富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「迫害の予告」ヨハネによる福音書15章18-27節

2024-04-25 22:41:33 | キリスト教

 「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを       覚えなさい。」ヨハネによる福音書15章18節

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会     週 報

復活節第5主日 2024年4月28日(日)午後3時~3時50分

                           礼 拝 順 序                

前 奏                辺見トモ子姉

司 会                邉見 順子姉

讃美歌(21)  402(いともとうとき)

交読詩篇    106:1-5(ハレルヤ)

主の祈り     93-5、A

使徒信条     93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書15章18-27節(新p.199)

説 教      「迫害の予告」  辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21)   343(聖霊よ、降りて)

献 金

感謝祈祷

頌 栄(21)    27(父・子・聖霊の)

 

           次週礼拝 5月5日(日)午後3時~3時50分

           聖 書 ヨハネによる福音書7章32-39節

           説教題   「キリストの昇天」

           讃美歌(21) 338 27 交読詩篇 46 

 

 本日の聖書 ヨハネによる福音書15章18~27節

 15:18「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。 19あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。20『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。 21しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。 22わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。 23わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。 24だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。 25しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。 26わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。 27あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。

 本日の説教

 ヨハネ福音書は、13章からイエスと弟子たちの最後の夕食を記しています。最初にイエスが弟子の足を洗う記事があります。イエスが弟子たちの足を洗ったように、弟子たちも互いに足を洗うように勧めます。その後、食事の席に着き、ユダの裏切りを予告します。ユダが出て行くと、「互いに愛し合いなさい」という新しい掟を与えます。その後、ペトロの離反を予告します。

 14章からは、イエスは父に至る道であることを話します。そして、聖霊を与える約束をします。

 15章では、イエスはまことのぶどうの木であり、弟子たちはその枝であるという譬(たとえ)の話しをし、イエスにつながっていれば、ゆたかに実を結ぶことを約束します。この翌日には十字架につけられるのです。そうした緊迫感が状況を支配しています。

 13章から始まった「別れの言葉」は、今までイエスと弟子たちとの間に結ばれた愛の関係を中心とするものでしたが、今日の聖書の箇所、15章18節から、一転して、弟子たちがどのようにこの世から憎まれるかという迫害の予告に、主題が移っています。

 イエスは、受難と十字架以後、弟子たちの上に予想される迫害に備えて、勧めを語ります。18節の<世>は具体的にはユダヤ人社会を指すが、その世があなたがた(弟子達)を憎むなら、その憎しみは弟子達を憎む前に、イエスにも向けられたものであることを覚えなさい、と主は語ります。 あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは、世に属していない。わたし(イエス)があなたがたを世から選び出した。だから世はあなたがたを憎むのである、と主イエスは言います。 

 20節では、13章16節で主が言った「僕は主人ににまさりはしない」の言葉を思い出しなさい、と主は言います。人々がわたし(イエス)を迫害したのであれば、あなたがをも迫害するだろう。人々がわたしの言葉を守ったのであれば、、あなたがたの言葉をも守るだろう。

 しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのこと(迫害)をみな、あなたがたにするようになる。それは、<わたしをお遣わしになった方(父なる神)を知らない>(21節)からである。)この言葉は、世の不信仰、ユダヤ人の不信仰の実態をついていると思われます。ユダヤ人は、神を知っていると自負しています。しかし、イエスを派遣した方が神であることを知ることを拒否するのです。そのことは、イエスにおいて現わされた神を知ろうとしないことであり、神を知らないことに等しいのです。

 22-24節では、世またユダヤ人の罪の責任が問われています。イエスは公に、世とユダヤ人に神の言葉を語りました。その言葉を聞きながら受け入れないということによって、世は自分の罪について<弁解の余地が>(22節)ありません。わたし(イエス)を憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。

