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富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「新しい命・悪徳に勝つには」 コロサイの使徒への手紙3章1~11節

2017-04-30 14:50:17 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

日本キリスト教 富 谷 教 会   週 報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

復活節第3主日  2017年4月30日(日)   午後5時~5時50分

             礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 206(七日の旅路)

交読詩編  116(わたしは主を愛する)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳)コロサイの使徒への手紙3章1~11節(p.371)

説  教  「新しい命・悪徳に勝には」 辺見宗邦牧師

祈 祷         

讃美歌   325(キリスト・イエスは)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

                                   次週礼拝 5月7日(日) 午後5時~5時50分

                                     聖書  ヨハネによる福音書11章17~27節

                                     説教    「イエスは復活また命」

                                     讃美歌(21)432 453 24 交読詩編136

    本日の聖書 コロサイの使徒への手紙3章1~11節

 1さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。 2上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。 3あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。 4あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。 5だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。 6これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。 7あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。 8今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。 9互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、 10造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。 11そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。

    本日の説教

 コロサイの町は、現在のトルコ共和国の壮大な石灰棚で世界遺産となっているパムッカレの近くにあった町です。この町の周辺には、ラオディキアやヒエラポリスの町(コロサイ4:13)がありました。コロサイは、西海岸のエーゲ海に面していたエフェソ(イズミールの南50~60㌔にあるエフェス遺跡)から東に150㌔に位置し、かつては東西の交通の要所として繁栄した町です。

 コロサイの教会の成立は、パウロの協力者、コロサイ出身のエパフラスを通じて福音が伝えられ、教会の基礎が置かれたものと考えられています。エパフラスは異邦人キリスト者であり、コロサイの信徒たちももともとは異邦人でした(コロサイ1:21、2:13)。コロサイ書は、フィリピ、フィレモン、エフェソ書と共に、パウロの獄中書簡と呼ばれています(コロサイ4:3,10,18)。投獄されていた場所としては従来、ローマとカイサリアが想定されてきましたが、エフェソも有力な候補地として挙げられるようになっています。

 今日の聖書の箇所に入る前に、「主キリスト・イエスを受け入れた」コロサイの信徒たちに、パウロは次のように説き、「キリストに結ばれて歩きなさい」(2章6節)と勧めます。

 1.「あなたがたは…洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。…罪の中に死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。」(2章12~13節)

 信徒たちは洗礼によって、キリストの十字架と共に死に、キリストの復活にあずかって、キリストと共に、<新しい命>に生かされていることを自覚させます。

 2.「あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属していうるかのように生き、「手をつけるな。味わうな。触れるな」などという戒律に縛られているのですか。」(2章20,21節)

 信徒たちは、キリストと共にこの世に対して死んでいることを再度強調し、世を支配している戒律にとらわれているなら、再び<世を支配する霊>の支配に戻ってしまうことになってしまいます。キリストの死によって、世の力の影響から信徒たちがすでに解放さたことを、使徒は断言し、すでに世に属していない者であることを自覚させます。

 そして、今日の聖書の箇所が始まります。

 「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。」(3章1節)

 古い秩序(世を支配している諸霊)に生きて、縛られていた生活から、キリスト共に復活した新しい命の秩序(望ましいあり方)へ促す生き方を勧めます。<上にあるものを求めなさい>の<上のもの>とは、神の領域、天であり、栄光のキリストのいるところです。

 「地上のものではなく、上のものを求める」(3:1,2,5)ようにと命じて励ますことの根拠は、コロサイの信徒たちが古い支配に死んだこと(2:20)であり、今はキリストと共に復活して、新しい命にあずかっている事実です。彼らの命の源は、彼ら自身の命ではなく、キリストの命を生きているのです。しかしながら、このことはすべてがすでに完成し、最後の日はすでに到来したということではありません。将来の完成を見ているのです。信徒たちの新しい命は、今はキリストの命と共に神のうちに隠されているのです(3:3)。その完全は完成と現れは将来のキリストの現れを待つ必要があります。だからこそ、使徒は信徒たちを励まして、「上のものを求めなさい」と命じているのです。

だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。」(3章5節)

