富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「奉仕する教会の献金と旧統一教会の献金の違い」コリントの信徒への手紙二、9章6節~15節

2022-09-24 18:57:33 | キリスト教

   コリントⅡ9章6節「つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。」

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

聖霊降臨節第17主日  2022年9月25日(日)  午後5時~5時50分

                            礼 拝 順 序                    

                 司会 辺見 順子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 518(主にありてぞ)

交読詩編  112(ハレルヤ。いかに幸いなことか)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)コリントの信徒への手紙二、9章6節~15節(新p335)

説  教 「奉仕する教会の献金と旧統一教会の献金の違い」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                                      

讃美歌(21) 536(み恵みを受けた今は)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オンラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019

に申し込みください。

            次週礼拝 10月2日(日)  午後5時~5時50分

            聖 書  ヘブライ人への手紙9章23~28節

            説教題  「キリストに贖われた教会」

            讃美歌(21) 358 431 27 交読詩編 96 

本日の聖書 2コリントの信徒への手紙9章6~15節

9:6つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。7各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。8神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。 9「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。10種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。11あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。12なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。13この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。14更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。15言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。

本日の説教

コリント(現在名はコリントス)というギリシアの都市は、アテネ(現在はギリシアの首都)から西南約78キロにある都市で、アドリア海とエーゲ海の二つの海に面し、それぞれに港を持つ、通航の要衝であり、商業都市として重要でした。

コリントの手紙一は、パウロが種々の具体的問題の質問に答えた手紙です。

コリントの手紙二は、パウロが経験した苦しみと喜びを中心として、教会に対し自分の使徒職を説明し、擁護し、弁明するために書いた手紙です。

1章12節から6章までは、自分に与えられた使徒職の崇高さと偉大さとを論じ、自分が受けた神秘体験を語りました。7章では、パウロはコリントの教会の悔い改めを喜びました。

8章と9章は、彼らとの信頼関係を確認したパウロの、エルサレム母教会の困窮している信徒に対する「経済援助」に関する文章です。その援助は貧しさを和らげ、また教会の一致のために役立たせようとするものでした。

パウロは、コリントの信徒たちへの勧めにさきだち、マケドニアの諸教会(フィリピ、テサロニケ、ペレア)の実情を知らせます。それは、「マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵み」(8章1節)です。この「恵み」とは、諸教会が行った「惜しまず施す豊かさ」を指しています。この施しの実践は、くるしい義務の遂行ではなく、霊的賜物と同じように、神がなしてくださった「神の恵み」の業なのです。

8章では、主イエス・キリストの模範を引いて(9節)、貧しい兄弟たちを自発的に援助すべき動機を示したパウロは、9章では、この慈善の業を、コリントの教会でもやり遂げるようにと勧めます。以前、コリントの教会の人々が約束した贈り物の用意を「渋りながらではなく、惜しまず差し出」してもらうためです(9:5)。

「つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」(9:6-7)

6節からは募金に対する最後の訴えで、献金する際の正しい精神について述べます。旧約聖書に出てくる思想を引用して、寛大に、気前よく施すことがいかに神の御心にかない、寄付をする本人の真の利益にもつながるものであるかを説得します。まず、献金を種まきにたとえて、まく種の多い少ないによって収穫の量もきまってくると言います(箴言11:24-25参照)。

施しにあたっては、第一に、いやいや惜しみながらではなく、第二に、強制されてではなく自発的に、第三に、他人との比較ではなく自分の心にきめたとおりに、行わねばなりません。喜んで施す寛大な人は神の祝福を受けます(箴言22:9)。

「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。」(9:8)

寛大に、気前よく、喜んで寄付する人には、神が豊かに報いてくださるとパウロは言います。神の恵みは満ちあふれ、何の不足もなく、善き業にあふれさせてくださる。神には<おできになる>ということで、神がいつでもかならずそうなさるとは言っていません。功利的で、報酬めあてのみの慈善行為であってはならないからです。

「『惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く』と書いてあるとおりです。」(9:9)

9節の引用文は、詩篇112:9からのものです。<彼>とは、「主を畏れる人、主の戒めを深く愛する人」(詩篇112:1)です。「いかに幸いなことか」とこのような人が祝福されています。

「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。」(9:10)

