富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「教えるキリストー律法について」 マタイによる福音書5章17-20節

2021-01-31 01:54:20 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

降誕節第6主日  2021年1月31日(日)     午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

                      礼 拝 順 序

                   司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 151(主をほめたたえよ)

交読詩編   119篇33-40(主よ、あなたの掟に従う道を示してください)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書5章17-20節(新p.7)

説  教  「教えるキリストー律法について」辺見宗邦牧師

祈 祷                                            

讃美歌(21) 536(み恵みを受けた今は)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                  次週礼拝  2月7日(日)午後5時~5時50分    

                  聖 書  マタイによる福音書7章13-14節

                  説教題  「狭い門から入りなさい」

                  讃美歌(21)348 288 27 交読詩篇 103篇1-13節

             本日の聖書 マタイによる福音書5章17-20節

5:17「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。 18はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。 19だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。 20言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

本日の説教

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(5:17)

イエスの宣教は、その開始直後から、当時のユダヤ人をつまずかせるものでした。安息日に対するイエスの態度は、大きな問題となっていました(マタイ12:1-14、マルコ3:1-6参照)。ファリサイ派の人々は、安息日に関する律法を守らないイエスを、殺そうと相談したのです。

律法とは、神が人間に示された行動の基準です。神は律法をモーセに啓示されました。その中心となるのが十戒です(出エジプト記20:1-17、申命記5:1-22)ユダヤ人は旧約聖書の最初の五巻、創世記から申命記までを「律法」と呼んでいるが、特にレビ記と申命記には律法の細かい規定が記されています。神は律法により人間の真にあるべき姿を示し、正しい生き方をするように求められました。正しい生き方をする者には祝福を与え、正しい生き方をしない者には、のろいを与えると言われました(申命記27:26)。そして、律法の要求を完全に満たす者を、神は「義(正しさ)」、すなわち正しい者と認められたのです。

 しかし、どのように律法を守るかに関しては、律法学者やファリサイ派の人々とイエスのとの間には大きなへだたりがありました。律法学者やファリサイ派の人々は、律法の基本精神を忘れて、表面的な文字にこだわり、表面だけ敬虔そうにふるまい、それらを厳格に守る努力をし、それによって神に義と認められていると自認していました。しかし、イエスは、もっと自分の心の中の罪のことを考え、それに対して厳格な態度で臨むことを求めておられるのです。そうするなら、自分が神の前で罪人であることが自然に明らかになってきます。それゆえイェスは、律法学者やファリサイ派の人々の自己満足を非難されたのです。そして神の前に自分の罪を認めて、心を貧しくし、謙虚になって神の憐れみを求めるべきであり、イエスを神から遣わされた救い主と信じて生まれ変わり、神の霊の支配の中に生きる神の民とされ、正しい生き方をするように、弟子たちや聴衆に教えられたのです。

主イエスは、「わたしが来たのは」と、ご自身が来られた目的を明らかにします。<来た>という言葉で、神のもとからこの地上に派遣されてやってきたことを表しています。<わたしが来たのは・・・・と思ってはならない>は、マタイ特有の文体で、同じ文型が10:34にも見られます。また<律法や預言者>という語句も、マタイに典型的な編集的表現です(7:12、11:13、22:40)。<律法や預言者>は、旧約聖書全体を指しています。「廃止するためだと思ってはならない」とは、聖書を軽んじ、無効なものだとして、廃止するために来たのではない、ということです。<思ってはならない>は誤解をしないようにという警告です。律法を<完成するためである>とは、神の本来の意図まで律法の求めを全うすることです。主イエスは、その生涯の歩みや十字架の死と復活を通して、律法の要求を満たし、律法を成し遂げられました。

主イエスの5章17~20節のことばは、21~28節で話そうとする律法解釈の導入の役割をしています。そこでは、これまでの律法解釈を否定するかのような表現、「昔の人は・・・と命じられている。しかし、わたしは言っておく」と、モーセの律法に対するユダヤ教の伝統的な解釈を御自分の主張と対立させ、律法の正しい解釈を教えます。

「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」(5:18)

主イエスは、17節のことばから、さらに踏み込んで、律法の権威を保証します。律法の文字から、「一点一画も消え去ることはない」の<一点>とは、へブル語の4分に1ほどの一番小さい文字「ヨッドי」のことです。【例語(אֱלֹהִ֑ים)エロヒーム(神)」。<一角>とは、レーシュרֶとヘイהָの文字の角を指します。右上角のわずかな違いによって、別の文字になります。【例語(הָאָֽרֶץ)ハーアレツ(地)】<一点一角も消え去ることはない>とは、律法の文字の小さな点や角の違いに至るまで、一字一句も消え去ることのない恒久的なものであることを強調しています。

