富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「主に従い、信仰のコースを走りきる」 ヘブライの信徒への手紙12章1~13節

2018-07-29 01:11:39 | キリスト教

    ↑ オリンピック競技の最終種目のマラソンは、きわめて過酷なレースです。競技場に42.195Kmを走り抜いて戻ってくると、大勢の観客が見守る中で、声援を受けてゴールします。信仰生活はマラソンの競技にたとえられます。

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

        日本キリスト教 富 谷 教 会    週 報

 年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

    聖霊降臨節第11主日  2018年7月29日(日)    午後5時~5時50分 

     礼 拝 順 序

                司会 田中 恵子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 532(やすかれ、わがこころよ)

交読詩編   94篇(主よ、報復の神として)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳) ヘブライの信徒への手紙12章1~13節(p.416)

説  教   「主に従い、信仰のコースを走りきる」 辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 507(主に従うことは)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

               次週礼拝 8月5日(日) 午後5時~5時50分

              聖書  エフェソの信徒への手紙5章21~6章4節

              説教題   「家族」

              讃美歌(21) 161 556 24 交読詩編127篇

   本日の聖書  ヘブライの信徒への手紙12章3~13節            

 12:1こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、 2信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。3あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。 4あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。 5また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。 6なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」 7あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。 8もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。 9更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。 10肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。 11およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。 12だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。 13また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。

      本日の説教

 ヘブライ人への手紙という名称から、ヘブライ人に宛てられた手紙となっていますが、ヘブライ人とは、ユダヤ人を指す古い呼び名です。しかし必ずしも必ずしもパレスチナのユダヤ人キリスト者たちではなく、13・24の<イタリア出身の人たち>という句からイタリアないしローマの地域のユダヤ人キリスト者を予想させます。迫害に際しての忍耐をすすめている点などから、おそらく離散したユダヤ人キリスト者たちがいるローマの集会に宛てて書かれたものと見る味方が有力です。ローマではユダヤ人信徒と異邦人信徒が混在していました。<ヘブライ人への手紙>という名称は、後になってから、その内容から察してつけられた名です。いきなり本文で始まるので、手紙よりも論説や説教のようなものです。 

   この書は、長い間パウロの書簡とされてきましたが、近代の研究では、バルナバ(キプロス島出身のユダヤ人)やアポロ(アレキサンドリア出身のユダヤ人)、プリスキラ(ローマを退去してコリント、そしてエフェスに移住した、アクラの妻で、ポントス[現在のトルコの黒海に近い町]生まれのユダヤ人)といった人物を著者とする説が有力ですが、明らかではありません。

   著者は旧約聖書に深い理解をもち、教養の高い、ギリシャ語を用いる外国に住むユダヤ人であると思われます。著者はテモテを知っており(13・23)、パウロの信仰を継承しています。執筆年代は、ネロの迫害(64年)の経験が言及されていますし(10・32~34)、しかも新たな迫害[ドミティアヌ帝(在位81~96年)の迫害]が近づき、再臨の希望が失われ、聖霊の働きもあまり見られないところから、一世紀末が考えられ、80~90年頃と推定されます。執筆の場所としては、エフェソあたりが最も可能性が高いとされています。

   執筆の事情については、次のようなことが考えられます。宛先の教会の人たちが、信仰に入った初めの頃は<苦しい大きな戦いによく耐えた>(10・32)のですが、その後の信仰生活の中で、彼らの中には、集会から離れ(10・25)、異なった教えに迷わされ(13・9)、みだらな生活に陥る(13・4)者たちも出たので、このような危機的な状況を知った、かつてこの集会の指導者であった著者が、新たな迫害に備えて、この勧告の手紙を書き送ったと推定されます。  

 ヘブライ人への手紙は、最後の添え書きを別にすると、三つの主要な勧告(説教)から成り立っています。第一部は「神の言葉に聞き従おう」(1・1~4・13)、第二部は「信仰告白をしっかり守り礼拝に励もう」(4・14~10・31)、第三部は「イエスを仰ぎ見つつ忍耐をもって走り抜こう」(10・32~13.21)と信仰者の忍耐を説く勧めになっています。

 今日の聖書の箇所は、見出しの説明によると「主による鍛錬」とあります。

  「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか」(12:1)

 11章では、旧約聖書の優れた人々の例を挙げて述べています。挙げられているのは、①アベル・・神の喜ぶささげものをしました。(アダムとエバの子、創世記4:4)、②エノク・・自分の息子が生まれてから、自発的に神とともに歩みました。(創5:21)、③ノア・・神に従う正しい人で箱舟を作り救われました。(創6:13)、④アブラハム・・永遠の神の都を待ち望みました。(創12:1)、⑤サラ・・アブラハムの妻、諸国民の母とされました。(創17:16)、⑥イサク・・アブラハムの息子、彼の子孫によって諸国民は祝福を得ます(創26:4)、⑦ヤコブ・・旅の途中、天に達する階段の正夢を見ました。(創28:10)、⑧ヨセフ・・ヤコブの息子で、エジプト全国の上に立つ王位に次ぐ地位を与えられ、ヤコブ一族をエジプトに迎えました。(創41:41)、⑨モーセ・・この世の富や栄光を捨てて、神の民とともに生きることを選び取りました。(出エジプト記2:2)、⑩遊女ラハブ・・異邦人でありながらも、命懸けで神の側につきました。(ヨシュア2:1)、⑪ギデオン・・石橋を叩いて渡るような小心者が戦いの戦士として尊く用いられました。(士師記6:11)、⑫バラク・・女預言者デボラと共に戦った士師(士4:6)、⑬サムソン・・怪力の士師(士13:24)⑭エフタ・・娘を主に捧げた士師(士11:30)、⑮ダビデ・・少年の時、ペリシテ人の巨人ゴリアテを石一つで倒したイスラエル統一王国の神と国民に愛された王(サムエル記上17:46)、⑯サムエル・・主の預言者として、イスラエルの人々に信頼された。(サム上3:20)等、16人の個人名が挙げられています。また、32節bの<預言者たち>とは、エリヤ、エリシャ、イザヤ、エレミヤなどを指し、35節の<女たち>は、サレプたのやもめ(列王記上17:22)、シュネムの女(王下4:34)を指しています。

   彼らの全てが、「信仰によって」神に示された道を歩み、それぞれの時代、それぞれの状況において、神の恵みの業をその目で見、自ら神の御業の体験者となり、新約の時代に生きるキリスト者を支え導く人々となり、何よりも神の御業を証言した人々でした。

   その信仰は、「この世界が神の言葉によって創造され」ている、見えない事実を確認し、神の約束を望み見て、ただ神のみに従いました。旧約時代の人々は、信仰によって忍耐と希望を持ち続け、私たちと共に全き祝福にあずかる日を待っています。

    このように旧約の信仰の証人たちのことが示され以上、次に求められるのはこれを模範としてキリスト者も、忍耐と希望をもって信仰生活のたたかいに耐えようではないか、という勧告です。<このようにおびただしい証人の群れに囲まれて>は、競技場の観衆にたとえて旧約の信仰の証人たちを指してます。信仰生活を徒競走にたとえて、まず身を軽くするために<すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨て>、<自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではないか、と勧めています。