 また、イエスは、神から派遣された者にしかできないような数々のしるし(奇跡)を行い、神の栄光を現わしたのにもかかわらず、イエスとイエスの父を憎んでいる(24節)。世の罪の責任は、免れ得ないのです。イエスの言葉と業は、イエスの神性を証明するものであり、世は、イエスと父の一体性を信じ、イエスを世の救い主と信じなければならないのです。しかし、結果は、イエスへの憎しみであり、そのことによって、父なる神を憎んでいることを暴露したのです。

 そのこともまた、神の意志であることが、25節で明らかにされます。詩編35:19、69:5の「人々は理由もなく、わたしを憎んだ」の言葉を引用し、それは<彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである>と主は語られます。

 26-27節には、憎しみに満ちたこの世に、イエスの愛の証人として立つ弟子たちの生き方とその課題が示されています。この世の人々を愛し、町々村々を巡り歩いて神の国の福音を宣べ伝え、そのために十字架にかけられ、命をささげられたイエスの愛が示されています。復活されたイエスに出会った弟子たちは、世にありつつ世にならわず、世を離れず、世から選ばれた者として、イエスの愛を証しする者としての使命を命じられています。<わたしが・・・あなたがたに遣わそうとしている聖霊(弁護者・真理の霊)の証しに導かれて、弟子たちもまた愛を証しをする者となるのです。それが、異邦人の中にあってなすべき立派な行いであり、この世という同じ土俵の中で、この世の問題を担って共に生きるところに、世にあるキリスト者の姿があるのです。27節で、イエスが語っているように弟子たちの共同体も、証しの機能を担うのです。

 神は本質的に愛であられます。イエスも、この愛をすべての人に与えるため、世に来て下さいました。だが、その愛を受け、その愛の中に生きようとするキリスト者の群れが、どうして世の人々から憎まれるのでしょう。善人は世の人から喜び迎えられるというのが、この世の常識であるのに、その反対に憎まれるというのです。

 その憎しみの第一の理由は、イエスが弟子たちをこの世から選び出し、ご自分に属する者として、この世とは本質を異にする存在にされたからであると言います。

 理由の第二は、キリストの福音は人々の罪を指摘し、その罪を贖うために来られた方であるという福音です。その福音によって救われ、その福音に生きる信者もまた、この世から憎まれるのです。

 しかしキリスト者は、世から憎まれても、聖霊の証しに導かれて、キリストの愛を証しをする者となるのです。

 確かに、信仰によって歩むことによって、世の敵意を一身に受けるという場合もあるが、その反対に、キリストを信じ、愛をもって生涯を貫くことによって、最後には世の人に信頼され、好意と尊敬を受けるという場合も、決して少なくありません。私達はむしろ、すべての人の中に兄弟また友人を見出し、和解と一致をめざして進もうとする態度を、生涯の基本的方針としなければなりません。

 キリスト者の証しの原動力は、憎しみや怒りではなく、愛、喜び、そして希望です。敵を憎み、滅ぼし、殺すことが、神の名によって正当化されるほど恐ろしいことはありません。「あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである(ヨハネ16:2b~3)、とあります。ロシアのウクライナ攻撃、イスラエルのガザ地区の攻撃も神のみこころに適うものではありません。速やか攻撃の停止を祈りましょう。

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「ペトロへの委託」ヨハネによる福音書21章15-23節

2024-04-18 18:24:09 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

復活節第4主日 2024年4月21日(日)午後3時~3時50分

       礼 拝 順 序

前 奏                辺見トモ子姉

司 会                辺見宗邦牧師

讃美歌(21) 481(救いの主イェスの)

交読詩篇    118:1-18(恵み深い主に感謝せよ)

主の祈り     93-5、A

使徒信条     93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書21章15-23節(新p.212)

説 教      「ペトロへの委託」  辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21)   483(わが主イェスよ、ひたすら)

献 金

感謝祈祷

頌 栄(21)    27(父・子・聖霊の)

