富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「ユダヤ人の絶滅を救った王妃エステル」 エステル記7章1ー10節

2014-09-14 23:23:17 | 礼拝説教

              ↑ ペルシア帝国が支配した領土

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本キリスト教 富谷教会 週報

 聖霊降臨節第十五主日   2014年9月14日(日)    5時~5時50分 

      礼   拝    

前 奏           奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 412(昔、主イエスの)  

交読詩編   67(神がわたしたちを憐れみ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書   エステル記7章1~10節

説 教  「ユダヤ人の絶滅を救った王妃エステル  辺見宗邦牧師

賛美歌(21)512(主よ、献げます)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)    24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

      本日の聖書

1王とハマンは、王妃エステルの酒宴にやって来た。2この二日目の日も同様に、ぶどう酒を飲みながら王は言った。「王妃エステルよ、何か望みがあるならかなえてあげる。願いとあれば国の半分なりとも与えよう。」 3「王よ、もしお心に適いますなら」と王妃エステルは答えた。「もし特別な御配慮をいただき、私の望みをかなえ、願いを聞いていただけますならば、私のために私の命と私の民族の命をお助けいただきとうございます。 4私と私の民族は取り引きされ、滅ぼされ、殺され、絶滅させられそうになっているのでございます。私どもが、男も女も、奴隷として売られるだけなら、王を煩わすほどのことではございませんから、私は黙ってもおりましょう。」

5クセルクセス王は王妃エステルに、「一体、誰がそのようなことをたくらんでいるのか、その者はどこにいるのか」と尋ねた。 6エステルは答えた。「その恐ろしい敵とは、この悪者ハマンでございます。」ハマンは王と王妃の前で恐れおののいた。 7王は怒って立ち上がり、酒宴をあとにして王宮の庭に出た。ハマンは王妃エステルに命乞いをしようとしてとどまった。王による不幸が決定的になった、と分かったからである。

8ハマンがエステルのいる長いすに身を投げかけているところへ、王宮の庭から王が酒宴の間に戻って来た。王は言った。「わたしのいるこの宮殿で、王妃にまで乱暴しようとするのか。」この言葉が王の口から発せられるやいなや、人々はハマンの顔に覆いをかぶせた。 9宦官の一人、ハルボナは王に言った。「ちょうど、柱があります。王のために貴重なことを告げてくれたあのモルデカイをつるそうとして、ハマンが立てたものです。五十アンマもの高さをもって、ハマンの家に立てられています。」王は、「ハマンをそれにつるせ」と命じた。 10こうしてハマンは、自分がモルデカイのために立てた柱につるされ、王の怒りは治まった。

     本日の説教

  エステル記はエステルを主人公とした物語です。物語の背景は、バビロンからユダヤ捕囚民を解放したペルシアの王・キュロス二世から数えて5代目の王クセルクセス一世(紀元前485~465頃)の時代です。エルサレムから遠く離れた東方の離散の地で、ユダヤ人が直面した絶滅の危機が物語となっています。ペルシアの首都スサで起こった出来事で、主の助けにより、予期せぬ運命の逆転で、ユダヤ人は危機を脱することが出来ました。それは、そのまま歴史的な事実ではありません。この書は紀元前二世紀後半に著されたと推定されています。

  今日の聖書の個所7章までの物語のあらすじをお伝えしましょう。

 「クセルクセスの時代のことである。このクセルクセスは、インドからクシュに至るまで百二十七州の支配者であった。 そのころ、クセルクセス王は要塞の町スサで王位につき、その治世の第三年に、酒宴を催し、大臣、家臣のことごとく、ペルシアとメディアの軍人、貴族および諸州の高官たちを招いた。(1章1~3)

   1章は、ぺルシアの王クセルクセスが催した酒宴の様子からはじまります。<スサ>はバビロンの東北東およそ300㌔にあります。現在イランの首都テヘランからペルシア湾に南下する途中です。<要塞スサ>は、首都スサとは区別された王宮ある所です。<クシュ>はナイル川上流に広がる地方のことを指します。

 クセルクセス王はスサで大酒宴を催し、王妃ワシュティが招待客の前に現れることを望みました。ワシュティはそれを拒んだので、王妃の座から退けられました。

  2章は、ワシュティに代わる新しい王妃を探す場面です。

「要塞の町スサに一人のユダヤ人がいた。名をモルデカイといい、キシュ、シムイ、ヤイルと続くベニヤミン族の家系に属していた。キシュは、バビロン王ネブカドネツァルによって、ユダ王エコンヤと共にエルサレムから連れて来られた捕囚民の中にいた。モルデカイは、ハダサに両親がいないので、その後見人となっていた。彼女がエステルで、モルデカイにはいとこに当たる。娘は姿も顔立ちも美しかった。両親を亡くしたので、モルデカイは彼女を自分の娘として引き取っていた。(2章5~7)