10節以下には、とくに施しの結果が記されています。それはまず、施す者に、豊かな報いを与えます。<種を蒔く人に>まく種を与え、食べる人には<パンを糧としてお与えになる>神は(イザヤ書55:10の引用)、施しをする者を、すべてにいよいよ豊かにしてくださる。<あなたがたの慈しみが結ぶ実>、という句は、ギリシヤ語訳のホセア書10:12から採られています。このことからも分かるとおり、パウロは旧約聖書をふんだんに引用して、気前のよい寄付について説明しようと務めているのです。

「あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。」(9:11)

11節から15節にかけては、むしろ、パウロがこの手紙の中で一貫して主張してきた内容がくりかえされ、確認され、深められます。あなたがたはすべてのことに富む者とされて、惜しみなく施すようになり、パウロたちの働きによって多くの人々が神に感謝をささげるようになります。

「なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足していものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。」(9:12)

12節では、「献金」が、「公の奉仕、神への奉仕」を意味する「レイトゥルギア」で表されています。この奉仕の働きは、聖徒の乏しさを満たす助けとなるばかりではなく、多くの人々がますます盛んに神に感謝をささげるようになります。

「この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。」(9:13)

13節では、献金が「奉仕」という意味の「ディアコニア」という語で表されています。この奉仕が行われた実際に行われた結果、多くの人が神をあがめつつ神に感謝するでしょう。ここには奉仕の業のもたらす効果があげられています。すなわち、福音の従順な公言(これは「福音を公言することによって福音への従順を示す」という意味にも解釈されます)が、神への賛美になるのです。献金の業が、福音に対する従順と福音の宣言にもつながり、神への賛美となるのです。

「更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。」(9:14)

献金を受ける彼らは、あなたがたの奉仕が、あなたがたに与えられた神のすばらしい恵みによるものであることを知り、あなたがたを慕い、あなたがたのために執り成しの祈りをするのです。施しは、与える者と受ける者との間に、神にある交わりを強めます。

「言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。」(9:15)

このようなことはすべて神の恵みの賜物です。15節の<言葉では言い尽くせない贈り物>とは、8章1節で、気前よく施すマケドニア州諸教会の慈善の業を、<神の恵み>として理解したパウロは、ここでも、コリント教会の献金の業を同じく<神のこの上なくすばらしい恵み>とみなして、感謝しているのです。善き業は、人間の功績ではなく、神の賜物なのです。

パウロは「献金」のことを、一度も、「献金」を意味する「ドーラ〔献金〕」(ルカ21:1)という語を用いることをしていません。この語は金銭を表す語です。パウロはこの語に変えて、6通りの語によって、金銭のこととしてではなく、献金を表現し、説明するのです。1.「慈善の業」(カリス)8章6,7,19節―これはも ともと「恵み」の意味です。2.「奉仕」(ディアコニア)9章1節―「奉仕」を意味します。3.「募金」(ハドロテ―ス)8章20節―豊かさを意味する。4.「贈り物」(エウロギア)9章5節―祝福を意味する。5.「奉仕の働き」(レイトゥルギア)9章12節―公の奉仕、または礼拝を意味します。6.「施し」(コイノーニア)9章13説―交わりを意味します。

「献金」の行為が、以上のようにきわめて宗教的な意味あいの濃い用語で表現されています。パウロにとって、「困窮者を経済的に援助する」ことは、「恵み」であり、「奉仕」であり、「豊かさ」を示し、「祝福」を意味し、「礼拝行為」につながり、「交わり」をもたらすものだったわけです。

 主イエスは、レプトン銅貨二枚を献金箱に入れた貧しいやもめの献金を、だれよりもたくさん入れた、と言われました(マルコ12章41-44)。献金は金額によるものではありません。

 旧統一教会の信者をだまして高額商品を買わせる「霊感商法」の被害が明るみになり、社会問題になっています。先祖のたたりと言って不安をあおり、この商品を買えば祖先のたたりは消滅するという商法です。

「生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか」という弟子たちの問いに、主イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現われためである」と言われ、盲人が見えるようにされました(ヨハネ9章1~12節)。先祖のたたりなどはないのです。

また、真の献げ物は、決して規則によって献げられることはありません。パウロは一度も十分の一献金のような規則を定めて守ったことはありません。パウロはテント作りの仕事をして収入を得ながら(使徒言行録18:1-4)、コリントで神の福音を無報酬で告げ知らせました(コリントⅡ,11:7)。