 五つの悪徳のリスト、<①みだらな行い、②不潔な行い、③情欲、④悪い欲望、⑤貪欲>は、性の乱れとして表面化しているものから、その根源である「貪欲」へと質的に深められて、欲望に属する罪として記されています。<みだらな行い>は、性的な不品行であり、<不潔な行い>は、汚れた放らつな生活であり、<情欲>は悪しき情熱、性的倒錯であり、良くない<悪い欲望>であり、<貪欲>は、より多くを所有したいというむさぼりの欲望です。特に異邦人の信仰者は、ここにあげられている罪のリストに注意を払わなければなりません。異邦人は、性的不道徳に対して寛容な文化の中に育っており、地上のものに心を寄せるという意味で偶像礼拝者です。「貪欲」に対しても無頓着です。そこで異邦人は、そうしたことに厳しい態度をとっているユダヤ人以上に、警戒が必要なのです。

 <捨て去りなさい>は、原語では「殺しなさい」という、とても厳しい命令です。罪の現れとしての性的な放縦、貪欲、ときっぱりと別れることが命じられています。信徒たちはキリストと共に死に、キリストの新しい命を生きる以上、これが「地上の肢体」への抵抗の根拠と力になるのです。わたしたちの「命」が「キリストと共に栄光のうちに現れる」ことが確実であるからこそ<地上的なもの>への闘いに立ち上がることができるのです。

 パウロははっきりと言います。「あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました」と。この「以前」の生活は、「今は」キリストと共にあることによって「過去」とされたのであり、「過去」のこととしなければならないのです。

 ところでこうした悪徳の根源は、「偶像礼拝」(5節)であり、それゆえ「神の怒り」の対象になります(6節)。従ってこれらの悪徳の克服は真の礼拝に立ち返る他ありません。悪徳に対して直接立ち向かうだけでは新しい道徳主義、自力主義になるだけで、それでは「ほしいままな肉欲を防ぐのに、なんの役にも立つものではありません」(口語訳聖書2:23)。パウロの強い勧告は、道徳的な闘いを求めているのではありません。「上にあるものを求めよ」ということを前提にしているのです。

 関田寛雄氏は次のようなすぐれた見解を述べています。「自力主義で悪徳に立ち向かっても絶対に勝目はない。…」「上にあるもの」に導かれることなくして悪徳への闘いは不可能である」と述べ、氏は内村鑑三の所感を引用しています。「悪とは神を離れて存在することであり、神と共にあるならば、万事すべの行いは善となります。わたしたちは悪を避けようとするよりも、むしろ神と共にいることをつとむべきであり、そうすればわたしたちはおのずから善をなすことができ、悔い改めの苦痛を感じることもなくなるでしょう。」(筆者による口語訳)(説教者のための聖書講解№43,p.51)

 「上なるものを思い」、自らの「貪欲」による「偶像礼拝」を捨て、「霊の導きに従って歩く」ならば、「そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」(ガラテヤ5:16)。ローマ書にも、「霊ではなく、肉に従って歩む者は、肉に属することを考えます。…肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。…肉に従って生きるならあなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を断つならば、あなたがたは生きます」(ローマ書8章5~13)とあります。

「今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはなりません。」(3章8節)

 先の5節の悪徳は自己に関する悪徳とすれば、8節の悪徳は他者に関わる悪徳です。①<怒り>、②憤り、③悪意、④そしり、⑤恥ずべき言葉、の五つの言葉や感情に関する罪をあげています。ここでも「捨てなさい」と命じています。そして最も端的なまとめとして、「うそをついてはなりません」と警告しています。見えを飾ることも、過度の謙遜も、陰口も、この世に毒された「うそ」です。

 「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」(3章9、10節)

 新しい人とされたわたしたちは、古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、<造り主の姿に倣う新しい人を身に着け>て歩むように勧めています。そして、新しい人、神の姿に倣うキリストにある望ましいあり方に、日々新たにされて、この人格的に新たにされることこそが、「真の知識」に至るのです。それを完成させてくださるのは、「あなたがたの中で善い業を始められた方(神)」であり、「キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださるのです」(フィリピ1章6節)。

 「そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。」(3章11節)

 <新しい人>には、民族的差別、宗教的、習慣的差別、身分的差別、及び文化的差別の一切が越えられ、差別が取は払われるのです。男も女もありません(ガラテヤ書3:28)。それは、「神の右に座しておられる」イエス・キリストの主権がこの世界の間化の機構のすべてを打ちこわし、自らこの世界の「すべて」となり、「すべてのもののうちにいます」という支配を確立するからです。わたしたちは皆、キリスト・イエスにおいて一つなのです。

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「イースター茶会」とイ―スターのメッセージ

2017-04-25 07:40:40 | キリスト教

      

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380  FAX:022-358-1403 

日本キリスト教富谷教会・茶席松風

       第25回イースター茶会         2017年4月15日(土)