「すべてのことが実現し、天地が消え失せるまで」とは、聖書の預言がすべて実現し、新天新地になる前、これまでの天地が滅び失せるまで、律法は存続し、永久的であることを意味しています。主イエスは、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(マタイ24:35)と宣言されています。この表現によると、イエスの言葉は天地が滅びても永遠に続くことになり、イエスの言葉は永続性だけでなく、永遠性まで含まれることになります。イエスの言葉は律法より権威がある、ということになります。

「だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。」(5:19)

掟を破る」とは、律法の個々の条項を破るという意味です。「最も小さな掟を一つでも破る者は、天国では最も小さい者と呼ばれ、それを守る者は、大いなる者と呼ばれる」の<呼ばれる>は、裁きの時に、神に呼ばれるという意味です。最後の審判のとき、神は律法を重んじる人を<大きい者>と見られ、祝福を与えられるということです。

 言うまでもなく、律法によって人は救われるのではありません。ただ神の恵みによって救われるのです。それは律法から解放されることでもあります。しかし主イエスに従う者は、律法を軽んじたり、無視しても良い、ということではありません。律法は救いの条件ではありませんが、神の御意志を示すものであり、神が私たちに命じておられる戒めなのです。さらに律法は主イエスが実行され完成された意義あるものです。

「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」(5:20)

17-19節では、律法がなお継続的に効力をもつことを述べ、それを遵守すべきことが主張されているが、20節では<義>がテーマ(主題)となります。そして19節では掟を破る者も、小さい者として天の国に入ることが認められているのに、20節ではそのような者は全く天の国から排除されると言っています。この違いは、17-19節の中核は、ユダヤ教的な律法を擁護する伝承から取り入れたものであり、それを囲む17と20節は、編集的に形成されたマタイの文章です。こうして彼は、一方でユダヤ教正統派を任ずる者たちとはっきり距離をおきつつ、他方、キリストの到来によって律法はすでに廃棄され有効性を失ったと主張する者たち――マタイの教会内に、そのように主張するグループがあった――に、鋭い批判を加えます。律法を無視する者に対して明白に反対を述べるが、しかしそれはユダヤ教への回帰を志向するのではなく、ユダヤ教徒たち以上の<義>を要求する言葉となり、律法を超える新しい教え(5:21以下)の提示となります。

主イエスは、ご自分の権威をもって、<言っておくが>と言われます。主イエスに従う民、キリスト者の義は律法学者やファリサイ派の人々の義にまさったいなければならないと言われます。当時、<律法学者>の役割は、主に律法を教えることと、裁判を執り行うことでした。一方、<ファリサイ派の人々>は、律法を厳密に守ろうとする宗教グループです。律法を守ることによって神に受け入れられようとして彼らの努力は、筆舌に尽くし難いものでした。<彼らの義にまさる義>とは、どのようなものでしょうか。

<天国に入ることが出来る義>は、律法の一つ一つの条項を守ることによって得られる義ではありません。それは、5章21-48において明らかにされた主イエスの教えた義であり、「天の父が完全」であるように「完全な者」としての義です。あるいは、6章1-18において勧められている宗教的善行です。さらに6章20-7章11で展開される、神に信頼する歩みのことです。そして、それらの一切は、7章12節に集約されている黄金律と言われる戒めです。それは<律法と預言者>を包括する戒めであり、同時にこの説教においてイエスが語る具体的な命令のまとめです。つまり旧約の教えは、<人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい>という愛の戒めに要約されるものであり、主イエスが完成しようとするのも、これに他なりません。この理解は22:40の言葉によって強化されます。そこでは<律法全体と預言者>は愛に<基づいている>と言われています。マタイにおいては愛から律法のすべてが導き出されます。

したがって、5章20節において、キリスト者の義がファリサイ派や律法学者にまさるものでなければならないと言うとき、それは律法の基礎であり要約である「愛」の行為が問題となっているのです。律法の根底にあるこの神の御心は新たに<完成>されなければなりません。

イエスが要求された義は、人間の力で実現できるものではありません。人は律法の行いによっては義とされません。主イエス・キリストの、わたしたちの罪をあがなうための身代わりの死によって、わたしたちの罪が赦されました。私たちに与えられた義は、主イエス・キリストの十字架と復活によって神様が与えて下さった義です。義(正しさ)とは神の属性の一つであり、神が御国の民に与えられるものです。人間が自ら獲得するようなものではありません。主イエスの十字架と復活にあずかって新しく生れた者が、神から賜る聖霊によって神の御心をこの地上において実現するようにするために、この世に来られたのです。それが主イエスがなされた律法の完成なのです。