       次週礼拝 4月28日(日)午後3時~3時50分

       聖 書 ヨハネによる福音書15章18-27節

       説教題   「迫害の予告」

       讃美歌(21)402 343 27 交読詩篇 106 

  本日の聖書 ヨハネによる福音書21章15~23節

 15食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。16二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。17三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」

  本日の説教

 復活された主イエスはガリラヤ湖畔で七人の弟子たちに現れ、朝食を与えられました。それは日毎のパンと聖餐を示すものでした。

 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われました。他の福音書では<バルヨナ・シモン>、つまりヨナの子シモンと言われていますが、この福音書では<ヨハネの子シモン>と,呼んでいます。<この人たち以上に>というのは、この人たちがわたしを愛している以上にという意味です。このお言葉は、他の弟子たちとの競争をあおるような問いかけではなく、この問いの背後には、「わたしはあなたをだれにもまして愛している」という、ペトロへの主イエスの愛が込められています。主イエスに誰より以上も愛され、多くの罪を赦された者は、誰よりも以上に主を愛する者とされるのです。しかし、神の愛は差別のない愛なので、特にペトロだけを優先して愛しているということではありません。神は、それぞれの人の特性に応じて、それぞれの人をだれにもまさって愛しておられるのです。主イエスのペトロへの問いは、主イエスがペトロの愛を確かめ、親密な愛の関係を結び、新たな任命をペトロに託すためであったと考えられます。神であられるイエスを愛すということは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マタイ22:37)とあるように心からなる愛がペトロに求められてしかるべきなのです。

 主イエスの三度にわたる「わたしを愛しているか」との問いは、言わば主との愛の契りを結ぶことです。ここに確固とした主イエスとの永続的結合関係を与えられるのです。

 ペトロは主の問いに、<はい、わたしはあなたを愛しています>と答えずに、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と控えめに答えています。「わたしはあなたを愛しています」とペトロがなぜ答えなかったのかということについては、ペトロがイエスを明らかに三度知らないと裏切っているので、このような間接的な言いまわしをしたと思われます。

 最後の晩餐の席で、ペトロは。「あなたのためなら命を捨てます」(ヨハネ13:26)と言っています。マタイによる福音書には、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言っています。ルカ福音書には、「主よ、御一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しています」と言っています。復活のイエスとの出会いを経験する前のペトロの信仰は人間的な意気込みによるものであり、イエスとの間に永続的結合関係ができていませんでした。ペトロはイエスを裏切り、捨てるという挫折と破綻を経験した後、復活の主と出会い、主イエスは十字架の贖いにより、罪深い自分を赦し、新たな任命を与えてくださることを知ったのです。もはや信ずるということも、自分の側からの決断によるものではなく、キリストの霊によって神から賜る恩恵であることを知ったのです。

 ペトロはもう以前のように、他の人と比べるようなことをせず、心砕かれて「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です。」と答えるほかありませんでした。もはや自分の確信の力、自分の意志の強さに頼るのではなく、主イエスが知っていてくださればいいと、全てを主に委ねる告白へと、変えられたのです。<あなたがご存じです>という言葉は、すべてを知る復活のキリストに対するペトロの畏敬の念を感じさせます。そのようなペトロに主はご自分の大切な羊を任せようとされるのです。イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と命じました。

 二度目にもイエスは、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と言われました。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われました。

 三度目にイエスは言われました。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」主イエスから三度も繰り返し問われたペトロは「悲しくなった」とあります。

 三度繰り返して念を押されることによって、ペトロは自らが三度イエスを知らないと言ったことを思い起して悲しくなったとも受け取れます。しかしそれだけではありません。もっと大きな主イエスの深い愛に触れたのです。罪を犯して、もう弟子と呼ばれるにふさわしくないペトロに、主イエスの方から近づいて来てくださり、一緒に食事をし、そして過去の罪を責めるのではなく、今も変わらずに愛してくださり、自分の大切な羊を任せようとしていてくださる、その愛、赦し、信任といった、主の大きな愛に触れて主イエスがそれほどまで、心を傾けてくださることに感激したのです。同時に、主を裏切った罪だけでなく、これまでいかに自分が罪深い者であるかを知らされ、そのような自分を主は愛し、身代わりのいけにえとなってご自分の身を父なる神に献(ささ)げ、ご自分の血によって罪から解放してくださった神の子であられる方の苦痛と痛みを覚えて悲しくなったのだと思います。その悲しみは、ペトロの心に主の愛が満ちたことによって起こったものです。

