富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「天地創造の全能者と言い争う者」 ヨブ記38章1-18節

2018-10-25 13:30:34 | キリスト教

                 ↑ ウイリアム ブレークの「ヨブ記」の挿絵

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

   日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

  降誕節前第9主日  2018年10月28日(日)   午後5時~5時50分 

           礼   拝 順 序 

                 司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)   6(つくりぬしを賛美します)

交読詩編  148(ハレルヤ。天において主を賛美せよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳) ヨブ記38章1-18節(旧p.826)

説  教 「天地創造の全能者と言い争う者」辺見宗邦牧師 

祈 祷                 

讃美歌(21) 5 8(み言葉をください)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

             次週礼拝 11月4日(日) 午後5時~5時50分

             聖 書  創世記9章8~17節

             説教題   「保存の契約(ノア)」 

             讃美歌(21) 223 425 24 交読詩編1

    本日の聖書 ヨブ記38章1-18節

 38:1主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。2これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは。3男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。4わたしが大地を据えたときお前はどこにいたのか。知っていたというなら理解していることを言ってみよ。5誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。6基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか。 7そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い神の子らは皆、喜びの声をあげた。 8海は二つの扉を押し開いてほとばしり母の胎から溢れ出た。9わたしは密雲をその着物とし濃霧をその産着としてまとわせた。10しかし、わたしはそれに限界を定め二つの扉にかんぬきを付け 11「ここまでは来てもよいが越えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ」と命じた。 12お前は一生に一度でも朝に命令し曙に役割を指示したことがあるか 13大地の縁をつかんで神に逆らう者どもを地上から払い落とせと。14大地は粘土に型を押していくように姿を変えすべては装われて現れる。15しかし、悪者どもにはその光も拒まれ振り上げた腕は折られる。16お前は海の湧き出るところまで行き着き深淵の底を行き巡ったことがあるか。17死の門がお前に姿を見せ死の闇の門を見たことがあるか。18お前はまた、大地の広がりを隅々まで調べたことがあるか。そのすべてを知っているなら言ってみよ。

       本日の説教

 「ヨブ記」は、旧約聖書の中で諸書に属し、「知恵文学」と呼ばれています。「律法書」や「預言書」は、神とイスラエルの民族の関係が基本となっており、主として神から人へ向かう傾向が強いのに対して、知恵文学では、個人が神と正面から向いあっており、徹底的に神に問いかけていく人間の姿が描かれています。それは神の啓示を、ただ機械的に受け入れるのでなく、自分の納得のいくまで疑い、問い、主体的に受けとめようとします。

 「ヨブ」という名前はヘブルで語では「イッヨーヴ」です。「イッヨーヴ」の動詞の「アーヤヴ」は「敵対する」「敵となる」という意味です。「ヨブ」は、神に「なぜ」と敵対して訴えているように思われる人物の名です。「ヨブ記」の主人公ヨブという名は、三人の正しい人物として、ノア、ダニエル、ヨブの名があげられています(エゼキエル14・14、20〔エゼキエルは紀元前593-573頃の預言者〕)。この信仰的義人とされたヨブという人物を、著者はモデルとして、なぜ義人が苦しむのかというテーマについて書いたと思われます。著者はユダヤ人ですが、名は不明です。イスラエル以外の知恵や宗教伝承も含みながら長い成立過程を経て出来上がっていた口伝を、バビロン捕囚期以後のペルシア時代、おそらく紀元前5世紀前半に、著者がヨブ記として編集し書いたと想定されています。次のような構成になっています。そのあらましを記しましょう。

  1ー2章 は序文(プロローグ)で、「散文」で書かれています。

1章「ウツの地にヨブと言う人がいた。無垢な正しい人で、神を恐れ、悪を避けて生きていた。」(1:1)  

 「ウツの地」とは、哀歌4章21節に「ウツの地に住むエドムの娘よ」とあることから、「ウツ」は死海の南東エドムの地にあると考えられ、知恵の国として知られていました。ヨブはイスラエルの地以外の東方に住んだ異邦人と考えられています。

 ヨブは七人の息子と三人の娘に恵まれ、豊富な資産を持つ東の国一番の大富豪でした。正しく生きながら、平安で幸福な人生を送っていました。ところがある日、天上の主の前に、神の使いたちが集まり、サタンも来ました。サタンはここでは神の使いの一人として神の会議にあずかっており、いわゆる悪魔ではありません。サタンは神の許可のもとに行動する者で、人間の罪を神に訴える任務を負っています。地上を巡回してきたサタンに主は言われました。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」サタンは答えました。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。……ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」

  このサタンの疑惑による挑発で、神は、ヨブに試練を与えることをサタンに許しました。ヨブに次々と災難が襲いました。略奪隊による被害や二度も天災に遭い、財産も、家畜も、使用人たちも、さらには息子や娘たちまでも、すべてを失ってしまいました。すべてを失っても、ヨブは神を呪いませんでした。むしろヨブは、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(1:11)と言って、神を非難することもなく、罪を犯しませんでした。「そこに帰ろう」とは、創造者なる神に自己の生死を託そうという意味です。サタンは第一の賭けに敗れました。

 2章 またある日、主の前に神の使いたちが集まりました。主はサタンに言われました。「お前は理由もなく、わたしを唆(そそのか)してかれを破滅させようとしたが、かれはどこまでも無垢だ。」サタンは答えました。「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなた呪うにちがいありません。」

  主はサタンに、「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、彼の命だけは奪うな。」と言って、試練を与えることを許しました。サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせました。ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしって苦しみに耐えました。

  彼の妻は、夫のあわれな姿を見るにしのびなく、「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と告げました。ヨブは「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」と妻をたしなめました。 <不幸をいただこう>とは、ヨブが全財産と息子、娘たち、自分の健康まで失うという不幸を神から受け入れることを言っています。この言葉は、苦難に対するヨブの信仰告白です。

 「さて、ヨブと親しいテマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルの三人は、ヨブにふりかかった災難の一部始終を聞くと、見舞い慰めようと相談して、それぞれの国からやって来た。」(2:11)

   「テマン人エリファズ」の<テマン>は、エドムにあった町。「シュア人ビルダド」の<シュア>は、エドムに近い北アラビアにあった町。「ナアマ人ツォファル」の<ナアマ>は、北アラビアにあった町と思われます。彼らは遠くからヨブを見ると見分けられないほどの姿になっていたので、しばらく茫然とし、嘆きの声をあげました。彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていたが、その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできませんでした。