 「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」(12:2)

  11章では、旧約時代の多くの信仰の先人の実例を挙げて励ましたが、ここでは、その究極的な存在としてのイエスを挙げます。イエスにおいて信仰が開始し、イエスにおいて信仰が完成するのです。イエスはわたしたちのために救いの道を開き、実現された方です。信仰はこの方に始まり、この方において完成するのです。このようなイエスをひたすら<見つめながら>走る時、わたしたちは信仰の競争を走り抜くことができるのです。イエスは天にある喜び捨て、<恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び>、再び<神の玉座の右に>座る祝福を与えられました。

 「あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。」(12:3)

 <気力を失い疲れ果て」るとは、今読者たちが陥ろうとしている状態を指しています。そうならないように、最後まで耐え抜かれ、今や神の王座の右に座られているイエスのことを<よく考えなさい>と命じています。どのような妨げも、受難に耐え忍ぶイエスに目を注ぐならば、信仰を揺るがすものにはならないのです。

 「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。」(12:4)

 信仰生活における苦難の意義を、イエスのたたかい、また旧約の殉教者たちの行為を背景として語ります。ここではボクシングのたとえが用いられます。この時代のグローブは金具で裏打ちされていたので、しばしば流血を招きました。あなたたちは、まだ<血を流すまで>迫害に対する信仰の闘いを経験していないが、その様な状況になるかも知れないことを警告しています。

 「また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。『わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」』」(12:5-6)

 箴言3:11-12が引用されています。<子よ>は、ここではキリスト者に対する呼びかけとして引用されています。古代世界では一家の家長は子供と奴隷を教育するために体罰を加わえることもありました。神もその家族の一員であるキリスト者を子供として厳しく鍛えられるのです。<主の鍛錬を軽んじ>るとは、神が人間を鍛え、育てようとして<懲らしめて>ておられるのに、その意味を少しも悟らないことです。<力を落としてはいけない>と励まします。主の訓練としての苦難の意味を正しく理解しなさい、ということです。

 「もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子(しょし)であって、実の子ではありません。 更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。」(12:8-9)

  ここでは地上の父との対比で普遍的な父としての神が示されます。<庶子>とは、法律上の婚姻関係にない男女間に生まれた子です。<肉の父>とは、わたしたちの肉体と生命の源である人間としての父を指します。<霊の父>とは、根源的には神御自身が生命を与える方であり、神のみがわたしたちの身体を生かす霊を送られる父であることを言います。鍛えてくれる肉の父を尊敬するなら、なおさら、霊の父に服従すべきであると勧告しています。

 「肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。」

(12:10)

 <しばらくの間>とは、肉の父の場合には子供が幼い時期ということになるが、霊の父の場合には一生涯を意味します。両方の父の訓練の方法は、肉の父の場合<自分の思うまま>であって、誤りを犯したり、情熱に駆られる可能性もあることが暗示されています。これに対して霊の父は<わたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的で>訓練されるのです。

 「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」(12:11)

 <鍛錬>の本当の意図は、結果を体験してから始めて分かるものです。ここには、人生が一種の霊的な訓練の場であるとの思想が見られます。よい人生は、人間の側において積極的に神と共に働くということがあって初めて達成されます。

 「だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。」(12:12)

 12節は、イザヤ書35:3以下を引用して、苦難にあって弱っている心を励ましているのです。「弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。……』」鍛錬は、霊の父である神が、御自分の神聖にあずからせる目的があるのだからというわけです。

「また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。」(12:13)

  13節は箴言4:26-27を念頭に置いています。「どう足を進めるかをよく計るなら、あなたの道は常に確かなものになろう。右にも左にも偏ってはならない。悪から足を避けよ。」「足の不自由な人」が、「いやされるように」、すなわち、しっかりした足どりで、確信を持って歩むことが出来るように、先に元気になった人は、自分の足で、信仰において自立した者として、「まっすぐな道」、正しい道を歩きなさいと勧めています。<まっすぐな道を歩>くとは、神の民の行進というイメージから出ています。<足の不自由な人が踏み外す>とは、集会を遠ざかっている人たちのことが考えられています。その人たちの問題を全教会員が自分自身の問題として受けとめるべきことが、警告されています。

  信仰の競争は、おびただしい証人の群れかなる観衆に囲まれ、見守られ、声援を送られての競争です。信仰の競争には、絡みつく罪や重荷をイエス様に取り去っていただき、かなぐり捨てて、走らなければなりません。途中で苦しくなって脱落しないように、大切なことは、自分を見ないで、「信仰の創始者(導き手)であり、またその完成者でもあるイエスに目を注ぎながら走ることです。わたしの中に信仰を始めて下さった方は、また完成してくださる主イエスなのです。イエス様は、わたしと一緒になって走ってくださる方でもあるのです。なんと力強い助け手、導き手ではないでしょうか。

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「キリストの体である教会」 コリントの信徒への手紙一、12章14~26節

2018-07-21 22:37:36 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

    日本キリスト教 富 谷 教 会   週 報

 年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

   聖霊降臨節第10主日 2018年7月22日(日)    午後5時~5時50分 

     礼 拝 順 序

                司会 田中 恵子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 141(主よ、わが助けよ)

交読詩編   13篇(いつまで、主よ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)コリントの信徒への手紙一、12章14~26節(p.316)

説  教     「キリストの体である教会」     辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 390(主は教会の基となり)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

             次週礼拝 7月29日(日) 午後5時~5時50分

            聖書  ヘブライの信徒への手紙12章3~13節

            説教題  「主に従う道」

            讃美歌(21)  532 507 24 交読詩編94篇

   本日の聖書 コリントの信徒への手紙一、12章14~27節             

 12:12体は、一つでも、多くの部分からなり、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。13つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼((バプテスマ))を受け、皆一つ霊をのませてもらったのです。14体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。15足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。16耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。17もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。18そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。19すべてが、一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。20だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。21目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。22それどころか、体の中でほかより弱く見える部分が、かえって必要なのです。23わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと見栄えよくしようとします。24見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。25それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。26一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。27あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。

     本日の説教

  パウロは、12章1節から11節にかけて、<一つの霊といろいろな賜物>という、教会にはいろいろな賜物が与えれていることを語りました。11節では、その結論として、いろいろな賜物は、それをお与えになるのは「同じ霊」であり、「同じ主」であり、「同じ神」であり、一人一人に霊の働きが現われるのは、全体の益になるためです、と教えています。ある人には霊によって「知恵の言葉」、ある人には、同じ霊によって「信仰」というように、「病気を癒す力」、「奇跡を行う力」、「預言をする力」、「霊を見分ける力」、「異言を解釈する力」、これらすべては「一つの、同じ霊の働き」であり、霊が望むままに教会の一人一人に分け与えられているのです。従ってどんな霊でも、それを与えられていることは、個人的な美点や価値に関わりなく、まったく自由な神の恵みによるものです。コリントの人々がどんな霊を与えられていても、「霊的」であることに誇る理由はまったくありません。全ての霊の現れは、神の目的に仕えるためであり、教会全体の益のためです、とパウロは説きました。

