富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「キリストの復活」ヨハネによる福音書20章1-18節

2024-03-28 19:06:57 | キリスト教

 ↑ レンブラント・ファン・トレイン1606-1669オランダの画家             「ノリ・メ・タンゲレ(我に触れるな)」1638年の作品 61 x 49,5 cm            所蔵:バッキンガム宮王室コレクション ロンドン

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

復活節第1主日(復活日) 2024年3月31日(日)午後2時~2時50分

                        礼 拝 順 序                

前 奏                辺見トモ子姉

司 会                邉見 順子姉

讃美歌(21)  325(キリスト・イエスは、ハレルヤ)

交読詩篇     30(主よ、あなたをあがめます)

主の祈り     93-5、A

使徒信条     93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書20章1-18節(新p.209)

説 教      「キリストの復活」  辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21)   333(主の復活、ハレルヤ)

献 金

感謝祈祷

頌 栄(21)    27(父・子・聖霊の)

           次週礼拝 4月7日(日)午後3時~3時50分

           聖 書 ヨハネによる福音書20章19~31節

           説教題   「復活顕現(1)」

           讃美歌(21)335 329 27 交読詩篇 118:13-25 

  本日の聖書 ヨハネによる福音書20章1~18節

 1週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。2そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」3そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。4二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。5身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。6続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。7イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。8それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。9イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。10それから、この弟子たちは家に帰って行った。

  11マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、12イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。 20:13天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」14こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。15イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」16イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。17イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」18マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

 本日の説教

 過越祭の準備の日(金曜日)、ピラトは十字架につけるためにイエスをユダヤ人たちに引き渡しました。イエスを引き取ったユダヤ人たちは、ローマの兵卒たちに処刑の作業をさせました(19:16-18)。

 主イエスはゴルゴタ(「されこうべの場所」の意味)で十字架につけられました。そこはエルサレムの都に近い場所でした。イエスの十字架のそばに、イエスの母マリアと母の姉妹と、クロパの妻マリアと、マグダラのマリアが立っていました(19:25)。

 この後、主の母マリアはヨハネの家に引き取られます。午後3時頃、イエスは息を引き取られました。

 「マグダラのマリア」は、イエスに「七つの悪霊を追い出していただいた婦人」です(ルカ8:2)。彼女はガリラヤ湖西岸の町マグダラ出身の女性です。「七つの悪霊」とは神経系の病気と思われます。当時の人々は目に見えない悪霊が存在して、それが人の精神を乱したり、種々の病気を起こすと信じていました。彼女はひどい心霊的苦悩からイエスによって救い出された女性です。マリアは病気をいやしていただいたことに感謝し、イエスを慕い愛しました。イエスに付き従って行動を共にしたことは自然なことです。

   イエスが十字架につけられた日(金曜日)の日没から、ユダヤでは安息日に入ります。過越祭の特別な安息日です。この安息日になる前に、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身の「身分の高い議員」(マルコ15:43)ヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ローマから派遣されている総督ピラトに勇気を出して願い出て許されました。ヨセフはゴルゴタに行って遺体を取り降ろしました。そこへ、かつてある夜、イエスに会ったことのある「ファリサイ派に属する議員」(3:1-15)であるニコデモが、没薬と沈香を混ぜた物を持って来たので、二人はイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布に包みました。

   イエスが十字架につけられた所には園があり、そこにはだれも葬られたことのない新しい岩を掘って作った墓がありました。そこにイエスを納め、墓の入り口には大きな石を転がして入り口をふさぎました。それは日没前に急いでなされた仮埋葬でした。マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていました(マルコ15:47)。

   マリアは翌日(土曜日)の夕方、安息日が終わるのを待って、イエスに油を塗りに行くために香料を買っておきました(マルコ16:1)。

(次から、今日の聖書の箇所に入ります。)

      週の初めの日、日曜日の朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは、「用意しておいた香料を携えて」(ルカ24:1)墓に行きました。他の福音書では、マリアは数人の女性と共に墓に行ったと記していますが、ヨハネ福音書はマグダラのマリアが一人で行ったように記し、マリア一人に焦点を当てています。マリアは墓の入り口から石が取りのけてあるのを見ました。マリアは誰かが墓に入って、イエスの遺体を運び去ったと思ってしまいます。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げました。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」と伝えました。

 「イエスが愛しておられた弟子」とは、この福音書の著者であり(21:24)、12弟子の一人、ゼベダイ子ヨハネとも考えられるし、あるいは、特定のだれかを指すというよりも、イエスがその愛を注ぎつくされた、地上に残された弟子たちの集団を、イエスが愛した弟子として表現したと考えられています。

 そのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行きました。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着きました。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてありました。しかし、彼は中には入りませんでした。続いて、シモン・ペトロも着きました。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見ました。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所にはなく、離れた所に丸めてありました。遺体を盗むのであれば亜麻布で包んだままで運ぶはずです。丁重に亜麻布が解かれているのは、イエスの身体がこの場所から出て行ったことを示しています。それは、イエスの死体が決して盗まれたのではないということの証しになっています。先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じました。彼は、遺体がないのを見て、イエスが復活されたことを信じます。しかしまだ浅い信仰です。

