富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「いやすキリスト」ヨハネによる福音書5章1~18節

2024-01-31 12:44:56 | キリスト教

  ↑ ベトザタの池で、病人をいやすキリスト

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

降誕節第6主日 2024年2月4日(日) 午後2時~2時50分

       礼 拝 順 序                

前 奏                辺見トモ子姉

司 会                邉見 順子姉

讃美歌(21)  202(よろこびとさかえに満つ)

交読詩篇     32(いかにさいわいなことでしょう)

主の祈り     93-5、A

使徒信条     93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書5章1~18節(新p.171)

説 教     「いやすキリスト」   辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21)   433(あるがままわれを)

献 金

感謝祈祷

頌 栄(21)    27(父・子・聖霊の)

 

  ◎オン・ラインで、どなたでも礼拝に参加できます。

   090-3365-3019の辺見まで連絡ください。

        次週礼拝 2月11日(日)午後2時~2時50分

        聖 書 ヨハネによる福音書5章1~18節

        説教題 「奇跡を行うキリスト」

        讃美歌(21)6 198 27 交読詩篇 95

本日の聖書 ヨハネによる福音書5章1~18節

 1その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。2エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。3この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。4*彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。6イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。7病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」8イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」9すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。10そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」11しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。12彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。13しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。

 14その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」15この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。16そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。17イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」18このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。

  本日の説教

 5章1節には「その後、ユダヤ人の祭りがあって」とあります。「この祭り」は、仮庵の祭りであったと予測されます。紀元31年の秋頃と思われます。イエスはエルサレムへ行きました。イエスは、巡礼者が神殿の丘に入る前に沐浴(もくよく)をするベトザタの池に行きました。エルサレムの羊の門の近くにあった池です。神殿へ来る巡礼者たちはそこにいる病人たちに施しをしました。

    ベトザタの池のベトザタとは、「オリーブの木の家」という意味のことばです。口語訳聖書で使われたいた<ベテスダ>は、「憐れみの家」を意味することばです。この名称は、イエスの奇跡的行為の行われる場所にふさわしい名称として後からつけられた名と思われます。

 【一世紀の時代に、ここにアスクレピオスの神殿が建っていて、病人が治療に来ていました。アスクレピオスは、ギリシアの医術の神です。

   ベトザタの池は、地図の右側に見える、ブル―色の長方形の二つの池です。男性用と女性用です。池の大きさは、どちらも、横は約50-60m、縦は約40m-45mです。深さは1.5mです。

北側の池は、南側の池より高い位置になっています。二つの池を囲む四つの回廊と、北側の池には、二つの池を区切る回廊がありました。(関谷定夫著「聖都エルサレム5000年の歴史」)

  イスラエル博物館にあるヘロデ神殿模型の中のベテスダの池の回廊です。回廊というのは、屋根付きの廊下のことです。

 

アスクレピオスの座像               杖

杖には蛇が巻きついています。常に蛇を伴って病気治癒に従事したという伝説によるものです。蛇は脱皮をすることが「死と再生」を連想させるあめ、古代では「生と死の象徴」とされていたからです。

 イエスがベトザタの池に行った時、五つの回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていました。彼らは、水の動くのを待っていました。主の使いが時々池に降りて来て、水を動かすのですが、水が動かされたあとで最初に入った者は、どのような病気にかかっている者でもいやされたからです。回廊の周りにいる者は、われ先に池に入ろうと池を見つめていたのです。病人の世界にも、われ先に、人を押しのけてでも、という醜い姿がありました。この回廊に、38年も病で苦しんでいる人が横になっていました。その人を見たイエスは、こう語りかけます。

 「良くなりたいか」、原文では「あなたは健康になることを願うか」です。しかし、この人は「よくなりたいです」と答えず、「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです (7節)」と答えています。

   自分の病気が治らないのは、ほかの人が誰も自分のために何もしてくれないからだ、と言ったのです。この言葉は、半ばあきらめて、本気でよくなりたいという意志がほとんどなかったことを表しています。この38年間病気の人は、自分のこれまでの思いをイエスにぶつけました。

 イエスの質問は、この「治りたい」という意志を取り戻すための言葉でした。本気でよくなりたいという意志を取り戻したこの病人に、イエスは「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言われました。

「すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだしました。イエスは、本気でよくなりたいという意志を取り戻した病人に、イエスの言葉を信じて立つことを命じたのです。信仰は、イエスの言葉を信じて立ち上がり、歩み出すことです。

 その後、イエスは神殿の境内でこの人に出会って、「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」と言われました。

 聖書は、人の病気の直接の原因はすべてその人の罪のためであるとは、決して教えていません。主イエスは「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」(マタイ9:12)と言われました。病人のための医療や医者の必要を認めています。医学や医療による身体や心の癒しは必要です。しかしこの病人の場合、この病気の原因は、この人の罪によるものでした。<もう、罪を犯してはいけない>と言われた主イエスのお言葉がそのことを示しています。彼の罪が赦されたことを教え、身体の癒しだけでなく、罪の支配から解放される救いをも与えられたのです。

 異教の神殿化されたベトザタの池で、イエスが病人を癒したのは、ローマ帝国の支配する世界で、絶大な勢力を誇っていたアスクレピオス信仰へのイエスの挑戦であり、イエスこそ真の治癒神であることの宣言でした。その後、この池の上に聖堂が建てられました。現在は聖アンナ教会が建っています。それは、キリストのアスクレピオスに対する勝利の証しでもあります。