 

  「唇をもって罪を犯すことをしなかった(2:10)」ヨブですが、彼の心には、神が「ゆえなく」災いを下されたのではないかという疑いが、決して起こらなかったとは言えません。いやむしろ、この疑い、この疑問こそが長いヨブ記の主要部の中心的な問いであり、課題でした。

3章―42章6節 主要部をなす本編です。ヨブ記の中心部分を構成し、「詩文」で書かれています。大きく三つの部分に分かれます。

第一部(3章ー31章

 3章 7日間経過後に、ヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪います。「なぜ、わたしは母の胎にいるうちに、死んでしまわなかったのか。せめて、生れてすぐに息絶えなかったのか」、と。

 エリファズ、ビルダト、ツォファルの三人とヨブの主張は、一回目は4:1ー14:22、二回目は15:1-21:14、三回目は22:1-28:28まで、三度も繰り替えされます。

 4章ー31章 ヨブが死を願う独白を始めたことから、三人の友人たちは、次々にヨブを説得します。最初にエリファズが話し始めました。「人は神より正しくありえようか」(4:17)と言い、すべての人には罪があると、彼は一つの事実として言い、それゆえ神の懲罰に対して叫びを上げるヨブは誤っていると、ヨブの罪をほのめかします。だが、罪を犯した覚えのないヨブの挑戦的な態度が増していくと、無遠慮なツォファルは「神があなたの罪の一部を見逃していてくださった」(11:6)とあからさまに言います。ついにエリファズまで「あなたは甚だしく悪を行い、限りもなく不正を行ったのではないか」(22:5)と決めつけます。

 これらの当てつけや告発に対して、ヨブはますます熱を込めて彼の無実を主張します。「断じて、あなたたちを正しいとはしない。死に至るまで、わたしは潔白を主張する。」(27:5)

 13章で、ヨブは友人たちを批判し、「わたしが話しかけたいのは全能者なのだ」と言います。「罪と悪がどれほどわたしにあるのでしょうか。わたしの罪咎を示してください」と神に訴えます。16章では「天にはわたしを弁護してくださる方がある。わたしのために執り成す方、わたしの友、神を仰いでわたしの目は涙を流す。」(16:19-20)と、仲保者キリストを仰ぎ望むことばがあります。19章では「わたしは知っている。わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。」(19:26)と仰ぎ見ます。ヨブの立場に立って、彼の義や潔白を証明し、弁護してくれる者を求めているのです。ヨブは塵である自分を贖う方の存在を予告し、因果応報と異なる世界観の存在を宣告します。

 ヨブは、「どこまであなたたちはわたしの魂を苦しめ、言葉をもってわたしを打ちくだくのか。侮辱はこれで十分だ。」(19:2-3)と言い、「憐れんでくれ、憐れんでくれ、神の手がわたしに触れたのだ。あなたたちはわたしの友ではないのか。」(19:21)と訴えます。ヨブが友人の求めたのは、同情と憐れみであって、講義やお説教ではありません。ヨブとその友人たちとの議論は決着のつかないまま終わります。

 ヨブは再び嘆きの独白を始めます(29章1節~31章40節)。ヨブは神を否定してはいません。ヨブにとっての絶望は、近くにいたもう神が、今や遠くにおられ、彼に対して沈黙を続け、み顔を隠しておられることです。ヨブが苦しみの中で格闘しているのは、生ける神との出会いであり、神ご自身の声を聞くことにありました。友人たちをはるかに越えて神を愛した者がヨブでした。

 第二部(32章ー37章)もう一人の友人エリフが現れ、ヨブと三人の友人に語り始めます(32章)。エリフは「ブズ出身で、ラム族バラクエルの子」です。<ブズ>は地名で、アラビアの地方出身の人であると思われます。<エリフ>という名は、「彼はエル(神)」という意味で、神への信仰を表明する崇高な名前です。このエリフという若者はヨブに対しても、ヨブに反論できない三人に対しても怒り、「なぜ、あなたは神と争おうとするのか。神はそのなさることをいちいち説明されない」(33:13)と語り、ヨブの神への問いかけは高ぶりとして非難するのです。エリフのヨブに対する攻撃には、信仰者同志の深い同情に欠けています。エリフもヨブに対して、神の審(さば)きを語るのです(35章)。エリフの語るところは教理的に間違ってはいないが、しかし、ヨブを納得させるものでもありません。今、神に呼び求めても答えられず、神との交わりを断たれたのではないかと苦悶するヨブに対して、彼は一方的に彼の神観を陳述しています。最後に神観と教理に精通しているエリフの主張までが、ヨブを苦しめました。

 第三部(38章ー42章6節

 38章の1節から18節までは、今日の聖書の箇所です。神は今まで沈黙を続けていましたが、問い続けるヨブを、無視していたわけではありません。今、その全能の力と愛をもってヨブの前に現れます。主は嵐の中からヨブに答えて仰せになります。<嵐>は、神の顕現にともなう現象です。神は激しさをもって、ヨブの前に立ったのです。 「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」<経綸>とは、神の計画とその実現の御業をまとめて言う言葉です。これまで、「なぜですか」と神に問い続けたヨブは、逆に神から問われるものとなり、ヨブの側も、腰に帯し覚悟して、神の前に自らの全存在をかけて立つことを求められたのです。

 神は天とともに地を造られ、その基を据えた方です。神は、ヨブに向かって、天と地の創造の時、どこにいたのか、それに参与したかと問われるのです。もし知っているなら言え、とせまります。土台をすえる作業が語られます。<隅の親石>は家を建築する時、敷地の四隅を掘り、壁が直角に交わる隅を支える石のことです。神は自分の造った世界を肯定しており、天使たちも喜びの声をあげているのです。

 母なる大地である奥底からあふれでた大水が扉をもってせき止められて海となったことが語られています。海の創造が嬰児の出産にたとえられます。神は水に限界を定め、かんぬきと扉とを設けると言います。

 太陽は一定の場所から出て、一定の道を通り、一定の所に沈むので、その最初の出発点である「夜開け」、曙にその場所を知らせることが大切です。神はここでもヨブに生まれてから一度でも曙にその場所を知らせたことがあるかと問うのです。