「体は、一つでも、多くの部分からなり、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。」(12章12節)

パウロは、人間の体を例にして、体は一つでも、多くの部分から出来ており、また体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、「キリストの場合も同様です」と説明します。多くの会員から成る教会を直接キリストと同一視しています。パウロは27節では、はっきりと、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」と、教会を「キリストの体」と呼んでいます。

 「一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼((バプテスマ))を受け、皆一つ霊をのませてもらったのです。」(12章13節)

 パウロは、コリントの人々に、一つの体になったことを思い起させます。すべての人は、教会に入会した時に、「一つの霊によって、……一つの体となるために洗礼を受け」ました。そして、「皆一つの霊をのませてもらったのです」。そして教会の全員に一つの霊があふれるばかりに豊かに与えられたことを思い起させます。皆ユダヤ人、ギリシア人、奴隷、自由人といった違う民族の人も、身分や社会的背景の違う人も、皆が一つの霊によって一つの体に結びつけられたのです。

「体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。」(12章14節)

 再び、体は、多くの部分から出来ていることを語り、教会も同じであることを伝えます。

 「足が、『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、  『わたしは目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。」(12章14-16節)

 足と手、耳と目は恐らく弱い人と強い人の関係を言っているのでしょう。したがってここでは、弱い者が強い者に向かって語っているのでしょう。体のすべての部分が、体には必要であり、教会も、強い人も、弱い人も、すべての人が大切な構成員であることを説いています。

 「もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。」(12章17-18節)

  体は、神の計画に従って、体に一つ一つに部分を置かれ、それぞれがその機能をはたしているのです。全てが目であったり、耳であったなら、体ではなくなります。同じように神は、教会の一人一人に、それぞれの役割を与えられているのは神です。それゆえ体(教会)の成員は、決して自分が価値がないとか、重要でないと考えるべきではありません。それぞれの構成部分は、全体が機能するためにそれ自身に特有の目的があります。教会の中でお互いを比べて優劣を決めたがるのは人間的思いによるのであって、個々人をそれぞれ教会の中に位置づけるのは神であることを知るべきです。

「すべてが、一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。」(12章19―20節)

   皆が優れていると思われる働きに殺到した場合、有機体としての体は成立しません。<すべてが、一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう>とパウロは問うことによって、自ら弱いと考える教会内の不満分子にその考え方の変換を求めています。

 「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。」(12章21節)

 目が手に、頭が足に、<『お前は要らない』>と言うことは強い者が弱い者に対する態度を語っています。「強い」と思われる成員(目や頭)は、手や足を蔑むことはできません。それらがなければ体を動かす働き出来ないからです。同じように教会のそれぞれの会員は他を必要とするのです。

 「それどころか、体の中でほかより弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。」(12章22―24節節)

<体の中でほかより弱く見える部分が、かえって必要なのです>。コリントの教会で自分たちを強く、知識があると思って、自分たちを「弱い人」と見なす人々に対して、高ぶっている人々がいました。ここでパウロは率直に弱い人は、「絶対不可欠」な役割を教会の生活の中で持っており、強い人は自分の判断で弱い人を軽んじてはまらないと断言します。パウロは弱い人の存在の必要性を、体の比喩を継続して用いながら、新しい観点から説得しようとしています。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと見栄えよくしようとします。<恰好が悪い><見苦しい>と見なされている成員が、それだけに最も丁重に扱わなければならいません。コリントの地位の高い人々は、低い階層の信仰の兄弟姉妹たちを何かきまりの悪いもののように、軽蔑の目で見ていたのでしょう。しかしパウロは彼らを、恰好よく、見映えよく「覆って」いなければならないと主張します。強い人は自分たちの行いを弱い人の必要にあわせなければなりません。神が体をそのように配置したのだから、より大きな敬意を払わなければなりません。

 「それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」(12章25-27節)

 神は体のそれぞれの器官を相互に依存する有機体として作られました。そこでは多様性が必要なので、器官の違いは分裂の原因になってはなりません。お互いの配慮を促すようにならねばなりません。「分裂」とここで言及されるのは、実際にコリントの人々が霊的賜物の現れをめぐって論争していたことを示します。パウロは教会内の違う人に対して寛容であるだけでなく、全ての会員が他の人と悲しみと喜びを分かち合うという恵みにあふれる、同情的なあり方を心に描いています。誰でも足首や指の痛みがいかに体全体の力と注意を奪うかを知っています。これが教会におけるあり方だとパウロは論じます。会員の誰かが苦しめば、他の会員も衰え、痛みます。会員の誰かが、尊ばれると、他の会員も喜ぶのです。

  パウロはコリントの教会のすべての人々に、自分たちをお互いの平和と健全さに関心を払う一つの体の成員として理解するように呼び掛けています。このメッセージは、力ある者は、キリストの体である自分たちの仲間として弱い人をうけいれ、尊び、「配慮し合い」、喜びも悲しみも分かち合うように説いているのです。

イザヤ書61章1-2節に、「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」とあります。主イエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とナザレの会堂で話し始められました(ルカ4章18-21節)。霊はイエスが貧しい人々に福音を宣教する権限を与えただけでなく、キリストの体を形成するための権限を与えます。そこでは奴隷と自由人、特権階級と貧しい者と隔ての壁は壊されたのです。キリストの体である教会の使命がここに示されています。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」悩みを共にし、喜びを共にする、それが教会のあり方であり、愛に生きる姿にほかなりません。

 「なたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」、とパウロは述べています。言い換えれば、わたしたちはキリストの御心を具体的に実現する手足とされている、教会を構成する一員なのです。教会の一人一人にはキリストの霊と愛とが注がれているのです。

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「左右の手にある義の武器」 コリントの信徒への手紙二、6章1~10節

2018-07-16 00:07:19 | キリスト教

                      ↑  使徒パウロとバチカンの聖ピエトロ寺院

 パウロは右手に剣を持っています。剣によって殉教したことを表すと同時に、剣はパウロが宣べ伝えた「神の御言葉」を表しています。「御言葉は霊の剣」(エフェソ6・17)であり、「どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通す」(ヘブライ4・12)と書かれているからです。左手には、御言葉を記した羊皮紙(書物)を持っています(テモテ二、4・13)。

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  日本キリスト教 富 谷 教 会 週 報

 年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

  聖霊降臨節第9主日  2018年7月15日(日)  午後5時~5時50分 

     礼 拝 順 序

                司会 佐藤 洋子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 497(この世のつとめ)

交読詩編   18篇26節~(あなたの慈しみ二生きる人に)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)コリントの信徒への手紙二、6章1~10節(p.331)

説  教     「左右の手にある義の武器」 辺見宗邦牧師

祈 祷

聖餐式    72(まごころもて)             

