活し、永遠の命を生きる新しい体を与えられるという信仰の大切さを教えているのです。

 全ての人間をいつかは必ず捕える死の力が、最後には滅ぼされて、神様の恵みの力が勝利し、神の救いににあずかったものが、神の子とされ、神の世継ぎとされ、永遠に神と共に生きる者とされるのです。この信仰なくしては、イエス様と共に、迫害に耐えることも、殉教の死を遂げることも出来ないのです。主イエスも死人の中からよみがえらせてくださる父ある神を信じ、信頼していたからこそ、十字架への道を歩むことができたのだと思います。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「イエスの復活」 マルコによる福音書16章1~11節

2014-04-21 00:32:04 | 礼拝説教

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本キリスト教 富 谷 教 会 

復活節節第一主日(イ―スター)       2014年4月20日(日)   5時~5時50分 

礼    拝 

前 奏           奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 325(キリスト・イエスは)

交読詩編   16(神よ、守ってください) 

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書  マルコによる福音書16章1~11節

説 教   イエスの復活

辺見宗邦牧師

賛美歌(21)327(すべての民よ、よろこべ)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)    24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

 

本日の聖書 マルコによる福音書16章1~11節

  1安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。 2そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。 3彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。 4ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。 5墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。 6若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。 7さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」 8婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

  9〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。10マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。 11しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。〕

   本日の説教 

 イエスが十字架につけられ、息を引き取ったのを遠くから見守っていた婦人たちがいました。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセフの母マリア、そしてサロメがいました。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々です。マタイでは、「大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、ヤコブとユセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた」と記しています。ヨハネによる福音書には、十字架の側に「イエスの母と母の姉妹,クロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた」(ヨハネ19:25)とあるので、マルコの記す婦人たちの中にイエスの母マリアも含まれていたものと思われます。

 既に夕方になっていました。その日は安息日の前日の金曜日でした(マルコ15:42)。ユダヤでは日没から翌日土曜日の安息日が始まります。アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフがイエスに遺体を引き取りたいと申し出たので、ピラトはイエスが死んだことを確かめたうえで、遺体をヨセフに下げ渡しました。ヨセフは岩を掘って作った新しい墓の中に納め、墓の入口には石を転がしておきました。マグダラのマリアとヨセの母マリアとの二人は、イエスの遺体を納めた場所を見つめていました。

 土曜日、日没とともに安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメの三人は、イエスに油を塗りに行くために香料を買って準備しました。

 週の初めの日、日曜日の朝早く、日が出て明るくなるとすぐ、墓に行きました。彼女たち(マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメの三人)は、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていました。ルカによる福音書では墓に行ったのは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして他の婦人たちであったと記しています。四つの福音書に共通して、名がしるされているのはマグダラのマリアです。

 ところが目を上げて見ると、石が既にわきへ転がしてありました。石は非常に大きかったのです。

墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚きました。

 若者は言いました。「驚くことはありません。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なっさって、ここにはおられません。御覧なさい。お納めした場所です。さあ、行って、弟子たちと、ペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれます』」、と告げました。彼女たちは、驚き、恐れ、墓から逃げ去りました。当然の行動のように思われます。マタイでは、「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」とあります。

 マタイによる福音書ではこの若者を「主の天使」としています。この天使が、「あの方は復活なさった」と言っています。ルカでは「輝く衣を着た二人の人」がそばに現れた、と記しています。マルコの記す「白い衣を着た若者」とは天使でした。

 「復活なさった」はギリシア語では「エーゲルテー」という受動態が用いられています。「復活させられた」ということであり、新約聖書ではイエスの復活は神の行為と考えられているのです(使徒言行録3:15、4:10、ローマの信徒への手紙4:24、8:11、10:9、一コリント6:14、15:15、二コリント4:14、一ペトロ1:21)。

 イエスが自分の死と復活を予告したときの言葉、「人の子は三日の後に復活する」(マルコ10:34)の「アナステーセタイ」復活する(だろう)」という場合も、神によってそのようにさせられるという意味がこめらていると思われます。