 混沌とした世界に朝の光が段々と強くさしてきて、野も山もはっきりした形をとり、しかも衣のようにきれいな色に染まります。裁判は朝、行われ、悪人は光を奪われ、力を誇り高姿勢な腕は折られるといいます。

 ヨブは「海の源」「淵の底」まで行ったことがあるかとヨブは問われます。

 「死の門がお前に姿を見せ死の闇の門を見たことがあるか。」<死の門>、<闇の門>は海の底にあると考えられています。大地の広がりを隅々まで調べたことがあるか、とヨブは問われます。

  38章19節―39章 光や暗闇は、朝や夜に地の果てからのぞむと考えられていました。光の方向、暗黒の住みかはどこか、と主はヨブに問います。神は、天地創造の業一つ一つを取り上げ、ヨブに向かって、すべてを知っているのか、と問うたのです。ヨブの知らない、自然のこと、天体のことの、一つ一つにも神の深いみ旨が及んでおり、すべては創造者である神につながっています。そしてこれらのことは、人間中心にものごとを見ようとする立場に対して、自分を離れて物を見ることの必要性を教えているように思われます。主は仰せになりました。「全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。神を責めたてる者よ、答えるがよい。」(40:1-2)神に問うてきた者が今や神に問われる者となったのです。人は「神に真剣に問う者は神に問われる者になる」という真理に出会うのです。人は神からの問いかけによって初めて自らを知り、自らの位置と意味を知るに至るのです。自己中心の世界に生きていた者が、神中心の世界に生きる者に造り変えられるのです。ここに生ける神との交わりが成立するのです。

 40章1-5節 ヨブは、「わたしは軽々しくものを申しました」と詫び、「もう主張しません」と誓います。ヨブにとって主が直接答えられたことは何にも勝る大きな喜びでした。ヨブはこの主の前にもはや返す言葉はありませんでした。しかしヨブはまだ悔い改めにまで至っていません。

 40章6-41章 主は再び語ります。「お前に尋ねる。わたしに答えてみよ。お前はわたしが定めたことを否定し、自分を無罪とするために、わたしを有罪とさえするのか。」神は、創造のはじめに神と戦って神に征服された混沌の怪獣、ベヘモット(河馬)とレビヤタン(わに)という怪獣について語られました。その混沌の力に対してヨブが全く無力であることを示しました。神のみが混沌の象徴である怪獣の力に打ち勝ち、治めたます。創造者である神は無と混沌の世界に秩序を与えるのみならず、レビヤタンも神の愛の対象とされているのです。神の支配の外にある虚無や混沌はないといことが言われています。「お前を造ったわたしはこの獣をも造った」(40:15)と主は言われました。

  神のみが混沌の怪獣レビヤタンの力に打ち勝ち、御手のうちに治められます。レビヤタンのごとき混沌にもがき、苦痛に耐えているヨブにとって、ヨブの苦難は、レビヤタンの存在のようなものです。たとえヨブにとって苦難の意味は分からなくても、ヨブも神の愛とユ―モアの対象であることが、ヨブの心に届く語りかけでした。

 42章1-6節 ヨブは主に答えて言いました。「あなたは全能であり御旨の成就を妨げることはできないと悟りました、あなたのことを、耳にはしておりました。しかし今、この目であなたを仰ぎます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。」

 ヨブが経験した「神を見た」経験は、ヨブをして創造者である神の絶対性と被造物である人間の卑小さを自覚させました。ヨブは主の語りかけを聞いただけでしたが、彼は「あなたを見ました」と答えています。直訳すると「私の目はあなたを見た」となりますが、「目」は、へブル語ではその人自身を意味します。主ご自身のヨブに対する語りかけによって、ヨブ自身が主の語られることを「理解した」ということを意味します。ヨブは生ける神の語られるのを聞いて、神を怖れ信じたのです。神が生ける神であるゆえに信じたのです。人は何かの利益が伴っているので信仰するのではないのです。「災い」と「幸せ」を越えて、ひたすら神を礼拝し、より頼むことが、真実の礼拝です。

 42章7節-16節 結び(エピローグ)です。「散文」で書かれています。

 主は、エリファズに仰せになりました。「わたしはお前とお前に二人の友人に対して怒っている。お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったからだ。」と言い、三人に雄牛と雄羊を七頭、自分のためにいけにえとしてささげよと命じました。友人三人は主が言われたことを実行しました。ヨブは彼らのために祈りました。主はヨブの祈りを受け入れて、ヨブを元の境遇に戻し、さらに財産も二倍にされた外に、娘たちも与えられました。彼は新たなる祝福を得たのです。ヨブは、以前にもまして、繁栄と幸福を得ます。ヨブは長寿を保ち、老いて死にました。

 ヨブの友人たちの説く、正しい行為をする人がその行為の良い報いを受け取るという応報の教理からは、苦難にある者が何がしかの罪を犯したに違いない、との裁きが生まれます。ヨブはこの応報に教理によっては説明しきれない苦難の現実を訴え、ヨブはその全存在をかけて直接神に問い続けました。問い続けることなしには神と直面し、神の声を聞くことはなかったでしょう。「どうか、全能者がわたしに答えられるように」(31:35)のヨブの呼びかけに対して、主は「嵐の中からヨブに答え」(38:1、40:6)られたのです。神は苦難の中にあるヨブを見捨てられたのではなく、その全能の力と愛をもってヨブの前に立ち現れたのです。ヨブは神と出会うことによって、自分の無知を悟り、苦難を神の給う苦難として受けとめることができました。ヨブは被造物のひとつに過ぎないのに、知らず知らずのうちに自己を創造世界の中心に置き、全てを自分中心に見、神をも批判の対象にしていましたが、そのヨブの思い上がりをは砕かれたのです。

 ヨブが苦難を受けて失ったのは神との友好的な交わりでした。ひとたび神が変わらざる彼への愛を保証すれば、彼にはそれ以上に何もいりませんでした。ヨブは自分の目で神を仰ぎ見ることができたのです。それで十分でした。