讃美歌(21) 411(うたがい迷いの)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

        次週礼拝 7月22日(日) 午後5時~5時50分

        聖書 コリントの信徒への手紙一、12章14~26節

        説教題  「キリストの体」

        讃美歌(21) 141 390 24 交読詩編13篇

 本日の聖書 コリントの信徒への手紙二、6章1~10節   

 6:1わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。 2なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。 3わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、 4あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、 5鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、 6純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、 7真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、 8栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、 9人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、 10悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。

   本日の説教

 コリントの教会は、パウロが第二伝道旅行中、一年六か月にわたり滞在して伝道してできた教会でした。コリントでユダヤ人夫婦、アキラとプリスカとの出会ったことは、彼らが皮テントを作る職人で、パウロと同業者であり、熱心なキリスト教徒であったことで、パウロの伝道活動との大きな支えとなりました(使徒言行録18章1~11節)。教会はまれにみる成長を遂げました。しかし、紀元51年にパウロが去った後、さまざまな問題が教会を襲いました。これらの問題について、パウロは「クロエの家の人たち」から報告を受け取りました(コリント一、1:11、11:18)。教会内に深刻な不和があったこと、性的不道徳や法的争いが発生したこと等、またコリントの人々自身がいくつかのパウロに助言を求める手紙を書いています(7:1a)。

  コリントの手紙一は、パウロがこれらの種々の具体的問題の質問に答えた手紙で、コリントの人たちをきびしく訓戒し、警告しました。第三伝道旅行中、エフェソに約二年滞在中、おそらく53年から55年に書かれました(現代聖書注解、コリントの信徒への手紙1、日本キリスト教団出版局2002年、p28)。手紙自身には、その年の春、五旬祭の前、エフェソで書かれたと言及されています(コリント一、16:8)。パウロはこの手紙を弟子のテモテに持たさせてコリントの教会に派遣し、問題の処理に当たらせました。しかし、コリントの教会の状態は、少しも改まらず、かえってパウロと教会の間は、険悪の度が増すばかりでした。そこで、パウロは決心して、彼自身、海を渡ってコリントにおもむいたのです。これはパウロの二度目の訪問です(コリントの手紙二、13章2節に「二度目の滞在中」とあります)。

 不幸にして、この訪問は失敗に終わり、パウロは会員たちとの会合の席上で侮辱を受け、エフェソに引き返さざるを得なかったのです。パウロはいろいろ悩んだ末、「きびしい手紙」をしたためて、コリントの教会に送りました。この手紙が、いわゆる「涙の手紙」(コリント二、2章3節)です。この手紙でパウロはコリント教会の人たちの忘恩的態度をきびしく叱責し、パウロに侮辱を与えた者を厳重に処分するように迫りました。この手紙はあまりにも苛酷なものであったため、パウロ自身後で悔いています(7:8)。2章4節に「わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした」とあるのが、それです。

  パウロはこの手紙だけにまかせておけず、さらにテトスをコリント教会に派遣しました。パウロはトロアス(小アジア西北端の港)へ行って、そこでテトスを待つことにしたのです。トロアスでは、伝道の門が開かれて伝道は成功をおさめたのですが、早くテトスに会ってコリント教会の様子を知りたくて、トロアスの伝道を中途で打ち切り、対岸のマケドニア州へ船出したのです(2:12.13)。

ところで2章14節になると、パウロは突然、「神に感謝します…」と言います。この突然の変化は何によるのでしょうか。7章6節以下を見ますと、「気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました」とあります。テトスが思いがけない吉報をもたらしたためであることが分かります。

テトスの報告によると、コリントの教会の信徒たちは、自分たちの非を素直に認めて、悔い改め、パウロに詫びているということ、そして、今ではパウロを熱心に慕っているということを報せたのです(7:8)。この知らせを受けたパウロは、たちまち喜びに満たされ、神への感謝の言葉が口にあふれ出たのです。コリントの人たちを愛し、慕っていたパウロは、彼らとの間に信頼関係が回復したことに、深い慰めを得たのです。

  このように、テトスの報告を聞いて書き送ったのがコリントの手紙二です(おそらくいくつかの手紙を組見合わせたもの)。第一の手紙を送ってから約一年半位い後のことです。この手紙は、コリントの手紙一とは違って、コリントの教会の内部的な営みと深くかかわっています。この手紙では、パウロが経験した苦しみと喜びを中心として、教会に対し自分の使徒職を弁明し、その権威を説き、信仰の奥義を示しています。パウロは、他のどんな手紙よりも、自分の経験と告白をあからさまに語っているので、パウロがどのような人物だったのかをよく知ることができます。

 この手紙二の1章1節には、手紙の差出人、すなわちこの手紙を書き送るのは、「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロ」です。「使徒」とは、「使者、特別な使命を帯びて派遣された者」という意味です。

 1章12節から6章までは、自分に与えられた使徒職の崇高さと偉大さとを論じ、自分が受けた神秘体験を語りました。この手紙は一度に書かれたものではなく、少なくとも複数の手紙を、パウロの死後、コリントでだれかが保存するために、一緒に組み合わせた手紙と思われています。「10章~13章」の部分が、2章4節で言及されている、いわゆる「涙の手紙」の一部ではないかと考えられます。この手紙は、56年か57年頃、マケドニアで書かれたものと推定されています。

 パウロは、キリストの十字架による贖いの死について、5章14節b、15節で次のように述べます。

 「一人の方(キリスト)がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。…その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分のために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」

 5章17節では、「だから、キリストと結ばれて人はだれでも、新しく創造された者なのです」と言います。更に、パウロは、神はキリストを通して、わたしたちを御自分と和解させ、その和解のために奉仕する任務を、わたしたちに授けてくださった、と、コリントの信徒に弁明します。神はキリストによる和解によって、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたと説明します。だから、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしていると説きます。

 「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」(5章20b、21節)と、罪のない神の御子の死によって、わたしたちが罪なき正しい者と認められ、父なる神との交わりが回復される救いについて説き、記しました。

「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた』と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」(6章1、2節)

パウロは神の救いの計画の中で、協力者としての役割を果たしているので、今彼らに訴えます。<神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません>。この勧告が必要となるわけは、人間の側の受け入れ態勢の不備で、恵みが実際に無駄になりうるからです。パウロは、イザヤ書49章8節を引用したあと、<今や、恵みの時、今こそ、救いの日>と言っています。神と和解させていただく必要が絶えずあるように、「今こそ、救いの日」であり、日ごとに救いを受け入れる必要が絶えずあります。「救いの日」とは、今日のことであり、それはキリストが戻られるまで続く日です。

 「わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。」(6章3.4節a)。

 3節以下は、引き続いてパウロの務めに対する弁護がなされています。伝道にとって大切なことは、伝える者の姿勢です。外の人々に対しては非難されないようにすること、内部の人につまずきを与えないように罪に敏感になることでした。パウロは伝道者としてどのように生きたのでしょうか。四節から十節までは、大まかに四つに分かれます。

「大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、」(6章4b、5節)