 それから、この弟子たちは家に帰って行きました。彼らは「不思議に思いながら家に帰って行きました」(ルカ24:12)。

 マリアは二人の弟子が家に帰った後も、墓の外に残って立ち、泣いていました。マリアはその場を立ち去ることも出来ずにいました。彼女は遺体が見つからないことにあきらめきれず、泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えました。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていました。しかしマリアはそれが天使であるとは気付かなったようです。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」と言いました。マリアは、大切な主の遺体がどこかに移されて、見失ってしまった悲しみを訴えます。マリアがいかにイエスを慕い愛していたか、その深い心情が、この言葉に込められています。

 こう言いながら、人の気配を感じたのか、マリアは後ろを振り向くと、人の立っておられるのが見えました。しかし、それがイエスだとは分かりませんでした。イエスは「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と言われました。マリアは、園丁(墓園の管理人)だと思って、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」と言いました。マリアとしてはせめてもイエスの遺体にもう一度丁寧に油を塗って、正式に埋葬したいと願っていたのでしょう。イエスが、「マリア(ヘブライ語で<ミリアム>)」と言われると、彼女は振り向いて、自分の名を呼んだ方に、ヘブライ語で、「ラボニ」と呼びます。マリアは師であるイエスを呼ぶときにいつも用いていた呼び名です。このとき思わずその呼び名が口をついて出たのです。ラボニとは「(わたしの)先生」という意味です。これはマリアの素直な喜びの表現です。

  復活のキリストを目の当たりにしながらそれと気付かなかったマリアも、自分の名を呼ばれて、初めて霊の目が開かれたのです。

 嬉しさのあまり、マリアは思わずイエスにすがりつこうとしました。そのマリアに、イエスは「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われました。「まだ父のもとへ上っていないのだから」と言われました。復活したイエスは生前のイエスが現れたのではありません。イエスは地上の体ではなく、天の父なる神のもとへ上る霊の体となっています。マリアは、生前のイエスに対するのと同じ思いでイエスにすがりつこうとしたのです。しかし、イエスのこの拒否の言葉を聞き、マリアは死の支配に打ち勝たれた復活の主を見ました。イエスはマリアに、「わたしの兄弟たちのところへ行って、『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」言いなさいと、伝言を託しました。

 キリストが弟子たちをさして<わたしの兄弟たち>と言い、神はわたしの父であって、またあなたがたの父でもあると言われました。イエスはこれから父のみもとに上られることによって、イエスと弟子たちとは、地上のイエスと弟子たちとの関係以上に、深く結びつくことを告げたのです。

 マグダラのマリアは、イエスを失って失望の底にいた弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げました。そして、主から言われたことを伝えました。マグダラのマリアは復活されたイエスの最初の証人とされました。女性の証言する能力を認めなかった当時としてはおどろくべきことでした。

 復活したイエスと出会う前、マリアが見ていた墓は死者の世界、死の支配する領域でした。マリアはそこにイエスの死体を探し求めていました。愛し、慕っていたイエスとの結びつきは、イエスの死によって引き裂かれ、自分自身も生ける屍のような状況にありました。せめてイエスの死体を手厚く葬りたいと思っていました。もし、そのご遺体も見い出せなかったら彼女はどんなにか傷心したことでしょう。

   1995年1月17日に発生した震度7の阪神・淡路大震災では死者は6343人、行方不明者は3人です。

 2011年3月11日に発生した最大震度7の東日本大震災は津波による被害と福島第一原子力発電所の事故による災害も加わり、死者数15900人、行方不明者は2520人にもなりました。

 そして、今年2024年1月1日の能登半島地震では、火災による被害も多く、死者数244人です。2011年3月11日に発生した最大震度7の東日本大震災は津波による被害と福島第一原子力発電所の事故による災害も加わり、死者数1万5900人・行方不明者は2千520人にもなりました。

 2012年1月17日に発生した震度7の阪神・淡路大震災では死者は6千343人、行方不明者は3人です。

 そして、今年2024年1月1日の能登半島地震では、火災による被害も多く、死者数244人です。安否不明者は3人です。ご遺族の方々の心境が偲ばれ、心が痛みます。主よ、ご遺族の方々に慰め、亡くなった方々を天国にお迎えくださいと祈るほかありません。

  マグダラのマリアは復活したイエスと出会うことによって、絶望から希望へ、悲しみから喜びへ、死と滅びの世界から生命の支配へと変えられました。

  イエス・キリストは復活しました。父なる神によって、復活させられました。主イエスは死に勝たれました。主は、わたしたちに復活の命に生きる希望を与えてくださいます。永遠の命に生かされている保証として、聖霊を与えてくださいます。この神の恵みにあずかっていることに感謝し、多くの人がこの救いの恵みにあずかるように祈りましょう。

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「十字架への道」ヨハネによる福音書18章28-40節

2024-03-24 00:01:07 | キリスト教

    ↑ ピラトの審問

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403
日本福音教団 富 谷 教    週 報
受難節第6主日(棕櫚の主日) 2024年3月24日(日)午後2時~2時50分        
                       

                                礼 拝 順 序                
前 奏                辺見トモ子姉
司 会                邉見 順子姉
讃美歌(21) 531(主イェスこそわが望み)
交読詩篇    64(神よ、悩み訴えるわたしの声をお聞きください)
主の祈り    93-5、A
使徒信条    93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書18章28-40節(新p.204)
説 教      「十字架への道」   辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21)  297(栄えの主イェスの)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21)    27(父・子・聖霊の)