 ヨブ記は、なぜ義人が苦しむのかという人間の問いかけに対する一つの解答です。唯一の解答でも、最後の解答でもありません。人間の罪とその運命をめぐる重大な問題は答えられないままになっています。苦難の意味は、罪のない御子の十字架と復活、そして昇天による救いにあずかって、明らかにされることになります。ヨブが仰ぎ見た「天上の弁護者・執成す方」(16:19-20)、地上の「塵に立つ」、罪より「贖う方」(19:26)が御子キリストの来臨による十字架と復活・昇天によって、現実のものとなったのです。「わたしたちすべてのために、御子さえ惜しまず死に渡された方」である神と「神の右に座ってわたしたちのために執成してくださる」(ローマ8:32-34)キリストの愛は、どんな苦難にも勝利させてくださるのです。

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「天国に市民権を持つ者」 ヨハネ黙示録7章1-4、9-12節

2018-10-19 20:36:32 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

 日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

 年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

    聖霊降臨節第23主日 2018年10月21日(日)   午後5時~5時50分 

                               礼 拝 順 序

                                                司会 佐藤 洋子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 358(小羊をばほめたたえよ!)

交読詩編  146(ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)ヨハネ黙示録7章1-4、9-12節(p.460)

説  教   「天国に市民権を持つ者」 辺見宗邦牧師 

祈 祷 

聖餐式    81(主の食卓を囲み)                   

讃美歌(21) 579(主を仰ぎ見れば)                

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

                                 次週礼拝 10月28日(日) 午後5時~5時50分

                                   聖 書  ヨブ記38章1~18節

                                   説教題    「創造」

                                   讃美歌(21)58 157 24 交読詩編148

             本日の聖書 ヨハネ黙示録7章2~4、9~12節

 7:1この後、わたしは大地の四隅に四人の天使が立っているのを見た。彼らは、大地の四隅から吹く風をしっかり押さえて、大地にも海にも、どんな木にも吹きつけないようにしていた。2わたしはまた、もう一人の天使が生ける神の刻印を持って、太陽の出る方角から上って来るのを見た。この天使は、大地と海とを損なうことを許されている四人の天使に、大声で呼びかけて、 3こう言った。「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない。」 4わたしは、刻印を押された人々の数を聞いた。それは十四万四千人で、イスラエルの子らの全部族の中から、刻印を押されていた。

  9この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、 10大声でこう叫んだ。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。」 11また、天使たちは皆、玉座、長老たち、そして四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、 12こう言った。「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世々限りなくわたしたちの神にありますように、アーメン。」

                             本日の説教

 「ヨハネの黙示録」の<黙示>とは、神が人に隠されていた真理や神の意志を示すことです。著者は預言者ヨハネです。ローマ帝国の属州であったアジア州(トルコ)の諸教会は、紀元95年頃、ローマ皇帝・ドミティアヌステ帝の時に行われたキリスト教の迫害によって、殉教者が出始めました。教会内部でも偽りの使徒により内部分裂の危機にさらされていました。福音宣教のためにパトモス島(1・9)に流刑の身となっていた預言者ヨハネが、そこで聖霊による幻を通して示された世の終わりに起こる神の審判と神の完全な支配を書き留めたものが「黙示録」です。黙示文学に特有な象徴や奇異な視覚的表現が用いてられているのは、キリスト教徒を迫害する圧制の中では、ローマ帝国に対する神の裁きをあからさまに表現できないからです。黙示録では、キリストを小羊という言葉で表現しています。また、破滅するローマの都をバビロンという言葉で表現しています。

 どんなことが書かれているのか、そのあらましをお伝えしましょう。

 「ヨハネの黙示録」の一章は、初めの挨拶と、ヨハネに啓示された幻の顛末を記し、二章から三章にかけては、アジア州の七つの教会(エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフ)へのメッセージが記されています。

          

    四章以下が、ヨハネが見た幻です。                             ヨハネは幻の中で、「開かれた門が天にある」(4・1)のを見ます。そして、「ここへ上って来い。この後必ず起こることをあなたに示そう」という声を聞きます。ヨハネが上って行くと、天には玉座があり、そこに、神さまが座っておられました。その玉座の周りには、24の座があって、そこには長老たちが座っており、玉座の神さまを礼拝していました。また、玉座の前には、4つの不思議な生き物がおり、やはり神さまを賛美していました。そして、天使たちが、玉座の神と長老と4つの生き物を囲むように立っていました(黙示録4章)。

 玉座の神は、その手に巻物を持っていました(5・1)。巻物の中には、これから起こる神の計画が記されていました。その封印(ふういん)を解く者として、七つの角と七つの目を持った小羊が登場します(5・6)。この小羊はイエス・キリストを表しています。ヨハネが見ていると、小羊が神の前に進み出て、巻物を受け取り、七つの封印を一つづつ開いていきます(6・1)。封印が解かれるたびに、弓を持つ者が乗った白い馬、地上の平和を奪う力を持つ者が乗った赤い馬などが現れます。これらは内乱や飢餓、疫病といった人災・天災を意味するようです。

 第五の封印が開かれると殉教者たちが現われて神の裁きを催促しますが、イエスからしばらく待つように命じられます(6・9-11)。時を経て殉教者が一定数に達しないと神の裁きは下らないという考えを反映しています。

 第六の巻物では、太陽が暗くなり月は赤く染まり、星は地に落ちることが記され、天変地異が起こることが暗示されています(6・12-13)。そして天使が現れて人々の額に刻印を押します。イスラエルの十二部族から死を免れる人々としてそれぞれ一万二千人ずつが選ばれるのです(七章)。

 小羊が第七の最後の封印を開いたとき、七人の天使が神の前に立ち、彼らに七つのラッパが与えられました(8・1)。天使が順番にラッパを鳴らすと、再び天変地異が発生します。六つのラッパが鳴らされるまでに、地上の三分の一が焼け、海の生き物の三分の一が滅び、恐ろしい姿のイナゴの大群が刻印を持たない人に襲いかかります(8・7-9・12)。さらに四人の天使が人間の三分の一を滅ぼすために遣わされます。その騎兵は二億で、馬は獅子のような顔で、口から硫黄を吹きます(9・13-19)。この時生き残った人々はなおも偶像を拝み続け、悔い改めることをしませんでした(9・20-21)。ヨハネは天使から渡された小さな巻物を食べます(10・1-11)。