 天の国を与えられる人については、あの八つの幸いの教えで語られています。「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」と。心の貧しい人というのは、自分の中に豊かさ、正しさ、誇るべきものを何も持っていない、自分の義において徹底的に貧しい者です。そういう人は、神が与えて下さる義によりすがるしかないのです。天の国、神様の恵みのご支配は、そのような者にこそ与えられるのです。

私たちがよい行いに励むのは、主イエス・キリストの十字架と復活によって与えられた、罪の赦しと死への勝利の恵み、その神様からの義にあずかり、父なる神様の子として生きることを赦された者として、その無償の愛(アガペー)・無償の恵みに応え、神を愛し、隣人を愛すのです。神は何かの利益を得るために私たちを愛され、恵みを与えてくださるのではありません。

「天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」、「最も小さな掟を1つでも破る者は天の国で最も小さい者と呼ばれる」(マタ5・18-19)の記事は、福音書記者マタイが、ユダヤ教的な律法を擁護する伝承から取り入れたものであることを伝えました。イエスが律法擁護者であることが記されています。パウロも、「律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです」(ローマ7:11)と言っています。

 では、マタイはモーセ律法の規定を細部に至るまで、たとえばレビ記の献げ物の小さい規定まで全部文字通りに遵守するように、彼の教会の信徒に求めているのでしょうか。そのようなことを求めていないことは、マタイ福音書を一読すれば明かです。マタイにとっても、「律法を守る」とはモーセ律法の正しい解釈と、生活の中での実行であったはずです。  

イエスは弟子に「安息日」に仕事を休ませていません。それを、ファリサイ派の人たちが咎めると、イエスは「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」(マコ2・23)と答えています。ファリサイ派の人々にとっては、容認できない出来事でした。イエスは律法遵守だが厳守とは言えません。「律法」には「十戒以外に、神がモーセに口述したと言われる600 以上の諸規定」が含まれています。民衆にとっては「背負いきれない」ほどの掟です。この「律法」をイエスはもはや期限切れとも受け取れる、「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである」(マタ11・13)と言われています。イエスは「律法」に強い不信、懸念、懐疑があったことは確かです。

ユダヤには「律法」を守るための人為的規則「昔の人の言い伝え」である<食前の手洗い>の件でも、イエスは弟子たちに厳守の立場をとらせていないし(マタイ15・2)、「断食」も励行させていません(マタイ9・14)。こうした行為はユダヤ教支配者をいら立たせることになるが、イエスは妥協せず、鋭く対立しました。パウロはイエス・キリストを「律法」の上に位置づけています。キリストに結ばれた今は、「わたしたちは、自分を縛ったいた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、霊に従う新しい生き方で(復活されたキリストに)仕えるようになったのです。」(ローマ7・6)と言っています。。

割礼の規定は、創世記17章9-14、レビ記12:3に記されています。しかしパウロは、「割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みを失います。わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、霊により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」(ガラテヤ5:3-6)と述べています。

キリストに結ばれている者は、律法全体を行う義務から解放されています。主イエスは、律法全体と預言書(すなわち旧約聖書)は、「あなたの神である主を愛すこと。隣人を自分のように愛すこと。この二つに基づいている」(マタイ22:37-40)と教えています。パウロも、主イエスの言葉を受けて、「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされる」(ガラテヤ5:14)、「愛は律法を全うするものです」(ローマ13:10)と教えています。

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「信仰の戦い、金持ちは良い行いに富みなさい」 テモテへの手紙一、6章11~21節

2021-01-21 18:37:34 | キリスト教

            「信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。」       (テモテへの手紙一、6章6節)   あなたに与えられている日を楽しみなさい!

(信心があって足ることを知るのは大いなる利得です。信心は人間に平静さと自足をもたらし、さらに永遠の命を約束するゆえに大いに益があります。)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

降誕節第5主日  2021年1月24日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

    礼 拝 順 序

                 司会 齋藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 288(恵みにかがやき)

交読詩編     2(なにゆえ、国々は騒ぎ立ち)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)テモテへの手紙一、6章11~21節(新p.12)

説  教      「信仰の戦いー金持ちは良い行いに富みなさい」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                            

讃美歌(21) 536(み恵みを受けた今は)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

             次週礼拝  1月24日(日)午後5時~5時50分    

             聖 書  マタイによる福音書5章17-20節

             説教題  「教えるキリスト-律法について」

             讃美歌(21) 151 449 27 交読詩篇 119篇9-11節

本日の聖書 テモテへの手紙一、6章11~21節

6:11しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。 12信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。 13万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。 14わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。 15神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、 16唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。 17この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。 18善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。 19真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くようにと。20テモテ、あなたにゆだねられているものを守り、俗悪な無駄話と、不当にも知識と呼ばれている反対論とを避けなさい。 21その知識を鼻にかけ、信仰の道を踏み外してしまった者もいます。恵みがあなたがたと共にあるように。