第一の部分は、「大いなる忍耐をもって」という言葉が一種の見出しとなっています。それに続く九つの言葉は(三つずつ三組に分けられる)、パウロが何を忍耐したのかを、簡単に説明しています。その中には、「苦難、欠乏、行き詰まり」という外面的な逆境もあれば、「鞭打ち、監禁、暴動」という同胞からの虐待もありました。また、自分で耐え忍んだこともありました。「労苦」、すなわちぜいたくをすることができずに旅をしたことによって、あるいは自分で経済的な支えを得るためにしばしば働いたことによって、苦難と疲労があり、「不眠」、すなわち町から町へと休みなく歩きまわり、昼は生活のために働いて、機会があれば説教するので睡眠不足になり、「飢餓」、すなわち食することもこと欠き、持っているものを食する時間にもこと欠いていました。

「純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています。」(6、7節a)

第二の部分は、パウロは自分の動機を内面的に見つめています。「純真」とは、動機の純真さのことでう。「知識」とは、神がパウロにさせたいと願っておられることに対する深い理解のことです。「寛容」とは、喜んで愚かになり、他者に対する忍耐を失わないことです。神の正しいさばきに委ねる態度です。「親切」は寛容と共に聖霊の実とされています。他者へのいつくしみです。「聖霊」は、神の霊の働きであり、聖霊の恵みです。「偽りのない愛」は、外見的な見せかけの愛ではなく、兄弟たちへの真実の愛です。「真理の言葉」は信頼できる成実な言葉です。パウロはたくみなうそをつくことはありませんでした。最後に、パウロが日々示す資質から、その中で彼を支える「神の力」をあげています。人徳や努力の結果ではなく、神の力によってそうしてきたと証しをしています。

「左右の手に義の武器を持ち、栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。」(6章7b、8a節)

第三の部分は、パウロは武器の比喩を用いています。「右」「左」という言葉によって、自分に訪れる幸と不幸にたいして、備えていることを示唆しています。栄誉、恥辱、好評、悪評、何が起ころうとも、パウロは攻撃の武器(右手の矛(ほこ))と防御の武器(左手盾)をもっていました。<左右の手に義の武器を持ち>は、神との正しい関係を攻撃や防御の武器としていたのです。パウロに味方する人たちもいたが、極めて批判的な人もいました。彼らが何を言おうと、パウロは忍耐したのです。「順境に会っても逆境にあっても」、どんな境遇にあったも同じ不屈の態度で身を処することができる秘訣は、ひとえに<神の力>です。パウロとその仲間は、神の奉仕者であり、キリストの使徒であるがゆえに、このような生き方が可能になるのです。

 「わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」(6章8b、9、10節)

 最後の部分では、もう一つの対立した組み合わせが示されています。ここにはパウロ心に描いていた違った対立、すなわち、世間の人々がパウロに対して抱く見方と、神の見方の違いが述べられています。パウロはユダヤ人からもローマ人からも罰せられたが、それでもなお死ななかった。人々はパウロがもはや価値がないと思って、心の底からパウロに手紙を書き、パウロは死んだも同然となりました。しかし、パウロは生き続け、神への情熱的な活動に生き続けたのです。

 「悲しんでいるようで、常に喜び」という表現では、パウロがしばしば陥った、二つの違った感情が、対比的に示されています。パウロはメシアを拒み続けるユダヤ人によって悲しませられてきました。しかし、パウロは喜ぶことができました。宣教の結果、回心者が起こされ、迷っていた回心者が信仰に立ち戻り、とりわけ神が自分のために、また自分を通してなしてくださったことを思い出す時に、喜ぶのでした。最後の二節で、パウロは再び内面と外面とを対比しています。パウロはこの世の基準では貧しくとも、神の恵みにおいては豊かでした。キリストの僕は、自分の持ち物で人を富ませるのではありません。自分が神から受けた恵みによって人を慰め励ますのです。わたしたちが神と結びついている限り、この世界のものはすべてわたしたちのものであります。神は必ず、働き人のために必要なすべてのものを与えてくださるのです。

 使徒職の根源に福音があります。神の証人を生かし支持する圧倒的なキリストの恵みがあります。ただその根底からのみ、勝利が、自由が、光栄が、湧き溢れます。

 パウロは、「左右の手に義の武器」を持っていると言います。「信仰によって義とされる」という表現が、新約聖書で最も重要な言葉のうちに含まれます。それは、キリストが私たちのために十字架で死んで下さった、それが私たちの罪をぬぐい去るためであったと素朴に信じるだけで、神は私たちの過去の罪をないものとして扱って下さり、私たちが、驚くべきことに、神の前でも正しいとみなして下さるということなのです。「義の武器」とは、神を信じる者を義として下さるということこそが、人々のほめる言葉やそしる言葉から自分を守る戦いの武器となるのです。人が自分のことをどのように評価しようとも、神はこんな自分を信仰によって受け入れて下さっている。これによって、パウロは、人々のほめる言葉や謗(そし)る言葉からは自由二生きることができたのです。パウロのキリストの僕としての生き方から、わたしたちも学びたいと思います。

 

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「真理の柱である、生ける神の教会」

2018-07-08 00:51:40 | キリスト教

            ↑ アルテミス神殿の想像図  アルテミス神殿は、現在のトルコ共和国の港町イズミルから南に50kmほど離れたところにあった古代都市エフェソスに建っていた、総大理石の神殿。世界の七不思議のひとつに挙げられているが、現在は原形をとどめていない。    ↓ 現在の遺構。

        

   アルテミス神殿の遺構   アルテミスの女神  アルテミスの大女神

         断片を重ねた円柱              エフェス博物館   国立考古博物館(ナポリ)      

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

   日本キリスト教 富 谷 教 会    週 報

 年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

      聖霊降臨節第8主日  2018年7月8日(日)     午後5時~5時50分 

     礼 拝 順 序

                司会 田中 恵子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 227(主の真理(まこと)は)

交読詩編  119篇129~136節(主よ、あなたは正しく)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)テモテへの手紙一、3章14~16節(p.386)

説  教     「真理の柱である、生ける神の教会」  辺見宗邦牧師

祈 祷                

讃美歌(21) 403(聞けよ、愛と真理の)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

                            次週礼拝 7月15日(日) 午後5時~5時50分

                              聖書 コリントの信徒への手紙二、6章1~10節

                            説教題  「神による完全な武器」

                            讃美歌(21) 497 411 24 交読詩編18篇

       本日の聖書 テモテへの手紙一、3章14~16節     

  3:14わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています。 15行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。 16信心の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、キリストは肉において現れ、“霊”において義とされ、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。

本日の説教

 「テモテへの手紙一」の差出人は1章1節の挨拶にあるように、使徒パウロとあります。使徒パウロの書とされているのは、新約聖書の目次によると、「ロ―マの信徒への手紙」から「フィレモンへの手紙」に至る13通の手紙です。