 このイエスの復活は、十字架上で神に捨てられた状態から発せられたイエスの叫びに、父なる神が答えたものです。「父よ、わたしの願いどうりではなく、御心のままに。」と祈り、父なる神にどこまでも従順であられたことが神に尊ばれたのです。十字架の死はメシア(救世主)であることを無効にしてしまうように思われることでしたが、復活がそれを確証したのです。「キリストは……人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公けに宣べて、父である神をたたえるのです」(フィリピ2:6~11)とあります。

 マルコによる福音書16章には、マグダラのマリアに現れた復活の主(9~11節)と二人の弟子に現れた復活の主の話しが追記されています。マグダラのマリアについての話しは、マタイ28:9-19、ヨハネ20:11-18に詳しくしるされており、二人の弟子に現れた復活のイエスの話しは、エマオで現れたイエスとしてルカ24:13-35に記されています。

 マグダラのマリアはイエスを見たことを弟子たちに知らせましたが、彼らは「信じなかった」とあります。二人の弟子はイエスが現れたことを、他の人たちに知らせたが、「彼らは二人の言うことを信じなかった」とあります。イエスの復活という出来事は、たわごとと思われてもしかたのないような出来事なのです。神もキリストも復活も、か神の側からの働きかけなくしては信じられない出来事であり、霊の目が開かれなければ理解できないことなのです。

  弟子たちが命がけでイエスを復活された方キリストとして宣べ伝えたのは、彼らが復活者に直接出会ったからです。聖霊によって目を開かれ、復活した霊の体のキリストに出会う体験したからです。その体験と信仰は証言によって伝えられ、それを受け入れる者が更なる聖霊による復活のキリストの体験を生み出すのです。

  最も早い時期に書かれたイエスの復活に関する伝承は、パウロが紀元55年頃に書いたとされるコリント一、15:3~8節の言葉です。

 「最も大切なこととしてわたしたあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。キリストが聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうち何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いでヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。」

 使徒たちに現れた復活の主は、天に上げられ前のイエスでした。だが、パウロの場合は、天上のおられるイエスが、御霊のキリストとしてパウロに現れたのです。パウロは、自分に現れたキリストを、使徒たちと同列においています。私たちも、神がわたしたちの霊の目を開いてくださるならば、パウロと同じように、私たちにも、天上におられる復活された主が現れてくださるのです。キリスト者はこの復活の主を信じ、復活の主に生かされている者たちなのです。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「イエスの十字架上の死」 マルコによる福音書15章25~37節

2014-04-13 21:52:21 | 礼拝説教

                  ↑ ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語の三か国語で書かれた罪状書

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本キリスト教 富 谷 教 会 

受難節節第六主日(棕櫚の主日)       2014年4月13日(日)    5時~5時50分 

礼    拝 

前 奏           奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 298(ああ主は誰がため)

交読詩編   22(わたしの神よ、わたしの神よ) 

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書  マルコによる福音書15章25~37節

説 教   イエスの十字架と死」       辺見宗邦牧師

賛美歌(21)311(血しおしたたる)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)    24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

         次週礼拝 イ―スター礼拝4月20日(日)  午後5時~5時50分

         説教 「キリストの復活」   聖書 マルコによる福音書16章1~8節

本日の聖書 

  25イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。 26罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。 27また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。 28こうして、「その人は犯罪人の一人に数えられた」という聖書の言葉が実現した。29そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、 30十字架から降りて自分を救ってみろ。」31同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。32メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。33昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。34三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 35そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。 36ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。 37しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。

 本日の説教 

 イエスは自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタ(頭蓋の意味)という所へ向かわれました。柱はすでに刑場に立てられていました。死刑囚は十字架の横木を自分で刑場まで運ばなければなりませんでした。