 今日もアスクレピオスの杖は、医療・医術の象徴として世界的に用いられています。世界保健機関(WHO)の旗にも、日本の救急車にもアスクレピオスの杖のマークが用いられています。アスクレピオスの医療は医学の進歩に貢献したので、アスクレピオスとその杖が医学のシンボルになっています。

 医療や医薬による科学的な癒しだけではなく、宗教的な癒し、キリストの福音による癒しによる全人的な癒しによって初めて真の医療がなされます。主イエスは、「ありとあらゆる病気や患いをいやされた」神の子です。病の癒しだけでなく、「罪と言う死に至る病」も癒し、救ってくださる、真の神であることを人々に伝えましょう。

      

         世界保健機関     日本の救急車                        

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「教えるキリスト」ヨハネによる福音書8章21~36節

2024-01-24 12:57:42 | キリスト教

 ↑ もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由にる。」   ヨハネ8:36

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

降誕節第5日  2024年1月28日(日) 午後2時~2時50分

      礼 拝 順 序                

前 奏                辺見トモ子姉

司 会                邉見 順子姉

讃美歌(21) 522(とらえたまえ、われらを)

交読詩篇    125(主により頼む人は、シオンの山)

主の祈り     93-5、A

使徒信条     93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書8章21~36節(新p.181)

説 教     「教えるキリスト」   辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21)    441(信仰をもて)

献 金

感謝祈祷

頌 栄(21)     27(父・子・聖霊の)

   ◎オン・ラインで、どなたでも礼拝に参加できます。090-3365-3019の辺見まで連絡ください。

          次週礼拝 2月4日(日)午後2時~2時50分

          聖 書 ヨハネによる福音書5章1~18節

          説教題   「いやすキリスト」

          讃美歌(21)202 433 27 交読詩篇 32

  本日の聖書 ヨハネによる福音書8章21~36節

 21そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」 22ユダヤ人たちが、「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか」と話していると、 23イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。 24だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」 25彼らが、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。 26あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。」 27彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。 28そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。 29わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」 30これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。

 31イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。 32あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」 33すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」 34イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。 35奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。 36だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。

  本日の説教

 今日の聖書の箇所は、イエスがエルサレム神殿の境内で群衆に教えられている場面です。イエスをメシアと信じる者もいましたが、イエスを殺そうとする者もいました(7:1、7:25、7:30)。

   これは、イエスが仮庵祭の時に、ガリラヤからエルサレム行かれたときの出来事です(7:10)。紀元29年の秋頃と推定されます。イエスの誕生を紀元前4年頃と推定すると、この時イエスはおよそ33歳前後と思われます。この翌年の春、過越祭の時に、イエスは十字架の死を迎えることになります。

  8章21節に、<そこで、イエスはまた言われた>とありますが、これは、7章34節で、<わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない>という言葉が、ここでまた繰り返されるからです。イエスがこの言葉を、最初に語ったのは、イエスをメシアと信じることのできない祭司長たちとファリサイ派の人々がイエスを捕らえるために下役たちを遣わしたときでした。下役とはエルサレム神殿の警備員たちです。

 「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」(8:21)

 <去って行く>とは、この世から去って、天の父の許へ行ということです。<あなたたちは自分の罪に死ぬことになる>とは、イエスをメシアとして信じないならば、人間の本性に根ざす罪から解放されないあなたがたは、神の裁きとしての死ののろいを受けることになる。あなたたちはわたしが行く父の御許へ行くことはできない。イエスは迫りくる自分の最後について語ったのですが、人々はこの言葉を理解できず、戸惑います。

  このイエスの言葉を聞いたユダヤ人たちは、イエスが自殺でもするつもりなのだろうかと誤解します。

 イエスは彼らに、「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」(8:23-24)と言われました。

  あなたがたは<下のものに属し>とは、地上の肉につける者である、という意味です。わたしは<上のものに属し>とは、イエスが神から遣われた者、神に属した者であり、神と等しい者であり、この世に属した者ではない、という意味です。<わたしはある>とは、神自身がモーセに自分の姿を表すときに語った、出エジプト記3・14の<わたしはあるという者だ>と、同じことばを、イエスはここで使うことによって、イエス御自身が神と等しい者であることを明確にし、イエスをそういう神と等しい者として信じないならば、<あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる>と語ったのです。イエスを拒否し、ひいては神を拒否する者は、世に属する者であり、罪のうちに死ぬことになると、イエスは重ねて教えられたのです。

   このようなイエスの宣言に対してユダヤ人たちは<あなたは、いったい、どなたですか>と問いました。彼らは、子なるイエスと父なる神との関係について語っていることを、どうしても理解することができなかったのです。

  イエスは、「それは初めから話しているではないか。あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんあるが、しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している」(8:25b-26)と言われました。

  彼らは、「イエスが御父について話しておられることを」悟ることができませんでした。「父なる神」という信仰は、ユダヤ人すべてが共有していた信仰ですが、イエスが<わたしの父>というように父なる神を私的なものとして語り、自身を神と等しい者としたので、唯一神信仰にたつユダヤ人にとっては、それは到底受け入れ難いことだったのです。

   そこで、イエスは、「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである」(8:28-29)と言われました。