日本の信者の献金が、韓国の旧統一教会の資金源になっています。文鮮明(ブン・センメイ=ムン・ソンミョン)の妻、韓鶴子(カン・ツルコ=ハン・ハクチャ)が現在の教祖であり総裁です。統一協会は、聖書のイエス・キリストは地上でメシアとしての使命を全うできず、罪が入り十字架刑で死んだと説きます。正統なキリスト教信仰である「十字架による救い」を否定し、原罪がない神同格の存在でこの地上に再臨したメシア(再臨主)が文鮮明氏を信じ、罪がない清い血を分け合うことで男と女は一体となって本物の救いに達すると教えます。文鮮明は再臨のメシア(救世主)と自称し、地上に天国を実現するためとして、宮殿を建設します。文鮮明亡きあとは、妻の韓鶴子が再臨のメシアとされています。献金は偽キリストの強欲な野望のために用いられてはなりません。

 主イエスは、終末の徴として、「わたしの名を名乗る者が大勢現われて、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう」(マタイ24:5)と警告しています。

キリスト者の献金は、キリストの恵みの救いにあずかり、「豊かにされた者」として、自分たちもキリストに倣い、貧しい人々のために、みずからを貧しくして仕えようとする行為であり、慈善の業となるのです。それは聖霊の働きによるものです。このように「献金」は、神の恵みに対する感謝から、神への愛、隣人への愛の行為として行われ、福音の宣教によって究極的には神の栄光のためになされるのです。

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「主に生涯をささげて生きる」ガラテヤの信徒への手紙1章1~10節

2022-09-17 17:17:13 | キリスト教

        ↑ 「もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。」(ガラテヤ1章10節)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

聖霊降臨節第16主日   2022年9月18日(日)  午後5時~5時50分

                            礼 拝 順 序                    

                 司会 斎藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 459(飼い主わが主よ)

交読詩編  119-73-80節(御手がわたしを造り)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)  ガラテヤの信徒への手紙1章1~10節(新p.342)

説  教      「主に生涯をささげて生きる」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                                      

讃美歌(21) 475(あめなるよろこび)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オンラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019

に申し込みください。

        次週礼拝 9月25日(日)  午後5時~5時50分

        聖 書 コリントの信徒への手紙二、9章6節~15節

        説教題  「奉仕する共同体」

        讃美歌(21) 519 536 27 交読詩編 112編1~10節 

本日の聖書  ガラテヤの信徒への手紙1章1~10節

1:1人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、 2ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。 3わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。 4キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。 5わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。 6キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。 7ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。 8しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。 9わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。 10こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。

    本日の説教

 「ガラテヤの信徒」へ宛てて書かれた手紙は、使徒パウロが書いた手紙です。わずか六章からなる短いものですが、その内容はきわめて重要な手紙であり、パウロの四大書簡(ローマ、コリント一、二、ガラテヤ書)の一つに数えられています。この手紙の中心主題は、「信仰義認」です。人は信仰によって神に義(正しい者)とされるのであって、行いによるのではない、という福音の根本真理を、特に律法主義者との対決において明らかにするのです。

「ガラテヤ」という地名は、ガラテヤ人が住み着いた地域、現在のトルコ共和国の内陸中央部にある首都アンカラを中心とする周辺一帯を指すと思われています。

この手紙を書いた執筆の動機は、パウロがガラテヤの諸教会を立ち去った後にやって来たユダヤ人キリスト者に惑わされて、信徒たちが「真の福音」から離れて、ほかの福音に移っていく重大な事態が生じたからです(ガラテヤ1・6)。ユダヤ人キリスト者の教師たちは異邦人キリスト者に律法、ことに割礼の遵守を迫りました。彼らは教会を乱し、パウロの使徒職を疑問視し、パウロとパウロの教えを排除しようとしました。パウロにとって、彼らのそのような言動を放っておくことはできません。彼らの教えは福音が与える「律法からの自由」を失い、キリストの十字架の死によって成し遂げられた救いの業を無意味にし、「キリストの福音」そのものをユダヤ教に換えてしまうことに他ならないからです。パウロは正しい福音信仰をまもるために、かれらをはげしい口調でいましめる手紙を書いたのです。

「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。」(1:1-2)