 イエスを十字架につけたのは、午前九時でした。罪状書には「ユダヤ人の王」と書かれていました。マタイでは、罪状書は、「これはユダヤ人の王イエスである」とあります。

  ヨハネ福音書には、「ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、『ナザレのイエス、ユダヤ人の王』と書いたあった、それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた、と詳しく記しています。

 キリストの磔刑(たっけい)像には、「INRI」と書かれた札が画がかれているのが普通です。これは、ラテン語の「IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUM(イエスース ナザレヌス レクス ユダエオールム)「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」の頭文字です。

  イエスと一緒に二人の犯罪人が十字架につけられました。イザヤ書53:12の「彼は自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ」という旧約聖書の預言の言葉が実現しました。

      

         「INRI」の罪状書

   「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」と通行人がののしった言葉は、マルコ14:58で、イエス様が言った言葉と関係しています。

  イエスは神殿で商売をしている人達を追い払ったとき、「神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と言ったことがあります。イエスが言われた神殿とは、御自分の体のことで、イエスが死者の中から復活されることを言ったのです。ところがイエスを死刑にしようとした祭司たちは、イエスにとって不利な証言を求めました。二人の者が、「この男は神の神殿を打倒し、三日あれば建てることができる、と言いました」と、偽証したのです(マタイ26:61)。このことから、イエスは「神殿を打倒し、三日で建てる者」と途方もないことを言うテロリスト(暴力的破壊行動者)呼ばわりされるようになったのです。

  祭司や律法学者も「メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」とイエスを侮辱しました。もし、イエスが奇蹟をもって、十字架から降りたなら、人類を罪から救うという神のみ旨は果たされません。主は、じっと耐え忍ぶほかなかったのです。

  すると、一緒に十字架につけられた犯罪人までが、イエスをののしりました。ルカ福音書では、もう一人の方が、ののしることをたしなめています。そして「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願っています。それに対して、イエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。

  ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問したとき、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えています。ヨハネ福音書によると、罪状書を見たユダヤ人祭司長たちがピラトに、「ユダヤ人の王」と書かず。『この男は、ユダヤ人の王と自称した』と書いて下さいと頼んでいます。イエス様自身は、自分が「ユダヤ人の王」とは言っていません。だが、イエスは王以上の王、人類を救う神の子なのです。

 大祭司が、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と尋問したときは、「そうです。」と答えています。 

 ピラトは「ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしのか」と群衆にたずねると、群衆は「十字架につけろ」と叫び立てました。兵士たちは、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、王のような恰好をさせて、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、からかい、侮辱し、暴力を加えました。 

  昼の十二時頃になると、全地は暗くなり、それが三時まで続きました。三時にイエスは叫ばれました。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」という意味です。「エロイ、エロイ」は、アラム語の直訳の形で、恐らくこれが伝承の古い形であろう、推測されています。マタイは、そばで聞いたものがこれを預言者エリヤを呼んでいると思ったことに合わせて、ヘブライ語の「エリ、エリ」と記したものと思われています。イエスのこの最後の言葉は、詩編22:2の言葉を用いられたのです。

「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず呻きも言葉も聞いてくださらにのか。」

  詩編22は、神に見捨てられた信仰者が、敵対者に取り囲まれながら、なお神に祈りをささげる悲痛な声です。詩編22篇は、悲痛な叫びから始まり、最後は神への感謝の祈りになています。しかし、イエスの叫びは、絶望のただ中で発した祈りで終わっています。

  「ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、『待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう』と言いながら、イエスに飲ませようとした。」とあります。エリヤは終末において、メシヤに先駆けて現れると期待されていた預言者です。渇いている者を元気づけるために、与えるための水ではなく、「酸いぶどう酒」を差し出したのは、詩編69:21に、「人はわたしに苦いものを食べさせようとし、渇くわたしに酢を飲ませようとします」とあるように、イエスの苦悶を引き延ばそうとする、嘲笑的な試みでした。「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた」のです。マルコでも、マタイでも主イエスは「酸いぶどう酒」を飲みませんでした。