  第七のラッパが吹き鳴らされると、最後の審判の時が来たことが宣言されます(11・13-18)。神の民を迫害する女と竜が天で天使と戦い、地上に投げ落とされます(12・1-18)。獣が神の民と戦うために海の中から上ってくる(13・1-16)。エルサレムのシオンの山の小羊(14・1-5)。

 さらにその七人の天使が、最後の七つの災いをたずさえていた(15・1)。次々と神の怒りを地上に注いでいきます(16・1)。ついに、大淫婦が裁かれる(17・1-18)。バビロン(ローマの都)に対する裁きがあり、バビロンは滅亡します(18・1-24)。

 大群衆が神を賛美します(19・1-6)。小羊(キリスト)と花嫁(教会)の婚宴(19・7-10)。そして「千年王国」の時代が訪れます。地上にはメシアが降臨し、殉教者がよみがえります。彼らによって「神の国」が築かれます。サタンは地の淵につながれ、その影響は及びません。愛と秩序にあふれる平和な時代が訪れるのです。楽園の日々は千年続きます(20・4-6)。

 しかしこの国が終わる時、世界の終末が来ます。この時、サタンが復活し、ゴグとマゴグという者が民をそそのかして神に戦いを挑みます。しかし、天から火が降ってきて、地上が破壊され、皆死者となります(20・7-10)。死者たちが神によって選別される最後の審判へと移っていきます。審判は死者たちの生前の行いを記してある「命の書」によって裁かれます。これによって天国と地獄に振り分けられるのです。「命の書」に名前が載っていない者たちは、地獄に落とされてしまうのです(20・11-16)。

 新しい天と新しい地が現れます。さらに新しい都エルサレムが、神のもとを離れ天から降ってきます(21・1-2)。神と子羊の玉座からいのちの水の川が流れます(22章1-5節)。そして幻による物語は終わります(22・7)。

   最後に、「然り。わたしはすぐに来る」というキリストの再臨が告げられ、「アーメン、主イエスよ、来てください(マラナ・タ。アラム語の「マラン」が主を、「アタ」が「来てください」を意味します。)」という応答があり、「主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように」というヨハネの祝祷をもって、黙示録は終わります。

 今日の聖書の箇所、7章1~17節は、礼拝劇の中の幕間劇です。

 小羊が<玉座に座っておられる方の右の手から>(黙5・7)受け取った巻物の封印が次々に開かれ、第六の封印(6・12)を開くと、大地震が起きて、天の星は地上に落ち、地上の山も島もみなその場所から移されました。災害の激しさに王をはじめすべての人々は恐怖の底に突き落とされました。神と小羊による裁きの日が近づいたのです。預言者ヨハネは<だれがそれに耐えられるであろうか>(6・7)と自問します。今や最後の封印が残されているだけです。するとヨハネは玉座に座っておられる方と小羊の怒りに耐える者たちを見ます。

  「この後、わたしは大地の四隅に四人の天使が立っているのを見た。彼らは、大地の四隅から吹く風をしっかり押さえて、大地にも海にも、どんな木にも吹きつけないようにしていた。わたしはまた、もう一人の天使が生ける神の刻印を持って、太陽の出る方角から上って来るのを見た。この天使は、大地と海とを損なうことを許されている四人の天使に、大声で呼びかけて、こう言った。『我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない。』わたしは、刻印を押された人々の数を聞いた。それは十四万四千人で、イスラエルの子らの全部族の中から、刻印を押されていた。」(7:1-4)

  <大地の四隅>とは、天の四隅から吹く風が災いをもたらすと考えられていたように(エレミヤ49・36)、地の四隅から吹く風も災いをもたらすと考えられています。当時の天と地と下界からなる三層の世界観によると、地は四角形の平面でした。<生ける神の刻印を持って>いる一人の天使が、<大地><海><木>を損なうことを許されている四人の天使を制止します。<神の僕たち>には、神の<刻印>が押されていきます。キリストの預言者、殉教者は<神の僕>なのです。<刻印>は、権威、所属を表すために広く用いられました。イスラエルの十二部族の中から選ばれた神の僕たちが、患難時代の中で天使によって、神のさばきから守られるために神の刻印を押されたのです。刻印を押された人々の数は、十四万四千人でした。

  「この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。」(7・9-10)

 世界の民の中から集まった大群衆が白い衣を身に着け。手にナツメヤシの枝を持ち、王座と小羊の前に集まりました。彼らは地上ではなく、天上にいます。<数えきれないほどの大群衆>は、殉教者たち、信仰の勝利者たちです。彼らは天上の<玉座の前と小羊の前>に立っています。彼らは<あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民>の中から集まっています。<白い衣>は、勝利を得る者、殉教者に与えられるものです(3・5、6・9-11)。<なつめやしの枝>も<白い衣>と同様に勝利や賛美の形容で、キリストのエルサレム入場を迎える群衆の如く、喜びを象徴しています。彼らは、大声で<救いは……神と小羊とのものである>と叫びました。救い・勝利の信仰は、神とキリストに帰せられると彼らは大声で賛美したのです。

 「また、天使たちは皆、玉座、長老たち、そして四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、こう言った。アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世々限りなくわたしたちの神にありますように、アーメン。」(7・11-12)

 5章2節とほとんど同じ賛美です。5章では、キリストに対する賛美でしたが、ここでは神に対する賛美です。ここには、5章の「富」の代わりに、「感謝」が神にあるようにと賛美しました。<アーメン>で始まり、<アーメン>で終わる神への賛美の形がここにあります。アーメンは、「まことに」という意味のヘブライ語(アラム語)です。祈ったことの実現を願うことばです。

  「彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕える」のです。玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を」張ります。「幕屋を張る」とは、神が人と共に住むことを意味します。「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことは」ありません。「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるから」です。

 この礼拝の光景は、迫害に耐えた信仰者や殉教者が、天上の礼拝に迎えられ、神とキリスト共に、永遠の命に生きることができることを約束しています。キリスト教徒にとっては大きな慰めであり、励ましとなる御言葉です。ヨハネの黙示録は、この世の終末と神の国の完成を告げ、キリストの再臨と勝利を確信し、忍耐をもって信仰を守り抜くように殉教の危機にさらされている諸教会の信徒を激励しました。天上に迎えられるキリスト者は、永遠の命を与えられ、神・キリストと共に過ごす、神の国の永住権を与えられるのです。。