  <人の子を上げたとき>とは、イエスを十字架にかけた後、イエスが天に上げられてから、という意味です。その時になって初めて、イエスは神から遣わされたキリストであって、神と共にあり、神と一つであり、神の御心をなす以外には、何もしないことが分かるだろう、言われました。<わたしをひとりにしておかれない>とは、<わたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである>(8:16)ということです。

 「 これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じ」ました。しかしここでは真実の信仰が成立したとは考えられません。

 8章31節に、「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた」とあります。しかし、このユダヤ人たちに対し、イエスは45節で<あなたたちはわたしを信じない>、46節では<なぜわたしを信じないのか>と彼らの不信を責めています。信じたユダヤ人と信じようとしないユダヤ人と同一人物なのです。イエスを信じた彼等の信仰は、まことの信仰ではなく、ただ一時的に感激して同意しただけの信仰だったのです。

  そこで、イエスは、次のように言われました。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(8:31)

  キリストの言葉に<とどまる>とは、キリストの言葉がその人のうちに根をおろしていることであり(37節)、キリストの言葉を守ることであり(51節)、生けるキリストとの交わりに結ばれていることです。 <真理を知る>の真理とは、学問によって得られる真理ではありません。「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)と言われるイエス・キリスト御自身です。イエスを知り、イエスによってもたらされた神の福音を知り、またイエスにおいて神を知る、ことが救いにつながり、あなたたちを自由にするとイエスは教えたのです。

  すると、彼らは、「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか」(8:33)と問いました。

 ユダヤ人が、自分たちはアブラハムの子孫であるという、神の選民としての特権意識は、血縁的、民族的な特権として神から与えられたものではありません。なぜなら、なぜならそれは、アブラハムの信仰を受け継ぐ者に与えられたからです。人は、神から遣わされたイエスを信じることなしに、真にアブラハムの子孫になることはできないのです。

  「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」(8:34-36)とイエスは、お答えになりました。

 私たちが生来の本性において欲する自由は、神をぬきにした、神にさからう自由です。神なきところにほんとうの自由があり、真の人間生活があると思うのです。神に反抗する否定的な意志があります。アダムとエバが楽園で蛇の誘惑を受け、神のように善悪を知る者となった、あの間違った自由に生きようとする罪(原罪)がわたしたちのうちにあります。

 ここで言われている<自由>は、罪からの自由であることが分かります。すべての人は罪に定められ、肉につける者として、罪の下に売られています(ローマ書7:14)。善をなそうという意志はあっても、それを実行できない、望まない悪を行うという肉の弱さがあります。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にはありません。」(ヨハネの手紙一、1:8)罪を犯す者は、だれでも罪の支配化にあり、罪の奴隷なのです。

 <罪からの自由>とは、この世において神の像に似せて造られた者として、罪と死、あるいは律法の奴隷となっていた状況から解放されることです。神に罪を赦され、あらゆる不義から清められ、罪と死の支配から解放され、天に属する神の子とされることです。

 ユダヤ人たちがイエスを神あるいは神と等しい者として明確に認め、罪の赦しにあずからなければ、罪の奴隷であると言われます。神の恵みによってアブラハムの子孫とされていても、罪の奴隷であれば、神の民の家から売り渡され、その家から去らねばならない運命にあります。

  <子はいつまでもいる>の子とは、イエス御自身です。主人の子は売り渡されることはないから、その神の家にいつまでもいる、という意味です。子は主人の子であるから主人と同じ権威を行使して奴隷を売ることも、自由にすることもできる自由を委ねられているのです。イエスがわたしたちに自由を与えるのです。イエスの十字架の贖罪と復活による命を与えられることによって、罪の赦しと罪からの自由を得るのです。それゆえ、罪からの自由とは人間に授けられる恵みの賜物であって、人間が自分で獲得できるものではありません。

 わたしたちがイエスの言葉にとどまるならば、わたしたちは本当にイエスの弟子であり、そして罪から自由にされる、主イエスは教えています。

 主イエスの言葉、聖書のことば、にとどまった83歳の姉妹についてお話しいたします。彼女は2006年1月2日の未明に、85歳の夫を主の身許に送りました。寝たっきりになり、10年前から全盲になった夫を自宅で介護し、3年前からは病院に入院した夫のため、毎日食事の介護のため病院に通い続けた姉妹は、次のような御言葉によって心を支えられたと証ししています。

  「神は真実な方です。あなた方を耐えられないような試練に遭わせるようなことはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道を備えてくださいます。」(コリント一,10:13b)

 「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」(ヘブライ人への手紙12:5b-6)

  彼女は、暗闇の中にも常に光が上から射してきて希望を与えられていたから、心の中にはいつも余裕がありました、と述べています。

 「恐れることはない、私が共に居る」(イザヤ書41:10)、この御言葉に彼女の心は平安に満たされたと語ります。彼女には「愛の神にわたしたちは支えられて生かされている。」という神への感謝がありました。「死ぬときも天国に導いて下さるイエスさまがおられる」という信頼がありました。彼女は不平不満を言わないことを心に決めていました。「神与え、神取り給う」(ヨブ記1:21b)という神のなさることへの全き信頼が彼女にありました。

  前夜式の挨拶で、彼女は、「病院ではわたしたち二人はのんびり過ごしました、主人は神様からいただいた生命(いのち)を感謝して生ききりました」と、淡々と話されました。

  主イエスの言葉を信じ、その言葉にしがみつき、支えられて生きている彼女は、主イエスの本当の弟子ではないでしょうか。

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「カナの婚礼」ヨハネによる福音書2章1-11節

2024-01-20 20:43:33 | キリスト教

 ↑ 「カナの婚礼。水を祝福するイエス」Jan Cossiers(1641~1660)アントワープ、ベルギー

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

降誕節第4主日 2024年1月21日(日)  午後2時~2時50分                

                    礼 拝 順 序

前 奏                辺見トモ子姉

讃美歌(21)  494(ガリラヤの風)