 捕囚民であったユダヤ人の子孫のモルデカイとその養女のエステルが紹介されます。このエステルが王妃の位に就きます。エステルはモルデカイに命じられていたので、自分の属する民族と親元を明かしませんでした(2:20)。

  3章、「その後、クセルクセス王はアガグ人ハメダタの子ハマンを引き立て、同僚の大臣のだれよりも高い地位につけた。王宮の門にいる役人は皆、ハマンが来るとひざまずいて敬礼した。王がそのように命じていたからである。しかし、モルデカイはひざまずかず、敬礼しなかった。王宮の門にいる役人たちはモルデカイに言った。『なぜあなたは王の命令に背くのか。』来る日も来る日もこう言われたが、モルデカイは耳を貸さなかった。モルデカイが自分はユダヤ人だと言っていたので、彼らはそれを確かめるようにハマンに勧めた。ハマンは、モルデカイが自分にひざまずいて敬礼しないのを見て、腹を立てていた。」(3章1~5)

  モルデカイがハマンに敬礼をしなかったのは、ハマンがアガク人だったためと思われます。ハマンは、滅ぼし尽くされるはずのアマレク人の王アガグの子孫だからと思われます(滅亡の預言:民数記24:20)。王に次ぐ地位にあった大臣ハマンは自分に対して礼を欠くモルデカイがユダヤ人であることを知って、ユダヤ人撲滅を企み、王に進言します。

  「お国のどの州にも、一つの独特な民族がおります。諸民族の間に分散して住み、彼らはどの民族のものとも異なる独自の法律を有し、王の法律には従いません。そのままにしておくわけにはまいりません。もし御意にかないますなら、彼らの根絶を旨とする勅書を作りましょう。」(3:8~9)

 ここに離散したユダヤ人が独特な民族であることが記されています。「独自の法律」とは、旧約聖書に記されている律法です。「王の法律に従いません」は、ハマンの誇張した表現です。モルデカイは、王の命じたハマンに対する敬礼は拒否しましたが、それは「王の法律」ではありませんでした。

 ハマンは、モルデカイ一人を討つだけでは不十分だと思い、クセルクセスの国中にいるモルデカイの民、ユダヤ人を皆、滅ぼそうとしました。その実行の日をくじでアダルの月の十三日と決めました。<アダルの月>はバビロニア暦の第12の月、2月~3月にあたります。

  4章では、モルデカイが事の一部始終を知ったときの苦悩から始まります。モルデカイは、「衣服を裂き、粗(あら)布(ぬの)をもとって灰をかぶり、都の中に出て行き、苦悩に満ちた叫びをあがた」とあります。勅書が届いた所では、どの州でもユダヤ人の間に大きな嘆きが起こり、「多くの者が粗布をまとい、灰の中に座って断食し、涙を流し、悲嘆にくれた」とあります。(4:1~3)

 モルデカイは王宮にいる王妃エステルにこのユダヤ民族の危機を知らせ、ハマンの企画の撤回を王に願うよう指示しました。

  エステルからの返事では、「王宮の内庭におられる王に、召し出されずに近づく者は、男であれ女であれ死刑に処せられる」と定められており」、王の召しがなければ、王妃でも近づくことはできないとのことでした。

  モルデカイは再び言い送り、「この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか」と伝えました。

  エステルはモルデカイに返事を送りました。「早速、スサにいるすべてのユダヤ人を集め、私のために三日三晩断食し、飲食を一切断ってください。私も女官たちと共に、同じように断食いたします。このようにしてから、定めに反することではありますが、私は王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。」(4:16)

  5章では、エステルはその機会を求めて、まず王とハマンを自分の酒宴に招き、またその翌日も酒宴に招くことにしました。

  6章では、その間にモルデカイは、かつて王の暗殺計画を知り、通報したということで(2:21~23)、それを思い出した王によって、ハマンの思惑とは逆に、大いに賞賛されました(6:1~11)。

  そして7章です。二回目の酒宴のとき、これまで自分がユダヤ人であることを隠していたエステルは、王に自分の素性をそれとなく明らかにし、次の様に嘆願しました。

  「もし特別な御配慮をいただき、私の望みをかなえ、願いを聞いていただけますならば、私のために私の命と私の民族の命をお助けいただきとうございます。私と私の民族は取り引きされ、滅ぼされ、殺され、絶滅させられそうになっているのでございます。私どもが、男も女も、奴隷として売られるだけなら、王を煩わすほどのことではございませんから、私は黙ってもおりましょう。」(7:3~4)