  イエスの最後の言葉は、何だったのでしょうか。マタイは「イエスは再び大声を出して息を引きとられた」と記しています。「再び」とあるところから、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれたものと思われます。

ルカは、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。(詩編31:6)」とイエスは大声で叫ばれ、息を引き取られたと報告しています。ルカにおけるイエスの叫びは、神への信頼の祈りであり、自らの魂を神の手に委ねるものです。ルカは苦悶の中で果てたのではなく、神の信頼し平穏に死んだとしているのです。

  ヨハネによる福音書では、イエスは「渇く」と言われ、「イエスは、この葡萄酒を受けると、『成し遂げられた』と言って、息を引き取られた、と報告しています。「成し遂げられた」とは、神から託された使命を果たした、ということであり、人類の贖いが完了した、ということです。

  イエスの十字架の死を最も単純な形で伝えているマルコやマタイの方が、よりリアルに(現実に即して)、イエスの十字架の死を伝えています。ルカやヨハネによる福音書の方では、イエスの十字架の死は、旧約聖書で預言されていた、さまざまのことが成就したのだ、ということがイエスの死を伝える中で強調されているのだと思います。

    

                                

               牧師の書斎 イエスの「最後の一週間」No.19 より。

  「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」というイエスの最後の言葉は絶望の言葉なのでしょうか。この叫びは、人類の罪を背負い、身代わりとなり、神の審きを受けた、絶望の言葉とされています。イエスは、死んで葬られ、陰府(よみ)にまでくだったのです。神と御子キリストとの間を死が引き裂いたのです。

  イエスは、殺された後、三日目には復活するという死と復活を、三度も弟子たちに予告していました。

  ゲッセマネの園での祈りの時は、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、「アッパ、父よ、…この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と祈りました。「杯」とは、神の怒りの象徴です。その杯を受けるとは、人類の罪を贖うために神の怒りを受けるということです。イエスは十字架への道が、神の聖旨であると信じ、あえて十字架の死を選ばれたのです。どこまでも神に従順に従うことを選んだのです。

  イエスは神に見捨てられたような状況の中で、絶望の叫びをあげながらも、神の救いを信じて、救いを求めて叫びました。この叫びは孤独と絶望を言葉に表わしたのです。神と人とに見捨てられて死ぬイエスの孤独の恐ろしさを、イエスの最後の言葉は表現しているのです。

 イエスは十字架上でこの詩22篇の冒頭の叫びを口にしただけでなく、その詩22篇の全体を祈ったとする注解者がいます。

  その理由は、この詩篇の前半は嘆きで終始しているが、その後半は神をたたえる賛美で貫かれているからです。

  詩編22篇には、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。」の後に、つぎのような神への信頼の言葉が続いています。

 「だがあなたは、聖所にいまし、イスラエルの賛美を受ける方。わたしたちの先祖はあなたに依り頼み、依り頼んで、救われて来た。(4,5節)     …………

  わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を民の末に告げ知らせるでしょう。」(20b~21節)

  イエスの「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉は、絶望で始まって、息を引き取っているが、それは神を賛美する言葉を含んでいるのであり、勝利宣言の言葉だと理解したのです。

  しかし、マルコやマタイの報告するイエスの十字架の死の最後の言葉は、詩編22篇全体を祈った賛美の言葉でも、すべてを成し遂げたとする勝利の言葉とも思われません。ルカやヨハネ福音書でさえ、そのようには記してはいません。「わたしの魂を御手にゆだねます」、「成し遂げられた」と言っています。そこには依然として、神との断絶があります。

  最初の殉教者となったステファノも、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください。」と言って眠りにつきましたが、ステファノの場合は、「天が開いて」、「聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを」見ています。主イエスの十字架の死の場合は、全地が暗くなっているさなかの、むごい死の様相につつまれています。