                             次週礼拝 3月31日(日)午後2時~2時50分
                             聖 書 ヨハネによる福音書20章1~18節
                             説教題   「キリストの復活」
                             讃美歌(21)325 332 27 交読詩篇 30 
     本日の聖書 ヨハネによる福音書18章28~40節
18:28人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。29そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。30彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。31ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。32それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。33そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。34イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」35ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」36イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」37そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」38ピラトは言った。「真理とは何か。」
     ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。39ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」40すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。

      本日の説教

イエスの十字架への受難の歩みが18章以下に記されています。木曜日の夕、イエスは弟子達と最後の夕食をしたあと、ゲッセマネ(油絞りの意)の園へ行かれた。その園で、ユダが連れてきた兵士と祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちに、イエスは捕らえら、大祭司カイアファ(カヤパ)のもとに連行されました。その後、大祭司アンナスの尋問を受けました。アンナスは、イエスを縛ったまま、カイアファのもとに送り返しました。

金曜日の明け方、人々はイエスをカイアファのところから、総督官邸に連れて行きました。

ユダヤ人たちは、過越の祭りの時には、異邦人に入らないことになっていたので、ピラトの官邸には入りませんでした。異邦人と接触することを避けたのです。「汚れないで過越の食事をするため」(28節)でした。中に入ろうとしないユダヤ人に対して、ローマ総督ピラトは、外に出てきて、イエスを訴える理由をめぐって、押し問答をします(29-30節)。

ピラトはユダヤ人の要求を退けて、「自分たちの律法によって裁け」と言うが、彼らは、聞き入れようとはしません。ユダヤ人には「人を死刑にする権限」がなかったからです(31節)。

ユダヤ式の石打ち刑ではなく、ローマ式の十字架刑に処せられることによって、イエスが自分の死に方について預言した言葉が実現することになります。12:32で、イエスは自分の死に方は「地上から上げられる」ことであると断言されています。「上げられる」は、十字架に昇ることと天への高挙の意味を合わせ持っています

 18章33節から、ピラトによるイエスへの尋問が開始されます。ピラトにとって、重要なことは、イエスが「ユダヤ人の王なのか」どうかということです(33節)。それはローマ帝国に反旗をひるがえす政治的メシア運動の首謀者かどうかということです。

イエスはそれに対して、ピラトが自分の判断で、そう言うのか、他人(ユダヤ人)の言葉に動かされてそう言うのかを問い正します(34節)。しかし、ピラトは、早急に決着をつけるために、イエスが「何をしたのか」を知ろうとします。

イエスは決定的な答えを与えます。「わたしの国は、この世には属していない」(36節)と。イエスの王的支配は、この世に属しているものではなく、上なる神の領域に属しているものであることをイエスは告げます。

イエスのそのような言葉を聞いて、ピラトは「やはり王なのか」と問います。イエスは「真理について証しをするために生れ、そのためにこの世に来たのである。ゆえにわたしの真理を受け、信じ、わたしの真理につく者は、わたしを真理の王、すなわち救い主、神の子なるまことの王として仰ぐのである。」神の真理は、イエスによって、この世に告知さ

 

 

れました。真理に属し、上なる神に領域に属する者は、イエスの「声を聞く」。その意味においてイエスは王なのです。しかしピラトは、イエスの言っていることが理解できません。

「真理とは何か」(38節a)という捨てぜりふを残して、ピラトは尋問の場を去っていくのです。政治的な関心、社会的な関心にのみつき動かされている者は、神の啓示者に相対しても、理解することができないのです。

総督は、ユダヤ人たちの所に戻って行って、「わたしは、あの男に何の罪も見いだせない」とイエスが無罪であることを宣言します。過越祭には、判決を下された罪人を釈放するのが慣例になっているピラトはイエスを放免するするのでなく、ユダヤ人に一つの提案をするのです。「ユダヤ人の王」とよばれるイエスを「釈放してほしいか」と、問うのです。しかし、ユダヤ人たちは、ピラトの予想に反して、強盗のバラバを釈放するように要求します。バラバは、強盗といっても、反ローマ運動を展開した人物であったと言われています。

ピラトはイエスの無罪をみとめながら、ユダヤ人たちの要求に押され、ユダヤ人対策のためから、遂にはイエスを十字架につけることを許してしまうのです(19:16)。しかもピラトは、自分には責任がない

として手を洗います(マタイ27:24)。ピラトは、

彼に委ねられた正しい裁判の責任を放棄するのです。

孤立を恐れて、周囲への同調、適応だけが関心と

なるとき、「真理とは何かという真剣な問い」は失 われます。そこからは、事なかれ主義、出世主義の道が通じます。

ピラトはイエスを捕らえ、鞭打ってから、十字架につけるために兵士に引き渡しました。年-36年) ポンテオ・ピラトはイエスを尋問し、十字架刑を宣告したことによって、「使徒信条」にその名を記されており、後世に悪名を残すことになります。

 