 「テモテへの手紙一」、「テモテへの手紙二」と「テトスへの手紙」の三通は、「牧会書簡」と呼ばれています。他の手紙は教会宛てに書かれているのに対して、この三通は、個々の牧会者に宛てられており、牧会者としての働きを指導するために書かれたものだからです。パウロの伝記的な個人的記述があります。牧会書簡はパウロの投獄、殉教以後の変化した状況、再臨への期待が薄らぎ、異端の脅威の増大の中におかれたパウロの伝統に立つ教会の文書です。牧会書簡は二世紀初期の著作で、エフェソを含む小アジア(現在のトルコ)で成立したと推定されています。

「テモテへの手紙一」の宛先人のテモテは、パウロの弟子であり、パウロの伝道旅行の同行者であり、また宣教の同労者でもあります。パウロはテモテを、「わたしの愛する子で、主において忠実な者であり、至るところのすべての教会でわたしが教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれているわたしに生き方を、あなたがたに思い起させることでしよう」(コリント一、4・17)と紹介しています。テモテは宣教と指導の務めを託されてパウロのもとから諸教会に派遣されています。

  「テモテの手紙一」の執筆の目的は、「わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています。行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です」(3・14~15)と明確に述べられています。

 「テモテの手紙一」の1章3~4節によると、パウロはエフェソを離れてマケドニヤ州へ出発するときに、テモテをエフェソに残し、異端に対処するように命じたと書かれています。しかし、このような事情はパウロの真正の手紙にも、使徒言行録にも記されていません。これはパウロの使徒的権威をこの手紙に与えるための文学的手法であろうと思われます。

 1章3節以下11節までは、福音と異なる教え(異端)についての警告です。律法と福音を区別しています。12節から17節までは、パウロの回心と使徒としての召命について語られ、イエスにおいて現された神の絶大な愛の証です。キリストへの感謝で始まり、神への頌栄で終わっています。18節から19節にかけては、テモテに対し、異端から教会を守る戦いの中で、任職の時の預言を支えとし、教会的信仰と正しい良心とを持って、雄々しく戦いなさいと命じています。20節の「ヒメナイとアレクサンドロ」の二人は、牧会書簡成立時に活動していた異端グル―プの指導的人物であったと考えられます。彼らの処罰はパウロの名により使徒的権威をもって行われました。

  2章1節から3章6節には、著者の重視する教会の秩序の維持にたいする、テモテによって代表される教会指導者たちに対する教会指導の手引きです。最初にすべての人のための祈り(1節)、次に支配者たちのための祈り(2節)が勧められています。3~7節は、1節の勧めの根拠を示します。教会は内外から圧迫されて厳しい状況に置かれても、この世に対して閉鎖的でも妥協的でもなく、開かれていなければなりません。それは礼拝においてすべての人のための祈りとなって表されます。祈りについて基本的な勧めがなされた後に細かい具体的な注意が与えられます(8~15節)。男女別々に扱われているのは、教会の集まりにおける役割と危険がそれぞれ異なるとの考えからです。

 3章1~13節は、「監督の資格」と「奉仕者の資格」について述べます。初代教会は使徒を中心とする単純な組織でしたが、教会の発展につれて、役職の分化が生じてきたのです。監督(エピスコポス)は現代で言えば牧師にあたります。その基本的な役割は教えることです。「監督は、円満な人格と品位を保つことが望まれています。忠実な結婚生活を営み、自分の家をよく治め、金銭に執着せず、親切で思いやり深くあれと言われています。牧師の最大要件は完全であることではなく、キリストに根ざした愛です。                                                        奉仕者(デイアコノス)は元々、教会内の貧しい人や病人への奉仕をするものでした。現代で言えば、教会の代表役員にあたる指導者です。彼らもまた品位を持つ者であることが求められます。監督も奉仕者も仕える仕事です。人はキリストへの感謝なしに他者に仕えることはできません。神が人となって下さった。私たちの罪のために死んで下さった。このことだけが人が人に仕えることを可能にするのです。

 今日の聖書の箇所、3章14~16節は、小見出しにもあるように「信心の秘められた真理」について述べています。

 「わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています。」(3章14節)

 パウロとテモテはエフェソで一緒に活動したが、パウロはやがてマケドニアに出発し、テモテは異端から教会を守るためにエフェソに留まっています(1・3)。しかし執筆当時のパウロは、エフェソの諸問題を解決するために、すぐにもまたエフェソに行きたいと思いながら、この手紙を書いているのです。14節は、この手紙を使徒パウロの指示として読ませるためのものと思われます。

 「行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。」(3章15節)

 しかし、彼が書いている時、自分のエフェソ行きは遅れるだろう察知したのです。そして、この手紙の意図を端的に述べます。「神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたい」ためにこの手紙を書いていることを。その生活とは、神の家での礼拝、説教、教え、組織化、そして道徳的生活です。

 信じている者の集まりである教会は、「神の家」、神の家族です。教会(エクレシア)は、建物ではなく、神によって招かれ、キリストを信じている人々の集まりです。続いてパウロは教会を「真理の柱であり土台>である建物にたとえています。柱と土台の両方とも、真理の証人としての教会の機能をさしています。<真理>とは、神が人間にキリストによって啓示された真理です。<生ける神>は、旧約聖書では死せる偶像と対照的に用いられています。救いを与え、命を与える故に生ける神と呼ばれています。教会はキリストによって示された真理を柱とし、土台とする、生ける神の教会です。教会は神が建て、所有し、臨在され、神の力によって支えられているのです。

 「信心の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、キリストは肉において現れ、“霊”において義とされ、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」(3章16節)

 キリストによって啓示された真理を、「信心の秘められた真理」と言っています。<信心>は、神への畏敬とそれにふさわしい生活態度を指します。<信心の秘められた真理>とは、3章9節の「清い良心の中に信仰の秘められた真理を持っている人でなければなりません」とあるように、キリストは信心者に啓示された神秘であり、その真理は現に啓示されたが、以前として秘められたものです。「実に信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」ものであり、聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」とは言えないのです。

 その秘められた真理が、確かに偉大であることを、初代教会のキリスト者たちがその中に彼らの信仰をあかししている讃美歌の引用によって示します。

 第一に、<キリストは肉において現れた(「彼は体で現れた」)>。神は人間として現れ、見られるようになり、われわれの人間の形で、われわれのひとりとして人間性をとられました(テモテ二、1・10、ヨハネ1・14)。受肉は救いの歴史のための比類のない新しい始まりです。

 次に、<彼は霊において義とされ>ました。彼は、聖霊により、正しさを立証され、とくにその復活により正当化されたのです。聖霊は、彼が御子であることを証明しました。イエスの洗礼に臨み、彼の職務に力を注ぎました。その同じ聖霊が、最後には彼を死者の中から復活させることによって、彼の正しさを立証したのです(ペトロ一、3・18)。彼は、「聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです」(ローマ1・4)。これらの節に、キリストが真の神であり、また真の人であることが宣言されています。