 イエスが三度も「わたしを愛しているか」と問われたのは、ペトロに対する主イエスの不変の愛を示し、どんなものも引き離すことのできない愛の関係で結ばれていることを確信させ、このイエスの愛に応えて生きる新たな決意をもって、主の与える使命に生きる者とするためでした。

 ペトロは、イエスの三度目の問いに答えて、「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と言いました。「何もかもご存知です」という言葉の中には、ペトロのこれまでのすべての罪を御存知である主に対して、ペトロの悔い改めが言い表されています。

 主イエスはペトロに、「わたしを愛しているか」と問い、自分に対する愛を確認したあと、一度目は「わたしの小羊を飼いなさい」と言われ、二度目は「わたしの羊を養いなさい」と言われました。この異なる二つの表現は羊飼いの種々の働きを表していますが、それほど違って理解する必要はないと言われています。主イエスは、御自身を「わたしは良い羊飼い」(ヨハネ10:11)と言われました。良い羊飼いは、羊のために命を捨てると言っています。主イエスは、御自分の羊を、ペトロに託したのです。

 その任に、主イエスを三度知らないと言ったぺトロが堪えることができるでしょうか。主イエスは、まことのぶどうの木とその枝のたとえで、「人がわたしにつながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と話されています。主イエスは羊を飼う務めをペトロに託すに当たって、主に対する愛を問い、主と固く結びつくようにされたのです。この主イエスを愛すところで、主イエスはすべてを与えてくださるのです。主イエスを愛する者は、主イエスの羊を愛さないではいられないのです。そこに、愛の交わりが形作られ、主イエスの愛によってうち立てられるキリストの体としての教会が建っていくのです。
 「わたしを愛しているか。」この問いは、私たちにも向けられている、主イエスの問いかけです。神がわたしたちに求められるのは、わたしたちが神を愛すことと、神が愛しておられる一人ひとりの隣人を、自分と同じように愛すことです。隣人を愛すことも、主イエスを愛することによって、可能となるのです。愛を追い求めましょう。主イエスを愛する愛を、主イエスの羊を愛する愛を、隣人を愛する愛を増し加えていただきましょう。

 「わが主イェスよ、ひたすら祈りもとむ、                    愛をば。増させたまえ、主を愛する愛をば、愛をば。」(483番1節)

 

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「復活顕現(2)」ヨハネによる福音書21章1-14節

2024-04-11 12:37:44 | キリスト教

    ↑ テベリアス湖畔の復活のイエスと七人の弟子の朝食

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会     週 報

復活節第3主日 2024年4月14日(日)午後3時~3時50分

                 礼 拝 順 序                

前 奏                辺見トモ子姉

司 会                邉見 順子姉

讃美歌(21)  56(主よ、いのちのパンをさき)

交読詩篇    145(わたしの王、神よ)

主の祈り     93-5、A

使徒信条     93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書21章1-14節(新p.211)

説 教      「復活顕現(2)」  辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21)   197(ああ主のひとみ)

献 金

感謝祈祷

頌 栄(21)    27(父・子・聖霊の)

                                 次週礼拝 4月21日(日)午後3時~3時50分

                                 聖 書 ヨハネによる福音書21章15~25節

                                 説教題   「弟子への委託」

                                讃美歌(21)320 78 512 27 交読詩篇 118:1-12 

     本日の聖書 ヨハネによる福音書21章1~14節

21:1その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。 2シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。 3シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。 4既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。 5イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。 6イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。 7イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。 8ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。      9さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。 10イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。 11シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。 12イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。 13イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。 14イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。