  ローマ総督(26 「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)と言われ、天上におられる主イエスは、わたしたちに聖霊を送って共にいてくださいます。勇気を与えられて、主イエスと共にこの世の旅路を歩むことができる幸いを感謝しようではありません2月14日水曜日から始まった受難節も、いよいよ今日から最後の一週間の受難週に入ります。ヨハネ福音書では、次のようになります。 
日曜日昼:エルサレム入城(ヨハネ12:12-19)
日付不明:エルサレムでギリシア人、イエスに会いに来る(ヨハネ12:20-50)
木曜日(過越の準備の日)の夕:最後の夕食(ヨハネ13:1-2)
           (過越の準備の日)の晩:ゲツセマネでの逮捕(ヨハネ18:1-12)
金曜日未明:大祭司の尋問(ヨハネ18:13-27)
   明方:ピラトの元へ(ヨハネ18:28-40)
      正午頃:イエスの裁判(ヨハネ19:1-17)
     12時~3時頃(マタイ27:45)十字架への張り付けと死:(ヨハネ19:18-30)
      夕:埋葬される(ヨハネ19:31-42)
土曜日(安息日):過越祭                                                                                    日曜日(週明けの日)の朝: 墓石の移動、復活する(ヨハネ20:1-10)

 

 イエスの十字架への受難の歩みが18章以下に記されています。木曜日の夕、イエスは弟子達と最後の夕食をしたあと、ゲッセマネ(油絞りの意)の園へ行かれた。その園で、ユダが連れてきた兵士と祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちに、イエスは捕らえら、大祭司カイアファ(カヤパ)のもとに連行されました。その後、大祭司アンナスの尋問を受けました。アンナスは、イエスを縛ったまま、カイアファのもとに送り返しました。

 金曜日の明け方、人々はイエスをカイアファのところから、総督官邸に連れて行きました。ユダヤ人たちは、過越の祭りの時には、異邦人に入らないことになっていたので、ピラトの官邸には入りませんでした。異邦人と接触することを避けたのです。「汚れないで過越の食事をするため」(28節)でした。中に入ろうとしないユダヤ人に対して、ローマ総督ピラトは、外に出てきて、イエスを訴える理由をめぐって、押し問答をします(29-30節)。

 ピラトはユダヤ人の要求を退けて、「自分たちの律法によって裁け」と言うが、彼らは、聞き入れようとはしません。ユダヤ人には「人を死刑にする権限」がなかったからです(31節)。

 ユダヤ式の石打ち刑ではなく、ローマ式の十字架刑に処せられることによって、イエスが自分の死に方について預言した言葉が実現することになります。12:32で、イエスは自分の死に方は「地上から上げられる」ことであると断言されています。「上げられる」は、十字架に昇ることと天への高挙の意味を合わせ持っています

 18章33節から、ピラトによるイエスへの尋問が開始されます。ピラトにとって、重要なことは、イエスが「ユダヤ人の王なのか」どうかということです(33節)。それはローマ帝国に反旗をひるがえす政治的メシア運動の首謀者かどうかということです。

 イエスはそれに対して、ピラトが自分の判断で、そう言うのか、他人(ユダヤ人)の言葉に動かされてそう言うのかを問い正します(34節)。しかし、ピラトは、早急に決着をつけるために、イエスが「何をしたのか」を知ろうとします。

 イエスは決定的な答えを与えます。「わたしの国は、この世には属していない」(36節)と。イエスの王的支配は、この世に属しているものではなく、上なる神の領域に属しているものであることをイエスは告げます。

 イエスのそのような言葉を聞いて、ピラトは「やはり王なのか」と問います。イエスは「真理について証しをするために生れ、そのためにこの世に来たのである。ゆえにわたしの真理を受け、信じ、わたしの真理につく者は、わたしを真理の王、すなわち救い主、神の子なるまことの王として仰ぐのである。」神の真理は、イエスによって、この世に告知されました。真理に属し、上なる神に領域に属する者は、イエスの「声を聞く」。その意味においてイエスは王なのです。しかしピラトは、イエスの言っていることが理解できません。

 「真理とは何か」(38節a)という捨てぜりふを残して、ピラトは尋問の場を去っていくのです。政治的な関心、社会的な関心にのみつき動かされている者は、神の啓示者に相対しても、理解することができないのです。

 総督は、ユダヤ人たちの所に戻って行って、「わたしは、あの男に何の罪も見いだせない」とイエスが無罪であることを宣言します。過越祭には、判決を下された罪人を釈放するのが慣例になっているピラトはイエスを放免するするのでなく、ユダヤ人に一つの提案をするのです。「ユダヤ人の王」とよばれるイエスを「釈放してほしいか」と、問うのです。しかし、ユダヤ人たちは、ピラトの予想に反して、強盗のバラバを釈放するように要求します。バラバは、強盗といっても、反ローマ運動を展開した人物であったと言われています。

 ピラトはイエスの無罪をみとめながら、ユダヤ人たちの要求に押され、ユダヤ人対策のためから、遂にはイエスを十字架につけることを許してしまうのです(19:16)。しかもピラトは、自分には責任がないとして手を洗います(マタイ27:24)。ピラトは、彼に委ねられた正しい裁判の責任を放棄するのです。

 孤立を恐れて、周囲への同調、適応だけが関心となるとき、「真理とは何かという真剣な問い」は失われます。そこからは、事なかれ主義、出世主義の道が通じます。

 ピラトはイエスを捕らえ、鞭打ってから、十字架につけるために兵士に引き渡しました。

  ローマ総督(26年-36年) ポンテオ・ピラトはイエスを尋問し、十字架刑を宣告したことによって、「使徒信条」にその名を記されており、後世に悪名を残すことになります。