 王は一体、誰がそのようなことをたくらんでいるのか、その者はどこにいるのか」と王妃エステルに尋ねました。「その恐ろしい敵とは、この悪者ハマンでございます」とエステルは答えました。王は怒り、ハマンがモルデカイをつるそうとして準備した五十アンマ(およそ23㍍)もある柱につるすように命じて処刑しました。

  8章、その日王は、ユダヤ人の敵ハマスの家を王妃エステルに与えました。エステルはモルデカイとの間柄を王に知らせ、彼をハマンの家の管理人としました。

  「エステルは、再び王の前に申し出て、その足もとにひれ伏し、涙を流し、憐れみを乞い、アガグ人ハマンの悪事、すなわち、ユダヤ人に対して彼がたくらんだことを無効にしていただくことを」願い出ました(8:3)

 ユダヤ人絶滅の取り消しが王によって認められ、ハマンの代わりに重用されたモルデカイと共に、エステルはその取り消しを全国に知らせました。

  このあとに記されているのは、「アダルの月の十三日はユダヤ人の迫害者に復讐する日と定められ」たことです。

  9章では、ユダヤ人は敵に復讐を果たし、運命が逆転したこの日をいつまでも記念するよう定めたことが記されています。

  10章では、ユダヤ人モルデカイは王に次ぐ栄誉の地位を与えられ、彼はユダヤ人に仰がれ、多くの兄弟たちに愛されて、その民の幸福を追い求め、そのすべての子孫に平和を約束したことが記されています。

  8章11節から9章16節まで記されている残虐な復讐は、ユダヤ人の民族主義的色彩の濃いものであり、神の民に敵する者にたいする「目には目を、歯には歯を」という古代の報復でした。主イエスは、「悪人に手向かってはならない、と言われ、復讐してはならないと教えておられます。

  今日の聖書の個所は、紀元前5世紀頃に、すでにユダヤ人は離散の民となり、他民族によって迫害された悲惨な民であることが記されています。ユダヤ人絶滅から救ったのは、「この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか」と言ったモルデカイの言葉でした。神がエステルをこの時のために王妃にしてくださっていたのです。このことを自覚したエステルの捨身に命をかけた王への嘆願が、ユダヤ人を絶滅から救いました。

  バビロン捕囚から解放され、エルサレムに帰還したユダヤ人は、ローマ帝国の支配時代も、ある程度の自治を認められながらも、ローマのシリア属州の一部となって、ユダヤ地方として存続していましたが、紀元66年から74年にかけて、ユダヤ教徒が独立を求めてローマ帝国と「ユダヤ戦争」を起しました。この戦争に敗北してから、再びユダヤ人は国を追われ、離散と民となりました。ユダヤの地は、以後パレスチナと呼ばれることになりいます。

  二十世紀の第二次世界大戦のとき、ヒットラーの率いるナチス党のドイツにいって、ユダヤ人はポーランドのアウシュヴィッツなどの強制収容所に送られ、500万人以上ものユダヤ人が虐殺されました。

  何故ユダヤ人は迫害されたのでしょうか。

   ヨーロッパのキリスト教社会では、キリストを殺害したのはユダヤ教のユダヤ人なので、長い間、偏見によって蔑視され,疎外されてきました。ユダヤ人はその宗教のために、地域に同化せず、ユダヤ人コミュにティを作って生活し、当時ユダヤ人はドイツを始め欧州各国で経済を支配、世界政治にも強力な影響力を持っていました。それに対する危機感を覚える国民も少なくなかったのです。ドイツが第一次大戦に負けたとき「ユダヤ人なんかのさばらせておくからこんなことになったんだ」という声が大きくなりました。それで「ユダヤ人のいないドイツにする」という主張し、実行したのがヒトラー政権でした。迫害された理由は資産没収のためでもありました。

  こうした厳しい迫害の状況の中で、リトアニアの日本領事・杉原千(ち)畝(うね)氏(1900~1986年)は、ナチス・ドイツからポーランドから逃れてきたユダヤ人に日本通過査証(ビザ)を発給し、6000人の命を救ったのです。彼に助けられたユダヤ人は、日本を通過して他の国に渡っていったが、神戸に住み着いた者もいました。彼は、<この時のために>、彼が与えられていた役職を活用したのです。」

   6000人のユダヤ人を救ったリトアニアの日本領事・杉原千畝 

                

 (※ 1985年、杉原千畝氏はイスラエルの公的機関「ヤド・バシェム」から表彰され、「諸国民の中の正義の人賞」を受賞。翌年に彼は亡くなりました。)

 


 

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