交読詩篇         19(天は神の栄光を物語り)

主の祈り         93-5、A

使徒信条            93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書2章1-11節(新p.165)

説 教     「カナの婚礼」辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21)           287(ナザレの村里)

献 金

感謝祈祷

頌 栄(21)            27(父・子・聖霊の)

                               次週礼拝 1月28日(日)午後2時~2時50分

                              聖 書 ヨハネによる福音書8章21~36節

                              説教題   「教えるキリスト」

                              讃美歌(21)522 441 27 交読詩篇 125:1-5

    本日の聖書 ヨハネによる福音書2章1-11節

 2:1三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。 2イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。 3ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。 4イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」 5しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。 6そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。 7イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。 8イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。 9世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、 10言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」 11イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

    本日の説教 

 ヨハネのよる福音書の2章1節に、「三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた」と記されています。4章46節で、「イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水を」ぶどう酒に変えられた所である」というまとめの言葉が示しているように、イエスの最初の宣教活動はガリラヤのカナから開始され、カナに戻った形で記録されています。

 「三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって」の三日目とは、イエスがガリラヤ湖北東の町ベトサイダで5人目の弟子としたナタナエルの出来事から数えて三日目のことと思われます。

     ベトサイダとカナは直線距離にして南西約30キロ、カナからイエスの育った、母の住むナザレは、南方13キロほどの所にあります。

 カナで婚礼があって、イエスの母はそこにいました。イエスも、その弟子たち5人も婚礼に招かれました。おめでたい祝いの席に欠かせないぶどう酒が足りなくなるという思いがけないできごとに、母マリアは困惑して、イエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と告げました。イエスに「何とかしてほしい」と訴えたのです。なんとかこの場を切り抜けることができるように、と陰で働くマリアの配慮にもとづくものでした。しかしそれに対するイエスの答えは、母マリアの予想とは違うきびしいものでした。

 イエスは母に「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と言われました。マリアはイエスを母子関係の立場から、イエスに何とかしてほしいと訴えています。しかし、イエスは父なる神に御心に従う神の御子の立場にあるので、尊敬を込めて婦人よ、呼んでいます。イエスは、人間の指図に従い、人間の言うがままに奉仕する者ではない、という重大な真理を表明するためには、母マリアに対しても、決然たる断絶を表明しなければならなかったのです。「わたしの時」というのは、十字架上の死と、栄光を受ける時を同時に意味します。その時まで、イエス御自身は、自らが神のご意志を行う者、すなわち神の子であることに徹して、教えとその業の遂行に集中することを明らかにしているのです。

 5節以下を見ますと、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言ったとあるように、イエスに全幅の信頼を寄せていることが示されています。

 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。当時、各家にあったようです。いずれも二ないし三メトレテス入りのものです。一メトレテスは、39・39リットル、すなわち約40リットルです。その2、3倍なので80リットルから120リットルです。明治のおいしい牛乳のロング・サイズは900ミリ・リットルなので、90本から120本入る量です。現在カナの婚礼があった場所が、巡礼地になっていて、その近辺の店では、この故事に因んでぶどう酒を売っています。

 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われました。召し使いたちは運んで行きました。世話役は、ぶどう酒に変わった水の味見をしました。世話役はこのぶどう酒がどこから来たのか知らなかったので、花婿を呼んで、言いました「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」

 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じました。「弟子たちはイエスを信じた」とは、イエスは彼らの生活を祝福し、彼らと共に歩みたもう主であり、洗礼のヨハネが証しした神の子であることを信じました。

 12節に、この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在されたと記されています。カファルナウムはガリラヤ湖北岸にあった町です。

 カナの婚礼における主イエスの最初の奇跡は、イエスがユダヤ教の清めの儀式に用いられていた水を、ぶどう酒に変えるという奇跡を通して、人々に、旧い秩序から新しい秩序が、この世に樹立されるのだ、ということを伝えています。

 カナの婚礼の席につらなった一同は、変えられたぶどう酒のよい味を満喫し、神の祝福と恵みに満たされました。それはイエスが、この地上のすべてのものを聖別し、祝福して、神の栄光をあらわすために用いたもう方であることを示しています。

 私は、開拓伝道の自活をするために、チャペル式の結婚式場へ、牧師、聖歌隊、オルガにストを派遣する会社を経営しています。会社名を「有限会社カナ(Cana)企画」としています。それは、主イエスが結婚式を祝福してくださり、思いがけない出来事があっても、主は助けてくださる方であることを信じ、願ってのことです。これまで、何十年もの間主に支えられ、助けられてきたことを感謝し、証しとさせていただきます。

 

カナで婚礼があって、イエスの母はそこにいました。イエスも、その弟子たち5人も婚礼に招かれました。おめでたい祝いの席に欠かせないぶどう酒が足りなくなるという思いがけないできごとに、母マリアは困惑して、イエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と告げました。イエスに「何とかしてほしい」と訴えたのです。なんとかこの場を切り抜けることができるように、と陰で働く母の配慮にもとづくものでした。しかしそれに対するイエスの答えは、母マリアの予想とは違うきびしいものでした。