手紙の発信者に<使徒とされたパウロ>とありますが、<人々からでもなく、人を通してでもなく>という説明が加えられています。この異常な書き出しは、彼の使徒職と、その説く福音の正当性を疑った者たちが、ガラテヤ地方の諸教会にいたことを推定させます。パウロは自分の使徒職と福音が、人々の力でもなく、人の権威でもなく、ただ神とキリストから受けているという確信を述べています。この確信は、ダマスコ途上での回心の出来事から始まる神の恵みによって与えられた使徒職です。復活されたキリストが天上からパウロに「現れた」のです。パウロは「主イエスを見た」と言い表します(コリント一、9:1、15:8)。神が「御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」(ガラテヤ1:16)と言っています。<キリストを死者の中から復活させた父である神>という表現はキリストの復活を当然の事実とみなしています。<ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から>という共同発信者への言及は、これから述べようとするのは、単に自分一人の主張ではないということを暗示しています。<ガラテヤ地方の諸教会へ>は、この手紙が複数の教会で回し読みされる手紙であることを示しています。

「わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」(1:3)

受信者のために神とキリストからの「恵みと平和」を求める祝祷の言葉です。パウロのガラテヤ地方のキリスト者に対する暖かい思いやりと深い愛をしのぶことができます。

「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。」(1:4) 

キリストの十字架の贖いの死は、神の救いの計画によるもであり、<この悪の世からわたしたちを救い出そう>とするキリストの救いの業であったことが示されています。

「わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。」(1:5)

神に対する賛美の祈りとなっています。<アーメン>は、アラム語・ヘブライ語の音訳で、「まことに、確かに(そうであるように)」の意味があり、祈りの末尾に添えられるものです。

「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。」(1:6)

書き出しの挨拶もそこそこに、すぐ受信者を非難することばが語られます。<キリストの恵みへ招いてくださった方>とは、「人々を選んでキリスト者とさせてくれた神」のことです。<こんなに早く>は、ここでは時間的なことよりも、「簡単に、たやすく」の意を示しています。<ほかの福音に乗り換えようとしている>は、党派や学派の所属変更を意味し、ガラテヤのキリスト者の間に反パウロの党派的な転向の動きのあったことが暗示されています。<わたしはあきれ果てています>は、パウロの批判・懐疑の意味がこめられています。ガラテヤの人たちの律法への心変わりは、神に対する背信行為であり、パウロにとってあきれ果ててしまう思いもよらない出来事でした。

「ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。」(1:7)

前節でパウロは律法主義者たちの教えを<ほかの福音>と言ったけれども、それではパウロの宣べ伝えた福音のほかに別の福音があるように誤解されかねません。それを恐れて、誤解の予知のないように<ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではな>いと、きっぱり否定します。<ある人々>とは、律法とか割礼を重んじるユダヤ化主義者のことです。この人たちが<福音>の名のもとに説く教えは、福音どころではなく、人々を<惑わし>、<キリストの福音>を覆そうとしていると警告します。

「しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。」(1:8)

パウロは自分自身や<天使>を持ち出してさえ「異なる福音」の存在の可能性を否定します。自分が宣べ伝えた福音の真実性、唯一性、絶対性に対するパウロの確信は、<呪われるがよい>という言葉で表されています。<呪われる>とは、神との交わりを断たれることで、地獄に落ちることを意味します。この激しい怒りの言葉は、パウロの個人的感情による怒りではく、福音の真理を守るために罪と戦う、主キリストへの忠誠心から出た聖なる怒りです。

「わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。」(1:9)

前節の8節と重なる内容です。<今また、繰り返して言う>と、事柄の重大性が強調されています。パウロの宣べ伝えた福音は、神の啓示(1:12)によるものであり、それ故、この福音に反することを宣べ伝えるなら、たとえパウロ自身であっても神の呪いをまぬがれることはできません。<呪われるがよい>という最も忌むべき呪いの言葉をあえて口にするほど、パウロの憤りのことばであり、異端者たちを断罪することばです。

「こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。」(1:10)

敵対者たちは、律法遵守の不用を説くパウロの福音を、人々の<ご機嫌取り>と非難していたと思われます。それに対し、パウロは<今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか>と疑問を投げかけることによって、その非難が全く意味のない、馬鹿げたものであるとの印象を与えようとしています。パウロははっきりと<もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません>と宣言します。パウロは常に使徒として召された自分を<キリストの僕>であると自覚していました。キリスト・イエスの僕としてのみ、自分は存在し、生きていると言う自覚です。<僕(しもべ)>という語は、原語では「奴隷」という意味の語です。パウロが自分を<キリストの僕>と呼ぶ時、彼は心からキリストの御心を行い、キリストの仕える者であると、キリストへの絶対的依存と服従を表明したのです。パウロは「キリストの奴隷」であることを誇りとしていました。それと同時に、「異邦人に福音を告げ知らせるために」(ガラテヤ1:16)、神とキリストによって召されて使徒となった者であることを明らかにしています。