 「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)と言われ、天上におられる主イエスは、わたしたちに聖霊を送って共にいてくださいます。勇気を与えられて、主イエスと共にこの世の旅路を歩むことができる幸いを感謝しようではありませんか。

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「十字架の勝利」ヨハネによる福音書12章20-36節

2024-03-12 22:16:30 | キリスト教

 ↑ 「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです。」12章21節       (フィリポを囲んでいる三人のギリシア人)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

受難節第5主日 2024年3月17日(日)午後2時~2時50分

       礼 拝 順 序                

前 奏                辺見トモ子姉

司 会                邉見 順子姉

讃美歌(21) 225(すべてのものらよ)

交読詩篇    22:23-32(わたしは兄弟たちに)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書12章20-36節(新p.192)

説 教     「十字架の勝利」   辺見宗邦牧師

祈 祷

聖餐式      78(わが主よ、ここに集い)

讃美歌(21)   502(光のある間に)

献 金

感謝祈祷

頌 栄(21)    27(父・子・聖霊の)

         次週礼拝 3月24日(日)午後2時~2時50分

         聖 書 ヨハネによる福音書18章1~40節

         説教題   「十字架への道」

         讃美歌(21)531 296 27 交読詩篇 64 

  本日の聖書 ヨハネによる福音書12章20~36節

20さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。21彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。22フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。23イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。24はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。25自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。26わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

27「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。28父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」

29そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。 30イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。 31今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。 32わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」 33イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。 34すると、群衆は言葉を返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」 35イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。 36光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」

 本日の説教

 過越祭の六日前の土曜日に、ベタニアに住むマリアがイエスに高価なナルドの香油を塗る出来事がありました。その翌日の「棕櫚(しゅろ)の日曜日」のことが、12章12-19に記されています。来週の礼拝は、その棕櫚の主日の礼拝です。

 今日の聖書の記事は、棕櫚の日曜日の翌日の月曜日か火曜日の出来事になります。いよいよイエスが十字架への道を歩む最後の一週間の記事に入ります。

 ギリシア人がイエスに会いに来たのは、その翌日の月曜日か火曜日の出来事になります。おそらく場所は神殿の異邦人の庭と思われます。

 「祭りのとき」とは一週間続く過越祭のことです。多くのユダヤ人たちがエルサレムに上って来ました。その中に数人のギリシア人がいました。彼らはおそらくユダヤ教に理解と同情を持つ神を畏れる異邦人と思われます。それはイエスにとって福音が異邦の民にも及ぶという新しい時の始まりを告げる出来事でした。

 ギリシア人たちは直接イエスのところへ行かないで、「ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポ」に「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と仲介を頼みました。フィリポに頼んだのは彼の名がギリシア的な名だったので、話しかけやすかったからかも知れません。フィリポもアンデレに話し、アンデレとフィリポが連れ立ってイエスのもとに行き、イエスに伝えました。

 今や福音はユダヤ民族の壁を破って、広くギリシア世界にまで伝えられる新しい時がきたのです。イエスは答えました。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」と言われました。

 栄光という言葉は、神が神であられることが分かり、神の御姿が栄光に満ちることです。イエス自身の姿もまた神に等しい者であり、栄光に輝くということです。ここで言われている「栄光をうける」とは、イエスが十字架で死ぬことを意味し、その十字架の死を通してイエスが再び天のみ座につくことを意味しています。これまで何回か「私の時はまだ来ていない」と繰り返し語られてきました(2:4、7:6、7:30、8:20)。しかし、今その時が来たとイエスは言われました。それはイエスの公生涯の終わりの時であり、完成の時です。

 一粒の麦は、そのまま、とって置かれたなら一粒のままにとどまる。しかしこれが蒔かれて地に落ちると、この一粒の麦自体は死ぬが、ここから芽が出て多くの実を結ぶようになる。

 ここではイエスが十字架について死ぬことによって多くの者たちが永遠の命を与えられ生かされるという逆説的真理が語られています。農耕生活を営み、特に小麦の栽培をしていたパレスチナ地方の人々には非常に分かりやすいたとえでした。しかしそこにイエスの死の深い意味がたとえの形で宣言されています。人々は人の子にこの世の勝利を期待し、イエスは十字架の死による勝利者であることを明らかにされたのです。イエスにとって栄光の時とは、人々のために自らを捧げ、仕える時でした。

 「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」「自分の命を愛する者」という時の「命」は、生まれながらの自然的生命です。そしてこの生命によってのみ生きようとする者は、その生命を失うことになる、というのです。

 これは、この世に生かされている命を愛し、感謝することを否定している教えではありません。ここで言われている<自分の命を愛する者>とは、神様からいただいている命、神様から頂いているすべての恵みや賜物を私物化し、神様から離れて、自己中心の生き方をする者のことです。この世の価値だけを追い求め、そこに人生の意味や充実を追い求める生き方です。それは快楽や名誉などだけではなく、教養や芸術など内面的・精神的価値をも含みます。そのような価値に自分の命の充実を求める者は、死によってすべてを失います。昨年膵臓がんで87歳で亡くなった元東京都知事石原慎太郎さんは、余命を告げられ、「死ぬのはつまらない」と語られました。「死んだら虚無」という言葉でした。