   なぜキリストがこの悲惨な言葉を叫ばれたのか。それは、私たちの身代わりとして、罪の報いを受けられたからです。キリストは「神に見捨てられる」という裁きを受けたのです。私たちが犯した罪のために受けなければならない裁き、神を神と思わず、自分中心に生きてきたその報いを、キリストが身代わりに受けて下さったということです。
 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることの固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、ヘりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆう名にまさる名をお与えになりました。」(フィリピ2:6~9)とあります。

  「主の苦しみは、わがためなり。われこそ罪に、死すべきなり。かかるわが身に、代わりましし、主のあわれみはいととうとし。」と、十字架の主をほめたたえましょう。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「神の箱の前で跳ね踊るダビデ王」 サムエル記下6章12~23節

2014-04-06 21:13:53 | 礼拝説教

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本キリスト教 富 谷 教 会

受難節節第五主日       2014年4月6日(日)   5時~5時50分 

礼    拝 

前 奏           奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌   273B(わがたましいを)

交読詩編   96(新しい歌を主に向かって歌え) 

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書  サムエル記下6章12~23節

説 教 「神の箱の前で跳ね躍るダビデ王」  辺見宗邦牧師

賛美歌    526(主よわが主よ)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)    24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

次週礼拝 4月6日(日)午後5時~5時50分

 説教 「ソロモン王の神殿奉献の祈り」

 聖書  列王記8章22~5

本日の聖書 サムエル記下6章12~23節

  1ダビデは更にイスラエルの精鋭三万をことごとく集めた。2ダビデは彼に従うすべての兵士と共にバアレ・ユダから出発した。それは、ケルビムの上に座す万軍の主の御名によってその名を呼ばれる神の箱をそこから運び上げるためであった。3彼らは神の箱を新しい車に載せ、丘の上のアビナダブの家から運び出した。アビナダブの子ウザとアフヨがその新しい車を御していた。4彼らは丘の上のアビナダブの家から神の箱を載せた車を運び出し、アフヨは箱の前を進んだ。5ダビデとイスラエルの家は皆、主の御前で糸杉の楽器、竪琴、琴、太鼓、鈴、シンバルを奏でた。

 6一行がナコンの麦打ち場にさしかかったとき、牛がよろめいたので、ウザは神の箱の方に手を伸ばし、箱を押さえた。7ウザに対して主は怒りを発し、この過失のゆえに神はその場で彼を打たれた。ウザは神の箱の傍らで死んだ。8ダビデも怒った。主がウザを打ち砕かれたためである。その場所をペレツ・ウザ(ウザを砕く)と呼んで今日に至っている。9その日、ダビデは主を恐れ、「どうして主の箱をわたしのもとに迎えることができようか」と言って、10ダビデの町、自分のもとに主の箱を移すことを望まなかった。ダビデは箱をガト人オベド・エドムの家に向かわせた。11三か月の間、主の箱はガト人オベド・エドムの家にあった。主はオベド・エドムとその家の者一同を祝福された。

 12神の箱のゆえに、オベド・エドムの一家とその財産のすべてを主は祝福しておられる、とダビデ王に告げる者があった。王は直ちに出かけ、喜び祝って神の箱をオベド・エドムの家からダビデの町に運び上げた。13主の箱を担ぐ者が六歩進んだとき、ダビデは肥えた雄牛をいけにえとしてささげた。14主の御前でダビデは力のかぎり踊った。彼は麻のエフォドを着けていた。15ダビデとイスラエルの家はこぞって喜びの叫びをあげ、角笛を吹き鳴らして、主の箱を運び上げた。16主の箱がダビデの町に着いたとき、サウルの娘ミカルは窓からこれを見下ろしていたが、主の御前で跳ね踊るダビデ王を見て、心の内にさげすんだ。17人々が主の箱を運び入れ、ダビデの張った天幕の中に安置すると、ダビデは主の御前に焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげた。18焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげ終わると、ダビデは万軍の主の御名によって民を祝福し、19兵士全員、イスラエルの群衆のすべてに、男にも女にも、輪形のパン、なつめやしの菓子、干しぶどうの菓子を一つずつ分け与えた。民は皆、自分の家に帰って行った。