 この讃美歌の第三節は、現代的視点からは奇妙に見えます。キリストの地上における働きは、見えざる天使たちにより見守られたのです。この讃美歌によれば、受肉によって、人間同様、天使たちも肉体になった神を見ることができたのです。これらの天使たち(神に奉仕する霊)は、この誕生を讃え歌い、彼の誘惑の時に仕え、彼の墓を守り、彼の昇天を証明し、そして彼の帰ってこられるのを待ち望んだのです(エフェソ3・10)。これは実に神秘です。それゆえ、われわれは「神秘にふさわしく生きるように」招かれているのです。

 彼はさまざまの国で宣べ伝えられました。彼はいまやエルサレムから地の果てまでも宣べ伝えられてきています。良い知らせは世界中で信じられるようになりました(16節b)。この宣教の結果は信仰の生きた共同体(教会)により立証されているのです。

 最後には、彼は「栄光のうちに上げられた」。彼は到来し、彼の宣教の職務を果たし、死んだ死者の中からの復活させられ、天に上げられ、父の栄光に迎えられたのです。このようなことは、わたしたちの信仰の神秘であり、われわれの救いの啓示された秘義であります(詩篇19・2、ローマ16・25)。

 この手紙が送られたエフェソ(トルコのエフェス)には、紀元前7世紀から紀元3世紀にかけて存在した、世界の七不思議の一つに挙げられている、壮大で壮麗な異教のアルテミス神殿がありました。柱や土台も、全体が総大理石の神殿で、豊穣をもたらすアルテミスの大女神像が祀られていました。その壮麗さは多くの礼拝者もひきつけ、アルテミス崇拝を形成しました。パウロはこの異教の大神殿に比べて、エフェソに誕生した家の教会は、規模こそ小さいが、「真理の柱をもつ生ける神の教会」であることを信徒に知らせ、人を救う真理の福音は教会にあることを説き、信心深く、敬虔に生きるよう勧め、神の望む民となるように指導したのではないでしょうか。アルテミス神殿は、何度か崩壊と再建を繰り替えしたが、紀元3世紀頃には、エフェソスの人々の大多数はキリスト教に改宗し、アルテミス神殿はその魅力を失った。こうして、キリスト教徒によって神殿は完全に破壊されてしまった。その残骸の石は他の建物に使われ、神殿の跡地にはキリスト教の教会が建ちました。現在のトルコ共和国の人種はトルコ人80.0%、クルド人20.0%で、宗教別では イスラム教99.8%を占めています。キリスト教徒はごく少数です。

 

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「愛に生きるキリスト者の自由」 ガラテヤの信徒への手紙5章1~11節

2018-07-01 16:03:18 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

日本キリスト教 富 谷 教 会   週 報

 年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

  聖霊降臨節第7主日 2018年7月1日(日)    午後5時~5時50分 

     礼 拝 順 序

                司会 田中 恵子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 141(主よ、わが助けよ)

交読詩編   52(力ある者よ、なぜ悪事を誇るのか)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)ガラテヤの信徒への手紙5章1~11節(p.349)

説  教   「愛に生きるキリスト者の自由」  辺見宗邦牧師

祈 祷                

讃美歌(21) 394(信仰うけつぎ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

          次週礼拝 7月8日(日) 午後5時~5時50分

           聖書 テモテへの手紙一、3章14~16節

           説教題  「神からの真理」

           讃美歌(21) 227 403 24 交読詩編119篇

    本日の聖書 ガラテヤの信徒への手紙5章2~11節     

5:1この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。2ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。 3割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。 4律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。 5わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。 6キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。

  7あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。 8このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。 9わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。 10あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。 11兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。

   本日の説教

 「ガラテヤの信徒」へ宛てた使徒パウロの手紙ですが、「ガラテヤ」は、ガラテヤ人が住み着いた地域、現在のトルコ共和国の内陸中央部にある首都アンカラを中心とする周辺一帯を指す地名でもあり(北ガラテヤ説)、またローマの属州とされた地域、従来のガラテヤ人定住地にフリギヤ、ピシディア、リカオニアといった南部地方を合わせた地域を指す場合(南ガラテヤ説)と、二つの説があります。今日の学会では北ガラテヤ説が有力視されています。

   

   

  「北ガラテヤ説」によれば、この手紙は、第三回伝道旅行中、おそらくエフェソに二年間滞在していた時(紀元53~54年頃)に書かれたと推定されています。使徒言行録18・23に「パウロは…ガラテヤやフリギアの地方を次々と巡回し」とあり、16・6にも、「彼らは…フリギア・ガラテヤ地方を通って行った」と、フリギアとガラテヤが併記されているからです。この場合のガラテヤは地方のガラテヤのことであり、北部ガラテヤを指すとしか考えられないからです。

  この手紙を書いた執筆の動機は、パウロがガラテヤの諸教会を立ち去った後にやって来たユダヤ人キリスト者に惑わされて、信徒たちが「真の福音」から離れて、ほかの福音に移っていく重大な事態が生じたからです(ガラテヤ1・6)。

  ユダヤ人キリスト者の教師たちは異邦人キリスト者に律法、ことに割礼の遵守を迫りました。彼らは教会を乱し、パウロの使徒職を疑問視し、パウロとパウロの教えを排除しようとしました。パウロにとって、彼らのそのような言動を放っておくことはできません。彼らの教えは福音が与える「律法からの自由」を失い、キリストの十字架の死によって成し遂げられた救いの業を無意味にし、「キリストの福音」そのものをユダヤ教に換えてしまうことに他なりません。

 そこでパウロは、福音とは何であるかを説明します。彼は先ず、自分が説く福音は、キリストの啓示にもとづくものであり、エルサレムの使徒から受けたのではなく、独自のものであることを、具体的な事実により主張します(1・11~2・21)。こうしてパウロは、自己の回心と召命の事実を語り、エルサレムの使徒たちと対等の立場にある、キリストによって選ばれた使徒であることを宣言します。次いで、すべての人は律法の行いによるのではなく、救い主キリストを信じる信仰によって救われるという「信仰義認」を説きます(2・15~

21)。

 パウロはユダヤ人の父祖アブラハムを諸民族の「祝福の源」として神が選んだのは、神は初めから罪人を信仰によって義と認める計画を立てていたからだと説きます。神がユダヤ人にモーセを通して律法を授けたのは、アブラハムから430年後のことであり、それは人が律法を行おうとして罪の意識と自覚を与えるためであり、キリストの救いに導く養育係りの役目を果たすためである(3章6~25)、と説きます。

 罪に支配されている人間は、神の律法を完全に守ることができません。(律法はキリストが山上の説教で教えたように、罪ある人間にとっては実行不可能な戒律です。)罪人が聖なる神との交わりを回復する救いの道は、キリストの十字架の死によるあがないと、罪と死に勝利した復活による救いを信じることによって開かれます。キリストを信じて神との交わりを回復した者は、神の子とされ、御子キリストの聖霊を受けます。人を律法の呪いから贖い出して、信じる者に御霊を与えて、神との生ける交わりのうちに歩む新しい生活へと導く入れることが出来るのは、十字架と復活のキリスト、この福音のみです。人はキリストを信じる信仰によってのみ、神によって義と認められ、神の子として受け入れられ、聖なる神との交わるにあずかることが出来るのです。このようにパウロは福音について教え、説いたのです。