礼拝の部 12時~12時30分

前 奏             奏楽 本城綾子師   

讃美歌(21) 325(キリスト・イェスは)

主の祈り

聖 書  マタイによる福音書28章1~10節

メッセージ「キリストは復活しました」 辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌    327(すべての民よ、よろこべ)                 

祝 祷               

後 奏

    共同訳聖書     (新共同訳) マタイによる福音書28章1~10節

  1さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。 2すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。 23その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。 24番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。 5天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、 26あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。 7それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」 8婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。 9すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。 10イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

             食事の時間 1230分~110

    午前の茶会 午前10時~11時50分

  午後の茶会 午後1時10分~3

    イースターのメッセージ  (参加者は39名)

  主イエスが十字架につけられた日は金曜日でした、午前九時に磔にされ、午後三時ごろ、イエスは大声で叫ばれました。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。そして息を引き取りました。

 金曜日の日没後から安息日が始まるので、遺体の引き取りをピラトに願い出た議員のアリマタヤ出身のヨセフは、急いでゴルゴタの処刑場の近くにある園の横穴式の自分の新しい墓に、埋葬し、大きな石で封印しました。それを見届けたのが、マグダラのマリアともう一人のマリアです。マグダラのマリアとは、ガリラヤ西岸のマグダラという町の出身のマリアのことです。彼女を苦しめた七つの悪霊から、主イエスに癒していただいたことに感謝し(ルカ8:2)、イエスを誰よりも熱くし、献身して、イエスの一行に奉仕した女性です。もう一人のマリアとは、マタイによる福音書ではイエスの母マリアのようです。(ヤコブとヨセフの母マリア(マタイ27:56)は、マタイ13:55では、イエスの母親マリアです。)

 安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行きました。

 すると、大きな地震が起こり、それを主の天使が天からって近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのです。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように真っ白でした。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになりました。

 天使は婦人たちに、「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」と告げました。<かねて言われたように>とは、イエスの一行がエルサレムに向かう途中、16:21、17:22,23、20:18,19、三度受難と復活について言われ、最後の晩餐の時には、復活した後、ガリラヤへ行くと予告しています。

 三度目の時は、いよいよエルサレムが近くなったときでした。イエスは12人の弟子を呼び寄せて、「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」と言われました。

  主イエスは、十字架の死と、三日目に復活することを結び付けて予告しています。弟子たちが、イエスの十字架の死を目撃しても失望することのないように、事前に語っておられたのです。しかし、それにもかかわらず、弟子たちは、イエスが捕らえられたとき、イエスを捨てて逃げたのです。ガリラヤからイエスに従ってきた女性たちだけが、最後までイエスの死を目撃しました。墓に葬られるところまで、見届けたのは、マグダラのマリアともう一人のマリアでした。

 天使からイエスの復活を告げられた婦人たちは、天使に言われたように、主イエスがガリラヤで弟子たち会うことを知らせるために走って行きました。

 すると、イエスが行く手に立っていて、挨拶の声をかけられました、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏しました。イエスは、「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」と話されました。主イエスは、イエスを捨てて裏切った弟子たちを<兄弟たち>と呼んでいます。イエスは弟子たちを赦し、愛しておられるのです。

 マグダラのマリアともう一人のマリアは、復活のイエスと最初に出会った証人となりました。疑い深いトマスという弟子も、復活の主との出会い、「わが主、わが神」と主イエスの復活を信じ、主イエスが神であることを信じました。

 なぜイエスはこのような十字架の死への道を自分の道として選ばれたのでしょうか。「人の子がこの世にきたのは、多くの人の贖いとして、自分の命を与えるためである」(マルコ10:45)と言っておられます。神から離れている人間の罪に対する神の怒りを、一身に受けて、身代わりなり、神の刑罰より救い、わたしたちのために、神の恵みと義と永遠の命を与えるために十字架の道を歩まれたのです。その最後は実に壮絶な死でした。しかし、主イエスは死んで終わったのではありません。

  イエス・キリストは復活しました。父なる神によって、陰府(よみ)の世界から復活させられました。主イエスは死に勝たれました。十字架の死に至るまで、父なる神に従順であった御子は、神の特別な力をもって復活させられ、天に上げられ、天と地の一切の権能を授かりました。

  主イエスはわたしたちに復活の命に生きる希望を与えてくださいました。永遠の命に生かされている保証として、聖霊を与えてくださいました。主イエスの復活を信じる信仰は、人間によるものではなく、神の恵みによって与えられるものです。″聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」とは言えないのです"(一コリント12.3)。