パウロは、「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」(ローマ14:9)と言っています。わたしたちキリスト者は、すべて主の者であり、主に仕える者です。主イエス・キリストの僕として生きることこそ私たちの救いであり喜びなのです。なぜなら人生の終わりの死も滅びではなく、キリストと共に復活の命、永遠の命を生きる者とされているからです。この救いの喜びの福音を人々に伝える使命をわたしたちは与えられているのです。

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「復活の信仰と最も重要な掟」

2022-09-10 00:30:55 | キリスト教

      今日の主の福音 マルコによる福音書12章28-34節

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

聖霊降臨節第15主日   2022年9月11日(日)  午後5時~5時50分

                        礼 拝 順 序                    

                司会 辺見 順子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 459(飼い主わが主よ)

交読詩編   62(わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)  マルコによる福音書12章18-34節(新p.87)

説  教  「復活の信仰と最も重要な掟」    辺見宗邦牧師

祈 祷                                                      

讃美歌(21) 476(あめなるよろこび)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

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                                 次週礼拝 9月18日(日)  午後5時~5時50分

                                 聖 書  列王記上20章1~16節

                                 説教題  「ナポトのぶどう畑とアハブ王の悪事」

                                讃美歌(21) 496 519 27 交読詩編 119編73-80節 

本日の聖書 マルコによる福音書12章28-34節

 12:28彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」 29イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 30心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 31第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」 32律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。 33そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」 34イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。

本日の説教

 マルコによる福音書の12章18節から27節にかけては、サドカイ派の人々が、ファリサイ派やヘロデ派の人々と同様に、イエスに対して「先生」と呼びかけ、復活についての論争的な質問をします。サドカイ派の人々は、復活も天使も否定していました。サドカイ派の人々は、申命記25章5-10節のモーセの規定を引用し、「ある人の兄が死に、妻を残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない」と書いてあります。ところが七人の兄弟がいて、長男が妻を迎えたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか、という質問をしたのです。サドカイ派の人々が復活を否定したのは、復活後の来世の生活をこの世の生活の延長と考えたためでした。現世の様々な人間関係が復活後においてまで、そのまま継続すると単純に考えていたのです。

 イエスは彼らに聖書も神の力も知らないから、思い違いをしているのだと言い、根本的な思い違いを指摘して、死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだと言われました。

サドカイ派の人々がモーセ五書の規定に基づいて死者の復活を否定しようとしたのに対し、イエスは同じモーセ五書の出エジプト記3章6節を引用し、復活信仰そのものの正当性を証明します。神がモーセに「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言われた。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と言われました。

イエスの論法は次のようです。イスラエル民族の先祖であるアブラハム、イサク、ヤコブは、とうの昔に死んだ。しかし、神はモーセに「わたしはアブラハムの神、またイサクの神、またヤコブの神である」と言われた。ところが「神は死人の神ではなく、生きている者の神である。」だからアブラハム、イサク、ヤコブはこの時生きていたはずです。すでに一度死んだことは事実ですが、この時は復活して、生きていたことになる。したがって復活はある。以上が、イエスの論法です。

 このように旧約聖書の聖句は、神と人との親しい交わりを表現したもので、死後の生命に対する希望を人に与えます。これに「神は死人の神ではなく、生きている者の神です」というイエスの言葉が加えられて、これが単なる希望だけではなく、復活を確信的に証明する言葉となっています。このような解釈は単に原文の上からだけでなく、信仰上の体験が伴った時に始めて動かすことのできないものとなります。

「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。『あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。』」(12章28節)

「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者」とは、ファリサイ派の人だったと考えられます。彼は、サドカイ派の人々とイエスとの「復活についての問答」を聞いていました。イエスがこの難問に明快な解答を与えたのを聞いた律法学者は、イエスに「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と尋ねました。「第一」とは一番重要である、との意味です。モーセの律法は禁止法が365条、命令法が248条あって、合計して613条もありました。それでどれが重要でり、どれが比較的軽いか、ということが彼らの間でも問題であったからです。

イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』」(29-30節)

イエスは律法学者に答えました。「イスラエルよ、聞け、・・・・・」は、申記6:4-5からの引用です。モーセの十戒の第一の石の板に書かれている神に対する戒めが全部ここに含まれています。イスラエルの国民として、ただひとりの神を心のかぎり、精神のかぎり、思いのかぎり、力のかぎり愛することが義務づけられています。イエスは律法の一つ一つに代わるべきただ一つの戒めを示されたのです。「神を愛する」とは神を敬い信じる意味ですが、これだけで十分であるとして、ほかの戒めを廃止されたのです。イエスは律法全体を守るべき精神を示されて、規則自体は無効にされたのです。パウロはこのことを「キリストは律法の終わりとなられた」(ローマ10:4)と言いました。「終わり」とは律法を廃止され、律法なしに完全に律法の精神を守ることが出来る新しい道を示された、というのです。

「第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(31節)

第二は隣人愛で、レビ記19:18の引用です。ここには隣人の説明はしていないが、十戒の第二の板に書かれているものを指す戒めです。「隣人を自分のように愛しなさい」は、自己愛と隣人愛とが要求されているのではありません。自分を愛するその愛を隣人に向けよということで、隣人愛と共に求められているのは自己愛ではなく、むしろ自己犠牲です。

「第一の掟」を問われたイエスは、第一と第二とに分けて答えているが、第二は第一に劣るという意味ではなく、最大の掟を二つに分けて、第一は神に対するもの、第二は隣人に対するものとしたのです。どちらも同じ重みを持つ愛が基調です(ローマ13:8-10、第一コリント13:1-3)。「この二つにまさる掟はない」とは旧約聖書を総括すればこの二つに帰す、というのです。イエスは神に対する愛、言いかえると信仰と、人に対する愛とを同一にされました。これはすべての掟を神の意志の表現として絶対視するユダヤ教の律法理解に対する革命的な宣言であると言えます。「イエスは、わたしたちのために、命を捨てて下さいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました」(第一ヨハネ3:16)。

「律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。」(32節)

律法学者はイエスを先生と呼んで、イエスの答えに強く賛意をあらわし「おっしゃるとおりです」と言います。「神はただひとりで、ほかに神はない」とおっしゃたのは、本当です。正しい答えであり、また真理である、と言って同感しました。

「そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」( 33節)

また隣人を自分のように愛することは、燔祭やいけにえにも勝っている、と言いました。イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、『あなたは、神の国から遠くない』と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。」(34節)

律法学者の答えそのものは正しい。その限りにおいて彼は「神の国から遠くない」。しかし、それにもかかわらず、彼は神の国の外にとどまっている。「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(10:15,21参照)。もうだれ一人あえて質問する者はありませんでした。敵対者たちは議論においてイエスにかなわないことを知ったのです。

 わたしたちは「神を愛しなさい」という掟を与えられても、果たしてこれを実行することが出来るであろうか。神のわたしたちに対する愛を知って、初めて神との正しい関係におかれます。神の愛を知って、人を愛することができるようになるのです。神の愛はイエス・キリストを通して知ることができます。キリストはわたしたち一人一人を愛し、救うために、御自分の命を捨て、十字架の死と復活によって、わたしたちの罪をあがない、死からの復活と永遠の命を与えてくださいました。聖霊によって罪の支配から解放し、神から捨てられる死の恐怖を取り除いてくださるのです。そして神の支配する神の国に生きる者としてくださるのです。わたしたちはただ素直にキリストによる救いを信じ、キリストの愛を受け入れるだけでよいのです。そしてこの絶大な神の愛を身にしみて味わった者、神に愛されていることが分かった者には、神を愛すること、人を愛することが可能になるのです。

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「主のぶどう畑である教会」イザヤ書5章1-7節

2022-09-03 17:03:33 | キリスト教

     「主のぶどう畑」

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

聖霊降臨節第14主日 2022年9月4日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                            礼 拝 順 序                    

                    司会 斎藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 530(主よ、こころみ)

交読詩編   40(主にのみ、わたしは望みをおいていた。)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)  イザヤ書5章1-7節(旧p.1067)

説  教   「主のぶどう畑である教会」     辺見宗邦牧師

祈 祷                                                      

讃美歌(21) 433(あるがままわれを)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

 