     本日の説教

 ヨハネによる福音書は、20章の30―31節で、この福音書が書かれた目的を記し、締めくくりの言葉としています。21章は、後になってから追加された文書です。21章が追加された理由は、復活のイエスが、ユダヤのエルサレムだけでなく、弟子たちの出身地であるガリラヤでも現れたことを記すためでした。

    21章1節は、次のような言葉で始まります。「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。」

   <ティベリアス湖>とは、ガリラヤ湖の別名です。紀元18年頃にヘロデ大王の子、ヘロデ・アンティパスによってガリラヤ湖畔の西岸中央部にティベリアスという町が建てられました。このティベリアスという名は、当時のローマ皇帝ティベリアスにちなんで付けられ、ギリシア風都市として建てられました。この町はガリラヤ地方の首都になりました。ガリラヤ湖がティベリアス湖と呼ばれるようになったのは、この町の名に由来しています。

     21章の2節以下に、ペトロを筆頭とする七人の弟子たちが、ガリラヤ湖で魚を獲る漁師の仕事をしていることが書かれています。主イエスに従っていた三年間は、自分の持ち物を出し合って、イエスの一行へ奉仕する多くの婦人たちもおり、金持ちの徴税人ザアカイのようなイエスによって救われた協力者もいたので、弟子たちは生活には不自由しませんでした。だが、イエスを失った後、自活しなければなりません。弟子たちが漁を始めたのは、パウロがテント作りをして生計を立てたように、自活するために必要だったのではないでしょうか。

   シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいました。ゼベダイの子たちとは、ヤコブとその兄弟ヨセフです(マタイ4・21)。七人の内、五人の名は分かります。他の二人は、ペトロの兄弟アンデレと、ペトロと同じベッサイダ出身のフィリポと思われます。

     ペトロ、ヤコブ、ヨセフは明らかにガリラヤ湖の漁師でした。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言いました。場所は記されていませんが、おそらくペトロやヨセフの出身地のベッサイダと思われます。

    彼らは出て行って、舟に乗り込みました。しかし、その夜は、弟子たちは夜通し漁をしたのに、一匹の魚も獲れませんでした。徒労感で、心身疲れ切って岸に向かって帰ってきたのです。

 

 

既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられました。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分かりませんでした。舟が岸に近づいたときでしょう、イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるのかと言われると、彼らは、「ありません」と答えました。イエスの質問は、食べる魚を欲しくて言ったのではなく、「何も食べるものを獲れなかっただろう」という思いやりの質問でした。

   イエスは、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」と言われました。言われた通り網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができませんでした。

   イエスとペトロたちの最初の出会いの時も、これと同じような大漁の奇跡がありました(ルカ5・1~11)。ペトロやヨハネは主イエスと最初にお会いして召し出された時の事を思い起こしたに違いありません。

   「イエスの愛しておられたあの弟子」のヨハネがペトロに「主だ」と言いました。ヨハネは復活の主を感知することはペトロに先んじています。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着(漁師の服)をまとって湖に飛び込みました。上着をまとったのは、主の前に裸で出るのは畏れ多かったからでしょう。飛び込んだのは、主の身許に少しでも早く泳いで近づくためだったと思われます。ペトロの愛すべき性急さ行動力が表れています。

   ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来ました。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのです。<二百ペキス>とは、90メートルの距離です。

    さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてありました。その上に一匹の魚がのせてあり、一個のパンもありました。主イエスが弟子たちのために朝食を用意しておられたのです。イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われました。シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいでした。それほど多くとれたのに、網は破れていませんでした。