  復活したイエスと出会う前、マグダラのマリアたちが見ていた墓は死者の世界、死の支配する領域でした。そこにイエスの死体を探し求めていました。愛し、慕っていたイエスとの結びつきは、イエスの死によって引き裂かれ、自分自身も生ける屍のような状況にありました。せめてイエスの死体を手厚く葬りたいと思っていました。マグダラのマリアたちは復活したイエスと出会うことによって、絶望から希望へ、悲しみから喜びへ、死と滅びの世界から生命の支配へ、愛と信頼へと変えられました。

 よみがえられた栄光の姿のイエス様をほめたたえようではありませんか。ハレルヤ。

 

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「主の復活顕現」 マタイによる福音書28章11~20節

2017-04-23 15:48:17 | キリスト教

                ↑ ジョン・シングルトン・コプリー(1738~1815)アメリカ人画家 「キリストの昇天」(1775年作品) 81×73㎝

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

日本キリスト教 富 谷 教 会    週 報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

復活節第2主日   2017年4月23日(日)     午後5時~5時50分

礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 326(地よ、声たかく)

交読詩編   16(神よ、守ってください)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書28章11~20節(p.60)

説  教    「主の復活顕現」   辺見宗邦牧師

祈 祷         

讃美歌   321(しずかな喜び)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

                                                  次週礼拝  4月30日(日) 午後5時~5時50分

                                                   聖書  マタイによる福音書12章38~42節

                                                   説教    「新しい命」

                                                   讃美歌(21)206 325 24 交読詩編116

   本日の聖書 マタイによる福音書28章11~20節

 11婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。 12そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、 13言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。 14もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」 15兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。

  16さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。 17そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。 18イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

     本日の説教

 ユダヤ人の祭司長たちは、イエスが生前に、十字架につけられた後、三日目によみがえると弟子たちに言っていたことを気にかけていました。彼らはそのような言葉を信じていたわけではありませんでした。だが、イエスの弟子たちが墓から遺体を盗み出し、イエスが死者の中から復活したと言いふらすかも知れません。そんな不安を覚えた彼らは、イエスの遺体が墓に葬られた翌日の土曜日、ユダヤを治めていたローマ総督ピラトのところに集まり、理由を告げて、三日目まで墓に番兵をおくように願い出ました。

 ピラトは、あなたたちには神殿警備隊の番兵がいるはずだから、その番兵に見張らせるがよいと答えました。そこで、彼らは墓の石に封印をし、番兵をおいていました。

 ところが、日曜日マグダラのマリアともう一人のマリアが明け方に、墓を見に行った少し前に、大きな地震が起こり、主の天使が天から降って近寄り、封印されていた石をわきへ転がし、その上に座ったので、番兵たちは恐れ、震え上がり、死人のようになりました。

 マルコによる福音書によると、マグダラのマリアたちが墓に着いたときには、番兵たち墓を去りました。

 婦人たちが、主の天使と、復活のイエスから、言われたことを伝えるために弟子たちのところへ急いで行きました。婦人たちが弟子たちの所に着く前に、数人の番兵は都に帰り、事の次第をすべて祭司長たちに報告しました。墓が空だったことも報告したのです。そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、偽証させました。弟子たちが夜中にやって来て、兵士たちが寝ている間に死体を盗んで行ったと言わせたのです。もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにすると約束したのです。兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにしました。ここに記されているのは、イエスの復活を否定するために虚偽のうわさを流すことに躍起になる祭司長たちの姿です。初代教会がここに記されているようなうわさが流されているただ中で、主イエスの復活を伝えていったのです。この話は、今日に至るまであるユダヤ人の間に広まって、マタイ福音書が書かれた時に及んでいます。

 さて、十一人の弟子たちは、婦人たちから聞いた主イエスの指示に従って、ガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登りました。山は、旧約以来、神が顕現する場所です。ガリラヤの山とは、山上の説教をされた山や、栄光の姿に変わられた山などが想起されます。弟子たちは、そこで、復活のイエスに会い、ひれ伏し、拝しました。しかし、疑う者もいました。主イエスの復活を信じる信仰は、人間によるものではなく、神の恵みによって与えられるものです。″聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」とは言えないのです"(一コリント12.3)。