〇オンラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019

の牧師の電話に、申し込みください。

           次週礼拝 9月11日(日)  午後5時~5時50分

           聖 書 マルコによる福音書12章28-34節

           説教題  「最も重要な掟」

           讃美歌(21) 459 476 27 交読詩編 62 

本日の聖書 イザヤ書5章1-7節

 5:1わたしは歌おう、わたしの愛する者のために、そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に、ぶどう畑を持っていた。2よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。
3さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ。わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。4わたしがぶどう畑のためになすべきことで、何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに、なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。
 5さあ、お前たちに告げよう。わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ、石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ、6わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず、耕されることもなく、茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。
7イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑。主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに、見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに、見よ、叫喚(ツェアカ)。

本日の説教

 イザヤ書5章の預言は、ユダの反逆と主の審判に関する預言を集めたものです。1節―7節は、「ぶどう畑の歌」というタイトルがついています。これはぶどう畑の比喩(たとえ)を用いて、ユダに対する主の愛とユダ国民の反逆を述べたものです。

 この歌はおそらくユダの人々が、秋の収穫を祝う最も楽しい取り入れの祭りにエルサレムに集まって来たとき、イザヤがその人々に対し、神殿の庭で歌ったものと思われます。おそらくイザヤのもとに集まった人々も皆、預言者から主の愛の歌を期待したことでしょう。ところが、その歌の終わりに近づくと、人々の期待は全く裏切られました。彼らはたちまち疑惑と失望に満たされました。歓呼の声、かっさいの声はたちまち変わって嘲りと怒号の声となったことでしょう。

1節の前半のところに、「さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてのわが愛の歌を」とあります。「愛の歌」は、農夫と畑への愛を歌ったもので、ヤーウェ(神)とイスラエルの関係をなぞらえて示しています。

 「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために、そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に、ぶどう畑を持っていた。」(1節)

 1節の<わたし>は預言者です。<わたしの愛する者>というのは、ヤーウェ(神)のことを指しているが、それは最後の7節まで隠されています。ここでは預言者の親しい友人となっています。友人はぶどう畑を心から愛していた。わたしは、その友人のために、<そのぶどう畑の愛の歌を>歌おう、と言います。友人は、<土の肥えた丘に、ぶどう畑を持っていました>。ユダの人民の住むユダの山地をぶどう畑にたとえています。

 「よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。」(2節)

彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、耕して、そこに良いぶどうの苗を植え、ぶどうを栽培しました。<良いぶどう>は、イスラエルが主の民として、しかも特に主に愛されるものとして、与えられている特殊な地位を表しています。耕地の真ん中に、収穫の時期に監視するための見張りのやぐらを立て、<酒ぶねを掘り>の酒ぶねは、絞ったぶどう液を貯蔵しておくために岩を掘って造った深い穴です。彼は甘い良いぶどうが実るのを待ちました。この友人はその愛するぶどう畑のためになしうるすべてのことをしたのに、結果は全く期待はずれで、実ったのは酸っぱいぶどうでした。これはイザヤ時代の不信、背教、堕落のユダ国民を風刺したものです。

「さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ。わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。」(3節)

 3節から、イザヤが農夫に代わって聴衆に向い、ぶどう畑の失敗の責任がどちらにあるかを問い、彼ら自らがその罪を自覚するようにしたものです。

 「わたしがぶどう畑のためになすべきことで、何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに、なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。」(4節)

これ以上手を加える必要はないといわれるほど手を加えたのに、全く食べ物にならないような酸っぱいぶどうが出来てしまったのはどうしてなのか。自分に何か落ち度があたのか、足りないことがあったのか、あったら教えてほしいと、判断を求めます。

「さあ、お前たちに告げよう。わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ、石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ、わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず、耕されることもなく、茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。」(5-6節)

暗に聴衆の責任を問うた預言者は、おもむろに沈黙を破って、彼らの失敗に対する農夫の断固たる決心、すなわち刑罰を宣言したのです。「さあ、今度はわたしが、あたながたに知らせよう。わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ、石垣を崩して、野獣の踏み荒らされるままにする。暗にユダが外的の来襲によって踏み荒らされることをあらわしています。刈り取りもしない。これを見捨てる。枝は刈り込まれず、耕されることもなく、茨やおどろ(草木・いばらなどの乱れ茂っていること)が生い茂るだろう。「わたしは雲に命じて、この上に雨を降らせない」というのです。日照りによって収穫をなくすことです。預言者はここでたとえを脱しかけているようです。ぶどう畑の農夫はヤーウェであることがここに暗示されているからです。