   本日の説教

「テモテへの手紙一」、「テモテへの手紙二」と「テトスへの手紙」の三通は、「牧会書簡」と呼ばれています。この三通が個々の牧会者に宛てられた手紙であるのを明らかにするためです。牧会書簡は、読者が信徒であれ、聖職者であれ、教会をいかに配慮するかということを教えています。牧会書簡は、信徒が健全であるのに欠かせない重大な問いー祈りの生活、公同の礼拝式の意味、援助を必要とする貧しい人々のための配慮、聖なる生活の土台である正しい教えーを書き記しています。

6章の11節から16節は、信仰の立派な戦いの勧めです。これはテモテによって代表される教職者たちと教会への勧告です。

「しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。」(6:11)

<神の人>は、旧約聖書では、「神の使者」、「神の僕」のことですが、ここでは教職者を指します。<これらのこと>は金銭欲だけではなく、この手紙で警告されたすべてのことです。<信心>は神への畏敬とそれにふさわしい態度や生活を指します。神の人は、これらの、実りのない、つまらない口論を避け、出来る限り、災いの元になる人々との間に距離を置くように勧めます。次に<義と信心と信仰と愛と忍耐と柔和>とを追い求めなさい、と勧めます。

「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。」(6:12)

<信仰の戦い>は異端との戦いとも、一般的にこの世の悪との戦いともとれます。<多くの証人の前での信仰の立派な表明>は、洗礼と任職式(按手礼)の両方を指しています。

パウロは<信仰の戦いを立派に戦い抜きなさい>と勧めます。パウロは、テモテへの第二の手紙4:7で<わたしは戦いをりっぱに戦いぬき>と言った時、彼は正義のために戦いに参戦し、イエス・キリストの良き兵卒として自分を捧げたことを意味しています。彼はテモテに同じことを命じていたのでしょう。教職者はイエス・キリストのために自分を捧げつくすべきです。そのようにして彼は永遠の命を獲得すべきです。彼は<多くの証人の前で立派な信仰を証明した時、そのために召され、その戦に参戦したのです。この戦いに召されたのは神なのです。パウロはテモテに、神の召しに応え、「永遠の命を手に入れなさい」と勧めます。

「万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。」(6:13)

 13節は神とキリストに関する発言からなる古い信仰告白定式が用いられています。<万物に命をお与えになる神>という言葉で最初の創造と新しい創造(救済)が考えられています。<立派な宣言によって証しをなさった>、は12節の<立派に信仰を表明した>に並行します。教会の職務は、あらゆるもの創造者である方の御前とポンティオ・ピラトの前で証しをされたイエス・キリスト(マルコ15:2)の御前で、厳かに引き受けられなければなりません。

「わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。」(6:14)

<再び来られるときまで>は直訳すると、「現われまで」で、キリストの再臨を指します。<おちどなく、非難されないように>は「異端に汚されないように」の意。<この掟>はむしろ「その戒め」の意味です。洗礼式、また任職式の際に与えられた信仰と生活の教え全体を指します。テモテは、厳かに「おちどなく、非難されないように、この掟を守るように勧められています。

「神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。」(6:15-16)

 キリストの再臨は、神によって<定められた時に>実現します。パウロは神をほめたたえます。頌栄に現れる神の一連の称号はユダヤ教の会堂から教会に取り入れられたものです。

神のみが祝福に満ちた唯一の方であることが強調され、他の神的権威(異教の神々、皇帝)などに対して神の唯一の主権者であることが主張されています。神のみが不死の存在、罪ある者にはあまりにもまぶしすぎ、近寄り難い方である。この神に<誉れと永遠の支配があるように、アーメン、と讃美します。

【<王の王、主の主>は、申命記10:17、詩篇136:3参照。キリストについては黙示録17:14参照。<唯一の神>は申命記6:4参照)<近寄り難い光の中に住まわれる方>は詩篇104篇2節参照)<だれい取・・・・見ることのできない方>は、出エジプト記33:20、ヨハネ1:18参照。】

 6章9節-10節では、<金持ちになろうとする者>の金銭欲のもたらす害悪が述べられました。その欲望は<誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥り>、人を破滅に陥れてしまいます。<金銭の欲は、すべての悪の根です>。金銭欲のゆえに信仰から脱落し、さまざまの精神的苦痛(幻滅、良心の呵責(かしゃく)、死後の不安など)に悩まされている者たちがいることが伝えられました。

「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」(6:17)