 20ダビデが家の者に祝福を与えようと戻って来ると、サウルの娘ミカルがダビデを迎えて言った。「今日のイスラエル王は御立派でした。家臣のはしためたちの前で裸になられたのですから。空っぽの男が恥ずかしげもなく裸になるように。」21ダビデはミカルに言った。「そうだ。お前の父やその家のだれでもなく、このわたしを選んで、主の民イスラエルの指導者として立ててくださった主の御前で、その主の御前でわたしは踊ったのだ。22わたしはもっと卑しめられ、自分の目にも低い者となろう。しかし、お前の言うはしためたちからは、敬われるだろう。」23サウルの娘ミカルは、子を持つことのないまま、死の日を迎えた。

本日の説教 

  ダビデはユダのベツレヘムで、エッサイの八番目の末子として生まれました。彼は血色良く、目は美しく、姿も立派でした。預言者サムエルからサウル王の後継者として油を注がれていました(サムエル記上16章)。預言者から頭に油を注がれることは、神に王として聖別されることであり、神から特別の霊の賜物と加護を受けることを象徴していました。

 ダビデは羊を飼う若者でした。竪琴を巧みに演奏し、勇敢な戦士で、戦術の心得もあり、言葉にも分別があり、主が共におられる、主に祝福された人でした。若者ダビデは、サウル王に仕え、ぺリシテ人の巨人ゴリアテを倒し、武将として数々の武勲を挙げました(17章)。あまりの有能さと人望のゆえに、サウル王の嫉妬を受け、命まで狙われます。ダビデが逃亡すると、サウルは執拗に追いました。ダビデはサウル王の息子ヨナタンの友情や預言者たちによって助けられました(18~31章)。結局ダビデはペリシテ人の地に亡命し、10年間にも及ぶ逃亡生活を強いられたのです。この危機の中で歌ったダビデの預言的な詩が詩編22篇であり、キリストが受難の際にこの詩編を用いています。

サウルはぺリシテ人との決戦で自害して果てました。サウル王の死後(31章)、ダビデはヘブロンで出身部族ユダ族の王となり、七年六か月、ヘブロンにとどまりました(サムエル記下2章1~11節)。

イスラエルの王位を継いだサウルの息子イシュ・ポシェトとの間で内戦となるが、イシュ・ポシェトが暗殺されたため、ダビデがイスラエル王を兼務する形で、ヘブロンで全イスラエルの王に就任しました。サウル王は南部を統一できずに終わったが、ダビデは三十歳でイスラエルとユダの王となり、統一王国を完成しました。

 ダビデは南北統一のために、地理的にも歴史的にも、両部族から中立で、要害に地であるエルサレムをエブス人から奪い、エルサレムに首都に定め、ヘブロンからエルサレムに移りました。

 エルサレムはカナン系の先住民エブス人の町であり、異教の町だったので、ダビデはイスラエルの神の臨在の象徴であった神の箱をこの新都に持ち込むことにしました。

 ダビデは神の箱を運び入れるために、イスラエルの兵士3万人を集め、バアレ・ユダへと向いました(サムエル記下6:1)。この大勢の兵士は警護のためでもあり、盛大な一大行事のためでもありました。

 神の箱は、キルヤト・エアリムのアビナダブの家に安置されていました(サムエル記上4-6章)。最初に主の箱を守るつとめについたのは、アビナダブの息子エルアザルでした(サムエル記上7:2)。それ以後アビアナダブの子孫が神の箱を守り、サムエルの時代を経て(上7:2節)、70年の歳月が過ぎていました。「アビナダブの子ウザとアフヨ」が神の箱を守っていました(サムエル記下6章3節)。

 キルヤト・エアリムはエルサレムの西約12キロの所にあります。バアレ・ユダはキルヤト・エアリムの別名です。この町の丘の上にあるアビナダブの家に神の箱はありました。ダビデは、その子孫であるウザとアフヨに命じ、神の箱を新しい荷車の台にのせ牛に引かせて運ばせました。アフヨは箱の前を進みました。主の御前で竪琴や太鼓、鈴、シンバルなどいろいろの楽器を奏で、喜び祝いました。