 パウロの反対者たちは、パウロの福音は律法の行いを無視し、無律法主義の危険を招くと批判しました。このような非難や疑問に答えたのがガラテヤの手紙5章以下です。

 「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」(5・1)

 キリストのあがないの業によってもたらされた存在と生き方の百八十度の転換―「古い契約のもとにおける律法への隷属」から「神の新しい約束に基ずく自由」への転換、<この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。<だから、しっかり立ちなさい>とパウロは勧めます。ここにはガラテヤ書全体の中心テーマとその説明の要約が見られます。これは有名なパウロの「自由」についての言葉です。

「ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。」(5・2)

 パウロは、これまで<自分の福音>と<ほかの福音>、また「律法」と「信仰」について「あれか、これか」の二者択一を論じたが、その同じ「あれか、これか」を今度は「割礼(次節以下から知られるように、結局は律法のことです)」と「キリスト」という形で掲げます。しかし、内容からすれば、すでに2・15以下の段落の結論として述べられた2・21-(もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます>と全く重なり合う主張です。

 「割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。」(5・3)

 パウロにとって、問題となっている「あれか、これか」にはいかなる妥協の余地もなく、中間的立場も認められません。そのことをパウロは、<そういう人(割礼を受ける人すべて)は、律法全体を行う義務があるのです>と言い表します。とこで、この発言は<割礼を受ける人すべて>に対する再度の警告という形をとっているが、ここはユダヤ化主義者に惑わされて<割礼を受けようとしている>異邦人キリスト者に対して、脅かしとも響く警告がなされています。

 「律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。」(5・4)

 4節は、2節の主張の反復です。しかし、「割礼を受けようとすること」が「律法によって義とされること」と同じに見做されています。律法をよりどころにするならば、<キリストとは縁もゆかりもない者>とされます。「救い」は、人間の行為によらず、キリストを通じて神から与えられる恵みです。しかし、この神の救いの恵みは、<棚からぼた餅>式に人間が何もしなくても良いのではありません。いただいた神の恵みを失うことのないように、やがて本格的に展開される倫理的教え(勧告)も人間側に「行うことができ、また行うべきこと」を前提としているのです。

 「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。」(5・5)

 <わたしたち>は、「あなたがた」も含めて「キリスト者である人ならすべて」を意味するものと解されます。パウロは、ガラテヤの人々をもはやキリスト者でないなどとは決して考えていません。キリスト者となった人は、信仰と洗礼によって既に「義とされた者―神とのあるべき関係にある者」とされているが、そのことはこの世においてまだ決定的でも不変的でもなく(その証拠として、罪による神からの離反で失うことになる)、終末において初めて完全に実現し、確立します。それは単なる主観的な願いや夢想によるものではなく、<霊により、信仰に基ずく>客観性に支えられたものです。

「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」(5・6)

 <割礼の有無が問題ではない>とは、割礼、したがってまた律法全体が救いのためには、もはや何の役にも立たなく、よりどころでありえないということであるからです。律法の遵守が無意味だとするなら、キリスト者の生活は無軌道、無規律であってよいのでしょうか。当然予想されるこの反問に対しパウロは、<愛に実践を伴う(愛によって働く)信仰こそ大切です>と答えます。「愛によって働く」は、「愛を通じて働く」、つまり「愛から生じるのではなく、愛の働きという形で現れる」の意味です。「信仰」こそ「愛」の原因・源であり、そして「愛」は「信仰」の証しなのです。

 「あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。」(5・7-8)

 パウロはキリスト者の生活をしばしば競争にたとえています。ここでは特にガラテヤの人々がパウロのもたらした福音に忠実に従って信仰生活を送っていたことを意味します。パウロがそのように好ましいものであった過去を彼らに思い起させるのは、好ましいものでない現状を指摘するためです。<それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わせないようにさせたのですか>。パウロはその責任を直接にはガラテヤの信者たちに帰せず、扇動者に帰しています。

 「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。」(5・9)

 パウロは「邪魔する者」の誤った教えや説得を<パン種>にたとえて、それがガラテヤの教会全体を次第にむしばむことになる危険を指摘します。

 「あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。」(5・10)

 パウロは、ガラテヤの信者の現状を憂うべきものとみなしはしても、彼らに対する信頼を失ってはいないと断言します。しかし、パウロの「信頼」は単なる主観的心情ではなく、<主をよりどころとして>の客観性に裏付けられた確信です。扇動者に対してあからさまに非難を投げかけています。この言う「裁き」とは、世の終わりにおける神の裁きー<最後の審判>のことです。

 「兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。」(5・11)

 パウロは「自分は彼らとは違って、割礼の必要を宣べ伝えたりはしていない」と主張します。そして、その証拠として<今もなお迫害を受けている>事実を持ち出します。<今なお割礼を宣べ伝えているとするならば>、迫害されるはずがないからです。<十字架>が<つまずき>なのは、ユダヤ人を意識しての発言です。ユダヤ人にとって、極悪人の死刑具である「十字架」は、忌むべきものであり、。その上で命を落とした者は「呪われた者」であり、結局、彼らはキリストにつまずいたのです。しかし、パウロにとって正にこの「十字架」の上で殺され、「呪われた者」となったキリストに対する信仰こそ、人間が救われるための唯一の道なのです。それゆえに、彼が宣教するものはもはや割礼ではなく、「十字架につけられたキリスト」以外の何ものでもありません。

 パウロの自由は、きびしい現実を逃れることによって保たれる自由ではなく、あえて迫害覚悟で真理を守り抜き、実現していく愛に生きる自由です。「自由」というと、社会的・政治的自由を考える人が多いと思いますが、パウロがここで述べているのは、いわゆる内面的・宗教的自由です。どこまでも主体的に愛に生きるの自由です。社会的、政治的自由の実現のためにも、愛に生きる自由が不可欠なのです。

 人は他人に気兼ねすることなく、自分のしたい通りのことができる自由を求めがちです。人は自己愛が中心にあり、自分と同じように自分以外の人を愛すことができません。それゆえ、この自由は日常生活のわずらわしさに倦み疲れて、孤立を求めることになります。

 しかし、パウロの説く自由、キリストの与える自由は、人を自己中心的な罪から解放し、神の愛と恵みを受け、自分の力や努力によってではなく、聖霊の働きを受け、隣人をも積極的に愛すことのできる自由を与えられるのです。

 この世の基準(律法)を手掛かりにして、他者との差をつけ、努力の末、自らの救いを達成しようとする生き方は、一種のエゴイズムであり、隣人は視野から消えます。この世の基準(律法)からの解放と自由とは、自己追及の欲望にふくれ上がった旧い自己からの解放される自由でもあります。キリストにある自由、キリストと共に生きる自由、聖霊の恵みを体感した者こそが、この支配と管理の、差別と偏見のみちている社会、真の愛、神の愛に渇いて意いる世にあって、あきらめることなく、愛に生きるキリスト者の自由に、希望をもって生き続けることが出来るのです。

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