   イエスは母に「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と言われました。イエスは、人間の指図に従い、人間の言うがままに奉仕する者ではない、という重大な真理を表明するためには、母マリアに対してすらも、決然たる断絶を表明しなければならなかったのです。「わたしの時」というのは、十字架上の死と、栄光を受ける時を同時に意味します。その時まで、イエス御自身は、自らが神のご意志を体現する者、すなわち神の子であることに徹して、教えとその業の遂行に集中いたします、ということを明らかにしているのです。

 5節以下をみますと、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言ったとあるように、イエスに全幅の信頼を寄せていることが示されています。

 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。当時、各家にあったようです。いずれも二ないし三メトレテス入りのものです。一メトレテスは、39・39リットル、すなわち約40リットルです。その2、3倍なので80リットルから120リットルです。明治のおいしい牛乳のロング・サイズは90ミリ・リットルなので、90本から120本入る量です。現在カナの婚礼があった場所が、巡礼地になっていて、その近辺の店では、この故事に因んでぶどう酒を売っています。

 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われました。召し使いたちは運んで行きました。世話役は、ぶどう酒に変わった水の味見をしました。世話役はこのぶどう酒がどこから来たのか知らなかったので、花婿を呼んで、言いました「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」

 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じました。

 12節に、この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された」と記されてます。カファルナウムはガリラヤ湖北岸にあった町です。

    ナザレのイエスは、ユダヤ教の清めの儀式に用いられていた水を、ぶどう酒に変えるという奇跡を通して、人々に、旧い秩序から新しい秩序が、この世に樹立されるのだ、ということを伝えています。

   カナの婚礼の席につらなった一同は、水をぶどう酒に変えられた、ぶどう酒のよい味を満喫し、神の満ち足りた祝福と恵みが人々を支配しました。それはイエスが、この地上のすべての物質を聖別し、祝福して、神の栄光をあらわすために用いたもう方であることを示しています。「弟子たちはイエスを信じた」とは、イエスは彼らはの生を祝福し、彼らと共に歩みたもう主であり、洗礼のヨハネが証しした神の子であることを信じたのではないでしょうか。わたしたちも、弟子たちと同じようにイエスを信じようではありませんか。

    私は、教会の牧師として自活するために、チャペル式の結婚式場へ、牧師、聖歌隊、オルガにストを派遣する会社を経営しています。会社名を「カナ(Cana)企画」としました。それは、主イエスが結婚式を祝福してくださり、思いがけない出来事があっても、主は助けてくださる方であることを願ってのことです。これまで、何十年もの間主に支えられ、助けられてきたことを感謝し、証しといたします。

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「イエスの最初の弟子たち」ヨハネによる福音書1章35-51節

2024-01-09 16:34:32 | キリスト教

 ↑「聖ペトロと聖アンデレの召命」ドメニコ・ギルランダイオの壁画(フレスコ画)、制作(1481~1482)システィーナ礼拝堂(ヴァチカン)
ペテロ、アンデレがイエスの弟子として召命されるところを、左側前景の人々(当時のフィレンツェで、責任ある仕事をしていた人々 ー銀行家、貿易業者、科学者‥-)が見守っている形で描かれています。右側前景には、一般の民衆が描かれています。中央には、ペテロとアンデレと対話するイエスの姿。イエスの後ろにいる向かって左奥にはこの二人を呼び止めているところ。向かって右奥には、この二人を伴ってヤコブとヨハネに声をかけているところが描かれています。

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

降誕節第3主日 2024年1月14日(日)午後2時~2時50分

      礼 拝 順 序

司会者                邉見 順子姉

前 奏                辺見トモ子姉

讃美歌(21)  57(ガリラヤの風かおる丘で)

交読詩篇    119:1~16(いかに幸いなことでしょう)

主の祈り     93-5、A

使徒信条     93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書1章35-51節(新.164)

説 教   「イエスの最初の弟子たち」辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21)  448(お招きに応えました)

献 金

感謝祈祷

頌 栄(21)   27(父・子・聖霊の)

      次週礼拝 1月21日(日)午後2時~2時50分

      聖 書 ヨハネによる福音書2章1~11節

      説教題   「宣教の開始」

      讃美歌(21)57 78 448 27 交読詩篇 19

 本日の聖書 ヨハネによる福音書1章35-51節

35その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。36そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。37二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。38イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ―『先生』という意味―どこに泊まっておられるのですか」と言うと、39イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。40ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。41彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア―『油を注がれた者』という意味―に出会った」と言った。42そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ(『岩』という意味)と呼ぶことにする」と言われた。

 43その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。44フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。45フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」46するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。47イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」48ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。49ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」50イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」51更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

 本日の説教

  主イエスは、弟子達の中から12人を選んで使徒と名付けています(ルカ6:13)。12使徒の名はマタイ10:2-4、マルコ3:13-19、ルカ6:12-16に記されています。

 【マタイによると、1.イエスがペトロ(ヘブライ語では岩という意味のケファ)と名付けられたシモン(ユハネの子)、2.その兄弟のアンデレ、3.ゼベダイの子ヤコブ、4.その兄弟のヨハネ、5.フィリポ、6.バルトロマイ、7.トマス、8.徴税人のマタイ、9.アルファイの子ヤコブと、10.タダイ(?ヤコブの子ユダ)、11.熱心党のシモン、12.それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダです。】