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「信仰による生涯」 ヘブライ人への手紙11章23~29節

2018-10-12 17:59:20 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

        日本福音教団 富 谷 教 会   週 報

 年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

  聖霊降臨節第22主日 2018年10月14日(日)   午後5時~5時50分 

                             礼 拝 順 序

                                                司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 355(主をほめよ、わが心)

交読詩篇   23(主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)ヘブライ人への手紙11章23~29節(p.416)

説  教     「信仰による生涯」   辺見宗邦牧師 

祈 祷                 

讃美歌(21) 461(みめぐみゆたけき)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

                             次週礼拝 10月21日(日) 午後5時~5時50分

                                聖 書  ヨハネ黙示録7章2~4、9~12節

                                説教題    「天国に市民権を持つ者」

                                讃美歌(21) 358 579 24 交読詩編146

       本日の礼拝出席者紹介 日本キリスト教団京都教会の会員、酒井弘美兄です。表千家茶道の先生です。東日本大震災のあと、毎年のように被災地を訪れ、 呈茶の奉仕活動をなさっています。

    本日の聖書 ヘブライ人への手紙11章23~28節

 11:23信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。 24信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、 25はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、 26キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。 27信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。 28信仰によって、モーセは滅ぼす者が長子たちに手を下すことがないように、過越の食事をし、小羊の血を振りかけました。29信仰によって、人々はまるで陸地を通るように紅海を渡りました。同じように渡ろうとしたエジプト人たちは、おぼれて死にました。

      本日の説教

 ヘブライ人への手紙11章は、旧約聖書の優れた人々をあげて、希望を確信して歩む信仰についてのべます。アベル、エノク、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセといった旧約聖書の人物たちが、すべて「信仰によって」ということばで紹介されて登場します。1節では「信仰とは」、まだ実現していない希望を確実なことと信じ、見えるものの奥にある見えない神の業に信頼することであると定義します。信仰は私の確信ですが、聖霊によて与えられるものであり、その奥に神の約束があり、また神の事物を造り動かす働きがあります。「信仰によって」とは、人間に頼る生き方から、神に頼る生き方へと、信仰によって選択し、新しい歩みを踏み出すことです。

 今日の聖書の箇所、11章23-31節は、出エジプト記に記されている、信仰の旅路を走り抜いた証人、モーセに焦点を当てて述べます。出エジプト記一章には、モーセが生まれた頃のことが記されています。

 ヤコブの一族が、その子ヨセフがエジプトの宰相であったことから、住んでいたカナン地方が飢饉のため食料が不足したとき、エジプトのナイル川河口付近の「豊かなデルタ」の東側の恵まれた土地ゴシェンを与えられて住むようになりました。それから三百年五十年近い年月が流れた時代のことが記されています。もはや、ヨセフもその兄弟たちも、その世代の人々も皆、死んだが、イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れました(出エジプト1:6-7)。これは、エジプト第19王朝ラメセス2世(紀元前1290-1224年在位)が、エジプトを支配していた時代のことです。

 「信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。」(11:23)

 まず、モーセの両親が生まれた子を守った信仰が語られます。ラメセス2世は、国内に増え広がる異邦の民イスラエルの人々が強くなったことを恐れ、彼らの力を弱める目的で、最初は苛酷な強制労働によって弾圧を試みます。それが失敗に終わると、すべてのイスラエル人に対して「生まれた男の子はみな、ナイル川に投げ込まなければならない」と命じました。しかし、両親は、モーセを隠しきれなくなるとパピルスの籠を防水加工し、その中にモーセを入れて、ナイル川の葦の茂みの中に置きました。母の必死の努力により、たまたまナイル川に水浴びに来ていたファラオ(王)の王女に川から拾われて、モーセは命をとりとめたのです。モーセという名は「引き出す」という意味があり、この出来事に由来します。モーセは王女の養子となるが、乳飲み子の間モーセの母は乳母となり、両親は、王の命令を恐れず、三ヶ月間モーセを隠し育てました。その信仰は、<その子の美しさを見>たことによると言われています。<美しさ>とは、外見的な美しさを指すのではなく、神が与えてくださった命の美しさであり、神の選びのしるしをも意味しています。両親はファラオ以上に神を恐れたのです。その信仰によってモーセの命を救ったです。

 「信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。」(11:24-26)

 モーセは、王女の子としてエジプトの宮廷で育てられるようになりました。しかし、成人したモーセは、自分の同胞であるイスラエル人が虐げられている現実を目の当たりし、エジプトの王女の子として権力や富を持つことよりも、<信仰によって>、奴隷の民であるイスラエルの中に<神の民>を見出だし、彼らと共に奴隷のくびきを負い、苦しみを共にする決断をしました。

 <キリストのゆえに受けるあざけり>とは、モーセの苦難が正にキリストの苦難の予め示された形としてとらえられているのです。<エジプトの財宝よりまさる富>という言い方によって、地上の富に対する天上の富、将来の富が考えられています。

 信仰とは、神に期待することです。人生には様々な選択をせまられる岐路がありますが、満足しているわけではなくても、現状維持に走ってしまうことになります。結局、自由な生き方をそこで失うことになるのです。信仰とは神への期待をもって決断する行動を生む力なのです。

「信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。」(11:27)

モーセは、イスラエル人を救うためにエジプト人を殺すことになってしまいました。ファラオは怒り、モーセを殺そうとします。それを知ったモーセは、<エジプトを立ち去り>、ミディアンの地に潜み住むのでした。<王の怒りを恐れず>とありますが、出エジプト記2章13-15節を読む限り、ファラオの手を逃れてミディアン地方にたどりついたモーセは、ファラオを恐れたのではないかと思われます。しかし、重要なことは、その後信仰によって立ったとき、モーセは恐れを取り去られ、敢然としてファラオとの対決と交渉に向かったのです。<目に見えない方を見ているようにして>は、見えざる神が共にいまし続けられたことにより、モーセは見えない神を見ているようにして忍耐したのです。

 「信仰によって、モーセは滅ぼす者が長子たちに手を下すことがないように、過越の食事をし、小羊の血を振りかけました。」(11:28)