6章17-19節は富んでいる者への勧めです。富そのものが拒否されているわけではないが、富者の陥りやすい危険が指摘されます。富者の最も陥りやすい危険は富のゆえの高慢と富による希望です。富ではなく、神のみが希望の真の根拠です。過ぎ去らない唯一の方、人間に必要なものをすべて惜しみなく豊かに与えて、<楽しませてくださる>神に信頼するように、金持ちを導かねばなりません。

「善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くようにと。」(6:18-19)

ここで推奨されているのは、援助を必要とする者たちに分配する分けあう喜び、物惜しみしないこと、そして自分自身の持てるものを他人に対する思いやりから与えようとする気前良さです。このような方法で、信仰深い者は、虫が食うことも、さび付くこともない宝(富)を天に積むことになるのです(参照マタイ6:20)。

 牧会者は、莫大な富を持つ人々を恐れる必要はなく、彼らが憐れみの業をなす機会を具体的に自覚するように、彼らに誠実に語り、「真の命を得るために」彼らの魂に配慮しなければなりません。しかしこの牧会書簡においても、救いは人間の良い業ではなく、神の恵みによって与えられるものであることが明確に言い表されています。テモテへの手紙二、1章9節に、「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのでなくご自身の計画と恵みによるものです。」とあります。

「テモテ、あなたにゆだねられているものを守り、俗悪な無駄話と、不当にも知識と呼ばれている反対論とを避けなさい。」(6:20)

テモテに対する最後の勧めです。<ゆだねられているもの>は、ここではパウロに由来する使徒的伝承であり、正しい教会の公同の信仰です。それを守るように請われています。それを守るのは、人の関心が<俗悪な無駄話しに>それていくような場合は困難です。。いたずらに防備しないで、静かにしているように奨励されています。

 「その知識を鼻にかけ、信仰の道を踏み外してしまった者もいます。恵みがあなたがたと共にあるように。」(6:21)

 絶対的な知識を持っているようで、その実、無知同様な知識を持ている人々を避けなさい。信仰を目指しながら、彼らは信仰の道を踏み外しているのです。このような無駄話が超一流の学問、超一流の神学であるかのようであっても、それを避けなさい。受け継いだ使徒的伝承、受け継いだイエスの言葉、そして初期のキリスト宣教に固く留まりなさい。福音の使信はテモテに、そして教会に委ねられました。その純粋さを守り、福音の力によって、それを宣べ伝えてゆかねばならないのです。

手紙の結びは祝祷です。恵みが<あなたがた>と共にあるように、と「あなたがた」いう複数形が用いられています。単純な執り成しの祈りですが、神の愛に満ちた幸いを求める祈りで終わっています。

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「『富は天に積みなさい』とは。」 マタイによる福音書6章19~21節

2021-01-15 20:56:13 | キリスト教

     「富は天に積みなさい。」マタイによる福音書6章20節。

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

降誕節第4主日 2021年1月17日(日)    午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

礼 拝 順 序

                    司会 齋藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 355(主をほめよ、わが心)

交読詩編    71(主よ、身もとに身を寄せます)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書6章19~21節(新p.12)

説  教   「『富は天に積みなさい』とは。」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                            

聖餐式    72(まごころもて)

讃美歌(21) 518(主にありてぞ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                 次週礼拝  1月24日(日)午後5時~5時50分    

                 聖 書  テモテへの手紙一、6章11~19節

                 説教題  「信仰の戦い」

                 讃美歌(21) 288 536 27 交読詩篇 2

  本日の聖書 マタイによる福音書6章19~21節

6:19「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。 20富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。 21あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。22体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、 23濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」 24「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

本日の説教

主イエスは、弟子たちや群衆に「あなたがたは(あなたのために)地上に富を積んではならない」と命じています。ここで言われている富は、原語では「セサウロス」というギリシャ語が用いられています。富、財産、宝、蓄え、を意味する語ですが、永遠に価値あるものではありません。

なぜ地上に富を積んではならないのか。理由は二つあります。一つは、地上にせっかく富を積んでも、「虫が食ったり、さび付いたりする」からです。「虫」は、衣服などをむしばむ虫を指しています。「さび」は金属などの腐食作用によるさびを指しています。もう一つの理由は、「盗人が忍び込んで」、せっかくためた富を盗んでしまう可能性があるからです。いずれも地上の富の移ろいやすさ、はかなさが指摘されています。

主イエスは、「富は、天に積みなさい」と言われます。天に積む富について、マタイは具体的に記していませんが、ルカ福音書には、「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れるこのない財布を作り、尽きるこのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」(ルカ12:33-34)とあります。施しをするにせよ、自分のためだけののために富を蓄えるのでなく、信仰にもとずく富の活用の必要性がここで示されています。

「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」と、富と心との相関関係の中に、地上における人間のあり方が示されます。人は、富を積んでいるところに心を寄せ、富を積もうとします。この二つは切り離すことができません。

主イエスは地上に富を積むことのむなしさを指摘し、天に富を積むことを求めました。「富」そのものが否定されてい」のではありません。富は神から与えられるものとして意味があります。キリスト者は富を嫌悪したり、否定すべきではありません。キリスト者は富を絶対視することなく、富を管理する者として、富を自由に活用しながら神に仕えていくのです。

主イエスのこの教えは、キリスト者が将来のために必要な資産を準備することを禁じたものではありません。むしろ、キリスト者は、この地上においた与えられているものを賢明に管理すべきなのです。それは信仰に矛盾するどころか、真の信仰者に要請されていることでもあります。金銭を蓄えることが問題なのではなく、金銭に対する執着心が問題なのです。地上の生活だけを視野に入れて金銭を蓄えようとしているのであれば、主イエスが言われた警告を真剣に聴かなければなりません。

 次に主イエスは、人の目について言及します。目に、人間の性格や倫理的な思いが反映します。ここでは所有物との関係のことが依然として問題の中心なのです。「体のともし火は目である。」「体」とは、人間の身体を示すというより、人間の存在全体、人格をも表しています。目は人間の光の源です。「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。」「目が澄む」とは、文字通りには「単一の」とか「単純な」という意味ですが、真っ直ぐに直視する目のことで、施しをする気前の良さを意味するが、それ以上に、神に対する誠実さと正直さを意味します。ここで問題になっているのは、人間を光に満ちたものとするか、あるいは暗いものとする、人間の行為なのです。真っ直ぐな目で神に対するなら、その人の全身が明るくなり、天のいのちにあずかり、滅びない命を身に帯びるのです。

 反対に、「目が濁っていれば、全身が暗い」。「濁っている目」とは、「悪い目」であり、物惜しみし、所有物に執着する貪欲な目です。神を仰ごうとしない目の人は、自らの内にただ暗黒を見るのみで、神の光はなく、闇のとりこになっています。それに対して、神を仰ぐ信仰者は、罪と死の世界の中にありながら、啓示の光に照らされ、あやまりなく神を仰ぎつつ生きていくのです。

 「だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」「あなたの中にある光」とは、22節aの「体のともし火」であり、人間の心のことです。人間はその心、その行為が神に従順でなければ、その暗さは完全な闇なのです。

「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富に仕えることはできない。」

 ここで用いられている「富(マモ―ナ)」という語は、「マンモン」という元来はアラム語で、へブル語としても使われた語です。富、財貨を意味しますが、それは単なる富、財貨を指すのでなく、頼りにする富、信頼を寄せる財貨、さらには信頼を寄せる蓄え、所有物です。それは人がそれを使用するとき、悪魔の力のように人を支配する「富の神」を表す語でもあります。

 「だれも、二人の主人に仕えることはできません。」信頼するものを求める人間にとって、人間はあれか、これかの選択にせまられます。「一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらか」です。「憎む」は、「全き愛を注いでいない状態」を指します。奴隷は、「一方に親しんで他方を軽んじ」ます。これは一人の主人を重んじるなら、必然的にもう一人の主人を軽んじざるを得なくなる、ということです。二人の主人を同程度重んじることは、実際問題として不可能です。同じように、神と富との両方に仕えることは出来ない、と主イエスは宣言します。

 主イエスが自分に従う者たちに要求したこの「あれか・これか」は、原則として財産を断念すべきであるということを意味するものではありません。金銭や財産から完全に離れることが求められているのではなく、決断の呼びかけは、金銭や富に仕えないことが求められているのです。この世の財産の奴隷とならないことです。この「あれか・これか」は、むしろ、「金銭」から自由になることを目指しています。この自由は神に仕えるとき実現します。「世と交渉のある者は、

それに深入りしないようにする」(Ⅰコリント7:31)ことによって、日常生活の中で神に仕えることとして現実化されるのです。生ける神をもたない者は、神をつくり、その前にひれ伏します。これはモーセの時代、モーセの兄アロンに金の子牛を造らせ、拝んだように、常に人間の世界でくりかえされてきました。金の子牛のまばゆい光は人間を迷わします。神々や諸仏を拝むだけが偶像崇拝でなく、「地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない(コロサイ3:5)」とあるように、「悪い欲望」に生きていること自体が偶像礼拝なのです。

今日、地上にひたすら富を積もうとする人がなんと多いことでしょう。神の恵みを信頼し、服従することを知らない人間は、自分の生活を支え、自分の将来を保証するのは金銭だと考え、富に執着する人が多いのが現状です。ここに問題があります。地上の富に目を奪われ、かえって自らの心の内なる光をなくして、暗黒の中に無意味な生活を送っている人がなんと多いことでしょう。