   イエスは、近寄って来て、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言われました。

 復活によって、主イエスは全世界の主となられたのです。それゆえ、イスラエルの者たちに限られていた宣教を、すべての民に対して、全世界に向けて宣教するように弟子たちに命じたのです。ガリラヤから広く異邦世界への福音が展開するのです。このように、マタイによる福音書は、復活後エルサレムで起こった弟子たちへの顕現はすべて省き、弟子たちに対する宣教命令に焦点を当ています。

 「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」とあります。<父と子と聖霊>の三位一体の神が記されています。こうした三位一体的な言及は、Ⅰコリント12:4-6、エフェソ2:18、4:4-6にも出ています。すべての洗礼は、主イエスの名によって行われるものであり、ここには、御子が、御霊(みたま)として、御霊を与えるものとして働き神自らが、そこに働いて、救いを保証するのです。明らかにマタイは、宣教者たちが福音を宣べ伝えて信仰へと呼びかけるのは当然のこととしています。

   洗礼とともに重要なのは、すべての民を弟子とする、ということです。弟子とするとは、信仰者とするということです。イスラエル以外のすべての民も、その中に加えられるのです。

 さらに、弟子たちの命じておいたことをすべて守るように教えなさい、と命じています。洗礼を受けた者は、イエスの教えた新しい律法に生きることになるのです。それは主イエスと共にある生活をすることであります。

 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」マタイでは、よみがえりのイエスが天に上げられる前から継続して、インマヌエル、すなわち「神は我々と共におられる」お方であることを約束しています。(ルカ24:51では、イエスは「祝福しながら彼らを離れて、天に引き上げられた」とあるように、分離について語っています。)

  キリストは、ここに世界の支配者としての自らの立場を宣言されました。キリストの最後の共にいるとの約束の言葉は、伝道者だけに限定されたものではなく、教会全体とそれを構成するすべての会衆のためのものでもあり、主イエスの教えを守ることができるのも、伝道者たちの業も、主イエスが、彼らと共にいるから、できることなのです。主イエスは常にわたしたちと共にいてくださって、この世を完成させてくださるのです。

   イエスが天地を支配する一切の権能を授かったことは、イエスが神であることが明らかにされたのです。全宇宙の支配権を委任された主イエスが、わたしたちと共にいてくださるとは、何とありがたく、心強いことではないでしょうか。イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公けに宣べて、父なる神をたたえようではありませんか(フィリピ2:10-11)。

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「キリストの復活」 マタイによる福音書28章1~10節

2017-04-16 21:12:50 | キリスト教

     ↑ 作者Szymon Czechowicz 「復活」(キリストと十一人の弟子たち)1758年 ポーランドのクラクワ国立美術館所蔵

宮城県栗原市金成町(かんなりまち)にある「金成ハリストス正教会」聖堂内のキリストの復活の絵。 ↓

     

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

   日本キリスト教 富 谷 教 会    週 報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

復活節第1主日 (復活日) 2017年4月16日(日) 午後5時~5時50分

          礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

 讃美歌(21) 325(キリスト・イェスは)

交読詩編   30(主よ、あなたをあがめます)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書28章1~10節(p.58)

説  教    「キリストの復活」   辺見宗邦牧師

祈 祷         

讃美歌   327(すべての民よ、よろこべ)

聖餐式    72(まごころもて)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

                                次週礼拝  4月23日(日) 午後5時~5時50分

                                      聖書  マタイによる福音書28章11~15節

                                      説教    「主の復活顕現」

                                      讃美歌(21)326 321 24 交読詩編16 

    本日の聖書 マタイによる福音書28章1~10節

 1さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。 2すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。 23その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。 24番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。 5天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、 26あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。 7それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」 8婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。 9すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。 10イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

                 本日の説教

 主イエスがゴルゴダで十字架につけられた日は、金曜日、過越祭の日でした。ガリラヤからイエスに従って、弟子たちの世話をしていた大勢の婦人たちが遠くから見守りました。その中に、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア(イエスの母か?〈マタイ13:55〉)、ゼベダイの子ら(12弟子のヤコブとヨセフ)の母(サロメ〈マルコ15:40〉)」がいました。マグダラのマリアとは、ガリラヤ西岸のマグダラという町の出身のマリアのことです。彼女を苦しめた七つの悪霊から、主イエスに癒していただいたことに感謝し(ルカ8:2)、イエスを誰よりも熱く敬慕(けいぼ)し、献身して、イエスの一行に奉仕した女性です。

  夕方になると、アリマタヤ(エルサレム北西35㌔にある町)出身の金持ちでヨセフという人が来ました。ユダヤ議会の身分の高い議員(マルコ15:43)で、この人もイエスの弟子でした。この人が総督ピラトのところに行って、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出ました。そこでピラトは、部下に渡すようにと命じました。