 しかし、神の箱を運んだ一行がナコンの麦打ち場に差し掛かった時、牛がよろめいたため、ウザが神の箱に手を伸ばして箱を押さえました。その行為が「主の怒り」に触れ、ウザは神に打たれてその場に死んでしまいました。

「ケルビムの上に座しておられる万軍の主の御名によってその名を呼ばれる神の箱です(2節)」。神の箱は、契約の民イスラエルに神が臨在する象徴です。その中には主の律法が記された二枚の石の板が収められていて、「わたしは掟の箱の上の一対のケルビムの間、すなわち贖いの座の上からあなたに臨み、わたしがイスラエルの人々に命じることをことごとくあなたに語る。」(出エ25:22)といわれていました。「箱を担ぐために、アカシヤ材で棒を作り、それを金で覆い、箱の両側に付けた環に通す」(出エ25:13-14)ように命じられ、担ぎ棒をつくって、資格ある者の肩で担いで運ぶべきことが述べられています。こうして運べば、神の箱がひっくり返ることもなく、従って人の手で支えて倒れるのを防ぐようなこともせずにすんだはずです。牛車に乗せる方法はペリシテ人が取る方法です。

 ウザの行為は善意にもとずくものであったが、人が不用意に聖なるものに触れることは許されないのです(レビ記16:2)。ウザが打たれた場所を、ペレツ・ウザ(「ウザを砕く」)と人々は呼びました。ダビデは怒りました。主がウザを打ち砕かれたからです。ダビデは、このとき、神の箱を運ぼうとする自分の思いを貫きたかったのです。

  この主による災いは自分勝手に契約の箱を扱い、運ぼうとする者たちすべてへの警告でした。この神の箱を王の町エルサレムに置くことによって、エルサレムはイスラエルの政治的中心であるのみならず、宗教的、精神的な中心ともなる。そのようにして、自分の王国に安定をもたらすことができるとダビデは考え、ダビデは神の箱を政治的な目的のために利用しようとしたのです。

 ウザが主に打ち砕かれたことにより、ダビデは「主を恐れ」(9節)、主の箱をこのままで自分のもとへ運びこむことができないと判断し、このウザの災いがイスラエルに及ばないように,一時、神の箱をガト人オベド・エドムの家に預けることにしました。このガト人は、ダビデの臣下であったペリシテ人と思われています。

 3か月間、神の箱はオベド・エドムの家にありました。その家に神の箱が置いてあることにより、主はその家の者一同と、その財産のすべてを祝福されました。その噂はエルサレムのダビデの下にも届きました。

 ダビデは、エルサレムに宮殿を造り、神の箱の場所を整え、天幕を張りました。ダビデはレビ族の祭司たちを集めて言いました。「最初のときにはあなたたちがいなかったので、わたしたちの神、主はわたしたちを打ち砕かれた。わたしたちが法(神の掟)に従って主を求めなかったからである(歴代誌上15:13)。」と告げました。ウザだけでなく、主はわたしたちを打ち砕かれた、と悔いています。

 歴代誌上15:2の記録によると、今度は、イスラエルの長老と千人隊長と共に行き、祭司とレビ人たちが竿を肩に当てて神の箱を担ぎました。「主の箱を担ぐ者」が六歩進んだとき、神が担ぐ者を助けてくださったので、ダビデは肥えた雄牛をいけにえとしたささげました。ダビデは祭司の装束である「亜麻布のエフォドを上着まとい」、力の限り踊りました。サウルの娘ミカルは窓からこれを見下ろしていたが、喜び踊るダビデを見て、心のうちにさげすみました。

 