このような生き方は、結局、人間のもつ最大の問題である「自我」、「自己を世界の中心にする」、「自己を愛する利己主義」の問題を解決することはできません。自己の欲望がまるで神のようにあがめられる生活、そのような生き方が変えられて、本来あるべき自分、神が求めておられるような自分になること、それが「天に富を積む」ということです。

 もし人が、「天に宝を積む」生き方をしないまま、死を迎え、死そのものに直面させられるなら、突然、何一つ持たないまでに裸にされている自分に気づかされるでしょう。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。(マタイ16:26)」これが「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者」(ルカ12:21)の徹底的な滅びです。

聖書の神は、人間の罪がどんなに深く、またその弱さによってどれほど繰り返し裏切られても、どこまでも赦そうとし、絶たれた関係を回復するために自らを低くし近くに来られ、自ら苦しみ血を流すことを通してわたしたちを受け入れようとする神です。主イエスは十字架に死に、そしてよみがえられました。そして、わたしたちの地上の生活をも、天に連なるものとしてくださいました。天から来られたキリストは、わたしたちにとっても天にふるさとがあることを教えてくださいました。

神が与えてくださる聖霊によらなければ、だれもイエスを主と告白することができません。主イエスのみことばは、それを聴く者に聖霊を与えてくださいます。聖霊によって、自己を世界の中心のように思って、ひたすら自己のために生きようとする自我が打ちくだかれ、自分をはるかに超えた存在であるキリストとの交わりが開け、他者を愛する正しい、豊かな関係が開かれます。神に仕えるとは、富から解放されながら、自由に信仰にもとずいて、神の御心を行い、出会うすべての人を大切にし、神と人を愛する生き方が与えられます。これこそが天に宝を積むことであり、思い煩いから解放された、罪と死の束縛から自由にされ、永遠の命に生きる、救われた人間ではないでしょうか。

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「天の父の御心を行う者」 マタイによる福音書7章21~23節

2021-01-10 01:43:08 | キリスト教

    「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイ7:21)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会     週 報

降誕節第3主日 2021年1月10日(日)    午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

                         礼 拝 順 序

                   司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 476(あめなるよろこび)

交読詩編     1(いかに幸いなことか)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書7章21~23節(新p.12)

説  教   「天の父の御心を行う者」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                            

讃美歌(21) 459(飼い主わが主よ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                                                    次週礼拝  1月17日(日)午後5時~5時50分    

                                                      聖 書   マタイによる福音書6章19~21節

                                                      説教題  「天に富を積みなさい」

                                                     讃美歌(21) 355 518 27 交読詩篇 71

本日の聖書 マタイによる福音書7章21~23節

7:21「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。 22かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。 23そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

                     本日の説教

主イエスは、5章20節で、「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさったいなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と言われています。

 「ファリサイ派」や「律法学者」というのは、ユダヤ人の指導者たちで、人々が律法に従うことが出来るように指導する人々です。ファリサイの意味は「分離した者」で、律法を守らない人間を自分たちと分離し、裁いていました。彼らは、律法の遵守には熱心であり、<外側は人に正しい人のように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている>(マタイ23:28)人達でした。彼らが語っている義は、人間の都合によって律法が再解釈されたものであり、神が律法を与えられた意図と外れていました。律法遵守に努力する彼らは、その努力によって、自分は凡人より神様に近づけたという自負心が起こり、人よりましな人間になった、神様からよい評価を受けられる人間になったという優越感、エリート意識をもつようになり、更には、神様よりも人の評価の方が気になって、外側は立派に見せ、それによって人々から高い評価を受けると高慢になり、終いには神様から高い評価を受けるに相応しい者となったとの思い込むのです。この思い上がりの高慢こそが人を神様から遠い存在とする罪の根なのです。

このことにもとずいて、主イエスは<わたしの天の父の御心を行う者だけが>天の国に入るのである>と言われているのです。

律法の根本精神は、マタイ7章12節に、「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」と言っています。これは律法の根本精神を表した言葉です。また、「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と問われたとき、 イエスは、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ22章37-39節)と答えています。パウロも、「律法全体は、『隣人を自分と同じように愛しなさい』という一句によって全うされるからです。」(ガラテヤ5章14節)と述べています。

 つまり律法とは、人を愛することにつきるのです。律法のこまごましたきまりを忠実に守っていても、もし愛がなければ、律法の根本から外れることになるのです。たとえ、全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、愛がなければ、無に等しいのです(コリント一、13:3)。では愛とは何でしょうか。それは、人にしてもらいたいと思うことを人にして上げることだと言われているのです。人にしてもらいと思うことを人にするためには、自分を犠牲にしなければできないことです。人を愛するには犠牲が伴います。ここに愛することのむずかしさがあるのです。