   <百五十三匹>という数字は何を象徴しているのかにつては、種々の説があり確定することはできません。分かりやすい有力な説は、ヒエロニムス(340?~420年、アンティオキア教会の教父、神学者)の説で、当時の地中海に棲む魚の種類を表す数であったとし、世界のすべての人々が伝道の網に一杯に満たされるということの象徴であるとする説です。

    <網は破れなかった>は、「天国は、網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める網にたとえられる」(マタイ13・47)とイエスが教えらえているので、網は教会を指すものと想定され、多種多様な人々から成り立っていても、主にあって一つであり、分裂しない、ということを表していると解されます。

    イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われました。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしませんでした。主であることを知っていたからです。イエスは来て、パン(単数形)を取って弟子たちに与えられました。魚(単数形)も同じようにされました。主イエスは生きるために必要な食卓を弟子たちのために用意してくださったのです。しかしそこに、弟子たちのとった魚が加えられたことは、私たちの捧げるものが聖餐において用いられることを示しています。私たちは、主イエスを信じる信仰を言い表し、洗礼を受けることによって、自分自身を主イエスにおささげするのです。それによってこそ、聖餐は主イエスの恵みにあずかる食事となるのです。つまり復活の主イエスの恵みによる招きと、私たちの信仰の応答が相俟って、聖餐は豊かな祝福、恵みの時となるのです。

     12節後半に「弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである」とあります。復活して生きておられる主イエスが今共にいて下さる、その満ち足りた祝福を弟子たちはこの食事においてはっきりと感じていたのです。主イエスが招いて下さり、私たちが信仰をもって応答しつつ聖餐にあずかる時に、私たちもこの祝福を味わうことができます。そしてそこでこそ、主にあって一つとされていることを体験するのです。聖餐を共に祝うところにこそ、多くの教派の教会が一つであることが示されます。

   この主イエスの顕現は、朝の食事だけでは終わらず、食事後のイエスとペトロとの愛の対話に続きます(21:15-19)。

      復活させられた方であるキリスト・イエスは、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださる方なのです(ローマ8:34-35)。御霊の神として、いつもわたしたちと共にあり、私達の日常の生活も配慮してくださり、必要なものを備えてくださる方であり、宣教の業も支え導いて下さる方であることに信頼し、感謝いたしましょう。

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「復活顕現(1)」ヨハネによる福音書20章19-31節

2024-04-01 18:02:59 | キリスト教

 レンブラント 「使徒トマスの不信」 1634年作 モスクワ、プーシキン美術館所蔵 

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

復活節第2主日 2024年4月7日(日)午後3時~3時50分

      礼 拝 順 序                

前 奏                辺見トモ子姉

司 会                邉見 順子姉

讃美歌(21)  326(地よ、声たかく)

交読詩篇    118:13-25(激しく攻められて)

主の祈り     93-5、A

使徒信条     93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書20章19-31節(新p.210)

説 教      「復活顕現(1)」  辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21)   327(すべての民よ、よろこべ)

献 金

感謝祈祷

頌 栄(21)    27(父・子・聖霊の)

          次週礼拝 4月14日(日)午後3時~3時50分

          聖 書 ヨハネによる福音書21章1~14節

          説教題   「復活顕現(2)」

          讃美歌(21)56 197 27 交読詩篇 145:1-9 

  本日の聖書 ヨハネによる福音書20章19~31節

  20:19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 

  26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」 30このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。 31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

  本日の説教

 週の初めの日、すなわち日曜日の朝、マグダラのマリアに復活されたイエスが現れ、弟子たちのところへ行って、イエスは天の父のもとへ上っていくことを知らせなさい、とマリアに命じました。マリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、主から言われたことを伝えました。

 その日の夕方のことから、今日の聖書の箇所は始まります。弟子たちはイエスの死によって失望し、大祭司や最高法院の迫害を恐れ、逮捕されればイエスと同じように十字架につけられることを恐れ、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていました。一緒に集まっていた弟子たちのところへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和(平安)があるように」と言われました。