  イエスが十字架につけられた所には園があり、そこにはだれも葬られたことのないヨセフの新しい墓がありました。ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、きれいな亜麻布に包み、岩に掘った自分の墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去りました。それは日没前に急いでなされた仮埋葬でした。マグダラのマリアともう一人のマリア(1節の、ヤコブとヨセフの母マリア)はそこに残り、墓の方を向いて座っていました。

   明くる日の土曜日、神殿で贖いの小羊を備えた日の翌日、祭司長たちとファリサイ派の人々は行って、弟子たちが遺体を盗み出さないように、墓の石に封印をし、番兵をおきました。

  マリアは、土曜日の日没後の夕方、イエスに油を塗りに行くために香料を買っておきました(マルコ16・1)。

 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行きました。

 すると、大きな地震が起こり、主の天使が天から降(くだ)って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのです。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように真っ白でした。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになりました。

 天使は婦人たちに、「恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられません。かねて言われていたとおり、復活なさったのです。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活されました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお目にかかれます。』」と伝えました。

 <かねて言われたように>とは、16:21、17:22,23、20:18,19、三度受難と復活について言われ、最後の晩餐の時には、復活した後、ガリラヤへ行くと予告していることを指しています。

  婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行きました。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは復活した栄光のキリストに近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏し、拝みました。<おはよう>は、<カイぺテ(喜びあれ)>という普通の挨拶のことばです。

 主イエスは、「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになります」と伝え、命じました。

 復活された主イエすは、弟子たちのことを<兄弟たち>と呼んでいます。イエスを見捨てた十人やイエスを否認したペトロをもイエスは赦しておられるのです。イエスの死によって、悲しみ、失望していた弟子たちは、復活したイエスの言葉を聞いて、イエスに対する信仰を取り戻すのです。

  マグダラのマリアともう一人のマリアは復活されたイエスの最初の証人とされました。女性の証言する能力を認めなかった当時としてはおどろくべきことでした。

 復活したイエスと出会う前、マグダラのマリアたちが見ていた墓は死者の世界、死の支配する領域でした。そこにイエスの死体を探し求めていました。愛し、慕っていたイエスとの結びつきは、イエスの死によって引き裂かれ、自分自身も生ける屍のような状況にありました。せめてイエスの死体を手厚く葬りたいと思っていました。マグダラのマリアたちは復活したイエスと出会うことによって、絶望から希望へ、悲しみから喜びへ、死と滅びの世界から生命の支配へ、愛と信頼へと変えられました。

  なぜイエスはこのような十字架の死への道を自分の道として選ばれたのでしょうか。「人の子がこの世にきたのは、多くの人の贖いとして、自分の命を与えるためである」(マルコ10:45)と言っておられます。神から離れている人間の罪に対する神の怒りを、神の御子・イエスは一身に受けて、身代わりなり、刑罰の死を受けてくださるためでした。その最後は実に壮絶な死でした。しかし、十字架の死で終わることはありませんでした。

 十字架の死の後、人の子イエスは、三日目に復活することになっている、予告されていました。<復活することになっている>とは、<復活させられることになっている>という未来形の受動態です。復活させて下さる方は、父なる神です。神の御子イエスは、陰府(よみ)に捨ておかれることはありませんでした。十字架の死にいたるまで、父なる神のみこころに従い、従順であったので、父なる神はかねてからイエスに示しておられたように、イエスを復活させ、天に上げ、もろもろの権威と支配をゆだねられたのです。

 主の十字架と復活により、神の恵みと義と永遠の命が、わたしたちにも与えられる道が開かれたのです。ハレルヤ。主は復活されました。主はわたしたちに復活の命に生きる希望を与えてくださいます。主はわたしたちに聖霊を与えてくださり、わたしたちと共にいて下さるのです。

  ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白したとき、主は、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と言われたように、主の復活を信じる信仰も、人間によるのではく、神の働き、聖霊の働きによるものなのです。人間の理解や知恵によるものではありません。イエスの復活は、イエスが神であることを示しているのです。

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「十字架への道」 マタイによる福音書27章32~56節

2017-04-09 00:15:50 | キリスト教

                      ↑    Crucifixion, Tintoretto, 1565

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

日本キリスト教 富 谷 教 会    週 報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

受難節第6主日  2017年4月9日(日)   午後5時~5時50分

       礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 449(千歳の岩よ)

交読詩編   22(わたしの神よ、わたしの神よ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳) マタイによる福音書27章32~56節(p.39)