「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑。主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに、見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに、見よ、叫喚(ツェアカ)。」(7節)

イザヤは、これまでの謎を含んだたとえを語ったあと、農夫は実はヤ-ウェ(神)であり、ぶどう畑はイスラエルの家、すなわち主が楽しんで植えたぶどうの苗木はユダの人々であることを宣言します。神様はこれほどまでにイスラエルを愛してくださったのです。いったいなぜ神様はこんなにもイスラエルを愛されたのでしょう。神はぶどう畑であるイスラエルの立派な成長を期待していました。

この神の期待に対して、イスラエルはどのように応答したでしょうか。選民「イスラエルの家」のユダ王国とその首都エルサレムの住民(実質的にはその支配層)は、ヤーウェの恵みと期待を裏切りました。審判を受けざるを得ないとイザヤは宣言しました。

神様の熱い期待とは裏腹に、何と酸っぱいぶどうができてしまったのです。箴言13章5節にも「酸い」と同じ言葉が使われているが、そこでは「悪臭を放つ」と訳されています。あれほど手塩にかけて育て、甘いぶどうがなるように期待していたのに、悪臭を放つようなぶどうができてしっまったのです。このときの主人の気持ちは、残念さ、無念さで満たされたことでしょう。

ここに「主は裁き(正しい裁判)を待っておられたのに、見よ、流血。<流血>は罪なき者の血を流す暴虐圧制のことです。正義、正しい政治を待っていたのに、見よ、「叫喚(きょうかん)」とあります。「叫喚」とは、大声でわめきさけぶことです。暴虐圧制に苦しむ者の叫びです。へブル語の文字では、韻を踏むような類音の語が用いられていますが、意味は全く違います。<流血>と、その結果としての<叫喚>のさまが、8節以下、24節まで展開されます。主が彼らに求めたものは、正義公平の実を結ぶことでした。彼ら、ユダヤ人、とくに支配層の人々の最大の失敗は道徳の堕落、公儀の退廃でした。主の審判はこのような背教・反逆に対してやむをえないことをあらわしたものです。

イスラエルは、そのように良い実を結ぶことができないものになってしまいました。神から恵みをいただいているのだからと、恵みのエリート意識の中に閉じこもってしまい、恵みを受けながらもその主に従う正しい歩みを捨ててしまいました。そして、酸っぱいぶどうしか結ぶことができなくなってしまったのです。自分の力でどんなに努力しても、神様のご期待にそえるような公正も、正義も結ぶことができないものになったのです。

ところで、このぶどう畑のたとえは、イエス様がユダヤ人の指導者に語っています(マタイ21章33~44節)。「だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。」

もし神様のご期待にそえず酸っぱいぶどうの実を結ぶようなことがあると、神の国は彼らから取り去られて、神の国の実を結ぶ国民に与えられるのです。神様はその恵みを取り上げて異邦人に与えると言われたのです。その結果、神の国が今キリストによって救われた、私たちの教会にもたらされるようになったのです。ということは、私たちが神のご期待にそえるような実を結ぶには、神の御子であられるイエス・キリストを信じて、受け入れ、そのみことばに従って歩まなければならないのです。

ヨハネの福音書15章5節のところでイエス様は次のように言われました。 「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」私たちもぶどうの木であるイエス様にとどまっていなければ実を結ぶことはできません。自分でどんなに努力してみても、神に喜ばれるようになることはできないし、反対にやってはいけないと分かっていても、やってしまうということがたくさんあるのです。ところが、そういう私たちのためにぶどうの木であるイエス様が十字架にかかって死んでくださいました。その贖いの死によって、罪を赦され、イエス様の復活の命にあずかって、イエス様と結ばれ、私たちも多くの実を結ぶことができるようになったのです。すなわち、このイエス様との生ける交わりを通してのみ、私たちは実を結ぶことができるということです。何とすばらしい約束でしょうか。私たちの力では酸っぱくて腐ったような実しかできないのに、イエス様と交わり、イエス様から聖霊を与えられることによって、甘いぶどうの実ができるのです。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」といった実を結ぶことができるのです。私たちはいつも神様の期待を感じながら、豊かな実を結ぶ者でありたいと思います。

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