  今日の聖書の箇所では、洗礼のヨハネの二人の弟子がイエスに従い、イエスの弟子になるところから始まります。他の三つの福音書、マタイ、マルコ、ルカによる福音書では、イエスが洗礼のヨハネから洗礼を受けられた後、荒れ野でイエスは悪魔の誘惑を受け、その後ガリラヤで伝道を始め、ガリラヤ湖のほとりで四人の漁師を最初の弟子にするストーリー(物語の筋)になっています。

 ヨハネによる福音書は独自の資料にもとづいて福音書(イエスの教え、その生涯と死、復活と昇天を記し、イエスが救い主であることを知らせる書)を書いているので、イエスの洗礼や荒れ野での誘惑の記事がありません。ヨハネによる福音書の著者は定かではありませんが、イエスの十二弟子の一人、愛弟子のヨハネの権威の下に発表された書であることは明らかです。

 それでは、今日の聖書の箇所、ヨハネによる福音書1章3節以下の弟子の召命の記事を読むことにします。今日の箇所では、洗礼のヨハネの二人の弟子、アンデレと、無名の人(ヨハネか?)、そして、シモン、フィリポ、ナタナエルの5名が弟子とされています。

 【マタイによる福音書4章18-22では、ペトロとその兄弟アンデレ、ヤコブとその兄弟ヨハネの4名が弟子とされています。】

 先週の礼拝では、ヨハネによる福音書の1章29節から34節までの部分についてお話しいたしました。そこでは、洗礼者ヨハネは、イエスが自分の方へ来られるのを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」と人々にイエスを伝え、「この方こそ神の子である」と証ししました。

  その翌日、ヨハネは二人の弟子と一緒にいました。<その翌日>という言葉が29節にもありました。そしてここ35節と、次に43節でも繰り返して出てきます。これは、三日間続いて起こったことを表しています。

 ヨハネは、歩いているイエスを見つめて、「見よ、神の子羊だ」と言いました。ヨハネは前の日にも、イエスを見て人々に同じことを言っています。師ヨハネからその証言を聞いた二人の弟子は、師のヨハネから離れ、イエスに従いました。ヨハネもそれを良しとしました。

 イエスは振り返り、彼らが従ってくるのを見て、「何を求めているのか」と言われました。彼らが、「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」と尋ねました。<ラビ>は「先生」という意味で、律法の教師たちに用いられる敬称ですが、弟子たちは特別な尊敬を込めて使っています。

 弟子たちが質問した<泊まる>のヘブライ語の原語は「留まる」という意味であり、神がイエスに留まり(14:10〉、イエスは神の愛の留まる(15:10)というように用いられているので、「今夜どこに宿泊するのですか」という表面的な問いと同時に、「あなたは神とどういう関係にあるのですか」という重要な問いを含んでいると解されています。イエスは、来なさい。そうすれば分かると言われました。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見ました。そしてその日は、イエスのもとに泊まりました。午後四時ごろのことです。マタイ4:13には、イエスは「湖畔の町カファルナウムに住まわれた」と記しています。

 イエスに従った二人のうちの一人はシモン・ペトロの兄弟アンデレでした。もう一人は名前が記されていません。この匿名の人物は福音書を書いたとされるイエスの愛弟子のヨハネではないかと推測されていますが確かではありません。

 アンデレは、まず自分の兄弟シモンに会って、わたしたちはメシアに出会った言い、シモンをイエスのところに連れて行きました。<メシア>とは「油を注がれた者」という意味を表す語ですが、油は聖霊を指しています。神に聖別された世を救う者のことです。

     イエスの宣教開始

 イエスは彼を見つめて、あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファと呼ぶことにすると言われました。<ケファ>は「岩」という意味です。マタイ福音書では、シモンが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰告白をしたとき、イエスから「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上に教会を建てる」(マタイ1618)と言われ、ペトロという名を与えられています。「岩」という意味のヘブライ語が「ケファ」で、それをギリシア語に訳した言葉が「ペトロ」です。

  その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときにフィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われました。ヨハネによる福音書では、<ガリラヤ>という地名は、エルサレム、ユダヤという地名と対立関係にあります。そこはイエスにとってむしろ敵地です。ガリラヤはイエスにとって安全な地帯、イエス御自身の陣営と考えられるような書き方がなされています。

 フィリポは、アンデレとペトロが住んでいた町、ベトサイダの町の出身でした。フィリポはナタナエルに出会って、わたしたちはモ―セが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それは、ナザレの人で、ヨセフの子イエスだ>と証言しました。これは旧約で証言されているメシアに出会ったという意味の表現です。すると、ナタナエルはナザレから何か良いものが出るだろうか>と、辺境の地ナザレを蔑視しました。フィリポは<来て見なさいと、イエスによって用いられた言葉をそのまま口にして言いました。

 信仰を与えられるためには、イエスの所に行き、実際に自分で見る以外にないのです。イエスの所の留まることによってイエスが何者かが分かるのです。ナタナエルの名は、この記事の部分と、復活の主に出会った記事(21:2)以外に記されていません。ナタナエルの出身地はガリラヤのカナと記されています。マタイによる福音書の12弟子名簿には、ナタナエルの名はなく、フィリポとバルトロマイが組になって記されているので、ナタナエルとバルトロマイは同一人物だろうと見做す説があります。

 イエスと弟子たちの出会いの際、イエスの洞察の方が深く、弟子たちがイエスの真相を見させられる前に、イエスはその人の真相を見抜いています。イエスは、ナタナエルが自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われました。見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。>

「聖ペトロと聖アンデレの召し出し」(マタイ4章18-20による絵画)             ミケランジェロの弟子、ジョルジョ・ヴァザーリの画。1563年制作。    バディア・フィオレンティ-ナ教会の壁画、イタリヤ・フィレンツェ。

 ナタナエルを<まことのイスラエル人だ>とイエスが言われたのは、このあと、ナタナエルがイエスをあなたはイスラエルの王ですと告白することに先んじて、それに呼応するような呼び方をしたのです。

 ナタナエルが、どうしてわたしを知っておられるのですかと言うと、イエスは答えて、わたしはあなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見たと言われました。

 パレスチナ地方ではいちじくの木はかなり大木に成長します。その日陰でラビたちが弟子たちに教えました。<いちじくの木の下にいるのを見た>とは、ナタナエルが律法を熱心に学んでいる者であることをイエスは見抜いていたのです。

 ナタナエルはイエスに、あなたは神の子、イスラエルの王ですと告白するに至りました。<神の子>は伝統的なメシア称号の一つです。ナザレのイエスが神と等しい者だと証言したのです。<イスラエルの王>という表現は、「ユダヤ人の王」と対比的に使われています。「ユダヤ人の王」はイエスの敵対者たちが好んで用いた言い方ですが、<イスラエルの王>はイスラエルを支配する王、ここでは神だと告白したのです。

 イエスを「あなたは神の子」ですと呼ぶ信仰告白は、1章1節から18節で明言されたように、<初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった>という意味で、子なる神イエスは被造物ではなく、天地の創造以前から存在していた方であり、神であった方であるということが言われているのです。しかし他方において父なる神と子なる神イエスの関係は、神と対等であるような、もう一人の神であるという理解の仕方を避けるために、ヨハネ福音書では、この後、神の計画、神の意志に御子イエスが従い、完全に一致することにおいてのみ神とイエスが一つであり、神と等しい者であることが示されることになります。

 イエスはナタナエルに答えて、いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになると言われました。更に言われました。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。すべてを見透しておられるイエスの洞察力に驚嘆し、イエスを信じたナタナエルに、イエスは答えました。<もっと偉大なことをあなたは見ることになる>というイエスの言葉は、「神と等しいイエスを見ることになる」ということです。そして言われました。<天が開け>るのは神によって開かれるのです。<神の天使たちが人の子の上に>の「人の子」とは受難によって救いを成就するキリスト」を表しています。

 <天使たちが昇り降り降りする>光景は、ヤコブの夢の故事に基づいたイメージ(心に思い浮かべる情景)が用いられています。天使たちがイエスの上に昇り下りするのを、あなただけではなく、あなたがたは見ることになる、とイエスは言われたのです。ヤコブの見た夢は、創世記28章10~13節に記されています。

 ヤコブが見たあの天と地を結ぶ階段(梯子)は主イエスを指し示しています。主イエスはこの地上にこられて救いのみ業を完成してくださいました。そして、復活し、天に上られました。イエスは神から遣わされた方であり、神と等しい神の子なのです。

 神の子が地に宿られたことにより、地上のすべての場所が神のおられる場所となりました。神は地上のどこにでも偏在され、支配されておられるのです。私たちが神から最も遠く離れたところにいると思えるようなとき、希望を見いだせないで絶望しているときにも、私たちが弱く貧しく、自信を失っているときも、病の床にあって死の恐怖におびえているときも、主イエスは共にいてくださり、力を与え、望みを与え、祝福してくださるのです。すべての者の望む夢は、キリストがこの世の来られることによって、実現し、現実のものとなったのです。

 今日の箇所で、洗礼のヨハネは弟子たちに、救い主イエスを紹介し、ヨハネの弟子アンデレは、わたしたちはメシアに出会った言って、兄シモンをイエスのところに連れて行きました。また、フィリポは、ナタナエルに救い主イエスに出会たことを伝えて、「来て見なさい」と言っています。それぞれの人が身近な人に救い主イエスの証言者となっていることです。伝道活動はこのような証言活動が基礎になったいることを伝えています。救いの恵みにあずかっているわたしたちにも、このような証言をすることが求められているのではないでしょうか。

 

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「イエスの洗礼」ヨハネによる福音書1章29~34節

2024-01-02 23:02:51 | キリスト教

  ↑ レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年-1519年)<キリストの洗礼>1472年ごろ。 テンペラ 油彩 板177×151cmウフィツィ美術館所蔵(イタリヤ・フィレンツエ)         レオナルドは父の知り合いであった、ヴェロッキオ工房に入門しました。<キリストの洗礼>は、ヴェロッキオとレオナルドの初の共同作品。フィレンツェのサン・サルヴィ聖堂から依頼された祭壇画です。5年がかりの作品。レオナルド20歳ごろのものです。師であるヴェロッキオがテンペラで大半を描き、その後、左端の天使と左奥の風景をレオナルドが描きました。天使がイエスの脱いだ服を持っています。

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

降誕節第2主日(新年礼拝) 2024年1月7日(日)午後2時~2時50分

        礼 拝 順 序

司会者                邉見 順子姉

前 奏                辺見トモ子姉

讃美歌(21) 368(新しい年を迎えて)

交読詩篇     36(神に逆らう者に罪が語りかけるのが)

主の祈り     93-5、A

使徒信条     93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書1章29~34節

説 教      「イエスの洗礼」   辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21)    67(貴きイェスよ)