  「ダビデとイスラエルの家はこぞって喜びの叫びをあげ、角笛を吹き鳴らして」、神の箱をエルサレムに迎え入れました。ダビデは主の箱を自分の張った天幕に安置すると、主の御前に焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげ、万軍の主の御名によって民を祝福し、兵士や群衆のすべてに喜びの記念の品として、菓子やパンなどを分け与え、民を家に帰しました。

 ダビデが家の者に祝福を与えようと戻って来ると、サウルの娘ミカルがダビデを迎えて言いました。ミカルは、皮肉たっぷりに、「今日のイスラエル王は御立派でした。家臣のはしためたちの前で裸になられたのですから。空っぽの男が恥ずかしげもなく裸になるように。」と言ったのです。

  神の僕であるよりも、人民のうえに権力者として君臨することを欲したサウル王の娘として、ミカルは王としての威厳を失ったダビデの姿に嫌悪を覚えたのです。カナン風の陶酔的な祭儀は、彼女にとって異質なものに見えました。神の前で興奮して踊るうちにエフォドが脱げ、裸身をさらして踊るダビデの姿は彼女にとって、いやらしい、はずかしく、みにくい姿に映ったのです。

  ミカルをダビデの妻としてではなく、「サウルの娘ミカル」(16節)と記されています。かつてミカルはダビデを愛していました(下18:20)。ダビデの妻となったミカルは、父がダビデを殺そうとして送った使者から、ダビデを助けました(上19:12)。ダビデは、10年間の逃亡生活の間に、他に二人の妻を持ちました。一方、サウル王はダビデから娘ミカルをとりあげ、パルティエルに与えました(上25:44)。後に、ダビデはパルティエルからミカルを、むりやり取り返しました(下3:15)。このような経緯のなかで、かつての二人の間の愛はすっかり冷えていました。ミカルは「サウルの娘」として、ダビデに辛辣な言動をするようになっていたのです。

 ミカルのこの蔑みの言葉に対してダビデは、「そうだ。お前の父やその家のだれでもなく、このわたしを選んで、主の民イスラエルの指導者として立ててくださった主の御前で、その主の御前でわたしは踊ったのだ。わたしはもっと卑しめられ、自分の目にも低い者となろう。しかし、お前の言うはしためたちからは、敬われるだろう。(21~22節)」と答えたのです。

  ダビデは、自分を神の御前に、サウルやミカルのように自分を高くして、人からの敬意を求めるのでなく、自分を「卑しめ」「低い者」とすることにより、むしろ、「はしため」のような存在から「敬われる」ようになることを望んでいると言い返したのです。

  ミルカは神の箱による祝福を悟ることができず、神の箱の帰還を喜ぶダビデと共に喜ぶことができませんでした。ミカルは、王の子を懐妊することはなく、神の祝福のないままに、死の日を迎えました。

  今日の聖書の箇所を再現している映像が見られます。「主の前でおどった。David danced before the Lord with all his might.」で、ネット検索してみてください。     You Tube 画像が見られます。

 紀元586年、バビロニヤ帝国によって、エルサレムは陥落し、それ以来神の箱は失われました。イスラエルはバビロン捕囚のあと、カナンの地に帰還し、516年に、エルサレム(シオン)に第ニ神殿を再建しました。預言者エレミヤは、次のように預言しました。

 「わたしはあなたたちを連れてシオンに行こう。・・あなあたちがこの地(シオン)で大いに増えるとき、その日には、と主は言われる。人々はもはや、主の契約の箱について語らず、心に浮かべることも、思い起こすこともない。求めることも、作ることももはやない。その時、エルサレムは主の王座と呼ばれ、諸国の民は皆、そこに向かい、主の御名のもとにエルサレムに集まる。(エレミヤ3:14-17)。」 神の箱に代わって、神殿の置かれたエルサレムがその役目を果たすと、エレミヤは預言したのです。

 イエス・キリストが私たちの救い主となられて以来、主の「教会がキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場」(エフェソ1:23)となりました。また、

神殿はキリストの霊を宿すわたしたちの体とされたのです。

「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分の内に住んでいることを知らないのですか(コリント一、3:16)。」

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする