↑ コリントⅡ9章6節「つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。」
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日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
聖霊降臨節第17主日 2022年9月25日(日) 午後5時~5時50分
礼 拝 順 序
司会 辺見 順子姉
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 518(主にありてぞ)
交読詩編 112(ハレルヤ。いかに幸いなことか)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)コリントの信徒への手紙二、9章6節~15節(新p335)
説 教 「奉仕する教会の献金と旧統一教会の献金の違い」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 536(み恵みを受けた今は)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
祝 祷
後 奏
〇オンラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019
に申し込みください。
次週礼拝 10月2日(日) 午後5時~5時50分
聖 書 ヘブライ人への手紙9章23~28節
説教題 「キリストに贖われた教会」
讃美歌(21) 358 431 27 交読詩編 96
本日の聖書 2コリントの信徒への手紙9章6~15節
9:6つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。7各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。8神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。 9「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。10種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。11あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。12なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。13この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。14更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。15言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。
本日の説教
コリント(現在名はコリントス)というギリシアの都市は、アテネ(現在はギリシアの首都)から西南約78キロにある都市で、アドリア海とエーゲ海の二つの海に面し、それぞれに港を持つ、通航の要衝であり、商業都市として重要でした。
コリントの手紙一は、パウロが種々の具体的問題の質問に答えた手紙です。
コリントの手紙二は、パウロが経験した苦しみと喜びを中心として、教会に対し自分の使徒職を説明し、擁護し、弁明するために書いた手紙です。
1章12節から6章までは、自分に与えられた使徒職の崇高さと偉大さとを論じ、自分が受けた神秘体験を語りました。7章では、パウロはコリントの教会の悔い改めを喜びました。
8章と9章は、彼らとの信頼関係を確認したパウロの、エルサレム母教会の困窮している信徒に対する「経済援助」に関する文章です。その援助は貧しさを和らげ、また教会の一致のために役立たせようとするものでした。
パウロは、コリントの信徒たちへの勧めにさきだち、マケドニアの諸教会(フィリピ、テサロニケ、ペレア)の実情を知らせます。それは、「マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵み」(8章1節)です。この「恵み」とは、諸教会が行った「惜しまず施す豊かさ」を指しています。この施しの実践は、くるしい義務の遂行ではなく、霊的賜物と同じように、神がなしてくださった「神の恵み」の業なのです。
8章では、主イエス・キリストの模範を引いて(9節)、貧しい兄弟たちを自発的に援助すべき動機を示したパウロは、9章では、この慈善の業を、コリントの教会でもやり遂げるようにと勧めます。以前、コリントの教会の人々が約束した贈り物の用意を「渋りながらではなく、惜しまず差し出」してもらうためです(9:5)。
「つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」(9:6-7)
6節からは募金に対する最後の訴えで、献金する際の正しい精神について述べます。旧約聖書に出てくる思想を引用して、寛大に、気前よく施すことがいかに神の御心にかない、寄付をする本人の真の利益にもつながるものであるかを説得します。まず、献金を種まきにたとえて、まく種の多い少ないによって収穫の量もきまってくると言います(箴言11:24-25参照)。
施しにあたっては、第一に、いやいや惜しみながらではなく、第二に、強制されてではなく自発的に、第三に、他人との比較ではなく自分の心にきめたとおりに、行わねばなりません。喜んで施す寛大な人は神の祝福を受けます(箴言22:9)。
「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。」(9:8)
寛大に、気前よく、喜んで寄付する人には、神が豊かに報いてくださるとパウロは言います。神の恵みは満ちあふれ、何の不足もなく、善き業にあふれさせてくださる。神には<おできになる>ということで、神がいつでもかならずそうなさるとは言っていません。功利的で、報酬めあてのみの慈善行為であってはならないからです。
「『惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く』と書いてあるとおりです。」(9:9)
9節の引用文は、詩篇112:9からのものです。<彼>とは、「主を畏れる人、主の戒めを深く愛する人」(詩篇112:1)です。「いかに幸いなことか」とこのような人が祝福されています。
「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。」(9:10)
10節以下には、とくに施しの結果が記されています。それはまず、施す者に、豊かな報いを与えます。<種を蒔く人に>まく種を与え、食べる人には<パンを糧としてお与えになる>神は(イザヤ書55:10の引用)、施しをする者を、すべてにいよいよ豊かにしてくださる。<あなたがたの慈しみが結ぶ実>、という句は、ギリシヤ語訳のホセア書10:12から採られています。このことからも分かるとおり、パウロは旧約聖書をふんだんに引用して、気前のよい寄付について説明しようと務めているのです。
「あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。」(9:11)
11節から15節にかけては、むしろ、パウロがこの手紙の中で一貫して主張してきた内容がくりかえされ、確認され、深められます。あなたがたはすべてのことに富む者とされて、惜しみなく施すようになり、パウロたちの働きによって多くの人々が神に感謝をささげるようになります。
「なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足していものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。」(9:12)
12節では、「献金」が、「公の奉仕、神への奉仕」を意味する「レイトゥルギア」で表されています。この奉仕の働きは、聖徒の乏しさを満たす助けとなるばかりではなく、多くの人々がますます盛んに神に感謝をささげるようになります。
「この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。」(9:13)
13節では、献金が「奉仕」という意味の「ディアコニア」という語で表されています。この奉仕が行われた実際に行われた結果、多くの人が神をあがめつつ神に感謝するでしょう。ここには奉仕の業のもたらす効果があげられています。すなわち、福音の従順な公言(これは「福音を公言することによって福音への従順を示す」という意味にも解釈されます)が、神への賛美になるのです。献金の業が、福音に対する従順と福音の宣言にもつながり、神への賛美となるのです。
「更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。」(9:14)
献金を受ける彼らは、あなたがたの奉仕が、あなたがたに与えられた神のすばらしい恵みによるものであることを知り、あなたがたを慕い、あなたがたのために執り成しの祈りをするのです。施しは、与える者と受ける者との間に、神にある交わりを強めます。
「言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。」(9:15)
このようなことはすべて神の恵みの賜物です。15節の<言葉では言い尽くせない贈り物>とは、8章1節で、気前よく施すマケドニア州諸教会の慈善の業を、<神の恵み>として理解したパウロは、ここでも、コリント教会の献金の業を同じく<神のこの上なくすばらしい恵み>とみなして、感謝しているのです。善き業は、人間の功績ではなく、神の賜物なのです。
パウロは「献金」のことを、一度も、「献金」を意味する「ドーラ〔献金〕」(ルカ21:1)という語を用いることをしていません。この語は金銭を表す語です。パウロはこの語に変えて、6通りの語によって、金銭のこととしてではなく、献金を表現し、説明するのです。1.「慈善の業」(カリス)8章6,7,19節―これはも ともと「恵み」の意味です。2.「奉仕」(ディアコニア)9章1節―「奉仕」を意味します。3.「募金」(ハドロテ―ス)8章20節―豊かさを意味する。4.「贈り物」(エウロギア)9章5節―祝福を意味する。5.「奉仕の働き」(レイトゥルギア)9章12節―公の奉仕、または礼拝を意味します。6.「施し」(コイノーニア)9章13説―交わりを意味します。
「献金」の行為が、以上のようにきわめて宗教的な意味あいの濃い用語で表現されています。パウロにとって、「困窮者を経済的に援助する」ことは、「恵み」であり、「奉仕」であり、「豊かさ」を示し、「祝福」を意味し、「礼拝行為」につながり、「交わり」をもたらすものだったわけです。
主イエスは、レプトン銅貨二枚を献金箱に入れた貧しいやもめの献金を、だれよりもたくさん入れた、と言われました(マルコ12章41-44)。献金は金額によるものではありません。
旧統一教会の信者をだまして高額商品を買わせる「霊感商法」の被害が明るみになり、社会問題になっています。先祖のたたりと言って不安をあおり、この商品を買えば祖先のたたりは消滅するという商法です。
「生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか」という弟子たちの問いに、主イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現われためである」と言われ、盲人が見えるようにされました(ヨハネ9章1~12節)。先祖のたたりなどはないのです。
また、真の献げ物は、決して規則によって献げられることはありません。パウロは一度も十分の一献金のような規則を定めて守ったことはありません。パウロはテント作りの仕事をして収入を得ながら(使徒言行録18:1-4)、コリントで神の福音を無報酬で告げ知らせました(コリントⅡ,11:7)。
日本の信者の献金が、韓国の旧統一教会の資金源になっています。文鮮明(ブン・センメイ=ムン・ソンミョン)の妻、韓鶴子(カン・ツルコ=ハン・ハクチャ)が現在の教祖であり総裁です。統一協会は、聖書のイエス・キリストは地上でメシアとしての使命を全うできず、罪が入り十字架刑で死んだと説きます。正統なキリスト教信仰である「十字架による救い」を否定し、原罪がない神同格の存在でこの地上に再臨したメシア(再臨主)が文鮮明氏を信じ、罪がない清い血を分け合うことで男と女は一体となって本物の救いに達すると教えます。文鮮明は再臨のメシア(救世主)と自称し、地上に天国を実現するためとして、宮殿を建設します。文鮮明亡きあとは、妻の韓鶴子が再臨のメシアとされています。献金は偽キリストの強欲な野望のために用いられてはなりません。
主イエスは、終末の徴として、「わたしの名を名乗る者が大勢現われて、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう」(マタイ24:5)と警告しています。
キリスト者の献金は、キリストの恵みの救いにあずかり、「豊かにされた者」として、自分たちもキリストに倣い、貧しい人々のために、みずからを貧しくして仕えようとする行為であり、慈善の業となるのです。それは聖霊の働きによるものです。このように「献金」は、神の恵みに対する感謝から、神への愛、隣人への愛の行為として行われ、福音の宣教によって究極的には神の栄光のためになされるのです。