 モーセはミディアンの地で、身を寄せている間に、祭司エテロ(出2:18では、レウエル〔神の友と言う意味〕)の娘と結婚し、二人の子をもうけました。(使7:29、出18:3)。四十年たったとき、エテロの羊を連れてシナイ山(神の山ホレブ)に来た時、燃え尽きない柴を見て、見届けようと近づくと、神は芝の間から、モーセよ、モーセよ、声をかけられました。「わたしはあなたの父の神である。…わたしは、エジプトにいるわたしの民の不幸を確かに見届け、その嘆きを聞いたので、彼らを救うために降ってきた。さあ、今あなたをエジプトに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」と命じます。思いがけない使命の前におののくモーセに対して、「わたしは必ずあなたと共にいる」(出3:12)と告げます。こうして神はモーセを民の指導者また解放者としてファラオのもとに遣わしました(出3:4-10)。

 モーセは再びエジプトに戻り、ファラオとイスラエル人を解放するように交渉します。そのときモーセは八十歳でした(出7:7)。ファラオは相手にしようとしません。モーセは神に言われた通り杖で神の力を示し、エジプトに九つの禍を下しました。それでもファラオが抵抗したので、神様はエジプト中の初子を打つという恐ろしい禍をエジプトに下したのです。しかし、イスラエルの家からは一人の犠牲者も出ませんでした。モーセが神に信頼してその指示に従って、鴨居と門柱に屠られた小羊の血を塗ったので、災いが過ぎ越したからです。

  それ以来、イスラエルの人々はエジプト脱出のきっかけになったこの出来事を、神への感謝を思い出すために「過越祭」として毎年祝うようになりました。小羊のほふってその血を鴨居に塗ることによって、イスラエルの人々がエジプトの奴隷状態から解放されたことの意味は、イエス・キリストの十字架の血によって、全ての人々が、罪と死の奴隷的な支配から解放されることによってはじめて明らかになるのです。

 「信仰によって、人々はまるで陸地を通るように紅海を渡りました。同じように渡ろうとしたエジプト人たちは、おぼれて死にました。」(11:29)

 出エジプト記14章には葦の海(同15:22)での奇跡的な神による救出が伝えられています。モーセの指導のもと、イスラエルの民がエジプト脱出のした時代は紀元前1280~1230年の頃です。<紅海>を渡るに際して、モーセの信仰は彼の率いる全イスラエルの信仰となりました。イスラエルの民が絶対絶命の危急に立たされたとき、神が救いの業をなされ、エジプトからの解放をなしとげられたのです。ここで起こった奇跡は彼らの<信仰による>ものであったと言われます。イスラエルはモーセを通して神の命令を受け、それに全く信頼したのです。

 イスラエルの人々が、エジプトに住んでいた期間は四百三十年でした(出エジプト記12:40)。奴隷となって仕えていたイスラエルの民が出エジプトを果たし、約束に地に帰還し、自分たちの国を築くことができたのは、信仰によるものでした。もちろん、それは神のなさる業でした。それを敢えてここでは<信仰によって>と語っているのです。

 モーセの信仰による生涯のいくつかの断面を通して、信仰者の歩みは、神の計画と導きのもとにあり、神が共にいてくださる歩みであることが示されました。

 わたしたちはキリストの福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊の証印を押されました。「この聖霊はわたしたちが御国を受け継ぐための保証です」(エペソ1:14)。「わたしは神に対して生きるために、キリストと共に十字架に死んだのです。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)。朽ちるものに執着せず、この世の旅人として、御国(さらにまさった故郷)を目指し、「わたしのうちに生きておられる」キリストとともに、キリストの溢れるばかりの愛と力を受けて、「人を愛する信仰による生涯」を全うしようではありませんか。「わたしは、決してあなたから離れず、決して置き去りにはしない」(ヘブライ13:5)と主は言わています。「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる(ヨシュア記1:5)「わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り」(創世記28:15)、御国にあなたを迎える、と主は言われています。

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「キリストの苦しみにあずかる喜び」 使徒言行録5章27~42節

2018-10-06 20:17:22 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

             日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

  聖霊降臨節第21主日  2018年10月7日(日)   午後5時~5時50分 

                               礼 拝 順 序

                                                司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 532(やすかれ、わがこころよ)

交読詩編   33(主に従う人よ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)使徒言行録5章27~42節(p.222)

説  教 「キリストの苦しみにあずかる喜び」辺見宗邦牧師 

祈 祷                 

聖餐式    78(わが主よ、ここに集い)

讃美歌(21) 533(どんなときでも)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

                                       次週礼拝 10月14日(日) 午後5時~5時50分

                                        聖 書  ヘブライ人への手紙11章23~28節

                                        説教題    「信仰による生涯」

                                        讃美歌(21) 355 461 24 交読詩編26

           本日の聖書 使徒言行録5章27~42節

5:27彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。28「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」29ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。30わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。31神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。32わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」33これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。34ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、35それから、議員たちにこう言った。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。36以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。37その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。38そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、39神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」一同はこの意見に従い、40使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。41それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、42毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。

                 本日の説教

 5章17節から26節にかけては、使徒たちの逮捕が記されています。教会の敵対者たち(大祭司とその仲間のサドカイ派の人々)が皆立ちあがり、使徒たちを捕らえて公の牢に入れました。その理由は4:2のようにイエスの復活ではなく、<ねたみに燃えて>いたからです。そのねたみは、使徒たちが民衆の間で病人を癒すなど、多くのしるしと、不思議な業を行ったことで、多くの男女が主を信じ、その数がますます増えていったからです。

 夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、「行って神殿の境内に立ち、復活の命に関する教えを残らず民衆に告げなさい」と言いました。これを聞いた使徒たちは、夜明けごろ境内に入って教え始めました。

 一方、大祭司とその仲間は、最高法院を招集し、使徒たちを引き出すために、人を牢に差し向けました。下役たちが行ってみると、使徒たちは牢にいませんでした。神殿守衛長と祭司長たちは、使徒たちが境内にいることを知ると、守衛長は下役を率いて出て行き、使徒たちを捕まえて連れてきました。しかし、民衆の反感を買い、石を投げつけられるのを恐れて、手荒なことはしませんでした。

 「彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。『あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。』」(5:27,28)