  イエスの与える平和は、「世が与えるように与えるものではない。あなたがたは心を騒がせるな。おびえるな」(14:27)と最後の晩餐の席で言われま   したが、それは神が共にいてくださることによって与えられる特別な平和です。それはイエスを裏切り、見捨て、見殺しにした弟子たちの罪をも赦す平和でもありました。

  最後の晩餐の席で言われた「わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る」(14:28)と言われたイエスの約束が、ここで実現したことになります。

 イエスは弟子たちに、手とわき腹とをお見せになりました。手には釘の跡があり、わき腹には槍で刺された傷跡がありました。十字架の上で人々の罪のために身代わりとなって死んでくださったイエスが復活されて現れたのです。弟子たちは、イエスが新しい復活の命をもって彼らの前に現れたことを喜びました。同時にこの喜びは、ユダヤ人を恐れていたことからの解放であり、彼ら自身が自らを閉じ込めていた死と罪の支配から解放され、新しい命に生き始めることが出来た喜びでもありました。

 イエスは重ねて言われました。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」十字架と復活に出会って初めて弟子たちは、イエスの本当の姿が分かり、福音を正しく宣べ伝えることができるようになったのです。父なる神が、御子イエス・キリストに託された宣教の業が、今度は、復活の主によって弟子たちに託されたのです。

 最後の晩餐の席で、イエスが、「このように、あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあながたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない」(16:23)と約束された言葉がここに実現しました。

 そう言ってから、イエスは彼らに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 「息を吹きかけた」という言葉は、創世記での人間創造の記事(2:7以下)で、「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた」という言葉を想起させます。復活の主イエスにより、聖霊が与えられることを通して、弟子たちは罪と死の支配から解放され、神の子である身分と永遠の命に生きる新しい人間に再創造されるのです。

 イエスは弟子たちに聖霊によって執行される罪の赦しの権威を与えます。この権威は父なる神が子なるイエスに託しておられる権威です(5:19)。聖霊の導きと、聖霊の力により弟子たちは、確信をもって、罪の赦しを告げ知らせ福音を宣べ伝えることができる者とされたのです。ヨハネによる福音書では、甦りの主イエスが最初に弟子たちに出会った場所で聖霊降臨が起こっています。

 十二人の弟子の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいませんでした。<ディディモ>とは双子のことです。彼が双子の兄弟の一人であることから呼ばれた通称です。イエスが病気で死んだと思われるラザロのところへ行こうと言ったとき、トマスは、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(11:16)と言った人物です。また、イエスの訣別の説教の時、「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません」(14:5)と言っています。トマスは主イエスと共に死ぬ覚悟であり、死がすべての終わりであるという人生観を持っていたようです。

 ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言いました。トマスは弟子たちの証言にもかかわらずイエスが現れたことを信ずることが出来ませんでした。イエスが弟子たちに現れたとき、イエスは手とわき腹とをお見せになったことを聞いたからでしょうか、トマスは自分の目でイエスの手に釘の跡を見、わき腹に槍の跡を見て、自分の指をその跡に入れてみなければ決して信じない、と言ったのです。トマスは実証的な証明を求めたのです。このトマスの態度と言葉から、疑い深いトマスとか、不信のトマスと非難する呼び名が生まれました。しかし、直接自分の目で見て、確かめなければ信じられない、というトマスの態度を、一概に懐疑的とすることはできないのではないでしょうか。この疑い深いトマスの中に私たち自身がいます。しかもトマスは死がすべての終わりだという考えを持っていたので、なおさらイエスの復活を信じることができなかったはずです。

 この八日の後、ちょうど一週間後の日曜日、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいました。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て、弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。トマスは復活されたイエスを信じられない心のまま、弟子たちの群れの中にとどまっていました。そのトマスに、イエスは「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と呼びかけられました。