 「永遠の命に至る」という時の「永遠の命」は、神の国の生命であり、霊的生命です。<この世で自分の命を憎む者>とは、神様から離れて自己中心に生きようとする罪を離れ、イエスに仕え、イエスに従う者のことです。

 主イエスは自己中心の生き方から、神に仕え、神に従う神中心の生き方へと転換することを要求しておられるのです。しかしながら、人は誰でもあくまで自己を主張してやまない自己中心の心があり、地上的な自分の生活への執着があります。神中心の生き方へ転換しようとすれば、そこに内的な葛藤が始まります。それは自分の意志や努力では解決できません。イエスに従っていた弟子たちも、イエスの十字架の死のとき、皆イエスを捨てて逃げました。復活のイエスに出会い、聖霊の降臨を受けて再び立ち上がったのです。

 星野富弘さんの「花の詩画集」の中にこういう詩があります。「いのちが一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった。いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった」。

 多くの人がこの詩に感銘を受け、「いのちより大切なもの」って何だろう、といろいろ考えています。しかし私たちにはそれは明白です。いのちより大切なもの、それは主イエスの父である神との交わりであり、神の愛です。それを知らずに自分で自分の命を愛し、大切にし、保とうとしている間は、生きることは苦しいことです。大切な命を失ってしまう恐れと不安がいつもそこにあります。しかし、神が、その独り子をお与えになったほどに自分を愛して下さっていて、独り子を信じる者に永遠の命を得させて下さることを知ったなら、生きていることは本当に嬉しいこととなるのです。

 人間はより大きな神の恵みを受けることによってのみ、神中心の生きかたができるのです。主イエスの場合は父なる神と密接な愛で結ばれ、祈りの対話があり、必ず復活させてくださるという全能の神への信頼がありました。私達の場合は活ける主イエスとの「生命の交わり」に入れられ、聖霊の力をいただくことによってのみ、罪の自分を憎み、罪に打ち勝ち、イエスに従うことを喜ぶことができるのです。生きていることだけでなく、肉体における人生を終えて主のもとに召されることもまた、同じように嬉しいこととなるのです。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなた(父なる神)と、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです(ヨハネ17:3)」というイエスの祈りのことばがあります。イエスを受け入れたときから、死と罪の支配からの解放が始まり、永遠の命の歩みが始まり、最後に永遠の命に至るのです。

 私達に今最も必要なことは、「いのちより大切なもの」を知ること、主イエスの父である神の愛を知ることです。そのために主の日の礼拝があります。礼拝を守り、主イエスに従い、仕えていきましょう。「そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる」と26節にあります。主イエスと共に生きている私たちを父なる神が本当に大切にしてくださることを、私たちは礼拝において体験していくことができるのです。

 「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」この27-36節はヨハネ福音書のゲッセマネの園と言われる箇所です。「今、わたしは心騒ぐ。」イエスも人の子として、心の葛藤を経験されたことが、ここに示されています。死の時を直前にした人の子イエスの叫びです。<自分の命を愛する>心と、神のみ心に従おうとする心の葛藤で、イエスの心は動揺したのです。イエスは今父なる神との祈りを通し、霊的交りを経て、自ら十字架の道を決断するのです。

 <父よ>という呼びかけはイエス御自身の口から神に対してなされています。イエスと神との親密な父子関係が現わされています。「何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか」と死を避けたい思いがありました。<この時>とは十字架の死の苦しみの時です。「しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ」という自覚と決意が生まれます。<このことのために>とは、人間の罪の身代わりとなって十字架の死を遂げることです。神のみ旨がそこにあるなら私は喜んで父の意に従い、十字架を負おう、とイエスはついに決断したのです。<父よ、御名の栄光を現してください>とは、神の偉大さ、すばらしさを現してくだい、という祈りです。私達の祈りもまた、「わたしを御救い下さい」という自然な、あからさまな祈りと共に、「み名があがめられますように」と神にみ心を問い、ゆだねる真実な祈りを続ける者でなけれなりません。

 すると、天から声が聞こえました。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」それはイエスの十字架への道が、神の定められた歩みであり、神のみ旨にかなうものであることを確証しています。そしてそれはまさに「人の子が栄光を受ける時」(12:23)だったのです。イエスにたいする父なる神の声は、大きな励ましをイエスに与えました。このような励ましに支えられてイエスは使命を果たされるのです。

 そばにいた群衆はこれを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは、「天使がこの人に話しかけたのだ」と言いました。イエスは、この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、まだイエスが天から来た者であることが分からない人たちのためだと言われます。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。「今こそ」は終末の時、栄光を受ける時が来たことを強調しています。

 「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」(12:33)「上げられる」の第一の意味は、イエスが十字架の上にあげられるということと、死人の中から上げられるという第二の意味があります。イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのです。すると、群衆は「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」と言葉を返しました。 

 イエスは「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」と言われました。

 光と闇との対比においてイエスの存在、あるいは働きが示されています。イエス御自身が栄光を受ける時が来た、従って地上に存在する時間はいま少しの間である。この間に光であるイエスを信じ、弟子たちが光の子となり、イエスが彼らの中に共に住むようにし、光の中を歩くようにせよと言うのです。つまりイエスを受け入れて信ずるようになれということを勧めているのです。