説  教    「十字架への道」    辺見宗邦牧師

祈 祷         

讃美歌   305(イェスの担った十字架は)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

                               次週礼拝  4月16日(日) 午後5時~5時50分

                                   聖書  マタイ28章1~10節

                                   説教   「キリストの復活」 

                                   讃美歌(21)325 327 24 交読詩編 30 

本日の聖書 マタイによる福音書27章32~56節

 32兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。 33そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、 34苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。 35彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、 36そこに座って見張りをしていた。 37イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。 38折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。 39そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、 40言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」 41同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。 42「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。 43神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」 44一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。

  45さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 46三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 47そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。 48そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。 49ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。 50しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。 51そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、 52墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。 53そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。 54百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。 55またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。 56その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。

    本日の説教

 3月1日から始まった受難節が、いよいよ最後の一週間の受難週に今日から入ります。受難週の第1日は、棕櫚の主日日曜日)と呼ばれ、主イエスが子ろばに乗って弟子たちと共にエルサレムの町に入られた日です。エルサレムの市民たちが歓迎の気持ちを表すために棕櫚(なつめやし)の枝を道に敷き、ホサナ、ホサナ(救い給えの意)と叫んでキリストを迎えました。この日はエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見回った後、夕方になったので、十二人の弟子を連れてベタニヤへ出て行かれました(マルコ11:11)。

 翌日の月曜日は、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買い買いしていた人々を追い出しました。神殿を祈りの家とするために両替人や商売人を境内から追い出しました。

 火曜日は、祭司長たちと権威について問答をしました。また、「ぶどう園と農夫」のたとえを話されました。

 水曜日は、オリーブ山の麓(ふもと)のベタニヤで過ごしました。一人の女が高価なナルドの香油をイエスの頭に注ぎました。主イエスは、「前持ってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」と言われ、この人のしたことを喜ばれました。

 木曜日は、夕方から始まる過(すぎ)越(こし)の食事をするためにエルサレムに行きました。モーセの出エジプト祝う祭りです。過越の小羊を屠(ほふ)る日です。

  日没の夕方から、ユダヤでは金曜日が始まります。二階の広間で十二人の弟子たちと最後の晩餐と呼ばれる食事をしました。この食事の後、イエスはエルサレム郊外のゲッセマネの園(その)で祈りに時を持たれました。そこで、イエスは祭司長、律法学者、長老たちが遣わした群衆や、大祭司の手下に捕らえられ、大祭司のところへ連れて行かれました。

 大祭司カイアファの屋敷で開かれた最高法院の裁判を、イエスは受けました。祭司長たちと最高法院の全員は、イエスを死刑にするために不利な証言を求めました。偽証人は何人も現れたが、証拠は得られませんでした。最後に二人の者が来て、「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました」とイエスに不利な偽証をしました。黙り続けておられたイエスに、大祭司は、「お前は神の子、メシアなのか」とイエスに尋ねました。イエスは「そうです(それはあなたの言ったことです)」と答えると、「神を冒涜(ぼうとく)する言葉を聞いた」と言って、一同に諮(はか)り、不敬罪の罪で死刑を決議しました。

 それから、ある者はイエスの顔に唾(つばき)を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、また、下役たちは平手で打ちながら、「メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と言いました。

 外の中庭にいたペトロは、女中や居合わせた人々に、『そんな人は知らない』と、イエスの弟子であることを三度も打ち消しました。

 夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺そうと相談し、イエスを縛って引いて行き、ローマから派遣されたユダヤ属州の総督のピラトに引き渡しました。最高法院は処刑を執行する権限がなかったからです。

 主イエスはピラトから尋問されました。罪状は、自らユダヤ人の王を称した政治的反逆罪です。総督が、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それはあなたが言っていることです」と言われました。祭司長たちや長老たちが不利な証言をしている間、イエスは何も答えなかったので、総督は非常に不思議に思いました。

 祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていたので、総督は、人々が集まってきたときに、暴動のとき人殺しをした囚人バラバ・イエスとメシアと言われるイエスとどちらを釈放してほしいのか、と民衆にたずねました。総督は、人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと悟ったので、イエスを釈放したいと思ったのです。しかし、自らの判断は避け、民衆に判断させたのです。

 祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうように群衆を説得しました。そこで、人々は皆、イエスを十字架につけろと言いました。ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けました。ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために兵士に引き渡しました