この難しい愛を、自己犠牲の愛を示してくださったのは主イエスです。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました(ローマ5:8)。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」(ヨハネの手紙一、3:16)とあります。このように、主イエスは私たちを愛しつくされたことによって、律法の完成者となられのです。

律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされません。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。すべての人は皆、罪の下にあり。神の前に正しい者は一人もいないのです。自分の内には善が住んでいないのです。善をなさうという意思があっても、それを実行できないからです。善をなそうと思う自分に、いつも悪がつきまとっています。望まないことをしているのは、自分の中に住んでいる罪なのです。

主イエスは、律法を行うことが出来ない私たちのために、律法を全うしてくださいました。さらに、律法に違反している私たちの罪や過ちを神から赦していただくために、身代わりとなって十字架に死んでくださったのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。イエスを信じる者を義となさるためです。さらに、主イエスは、私たちが、新しい命に生きることが出来るように、罪と死に打ち勝ち、復活されました。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。イエスは天上から聖霊を送ってくださいました。それは聖霊に従って歩む私たちの内に、律法の要求が満たされるためでした。霊の働きを求め、私たちを通してキリストに働いていただくことです。自力で肉の支配に立ち向かっても、罪の力には勝つことはできません。霊に導かれることによってのみ、神の御心に従うことができるのです。

私たちは、主イエスの十字架によって罪を贖われたからと言って、律法を守らなくても良いということにはならないのです。律法は救いの条件ではありませんが、神が私たちに命じている戒めなのです。

主イエスは、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」と宣言します。主イエスは終末の裁判官として現れます。神を<わたしの天の父>と呼び、主イエスは、神の裁きを代行する者となります。<あなたたちのことは知らない>は、詩篇6:9「悪を行う者よ、皆わたしを離れよ」に基づく破門宣言です。

世界審判者の父は、「主の祈り」にあるように、教会が「わたしたちの天の父」と呼んでもよい方です(マタイ6:9)。天の父の意志を行うことは、努力しなければならないことであるだけでなく、「御心が行われますように」と祈り求めることのできるものでもあります(6:10)。しかし天国へ入る確証ではありません。「天の父の御心を行う者だけが、天国に入ることが出来るのです。

イエスに向かって「主よ」と呼ぶ者は、「イエスは主である」(コリント一12:3)と告白する者であり、キリスト者です。告白できるのは聖霊の働きによるものです。聖霊の働きによらなければ、だれもイエス・キリストを「イエスは主である」と告白することは出来ないからです。神と恵みの業に対する信仰告白は、心と口と行為を含む信仰者の全体をかけてなされなければなりません。「天の父の御心を行う」という、信仰の服従行為、生活をともなわなければなりません。イエス・キリストを「主よ」と告白している者皆が天国に入るのではありません。

終末の日、信仰告白だけでなく、「大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう」と主は言われます。

ことばだけでなく、行為においても、キリスト者であることが明白な場合です。実を見ただけではまったく申し分のないものであるにもかかわらず、その動機は自分がやった良いこと、自分が実らせた良い実に生きがいを感じる者たちです。イエスが、自分たちの預言や悪霊追い出し、奇跡を認めてくださると期待して話しています。彼らは神や信徒を欺いているだけでなく、自らをも欺いている救いがたい人たちです。

人間または教会が神的裁きを先取りしてはならず、神が決定をくだすのです。人間が真の弟子であるという根拠は、主御自身の選びと恵みのみにあります。信仰告白や信仰の服従行為はすべて神の働きかけに対する人間の応答であり、そのような応答を引き起こした神にこそ栄光を帰すべきです。人間の側には功績とすべき何物もありません。私たちは命じられたことをみな為し終えた時、「わたしはふつつかな僕です。すべき事をしたにすぎません」(ルカ17:10)と言うべきなのです。それが、「わたしは・・・・・をした」と自分の行為を誇りはじめた瞬間に、どんなに崇高な行為であっても、神のわざを自分のものと主張する自己主張、自己義認、不従順となるのです。そのとき、主は言われます。「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。」と。このことばは「世界審判者の断罪宣言」です。外面はどうあろうとも、主は真実を洞察されます。私たちは自己欺瞞や他者の評価に依らず、日々新たにみことばを聞き、主の御心を問うて、自分自身の生活の軌道修正をしなければなりません。「いつも従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」(フィリピ2:12-13)常に主イエスに結ばれていること、愛の実践を伴う信仰こそが大切なのです(ガラテヤ5:6)。

こうして私たちは、審判者である主イエスを覚えて身を正され、世の終わりまで私たちと共におられる方(マタイ28:20)として、日々交わることを許され、主イエスの御力に支えられ、担われて歩むのです。

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