 イエスの十字架の死は、サタンの勝利の時ではなく、それによってサタンが裁かれ、すべての者が罪の支配から解放されて、主のもとに引き寄せられる栄光への時です。だから、やみに追いつかれないように、光なるイエスが生きている時に、光を信じ、光の子とされることはすべての者に求められているのです。

 主イエスに従うわたしたちも、主イエスの祈りに学び、絶えず神に祈りつつ、聖霊の励ましと力をいただき、神のみ栄えを現しましょう。

 

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「香油を注がれた主イエス」ヨハネによる福音書12章1~8節

2024-03-06 23:15:30 | キリスト教

 ↑ 右がイエス、その足を持っているのがマリアだとすぐわかります。左前がラザロ、その後ろがユダ、その右後ろに立っているのがマルタか?イエスの視線はユダに向けられているようです。

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

受難節第4主日 2024年3月10日(日)午後2時~2時50分

      礼 拝 順 序                

前 奏                辺見トモ子姉

司 会                邉見 順子姉

讃美歌(21) 543(キリストの前に)

交読詩篇      2(なにゆえ、国々は騒ぎ立ち)

主の祈り     93-5、A

使徒信条     93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書12章1~8節(新p.191)

説 教     「香油を注がれた主」   辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21)   567(ナルドの香油)

献 金

感謝祈祷

頌 栄(21)    27(父・子・聖霊の)

          次週礼拝 3月17日(日)午後2時~2時50分

          聖 書 ヨハネによる福音書12章20~36節

          説教題   「十字架の勝利」

          讃美歌(21) 442 27 交読詩篇 22:23-32 

  本日の聖書 ヨハネによる福音書12章1~8

1過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。2イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。3そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。4弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。5「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」6彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。 7イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。8貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

 本日の説教

 今日の聖書の箇所は、11章との関連で書かれています。11章には、ベタニア村に住むマリアとその姉妹マルタの兄弟ラザロが病気になり死んだとき、このラザロをイエスがよみがえせた事が記されています。ラザロのよみがえりの出来事は、主イエスが復活であり、命であることを示された最後のしるしでした。イエスがラザロをよみがえらせたことは大きな波紋を巻き起こしました。このままでは皆がこの男を信じてしまう。そう思った大祭司と祭司長たちはイエスを殺そうとたくらみました。そこでイエスと弟子たちは、一時ベタニアを去り、荒れ野に近い地方のエフライムの町に滞在していました。

          イエスの移動

1エルサレム 2ヨハネがバプテスマを授けていた場所あたり 3ベタニヤ(ラザロが病気になった)            4イエスは出発を遅らせる 5弟子たちとベタニヤに行く。ラザロは死んで四日たっていた。イエスは彼をよみがえらせた  6目撃者が、その出来事を議会に報告した。彼らはイエスを殺す計画を立てた。7イエスは弟子たちとひそかにエフライム に旅をされた。  出来事の順序は、ヨハネ10:22-11:57による。

 過越祭が近づいた頃、イエスはエルサレムに行くことを決意され、またベタニアに行かれました。ベタニアは、エルサレム近郊の村で、オリーブ山の東南の麓にあり、エルサレムまでは3㎞の距離にあります。ベタニアにはイエスが愛したラザロとその姉妹マルタとマリアの他に、イエスが癒した重い皮膚病だったシモンの家がありました(マルコ14:3)。ベタニアはイエスが地上での最後の日々を過ごした村でした(マルコ14:17)。

 イエスがベタニアに行かれたのは過越祭の6日前です。イエスにとって最後の過越祭です。<過越祭>はかつてエジプトにおいて奴隷状態であったイスラエルが、神の導きによって脱出したことを記念する祭りです。神がエジプト人の初子を殺したとき,仔羊の血を鴨居と入口の2本の柱に塗ったユダヤ人の家だけは過ぎ越したという出来事にちなむ祭です。新約時代には過越祭の行事はユダヤ歴ニサン月(3月~4月)の14日の午後、神殿での羊の屠りで始まります。この日は、エルサレムの住民が各家庭で過越祭を祝って食する羊をほふるため、神殿に羊を連れて来るので、神殿境内は人と羊であふれます。当時エルサレムの人口は約3万人ですが、神殿内にはおよそ6400人が神殿につめかけたと推定されています。夕方までに祭司とレビ人による屠りと奉献の儀式があり、祭司の手によって羊の血が祭壇に注がれます。その儀式を終えてから、日没後各家庭でこの肉を食します。例年、過越祭には外地から10万人を超える巡礼者が訪れたと言われています。

 イエスは6日後の過越祭の初日、神殿で羊の屠りが行われる時に十字架の死を遂げることになるのです。そのような差し迫った状況の中で、イエスはベタニアに行かれました。そこにはイエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいました。イエスのために夕食が用意され、マルタは給仕をしていました。ラザロはイエスと共に食事の席についた人々に中にいました。

 そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐいました。<1リトラ>は約326gです。缶ジュース1本ぐらいの量です。<ナルドの香油>とは、インドやネパールが原産で、ヒマラヤの高地に自生する高さ15~30㎝位の植物の根茎から抽出する精油で、英名はスパイクナード、別名ナルドと言い、主に鎮静作用があり、皮膚の保湿効果もがあります。当時は、ギリシア、ローマ世界で珍重された高価な香油です。ソロモン王の栄華を伝えるために雅歌にも出てきます(4:13)。

          