 マグダラのマリアの場合は、「すがりつくのはよしなさい」とイエスは言われました。マリアが信じていたのは、手で触ることが出来る主イエスだったので、それは間違いだ、とイエスは教えたのです。しかし、釘跡に手を入れてみなければ信じられないと語ったトマスには、その要求をそのまま主イエスは受け入れられたのです。両方とも同じ愛から出た恵みの言葉であり、信じる者になって欲しいからです。

 この場面を、画家のカラヴァッジョは以下のように描いています。この絵では、トマスがイエスのわき腹の傷跡に指を入れています。しかし、聖書の記述では、トマスは主イエスの言葉を聞いて、「わが主、わが神よ」と信仰を告白しています。自分の前に立たれるイエスの臨在にトマスは圧倒され、驚き、感謝したのです。トマスは、自分のために現れてくださった復活のイエスを見て、この方は神だと直感したのです。トマスは、最初自分は師であるイエスのために死ぬことのできる人間でありたいと志していました。ところが、その師が十字架に付けられた時、師を捨てて逃げた人間であり、そのような罪深い自分のために、主の十字架は、自分の罪の赦しであることに気付かされました。トマスはイエスの復活を信じただけではなく、もっと深く、イエスが生きておられる神であり、自分の罪を赦してくださっている主であることを告白したのです。このとき「死ですべてが終わる」という固定観念からトマスは解放されました。 

 カラヴァッジョ(イタリア人画家)「聖トマスの懐疑」 (1601-02年) イタリアのフィレンツェ、ウフィツィ美術館所蔵

 イエスはトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言われました。<見ないで信じる者>、それはキリストの言葉を聞いて信じる者のことです。

 イエスの弟子であったトマスは、復活されたイエスが現れてくださったことによって、イエスに対する信仰を告白することができました。しかし、彼以後の人々は、イエスの弟子たちの証言を通し、宣教の言葉を通し、キリストの言葉を聞いて信じなければなりません。イエスは、そういう人々こそ、トマス以上に幸いなのだと、祝福を約束されたのです。

 主イエスは、トマスのようなイエスの復活を信じることが出来ない者のために御自分を示してくださる方です。復活した体で現れるのではなく、聖霊により、御声を持って語りかけてくださるのです。イエスの復活を信じることが出来ず、キリスト教徒を迫害しようとしていたサウロ(後のパウロ)にも、天からの御声によって語りかけてくださいました。

 パウロはダマスコ途上で彼に顕れた啓示の出来事を、神が<御子をわたしの内に啓示して下さった>(ガラテヤ1:16)と言っています。<わたしの内に>というのは肉の眼や耳を以て見聞きしたものでなく、聖霊によって与えられた霊的な認識です。パウロはこの経験を、キリストが復活したことは・・<最後にわたしにも現われました>(コリント一、15:8)と言っています。パウロに現われたように、主イエスは私たちにも現われ、語りかけて下さる方であります。

    イエスの復活を信じる信仰は、礼拝の場に身を置き続け、福音の御言葉を聞くことから始まります(ローマ人への手紙 10:17)。そこに神からの聖霊の働きがあり、復活して生きておられる主イエスが来て下さり、私たち一人ひとりに、「あなたに平和があるように」「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と語りかけて下さるのです。そのみ声を聞くことによって私たちも、今も生きておられる主イエスを「わが主よ、わが神よ」と呼びかける信仰が与えられ、主イエスを見ないで信じる者の幸いに生きることができるのです。「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくとも信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれ」(ペトロ一、1:8)、キリストとの霊的交わりを与えられ、信仰の実りと魂の救いを受けるのです。

ブルッヘン Hendrick ter Brugghen,(1588 - 1629),オランダの画家               アムステルダム国立美術館(オランダ)

この絵を見たのは、1980年(昭和55年)8月英国スコットランド・エジンバラ大学        夏期英語研修(2ヶ月間)、に行く途中、アムステㇽダムにて。47歳の時。その時は、      私もイエス様の脇腹の傷跡に指を入れて、イエス様の復活を確かめたいと思った       ことを思い出します。             

 

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