 大祭司が尋問しました。当時の大祭司はカヤパ(17-36年在位)です。4:6で「大祭司」といわれているアンナス(6-15年在位)は退位していましたが、依然として実権をにぎっていました。<あの名>とは、「イエスの名](4:18)です。イエスの名によって決して教えてはならないと厳しく命じておいたのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男イエスを十字架につけて殺した責任を我々に負わせようとしていると罪状を告発しました。

 「ペトロとほかの使徒たちは答えた。『人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。』」(5:29)

 <人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません>はソクラテスの弁明「(私は)あなたがたよりも、神に従うであろう」に近いことばになっています。4章19節では、ペトロとヨハネが、「神に従わないであなたがたにしたがうことが、神の前に正しいかどうか、考えてください」と弁明しています。

 「わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。31神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。」(5:30,31)

 <木につけて殺した>は、十字架につけたことを言っています。神は、あなたがたが十字架につけたイエスを復活させられました。神は、<イスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すため>であり、この方を救い主として、神は御自分の右に上げられました。

「わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」(5:32)

 <この事実>」とは、イエスの復活と天に上げられた高挙を指します。<わたしたちはこの事実の証人である>と使徒たちは宣言しました。神は、神に従う人々に聖霊を与えられる。<聖霊も証ししておられる>とは、<会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる>(ルカ12:11-12)に基づいています。使徒たちだけではなく、神の聖霊も、この事実を証している、と答えたのです。

 「これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ」(5:33-34)

 ペトロと使徒たちの証言を聞いた人々が<激しく怒り、使徒たちを殺そう>と考えました。ステファノの殉教のときも人々は<激しく怒り>(7:54)ました。殉教の寸前の状態になったのです。しかしここでは、ファリサイ派の<律法の教師>であるガマリエルの提案で、使徒たちは救われます。ガマリエルは、紀元25~50年頃、エルサレムで教えていた有名な律法学者であり、議員の一人でもありました。ガマリエルは、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、秘密会議にしたのです。

 「それから、議員たちにこう言った。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。」(5:35-36)

 ガマリエルの提案が始まります。まず<あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい>と述べます。その理由の一つは、テウダのユダヤ反乱の事件です。紀元一世紀に生きていた歴史家ヨセフスの「古代史」によると、テウダはユダヤの総督クスビウス・ファドゥス(紀元44-46年在位)の時代に預言者と自称し、命ずれば、ヨルダン河の川水を、一言で分かって、対岸への通路を拓いて見せると言って、ヨルダン河岸の群衆を扇動したが、多くの群衆はローマ総督の派遣した騎兵隊に殺され、彼も捕らえられて殺されました。その後は、<跡形もなく>平定された、とガマリエルは語りました。ルカはこの事件を<以前にも>と言って、ガマリエルの提案がなされている時点(30年代初期)以前の事件として、年代を間違えたようです。

 「その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。」(5:37)

 理由のもう一つの歴史的事件は、ガリラヤ人のユダの反乱です。ルカにとって<住民登録の時>は、イエス誕生の時となっているが(ルカ2:2)、この<住民登録>は紀元6年に行われています。ルカは、この紀元6年の反乱をテウダの乱の後においているので,これもまたルカの間違いです。

  ヨセフスの証言によれば、ガリラヤのユダはファリサイ派のサドクと組んで決起し、住民登録の拒否を民衆に訴え、反乱に駆り立てたが、ユダの反乱は鎮圧されました。ユダ自身の死についてはヨセフスは一言もふれていません。ガマリエルの証言が史実と一致しないのは、ルカの構成によるものと考えられます。ルカが80年代後半に使徒言行録を執筆しているので、30年代のガマリエルが、40年代のことを過去の出来事として、思い違いして語ることが出来たのでしょう。

「そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」(5:38-39a)

  そこで今、<あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい>とガマリエルは提案しました。<あの計画や行動が人間から出たものなら>自然消滅するし、<神から出たものであれば>、彼らを滅ぼすことはできないし、神に逆らう者となる、と比較して、解決の時の経過になかせるように訴えたのです。彼の意見は、あまりに性急な議決をしない、慎重な考慮を求めたのです。彼の発言は、使徒たちの<計画や行動>が実際に神から出たものであることを暗示しようとしています。

 「一同はこの意見に従い、使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。」(5:39b-40)

 最高法院は彼の進言に従い、使徒たちを呼び入れ、治安を乱したかどで鞭で打ちます。議員たちが申命記25:3の規定に従って、使徒たちに「四十に一つ足りない鞭」を加えたのでしょう。イエスも同じ罰に耐えられました(ルカ22:63)。議員たち一同は、<イエスの名によって話してはならない>と使徒たちに命じ、釈放しました。

 「それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。」(5:41-42)

   釈放されたで使徒たちの振る舞いについて二つの報告がなされています。一つは、使徒たちは<イエスの名のために辱めを受ける>ことを喜びとして、最高法院から出て行ったことです。人の目には不名誉なことであっても、<イエスの名のために>苦しむことは、彼らには光栄でした。もう一つは、彼らは宣教することを止めなかったことです。原始教会の使徒たちは、<毎日>、<神殿の境内や家々>で、<メシアであるイエスを教え、かつ福音を告げ知らせることを止め>ませんでした。使徒たちは最高法院の禁令にもかかわらず、宣教を止めませんでした。

 使徒たちの反応は注目すべきものです。彼らは恐れず、また勇気を失ってはいません。すべての苦しみは耐え忍ぶべきものであったが、<イエスの名のため>の苦しみはーイエスのため、またイエスにならってゆくための苦しみーは感謝と喜びへの機会となったのです。

     苦難における喜びは新約聖書における確かな体験です。「キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです」(ペトロ一、4:13)とあります。ヤコブの手紙1:2には、「いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。」と試練や患難に耐えることが勧められています。わたしたしは聖霊の力を与えられて、主イエスの証人とされています。人間の力を頼みとせず、共にいてくださるイエス様と共に、苦しみをも喜び、福音を宣べ伝え、備えられた信仰生活を送りましょう。

「どんなときでも、どんなときでも、苦しみにまけず、くじけてはならない。              イェスさまの、イェスさまの、愛をしんじて。                               どんなときでも、どんなときでも、しあわせをのぞみ、くじけてはならない。    イェスさまの、イェスさまの、愛があるから。」(讃美歌21.533番)

「わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」(ローマ8:37)

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