   ナルド、オミナエシカの植物  アラバスターの壺                   【15-30㎝の小形の多年草で、ヒマラヤやネパールの高地の原産。     葉も短い茎も毛で覆われている。花は淡紅色で花茎の頂きに多数集まる。  どの部分も芳香のある精油を含むが、それを絞って油にとかしたものを   アラバスターの壺に入れて取り引きされた。ナルドを使う時にはアラバ   スタ-の壺を割らなければならなかった。イスラエルではインドから    輸入された、大変高価なものであった。】

 同じような香油注ぎの話(並行記事)が、マルコ福音書14:3~9、    マタイ福音書26:6~13にあります。また似た話がルカ福音書7:36~49にあります。ルカ福音書では、イエスのガリラヤ伝道の時に、ファリサイ派の人 の家で「一人の罪深い女」がイエスの足を涙でぬらし、髪の毛でぬぐい、接吻して香油を塗った話になっています。この女がマグダラのマリア(ルカ8:2)と同一視されるようになったのは、後世の教会伝承によるもので、聖書にはその根拠はありません。

 マリアはイエスの足に香油を塗っていますが、それは当時饗応の食事の場合は、身を横にして、左手で頬杖をつき、右手で食事をするという姿勢だったので、足が後ろの方にあるので、容易に足に塗ることができたのです。         

 マリアが高価な香油を惜しみなくイエスの足に塗り、<自分の髪でその足をぬぐった>行為は、普通では誰も思いつかない奇抜な行為でした。香油の香りで家はいっぱいになりました。

 その場にいた人たちは、マリアの振舞いを理解できなかったと思います。イエスの弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と彼女の無駄と思える浪費をとがめました。

 <三百デナリオン>とは、労働者のおよそ三百日分の収入に相当します。それだけの費用があれば、貧しい多くの人を助けることが出来ると、ユダは言ったのです。しかし、ユダがこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではありません。「彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」と、説明があります。ユダは金銭への執着がありました。ユダは人間的な欲望のために、やがて悪魔の誘惑に陥りました。人はしばしばもっともらしい理屈をつけて、自分の冷たい心や、自己本位の心を覆い隠そうとします。過越しの食事の後、ユダは祭司長たちから銀貨三十枚をもらってイエスを売り渡し、裏切りました(マタイ27:3、4)。

 人は皆、信者のなすべきことは貧者に施し、病者弱者を助け、社会を善くすることなどの愛であると考えます。しかしキリストは、キリストを愛し、キリストに仕えることこそクリスチャンの第一の義務であり、つとめであると教えるのです。これは多くの人をつまずかせるに足る教えです。だがまずキリストを愛せよ。あなたの持ってるものその財産のみならず、身体、霊魂、心、信仰の全部をささげてキリストを愛せよ。これが救いの第一歩です。

 ユダのマリアに対する非難を聞いたイエスは言われました。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」マリアのイエスに対する振舞いは、兄弟のラザロをよみがえらせてくださったイエスへの深い感謝と、自分たち家族を愛してくださるイエスへの尊敬と愛を表す素直な思い切った行動でした。イエスはそれをお認めになり、お喜びになられたのです。

 マリアがイエスの死を予感し、その準備のために香油を貯えていたのかどうかはわかりません。また、イエスの死の備えをするために香油を注いだのかどうかも分かりません。しかし、主イエスはその日のマリアの振舞いをご自分の死への準備とし、死体への塗油の先取りとして受けとられたのです。ユダヤでは遺体を埋葬するとき、遺体に香油を塗り、布で包んで墓に納めました。それが「葬りの備え」です。イエスはマリアの香油の塗油をご自分の埋葬の準備としてお受けになったのです。

 イエスは言われます。「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」ここで主イエスが言っていることは、いつでもできる事と、今しか出来ない事というものがあるということです。「わたしはいつも一緒にいるわけでなはない」と言われて、人々の罪の贖いとなって十字架の死に向かわれる方に、マリアはおそらく意識しないまま、その時彼女ができる最善のことをしたのだと思います。彼女の振る舞いは、この六日後には十字架上で死に、ゴルゴダの墓に葬られる死者イエスの塗油の先取りであり、一回限りの最終的表現でした。

 日本には、「一期一会」という言葉があります。人と人との出会いは、常に人生で一度きりのものと心得て、相手に対して精一杯の誠意を尽くさなければならない、という意味で用いられる茶道の教えの言葉です。マリアは意識していたわけではなかったと思いますが、これから自分にかわって十字架にかかってくださるイエス様に、私の救いのために命を捨ててくださるイエス様に、せめて自分の大切な宝、出来る限りの最高の贈り物をしようとした香油注ぎは、時に適う一期一会の行為でした。貧しい者を助け、隣人を愛することも大切ですが神を愛することはさらに大切です。この愛がベタニヤのマリアによって、ささげられたのです。彼女はもてる宝を捧げ、献身のしるしとしたのです。家中にいっぱいになったナルドの香油の香りは、彼女のかぐわしい信仰の香りでした。イエス様は「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるであろう(マルコ14:8~9)」と言って称賛されました。イエスに対するマリアのこの香油注ぎを、わたしたちも称賛しようではありませんか。いや、称賛するだけではなく、マリアの主イエスを愛する信仰を学び、「増させたまえ、主を愛する愛を」(讃美歌21,483番)と、わたしたちもひたすら祈り求めたいと思います。

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