献 金

感謝祈祷

頌 栄(21)    27(父・子・聖霊の)

         次週礼拝 1月14日(日)午後2時~2時50分

         聖 書 ヨハネによる福音書1章35~51節

         説教題   「最初の弟子たち」

         讃美歌(21)57 448 27 交読詩篇 119

  本日の聖書 ヨハネによる福音書1章29~34節

  29その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。30『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。31わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」32そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。33わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。34わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

   本日の説教

   29節の<その翌日>とは、1章19~28節に書かれている出来事です。エルサレムのユダヤ教当局者たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させました。民衆がヨハネの洗礼をメシアの到来と結びついた活動と受け取ったことや、ヨハネをメシアと同一視する者がいたからです。ヨハネは、わたしはメシアでも、エリアでも、モーセのような預言者でもないと否定しました。ヨハネはイザヤ書40:3を用いて、自分を「主の道をまっすぐにする荒れ野の声」だと語りました。       

 ヨハネのもとへ遣わされた人たちはファリサイ派に属していました。彼らは「ヨハネに、あなたはメシアでもないのに、なぜ洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らな方がおられる。」と答えます。

 <あなた方の知らない方>という言い方で、人間の経験や知識では、これまで考えられたことのない、旧約聖書にも現れたことのない、神と等しい方がおられるという意味です。「その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」、とヨハネは答えました。

 これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事でした。マルタ、マリアの家のあったベタニアの村ではなく、ヨルダン川の上流地域のベタニアです。

 ここからが、本日の聖書の箇所に入ります。

 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」とイエスを人々に紹介しました。

 出エジプトの時に、イスラエルの人たちは、子羊の血を家の鴨井と入り口の二本の柱に塗って、神がエジプト人を撃つために巡ったとき、イスラエルの人々の家を過ぎ越し、救われました。(出エジプト記12・21~30)イエスの十字架の贖罪によって世と世に属する人々が救われることが<子羊>という語で宣言されています。

 「『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」と、1章15節でヨハネが言った言葉が繰り返して語られています。ヨハネはイエスより6か月早く生まれていますが、わたしよりも先におられた方だと言っているのは、イエスは世が創造される前から神と共にあった方だと、キリストの先在性を言い、<言(ことば)>が人となって現れたのは、ナザレのイエスであることを暗示しています。

 「わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」

 ヨハネは、この方が顕現する前に先駆者として水で洗礼を授けてきた、と自分の使命を明らかにします。<この方がイスラエルに現れるために>、ヨハネは神からつかわされ、洗礼を授けるという使命を与えられ、バプテスマの活動でこの方を知り、この方を知らせる使命を与えられたのです。

 ヨハネは次のように証言します。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはその方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

 ヨハネによる福音書には、イエスの洗礼については書かれていません。ただ、霊が降ってイエスの上にとどまったのを見たという事実だけが強調されています。これはイエスこそ世の初めからおられた<言(ことば)>であり、聖霊によってバプテスマを授ける方であることを示す目印です。ヨハネはこの目印を見たので、イエスは神の子であることを証ししたのです、とヨハネは語っています。

 イエスに〝霊″が宿ることは、父なる神と子なるイエスとの交わり・一体であることが暗示されています。イエスが<聖霊によって洗礼を授ける>とは、イエスの十字架による贖罪と復活とを経て起こることになります。聖霊によるバプテスマとは、水によるバプテスマとどこが違うのでしょうか。

  ヨハネによる水のバプテスマは、「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」(マルコ1:4)です。けれども、それはあくまでも「悔い改め」の洗いであって、「神の霊による新生」の洗いではありません。ヨハネのバプテスマとイエスの名によるバプテスマの決定的違いがここにあります。イエス・キリストの名によるバプテスマにあずかった時、わたしたちはキリストと共に罪に対して死んで、復活のキリストに結ばれ、聖霊を与えられて、新しい命に生きる者とされます。聖霊とは、イエス・キリストに結ばれているキリスト者の内に住んでくださるキリストの霊です。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。聖霊のバプテスマとは、わたしたちを神の子とする霊を与えるパプテスマです。キリスト者にとって聖霊は、助け主となり、導き主となり、すべてのことを教えてくれる、最も大切な賜物です。

 洗礼のヨハネは、イエスを「神の子羊」と呼びました。「神の子羊」ということばは、イザヤ53章7節では、黙って苦しみを忍耐する主の僕が、子羊になぞらえています。使徒言行録8章32節では、その子羊こそイエスとだと語っています。「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している子羊のように、口を開かない。卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られたからだ。」

 ヨハネの見たイエスは、イザヤ書53章7-8節の預言の成就としての「神の子羊」でした。しかし今や、子羊の血はイスラエルのためだけでなく、全世界のために流された血です。イエスは、「きずも、しみもない子羊」であり、私たちたとは全く違う、罪のない方でありながら、苦難と十字架を黙って忍耐し、犠牲の死によるあがないの力によって、世の罪を取り除くことの出来る神の子羊です。

 世は神によって創造されただけでなく、今も神のみ手によって支えられながら、神は世に隠され、世は神を知らす、認めず、崇めもしません。むしろ神から離れ、自分を神として、神と断絶しています。そのような世の罪、全人類の罪をイエスは背負って、十字架のあがないの力によって「罪を取り去り」、罪と悪の支配する歴史と世界に終止符を打ち、終末を来たらせる神の子羊です。

 

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