 それから総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの回りに集めました。そして、イエスの着物をはぎ取り、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、また右手に王の持つ笏(しゃく)杖(じょう)の代わりに葦の棒を持たせて、イエスを王であるかのように見立て、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って侮辱しました。また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げで頭をたたき続けました。このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるためにゴルゴタに引いて行きました。

 ここからが、今日の聖書の箇所になります。

 ローマ兵に引きたてられながら、イエスは重い十字架の横棒を背負わされ、よろめき、倒れながら、ヴィア・ドロローサ(苦難の道)を通って刑場に向かいます。約700メートルの曲がりくねった道です。シモンという名前のキレネ人(北アフリカの地中海に面した町出身)に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせました。

 そして、刑場のゴルゴタという所(されこうべ〈白骨化した頭蓋骨〉の形の小山か?)に着くと、苦いものを混ぜた麻酔効果のあるぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされませんでした。

 兵士たちはイエスを十字架につけると、死刑執行人の役得であったので、くじを引いてその衣類を剥ぎ取り分け合い、そこに座って見張りをしていました。

 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げました。「ユダヤ人の王」を主張したことが政治犯としての罪状とされました。折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていました。

 そこを通りかかった人々は、である頭を振りながら(侮辱する仕草)、イエスをののしって、「神殿を打倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」と言いました。同じように、祭司長たちも、律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して、「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」と言いました。一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしりました。

 イエスは「神の子」の力を自己のために使うことを拒否し、神に信頼し、神の意志に従うために死の道を選んだのです。

 昼の十二時になると、にわかに空が暗くなり地上が暗闇に包まれ、それが三時まで続きました。暗黒は悪の力の最後の時であり、神が終止符を打つしるしです。

  三時ごろ、イエスは大声で叫ばれました。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。イエスが息を引き取った三時は、神殿において小羊を屠って捧げる時間です。

マルコによる福音書の「エロイ、エロイ」は、アラム語の直訳の形です。「エリ、エリ」はヘブライ語形に近づけて記しています。詩篇22篇には、神に見捨てられた信仰者が、敵対者に取り囲まれながら、なお神に信頼の祈りをささげる悲痛な声になっています。しかし、イエスの叫びは、絶望のただ中で発した最後の疑問の祈りとなっています。イエスは無力な人間として息絶えました。神はイエスに人々の罪を負うという使命を課したのであり、屈辱と身体的苦痛による死を与えたのです。

 そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいました。エリヤは終末においてメシアに先駆けて現れると期待されていた預言者です。生きたまま天に昇り、苦しむ人を助けると信じられていました。そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとしました。ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言いました。

 しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られまました。そのとき、大祭司だけが年に一度民の贖罪のために入ることが許されている神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けました。これは、神殿の存在とそこで執行される様々な儀式がイエスの死によって意義を失ったこと、また祭司のみに許されていた特別の区域が消え、すべての人が神に近づくことができるようになったことを象徴的に示しています。

「地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返りました。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れました。」キリストの死は、自然界全体と関係し、陰府にいる死人にまで影響を及ぼすことを示しています。これらは、終末において起こると期待されていたことが、イエスの死の瞬間に実現したのであって、死はすでに克服され、今やメシアの時、終末の時代に突入したことを表してます。

 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた兵士たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言い、認めました。

 またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていました。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々です。その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいました。ヨハネを除いた男性の弟子たちは(ヨハネ19:26-27)、それぞれ逃げてしまいましたが、女性たちは最後までキリストに従い、立派に目撃証人としての役割を果たしたのです。

 イエスが十字架上で語った最後のことばは、マタイもマルコも「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という一言ですが、四つの福音書を総合すると、七つのことばを語っています。

 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)

 「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」(ルカ23:43)

 「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)

 「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。見なさい。あなたの母です。」(ヨハネ19:26、27)

 「渇く。」(ヨハネ19:30)

 「成し遂げられた(完了した)。」(ヨハネ19:30)

 おそらく、イエスは、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」か、「成し遂げられた(完了した)。」のことばを最後に語ったと思われます。

 なぜイエスはこのような十字架の死への道を自分の道として選ばれたのでしょうか。「人の子がこの世にきたのは、多くの人の贖いとして、自分の命を与えるためである」(マルコ10:45)と言っておられます。神から離れている人間の罪に対する神の怒りを、一身に受けて、身代わりなり、神の刑罰より救い、わたしたちのために、神の恵みと義と永遠の命を与えるために十字架の道を歩まれたのです。その最後は実に壮絶な死でした。こうして、イエスは罪の贖いの業を成し遂げられたのです。

 

 

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